良く晴れた青い空の下、グレゴは何をする訳でもなく木の幹を背凭れにしてぼうっと座り込んでいた。天気が良いと気分も高揚するものであるが、彼の心は晴れやかではない。何があったという訳でもないけれども、イーリス軍に雇われているとは言え時間の余裕がある時は行軍の通り道となる近辺の村や街で細々とした依頼を引き受けては収入としている彼にしては珍しく、何もしない休息日を過ごしている。日々神経を尖らせ戦いに身を投じている戦士は完全に体を休ませる日も重要であるから、グレゴのその姿は余り不思議な事ではないけれども、宵越しの金は持たない主義の彼は常に何かしらの依頼を引き受けていたので、休息日に陣営内やその近辺に居るというのは珍しかった。
 形を変え空をゆったりと滑る雲を眺めながら、手の中で銀貨を鳴らす。ある程度の金は懐に忍ばせているグレゴは時折こうやって硬貨を手の中で鳴らす癖があった。別にそれは彼が金が好きだからとか、そういう意味ではなくて、本当に何となくこうする癖があったのだ。チャリ、チャリ、と手の中で銀貨が擦れて鳴る音がグレゴの耳には心地よい。微かな風が頬を撫ぜ、そして緑を揺らしては滑っていく。眼前に広がる世界は眩く、陽光は彼の目を細めるには十分な明るさがあった。今が戦時中であるという事を忘れさせてしまう様な、そんな風景が広がっていて、グレゴは思わず自分が腰を下ろしている横に置いている剣の存在をすっかり忘れていた。
「あー、居た、ねえグレゴー」
「…うおっ、」
 だから自分に近付いて来る足音にもすぐには気が付けなくて、視界にひょっこりと入ってきた無邪気な顔に心底驚いてしまい、グレゴは思わず背を木の幹にぶつけてしまった。一流の傭兵を自負している彼にとっては不覚であったし、何より全く警戒していなかった事に対して苦い顔をしてしまう。しかしそんな事は今現れた少女には関係無い事であって、彼女はちょっと不満そうな顔をした。
「むー、グレゴ、いやそうな顔した」
「すまんすまん、別にあんたに顰めっ面した訳じゃねえんだ」
 グレゴの視界に飛び込んできたのはまだあどけない顔立ちをしているノノだった。あどけない、と言うと年若いと思われてしまうかも知れないが、このノノはマムクートという長寿の種族の者であるからグレゴよりも何倍も長く生きていて、その齢は千を超えているらしい。俄には信じ難かったが、初対面の時に目の前で不思議な石を使って変身されてしまったものだから、伝承としてマムクートの事を伝え聞いただけのグレゴも信じるしかなかった。
 グレゴはこのノノを、雇われ先のペレジアの砂漠で囚われの身となっているところを助けた。助けたと言っても彼女にとっては人相が怖かったらしくて逃げられてしまったが、それでも誤解が解けた後は何かと懐いてしまった様で、こんな風に頻繁にグレゴの元を訪れる。二人を纏めて雇った形になるイーリスがペレジアとの戦に勝った後、彼らは雇用される理由も無くなったのだが、また一人で放逐するのも危険だからと正式にイーリスの軍師となったルフレが一時的にノノの面倒を見る事になったという事と、イーリスの内外を偵察する役目をグレゴがルフレから仰せつかったという事もあってか、度々顔を合わせる機会はあった。ヴァルム帝国軍が攻め込んでくる様だという情報が齎されるとルフレはグレゴを偵察ではなく本来の職である傭兵として再雇用したのだが、イーリスで留守番は嫌だと駄々をこねたノノも共についてくる事となったので、やはり顔を合わせる機会はそこそこあった。グレゴはノノを助けたという経緯もあってか、良く話し掛けてきたり遊ぼうと言ってきたものだから、尚更だった。
「で、どうした?誰かと一緒じゃねえのか」
「今日みんな色々してて忙しそうなの。グレゴひまそうだから遊ぼう?」
「あー…」
 ノノは長い期間、それこそグレゴが想像もつかない様な年月を一人で過ごしてきたから必ず誰かの側に居たがるし、一人にされる事を嫌がる。怖い思いを幾度と無くしてきたからだろうとは思うのだが、予想通りの事を言われてしまってグレゴは少し困った顔になる。普段ならばこんな風に時間が空いていればその誘いを断る事は無いのだが、今は応じる気分になれなかったからだ。
「悪ぃなー、ちょーっと今は遊んでやれねぇんだ」
「えー、何で?」
「何ででも」
「ぶぅ!グレゴのいじわる!」
 小さな頬を膨らませたノノは文句を言ったものの、踵を返す事無く胡座をかいているグレゴの前にすとんと腰を下ろした。本当に誰も遊んでくれなかった、というか暇そうな者が居なかったのだろう。そうでなければここに留まる理由が無い。
「グレゴ、ひまじゃないの?」
「俺だってたまにはなーんもしねえでぼーっとしたいもんなの」
「それって楽しい?」
「うーん… あんたには楽しくねえかもなー」
 何もしない、という贅沢な時間の使い方というものを、恐らくノノは知らない。グレゴより長く生きていても、外見と同じ様に中身もこどもである彼女はそんな発想すら無い様で、矢張り良く分からないと言いたげに眉を顰めていたし、説明の仕方が分からないグレゴも同様に眉間に皺を寄せてしまった。
「海渡ってから、グレゴ、あんまり楽しくなさそうな顔してるね」
「いてて。こーらこら、やめろ」
 不意に、皺が寄った眉間をぐいぐいと指で押しながらノノが言った言葉に、グレゴは僅かに驚いていた。楽しいかどうかはさて置き、こちらの大陸に来てからというもの余り気分が晴れやかではなかったのだが、それを態度や顔に出してはいない筈だからだ。誰にもそんな事は言われなかったし、また気取られてもいないだろうと思っていたし、何より心身共に幼いノノにそんな事を言われるとは思わなかった。
 グレゴには、この大陸に余り良い思い出が無い。生まれはイーリス大陸だが、長らく傭兵として生きてきた彼は仕事を探す為や依頼の遂行の為にこちらの大陸に渡ってそこそこの期間を過ごした事もあり、故にそれなりの思い出というものもある。まだ駆け出しの頃に引き受けた飛竜の谷での依頼など、十年以上経った今思い出しても気分が悪くなる程だ。しかも目の前に座っているノノはマムクートであり、同じ竜族であるから、彼女を助けた時にその事を思い出して余計に気分が悪くなった。
 しかし、それ以上にグレゴがノノを助けた理由を思い出す事が、この大陸にはある。それを思い出すと居た堪れないしつらくなるのは事実だったから、その事をノノに気取られていたと知ってグレゴは愕然としたのだ。こういう時に彼女が自分よりもうんと長く生きているという事を思い知らされてしまう。
「あんたに心配されるとか、俺もまだまだだなー。気のせいじゃねぇか?」
「そうかなあ…? 向こうに居たころに比べて、においが違うもん」
「に、におい…? なーんだよ、加齢臭がするってかあ?」
「そんなんじゃないよ。あのね、ノノ、その人が今どんな気持ちなのか、においで分かるの。
 今のグレゴはね、ちょっとかなしいにおいがするの」
「…ほー…」
 マムクートには変身だけではなくて、不思議な能力をまだ持っているらしい。素直に感心したグレゴは、しかしその能力は今の自分には余り有難くないと思ってしまい、無意識の内に手の中の銀貨を握り締める。すると音が鳴って、ノノがその銀貨の存在に気が付いた。
「珍しいね、グレゴがお金持ってるの」
「…あのなー、俺だって最低限の金くらいは持ってるぜー?」
「お金ないからいっつもあれこれしてるんでしょ?」
「うっ…ま、まあ、そうだけどよお…」
 ちょっと失礼な事を言ったノノに、しかしグレゴは話題が変わったとほっとしながらも口籠った。確かに貧乏暇無しの最前線に居る彼は前述した様に行軍の合間にちょっとした依頼を引き受けては収入にしていたが、それにしたって金銭を所持している事を珍しいと言われては切ないものがある。妙な顔をしながらそれ以上何も言わなかったグレゴをよそに、ノノは自分の腰に付けているポーチを何やら漁り始め、何か見付けたのか小さな手に乗せて彼に提示した。
「ノノ、今これだけしかお金ないの。これでグレゴの時間、どれくらい買える?」
「………あー…そうきちゃったか…」
 彼女の小さな掌に乗せられていたのは、グレゴの手の中にある銀貨とは違って銅貨だった。すぐに所持品を落としてしまうノノは金を持たせて貰える事が少なく、これも何かの駄賃で誰かに貰ったものなのだろう。大きな街などに行くと露天商が売っている駄菓子程度なら買えるから所持していたに違いない。グレゴは金で雇われる傭兵であり、軍内でも特殊な賃金の支払われ方をしているから、「遊んで」と依頼するのと引き換えに金銭を差し出せば良いのではないかと思い至った様だ。その事に、グレゴは苦虫を噛み潰した様な顔になる。
「足りない?」
「いやー…、しょーがねえな、今日は特別にこれで相手してやるよ」
「ほんと? やったあ」
 しかしその表情が不服を表していると思ったのか、ノノがしょんぼりした様な顔で尋ねてきたので、グレゴはがりがりと頭を掻きながら手に持っていた銀貨を懐に仕舞ってから彼女の掌の上の銅貨を頂戴した。足りる訳がないその金額は、しかしノノが所持するなけなしのものなのだから、無碍にする事は出来ない。無償で遊んでやれば良いのに、と他の者が見れば責めるだろうけれども、グレゴだって体を休めている時間を切り売りするのだから、それはそれ、これはこれだ。
「よーし、んじゃ、今日は何する?」
「んっとねー、うーんと…竜おいかけっこ!」
「……りょ、了解だ…」
 受け取った金をポケットに捩じ込んだグレゴは、立ち上がって伸びをしてから傍らに置いていた剣に手を伸ばしながら尋ねた事に対しての返答を聞いて、うっかり剣を落としそうになってしまったものの辛うじて耐えた。そして引き攣った笑いを見せながら、明日か明後日に襲ってくるであろう筋肉痛の懸念を今からしていた。



 心地良い気怠さが体を支配し、その気怠さが作り出す微睡みの中にグレゴは居た。ヴァルム大陸に渡ってから随分と海が遠くなり、陸地や山間、生まれ育った風土ではない土地を行軍する事は誰の体にとっても負担がある。しかし年若い者達は往々にして順応が早いものであるのに対し、そうでない者達は若いつもりでいても体は確実に老いているもので、グレゴはそれなりに疲れていたものだから夜間の火の番の最中に居眠りをしてしまっていて、その夢の中で彼は少女を腕に抱いていた。
 自分より細く小さく、そして柔らかな少女の体は今の彼にとっては懐かしい。しかし少女は不意に彼の腕をすり抜け、微笑みながら短く別れを告げると、背を向けて去って行ってしまった。その少女を引き止めようと手を伸ばし、腕を掴んだのだが、驚いた様な声がすぐ近くで聞こえて思わず目が覚めた。
「な、何だ、いきなり」
「…あー…何だ、お前か… うっわ野郎の腕掴んじまった」
「寝惚けて人の腕を掴んでおいて、失礼な奴だな」
 突然腕を掴んだと思えば嫌そうに顰めっ面をしたグレゴに、腕を掴まれた男は――ロンクーは物凄く理不尽そうに眉を顰めた。静かな夜の月明かりの下、隣でグレゴと同じく火の番をしていた彼は、居眠りをし始めたグレゴを咎める訳でもなく黙って眠らせていたというのだから、その反応も当然の事だろう。イーリス大陸に居た頃なら居眠りなど許しもしなかっただろう頭の硬い若者は、それでも長い行軍の中で様々な者と交流して柔軟な考えを持つ様になったらしい。
「俺、どれぐらい寝てた?」
「さて…、四半時くらいじゃないか」
「おぉ…そりゃー随分寝込んじまったな、悪ぃ悪ぃ」
「寝られる時に寝ておけ。特にお前、今日もノノの相手をしていただろう」
「あー…まあな、それも一因だわな…」
 眠り込んでしまった時間を尋ねれば結構眠り込んでしまっていたらしく、それをグレゴが詫びると、矢張りロンクーは咎める事もせず自分の愛刀に目を落とした。ロンクーだけでなく、ノノの遊び相手をした事がある者であれば誰だってグレゴの居眠りを咎める事はしないだろう。それくらい、ノノと遊ぶ事は体力を消耗した。勿論戦闘に支障を来たさない様にと皆が考え交代で相手をするけれども、人間ではなくてマムクートである彼女の体力というものは凄まじいものだから、程々で切り上げる事をノノにも約束させている。戦争の最中なのだ、遊ぶ事より体力を温存させて戦に備えさせた方が良いという事くらいはいくらノノであっても分かる様で、物足りなさそうな顔はすれども我儘を言って困らせる事は無くなった。
「夢見が悪かったのか。少し魘されていたが」
「んー? …ちょーっと、な」
「…そうか」
 船を漕いでいた間に魘されていたと聞き、グレゴは目線をロンクーから逸らして手元にあった小枝を焚き火の中に放り込む。余り深く突っ込んで聞かれたくない内容だと気取ってくれたらしく、ロンクーもそれ以上は聞いてこなかった。詳しい事をグレゴは知らないが、ロンクーの女嫌いは幼少時に体験した事が原因である様で、彼もまた仮眠をとっている時に度々魘されていたから何となく察してくれたのかも知れなかった。
 そして何より、形は違えど二人が尊敬している男の安否が分からないという事もあってか、最近は良く夜番や深夜番で顔を突き合わせる事が多かった。夜の闇は誰であろうと不安にさせるもので、眠れないのであれば明かりがある所で体を休めていた方が良い。その事をグレゴは身を以て知っていたしロンクーも同様であったらしく、だから今日も肩を並べてぼうっと火の番をしている。グレゴにしてみればノノの遊び相手というのは気を紛らわしてくれる良い運動でもあったのだ。ただ、少しばかりハードだという事を除けば。
「ん…? ありゃ、どうしたー、セルジュにノノ… …っとと、おいおい、どうした」
「うう…ぐすっ」
 僅かに気まずい沈黙が流れたその時、野営の向こう側から手を繋いで歩いてくる人影を見付けたグレゴは首を傾げて声を掛けた。すると、小さい方の人影が繋いでいた手を離して自分に走り寄って来て首元に抱き着いてきたものだから、思わず彼は片手を地面についてしまった。薄暗くて表情は良く見えなかったが耳元で聞こえた彼女の声は涙に濡れていて、どうやら泣いているらしいという事を教えてくれていた。
「仕事中なのにごめんなさいね。ノノちゃんが怖い夢を見たらしくて、グレゴの所に行くって言うものだから」
「なーんで俺なんだよ」
「グレゴが何にも言わないでどっか行く夢見たの」
「…それ怖いかあ?」
「俺に聞くな」
 ノノが見たらしい夢を聞かされ、思わず隣のロンクーに尋ねてしまったのだが、聞かれたロンクーも返答に困った様に眉を顰めて突っ撥ねた。ぐすぐすと洟を啜りながらグレゴの膝の上に座ったノノはまだ彼の首元に抱き着いたままで、暫く解放してくれそうにない。参ったな、とグレゴが今度はセルジュを見ると、彼女はうふふ、と笑いながらすとんと腰を下ろした。
「流石のグレゴもノノちゃんに添い寝するのは憚られるでしょうし、暫くそのまま抱っこしておいて貰えるかしら。
 私もここに居るから」
「えぇー…」
「あら。嫌なの?」
「おーっと、そう睨むなよ。わーかったよ、こうしてりゃ良いんだろ…」
 セルジュの微笑みというものは時にフェリアの吹雪よりも冷たくて、向けられたグレゴは勿論の事、とばっちりを食らったロンクーもぞっとしてしまったらしく、思わず手に持っていた剣を落としそうになった様だ。渋々と楽な体勢になる様に座り直したグレゴはまだ泣いているノノの背に手を回すと、赤子相手にする様に少し体を揺らして彼女をあやし始めた。
「そう言えば、グレゴ、貴方最近ノノちゃんに報酬を貰って遊んでいるんですって?」
「は…? お前、そんな子供にまでたかっているのか?」
「人聞き悪ぃ事言うなよなー、俺の時間売ってんだから正当な報酬だろー?」
 暫くあやしていると泣き疲れて眠ってしまったのか、ノノが静かな寝息を立て始めたのだが相変わらず首を解放してはくれなかったのでそのままで居ると、不意にセルジュが尋ねた事にグレゴが反応する前にロンクーがまた眉を顰めた。考えが柔軟になったとは言え、そういう所は潔癖なままであるらしい。しかしグレゴが言った様に、彼は傭兵であり自分の能力や時間を切り売りして収入を得ている。文句を言われる筋合いは無い。
「大体よお、ノノが寄越す金額じゃあ何も出来ねえっつーの。後で全部ルフレに返してんだよ」
「あら、まあ。そうだったの」
「…そんな回りくどい事をせずに受け取らなければ良いだろうに」
「支払うもんと受け取るもんの関係を覚えるにゃ良い教材だろうが。
 こいつはこれからも俺達よりうんと長い年月生きてかなきゃなんねえんだからよ」
「………」
 グレゴの言葉に意外性を感じたのか、ロンクーもセルジュも驚いた様な表情をして沈黙した。確かにノノはグレゴが言う通り、これから何千年という年月を生きていかなければならない。時には一人で過ごす期間もあるだろう。勿論それは未来から来たクロムの娘であるルキナが言う様な末路を辿らなければの話なのだが、そうならない為に今彼らは行軍を続けている。だからグレゴはそう言った。それに、少なくともノノは自分より先に死ぬとも思えなかった。…思いたくなかった、と言った方が正解か。
「支払う者と受け取る者、で思い出したけど、ロザンヌの近くの公爵領で似た話があるのよね」
「似た話?」
「ええ。何年か前の事らしいのだけど、病気で余命幾ばくも無い女の子が旅人に頼んで結婚をしたそうなの。
 一日夫婦を演じる代わりに、一日の始めにその代金を支払っていたのですって」
「…他に頼める者が居なかったのか? その旅人でなくても良いだろうに」
「顔見知りだったら亡くなる時に双方つらいと思ったんじゃないかしら。後腐れが無い人が良かったんでしょうね」
 セルジュがふと思い出した事を口にすると、ロンクーが不可解な顔をして首を捻った。話を伝え聞いただけであるらしいセルジュも詳しい事は知らぬ様で、彼女も肩を竦めて続ける。
「半年もしない内にその子は亡くなったらしいの。
 旦那さんを演じていた男性は、その子のお墓を立ててから家財道具一式を処分してすぐに居なくなってしまったんですって」
「…そもそも何故結婚したかったんだ?」
「さあ。そこまでは私も知らないのだけど」
 わざわざ金を払ってまで結婚というものを経験したかったのかという疑問がロンクーにはあるらしく、それはセルジュも同様である様で、二人はやはり首を捻る。しかしそれまで口を挟まず黙って聞いていたグレゴはノノが眠っている事を確認してから口を開いた。
「依頼内容は結婚じゃなくて、幸せが知りてぇ、ってやつだったんだよ」
「…え?」
「その旅人ってーのは俺の傭兵仲間でなー。
 病気になっちまって親が金と家と土地渡すだけ渡して絶縁宣言されて一人暮らししてたけど、
 財産目当てに寄ってくる連中が心底嫌だったんだと。
 女としての幸せも知らねぇ、大体何が幸せか分かんねぇから、それを教えてくれって依頼だったんだ」
「…中々難しい依頼だな」
「だろー? 依頼が遂行出来たのかどうか、分かんねぇもんな」
 ノノを起こさない様に配慮しているのか、グレゴの声は普段よりも少し小さい。ややもすれば焚き火の炎の音に掻き消されてしまうのではないかというくらいの小さな声は何処か憂いに満ちていた。
「…その傭兵さんは、今どこに居るの?」
「さーて、なあ。俺がペレジアに入る前にたまたま酒場で会ってその話聞いたっきりだからなあ。幸せでも探してんじゃねぇの?」
「探して見付かるものなのか?」
「俺に聞くなよなー」
 ロンクーの問いに苦笑したグレゴは、ちょっとだけ身動いだノノを再度あやす様に体を僅かに揺らす。ノノは熟睡している様で、起きる気配は見受けられなかった。元々グレゴに会いに来たのだから、彼の声が僅かに聞こえていた方が安心出来るのかも知れなかった。
「そろそろ良いかねえ。いくら俺でも女ずーっと抱いてんのは体裁が悪ぃわ」
「あら、まあ。グレゴも一応そういう事を考慮するのね」
「失礼だなー…。そもそも、ノノだって俺なんかとどうこう言われんのは嫌だろうよ」
「そうかしら。まんざらでもないんじゃない?」
「あのなー… と、とにかく天幕で寝かせてくるわ。悪ぃけどセルジュ、俺が戻ってくるまでそこ居てくれるかあ?」
「ええ、良いわよ。お願いね」
 再度の沈黙が流れかけたその時、痺れたのかノノの体を支えていた腕を離して振りながら言ったグレゴの言葉に、セルジュは本当に意外そうに呟いた。自分が天幕に寝かし付けてくると言ったのは、ノノをセルジュに渡す際にぐずるのではないかと思ったからだ。火の番は一人でも出来るとは言え、何も起こらないとは限らないので、最低二人は必ず居る様にしているからセルジュもここで待機する事にした様だ。よっこいせ、と掛け声を上げてノノを起こさない様に慎重に立ち上がったグレゴはちょっくら行ってくる、と言い残し、ノノが寝ていた天幕の方へとゆっくりと歩いて行った。
 その背中を見送ったロンクーとセルジュは何となくお互い同じ事を考えている様な気がしていて、それを先に口にしたのはセルジュだった。
「ねえロンクー、さっきのグレゴの話だけど」
「…何だ」
「本当にそれ、傭兵仲間さんなのかしら」
「…真相はどうなのか、あいつにしか分からんが…少なくとも俺には、あいつ本人の様な口ぶりだと思った」
 そうなのだ。二人共、先程のグレゴの話は彼が言った様に傭兵仲間の体験ではなく、グレゴ本人の体験であると思ったのだ。だが、飽くまでグレゴは自分の事ではなくて知人の話であると言った。そうする事によって彼に何のメリットがあるのか二人には分かりかねるが、それでも深く追求しなかったのはグレゴが追求される事を拒む様な空気を作っていたからに他ならない。ロンクーの返答にセルジュも神妙な顔付きになり、グレゴが向かった方を見遣った。
「今でも、幸せを探しているのかしらね」
「…さあな」
 一流の傭兵を自負しているグレゴは依頼の完遂を常に意識しているから、死んでしまった依頼主の少女が教えて欲しいと頼んだ「幸せ」とやらを未だに探しているのではないかとセルジュは思う。しかしあの腕に抱いている存在は彼にとってそれに値するのではないかとも彼女は思ったのだが、言葉にする必要は無いので口を噤んだ。焚き火が爆ぜる音だけが響いていた。



「おい、ノノ、そーんなにはしゃぐなって。はぐれるぞ」
「グレゴが遅いの! はやくー」
「だーから待てって、ああもう…」
 大勢の人で賑わいを見せる港町の大通りで、グレゴはノノの小さな背中を追い掛けていた。ヴァルム帝国との戦に勝ち、イーリス大陸へと戻る船の準備をしている間はこの港町の近辺に滞在する事になったので、息抜きの為にこうやって市が立ち並ぶ大通りに繰り出す者も多く、ノノもご多分に漏れず行きたいと言い出したから、ルフレから言われてグレゴが連れてきたのだ。それは良いのだが、往来の激しい大通りを体躯の小さなノノがはしゃぎ回ればグレゴだって見失う可能性もある。仕方なく、彼はノノの細い腕を掴んで自分に引き寄せた。
「市は逃げねえだろー。ゆっくり歩け、人にぶつかる」
「だってゆっくりしてたら日が暮れちゃうもん」
「どれだけゆっくりするつもりなんだよ…」
 ノノの時間の感覚が分からなくてグレゴは呆れた様な顔をしたものの、自分の晴れない胸の内を少しでも紛らせてくれる彼女の行動に感謝もしていた。バジーリオが戦死したという報せは随分と彼にショックを与え、呆けた様に夜を過ごす事も多かったからだ。
 そして、この大陸ともこれでお別れと思うと感傷的になるのも事実だった。そろそろ遠い記憶になりつつある思い出のある地を離れるのは、柄になく彼の顔に翳りを落とす。そんなグレゴをよそに、ノノは興味を引かれた店があったのか、彼の手をするりと抜けて駆け出した。
「あっ、おいこら、待てって」
「グレゴ、早くしないと置いてっちゃうよー!」

――グレゴさん、早くしないと置いてくよ

 不意に、脳裏に強烈にフラッシュバックした声と姿がノノのそれに重なり、グレゴは咄嗟に駆け出してノノを捕まえた。結構な力で捕まえられたので痛みを覚えたらしいノノが抗議しようと見上げてきたのだが、彼が僅かに顔を青くしていたので、思わず抗議も引っ込んでしまった様だった。
「…あのなー、どこにだって人攫いは居るもんだから、ちゃーんと俺の視界に収まっといてくれ」
「…うん」
 声は普段と変わらないがノノの腕を掴んだ手が少しだけ震えていたので、ノノも何となく悪い事をしたと思ったのか素直に頷き、腕を解放すると大人しく手を繋いできた。掴んだ箇所を見遣れば指の痕が赤く残っていたのでグレゴはしまったな、と眉間に皺を寄せる。すぐに消えてしまうとは思うのだが。
「…グレゴ、怒ってる?」
「んー? いやー、怒ってないぜ。ただな、言う事はちゃーんと聞いてくれ」
「…うん」
 青褪めた顔はすぐに元に戻ったが、繋いだ手の指先が冷たかったからか、ノノはグレゴの顔色を窺う様にちらと上目遣いで見上げて尋ねた。一緒に行動する事が多いからなのか、ノノを叱る機会が多いグレゴが本当に怒っているのか否かの判別が彼女には出来る。今回もグレゴの言葉に偽りは無いと判断した様で、ほっとした様な表情を見せた。
戦争が終わろうが終わるまいが港というものは賑わうもので、人通りも多いし露店商も多い。ノノはイーリス軍に滞在する様になっても相変わらず人攫いの危険に晒されていたし、酷い時など戦場でも攫われかけたりするのだ。戦場では竜に変身するからだろう。そこで戦っているのは正規の兵士だけではない、グレゴの様に雇われも居たりするから、良からぬ事を考える者も少なくないのだ。
 雑踏の中で小さなノノの手を引きながら、グレゴはぼんやりと昔の事を思い出す。昔と言ってもそこまで古い事ではないのだが、もう遠い過去の出来事の様に思えてしまう。あの時はこんな人混みの中を歩ける筈もなく、静かな草原を気ままに歩いたのを覚えている。相手もそれを望んだし、グレゴも彼女に負担を掛けたくなかったから、近辺に広がる草原は有り難かった。
 グレゴはイーリス大陸でギムレー教団に雇われる前、ヴァルム大陸に居て、そこで結婚した事がある。結婚と言っても口約束であって正式な夫婦ではなく、彼は金銭を介して雇われた形式上の夫だった。ロンクーとセルジュが推測した様に、「少女に雇われて結婚した旅人」はグレゴだったのだ。
 ヴァルム大陸に渡った理由というのは単に仕事を探すため、日銭を稼ぐためといったものだった。イーリス大陸に仕事が無かった訳ではなかったが、ヴァルム帝国が大陸諸国を徐々に制圧していっているという話を聞いていたものだから、剣一本で飯を食ってきたグレゴにとっては良い職場が探せそうだ、という単純な考えで海を渡ったのだ。以前引き受けた事のある飛竜の谷での仕事の事もありそれなりに土地勘があったから、その近辺で雇われ先を探すか、と思っていた時、立ち寄った村の外れに住む少女がグレゴに声を掛けた。

 貴方、旅人さん?
 旅人っつーか、金で雇われる傭兵だなー。
 お金出したら私のお願い引き受けてくれる?
 内容と金額にもよるけど、何だあ?
 私、幸せが知りたい。人間として、女として、幸せが知りたいなあ。

 それまでにも様々な依頼を引き受けた事があるグレゴも、そう言われた時は流石に目を丸くしたし沈黙してしまった。どういう事だと尋ねるまでもなく、彼には理由が分かったからだ。少女は、身体にも顕著に現れる病気を患っていた。
 顔の皮膚が爛れ、体も弱っているのか杖をついて、明らかに村の住民から隔離されているのであろう家の庭から話し掛けてきた少女は、グレゴに対して興味津々だった。彼の様に放浪しながら生活するという者は稀な存在で、大多数は定住の地を設けて一生をその地で過ごすし、旅行などもする事が少ないから、少女の目にはグレゴは自分の知らない事を色々知っていると映ったのだろう。さしものグレゴも何を幸せと呼ぶのか分からなかったし、そもそもそんな難しい依頼など要求する金額の相場が分からなかった。
 ただ、そんな事を見ず知らずの男に頼むという時点で少女がどんな環境で過ごしてきたのか、どんな仕打ちを受けてきたのかは想像に難くなかった。病人というのはどんな病気であっても感染の仕方が分からない限りは忌み嫌われ、特に身体に異変が現れるものであれば人間の扱いをされない。グレゴもそれまでにそういう人間を数多く見てきて、傭兵だというのに金と引き換えに病死した者の遺体の埋葬を頼まれた事もある。その少女も恐らく人としての扱いをされず、村外れに追い遣られたに違いなかった。
 情は厚いが面倒臭がりのグレゴには、その依頼は少し、否、かなり厄介なものに感じられた。病人の相手というのも正直余り気が進まなかったし、その少女が払える財産を持っているとも思えなかった。だから気の毒ではあるが適当に断ろうとすると、彼が口を開く前に少女は言った。

 お金ならあるの。あの辺りの土地もこの家も全部私のなんだ。
 私、先が長くないって言われてるから日払いでのお支払いと、私が死んだらこの家と土地をあげる。
 全部売り払ったら結構良いお金になると思うのだけど、どうかな。旅人さん、足りない?

 …いくら世間知らずの子供であろうと、それは破格の金額であるという事くらいは分かっていただろう。しかし彼女は、それを大真面目に言った。完遂出来るかどうかなど分からない、しかも提示された報酬が本当の事であるのかどうかなども分からなかったのだが、グレゴはつい引き受けてしまった。欲に目が眩んだというよりも、少女の依頼が余りにもちっぽけであるにも関わらず齎された事が無いのだと分かったからだ。
 契約を結んだ後に聞くと、少女はその村の辺りを領地に持つ領主の末娘で、両親は病を得た少女に金と家を与えて絶縁したのだと言った。世間体を気にし、敬遠される病を発症した彼女をまるで物の様に手放した彼女の両親に不快感を催したグレゴは、請け負った以上はきっちり仕事をさせて貰うぜ、と言葉では軽く笑ったものの、内心酷く苦々しく思っていた。
 末子であるが故に元々親の温情というものは少なかったからと笑った少女は、家族からの愛情も知らず実家の屋敷勤めの者達からも敬遠されがちだったらしかった。グレゴも親からの温情というものを余り知らなかったので何となく他人事に思えず、その日から彼は可能な限り少女を喜ばせる事に徹した。そんな中の思い出の一つに、遠出がある。まだ少女が歩けた頃、家から少し離れた場所に花畑があるらしかったから、軽食を作って二人で連れ立って行ったのだ。一面の花が見え始めた時にはしゃいだ少女が走り出したから、急ぐと転ぶぞー、とグレゴが声を掛けた時に彼女は彼を振り返りながら言った。

――グレゴさん、早くしないと置いてくよ

 その言葉を聞いた時、彼は背筋に冷たいものが走るのを確かに感じたのだ。それは彼女が確実に自分より先に死ぬと分かっていたからに他ならない。実際、その遠出から僅か一ヶ月余りの後に少女は帰らぬ人となった。果たして彼女は幸せになれたのか、自分に夫役が務められたのか、グレゴには未だに分からない。
 同じ言葉を言ったノノの腕を思い切り掴んでしまったのは、同じ様に背筋に冷たいものが走ったからだった。ノノは自分よりも遥かに長く生きると分かっていても、あの言葉を聞いた瞬間にぞっとしてしまったのだ。
「……ゴ、グレゴってば」
「…ん、んあ? 何だあ?」
「ぼーっとしてどうしたの? 疲れちゃったの?」
「いやー、大丈夫だ。あんた、何か欲しいもんあったのかあ?」
「んっとね…、あのお店、見ても良い?」
 手を引き、自分を呼ぶ声にはっとしたグレゴは、今自分が何処で何をしていたのかを思い出した。ノノを連れて市に出掛けたんだ、しっかりしろ、と心の中で自分を叱責した彼は、ノノが指差した先を見遣る。雑貨屋だろうか、可愛らしい小物やアクセサリーが並べられた露店がそこにはあった。港町には様々な店が軒を連ねるが、こういう市が立つ時は更に露店が増えるものだから、人混みの中で自分の好きそうな店を見付けられるのは大したものだと彼は感心してしまった。
 長い年月を生きてきたノノは、グレゴが想像するよりうんと多くの悲しみと喜びを知っている。それでもこんな、他愛のない市を覗いては楽しんで笑い、グレゴにこれが欲しいとねだる。ルフレから預かったノノの金の範囲内であればグレゴも文句を言う筋合いは無いので、欲しいなら買えと言うと満面の笑みで有難うと言う。些細な事一つひとつを楽しんでいる様に見えて、それがグレゴに妻であった少女を思い出させ、彼は顔には出さなかったが自己嫌悪に陥っていた。あの少女とノノは決して同じではない。ただ、小物を買ったノノの無邪気な笑顔だけが救いだった。



 ヴァルム大陸から戻ってきたイーリス軍は、炎の台座に嵌め込む宝玉の行方の情報収集をする傍ら、ヴァルム大陸での戦いで命を落とし、故郷に戻れなかった者達の追悼や軍の強化に取り組んでいた。ギムレーを討つまでは戦は終わらないと誰もが分かっていたから、その事を疑問に思う者も嫌がる者も居なかった。
 相変わらずグレゴはイーリス軍に雇われている傭兵で、請われて渋々剣を指導したりイーリス城下の住民のちょっとした依頼を引き受けては日銭を稼いでいたのだが、その傍らには時折ノノが居る事もあった。城で待機してろあんた目立つんだから、とグレゴが言っても、ノノはずっとお城に居るのは退屈なんだもんと頬を膨らませるだけで聞きはしなかったから、仕方なく同行する事を許していた。
「グレゴ、色んな依頼受けるんだねー。
 ノノを助けてくれた時みたいなお仕事とか、クロムのお兄ちゃんに雇われたりとか、そういうのばっかりじゃないんだ」
「基本的に何でも受けるぜー。傭兵は金稼がねえとやってられねえからな」
 壊れた門の修理という依頼を終え、部屋を与えられている城の宿舎へと戻る道すがら、今日の報酬の金と共に貰った林檎を齧りながらノノが聞いてきた質問に、普段と変わらない間延びした声でグレゴが答える。グレゴがまだ若かった頃のイーリスとペレジアの戦争の時から傭兵というものはそこそこ需要があるものではあるが、かと言って雇われ先がすぐに見付かる訳でもなければ雇われ先によっては装備品やその日の食べ物は全て自分で賄うものであるから、矢張り日銭は稼がねばならない。グレゴは子供の頃からほぼ育児放棄していた親に代わって弟を養ってきたので、その延長上としての日銭稼ぎと言っても過言ではなかった。
 子供には仕事を選り好み出来る筈もなかったし、生きる事、弟を食べさせる事に精一杯であったから、グレゴは今まで本当に何でもやってきた。恐らく世の中の「悪い事」は殆ど全てやっただろう。その事を自慢したり誇りに思ったりはしないが、それらの経験をしてきたからこそ今彼はここに居る。不本意ながら役に立っている経験もあれば忘れてしまいたい経験も山程あって、トータルするとプラスよりもマイナスの方が優っている様な気もしていた。
「でも、えっと、お金は大事だけど、それがすべてになったらおしまい、だっけ?」
「…あんた、良くそれ覚えてたなー」
「えへん! ノノだって覚えておけるんだから!」
 グレゴがノノをギムレー教団から助け出した際、見張りの男を失神させてから話し掛けた時に確かに彼はその様な事を言った。ノノを助ければ自分に報酬は支払われないし、それどころか教団から追われる身となる。それを説明すればノノは不思議がって何故と尋ね、グレゴは先程ノノが言った様な事を返事とした。金は確かに幸福のバロメーターの一つだが、潤沢に所持している事が必ずしも幸福に繋がる訳ではないと彼はきちんと知っていた。
「あんな事言ってたけど、お金いっぱいあった方がいいって言うよね?」
「そりゃー、あんた、金ねえと出来ねぇ事山程あるぜ?」
「そうだけど。お金あると、グレゴしあわせなの?」
「…まあ、そりゃ、それなりに」
 食べ終わった林檎の芯を片手に尋ねるノノの目には、単なる純粋な疑問しか浮かんでおらず、グレゴの考えを否定する色は全く見受けられない。うんと長く生きているノノは金の重要性をグレゴよりも知っている筈であるが、彼女にとっては幸福の指針ではない様だ。何気なく尋ねた事なのだろうが、グレゴには明確に答える事は出来なかったし何と説明して良いのか分からなかった。
 グレゴにとって金はある意味自分を守る為のものだ。装備品を整えたり、食料を得たり、生きていく上で必要なものを取り揃えるにはある程度の金銭が必要になる。しかし人間というものは欲深いものであるから、十分に足りている筈なのに更にそれ以上を欲しがってしまう。今の彼がまさにそうだ。満たされる事が即ち幸福に繋がると思ってしまっていた。そうではないと知っているにも関わらず、だ。
「ノノ、お金なくってもしあわせな事って、たくさんあると思うなあ」
「んー?例えば?」
「みんなと一緒に居られる事とか、一人じゃない事とか、ちゃんと今日も起きられた事とか、
 んっと、あそこに綺麗な花が咲いてる事とか!」
「………」
 ノノが指折り挙げていった事は、グレゴにとっては些細な事だ。しかし千年生きてきた彼女にとってみればそれらは全て幸せな事であり、尊い事なのだろう。マムクートの一生に比べれば人間の一生などごくごく短いものでしかなく、ノノだっていつかはグレゴの事を忘れてしまうであろう程長く生きる筈で、確かに彼女の一生の中でも僅かな時間を共に過ごせているという事はある意味貴重なのかも知れなかった。特に毎朝起きられるというのはマムクートにとっては凄い事であるらしい。千年単位で生きる彼女達の眠りは人間のそれと同じ時間で済む筈がないのだ。それでも、彼女は誰よりも遅いとは言え毎朝起きる。起きてくる。そうして、グレゴを見付けては笑って元気よくおはようと言ってくれる。
「あとね、グレゴが助けてくれた事もそうだよ?」
「ほー…怖がって逃げた癖にかあ?」
「だってあの時は怖かったんだもん! 今は怖くないもん」
「いやー、今も怖ぇとか言われたら立ち直れねえわ」
 助けようと伸ばした手を擦り抜け走り去ってしまったノノの翻るマントを思い出すと俄には信じられなかったが、今のこの懐かれぶりを思えば彼女の言を信用しても良い様な気がしてグレゴは苦笑してしまう。俺ぁあんたの保護者じゃねえぞ、と今まで何度ノノに言ったのかもう覚えていないくらい、彼女は懐いてくれた。
 厳つい見た目からは余り想像し難いかも知れないのだが、グレゴは年少者にそこそこ懐かれる傾向がある。ノノは年少者とは言い難いけれどもマムクートの中ではまだ子供の部類であろうし、リヒトも成長期とは言えグレゴから見れば大人とは言えないし、妻であった少女も初対面の時から全く彼を恐れなかったし普通に話し掛けてきた。幼い弟の面倒を見ていたから自然と年少者に対する態度というものが優しくなるので、敏感に感じ取れるのだろう。
「グレゴはクロムのお兄ちゃんに雇って貰えた事、しあわせじゃないの?」
「あー…幸せっつーか、運が良かったとは思うよなあ」
 逃げたノノを慌てて追い掛け、追い付いたものの、教団の者達に囲まれそうになった時、たまたまペレジアまでエメリナを救出する為に行軍していたクロム達に救援して貰って事なきを得たが、今考えてもクロム達が通り掛からなければ危なかったとグレゴは思う。ノノは逃がす事は出来たかも知れないけれども自分はどうなっていたか、恐らく死んでいたに違いない。そう思うと、やはりあの時は運が良かったのだ。日頃の行いが良いからだと彼が時々嘯いてもノノはそうなんだーと理解していない様な顔でにこにこと笑うから冗談として笑い飛ばして貰えない。グレゴだって日頃から行いがそんなに良い訳ではないという自覚はある。
「グレゴが気付いてないだけで、しあわせな事たくさんあると思うよ?
 あ、でも、ノノとグレゴの、えっと…しゃくど? は違うから、決め付けはよくないのかなあ?」
「いやー…そりゃ、あんたの言う通りだとは思うけどよー…」
 ノノが先程挙げた様な事は、尺度は違えども確かに些細な幸福であるだろう。それをグレゴが気付いていないとノノは言いたいのだろうが、以前彼がノノに対して考えを押し付けてしまいそうになった時に言った言葉を覚えていたらしく、少し申し訳なさそうな顔をした。それに対してグレゴも曖昧に頷いて僅かに同意する様な素振りを見せる。
 グレゴだって頭では分かっているのだ。朝に目が覚める事、体を動かせる事、人と話せる事、ものが食べられる事、安心して眠れる事、数えきれない程の「当たり前の事」は、そうではない事だってあるのだと。事実幼い頃のグレゴはろくに食事にありつけなかったし、寒さとひもじさで眠れない夜もあったし、長じてからも大怪我をして体を動かせない日だってあった。その度に「当たり前の事」に対しての有り難みというものを痛感したりもした。だが人間というものは得てして忘れやすい生き物であるから、その有り難みをすぐに忘れてしまう。忘れたくないと思っていても、だ。
「しあわせってむずかしいねー」
「…難しいなー」
 食べ終わった林檎の芯を振りながら城門を潜り、同じ方向にある宿舎に向かうノノの言葉に、今度は曖昧にではなくしっかりと同意したグレゴは、何かを思い付いたかの様にごそごそとポケットを探る。そして指に触れたそれを取り出すと、隣を歩くノノにほれ、と差し出した。
「お金? なんで?」
「あんた、今日色々手伝ってくれたろー? お駄賃だよ」
「もらっていいの? やったあ」
 門の修理を依頼され、その日やる事が無かったノノは彼を少し手伝った。力の必要な作業は勿論グレゴが全てやったけれども、そこそこ助かった。その事に対して支払った報酬のつもりだった。そして今日はお疲れさん、と言って別の方向に向かおうとしたグレゴはしかし、袖を引っ張ってきたノノから足止めされてしまった。
「なーんだよ、どうしたー?」
「あのね、これでノノの依頼聞いてくれる?」
「はあ? きょ、今日はもう疲れたから遊べねえぞー?」
 朝から肉体労働をしたグレゴの体は既に疲労がかなり蓄積していて、とてもではないが体力が有り余っているであろうノノの遊び相手は務められない。顔を引き攣らせたグレゴに、しかしノノはふるふると首を横に振ってから僅かに耳の先を赤くした。
「遊ぶんじゃなくてね、おんぶしてお散歩してくれる?」
「…あのなー…俺ぁあんたの親じゃねえんだぞ?」
「知ってるもん。…だめ?」
「…ま、金貰うんじゃしょーがねえわな。その代わり、日が暮れたらおしまいだからな?」
「うん!」
 お願いに近い依頼にグレゴは頭をガリガリと掻いたものの、上目遣いで尋ねてくるノノの声音に負けた。西の空を茜色に染め始めている太陽を見れば、そこまで長い時間でもないだろうと判断したという事もある。何より、見た目が子供のノノの頼みを無碍にする事が彼には出来なかった。渡した銀貨を返された形になるグレゴは再度その銀貨をポケットに仕舞うと、背を向けようとするまでもなくノノは彼の大きな背中によじ登り、満足そうに肩に手を置いた。持っていた林檎の芯を持って貰う代わりにずり落ちてしまわない様に彼女の足を抱えると、耳元でえへへ、と嬉しそうな声が聞こえ、保護者じゃねえんだけどなあ、とグレゴは複雑な笑みを零したけれども、敢えて何も言わずにゆっくりと歩き始めた。




 ペレジア王であるファウダーから黒炎の宝玉を返還したいという打診を受け、クロム達は数年ぶりにペレジアを行軍していた。何も戦をする為に訪れる訳ではないのでヴァルム大陸を行軍していた頃の様な大規模な軍隊ではなかったが、クロムの命を狙っていると十二分に考えられた為にルフレの采により少数精鋭で軍が組まれ、荒涼とした大地を進んでいた。
 ペレジアにも既に当たり前の様に屍兵は湧いており、滅ぼされたのかそれとも襲われ捨てられたのか判断がつかない村もあった。そういう風景を見ると、一同は皆苦い顔になった。今までそんな村を何度か見てきたグレゴも、見て気分の良いものではない。異教の国とは言え祈る心は同じとリベラが祈るのを見届け、その日は早めに野営を張るとのルフレの指示に、誰も文句も異論も言わなかった。
 その夜、グレゴは珍しく夜の見回りに出るのではなく、休む訳でもなくて、火の番をしていた。彼の膝の上では涙の痕が残るノノが微かな寝息を立てながら毛布に包まっている。昼間に見た廃墟と化した村がショックであったらしく、セルジュやサーリャにずっとついていて貰っていた様だが、夜になるとサーリャが保護者の出番よと言ってグレゴの元に連れて来てしまった。既に夜の見回りを申し出ていたのでグレゴは渋ったのだが、ノノが半べそをかきながら縫いぐるみを片手に裾を握ったので仕方なく承諾したのだ。子供――実際は子供ではないのだけれども――にはどうしても甘くなってしまう。仕方なくグレゴは彼女が眠るまで剣の手入れをしながら話し相手をしていたのだが、睡魔が襲ってきたノノは肩に掛けていた毛布を引き摺って勝手にグレゴの膝を枕にして眠ってしまったという訳だ。だからグレゴは今、動けないままじっとそこに座っている。
 何気なく懐から数枚の銀貨を取り出し、それを手の内でちゃりちゃりと鳴らす。磨けばまた鈍くも美しく光を反射するとは分かっていても、古ぼけたままその銀貨は彼の懐に仕舞われていた。随分と時が経ってしまった事を物語るその銀貨は、手に入れて以降使用される事無く彼の懐に仕舞われている。グレゴが契約上の妻であった少女から最後に貰った報酬だったからだ。どうしても使う気になれなくて、未だに彼はその銀貨を懐に仕舞っている。
 弟が死んだ時、全てを手放せなくて名前を己のものにしてしまったのと同じ様に、あの少女が死んだ時に自分のものに出来る物品は彼女から渡された金しか無かった。契約上では彼女が持っていた全ての財産はグレゴのものになるとなっていたが、彼女が生きていた所に定住出来る程彼は精神的に強い男ではなかったし、さりとて彼女の薄情な家族に返還する気にはなれなかったから、全ての家財道具を売り払い、土地は村の者達の共用のものとさせた。病人であった彼女に対して偏見を持っていた村人の中には良くしてくれていた者も、少数ではあったが居たからだ。
 毎朝、目を覚ませた事に喜びの顔を見せた少女は、朝の挨拶を交わした後グレゴにその日の報酬を支払って今日も宜しくお願いしますと頭を下げた。そんな事をしなくても良いと何度彼が言っても、死ぬまで止めなかった。晴れた事や雨が降った事、食事が口から食べられる事、どんな些細な事であっても嬉しそうにしていた。そんな所が死んだ弟に少し似ていて、弟にしてやれなくて後悔した時の二の舞を踏みたくはなかったから、少女に出来うる限りの事をしてやりたくてあれこれやったものだった。花畑に連れていったのも、その内の一つだったのだ。
 花畑に連れていったあの日、はしゃいで疲れてしまった少女が座り込み、グレゴは彼女の前に座ると細い指にぐいと指輪を通してプロポーズをした。契約で夫婦となったけれども、飯事であっても指輪とプロポーズは必要だろうと思ったからだ。彼は父親はともかくとしても弟からは兄として慕って貰い、愛された記憶があったが、彼女には家族からも誰からも愛された事が無い様に思えたし、そのまま孤独に死なせる事は余りにも残酷過ぎると思った。指輪は彼女からの報酬ではなくて、近隣の街で引き受けた依頼の報酬で買い求めたものであったから、そこまで高価なものでもなかったけれども彼女は酷く喜んでくれた。泣きながら礼を言う彼女の涙が太陽に反射して美しく光っていた事をグレゴは今でも覚えている。
 彼女を看取り、整理をした後、果たして依頼は達成出来ていたのか、未だにグレゴは答えが見出だせない。弟の時の様な後悔はせぬ様にしようと尽くしたつもりだが、果たして本当に尽くせたのだろうか。穏やかな死に顔の少女を見ても、その疑問は拭えなかった。契約上とは言えきちんと夫というものを務める事が出来ていたのか、見ず知らずの男の妻となったあの少女は果たして本当に幸せになれたのか、彼女が死んでしまった今ではもうグレゴは答えを得る事が出来ない。手の中の銀貨が焚き火の光を鈍く反射する傍ら、静かな寝息を立てているノノの寝顔を見ながら、グレゴは一人重苦しい溜め息を吐いた。
「…どうした、珍しく辛気臭いな」
「うおっ?! な、何だ、お前か。びっくりさせんなよなー」
「別に気配は消してない、お前が呆けていただけだろう」
 いきなり声を掛けられ慌てて傍に置いてある剣を掴んだが、炎の明かりに浮かび上がる声の主の顔を見て元に戻す。呆れた様な声でカップを差し出してきた男はグレゴが見回りの番を代わって貰ったロンクーだった。誰かと交代して、ノノを寝かし付けて動けずにいるグレゴに飲み物を持ってきてくれたのだろう。銀貨を懐に仕舞い、有り難くそのカップを受け取ると、香ばしい茶の香りが鼻腔を擽った。
「足は大丈夫か?」
「…敵襲があったら痺れて走れねえ可能性は…あるよなー…」
「…お前は本当にノノに甘いな…」
「仕方ねえだろー、ここまで懐かれたらよぉ」
 男の硬い膝を枕にして眠れるノノも凄いが、動かずじっと枕になってやっているグレゴも凄い。腕だろうが足だろうが誰かの下敷きにしていたら血流が悪くなって感覚が無くなる事に変わりは無いので、ロンクーはそれを心配してくれたのだろうけれども、妙な所でノノに甘いグレゴを見る度に変な顔をした。無償で剣を交えてくれる様になったとは言えグレゴのシビアな一面を度々見る機会があるので余計にそんな顔になるのだろう。
「良くこーんな枕で幸せそうに寝られるよなー…」
「…硬い枕が好きなんじゃないか」
「いやー、うん、気ぃ遣わなくても良いぞ」
「そ、そうか」
 お世辞にも寝心地が良いと言えそうにもない膝を見ながら変な顔で言ったロンクーに、グレゴも微妙な顔で答える。ロンクーなりにフォローしてくれたのだろうがちっともフォローになっていない。やれやれ…と溜め息を吐いて持って来てくれた茶を一口啜ると、喉を落ちていく茶が砂漠地方の放射冷却で冷えた空の下に居た体をじんわりと温めてくれた。
「どんな事でも楽しめるってーのは、こいつの才能だよなー。
 サーリャに連れて来られた時ゃベソかいてた癖に、まーぐっすりと幸せそうに寝てらぁ」
「…幸せそう、じゃなくて、幸せ、なんじゃないか?」
「…まー、そりゃ、地面に直接寝るよりはましだろうけど」
「いや…、だから…お前が側に居るからじゃないのか」
「…はあ?」
 温くなってしまう前に全て飲み干し空になったカップを置いて、声を潜めている訳でもないのに全く起きる気配が無いノノの寝顔を見て苦笑したグレゴは、しかしロンクーの言葉に間抜けな声を出してしまった。ロンクーは何と言ったものなのか分からないと言いた気な顔で頭を掻き、僅かに首を傾げる。
「その…、…ノノは、お前と居る時が一番楽しそうに見えるから、そう思っただけだ」
「…そ、そーかぁ…? 普通じゃねえか?」
「お前が居ない時も、良くお前の話をしている」
「へ…へぇー…」
 ロンクーからそういう事が聞けるというのも意外に思ったし、ノノが自分の居ない所で話題に出しているというのも意外に思えて、グレゴは矢張り間抜けな声しか出せなかった。人の感情に余り敏感とは言えそうにないロンクーにも、ノノが幸せか否か分かるらしい。裏返せばノノが分かりやすいという事でもあるのだが、珍しい事にグレゴは気が付いていなかった。側に居過ぎたせいかも知れない。
「以前、幸せを探していると言ったな。…お前の膝の上のそれは、匹敵しないのか」
「…俺の事だとは言ってねえだろー?」
「お前の事だろう。何をそう意地になる必要がある」
「………」
 飽くまで知人の話として、という前提で過去の依頼の話をしたグレゴはロンクーの言に少し眉を顰めたが、追い打ちを掛けられ沈黙してしまった。頑なに否定したところで既に己が昔引き受けた依頼なのだと察しがついているのであれば、これ以上の否定は得策ではない。しかし余りこういった事には敏感ではないと思っていたロンクーに指摘された事が癪で、何となく拗ねた様な顔付きになってしまった。
「セルジュが、な。気になって調べたらしい」
「…何をだよ」
「帝国から攻め込まれて荒らされていないかどうか。…墓は無事だそうだ」
「…そうかい」
 少女を埋葬した場所を忘れた訳でも、懸念しなかった訳でもない。ただ、確かめに行く事が怖くて、ヴァルム大陸を行軍していた時に足を運べなかった。セルジュが仕えていたロザンヌ領から比較的近い土地であったから、調べる事も出来たのだろう。ロンクーの言葉を聞いて、グレゴは僅かにほっとした。それと同時に、この軍に居る奴らは本当にお人好しだとも思った。
「…ノノと同じ背格好、だったのか?」
「…おんなじに見るのはどっちにも失礼だけどなー。まあ、こいつくらいだったわな」
「失礼だと思う程度には、ノノに対して本気なのだろう?」
「…は、はあ?」
「違うのか? てっきり好き合っているのかと思っていた」
「…ちょ、ちょーっと待て、なーんでそうなる」
 意外そうな顔をしたロンクーに、グレゴもぎょっとして思わずどもる。恋愛沙汰に疎いとばかり思っていた(実際疎いが)この男からそう思われていたという事は、他の者にも思われている事なのではないかと懸念してしまう。
「いや…、見ていてそう思っただけだが」
「…え、俺がこいつの事好きに見えんの…?」
「違うのか」
「うーん…どうなんだろうなー…」
「はっきりしないという事か?」
「…重ねてる様な気がしてなー…。あいつはあいつで、ノノはノノだし」
「だから、そうやって真剣に悩む程度には本気なのだろう?」
「やっぱそうだよなー…って言うか、なーんで俺がお前に尋問されてんだあ?!」
 見た目は子供であってもノノはきちんと大人びた一面を持つ事を知っているグレゴは、少なからず彼女の事を好ましく思っている。ただ、果たしてノノ自身を見ているのか彼女を通して死んでしまった少女を見ているのか、グレゴには分かりかねた。それも悩みどころではあるが、何故よりによってロンクーにこんな恋愛の悩み相談みたいな事をしているのだと思うと、何となく腑に落ちないと言うか、釈然としなかった。しかしそれはロンクーも同様であるらしく、心外だとでも言う様に眉根をぎゅっと寄せる。
「人聞きの悪い事を言うな、誰が尋問していると言うんだ」
「いやー、お前、今のは完全に尋問だぜー?…まあ、気持ちの整理は出来たけどよお」
「…その割にはまだ納得のいかない様な顔をしているな」
「んー? そりゃ、まあ…」
 文句は言ったものの、ある程度心の中の蟠りが溶けた様な気がして、グレゴは頭を掻きながら膝の上のノノを見て呟いたのだが、それでもロンクーにはまだ迷いがあると分かったのか、追求されてしまった。心の迷いは剣に現れるし、その微妙な差異というものに気が付ける程の成長をした彼は、グレゴが僅かに見せた迷いを感じ取ったのだろう。
「…例えばよぉ、お前の言う通り、この状況が幸せだとするさ。
 そりゃ、俺にとってのもんだろ?あいつにとってのもんじゃねえからよ」
「そうかも知れんが…、それはお前が決める事か?」
「あ?」
「お前の妻だった女が幸せだったかどうか、それはお前が決める事か? 違うだろう」
「…まあ、そうだけどよ」
 至極真っ当な事を言われ、グレゴも困った様に同意せざるを得なくなる。ロンクーの言う通り、今グレゴが探している「幸せ」とやらは彼の定義のものであって、あの少女が生前同じ定義で幸福だと思っていたかと問われれば、恐らく答えは否だ。そもそも彼女はもう死んでしまっているのだから今更何かを施す事など出来ないし、無意味と言われればそれまでだ。だが、弟を死なせてしまったグレゴにとって、どうしても疑問は付き纏う。弟は幸せであったのか、妻であった少女は幸せであったのか、と。
「…昔、ガキだった頃に、仲良くしてくれていた女が居てな。ある日、賊に襲われて俺を庇って死んだ」
「…子供を賊が襲ったってかあ?」
「ああ。…あいつの両親は俺を酷く責めて、俺も居た堪れなくてその街から逃げたが…
 数年前、その両親が賊に襲われているところをセルジュが助けたらしくてな。…もう、俺を責めてはいないのだそうだ」
「そりゃー…殺したのはお前じゃねえからなあ…」
 唐突に語られたロンクーの過去はグレゴを驚かせるには十分なものであったが、いくら自分の子供が襲われて殺されたとしても責める相手が違うだろうと彼は思った。グレゴも家族を賊に殺された身ではあるが、かと言って助けてくれなかったと世間を憎む程彼は愚かではなかった。大事な娘を不本意な形で喪った事が、その両親を混乱させてまだ幼かったであろうロンクーを責めてしまったのだろう。
「あいつが…、ケリーと言ったんだが…、
 生前書いた日記に、俺と友達になれて嬉しかった、遊べて楽しかったと書かれていたらしくて…、
 ケリーの両親はあいつが幸せだったんだろうと思ったらしい」
「………」
「俺を庇ってケリーが死んだ事は、確かに俺にとって不幸な事だ。
 だが、ケリーが不幸だったかどうかは俺が決める事ではない。…違うか?」
「…いや、違わねえと思うけど」
「だったらお前も同じだろう。お前の尺度で測るべきではない」
 会話が余り得意ではないロンクーが珍しく饒舌に話し掛けてくる事に、グレゴは少なからず驚いていた。こいつもこんな風に話すのかと妙なところで感心していたが、彼の最後の一言で動揺して体が僅かに跳ねる。慌ててノノに視線を落としたが、起こしはしなかった様だ。
 以前、グレゴはノノに対して自分の尺度で彼女を見るべきではないと謝った事がある。長い時を生きてきたノノは、グレゴが思うよりも遥かに苦労もしたしつらい想いもしてきたに違いないのに、外見に惑わされてつい子供相手の様に接してしまった。それは結果的にノノに対して押し付けをしてしまった事に他ならなかったから、素直に非を認めて謝罪をしたのだ。初めて会った時の様にまた苦手意識を持たれたかと思ったがそれは杞憂で、今でもノノはこんな風に懐いてきてくれる。小さな手に僅かな金を握って遊んでと依頼してきてくれる程に。
「それを踏まえた上で、お前は今幸せではないのか?」
「…良く分かんねえけど… …まー…、こーんな無防備に信頼しきって寝て貰えんのは、嬉しいわな」
「良いんじゃないのか、それで。見付けた事になるだろう」
「何をだよ」
「だから…幸せを、だ」
「あー…」
 確かに、幸せなど些細なものであるのかも知れない。死んだ妻にとって朝に目が覚める事、話せる事、楽に息が出来る事さえも幸福だと感じられていたらしい。ならば今、ギムレー復活の為に贄とされそうになっていたノノが自分の膝の上であどけない表情で眠っている事は、幸せな事なのかも知れなかった。
「…なーんか…お前に教えられるとか…癪だなー」
「…失礼な奴だな」
「いやー…癪だわー…」
 よりによってロンクーに諭されるとは思いもしなかったのでグレゴがつい顰めっ面になって不服を述べると、ロンクーも不服そうな顔で抗議の声を上げる。しかしグレゴが無意識にノノに目線を落としてやれやれと溜め息を吐くと、口を噤んだ様だった。自分より一回り以上年上の男が、漸く幸せとやらを見付けられた事に対してどこか安堵した様な顔をしていたからに違いなかった。



 外洋の波の高さに少し辟易しながら、グレゴは甲板でぼんやりしていた。邪竜が復活し、それを消滅させる為にルフレがその身を犠牲にして何とか世界の危機は回避され、今はイーリス大陸に戻る為の船上という訳だ。
戦が終わった以上は傭兵であるグレゴはお役御免であるし、支払われている給金のお陰で暫くは食いっぱぐれない。長い事一人で渡り歩いてきた根無し草の彼にはこれといって困る事など何も無く、イーリス軍に雇われる前の生活に戻るだけだ。…その筈だ。
 懐に仕舞った銀貨を取り出して手の上で転がす。鈍く光るその硬貨は、もうあの少女の面影を思い出させてはくれない。忘れたくない思い出はしかし、生きていればやがては薄れていってしまうと彼に再確認させていた。弟との思い出も、妻であった少女との思い出も、過ぎ行く季節の中でどんどん遠いものになっていく。それが恐ろしくもあるし、悲しくもあるし、寂しくもある。だが、そうやって人間は生きていくものなのだからと常に彼は自分に言い聞かせてきた。きっとこの軍で過ごしてきたという記憶もその内思い出となり、忘れていってしまうのだろう。
「グレゴどうしたの? 眠れないの?」
 不意に後ろから聞こえてきた、少し眠たそうな声に振り向くと、目を擦りながら片手に何かを持って甲板に上がってきたノノの姿がある。こんな夜更けに目を覚ますなど珍しい事もあるものだとグレゴは思ったが、それを口にすればノノが拗ねるという事は分かっていたので敢えてそこには触れず、その代わりにちょっとだけ眉を顰めて銀貨を仕舞った。
「あんた、寒くねえか?大丈夫か?」
「平気だよー」
 ノノは普段から寒くないのかと余計な心配をしてしまう程の格好をしているのだが、潮風に当たりながらであると体を冷やしてしまわないかとまた要らぬお節介を焼きたくなってしまう。人間とは外気温の感じ方が違うのだろうと無理矢理納得していても、気になるものは気になる。グレゴは甲板に出る時に拝借した外套を脱ぐと、パジャマ代わりにしているのだろうノースリーブのワンピースを着たノノに寄越した。
「羽織っとけ。見てるこっちが寒ぃ」
「いいの? ありがとう」
 グレゴから外套を受け取ったノノは、礼を言いながら彼女の背には長いそれを羽織る。潮風は外套をはためかせ、世界が一秒も止まる事無く動いている事を教えてくれる。
 二人がイーリス軍に身を置く様になってから、結構な年数が過ぎた。グレゴにとっては長いと思う様な年数であってもノノにとってはごく僅かな期間であっただろう。彼はここまで一所に所属した事が無かったものだから、居心地が良かったのだろうと自分の事であるのにまるで他人事の様に思ってしまった。
「グレゴはこれからどうするの?」
「どうって…金稼がねえと食っていけねえから、また職場を探さねえとだよなー」
「そっか。ノノみたいな子が居たら助けてあげなきゃだもんね」
「う、うーん…まあ…そうだなー…」
 ノノから今後の身の振りを聞かれ、考えていた事を答えると、彼女はうんうんと何かに納得した様な顔で頷く。ギムレー教団からノノを助けたのは本当にイレギュラーな事であったから別に毎回誰かを助けてる訳じゃねえんだけど、とグレゴは思ったのだが、説明するのも面倒臭くて訂正しなかった。
「あんたはどうすんだ?」
「ノノ? うーん… …わかんない」
「…そうかい」
 そして逆に彼女に身の振りを尋ねると、ノノは首を傾げたまま少し考えていたけれどもふるふると首を振った。故郷を知らぬ彼女は行くあても無いだろうから当たり前の事かも知れない。マムクートと知られればまた攫われたり売られたりしてしまうだろうからどこかで誰かと共に暮らした方が良いのだろうが、ノノの寿命を考えればそんなものは一時の気休めにしかならない。ならば自分で生きていく知恵をしっかりと身に付けた方が良いだろうとグレゴは思ったが、しかしそれを自分から言うのも何だか恩着せがましい気がして、言う事は出来なかった。
「…グレゴは傭兵さんで、お金もらってやとわれるんだよね?」
「はあ? 今更なーに言ってんだあんた」
「あのね、…これでどれくらいやとえるの?」
「は…?」
 おもむろに差し出された包みに間抜けな声を出してしまったグレゴは、しかし真剣な顔付きのノノに戸惑いを隠せず目を丸くしてしまう。どうやら手に持っていたのは金が入った袋であったらしいのだが、一体どこからそんな金を持ち出してきたんだとグレゴが不可解そうな顔をすると、説明してくれた。
「ルフレがね、ノノのお金をセルジュに預けてくれてたらしいの。
 だから、今までノノに払われてたお給料、全部あるんだって」
「あー…なーるほどね」
「これでどれくらいグレゴの時間買える?」
「………」
 ノノは貴重品であろうと何であろうと落としてしまう事が多かったから、彼女に支払われていた給金は全てルフレが預かっていたのだが、恐らく自分の身を犠牲にすると決めたルフレはノノの世話を良く見ているセルジュにその金を預けたのだろう。そうなると数年単位での給金となる筈だからそれなりの額である事は想像に難くないし、ノノが差し出した包みを見れば見当はつく。すげえ金額って分かってるだろうけどなあ、とグレゴは呆れたのだが、ノノの手が微かに震えているのを見て胸が痛んだ。
 ノノは恐らく、一人になる事に怯えている。誰かに我儘を言えば当面は面倒を見て貰えるだろうけれども、彼女にだって遠慮という感情はある。だがグレゴは金を貰って依頼を受ける傭兵なのだから、ある程度は遠慮しなくても良いと判断したのだろう。実際、今までにもノノはその小さな手に僅かな金を乗せてグレゴに遊んでとねだってきた。それが当たり前になっていた。そう仕向けたのはグレゴだったが、その事が彼に複雑な表情を浮かべさせてしまった。死んだ妻と同じ事をさせてしまったと思ったからだ。
 あの少女もグレゴの時間を買い、夫として過ごして貰っていた。そして今また、ノノはグレゴの時間を買おうとしている。それは果たして正しい事なのか、幸せな事なのか、グレゴに自問させてしまう。だが、難しい顔をして黙ってしまった自分を見て不安そうな表情になっていくノノを放っておくのは間違っているという事だけは分かった。
「そうだなあ。これだけありゃ、結構な期間雇えるぜー?」
「ほんと?」
「ああ。…でもな、これは貰えねえ。あんたが持っておけ」
「え…」
「金は要らねえ、あんたの依頼はタダで受けてやるよ。…俺と一緒に来るか?」
「………いいの?」
「良いも何も、あんた行くとこねえんだろー?俺もねえし。なら、一緒に世界中見て回ろうぜ。
 なーに、俺が死ぬ頃までにはあんたが一人でも生きてける様に色んな事きちっと教えるさ。…嫌か?」
「いやじゃない!」
「ぐえっ!こーらこら、腹を締めんな腹を!」
 見る間に顔をくしゃくしゃにして抱き着いてきたノノがかなりの力でしがみついてきたものだから、グレゴは思わず濁った声を上げてしまった。普通の少女と違ってマムクートであるノノは力が強いものだから、力一杯しがみついてくると屈強な体を持っているグレゴであっても苦しさを感じてしまう。だが、引き離そうとは思わなかった。小さな肩が、背中が、震えていたからだ。
 何気ない細やかな事がしあわせなのだと教えてくれたのは、妻であった少女でありノノだった。だが、どれだけ感謝を伝えたくてももうあの少女には届かない。弟にも、あの少女にも、グレゴは感謝の言葉を届ける事はもう出来ない。けれど、今目の前に居るノノにはまだ伝える事は十分に出来る。グレゴは彼女の震える肩にそっと手を置き、そして頭を撫でた。
「あんた、いつか言ったよなあ。俺があんた助けたのは、あんたにとっちゃ幸せな事だってよ」
「…うん…」
「俺もさ、あんた助けられたのは幸せだよ。ありがとなあ」
「………うん…」
見上げてきたノノの涙を指先で拭いながら、グレゴが礼を述べる。月の光を反射する彼女の涙はとても綺麗で、太陽の光を反射していたあの少女の涙とはまた違ったものだと思った。どうも自分は良い女に恵まれるらしい、とグレゴは心の中で呟いた。
「世界中見て回って、あんたの生まれ故郷でも探すか?」
「…うん! それがいい!」
「んじゃ、大陸に戻ったらどこから回るか計画立てようなー」
「そうだね! ありがとうグレゴ」
「どーういたしましてー」
 物心つく頃には既に両親が居なかったノノは、生まれ故郷というものを知らないらしい。それを聞き及んでいたグレゴは自分の残っている時間を彼女に全部差し出しても良いと思い、提案すると、ノノは嬉しそうに満面の笑みで頷いた。幸せを見付けた事になるんじゃないのか、と以前言われた事が思い出され、全く以てその通りだと苦笑した彼は、ノノにも事情を話してあの少女の墓参りに行こうと心に決めた。彼の幸せを探す旅は、漸く終わりを告げようとしていた。