「どうしたんだいデジェル、何だか浮かない顔をしているね」
「………」
野営内の与えられた天幕で一人自分の槍を入念に手入れしていたソワレは、鍛錬から戻ってきたデジェルが戻ってきた旨の挨拶もせずに暗い表情をしているのを見て、少し首を傾げた。自分に似て活発である娘は未来の自分がきちんと躾ていたのか、出掛ける時も帰ってくる時もちゃんと挨拶をするし、何か尋ねられたら返事もする。しかし、今日はそれが無い。よほどの事があったのだろうと予測はついたが、しかしそれが何であるのかの見当はソワレにはつかなかった。
「……ねえ母さん、私、無謀なのかしら」
「うん? 何だい突然」
「良いから。……無謀かしら?」
ソワレが持っている槍と良く似た槍を握り締めて尋ねるデジェルの表情は真剣そのもの、というか、深刻な色を孕んでいて、ソワレは唇に手をあて逡巡する。
「うーん……そうだね、少し落ち着いた方が良いと思う事もたまにあるよ」
「そう……」
デジェルはソワレと同様、色んな者に対して手合わせを所望する事が多々ある。それは強くなりたい、向上したいと渇望しているが故の事であるが、そこまで気張らなくても良いのではないかとソワレでさえ思ってしまう程で、本当は違うとは言え母として諌めてやらねばならないとは分かっているのだが、自分だってそういう部分があったので人の事が言えずについずるずるとその機会が延びてしまっている。
「……挑戦と無謀は違うと言われたの」
「え?」
「だから……、……父さんに、挑戦と無謀は違うって怒られたの」
「………」
怒られた、という言葉を聞いて、なるほど彼女は拗ねているのだと理解したソワレは思わず苦笑してしまった。勿論、表情に出してしまうと更に拗ねられてしまうだろうから口許を隠して。
どうやらデジェルは今日、父親にあたるロンクーに手合わせを申し入れたらしい。何度剣を交えたのかは知らないが再度挑もうとしてくる彼女にロンクーが言ったのだろう。恐らく、ただその一言だけを。いつでも言葉が足りないロンクーは、娘のデジェルに対してさえ足りない。
「私が手合わせを申し入れるのはそんなに無謀なのかしら。
 そりゃ、父さんの方が身のこなしも攻撃の流し方も上だけど……」
「追い付こうとして焦るなって言いたいのさ。
 勿論、戦争中なんだからゆっくりなんて出来ないけど……
 あんまり我武者羅に立ち向かっていっても伸びるものも伸びないからね」
自分の槍を傍らに置き、側に座る様にデジェルに促す。立ち居振る舞いは騎士のそれと変わらないデジェルは、母の前でも足を崩して座りはしなかった。親子なんだからもう少し砕けてくれても構わないんだけど、とソワレは思うのだが、これはもう癖となってしまっているのだろうから仕方ない事でもあるだろう。
「ロンクーなりに心配しているんだよ。
 君は僕と彼の血をどうも濃く継いでしまったのか、誰彼構わず手合わせを申し込むから」
「誰彼構わずって、そこまでじゃないと思うんだけど……」
「強いと思ったらすぐに行ってしまうだろう?」
「………」
自分の言葉に黙ってしまったデジェルに、ソワレは何とも言えない気持ちになる。似た様な事をしていた自分であったから、娘に言える立場ではないと彼女は十二分に分かっているし、恐らくロンクーだってそうであっただろう。だからその一言しか言わなかったのではないか、そう思った。
「僕達だって、君にそんな事を言えものもではないんだけど……
 それで失敗もたくさんしたし、迷惑もたくさんかけた。
 失敗は経験すべきものだよ、でも迷惑は出来るだけかけちゃいけない」
「……父さんは私と手合わせするの、迷惑なのかしら」
「ははっ、そうじゃなくて。心配しなくて良い、嬉しい筈だよ」
「……本当?」
「ああ。証拠に、絶対断らないだろう?」
「……うん」
迷惑、の一言を聞いたデジェルの表情が曇ったのを見て、ソワレは悪いとは思いつつもつい笑ってしまった。記憶の中にしか存在しない父親に会えたという喜びと、その父が手練れの剣使いであるという事からつい何度も手合わせを頼んでしまっていたデジェルは、彼女なりに親に甘えていたのだろうし、またロンクーもある意味その甘えを受け止めていたのだろうと思う。相変わらずの不器用さだ。
「母さんは、あまり父さんと話してる所を見たことが無いけど……
 それでもちゃんと、父さんの事分かってるのね」
「うん? うーん……どうなのかな。分からないところはたくさんあるよ」
「そ、そんな不安になる事言わないでよ、私ちゃんと生まれるわよね?」
「う、うん、大丈夫だと思う」
ほっとした様な表情を見せたのも束の間、自分の回答を聞いたデジェルが慌てた様な焦った様な表情で勢い良く顔を近付けてきたものだから、多少たじろぎながらソワレも頷く。君が居るんだからそりゃ生まれるだろうよ、と言えば良かったのかも知れないが、ソワレの頭はそこまで働かなかった。
「父さんと母さんを見てたら、夫婦っていうより、戦友って感じなんだもの……」
「僕達は未来でもそうだったのかい?」
「……あんまり夫婦って感じではなかったかも」
「そ、そう……」
確かに世間一般的に言う「夫婦」や「恋人同士」とは違い、一風変わった番であるというのは否定しないし事実だとは思うのだが、当の本人達は今の距離感が心地良いと思っているので心配されなくても大丈夫であるけれど、この時代から見て近い未来に生まれる筈である自分が生まれなかったらどうしようという危機感がデジェルにはあるのだろう。娘にまで心配されてしまうというのは中々に情けないものだね、と唸ってしまった。
「何と言うか……デジェル、僕はね、君の父さんの事は男として夫として勿論好きなのだけど、
 それ以上に一人の剣士として彼を尊敬しているんだ」
「……女としてよりも先に?」
「うん、そう。
 君に色濃くその血が出たと思ってるけど、彼は一つの事、特に強くなる事にひたむきになれるだろう。
 なりすぎて周りが見えなくなってしまうところは、僕もロンクーも反省しないといけない点だけどね。
 でも、中々そういう姿勢というのは持続出来ないものだから。
 つい自分に甘えが出てしまって、ここまでで良いや、って止めてしまう事が僕だってあるんだ」
「母さんにも?」
「そうだよ。君は僕の事を物凄く評価してくれているから、幻滅させたくはないんだけど。
 ……でも、ロンクーにはそういうところが一切無いんだ。
 そういうところ、僕は騎士として心から尊敬しているよ」
「………」
嘘偽り無く、日頃から思っている事を素直に言えば、デジェルは本当に驚いた様な顔で目をぱちくりとさせた。普段から夫婦らしい会話をしている姿を見せないソワレがロンクーに対してそんな事を思っていたとは全く思っていなかったのだろう。言った後にソワレも何となく恥ずかしくはなったのだが、事実なのだから仕方ないし娘を不安にさせるのは不本意であるから言っておいた方が良いと思ったのだ。どうやらそれは功を奏し、やっとデジェルは安心したかの様な顔を見せてくれた。不安そうな顔をした後にほっとした表情を見せるところはロンクーに似ている、と思った。
「母さんが父さんの事を好きって言ってるの、私初めて見たわ。貴重な姿を見た気分」
「こら、親をからかうんじゃないよ」
「ふふ、ごめんなさい」
そして悪戯っぽく肩を竦めて笑ったデジェルの頭を折り曲げた指でコン、と叩くと、娘は矢張り嬉しそうに笑った。



「やあ、おかえり。今日はそう言えば当番ではなかったんだったね」
「ん……、暫くは夜に休める」
夜、天幕に戻ってきたロンクーに声を掛けると、彼は簡素に答えて持っていた剣を立て掛けた。男衆は夜の見回りの当番になる事が多いし、ソワレも率先して深夜番を担当する事が多い為に夫婦揃って休むという事が少なく、それもデジェルの心配事の一つなのだろうとソワレは思うが、もうこれは二人の性格なのだと思って割り切って貰うしかない。夫婦仲は悪くないので大目にみて貰うとしよう。
「デジェルを叱ったんだって? 少し落ち込んでいたよ」
「……あまり、俺も言えた義理は無いんだが…つい、な」
「僕もそうだから何とも言えないね。何か、本当に君と僕の子供って気がするよね」
「………そう、だな」
夕方に汲んできた水を水瓶からカップに注いでロンクーに渡しながら日中の事を言えば、苦い顔をして受け取った彼は一口水を飲んだ。自分も同じ様な部分があるので他人に言えたものではないとちゃんとロンクーも分かっているし、ソワレだってそうなのだが、そこは矢張り親として言うべきところだと思っている。未来の自分達が出来なかった事を、代わりに今の自分達がやらなければならない。否、「ねばならない」という訳ではないかも知れないが、自分達の事を「父さん」「母さん」と言ってくれているのだから親としての責任は果たしておくべきだろう。少なくともソワレはそう思っている。
「それにしても、挑戦と無謀は違う、だなんてね。
 君もどこかのおじさんに言われたのかい?」
「は……? ……誰の事だ?」
「え? 以前僕もグレゴに言われた事があったんだけど……君も言われたんじゃないのかい?」
「いや……? 俺はバジーリオに言われたが……」
「………」
「………」
デジェルがロンクーに言われたという言葉を聞いた時、ソワレは以前自分にそう言った男の事を真っ先に思い出した。娘と同じ様に強いと見れば手合わせを申し込みたくなるソワレは独学で剣の腕を磨いたというグレゴにも手合わせを申し込んだ事があるが、何度目かの手合わせの際に槍をへし折られた時、挑戦と無謀は違うぜえ、と苦笑しながらあの男は言った。ロンクーもグレゴに度々手合わせを申し込んでいる様であるし、今でもたまに剣を交えている姿を見るから、てっきり彼から言われたのだろうと思っていたのだ。
しかし、ロンクーは怪訝な顔をしながら首を捻り違うと言い、師であり目指す目標であるバジーリオの名を口にした。バジーリオとグレゴはどうやら旧知の仲であるらしいし、つまりグレゴはバジーリオに言われた可能性がある訳で。
「………ふふっ」
「………は、ははっ」
それに気が付いた二人は顔を見合わせたまま吹き出し、珍しい事に声を出して笑った。ただ残念な事に、時を同じくして野営内のどこかで赤茶色の髪の男が盛大にくしゃみをしたという事は、知る由も無かったけれども。