天幕の隅で座ったまま剣を抱いて眠っている男が一人。俯き、静かな寝息を立てながら休息をとっている。肩に掛けた薄い毛布があと僅かで落ちそうなところ、ぎりぎりで踏みとどまっている。寒さには強い彼であるから毛布が落ちる事は気にならない様であるが、座ったままの休息は矢張り体勢がきついのか、無意識の内に少し身動いでいる様だ。薄暗い天幕の中では数名の者が休んでいて、全員体を横にしているが寝転がるスペースは十分にあるのにそうしていないのは、火急の際にいつでも飛び出せる様にという彼なりの配慮だった。戦をしている今、仮令夜の見張り番が居ても気を抜かないに越した事はない。
 不意に、彼の口から微かに声が漏れた。眉が寄り、口元が苦しそうに歪んでいく。滲んだ汗が彼の見ている夢の内容が良いものではないと物語っていて、さりとて全員眠っている為に彼の目を覚まさせる事は出来ない。彼が自力で夢から這い上がってくるしかないのだ。濁った呻き声が口元で霧散しては消え、それなりに大きな体はカタカタと震えて縮こまっていく。それが幸いしたのだろう、体勢ががくんと崩れて漸く彼は目を覚ました。
 息を上げ、脂汗が浮いた顔でそれでも薄暗い天幕内を見渡し、現状を確かめた彼は今の状況を把握して安堵の溜め息を細く吐いた。大きく吐けば誰かを起こすかも知れないと思ったからだ。就寝の為の天幕とは言えいつ不測の事態が起こるか分からないので最低一つはランタンが点いており、その明かりで分かる範囲では誰も起こさなかったらしい。その事にもほっとした彼は手の甲で汗を拭うと軽く頭を振り、剣を持ったまま立ち上がった。体勢を崩して目を覚ました時点で毛布は既に体に纏われておらず、足元に皺を寄せて横たわる毛布を適当に畳み、眠る同僚達を起こさない様に極力足音を立てずに隅を歩き、天幕の外に出る。外気はそこまで寒くないが、露出した腕の汗が冷えて体が微かに震えた。ランタンが必要かと思ったが、今日の月はとても明るく、必要なさそうだ。月は彼の黒髪を柔らかに照らしてはくれたが、心までは照らしてくれなかった。彼は――ロンクーは、その事を恨むでもなく、月を見上げて少しだけ目を細めた。
 張られた天幕の間をすり抜け、篝火が燃え盛る音を聞きながら野営を離れる。汗をかいたから喉が渇いてしまい、水が飲みたかった。夕方に飲用の水を汲んできているとは言え、妙な汗もかいてしまっていて顔も洗いたかったから、水場に行こうと思ったのだ。野営は極力水場の近く、例えば川や湖、池の近くで張られ、その恩恵に預かる事が多い。勿論それが叶わない時も多々あるが、今回は水浴びが出来る様な場所を確保する事が出来た。食料が無いのもつらいが水が無いのは死活問題で、いかに敵軍より条件の良い水場を確保するかも勝敗を左右するものだから、軍師であるルフレは行軍の進路を決める時は極力水を確保出来る道を複数選択した。衛生面でも重要な事であるし、延いては兵士達の健康にも関わるというのもあるが、何にせよ今顔を洗える事は今のロンクーにとって有難い。
 今回の水場は、それなりに大きな池だった。幸運な事に飲み水にしても申し分無い清らかなものであったから、随分と女達が喜んでいた。その水面に、大きな月が落ちて揺らめきながら浮かんでいる。流石にこの時間に水浴びする者も居らず、ロンクーは水面から直接水を掬い上げて顔を洗った。汗をかいた頬や額に、冷たい水が心地好い。水浴びは風邪を引いてしまいそうであるし、タオルも持ってきていないので止めた。
腕で水滴を拭って再度空を見上げる。望が近いのかそれとも今日が望なのか、月は綺麗な円を描いている。少しは天体に関心を持たねば方角も分からなくなるぞと言われた事があり、多少は覚えたとは言え、流石に月齢までは数えていなかったので、確かにもう少し関心を持った方が良さそうだと思った。月の満ち欠けや天体の見え方は国によって変わるらしく、それは先の行軍で随分と思い知ったので星の動きに詳しい者に聞こうとは思っているのだが、話下手で人付き合いが苦手なロンクーは誰かにそんな事を聞く事が出来ずにいる。
 ふと、彼が傍らに置いた剣を掴んで振り向く。野営のある方角から、誰かの足音が聞こえたからだ。仲間内の誰かと考えてもおかしくはないけれども、斥候という可能性が無い訳ではないので警戒しながらそちらを睨む。しかしその人物が誰であるか、晴れた夜空を煌々と照らす月明かりが教えてくれていて、ロンクーはすぐに警戒を解いた。相手も同様であったらしく、少しだけ首を傾げたのが見えた。
「…眠れないの?」
「…目が覚めたんだ」
「そう」
 警戒は解いたが今度は緊張が襲い、それでも彼はそんな素振りを見せぬ様に努力した。仲間であるのに警戒すれば失礼になると鈍いロンクーでも流石に分かる。別にその相手が苦手な訳ではなく、女性が苦手な彼は、誰であろうと女性には体が硬直する。
「お前はどうした。危ないぞ、一人で」
「貴方も一人じゃない」
「…それはそうだが」
「…私も目が覚めたのよ。お茶でも淹れようと思って水を汲みに来たの」
「…そうか」
 どうやら彼女もロンクーと同じく、夜中に目が覚めたらしい。再度寝ようにも眠れなかったから茶を淹れる為に水を汲みに来たのか、手に持っていたのは桶だった。
「貴方も飲む?」
「…良いのか?」
「少し淹れるより多目に入れた方が美味しいもの。ついでよ」
「…そうか。なら、それは俺が持つ」
 ついでであろうが何であろうが、喉が乾いていたから茶は有難い。水は確かに喉を潤すけれども、体が冷えて疲れが取れなかったりもするからだ。だから礼も兼ねて彼がその桶を指差し持つと言うと、彼女はちょっとおかしそうに笑った。
「あら、貴方もその程度の気配りは出来るのね」
「…お前の中で俺はどういう男なんだ…?」
「人間の男よ、ただの。それ以上でも以下でもないわ」
「………」
 女に荷物を持たせるのは良くないと一応ロンクーにも分かるので申し出たと言うのに、彼女は意外に思ったのだろう。それに対し少々不服そうに彼が眉間に皺を寄せると、彼女は歩みよりながら微かに冷ややかな声で答えた。彼女にとって、人間は良い思い出がない生き物だ。人間に里を滅ぼされた、タグエルのベルベットにとって。
 彼女はペレジアがエメリナの暗殺計画をどこかから聞き付け、人間を嫌っているにも関わらず先祖がイーリス聖王から恩を受けたという理由でエメリナを守る為にクロム達に手を貸した。それ以上の義理は恐らく彼女には無かっただろうが、エメリナからの謝罪やクロムの懇願によって軍に留まり、エメリナが亡くなってペレジアとの戦が終わってからはルフレに頼まれイーリス王都近郊に住み野草の知識を少しずつ教えていたらしい。だからヴァルム帝国がイーリス大陸に攻め込んでくるという情報が入った時、他所の土地にひょっとしたら同胞が居るかも知れないからと行軍を共にする様になった。
 だからと言って彼女の人間に対しての不信感が全て拭えた訳ではないらしく、今ロンクーに向けた様な冷ややかな声は日常茶飯事だった。かと言って自分は里を襲った人間ではない、などと反論する程ロンクーは彼女と親しい訳ではなかったし、そもそもタグエルだろうが人間だろうが女が苦手な彼には会話を交わすという事自体ハードルが高いものであった。
 ベルベットもロンクーが女が苦手であると知っているので、桶を彼から少し離れた所に置いた。耳の良い彼女はこんな風に周りが静かであれば相手の鼓動も聞こえるらしく、ロンクーが緊張しているのも分かる様で、必要以上に彼に近寄らない。気遣っているというよりは単に近寄りたくないだけかも知れないが。
「今日は満月なのね。道理で明るい筈だわ」
「…見てなかったのか?」
 置かれた桶に水を汲んでいるとベルベットが水面を見ながらぽつりと呟いたので、ロンクーは思わず聞き返してしまった。これだけ明るい満月を見上げないもの珍しいと思ったし、彼女は尚も水面を見ているだけで空を見ようともしていない。桶になみなみと水を汲んだロンクーを見る事もせず、ベルベットはしゃがんで水面を見詰めたまま言った。
「タグエルにとって月は神聖なものなの。だから直接見る事はしないわ」
「…勿体ないな、今日の月は綺麗なのに」
「………」
 月を見上げない理由を簡素に答えたベルベットに、ロンクーは思った事を素直に口にしながら彼女が見詰めていた水面の月を一瞥してから空の月を見上げた。本当に今日の夜空は雲が少なく、空気も澄んでいて、ビロードに散りばめられた宝石の様な空を銀色の満月が照らしている。昇りかけの時は紅く、徐々に黄色に変化し、今の様に空高くある時は銀色に輝く月をロンクーは好んだし、綺麗なものと判断していた。感受性が乏しいと思われがちな彼でも綺麗だと思ったものは素直に口にする。しかし何か視線を感じて再び目線を地上に落とすとベルベットが目を丸くして自分を見ていた。
「…何だ」
「…何でもないわよ」
 何かおかしな事を言っただろうかと不可解さを声に滲み出しながら聞いても、ベルベットはふいと顔を背けただけで答えてはくれなかった。おかしな奴だとは思ったのだがそれを口にすると怒るだろうという事くらいは分かるので黙っていたけれども。
 名残惜しそうに水面の月から目線を外し、踵を返したベルベットの後ろを、ロンクーは適度に距離を取りながら歩く。並んで歩く事は出来なくてもこうやって離れて歩けば何の問題も無い。彼女の足音は静かで、周りがここまで静かでなければロンクーでも気が付けなかっただろう。真似をして歩いてみようにも溢れそうな程桶に水を汲んでしまっていたものだから、上手くいかなかった。茶を沸かすだけなのに何故ここまで汲んでしまったのか、とロンクーは自分に対して眉を顰めたが、単に女と一緒に居て緊張しているからなのだとは残念ながら思い至れなかった。
 ベルベットの指示通り簡易的に組み上げられた竈に置いた鍋に水を入れ、火を熾したところで交代したロンクーは、先程のベルベットとは立場を逆にして少し離れたところで彼女が茶を淹れるのを見ていた。フェリアでは茶と言えばポットに茶葉を入れ、沸かした湯を注ぎ入れて蒸らすものだが、彼女は鍋に沸いた湯に直接茶葉を入れた。否、茶葉というよりは野草に見える。煮出すものなら確かに多目に作った方が美味いだろう。鼻腔を擽る香りは香ばしく、フェリアで飲むものとはまた違っている。
「入ったわよ。どうぞ」
「ああ、すまない。貰おう」
 煮出し、蒸らして濾した茶をカップに注いだベルベットは、そのカップを調理台の上に置いてくれた。カップの中の茶を揺蕩う光が月の明るさを物語る。最近はヴァルム軍との戦に加えて襲い来る屍兵との戦いも相俟って空を見上げる余裕などなかったが、本当に今日の月は綺麗だとロンクーは思った。しかし、悪夢を見て目が覚めたお陰で月を見られたというのだから世話は無い。
「う…に、苦い」
 とりとめのない事を考えながら息を吹き掛け冷ました茶を一口啜ると、口の中にいっぱいに広がった渋みと苦味に思わず眉間に皺が寄る。茶というより薬湯の様な気がしてちらとベルベットを見たのだが、彼女は平然とした表情で飲み干していた。
「言い忘れたけど、味わって飲むんじゃなくて一気に飲んだ方が良いわよ」
「先に言ってくれ。というか、茶はゆっくり飲むものではないのか」
「これはそういうものではないもの」
「何…?」
 飲み終わったベルベットが思い出した様に言った言葉に思わず突っ込んでしまったロンクーは、しかしぽつりと呟かれた意味深な彼女の言葉に何か引っ掛かるものを覚えた。月明かりの下で見える彼女の表情はどこか憂いに満ちていて、翳りが見える。だが何と言って良いのか、そもそも聞いて良いのかどうなのかも分からなかったけれども、ロンクーは結局好奇心に負けた。
「そういうものではないなら、何なんだ」
「お茶よ、野草の。嫌なら別に飲まなくて良いわ、貴方が飲む義理は無いし」
「…では何故俺に淹れてくれた」
「一人分も二人分も変わらないからよ。強いて言うなら空の月が綺麗と教えてくれたお礼かしらね」
 ベルベットにしてみれば、水を汲みに水場に行ったらロンクーが居たから渋々声を掛けたというだけなのかも知れない。たまたまそこに居た、それだけの事だろう。それでも、彼女は目が覚めたと言ったロンクーにそれ以上の事は何も聞いてはこなかった。興味が無かっただけとは分かっているが、ロンクーにはそれが有難かった。聞かれても余り答えたくはないからだ。
 彼女の声が飽くまでも冷ややかなのは多分ロンクーが人間であるという事に起因しているであろうし、また彼と大して会話を交わした事が無いという事も影響しているだろう。ルフレや他の同僚はベルベットを特別扱いする事も無く、一人の仲間として扱っているから彼女もそれなりに彼らと会話をしている様だが、ロンクーは女が苦手であるからまともに話した事が無い。ベルベットも特に話す事も無いだろうから別に構わないけれども、茶を淹れてくれた厚意に対しての礼くらいは言いたい。それが仮令ついでであったとしても、だ。
「…手を煩わせてすまなかったな。礼を言う」
「………だから、ついでよ」
「ついでだろうが何だろうが、施しには礼を言うのが道理だと俺は思っているのでな」
「…そう」
 礼の前に詫びを言ったからなのか、ベルベットがどこか気まずそうな顔をした。言い過ぎたと思ったのかも知れないし、そこまで話した事も無い相手に対して態度が厳し過ぎたと思ったのかも知れない。ばつが悪そうな顔をした彼女は小さく息を吐くと、桶の中に残った水の中の月を覗き込みながら言った。
「…今日は満月だったわね。もし下弦の頃になっても夜中に目が覚めるなら、また飲みに来ると良いわ」
下 弦の頃と言うと、満月から数えておおよそ七日目にあたる。茶は毎日飲んでもおかしな事ではないが、こんな夜中に飲むというのは多分余り普通ではない。ロンクーも魘されて起きたから馳走になったくらいだ。彼女はそんなに頻繁に、夜中に起きるのだろうか。ロンクーはそんな疑問を抱いたが、しかし尋ねる事も出来ずにいると、ベルベットは飲み干したカップを静かに置いて濾した野草の笊を持った。
「早めに戻って少しでも休むのね。明日もそれなりに進むとルフレが言っていたから」
「あ…ああ、分かった」
 どうやらベルベットはそろそろ天幕に戻るらしい。まだカップに茶が残ったままのロンクーはぐいと一息に呷り、苦さに顔を顰めたものの、全て飲み干した。良薬口に苦しとは言うが、これもその類なのだろうか。
 流石に女を天幕まで送るという芸当は出来ず、じゃあね、と短く挨拶した彼女の後ろ姿を見送ってから、ロンクーも自分が休んでいた天幕に戻る為に踵を返す。視界に映る満月は本当に綺麗で、今のロンクーの心をどことなく照らしてくれている。天幕を出た時はそんな風に思わなかったのに、誰かと話をしただけで変化するなど不思議な事もあるものだと、携えた剣を握り締めながら考えていた。今なら、悪夢を見ない気がしていた。



 …良く、寝た。
 それがここ数日、目覚めた時のロンクーの感想だった。万年不眠症と言っても過言ではない彼が、どういう訳かこの数日は夜の見廻り番以外で夜に眠る時、夢も見ずに深く眠る事が出来ていた。本当に不思議な事に頻繁に魘されていた夢を一度も見ておらず、目の下の隈が消えた。心無し体の動きも軽くなった様な気もするし、睡眠での休息というものは大事なのだなとロンクーに思わせていた。
 特に何かをした覚えも無く、心当たりなど満月の夜にベルベットに淹れて貰ったあの苦い茶くらいしか無い。余りの苦さに茶はゆっくり飲むものではないのかと聞いた時の彼女の回答が何となくロンクーに納得させていた。

 ―――これはそういうものではないもの

 あれは恐らく、ゆったりと飲んで気を落ち着けるものではなく、ロンクーが思った通り薬湯の様なものだと言いたかったのではないか。夜番でもないのに満月が南中する頃の時間に目が覚めたのは、自分と同じ様に悪夢に魘され起きてしまったのではないだろうかとロンクーは思う。だからあの茶を淹れる為に水を汲みに出たと考えたら得心が行く。
 ただ、そんな事を直接聞く訳にもいかなかったし、人間との干渉を極力避けている様に見える彼女に話し掛けるのも何となく気が引けて、あの夜以来ロンクーはベルベットと接触を持てずにいた。悪夢を見なくなったと礼を言いたいだけなのに尻込みしている自分が何とも情けないのだが、矢張り女と前にすると体が硬直するし緊張してしまうから、彼はイーリス軍に所属する様になって随分と経つというのに未だに女性兵士と上手く話をする事が出来なかった。彼女達もロンクーが女が苦手であると知っているから必要以上に近付く事をしない。そんな彼であるから、皆の輪から離れて一人で居ようとするベルベットに近付く事が出来なかった、のである。
 しかしあの晩、ベルベットは下弦の頃になっても眠れないのであればまた飲みに来いと言った。単なる気まぐれから口にした言葉であったかも知れないし、同じ様に目を覚ましてしまったというロンクーに親近感を持ったのかも知れないし、それは彼には分からない。彼女が嫌う人間に対しその言葉を守る義理も無ければそもそも覚えているのかどうかすら分からないが、あの言葉に賭けるしかないロンクーは下弦の月の夜に休んでいた天幕からそっと抜け出した。
 あの晩と同じ様に剣を携え、野営の天幕の間をどこか落ち着かない心持ちで歩く。下弦の頃とベルベットは言ったが、満月と違って下弦の月は深夜に昇る為にまだ空は暗かった。瞬く星たちは月の様に空を照らしはしないし、地上の篝火の方が余程ロンクーの足元を照らしてくれる。ヴァルム軍との戦は軍全体を疲労させていて、夜の野営内は静かだった。別に見られて疚しい事は無いのだが、ロンクーも自分が夜番でもないのに野営内をうろうろしているところを見られずに済むのは何となく有難い。
 居るかどうかは分からなかったものの、夕方に竈を組み上げた場所に、人影が一つ。ランタンを側に置き調理台の上に何かを広げて選別をしていて、作業を邪魔するのは気が引けたのだが、特徴のある耳が動いたのが見えてこちらに気が付いたのだろうと判断してそちらの方へと歩を進めた。
「…眠れないの?」
「いや…、ちゃんと眠れる様になった」
「そう。人間にも効き目があった様ね」
 足音も気配も消さずに近付けば、その人影は――ベルベットは緩やかにロンクーの方を向いた。そしてまた同様の問い掛けをされたので彼がゆっくりと首を横に振ると、どことなく満足した様に口元だけで微かに笑った。矢張りここ数日の安眠はあの茶のお陰であったらしい。
「…礼を言いたかったのだが、中々話し掛けられなかったのでな…。
 眠れなかったら下弦の頃に来いと言っていたから、それに賭けた」
「わざわざその為に起きていたの? 義理堅いわね」
「お前は眠れなかったのか」
「…野草の選別の為に起きてただけよ」
 自分の問いに顔を逸らして野草に目線を落としたベルベットの声音に偽りは混ざっていない様な気もしたのだが、どこか言い訳じみている様にも思えたロンクーは、しかし何と言って良いものなのか分からず口を噤んだ。義理堅いと言ったベルベット本人も、確かに人目につかずに野草の選別をする為にこの時間まで待って作業をしていたとも考えられるのだが、下弦の頃に、と言った手前本当に来るかも知れないと思って起きていたのではないだろうか。そんな事は、ベルベットにしか分からないのだけれども。
「…あの茶のお陰で魘されなくなった。礼を言わせてくれ」
「ふうん、良かったわね。…私も時々魘されるから、淹れて飲んでるだけよ」
「…そうか」
 改めてロンクーが礼を言うと、ベルベットは顔も上げなかったが野草を選別していた手を止めて呟く様に答えた。矢張り自分と同じ様に魘されているらしいと分かったものの、内容を尋ねる気にはなれなかった。他人のトラウマに土足で踏み入るものではないとちゃんと彼は分かっているし、自分がそんな事をされたら不愉快この上ないと思ってしまうから、尋ねようとは思わなかった。
「そろそろ効き目が切れる時期よ。今淹れてあげるから、少し待っていなさい」
「あ、ああ…」
 野草によって効能が違うのだろう、選り分けた野草を二掴み分笊に入れたベルベットは竈の前でしゃがんで火打ち石を打ち、乾燥させた草に火を点けた。水を汲んで来なかったとロンクーは思ったが、既に彼女が汲んできた後の様で、足元にはあの桶が置かれてあった。遠くの篝火と側のランタンの光では良く見えずロンクーは目を凝らしてしまったけれども、ベルベットは夜目が利くのか何なのか、手元を全く気にする風でもなかった。
「今日は下弦だから、月が昇るのが遅いわね。お陰で星をゆっくり見られるけど」
 特に話す事など何もなく、竈の火が爆ぜる音だけが辺りに響いているだけで奇妙な沈黙が二人の間を流れており、ロンクーが気まずさを感じていると、ベルベットが口元に手をあてて空を見上げて言った。口振りからしてそれなりに夜空に知識がある様に見受けられ、ロンクーは僅かに首を傾げる。
「…ベルベットは天体に詳しいのか?」
「詳しいかどうかは分からないけど…それなりに知ってるつもりよ」
「そうか。…良ければ教えてくれないか、覚えたいんだが誰に聞いて良いか分からんのだ」
「…変な人ね、覚えてどうするの? 私じゃなくても誰にだって聞けるでしょう?」
「詳しい奴から聞きたいんだ。万一の時に方角や位置を正確に知りたいからな」
「…そう」
 この沈黙を楽しめる程親しい訳でもないし、かと言って話し掛けられるのも煩わしいと思われてしまうかも知れないので一か八かだったのだが、ベルベットは奇妙な顔をしただけで拒否はしなかった。女嫌いと名高いロンクーがそんな事を頼んでくるとも思っていなかったのだろう。当のロンクーも最大に勇気を振り絞って頼んだので、断られなかった事に胸を撫で下ろしていた。人間を嫌っているベルベットと女を苦手としている自分が話しているというのも中々珍妙な光景かも知れないとロンクーは思ったけれども、「悪夢に魘されて眠れない」という共通項があるのならば別段おかしくはないだろう。
「そうね…、今ならあれが一番分かりやすいんじゃない?」
「ん…? あの明るい星か?」
「そう、天狼星。全天の中で一番明るく見えると言われる星よ」
「天狼星…?」
「人間はシリウスと呼ぶのだったかしら。冬の南に見える星で…分かる? あの星と、その星の三つで三角形が出来るの。
 私達は冬の大三角と呼んでいたのだけど」
 暗い夜空に瞬く星々を見ながらベルベットが指差す方向をロンクーも見遣ったのだが、彼女の言うシリウスは分かっても他の二つの星が分からず、思わず聞き返す。
「ん…、すまない、あの明るい星と、…どれだ?」
「だから、…もう、そんなに離れるから分からないのよ。教えて貰うのなら近寄る努力もしなさいよ」
「す、すまない」
 相変わらずベルベットと距離を取っている所為で彼女が指差す星が良く分からず、その事を叱られ縮こまる。女が苦手である理由を知らぬベルベットにしてみれば教えを請うた割に近寄ろうとしないロンクーは無礼な男に映るのだろう。それもそうだとロンクーも思うので、かなり無理をして彼女の隣に立った。
「天狼星があれでしょ。その右斜め上にある星」
「…三連になっている星か?」
「あれはまた別のもの。それよりもうちょっと上の星よ」
「…あれか?」
「そう。参宿第四星と私達は言っていたけど…」
「しんしゅく…?」
「貴方達はベテルギウスと言うのだったかしら。
 そこから左に真っ直ぐ行って…犬の先駆、プロキオンだったわね。その三つで三角形が出来るでしょ?」
「あ…ああ、なるほど、分かった」
 ベルベットがゆっくりと指を動かしながら教えてくれた星をやっと見付ける事が出来、ロンクーも感嘆の声を漏らす。確かに正三角形を象っている様な星の並びは、気が付けば特徴的に見えた。一際大きく輝くシリウスは分かりやすく、目印には良い。
「その三連になっているのも分かりやすいわね。
 さっきのベテルギウスが参宿第四星、…分かるかしら、砂時計みたいな形をしているでしょう?
 人間はオリオン座と言うの?」
「あ…、あれがそうか。星座になるのか」
「冬の夜空で一番分かりやすいわね。この時間の南東よ」
 良く耳にした事があるオリオン座という呼称と実際の夜空と漸く合致し、ロンクーは矢張り感心した様に頷いた。本当に彼は剣の事以外には無頓着で、こういった事に感心が無いものだから、誰しも知っていそうな星座を全く知らない。そんなロンクーにベルベットは呆れる風でもなく、すっかり沸いてしまった鍋の湯に笊の野草を入れた。
「参は夏の商…さそり座と反対側にあるから、不仲や疎遠な事を表したりするの。さそり座は分かる?」
「…名前しか分からん」
「…貴方、本当に興味関心が剣にしか無いのね…いっそ清々しいくらいだわ」
「………」
 分かりやすく有名な星座なのであろうさそり座すら名前しか知らぬロンクーにはベルベットの言葉に言い返す事など出来る筈もなく、ぐうの音も出せずに押し黙る。鍋からは香ばしい匂いが湧き上がり、緩やかな風がその匂いをロンクーの所にまで運んでくれた。
彼はベルベットの行動を知っている訳ではないので彼女がいつ野草を採取しているのかは知らないが、自分の分まで淹れてくれているという事は消費量が普段より多いという訳なので、どちらにせよ手間を掛けてしまっている事に変わりない。
「その野草はこの近辺で採れるのか?」
「そうよ、こっちの大陸にもあって良かったわ」
「…星座も野草も詳しいんだな」
「貴方が知らないだけよ。興味の方向性の違いじゃないの」
「そ、そうか…」
 煮立った鍋を火から外し、鍋に蓋をして蒸らすベルベットの手際はとても良く、慣れている事を教えてくれていた。時々魘されると言っていたから良く淹れているのだろう。
 もう一度夜空を見上げ、ベルベットに教えて貰った星を見遣る。青白い星、赤い星、黄色い星、色とりどりの星が散らばり、夜空を彩る。感心を持って見ればあんなに分かりやすいものか、とロンクーは改めて自分の感心の無さを反省した。
「…母が良く教えてくれていたのよ。星に関する逸話とか、季節ごとに見える星とか。
 私もまだ子供だったから、そんなに沢山は覚えられなかったし起きていられなかったの。
 …今ならきっと夜が明けるまで聞いていられるのに」
 不意に、ベルベットが蒸らした茶を漉しながらそんな事を言った。彼女の里は心無い人間に滅ぼされ、タグエルは今のところ彼女しか残っていないらしい。ひょっとしたら世界のどこかに同胞が居るかも知れないが、残念ながらその情報が入ってきた事が無い。
 恐らく、ベルベットが「時折魘される」というのは里が滅ぼされた時の夢なのだろう。彼女自身も恐ろしい思いをしたに違いないし、一人生き残ったというつらさが今でもベルベットを苛んでいるのではないかとロンクーは思う。自分も生き残ってしまったという自責の念で長い事苦しんできたからだ。
「はい、どうぞ。ここに置くから」
「ああ、すまない」
 並んで星を見たとは言え、矢張りロンクーが体を緊張させていたという事に気が付いていたらしいベルベットは淹れた茶のカップを直接手渡さず、台の上に置いて離れた。過去をぽつんと話した彼女は、しかしロンクーが何故魘され起きたのか、また女が何故苦手なのかを尋ねはせず、黙って彼から離れる。
「…、…相変わらず苦いな…」
「あら、今日はちゃんと一気に飲めたのね」
「味わって飲むものではないとお前が言っただろう」
 濁った茶に息を吹きかけ、ある程度冷ましてから一気に飲み干したのだが、口内に充満する苦さはロンクーの眉間の皺を深くする。それを見たベルベットは少しおかしそうに小さく笑った。
「今日も馳走になった、礼を言う」
「どういたしまして。朔の頃に効能が切れるから、飲みたいなら来ると良いわ」
「…そうか」
 飲み干したカップを返して礼を言うと、ベルベットは東の空を見遣りながら次回の事を口にした。月が昇るにはまだ時間がありそうだが、用も無いのに黙って留まり彼女の一人の時間を邪魔する事は無いだろうと、ロンクーは会釈をしてからその場を離れた。朔まで、あと七日だ。七日後までに教えて貰った星をきちんと覚えようと思っていた。



 安眠の為の茶であるから当然の事かも知れないのだが、ベルベットからあの苦い野草茶を淹れて貰って飲んで以来、ロンクーは悪夢に魘される事が本当に無くなった。二度飲んだだけなのに、半月もの間、魘され起きる事が無い。あの満月の夜に脂汗をかいては飛び起きる日が続いていたとは思えない程の安眠の日々に漠然とした不安に駆られたりもするが、剣を握り戦っている間はそんな不安も感じなかった。
「お前、最近元気良いな。何かあったのか?」
「…いや…、別にこれと言って」
 ミラの大樹でヴァルム帝国軍を破り、南下する途中、ヴェイクから不思議そうに尋ねられたが、何と答えて良いなか分からなかったロンクーは曖昧に答えをはぐらかした。単に快眠出来る茶を飲ませて貰ったと答えれば良いだけなのかも知れないが、淹れて貰った相手を思うと何と言うか、気恥ずかしかった、のだ。
「ま、疲れが残らないのは良い事だしな! 最近戦闘続きで中々疲れ取れねえし」
「…そうだな」
「新月前後は特に敵襲に気を付けないといけねえからな。明日だっけか?」
「いや、今日が朔だ」
「おー、そっか、気ぃ付けて見回りしねえとな」
 新月前後の闇に紛れて斥候や野盗の襲撃を受ける可能性もある為に、ルフレは夜の闇が深い日は必ず見廻りの為の人員を増やす。大体夜の見廻りをする様な面子は決まっているが、慣れ合いを防ぐ為にも連続はさせないし、その分きちんと休ませる。こちらの大陸に渡ってきてからはイーリス大陸と風土が違うので勝手が分からず皆の疲労も溜まりやすく、倒れかけた者も少なくなかった。そういう面ではロンクーがここ最近きちんと眠れる様になり、体力を回復出来ているのは良い傾向と言えた。
 剣以外の事に無頓着であったロンクーが月齢をきちんと気にする様になったのは、偏にベルベットが次は何の頃と言ってくれたからに他ならない。彼女は自分の為に茶を淹れているのであってロンクーの為に淹れている訳ではないし、彼もそれは弁えているけれども、前回天体を教えてくれた夜の様にもし起きていてくれて、ついでに飲ませてくれたなら有難い。それくらい、ロンクーはあの茶のお陰で魘されなくなっていた。
「新月って言や、先月の日食はびびったよな。あれ確か新月の日だったよな?」
「…そう言えばそうだったか」
「丁度俺様も敵部隊に囲まれかけた時でどさくさに紛れて撒けたお陰で助かったって言えば助かったけどよ、
 やっぱびびるよな」
「お前は相変わらず向こう見ずだな…もう少し周りを見ろ」
「あんだよー、俺様は突撃隊長だぜ? もたもたしてられねえよ」
 ヴェイクに言われてロンクーもはたと思い出したが、前回の新月の日は日中に日食という珍しい現象が起こった。そうそう見られるものでもなく、また太陽が全て見えなくなってしまうという、所謂皆既日食であった為に、イーリス軍も対峙していたヴァルム軍も一時戦闘を中断してしまった程だ。基本的に戦というものは昼間に行われるものであり、日暮れと共に退くものであるから、日食により夜の様に暗くなってしまった為に両軍共に中断せざるを得なかった。敵か味方か分からず攻撃する事があってはならないからだ。
 ロンクーもあの時は驚いたが、フェリアの北部では冬至前後に極夜と言って太陽が沈んだ状態が続く現象が起こるし、流石に日食や月食の事は知っているので、一部の兵士達の様に祟りだの呪いだのと騒ぐ事は全く無かった。ルフレが呆れながらあれは日食だしすぐに太陽が顔を見せる筈だからサーリャの呪いに比べたら怖くも何ともないと言っていて、それを聞いたロンクーも言い得て妙だと思ったものだ。
「あれ? 珍しいな、ベルベットだ」
「ん…?」
 その時、本当に珍しいものを見たかの様にヴェイクが言い、顔を向けた先を見ると、確かにベルベットが居た。彼女は未だに人間とは余り馴れ合おうとはせず、一人で野営の外れで居る事が多いので、野営内で見掛ける事は滅多に無い。しかも、誰かと一緒に居るのは尚更に。
 何を話しているのか、ベルベットが少し怒った様な表情で向き合っていたのはグレゴだった。呼び止めたのはどうやらグレゴからの様であったが、少し残念そうな顔をして立ち去ろうとした彼を今度は逆にベルベットが呼び止める。彼女は終始むっつりした顔だったが特に嫌がる素振りもなく、グレゴも楽しげに笑っていた。
「やるなあおっさん、ベルベットが素直に話すとかそんなに無いのにな」
「……… …そうだな」
 何となく感じた心の靄の理由が分からず眉を顰めたロンクーは、しかしヴェイクの声にはっとして辛うじて同意する。愛想も良ければ話も上手いグレゴの方が、ベルベットも話していて楽しいだろう。だが何故そんな事を思ってしまったのか、ロンクー本人も分からなかった。



 新月故の暗闇というものは野営内の篝火の設置数を多くする。篝火で焚く薪を集めるのも苦労するので普段はそこまで台数を設置しないし、月が明るい夜はそれこそ余り篝火を焚かないのだが、今日の様に暗い夜は用心するに越した事はない。
 夜の帳が落ち、今日も快晴とはいかなくても薄い雲がところどころに見受けられるだけで、空の星々は美しく瞬いている。ロンクーは南東を見遣って天狼星と名を教えられた星を眺め、方角を確認してから少しだけ重たい溜息を吐いた。
 朔の頃に効能が切れるから飲みたければ来ると良い、と言ってくれたのはベルベットだし、前回や前々回の事を思うとこの時間に調理スペースに行くのは全く以て問題無い様な気もするのだが、昼間の事を思うと果たしてこの時間で本当に良いのかと思ってしまう。疚しい事は無いとは言っても夜中に男女が会うのだ、誰かに見られて誤解されれば困るというかベルベットに迷惑が掛かるのではないかという懸念が彼にはある。否、ベルベットがグレゴとそういう関係なのかどうかは知らないのだが。懸念するなら行かなければ良いだけの話なのに、もし、本当にもし彼女が前回の様に居るのなら行かねば何となく申し訳ないと、何故か自分に言い訳をしてしまったロンクーはあの茶を飲んだ時よりも苦い顔になってしまった。
 当番でもないのに野営内を歩いていても特におかしな事でもないので、ロンクーが剣を片手に篝火の間を擦り抜けていっても誰からも呼び止められなかった。自主的に見廻りする者も居れば夜に一人で鍛練する者も居るし、ロンクーも良く夜中に目が覚めては眠れず、黙々と剣の素振りをする事が多々あったから、大して不思議に思われない。
 そして調理スペースに着いたは良いが誰も居らず、肩透かしを食らった様な残念な様な、そんな気分になって、矢張りロンクーは眉を顰めてしまう。別にベルベットはこちらの為に茶を淹れてくれている訳ではないのだから居なくても文句を言われる立場ではないし、ロンクーだって言うつもりもない。人間嫌いの彼女が二度も茶を淹れてくれた事自体が驚きなのだから落胆する事ではないのだ。ただ何故今こんな風に傷付いた気分になるのか、ロンクーには分からなかった。
 だが原因が分からずとも心の靄を払うには剣を振るに限る、そう思って踵を返した、その瞬間。
「…うぉっ?! な、何だ、居たのか」
「水を汲みに行っていたのよ。大袈裟な驚き方をしないでくれる?」
「…すまない」
 背後といかなくても数歩先に件のベルベットが居たものだから驚いてしまい、ロンクーの口からは情けない事に変な声が出た。どうやら甕の中の水ではなく直接水を汲みに行っていたらしい彼女の手には、見慣れた桶がぶら下がっていた。
「気が付かなかったの? 気配に敏感そうなのに」
「…お前の足音は静かだからな」
「ふうん。私も斥候になろうと思えばなれるのかしらね」
 ロンクーの隣を擦り抜け、竈に向かったベルベットからは微かに野草の匂いがした。採取しに行ったのかも知れないし、選別した後なのかも知れない。彼女は桶を持っていない手に下げていたランタンを傍らに置き、予め置いていたのだろう竈に置かれていた鍋に汲んできた水を注ぎ入れた。その姿を見て、ロンクーは申し訳ない気持ちになる。
「…その…、迷惑では、ないか」
「何が?」
「いや…、お前が茶を飲まなくても眠れているのではないかと思ってな」
 本当にこんなに定期的に飲んでいるとも思えず、そう言ったのだが、ベルベットはロンクーの方を見る事も無くしゃがんで火打ち石を打ち、火を熾しながら言った。
「貴方の為に淹れている訳ではないわよ。私が飲むから淹れているだけで」
「…こんな夜にか?」
「寝る前に飲んだ方が落ち着くの。貴方が嫌なら来なければ良いでしょう?」
「そう言っている訳ではなくて、…その、……」
 ここまできちんと定期的ではないかも知れないが、彼女はどうやら就寝前に茶を飲むらしい。気にしすぎて逆にベルベットの機嫌を損ねてしまったのか、彼女がむっとした様な顔で漸くこちらを向いて言い返してきたので慌てて否定したものの、どう言って良いのか分からず言葉に詰まってしまったロンクーはそれでもベルベットから視線を逸らさなかった。逸らしたらもっと不機嫌になってしまう様な気がしたからだ。
「…その野草を余計に消費してしまうだろうし、水も余計に汲まなければならないだろう?」
「別に、苦にならないから気にしなくて良いわよ」
 本当は異性とこんな時間に会うのは迷惑ではないのかと言いたかったのだが、それを口にしてベルベットが意識しても悪いと思い、別の懸念を言うと、彼女はあっさりと気にしていないと言った。だがロンクーにしてみればこの行軍の中で野草を採取するのも手間であろうという罪悪感があるし、何より女に水汲みをさせるのは気が引けた。フェリアでは水汲みは男の仕事だからだ。
「だったら、次は俺が汲んでくる」
「あら、飲む前から次の話なの? 気が早いわね」
「あ…っ」
 なので何気なく水汲みを申し出るとベルベットがおかしそうにからかってきて、ロンクーは耳が熱くなるのを感じて押し黙った。そうだ、これではまた次も淹れてくれと言っている様ではないか。
「飲むのは構わないわよ、どうせ私も飲むんだもの。
 ルフレが言っていたけど、最近皆が疲れた顔をしているのに貴方は動きが良くて助かるんですって」
「そ、そうか…」
「…以前より穏やかな顔をする様になったわ。人間にも効くみたいで良かった」
 湯が沸いたのか、腰に下げていた麻袋から野草を二掴み入れたベルベットはどこか安心した様な目で鍋の中を見ながら言った。タグエルの彼女にとって効くものであっても人間のロンクーに効くものであるかは分からなかったのだろう。効こうが効くまいがベルベットには然程興味が無かっただろうが、折角淹れて飲ませたものが効かなかったなら彼女だって気分は良くない筈だ。
「…そうだ、この間天狼星を教えたでしょう? もっと分かりやすくて便利な星を言うのを忘れていたの」
「ん…? 便利な星?」
「ええ。天狼星がどれか覚えてる?」
「ん…、あれだろう?」
 そして、ふと思い出したかの様に空を見上げた後にベルベットが天狼星の事を聞いてきたので、ロンクーも空を見上げて該当する星の方角を指差した。一番明るい星を見付け出せば良いだけなので、比較的彼にとっても分かりやすい。その回答に及第点を出す様に頷いたベルベットは、それでもロンクーが少し離れた位置に立っていた為に無言で手招きをして横に立つように指示してきた。ちょっと躊躇ったロンクーだったが、足の震えを誤魔化す様に歩いて彼女の隣に立った。
「じゃあ、参宿…オリオン座は?」
「その、隣の…星が三連になっている…砂時計みたいな」
「その三連の星を直線で結んで、右斜め上にいくと、赤い星があるでしょう? 後星と言うのだけど」
「あとぼし? …あれか?」
「そう、それ。人間の呼称はアルデバランだったかしら。
 その後星からずっと真っ直ぐ、北の方角に行くと太一に辿り着くの」
「たいいち… ど、どれだ?」
「あれよ、周りにあまり星が無い所にある…北極星と言った方が貴方には分かりやすいのかしらね」
「あ、ああ、あれか、分かった」
 いまいち分からず咄嗟にベルベットの指の先を見る為に顔を近付けてしまったが、意識が夜空に向かっていたロンクーは自分が何をしたのか気付いていなかった。その代わり、きちんと覗き込めたのでベルベットが言った北極星には気が付けた。彼女の星の位置の解説は分かりやすいし、また聞いた事がある様な呼称できちんと言い直してくれる為にロンクーも何となく把握出来る。
「あの星は一年を通して時間によっても位置が変わらないから、基準にすると良いわ。北よ」
「…あれを基準に空を見れば位置が分かるのか」
「ええ、でも季節ごとの星も覚えておくと便利よ」
 天狼星に比べるとそこまで明るい星ではない北極星は、しかしベルベットが言う通り覚えておくと方角を知る為の基準にはなりそうだ。天体を良く知らなくても時期ごとに夜空は変わるという事は知っているので、位置が変わらないものがあるというのは有難い。
 ただ、季節ごとの星と言われてもロンクーには分からない。何せさそり座も名前しか分からないと素直に白状してベルベットに呆れられた程だ。そんな男であるから、覚えておくと良いと言われても教えて貰わねば分からない。そう思った次の瞬間、ロンクーは今自分がベルベットのすぐ側に立っている事に気が付いて慌てて半歩離れた。ただ、それは恐れではなく単に照れであったのだが。
「そろそろ良いかしらね。少し煮詰まってしまったかしら」
「あ…っ、す、すまない」
「これくらいなら大丈夫よ。貴方が苦いのを我慢すれば良いだけの話だし」
「う………」
 その事を特に気にする事なくベルベットがロンクーの側を離れ、鍋を火から下ろして蓋をする。漂う良い香りは確かに匂いだけで苦い事を教えてくれており、まだ飲んでもいないのに味を思い出したロンクーは自然と眉が寄ってしまう。そんな彼を見て、ベルベットは小さく笑った。
 少しずつ話をしている所為か、ベルベットの態度が以前に比べて柔和になってきた様に思え、ロンクーは何となく安堵する。殆ど喋った事が無かった彼女が何の気まぐれか自分にも安眠を齎す茶を淹れてくれて、こうやって星を教えてくれている事は、ある意味貴重な事の様にも思えた。ただ、矢張りロンクーにはベルベットに対しての申し訳なさを感じると言うか、気が引けてしまう。自意識過剰かも知れないが、自分に時間を割いて貰っている様な気がしてしまうからだ。
「新月の日は本当に星が良く見えるし、ゆっくり見れるけど、やっぱり月が出てきてくれた方が良いわね」
「…月が好きなのか?」
「言ったでしょう、タグエルにとって月は神聖なものなの。…死者の魂は月に還ると言われているから」
「………」
 何とも落ち着かない様な心持ちになったロンクーは、不意にタグエルにとっての月の存在を教えられて言葉が出なくなってしまった。彼女の顔が、一瞬にして翳ってしまったからだ。
 ベルベットの里は人間に滅ぼされ、同胞は今のところ見付かっておらず、だから彼女はひとりぼっちとなってしまった。否、この軍に居る以上は一人ではないのだが、人間とは余り馴染めないのか皆の輪の中に居る事が少ない。それは人付き合いが苦手なロンクーも人の事は言えないけれどもせめて戦闘の時は一人で立ち回る事は避けて欲しいと思う。ベルベットは、どこか命を投げ出そうとする戦いをしている様にロンクーには感じられたのだ。そう思ったのは何もロンクーだけではなく、他の者達も同様であったらしく、ルフレがそれとなく注意はしてくれたらしかった。
 ベルベットが言う様に、死者の御霊が月に還るのであれば、彼女の家族を含めた同胞は今は姿が見えない月に還ったのだろうか。だとしたら、月が出てきてくれた方が良いと言った彼女の言葉にも何となく納得がいく。ベルベットは家族が恋しくて、仮令直接見上げる事が出来なくても水面を通して見てしまうのではないか。だから、こんな夜に茶を淹れているに違いなかった。
「はい、どうぞ。いつもより濃いけど」
「ああ、すまない、貰おう」
 濾した茶をカップに注いだベルベットは台に置くのではなく直接手渡してきたのだが、ロンクーは本当に何の疑問も無く受け取った。気付いた時には既にベルベットは離れた後だったので赤くなったものやら足が震えたものやらで、誤魔化す様に湯気が立ち上るカップに息を吹き掛けたものの、耳が熱い。ロンクーのそんな苦労など全く知る筈もないベルベットはカップを口元へ運び、暫く香りを楽しんでいた。落ち着くのだろう。ロンクーもこの茶を飲めば心が落ち着いて、ゆっくりと眠る事が出来る。
「…この茶のお陰で、悪夢を見ない。だからちゃんと眠れているし、それで疲れも取れているんだろう」
「そう。良かったわね」
「お前も悪夢を見るのか」
「…里が滅ぼされた時の夢を…ね。…母の鼓動が弱まって、止まるまで聞いている夢を繰り返し見るの」
「………」
 恐らく故郷が滅ぼされた時の夢を見るのだろうとは思っていたが、その生々しい内容にロンクーも閉口せざるを得なくなる。今現在戦える彼女が母親に守られたという事は戦えなかった、つまり子供の頃の事であるのだろう。先日星を教えて貰った時も、子供の頃に母親に教えて貰ったから余り聞く事が出来なかったと言っていた。耳に伝わる母親の弱まる鼓動は、幼かった彼女に一生拭えぬ悲しみを植え付けたに違いない。それはロンクーにも痛い程分かる。彼も幼なじみを目の前で殺されたからだ。
 幼少の頃、貧民街で生きていたロンクーは、今と同じく愛想も何もない子供であったから友人など居なかった。それでもたった一人、仲良くしてくれた少女が居た。その少女が死んだ時の夢を、ロンクーも繰り返し見ては魘され、その度眠れぬ夜を過ごした。体の大きな男達が武器を手に抵抗出来ない自分達を襲ってくる恐怖、自分を庇った友人が腕の中で事切れた絶望、それらが綯い交ぜになって全身を襲い、ロンクーを長い事苦しめてきた。今思い出しても背筋が凍る程ぞっとする。
 だが、自分の苦しみとベルベットの苦しみが同じであるとはロンクーは思わない。彼女の苦しみは彼女のものであり、自分の痛みは自分のものだ。それでも理解する事は出来るし、こうやって静かに茶を飲む時間を共有する事は出来る。何よりベルベットは自分の事は漏らしてもロンクーに対して何故眠れないのかを未だに一言も尋ねてはこず、普段は厳しい態度を取るけれども必要以上に警戒はしない。詳細は言わずに眠れないと溢しただけで何となく察し、自分も飲むからと淹れた茶を飲ませてくれた事に、ロンクーは心底感謝していた。
「月が出る日は、お前が家族と会える日なのだな」
「…そうね」
「…早く見られる様になれば良い、な」
「………」
 だから直接見る事は出来なくても、半月前の様に彼女が水面に映った月を見られたら良いと、そう思った。思いがけずロンクーからそんな事を言われたベルベットは目を丸くして口を閉ざしてしまい奇妙な沈黙が二人の間を流れたけれども、気まずさを感じなかったのはロンクーだけではなかったらしく、ベルベットも特に何か言う訳でもなく黙って冷めかけた茶を口にしていた。ロンクーも漸く温くなった茶を飲んだが、何度飲んでもこれは苦い。ただ、先程ベルベットの過去を聞いて自分の過去も思い出し、ざわめいた心は、不思議にしんと静まり返った。風も吹かぬ水面の様に、微かに揺らめいて静寂を取り戻していた。
「…じゃあ、次は上弦の夜に。水汲みは任せて良いのね?」
「あ…ああ。今くらいの時間で構わんか」
「ええ、それで良いわ」
 飲み終わった後も暫く二人は静寂を味わっていたのだが、ベルベットが静かに次回の事を言ったのでロンクーもぎくしゃくとしながらだがしっかりと頷いた。あんなに温い茶であったのに、じわりと温められた体が睡眠をそろそろ欲していて、彼は欠伸を何とか噛み殺したのだった。



 朝の洗顔はぼんやりとする頭を覚醒させるには良いものであるし、そんな事を言っていられない時もあるが顔を剃る為に水場を訪れる男も少なくない。それはロンクーとて例外ではなく、熟睡したとは言え起き抜けの欠伸は出るもので、口元を手で隠しながら早朝の水場へ向かうとそこには既に先客が居た。
「よぉ、おはようさん」
「…早いな。おはよう」
 少し早めに目が覚めたのでまだ誰も水場には居ないだろうと近くに流れる小川の畔まで来たと言うのに、そこには頭から水を被ったのか前髪から水滴を滴らせ上着を着ていないグレゴが居た。側にある木に掛けたタオルを取り、ガシガシと頭を拭く彼の体にはいくつも傷痕や痣があり、数多の戦場を駆けてきた事を物語っている。
「…随分早いが、お前、こんな早くに一人で鍛練でもしていたのか?」
 どうやら水浴びでもしたらしいグレゴは深夜番をする事も多い為、こんな早朝に見掛けるのは珍しい。実際、ロンクーは朝のこの時間にグレゴを見掛けた覚えが無く、大体朝の食事配給が終わるか否かの時間帯に起きてくる姿しか見た事が無い。朝のこの時間に水浴びをするのは珍しいが鍛練で汗をかいたのか、それとも虫刺されの様な痕も見受けられるから気持ちが悪かったのか、不思議に思ってロンクーが首を傾げて尋ねると、グレゴはきょとんとした顔をした後に吹いた。
「ばーか、朝帰りだ朝帰り。野暮な事聞いてんじゃねえよ」
「………あっ、す、すまない」
 …どうやらグレゴは近くの街に繰り出して、早朝に戻ってきたらしい。ロンクーにはそういう事は無縁であるし、また考えもしない事であるから全く予想もしていなかった「朝帰り」という単語に数秒反応が遅れ、理解した瞬間に一気に顔が赤くなった。なるほど、それで暑くもないのに虫刺されの様な痕があるらしい。それに気が付き、思わずロンクーは顔を逸らしてしまった。
 女を買いに行く事は禁止されている訳でもなく、翌日の行軍に支障をきたす事が無ければある程度の自由を認められている。この軍に所属している者はほぼ全員良い年をした大人であるから、その辺りはルフレだって黙認している。買い物に出掛ける、酒を飲みに行く、そういう息抜きは必要だと言って、野営を離れる旨をルフレかフレデリクに申請すれば認められていた。勿論、女を買いに行く事もだ。健全成人男子であるならば性欲も発散させなければ鬱憤が溜まるとルフレも分かっているらしい。ロンクーの様に禁欲一辺倒の男は逆に珍しいらしいのだがそれが普通である彼には女を買いに行く者達の心境が良く分からない。
「お前だって昨日逢引きしてたじゃねえか。女が苦手な割に、やるなー」
「は…? な、何の事だ?」
「お、惚けやがって。見たぞー、ベルベットと寄り添ってたじゃねえか」
「あ…っ、ち、違う、あれはそういうのじゃないぞ?!」
 取り敢えず顔を洗う為に持ってきた桶に水を汲もうとしたその時、グレゴから記憶に無い事を言われてロンクーは怪訝な顔をしてしまったが、ベルベットの名を出されて動揺し、桶を流しそうになって体勢を崩しかけた。手をつき何とか耐えたが、桶を掴んだ腕は上腕まで濡れた。そんなロンクーを見て、グレゴは冷やかす様に笑う。
「そういうのじゃねえって、じゃあどういうのなんだよ」
「そ、その、…眠れなかったから、茶を飲ませてくれただけだ」
「ほー、あーんなに体寄せて茶飲むのかお前ら」
「あ、あれは、茶が沸くまでに星を教えて貰っていたんだ」
「星ぃ?」
 どうやらベルベットが指差した先を見る為に隣に立って覗きこんでいたところを見られたらしく、簡素に弁明をすると、今度はグレゴが怪訝な顔をした。苦しい言い訳と思われたのかも知れないが、嘘は吐いていない。
「方角を知る為にも星くらいは知っておいた方が良いと聞いたから、茶を沸かしている間に教えて貰ったんだ。
 昨日は丁度朔だったし」
「なーんで新月だったら教えて貰えるんだあ?」
「タグエルは月が神聖なものと考えるから直接見上げないらしい。朔ならゆっくり星が見られると言っていた」
「ほー。そりゃー初耳だな」
 朝の空気はまだ肌に冷たく、グレゴはすこし皺になっている上着をぱんと張ってから着て、頭にタオルを被せながら感心した様に聞いている。短髪とは言え乾いていない頭でこの気温の中に居れば風邪をひいてしまうからだろう。ベルベットと親しげに話していた彼であったからそんな事は既に知っていそうなものだがとロンクーは思ったのだが黙っていた。聞くのもおかしい気がしたからだ。
「それで?」
「それでって…それだけだが」
「なーんだよ、本当にそれだけかあ? しけこんだりしなかったのかよ」
「し、しけっ…」
 俗な会話を殆どしないロンクーにとってグレゴの質問は今度こそロンクーの首まで赤くし、折角水を汲んだ桶を足元に落とさせる程の威力を持っていた。よりによって靴を濡らして足元を冷やしてしまうなど、と妙に冷静に考えたロンクーは赤い顔のままグレゴを睨む。
「そういう関係ではない、し、…そ、そもそも、お前だって随分親しげに話していただろう」
「はあ? 俺が? いつだよ」
「いや…昨日…」
「昨日…? …あー、はーいはい、あれか」
 あの茶を飲ませて貰う時くらいしか話す機会が無いというのに下世話な事を言ってきたので、自分の方が親しげであった癖にと訳の分からぬ感情を籠めて言うと、グレゴは身に覚えが無いと言うかの眉を顰めて腕を組み逡巡したが、すぐに思い出したのか右手をぱたぱたと振って否定した。
「先月、日食があったろー? どうも日食初めてだったみたいでな、かーなりびびってたんだよ。
 で、たまたま俺が近くに居てなー。抱き着かれた訳だ」
「………」
「それでな、やけに避けられるから流石にちょーっと傷付くって話してたんだよ。
 単に照れてるだけだったみたいだけどなー」
「…そうか」
「そう睨むなよ」
「だ、誰がだ!」
 なるほど、先だっての日食はベルベットにとっても酷く驚く事であったらしく、それで痴態を晒した相手のグレゴを避けていたら、昨日彼に捕まった様だ。そこにたまたま自分が通り掛かっただけであるらしい。何となく安堵してしまったロンクーは、しかし喉の奥でおかしそうに笑ってからかってきたグレゴに思わず怒鳴ってしまったのだが、その反応が更に拍車をかけてグレゴの笑いを誘ってしまったらしく、声を上げて笑われてしまった。恥ずかしいやら腑に落ちないやらで耳を赤くしながらむっつりとした顔で黙ると、グレゴは上着の襟元を寛げながら苦笑した。
「大体よぉ、ベルベットだろうが誰だろうが意中の女が居たら女買いに行かねえっての。
 俺ぁそこまでふざけた男じゃねえぞー?」
「…そうか、…すまない」
 寛げた素肌に残された痕を見せながら言われ、気まずくはなったものの目を逸らせるのもどうかと思ったので僅かに苦い顔をしながら謝罪すると、グレゴは満足したのかきっちりと襟を元に戻した。イーリス軍に入ってからというもの、こういった俗な話を時折聞かされる様になったとは言え、矢張りロンクーは慣れないし恥ずかしさが勝る。他人に言わせれば潔癖であるという事なのだが、単に免疫が無いだけだ。
「それでお前昨日やたらと俺の事睨んでたのか。女嫌いとか言っててもお前もちゃんと女を好きになるんだなー」
「…に、睨んだつもりはなかったが」
「いやいやー、お前、あれは中々の眼光だったぞ」
「す…すまなかった…」
 睨んだつもりも無ければそもそもそんなに姿を見掛けなかった筈なのだが、無意識の内に目で追ってしまったらしい。居た堪れず、うう、と呻きながら片手で顔を覆い、男女の関係ではないと聞いてどこか安堵してしまった自分に何とも言えない表情を浮かべた。
「で、茶は昨日だけか? どうせなら飲ませて貰えよ」
「…次は上弦の頃と言われた」
「ほー、あっちから言ってくれたってかあ? やるなー」
「あ、あいつもどうせ飲むから、ついでだ」
「ついででも何でも良いじゃねーか。茶菓子でも持ってってやれよ」
「茶菓子…と言われても…」
「菓子じゃなくても何でも良いんだよ、喜びそうなもん持ってけ」
「わ…分かった…考えておく…」
 女相手は手慣れているグレゴから暗に手ぶらで女に会いに行くなと言われ、全く慣れていないロンクーは何を持って行けば良いのかさっぱり分からず、渋い顔になる。そんな彼を見て、グレゴはまたおかしそうに笑った。



 嗅いだ事がある様な香ばしい匂いに意識が覚醒し、重たく感じる瞼をゆっくりと開けると、どこかの天幕の天井が視界に入った。ぼんやりしている頭では状況が把握出来ず、ゆっくりと瞬きをしたのだが、体を動かそうとした瞬間に襲った痛みに濁った悲鳴が出た。
「づあ…っ!」
 脇腹を襲った痛みは彼が起き上がる事を妨げ、浮きかけた体が寝台に沈む。その痛みに喘いでいると、側に居たらしい人影が顔を覗き込んできた。
「あら、目が覚めたの? 良かったわ」
「な、こ、ここはどこだ」
「どこだ、って、救護用の天幕よ。覚えてないかしら、貴方、斬られて結構重傷だったのよ」
「……… …あ、…あぁ…そう言えば…」
 視界に入ってきたのはセルジュだった。女に顔を覗き込まれた動揺でどもってしまったが、簡素に説明されて思い出し、納得したくはなかったがせざるを得なかった。
 目覚めたばかりのロンクーには日付が分からないが、シュヴァイン要塞に攻め込み何とかフェルス将軍を打ち破ったものの、寝返った解放軍に要塞を取り囲まれそうになった。そこを何とか突破したが、イーリス軍を積極的に阻止しようとした者達が居なかった訳でもなくそれなりの混戦になり、ロンクーは不意を突かれて斬られてしまったのだ。普段の彼ならばそんな不覚を取らぬものを、バジーリオがフラヴィアと共にヴァルハルトの足止めに向かった事への懸念が大きくて心が乱れ、注意力が散漫になっていたのは否めない。この大事な時に、と自分の失態が腹立たしく、忌々しげに顔を歪めると、セルジュは側に置いていたのだろう杖を掲げた。
「…すまないな、礼を言う」
「うふふ、どういたしまして」
 柔らかな光が体を包み、塞がりかけていた傷が完全に治った感覚が齎され、ロンクーはセルジュに礼を言った。意識が無い状態の者に癒しの杖を振るっても、意識がある時に比べると回復は遅い。それならばと目が覚めるまでセルジュは待っていてくれたのだろう。しかし女が側に居るのは落ち着かないし、そわそわしてしまう。それを分かってくれている彼女はすぐに離れてくれたが、気まずい事に変わりは無い。
「起き上がれるかしら。差し入れがあるのよ」
「差し入れ…?」
「ええ、さっきベルベットちゃんがお茶を持ってきてくれたの」
 もう一度眠ろうにもセルジュが居る事で眠れなかったし、夢見も悪くなってしまいそうなのでどうしたものかと思っていると、彼女はおもむろにカップを差し出してきた。失っていた意識をこちらに引き戻してくれたのはどうやらこの茶の香りであったらしい。そんなわざわざ、とロンクーは困惑しながらも傷の痛みを押し遣りながら起き上がると、セルジュは彼のすぐ側にカップを置いてくれた。手渡しはロンクーにとってハードルが高いと思ってくれたのだろう。
「今日淹れる約束をしていたのですって? いつの間にそんなに仲良くなったのかしら」
「っ、 べ、別にそういうのではなくて、俺もあいつも夢見が良くないから飲ませて貰っているだけだ」
「夢見…? …ケリーさんの事?」
「………」
 考えたら今夜は上弦の月の日で、茶を淹れて貰う代わりに自分が水を汲んでくる約束をしていたのに、結局はベルベットに全てさせてしまった上にここまで運ばせてしまった事を申し訳なく思っていると、セルジュがからかう様に笑ったので、ロンクーは一口含んだ茶を吹きそうになってしまった。慌てて弁明すれば、セルジュの口から懐かしい名前が溢れて彼は沈黙してしまう。その沈黙は、肯定を表していた。
 ケリーは幼い頃のロンクーを庇って死んだ少女の名だ。セルジュは以前フェリアを訪れた時、ケリーの両親が賊に襲われていた所を助け、ケリーとロンクーの事を聞き及んだらしかった。そして今はもうケリーの両親が自分を憎んでも恨んでもいない事、彼が貧民街から姿を消してしまったのは自分達の所為だと責めている事を知った。
 親も居らず、頼れる者も居らず、友人は娘一人だけであった筈の少年を責め立て、恐ろしい目に遭って心に傷を負ったのに命が助かった事を罵り、果てはお前が死ねば良かったとまで言ってしまった事を後悔していると聞いた時、ロンクーはずっと胸の内にあった自責の念が僅かに軽くなったのを感じた。だがケリーが死んだのは紛れもなく自分の所為であるし、これからもその事実は胸の内から消える事は無いだろう。娘が命懸けで守った子に酷い事を言ってしまったとケリーの母親が泣いていたとセルジュが教えてくれても、責められるのは当然だとしか思えなかった。それでも、寒い思いをしていないか、ひもじい思いをしていないか、ちゃんと生きていてくれているかと二人が案じていたと聞き、許されても良いのだろうかと思った。
「部外者の私が口出しする事ではないと思うけれど…、もう貴方は苦しむ必要は無いんじゃないかしら」
「…そうは思うのだが、中々、な…」
「貴方を案じてくれている人が居るという事を忘れないで頂戴ね。わざわざ持ってきてくれたのだから」
「…だ、だから、あいつにとってはついでな訳で」
「私達人間を極力避けるのに、約束をしたからとわざわざ救護天幕まで持って来るのがついでなのかしら」
「………」
「…ベルベットちゃんなりに心配してくれたのよ。お礼を言っておくのね」
 自分の事を義理堅い、と評した事のあるベルベットも余程義理堅いとロンクーは思うのだが、セルジュが言う様にもし容態を心配してくれていたなら、嬉しい、様な気もする。ただ、今日は何も話さなかったから次の約束は出来なかった。そんなものは直接聞けば良い事なのだが、話し掛けるのはまだ気恥ずかしい。たった一月足らずの間にそう思う様になってしまったのもおかしな話だと、温い茶を啜りながらロンクーは思った。相変わらず茶は苦かった。
「不思議な香りのお茶だけど、それを飲むと夢見が良くなるの?」
「良くなると言うか…夢も見ずに深く眠れる」
「まあ…そんな野草茶があるなんて知らなかったわ。ベルベットちゃんも貴方と同じで眠れないのかしら」
「…里が滅ぼされた時の夢を見ると言っていた」
「…そう…」
 苦い茶を味わうのではなくて飲み干したロンクーにセルジュが興味津々に尋ねてきて、彼は自分だけではなくて他の者もそういう効能がある野草があるとは知らないのだと確認する。人間の知識とタグエルの知識は同じ様で違うし、実際ベルベットが教えてくれた星々の名をロンクーは全く聞いた事が無かった。
 そしてベルベットの里の事についてロンクーがぽつりと言及すると、セルジュは目を細めて微かに視線を手元に落とした。自分達がやった事ではないとは言え、人間がタグエルの里を滅ぼした事は彼らの胸に罪悪感を生む。その夢を見ない為に、ベルベットはあんな夜に茶を沸かしては飲んできたのだ。恐らく、随分と長い間。
「先月の満月の日に、初めて飲ませて貰ってな。あれ以来悪夢を見ない」
「そんなに長期間効能があるの?」
「いや、下弦の夜と朔の夜にも飲ませて貰った。定期的に飲むらしい」
「あらまあ、何だか逢引きしているみたいね」
「何でそうなる」
 グレゴと同じ様にセルジュまで逢引きなどと言ってきたので、赤くなりつつもげんなりした顔でロンクーは溜息を吐く。色恋沙汰にはとんと縁が無かった彼にとって、そんな事を言われても反応に困るのだ。自分でも夜に男女が会うのは如何なものなのかと思っていたから余計に顔が赤くなる。
「今日が上弦だから、次はまた満月の夜になるのかしら」
「…だと、思うが…」
「? 何か不都合でもあるの?」
「いや…、タグエルにとって月は神聖なものだから直接見る事はしないらしくて…」
 あの満月の夜、ベルベットは本当に夜空を見上げはしなかった。池に浮かんだ満月の姿を眺めていた彼女は、恐らくその月に御霊が還った家族の事を思い出していたのだろう。しかし水面に映る月よりも天に浮かぶ月の方が美しく見えたので、どうせなら天上の月を見上げた方が家族とも会いやすかろうと思った。
「あの日の満月は綺麗だったから勿体無くてな。俺がどうこう言えた事ではないんだが」
「…ロンクー、ちょっと良いかしら。それ、ベルベットちゃんに言った?」
「…? 何をだ?」
「だから、月が綺麗って」
「…今日の月は綺麗なのに見ないのは勿体無いという様な事は言った様な気がするが…?」
 お節介とは分かっていても、茶を飲ませてくれた礼としてその日の月がどういうものであるかを教えられたら良いと思っていたロンクーは、しかし小首を傾げたセルジュに話を中断させられた。どこか真剣な目付きをしている彼女に多少動揺しつつも答えると、セルジュは微かに苦笑した。
「タグエルの方々にとってもそうであるかは知らないし、結構古風な言い方だから知らない人も居るけれど…
 二人きりの時に月が綺麗と言うのはあなたが好きという意味合いがあるのよ」
「……… …は、はぁ?!」
 そして聞かされた言葉の意味に、ロンクーは一気に首まで赤くして素っ頓狂な声を上げた。何気なく言った言葉がそんな意味を持つとは全く知らなかった彼は、改めて無知は良くないと明後日な方向の事を考えてしまった。なるほど、それであの時ベルベットは目を丸くして自分を見ていたらしい、と口元に手をあててロンクーは押し黙る。申し訳ない事をした…、と今思っても仕方ない。
「い、いや、あれは…」
「貴方の怪我を随分心配していたわよ。良かったわね相思相愛で」
「………」
 途方に暮れた様な顔でセルジュを見れば、彼女はうふふと笑いながら杖を片手に立ち上がった。天幕を辞すつもりらしい。おやすみ、とだけ言って天幕を後にするセルジュの背を見送り、一人残されたロンクーは空になったカップを手に呆然としていたのだが、飲んだ茶が冷えきっていなかった事に暫く気が付けなかった。



 毎夜月が満ちる様に、体力も回復し難儀無く体を動かせる様になったロンクーは、特に大事をとるという事も無くそのまま行軍を共にしていた。イーリス軍にとって彼は一応フェリアからの客将になるのだが、バジーリオからみっちりこき使ってやってくれと言われているからとルフレがさも当然であるかの様に言ったので従っている。それは先のペレジアとの戦で従軍する時にバジーリオが言った言葉だが、ルフレの中では未だに効力があるものだと認識されているらしい。
 ただ、ルフレも情け容赦が無くてそう言った訳ではなくて、腕利きの者が一人でも多く居た方が良い事、今討伐に向かっているソンシン国の宗主レンハが率いる軍の剣筋はロンクーのものと似ている事、何よりバジーリオもフラヴィアも居ない今、イーリス軍におけるフェリアの代表代理がロンクーである事を考慮した上での事だった。彼としてはそんな大それたものにはなれないと辟易したけれども、バジーリオが自分の後継者だと公言していた以上は従うしかない。
 レンハ軍との戦いはあと二、三日の内だろうというその日は満月だった。救護天幕に差し入れて貰った茶のお陰で悪夢は見なかったし、ゆっくり休めたからこその体力の回復だったのでベルベットに礼を言いたかったのだが、彼女は相変わらず人間が集まる所には余り近付こうとしない為に所在が分からなくて果たせなかった。満月の夜に、と約束した訳でもないからいつも茶を飲ませて貰った時間帯に姿を見せるのは図々しい様な気もしたし、その時間帯の見廻りの当番が回ってきており、行けそうにないなと思っているとグレゴがその番を変わると言ってきた。
「俺もちょーっと嫌な夢見そうでなー。気晴らしに起きときてえんだよ」
 余計な気遣いは不要だと言ったロンクーに、グレゴは苦笑しながらそんな事を言った。詳しい事は知らないし、ロンクーも尋ねたりした事は無いので分からないが、長らく戦場で過ごしてきた彼にも自身を苛む過去の一つや二つはあるのだろう。ロンクーがそうか、とそれ以上不服を言わずにいると、グレゴは配給で配られた林檎をロンクーに寄越した。曰く、俺は食わねえから茶菓子代わりに食え、との事だった。食欲はそれなりに旺盛なロンクーは自分に配給された林檎は食べてしまっており、林檎なら食べてくれるだろうか、と、逡巡した後に有難く貰うと、グレゴは何とも言えない様な表情で微かに口角を上げて肩を竦めてみせた。
「いつ誰がどこでどうなるか分からねえからなー。お前も、ちゃーんと言いたい事は言える内に言っとけよ」
「…そうだな。礼を言う」
 どこか実感が籠った口振りに、しかしロンクーはその裏に潜むグレゴの胸の内を尋ねようとは思わなかった。誰にだって聞かれて答えたくない事はあるものだし、ロンクーだってケリーの事は余り話したくない。特にグレゴはバジーリオとは旧知の仲であったらしいから、バジーリオの安否が分からない今、色々考えてしまうのかも知れなかった。ロンクーもその思いは良く分かるので、何も聞かなかった。
 数日後に控えた戦闘に万全の態勢で挑む為、夜の野営内を歩く人影はいつもより少なかった。その中を、ロンクーは矢張り愛剣を携えて歩く。僅かに曇る空はそれでも南の空へ昇ろうとする月の光を遮りはせず、その柔らかな光を地上に注いでくれていて、今が戦時中だという事を忘れさせてしまうかの様な不思議な力を帯びていた。勿論そんなものは錯覚であるし、すぐそこまで戦の音が忍び寄っている事も紛れも無い事実ではあるが、剣に生きるロンクーであっても戦は無いに越した事はないと本気で思っている。強さを求める者の考えとしては矛盾しているとは分かっているけれども何も争いの中でのみ強くなるものでもないだろう。戦慣れした者達からは甘えた考えと笑われてしまうかも知れないのだが。
 ぼんやりとそんな事を考えていたロンクーは、調理スペースへと向けていた足を不意に止める。前方から誰かが歩いてきたのが見え、その人影もロンクーに気が付いたのか立ち止まった。
「…水を汲みに行くのか?」
「…そうよ」
「俺が汲んでこよう。…お前も行くか?」
「…月が見たいから行くわ」
 人影は、水を汲む為の桶を手にしたベルベットだった。ロンクーは前回自分が水を汲むと言ったのに負傷した所為で果たせなかったのでその桶を指差し、汲んでくると口にしたものの、彼女だって家族の御霊が還った月は見たかろうと思い同行するかを尋ねると、ベルベットは静かにゆっくりと頷いた。
「…林檎、食べなかったの?」
「うん? いや…、いつも茶を淹れて貰っているから、何か持って行…った方が良いと思ってな」
「そう。気にしなくて良いのに」
 桶の中に持っていた林檎を入れるとベルベットが珍しそうに尋ねてきたので、ロンクーは寸でのところで言葉を修正して答えた。持って行けと言われた、などと言えば彼女の機嫌を損ねてしまう様な気がしたからだ。他人に言われたからやる、のではなく、自分からやった、という体裁を好む女の様な気がした。
 要塞からはずっと、ヴァルム大陸を縦断する様な形で流れている川沿いに南下しているので、水に困る事は余り無かった。野営から程近い位置に流れる川は近辺の村や街を潤し、繁栄させてきた様で、どんな国、大陸であっても川沿いというものは栄えるものであるらしいとロンクーに教えてくれていた。
 さらさらと流れる川は増水している風でもなく、淡々と下流に向けて流れていっている。ぽっかりと浮かぶ月は、その川の水面も美しく照らしていた。ロンクーと離れて歩いていたベルベットはいつもの様に直接見るのではなくて辿り着いた川に落ちた月の姿を見て感嘆の溜息を吐き、それを聞いたロンクーはちらと空の月を見る。月の無い夜というのは本当に暗く、闇夜と呼ぶに相応しいのだが、今日の様に満月が照らす夜はベルベットが持っているランタンでさえ不要と思わせた。
 水草が生い茂る足元を慎重に踏み締めながら、林檎を取り出した桶に流れる水を汲み上げる。幸いな事にこの川の水は濁っておらず、茶を沸かして飲むには差し支えない。その清流の上に揺らめきながら映る月を、ベルベットは言葉も無くじっと見ていた。
「家族には、会えたか?」
「…ええ。他の皆にも、ね」
「…そうか」
 ベルベットの記憶の中の家族を、里の者達を、思い出させてくれる月は、今日もロンクーの目には美しいものとして映る。高い位置に昇ろうとしている満月は既に銀に色を変え、禍々しい紅の化粧を落としていた。どことなく不気味さを覚えるのでロンクーはあの色が余り好きではなかったが、ベルベットから死者の御霊は月に還ると教えられてからはケリーもそうなのだろうかと思う様になり、誰かの大事な者達の御霊が全てあの天体に還っていると思うとどんな色の月でも綺麗なものだと思える様になった。
 水を汲んだ後、暫く無言で水面の月を眺めていた二人は声を掛けた訳でもなく合図をする訳でもなく、同じタイミングで踵を返した。不思議な事だがお互いの間の取り方というものが何となく分かってきており、たった三度、共に茶を飲んだだけなのに、そういう事もあるものなのだなと自分の事ながらロンクーも妙な感心をしていた。
「傷はもう良いの?」
「ん…、もう大事無い。剣もちゃんと振れる」
「そう。良かったわね」
「…心配してくれたそうだな。礼を言う」
「…別に、お礼を言われる筋合いは無いわよ。セルジュも居たからそんなに心配する必要も無かったし」
「それでもわざわざ茶を持って来てくれただろう。…良く眠れた」
「…ふうん」
 歩きながら先日の傷口の具合を聞かれ、心配を掛けた事に礼を述べると、ベルベットは素っ気ない返事をしたもののまんざらでもなさそうだった。今は杖を使える様になっているセルジュがついていたので大した心配はしなかった様だが、それでも尋ねてきた辺り、結構な大怪我をしていたから心労を掛けてしまったのだろう。気を失う程度には重傷であったから当然かも知れなかった。
 肩を並べて歩ける様にはなったが、まだ気恥ずかしさはある。それでも間が持たないという事は無く、沈黙すら楽しめる様になったのだから大した進歩だとロンクーは思う。ベルベットは必要以上に踏み込んでこないし、自分の過去の事は話してもロンクーの過去を尋ねてきた事は一度も無かった。たったそれだけの事だが、ロンクーにとっては酷く有難い事であるし、また重要な事だ。
 竈のある調理スペースまで、他の誰とも遭遇しなかった。皆、数日中の戦の為に英気を養っているのか、それとも何事かが起こっても後悔せぬ様にと大事な者との語らいをしているのか、それはロンクーには分からない。ただ、こんなに綺麗な月の夜に外に出ていないのは勿体無いと思った。
「少しは、覚えられたかしら」
「…何をだ」
「星よ。また季節が変わるから見える星座も変わってくるけど」
 竈に火を熾しているベルベットの傍らで、鍋の中に水を入れていたロンクーは彼女の問い掛けに曖昧に頷いた。時間帯によって見える位置は変わるとは言え見える星は余り変わらないと思って見ていたが、本当に少しずつ見える星が変わっていくので、基準として覚えると良いと教えて貰った北極星は役に立っている。
「春になると、また別の星で三角形が出来る様になるの。少しは見えてくる時期かしら…」
「…今日は見上げられない、のだったな」
「そうね。いけない訳ではないのだけど、もう習慣になってしまっているから」
 教えて貰った星々で象られる三角形とはまた違う星で、今度は春の夜空に三角形が描かれるらしい。しかし満月が出ている為に南の空を見上げられないベルベットは、鍋を火にかけてから月を直視するのを避ける様に北の空を見た。
「…そう言えば、俺達人間にはまた別の言い伝えがあってな。死んだ者は星になるんだそうだ」
「…そうなの?」
「本当かどうかは俺には分からんが…そう信じて夜空を見ている奴も多い」
「そう…、月を直視しない私達とは全く違って、貴方達は夜空を見上げるのね。…何だか面白いわ」
 剣とは別に常備している小型ナイフで茶を沸かしている間に林檎を剥き始めたロンクーは、そこではたと思い出した事を言った。ベルベットの言った「死者の魂は月に還る」というタグエルの言い伝えは知らなかったが、人間の「死んだ者は星になる」という言い伝えは知っていたので、星座や星に詳しくなくてもたまに夜空を見上げて広い夜空のどこかにケリーも居るのだろうかと考えた事もある。
 鍋の水が沸いたタイミングで、ベルベットが野草を入れる。剥いた林檎を八等分にして芯を除き、桶に残った水にさらして洗ったものを一つベルベットに寄越すと、彼女は有難うと言って一口齧った。立ったまま食べるのは行儀が悪いが、今更だ。ロンクーも一口齧り、強い酸味と良い具合に口に広がる甘さを楽しむ。甘味は苦手だが、果物の甘さはそれなりに好きなので丁度良かった。
 辺りに漂う野草の香りが鼻に心地良い。心が落ち着くのはその茶の効用かと思っていたが、飲まずともこうしているだけで不安も恐れも感じなくなっていたロンクーは、それでも何と言って良いものなのか分からなかった。女がすぐ側に居るのに足が竦む事も無く、あまつさえ穏やかな気分になれているという事はケリーの一件以来無かった事であり、その事に彼自身も驚いているのだが、それを伝えたところでベルベットには何が凄い事なのか分かって貰えそうにもない。
「はい、どうぞ。熱いから気を付けて頂戴」
「ああ、貰おう」
 いつもの様に濾した茶をカップに入れて寄越してくれたベルベットに、もうロンクーは躊躇いなくそのまま受け取る。これも、他の女相手では到底無理な芸当だ。カップの中の茶に息を吹きかけながら、彼はぼんやりそんな事を考える。しかしどう言ったものか分からず押し黙っていると、一つ貰うわねと桶の中の林檎に手を伸ばしたベルベットが取り出してもじっと視線を桶の中に注いだままでいるのを見て、咄嗟に言葉が出た。
「…今日の月は綺麗だな」
「……… …そ、そう、ね」
 一月前の満月の夜、意味も知らずに言ったロンクーのその言葉にベルベットは目を丸くしていたから、多分彼女にも意味が通じるだろうというある種の賭けの様な心の内で言ったが、どもって頬を赤くしたのを見る限りどうやら通じたらしい。言ったは良いものの、ロンクーも恥ずかしさが今更先行してきてしまって耳まで赤くなってしまった。
「…また星を教えてくれ。俺は剣以外の事は良く分からん」
「良いけど…私はタグエルよ?」
「それがどうかしたか」
「な、何でもないわよ!」
 あまりにもロンクーの態度が堂々としていたからなのか、ベルベットはカップを持ったままぷいとそっぽを向いてしまった。怒っているのか、照れているのか、鈍いロンクーには判別がつきかねたけれども、少なくとも彼女が立ち去らずにそのままそこに居てくれている事に安堵していた。
まだ彼女の事は良く分からないし、どういう事を喜ぶのか、どんな事で怒るのか、もっと知りたいという欲求はある。それは多分、「月が綺麗」と言わせてしまう程の力を持つ感情ではないかとロンクーは思う。きっと何の気も無く与えてくれたのであろうベルベットが淹れた茶の香りは、ロンクーの閉ざされた心の扉の隙間を擦り抜け、膝を抱えて蹲っている彼の元まで届いた。のみならず、恐る恐る扉を開けて外を見た彼に夜空の美しさを教えてくれた。そんなベルベットに、今日もお前の家族の御霊が還った月は綺麗だと教えてやりたい。勿論、その言葉に想いを籠めて。
「…今度、フェリアの茶も飲んでみないか。味は保証する。美味いぞ」
「…貴方が淹れてくれるなら、良いわよ」
「そうか。…なら、次の下弦の夜に。…構わんか」
「…ええ」
 フェリアは寒さ故に酒の文化が花開いた国だが、酒と同じ程紅茶も飲まれている。ロンクーも茶と言えば紅茶だ。フェリアの茶でも彼女と共に飲むならこの野草茶を飲んだ時と同じ様に穏やかな気持ちになれる気がして、ロンクーは少し考えたが結局次の約束を取り付けた。それは即ち「その時まで死なない」という約束でもあり、ベルベットも承知した様に頷いた。その返答にロンクーは心の底からほっとして、漸く手の中のカップの茶を煽った。緊張の所為か味など全く感じなかったが、その温かさはじわりと全身に浸透していった。



 その後のイーリス軍では新月、上弦、満月、下弦の夜に茶を飲みながら夜空を指差し談笑する二人の姿が見られる様になり、その光景は終戦まで続き、終戦後も西フェリア城で度々二人が睦まじく寄り添って天体観測をする姿が目撃されたそうだ。