As you like,my lady!

 着慣れない、黒い服を身に纏ったは良いものの、引き締まった思いなど全く無く、出るのは重たい溜め息ばかり。体格の良い彼がその服を着ればどちらかと言えば危ない仕事をしているのかと思われてしまうかも知れないし、実際そう見えた。
「……帰りてぇ……」
 根無し草の彼には帰る場所など無いと言うのに、思わず低く漏れた彼の呟きはしかし、その場で空しく消えた。



「お早う……御座います、お嬢サマ」
 使った事も無い様な言葉遣いを強いられるのもまた彼の気分を重くしている一因で、ぎこちなく挨拶をすると目の前の少女は彼の姿にきょとんとしたが、すぐに笑顔になって返事を寄越した。
「おはよう! 新しく来たひつじさんだね? ノノがノノだよ! よろしくね!」
「いやー、羊じゃなくて執事……です」
 冗談なのか素なのか彼には分かりかねたが、取り敢えず訂正をしておくと、少女は――ノノはひつじさんでしょ? と小首を傾げてきた。どうやら発音が上手くいっていないだけらしい。
 丁寧な言葉遣いもスーツも慣れていない彼、グレゴは元はこのノノが住まう屋敷の周辺の警護の為に雇われていた単なる傭兵だった。そんなグレゴが何故執事の真似事をする羽目になったかと言うと、彼を雇っていたこの屋敷の家令(執事よりも立場が上の者。財産管理を行う)が勝手に執事にしてしまったからだ。勿論知識も教養も無いグレゴは全力で拒否をしたが、家令は困った様な顔をして言った。曰く、この屋敷の主人であるところの少女は自由奔放で、故に同じ様に奔放に生きてきたであろうグレゴと気が合う筈であろうから面倒を見てやって欲しい、との事だった。
 この屋敷に住み込みで働く者は半数以上は人間ではなくマムクートと呼ばれる種族の者達であり、独特な生活スタイルを持っているものだから、試用期間中は外部の接触をほぼ絶たれていたグレゴは、その依頼を受け入れなければ解放してもらえないのだろうという事も何となく分かっていた。ただ、昔からこの屋敷でノノの両親に長年仕えていた者達は粗暴な言動を好まないから、今日こうやってノノの前に立つまでにかなりの指導を受けさせられた。言葉遣いや立ち居振る舞い、ある程度の教養、執事としての一日の流れを徹底的に叩きこまれ、何で傭兵なのにそんな事やらにゃいかんのだと憤る日々を送った。逃げ出さなかったのは多額の報酬、それとは別に与えられる酒があったからだ。この屋敷の現在の主であるノノは酒を飲まないから、ずらりと酒瓶が並べられたセラーを見せられては心が揺らぎ、結局引き受けてしまって今に至る。執事というものは食器と酒類の管理者でもあるから、本数の制限はあれどもグレゴが望めば飲みたい酒のボトルを開けさせてもらい、彼は就寝前に必ず翌日に響かない程度に飲酒していた。
「ルフレがね、今日から来たひつじさんはめいっぱい遊んでくれますよって言ってたの。だからノノ、すーっごく楽しみにしてたの」
「そ、そうですか……」
 ノノの言葉を聞いてグレゴは引き攣りつつも辛うじて笑みを見せたが、あの家令は何つー事吹き込んでやがんだ、と内心苦々しく呟いていた。世間一般的に言えば、執事は遊び相手ではない。しかしノノにとっては同類なのだろう。これから先が思いやられる、と朝から何度吐いたか分からない溜息をノノに気取られぬ様に吐き出すと、躾けられた通り恭しくお辞儀をして言った。
「本日よりお嬢様のお側にお仕えする事になりました、グレゴと申します。どうぞお見知り置きを」
「グレゴっていうの? よろしくね!」
「はい……」
 何でこんな子供相手にこんな言葉遣いせにゃならんのだ……と彼はとても頭が痛かったのだが、仕事だと自分に言い聞かせた。今日から本格的に、彼の執事業が始まろうとしていた。



「はー……」
 身に纏った黒いスーツの襟元を寛げながら、グレゴは深い溜め息を吐く。スーツを着る様になって半月が経つが、体が未だに慣れる気配が無い。パリッとした糊、きちんとアイロンがかけられたワイシャツはボタンを一番上まで留めねばならないし、スーツもボタンは全て留める決まりだ。この屋敷に勤める様になるまではそんなきちんとした服装を強いられた事が無かった彼は、体にジャストフィットする様なそのスーツが息苦しく、また着る度に自分に似合わないと自覚する。そもそもこの屋敷を警護するだけの傭兵であった自分が、何故こんな畏まった格好をせねばならないのかという困惑もある。出来るなら今すぐ脱ぎ捨てて、適当なシャツを着て寛ぎたい。しかし、今の彼にはそれが許されるのは寝る時のみだ。それ以外は、似合いもしないスーツ姿でいなければならない。彼は僅かな休憩時間に寛げた襟元を戻すと、軽く頬を叩いて気合いを入れた。午後からの「仕事」が始まろうとしている。
「あっ、グレゴ、ごはん食べたー? ねえねえ、何する? 木登りはダメなんでしょ?」
「スカートで木登りは感心しね……しませんね」
 食事はとうに終わったらしい彼の主人は、無邪気に彼に笑いかけて何をして遊ぶか尋ねてきた。本来ならば食事の給仕というものは執事の仕事である筈だし、実際グレゴが執事というものになって暫くはきちんと給仕をしていたのだが、そうするとノノは何故か一緒に食べようと言ってくるし、食事に集中しない事が多かった為、家令であるルフレと相談して給仕はメイド達にさせる事にしていた。だからノノより先に食事を済ませて給仕をする立場である筈のグレゴよりも早く彼女が食べ終わっていても何ら不思議な事ではない。ただ、本末転倒だと思う事はある。
 執事となってからは色々な遊び相手を務めてきたが、高い所が苦手な彼は木登りを禁止している。何かあったとしても苦手な高所では対処出来ないし、万が一怪我でもされたら自分の責任であるからだ。しかし、ノノは高い所を好んだ。
「良いですか、お嬢様はお嬢様なので、はしたね……ない事はお止めになってください」
「木登りははしたないの?」
「はしたないです」
 遊び相手である以上はこの窮屈なスーツで走り回らねばならないし、グレゴであっても一目で上等な生地の仕立てだと分かる様なノノの服を汚させるのはいくら何でも避けたい。
「じゃあー、今日はおいかけっこね! 竜おいかけっこ!」
「げっ……」
 ……きた、と彼は引き攣った顔になり、硬直した。人間ではなくてマムクートであるノノは竜石というものを使うと、黄金色に輝く竜になる事が出来る。その姿のままこちらを追い掛けてくるというのが竜おいかけっこだ。これが彼にはひどくしんどい。体力的にもしんどいし、この格好で走り回るのが何よりしんどい。この窮屈な――実際は彼の体のサイズに誂えられているのでそこまで窮屈ではないけれど、着慣れていない彼にはとても窮屈に感じてしまうだけなのだが――スーツを着たまま走り回るのは、ある意味拷問と言えた。
「……その、お嬢様、俺……じゃなかった、私はこの格好ですので、走り回るのはちょーっ…と…」
「えー? じゃあ脱いじゃえばいーよ!」
「良くねぇよ」
 この誂えを脱いでしまえば、彼は単なる男だ。ただでさえ押し付けられた執事という立場は彼にとって縁の無いものであり、身分の高い者と接する機会もあまり無い。だから主であるノノの前でこの服を脱ぐ事、普段使いの話し方は罷りならぬと思っているのだが、使い慣れない言葉遣いをしていると気を抜けばぼろが出る。実際今出てしまった。半月、否、実際はそれ以上の期間使っている筈なのに、無理をしているという事がばればれだ。
「ノノが良いって言うんだから良いよぉ」
「……ではその遊びには応じられ……ません」
「むぅー、グレゴのけち!」
 膨れた顔で不満を漏らしたノノに対し、けちで結構、という言葉は辛うじて飲み込んだ。ぐっと我慢する事をこの年で漸く覚えるなんてな、と変なところで彼は己の成長を噛みしめる。
「じゃあ、何して遊んでくれるの? あれしちゃダメ、これしちゃダメ、って、ずーっと言うでしょ? 何ならいいの?」
「あー……」
 彼は、子供の遊びなら一通り分かる。昔は幼い弟の面倒をずっと見ていたから、大抵の遊びはやった。しかし、それは全て「男の遊び」であり、決して「お嬢様の遊び」ではない。故に、彼はこのお嬢様と何をして遊べば良いのかは分からなかった。今までにも色々な遊びをやってきたけれども残念な事にそれらは全て「男の遊び」であったし、日が暮れて屋敷に戻ればハウスキーパーを始めとするメイド達から散々嫌味を言われた。
 何より、彼女が提案する遊びは全て彼の格好ではつらいものがある。身に張り付く様なシャツも、きちんとボタンが留められたスーツも、首を絞めるタイも、全てが彼にとって煩わしいものでしかなかった。煩わしい服を着た上に、無理難題を言う主の相手だ。否、彼女はそんな事を言っているつもりはないだろうけれども、彼にとっては無理難題だ。やってらんねぇよ、と彼が苦い顔になるのも、無理は無かった。しかし、その顔が彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。
「……もう、いいもん。一人で遊ぶ」
 子供というのは、大人の感情を感じとるのに敏感だ。マムクートであるノノはグレゴより遥かに年上だが、見た目同様子供だから、彼の中の煩わしさを感じ取ってしまったらしい。
「……お一人では危険ですので」
「危険じゃないもん! ついてこないで!」
「………」
 拗ねた様に顔を歪め、いー! と歯を見せたノノは、グレゴに背を向けて走り出してしまった。ついてくるなというのが命令なら聞かねばならないが、しかし彼の仕事は執事とは名ばかりの彼女の遊び相手であり、護衛だ。ほんとどうしろって言うんだよ……、と頭痛がしてきた彼は、今度こそ頭を掻き毟って叫んだ。
「……っあー、もう、やってられっかぁ!」
 言葉遣いも立ち居振る舞いも格好も、厳しいハウスキーパーに散々罵倒されながらも仕事だからと思って窮屈な格好のまま子供の守りを我慢してきたのに、こうだ。彼も我慢の限界で、ついに堪忍袋の尾が切れた。
「おいこら待ちやがれ!」
 襟元のタイを外して地面に叩き付け、スーツのボタンを引き千切って脱ぎ捨てながら、彼は全力で走り出した。それはかなりの形相で、その怒号に驚いて振り向いたノノが明らかに怯えた表情を見せて走るスピードを速めた程だ。
「おいこら待てっつってんだろーが!」
「や……やだー! こわいよー!」
 しかしいくら体力はノノの方が上とは言え、小さな彼女と成人男性であるグレゴの走る幅は倍近く違い、程無くして彼女の細い腕は彼の大きな手にしっかりと掴まれてしまった。
「やー! はなして、はなして!」
「もー我慢の限界だ、何が悲しゅうて子供のお守りで嫌味言われたり我儘に付き合わにゃならんのだ! こちとら好きで執事とかなった訳じゃねーぞ!」
「う、う、うわあぁぁ〜ん! の、ノノだって好きでおじょーさまなわけじゃないもんー!」
 力を込めて掴まれた腕が痛かったのだろう、彼女は小さな手で自分の腕を掴むグレゴの手を叩きながらぼろぼろと涙を溢した。その涙に、彼ははっとして慌てて手を離す。離した彼女の白い腕は、くっきりと彼の手の形に赤くなっていた。
「わ、悪ぃ」
「なんでー! なんでおじょーさまだったら木登りしちゃいけないの! なんでスカートで走ったらはしたないって怒るの! みーんなノノに意地悪ばっかり、みんなきらい、だいっきらい!」
 ばつの悪い顔でグレゴが咄嗟に謝ると、小さな主は今まで溜まっていたのだろう不満を大声で叫んで泣き出した。泣きてぇのはこっちだよ、と彼は思ったが、腕を解放されたノノがまた走り出そうとしたので今度は咄嗟にその小さな体を抱き寄せ、動きを封じた。
「はなしてよぉ、きらーい! だいっきらい!」
「はーいはい、嫌いで結構、悪かったよ」
 逃げようと暴れるノノの動きを苦い顔をしたまま封じた彼は、敬語を使う事もせずに謝罪の言葉を口にした。そちらの方が誠意が伝わる様な気がしたからだ。彼がなりたくて執事と言う名のお守りになった訳ではない様に、ノノだってなりたくてお嬢様になった訳ではないのだ。何不自由無く育てられて我儘になったのではなく、不自由の中で育てられた故に我儘になってしまった。
「お互い我慢してきたってか。あんたは何十年もだもんな。そりゃー嫌だったよなぁ」
「うぅ、うえぇ、み、みんなきらい」
「はーいはい、分かった分かった」
 少しずつ冷静になってきた頭でぼんやりとそんな事を考えていたグレゴは泣いてぐずるノノの小さな背を摩りながら柔らかな緑の芝生の上に座った。そして自分の膝の上に彼女を乗せ、頭を撫でたり背を摩ったりして彼女を宥める。幼かった弟が泣いた時、よくこうして宥めたものだ。
「………、」
 暫くそうして泣かせていると少しは落ち着いたのか、ノノが強張らせていた体の力を抜いてグレゴの胸に凭れかかってきた。まだぐしぐしとぐずってはいるが、彼同様冷静になったのかも知れない。否、冷静になったのならこの体勢は大変良くない。
「えーと……お嬢様、そろそろお屋敷にお戻りになりませんかね」
「……やだ」
「そう仰らず」
「やだ!」
 グレゴの言葉遣いがまた他人行儀になった事が不満だったのだろう、ノノは彼の白いシャツをぎゅっと掴むと駄々を捏ねた。困ったのはグレゴだ。流石にこの格好のまま、この体勢のままはメイド達に見られると誤解される。ワイシャツは下着であるという事は彼も知っているから、上着を着ていないという事は下着姿であるという事とイコールで繋がる。それは困るのだ、色んな意味で。就職先を失う、のはまだ良いが、グレゴにも名誉があればノノにも名誉がある。誤解されればお互い困るのだ。ベストを着ているとは言え、スーツの上着のボタンを引き千切ってしまったのだから言い逃れが出来るかどうか怪しい。
「お屋敷に戻ったら、またグレゴよそよそしくなっちゃうでしょ? やだ」
「いやー……そ、それが俺……じゃなかった、私の仕事ですんで……」
「お外だったら誰も見てないし聞いてないもん。無理しておぎょーぎよく話さなくていいよ?」
「うーん……どこで誰が見聞きしてるか分かんね……分かりませんから、駄目です」
「ぶう。いいもん、ルフレにお願いしてみる」
「それだけはやめろ頼むから」
 家令はそこそこ若い外見で、温厚そうに見えるのだが、実際はかなり怖いとグレゴも薄々気が付いている。だからこの格好で屋敷に戻れば、何を言われるか分かったものではない。クビかなー、などとぼんやり思いながら立ち上がり、脱ぎ捨てた上着を拾いに行くと無残に引き千切られたボタンが辺りに散乱していて、彼は大きな溜息しか出せなかった。
「ねえねえ、グレゴ、やっぱり竜おいかけっこしよう? 変身したノノにおいかけられたから慌てて脱いじゃったって言ったら怒られないよ! ……多分」
「あー……なーるほど……そりゃー良いな……」
 グレゴの手に拾われたスーツの上着を見ながら、スカートのポケットから取り出した不思議な色をした石を見せてノノが言った提案に、思わずグレゴも納得してしまう。本当に変身したノノと走り回るのは物凄く苦労するし、許されるならスーツなど脱ぎ捨てて走り回ってしまいたいくらいだ。妙な悪知恵が働くお嬢ちゃんだな、とグレゴは思ったが、そういう企みは嫌いではない。彼はにやっと口元で笑うと、深く頷いた。
「じゃあ、その口実は使わせてもら……いましょうかね」
「うん! えへへ、二人だけのひみつだね」
「……ですね」
 悪戯を計画する子供の様に顔を見合わせ、どちらからともなく人差し指を自分の口に当てる。それがおかしくて、二人は同時に吹き出した。久しぶりに笑ったとグレゴは思っていた。