眼前に広がるきらびやかな世界に、普段身に纏わない様な美しいドレスを着けたオリヴィエの緊張は最高潮に達していた。彼女の容姿は誰が見ても麗しいものであり、それ故に衣装には全く引けをとっていないのだが、今まで生きてきた中でも経験した事が無い様な緊張に見舞われていた。生まれて初めて舞台に立った時でさえここまで緊張しなかったとオリヴィエがここまで緊張しているのには、理由があった。

今から彼女が飛び込んでいくのはイーリスの社交界である。美しい衣装や装飾具を身に着け整えられた化粧をした女性達、シンプルではあるが上物の生地を使っている事が一目で分かる様なタキシードを着た男性達がフロアで談笑しながら寛いでいる。彼らの談笑の声に混じって聴こえてくる演奏も一流の技師が作ったのであろう楽器を使用しているとオリヴィエの耳にも分かる。場末の酒場で聴こえてくる耳を劈くような音とは全く違うのだ。その事に、彼女は気後れを感じてしまう。オリヴィエにとって縁も無かった様な目の前の世界は、しかしこのイーリス屈指の名家の長子であるフレデリクに嫁いでから一気に身近なものになってしまった。

引っ込み思案の彼女にはそういう世界に出て行く事も憚られたのだが、さりとていつまでも他の貴族達に顔合わせをしない訳にもいかないと、義父母から言い含められてしまって今ここに至る。先のギムレーを倒す戦が終わって、名実ともにイーリス聖王となったクロムの右腕とも言えるフレデリクの妻となったのだ、確かに他の貴族達に社交場で挨拶もしない様では夫の沽券に関わる。そう思って内心渋々ではあったがオリヴィエは今ここに立っているという訳だ。だが、見渡す限り両家の令嬢、淑女、紳士達が勢揃いしているらしく、単なるキャラバンの踊り子であった彼女はますます肩身が狭くなった気がした。

「そう緊張しなくても大丈夫ですよ、いつも通りで良いんです」

その時頭上から、まるで彼女の緊張を和らげる様に降ってきた声に、オリヴィエは漸く息をする事が出来たかの様に安堵して細く息を吐いた。見知らぬ者達の中、いきなりたった1人ぽつんと立たされた様な気分ではあったのだが、一番心強い味方がすぐ側に居る事に気付いて彼女は胸を撫で下ろした。その声だけで、その言葉だけで、彼女の意識は後ろに居る男にぐっと引き寄せられる。

―――そうだ、私はもう1人じゃないんでした…忘れるなんて、罰当たりです…

心の中でそう呟いたオリヴィエは手に持った扇子をきゅっと握ると、やっと背筋を伸ばして視線をフロアの中央へと向ける事が出来た。そこには、イーリスの中核を担っていると言われているらしい家柄の集団が居り、女性達は彼女を遠目で見ながらひそひそと口元を扇子で隠しながら何やら話していた。陰口でも叩かれているのかも知れないと思ったのだが、その中にマリアベルの姿も見えてオリヴィエはその考えを否定する事が出来た。彼女の友とも言えるマリアベルは、陰口が嫌いだ。言うくらいなら本人に直接言う。目線が合ったマリアベルは軽く手を上げ、しゃんとなさいなと言う様に目元を細めてくれた。口元は扇子で隠れているが、恐らく笑みを象っている事だろう。

ここイーリスの社交場では、初顔合わせの際は挨拶よりも先に誰かパートナーと組んでから踊り、そこで皆が見定めるという風習があるらしい。フェリアに長い事住んでいたオリヴィエはその様な事を知る筈も無く、初めて聞いた時は驚いた。勿論ダンスが出来た所で教養があると分かる訳ではないのだが、少なくとも身のこなしの優雅さは評価される。難しいステップのダンスであればそれだけ練習したと言う事、それだけのものを取得出来る才能があるという事を物語る。所謂一般庶民に分類されるオリヴィエは優雅な社交ダンスを学ぶ機会も与えられない筈であったけれども、フレデリクの妻となった事でその機会を勝ち得た。そして本職が踊り子である彼女にとってイーリスの社交界デビューなど問題は無い様に思えるのだが、いくら得意であっても緊張という見えない敵には勝てないものだ。

況して、踊り子という職業は往々にして見下されがちでもあり、偏見の目で見られる事も少なくない。オリヴィエもフレデリクから両親に紹介された時、僅かな蔑みの色が彼らの目に宿った事を覚えている。幾度と無くそんな目で見られてきたオリヴィエであっても流石に居た堪れなくて、身分不相応だったと改めて思った彼女は目線を足元に落としてしまったのだが、それでもフレデリクは胸を張って両親に言い放った。

『私が選んだ最高の女性は、何の面白味も無い様な私を選んでくれたのです。
 人生でこれ程果報で光栄な事はありません』

クロムに仕える事を常に誇りにしているフレデリクは、それでもそう両親に言い切った。その事にオリヴィエは酷く驚いたし、両親はもっと驚いていた。前に立つ彼の背は大きく、戦中に陣営内で自分を隠しながら歩いてくれていた時の様に酷く頼り甲斐があり、また自分を護ってくれている様な気がした。

そんな夫に恥をかかせる訳にはいかないと、オリヴィエは寝る間も惜しんで行儀作法を身につけた。踊る事が何よりの歓びとしていた彼女は、それでもマリアベルや義母に頭を下げて踊りよりも教養への時間を割いた。その中で持ち上がった、今日の場なのである。義母とマリアベルがもう人前に出しても恥ずかしくないと判断し、場を設けてくれたのだ。マリアベルはオリヴィエの踊りの素晴らしさを知っている。だからこその判断だったのだろう。

社交ダンスを知らなかったオリヴィエは、しかし流石本職と思わせる程飲み込みが早く、教えたフレデリクが舌を巻く程だった。たった1日で1曲完全に踊れる様になったのだ。これは教えるのも楽しいですねとフレデリクも笑い、みっちり7日間、5曲程のダンスを彼女に仕込んでくれた。忙しい筈であるのに時間を割いてくれた事はオリヴィエにも嬉しい事であり、また好いた者と踊れる事は彼女にも充足を齎してくれた。毎日、練習を終える度に幸せですとはにかみながら言ったものだ。

なので、余程の事が無い限りは大丈夫の筈なのだ。…が、それはそれ、これはこれというものであり、このフロアのほぼ全ての者の目が自分に注がれる訳なのである。頭の先から爪先まで、品定めをされるかの様に。その視線を感じて彼女はまた僅かに縮こまったのだが、一歩後ろに居たフレデリクがす、と自分の前に立ってフロア全体を見回した。彼もまた、会場に居る者を見定めている様だった。その時にオリヴィエの目に飛び込んできたフレデリクの背は、矢張り大きくて心強くて安心出来て、まるで自分を護ってくれている錯覚を感じさせてくれた。恐らくその為に自分の前に立ってくれたのだろうという気遣いが嬉しく、オリヴィエはそっと彼の背に手をあてる。あれ程速かった鼓動が嘘のように穏やかになっていた。


「よろしいですか?では参りましょうか」
「…はい!」

オリヴィエが落ち着いたのを見計らう様にフレデリクが振り向き、エスコートする為に白い手袋を嵌めた手を伸べる。その瞬間に、彼女の視界には夫しか映らなくなった。周りの視線も気にならない、今からはたった2人しか居ない場所で踊るのだと本気で思い、花が綻ぶように笑って頷いた。初めてフレデリクから教えて貰ったダンスの曲が、緩やかに始まろうとしていた。



尚、余談ではあるがこの夜の主役とも言える夫妻のダンスは素晴らしいものであったと、長くイーリスの社交界で語り継がれる事となる。