気配に敏感でなければならない剣士である癖に、すっかり気を抜いて熟睡している黒髪の男の呑気な寝顔とは裏腹に、グレゴは顰め面で腕枕をしながら寝転がっている。ここは西フェリアの、王宮近くにある兵士達の宿舎だ。諸国を放浪しながら稼ぐ傭兵のグレゴが何故こんな所に居るかと言えば、先のギムレーを倒す戦いに身を投じ、その中で知り合ったロンクーという男に本当に何故か分からないが気に入られてしまい、このロンクーが元から知り合いであった西フェリア王のバジーリオの右腕として置かれている事から、バジーリオからお前もう西フェリアに来いなどと言われ強引に連れて来られたのである。
 その時までには既にこんな風に同じ寝台に寝るという、グレゴとしては大変不本意な関係になってしまっていたし、フェリアには同性婚を禁止するという法など無いというかそもそも法自体があまり機能していないという、マリアベルが聞いたら卒倒してしまいそうな国であるので、グレゴは嫌だと最後まで抵抗したものの世話になった事があるバジーリオから首根っこを掴まれてしまっては逃げ出す事も出来なかった。
 なーんでこんな事になっちまったんだか……、とグレゴはもう何度目になるのかも分からない溜息を吐く。元はソンシン出身であるロンクーの黒い髪が目の前にあり、それを見ていても彼に苦々しい表情を浮かばせた。黒い髪は、グレゴに遠い昔の事を思い出させるからだ。



 もう随分昔の話になるが、元々グレゴはイーリス大陸の人間ではなかった。今はヴァルム大陸と呼ばれる、海を隔てた大陸を放浪する民だった。放浪民は得てして秩序を乱すとして嫌われるもので、グレゴも例外ではなく、定住の地を設けないが故に貧しい暮らしをしていたが取り分け不幸を感じてはいなかった。しかし放浪民が身に着ける財産を狙った賊に家族を含めた一族が襲われて殺された事は、彼の生涯の中で一番の不幸だ。
 その後、家族を殺された土地から逃げる様にグレゴは海のある方面へと向かった。つらい思い出がある大陸で過ごしたくはなくて、イーリス大陸に渡りたかった。金は彼自身が身に着けていた衣服に縫い付けていた宝石で何とか工面出来、それからの生活など全く何の計画もあても無かったけれども、どうしてもヴァルム大陸には居たくなかった。そしてこの大陸で生きていた自分は死んだと決め乗り込む時に乗客名簿を作るからと名を尋ねられた時から、彼は弟の名であったグレゴを名乗り始めた。守れなかった弟の名前だけでもせめて生かしておきたかったし、家族を守れなかった自分はあの時共に死ねば良かったのだと思っていたから、弟の名を名乗るには抵抗が無かった。まだ青年と呼ぶには若く、さりとて少年と呼ぶには年長であった彼は、一人で船に乗り込んでも大して不審に思われなかった。
 出港したその日の夜、生まれて初めて乗った船の外洋を渡る波の揺れで酔ったグレゴは夜の風に当たる為に出た甲板上で赤子を抱いた若い女と出会った。甲板に出ているにも関わらず上着も着ていない女は遠い目をしながら月が照らす暗い水面を見ており、今にも赤子を抱いたまま飛び込むのではないかとグレゴに思わせた。だから、つい声を掛けてしまったのだ。
「よお、あんたが飛び込み自殺するのは勝手だけど、子供巻き込むのは止めろよな」
「……飛び込む……? 私が、ですか?」
 潮騒の音が忙しなく響く中でグレゴを振り向いた女の頭上で結い上げた長い髪は風の貌を象る様に靡き、時折女の顔を僅かに隠した。ややもすれば虚ろな目は、満月も近い月明かりの下でも良く分かった。
「死にそうにしておりましたか、私」
「違ったなら謝るけどよ」
「いえ……、そう見えたのなら、そうなのでしょう。止めてくださって有難う御座います」
「………」
 眠っているのだろう赤子を見て微かに笑った女は、グレゴに視線を戻してから頭を下げた。礼を言われたところで何と返事をして良いのか分からないグレゴは沈黙して頭を掻き、気まずさも手伝って船室に戻るかどうか迷ったのだが、安い室料の雑魚寝部屋で周りの者達に潰されながら眠るのも酔いが酷くなりそうであったので、結局はそのままそこに留まる事にした。
 女は、相変わらず赤子を抱いたまま水平線を眺めていた。どこを見ているのか、それとも何も見えていないのか、グレゴには分からなかったのだが、赤子がこの潮風で風邪をひいてしまわないかが気になった。弟が赤子の頃から面倒を見ていたものだから、ついちらりと見てしまったのだ。
「……なあ、あんた、寒くねえのか」
「寒い……? いえ、私は特に。貴方こそ寒くありませんか?」
「そりゃ、ちょーっと寒いけど……むさ苦しい船室の中よりマシだ」
「そう……、でしたら、この子を抱いてみませんか。赤子の体温は高う御座いますから」
 グレゴは暗に赤子が風邪をひくぞと言ったつもりであったのだが、女は額面通りの意味に受け取ってしまった様で、全く予想もしていなかった提案をされた彼は面食らった。弟や一族の血筋の赤子は抱いた事があっても縁もゆかりも無い赤子を抱いた事が無かったので、余計に動揺した。
「はあ? い、いやー、良いよ、親から離れると泣くだろうしそいつも……っくしゅ!」
「酔いに加えて発熱と悪寒に魘される船旅など貴方もお嫌でしょう。どうぞ、抱いてあげてくださいまし」
「……じゃ、じゃあ……」
 グレゴは船酔いしたと一度も言わなかったが顔色で察したのだろう、女は彼の体調を見透かした様に赤子を軽く掲げてみせた。乳幼児の温もりを良く知っているグレゴは女の柔らかであるが強い勧めを受け、おくるみに包まれたその赤子をまるで壊れ物を預かるかの様に受け取った。しっかりとした重みがあるその赤子の頬は肌寒く感じる潮風の中でも薔薇色で、母親の腕から離れる時に少しだけむずがったものの、グレゴの腕の中で小さな手で閉じたままの目を乳幼児特有の不思議な声を上げて擦った後にまた安らかな寝息をたて始めた。首には、何か小さな包みをぶら下げていた。
「あんた、一人か?」
「はい。フェリアに伝手が御座いますから、そちらに参ろうかと」
「……こいつの父親は?」
「居りません」
 柔らかそうなその頬を、つい指先で突いてみそうになったグレゴは慌てて指を引っ込め、再度海の向こうを見詰める女に尋ねた。が、得られた回答に配慮が足らなかったかと苦い表情になった。こんな夜に女が一人、まだ首が据わって間もないであろう赤子を抱えて甲板に出るなど、連れ合いが同船しているならばやらないだろう。否、夜泣きをするから外に出たという事も考えられるのだが、他人の腕の中でも大人しく眠る赤子ならそこまで夜泣きは激しくない筈であるから、無神経であると思われても仕方がなかった。
「貴方こそ、まだお若いのにお一人なのですか?」
「……まあ、色々あって」
「そうですか。私と同じですね」
「………」
 顔をグレゴの方に僅かに向けた女の目は、先程に比べると随分しっかりとしてきた様に思えた。他人と話した事によって漸く生気が戻ったのかも知れない。色々あった、というグレゴの言葉を深く尋ねなかった辺り、女もつらい事があったのだろう。父無し子を抱えて若い身空の女が一人で渡るには、フェリアという土地は厳しい筈だ。少なくとも、グレゴの中のフェリアはそういう国であるという認識だった。
「フェリア港に降りて、そこからどこに行かれます?」
「どこって……あてはねえなぁ」
「でしたら、私とその子を送ってくださいませんか。
 遠縁の家が西フェリアにあるとは言え広大な国ですから、殿方がいらっしゃると私も心強う御座います」
「……ちょ、ちょーっと待てよ、確かに俺は男だけど腕っぷしが強い訳じゃ……」
「お願い致します」
 フェリアに渡ってから先の事は特に何も考えていなかったグレゴにとって女からのその頼み事は面倒なものではなかったのだが、 賊に弟を人質にとられた挙句に殺されてしまった記憶はまだ新しく、だから女と赤子を護衛しながら送り届ける自信は全く無かった。しかし女が深々と頭を下げて頼んでいるのに断ってしまっては男が廃る様な気もしたし、何より死んだ弟から叱咤されてしまいそうな気がして、グレゴは指をしゃぶりながら心地好さそうに眠っている赤子に視線を落としてから小さく息を吐いた。
「分かった、旅は道連れって言うもんな。あんたとこいつを無事に送り届けてみせようじゃねーの」
「有難う御座います」
 覚悟を決めたグレゴが承諾の旨を伝えると、女は再度深く頭を下げて礼を言った。しかし、引き受けた決定的な理由は守れなかった弟に対するせめてもの償いになる様な気がしたからだったが、その事に対しての後ろめたさは拭えなかった。それでも女と自分、お互いの利害が一致しているのであれば良いだろうという思いがグレゴにはあった。良く見なくても美しい部類に入る顔立ちの女が一人で乳飲み子を抱えたまま異国を旅するのは、心細くはあるだろう。女がどの国の出身であるのか、グレゴには分からなかったが、独特な作りの服を見る限りでは大陸の奥地、南西に位置する国の者と思われ、そんな国の者がフェリアに縁があるというのも不思議だがグレゴは深く尋ねるつもりもなかった。女が自分に対して深く尋ねてこない事に対する礼のつもりでもあった。
「しかし、こいつ中々度胸あるなー。全然起きねえでやんの」
 腕が痺れてきたので抱え直した赤子は、僅かに眉間に皺を寄せて小さく唸ったものの、目を覚ます事なく眠っていた。月の柔らかい光に照らされるその寝顔は、船の揺れによって生じたグレゴの胸のむかつきを和らげてくれたし、彼の口角を自然と上げさせていた。大体の乳幼児は知らぬ者の腕の中では長く眠らないのに、その赤子は本当に無防備にグレゴの腕に抱かれて眠り続けていた。
「大物で御座いましょう? その子の父親もそう仰って名札を授けてくださいました」
「名札?」
「首から下げているそれです」
 父親は居ないとの事であったが、この船には乗っていないという事だったのか、それとももう居ないという事だったのか、どちらにせよ赤子が首に着けている小さな巾着にはその父親が授けた名札が入っているらしく、グレゴは女をちらと見ながらその巾着を指先で摘まみ上げた。中を見ても良いかと目線で尋ねると女が静かに頷いたので、片手で器用に開けて見ると、確かにその中には厚手の紙で作られた札に不思議な字体で何かが書かれてあった。
「……俺、読み書きが殆ど出来ねえんだけど、こりゃー一般的に使われてる文字か……?」
 放浪の民の一族として今まで生きてきたグレゴは先にも述べた様に読み書きが出来ず、だからその札に書かれてある文字を読む事が出来なかった。どうせ読めないと初めから分かっていたのだから取り出す必要はなかった、直接聞けば良かったと気が付いて後悔しても後の祭りだったが、それまで彼が生きてきた中で見た事が全く無い文字に首を捻った。乗船する前にちらと見た、名前を書いて貰った係員の手元の乗客名簿にも無かった様な文字だった。
「いえ、私の故郷に伝わる古い文字です。お読み出来なくても当たり前です」
「……何て書いてあるんだ?」
 頭を緩やかに振った為に髪が潮風に揺れる様が艶やかで、グレゴでなくても大抵の男は視界に認めたらつい視点を合わせてしまうだろう美しい顔立ちのその女は、紅もさしていないのに鮮やかな唇から耳に心地好い低さの声で彼の問いに答えた。
「九頭の龍。それで、ロンクーと読みます」



 ……あの時、腕に抱いた赤子が時を経て自分の目の前に現れたのは流石にグレゴも驚いた。その上こんな関係になってしまうなど誰が予想出来ただろうか。少なくともグレゴは全く以て考えた事は無い。
 女とは、遠縁の者が居ると言った西フェリアの街に送り届けて以降一度も会ってない。送り届けるまでに女の美貌につられた男達に絡まれた事は何度かあったが、女が持っていた剣を借りていたグレゴは慣れない手付きではあったが守る事は出来ており、別れる際に礼を言って深々と頭を下げた女はグレゴに質素ではあるが上等な布の包みを渡してきた。包みの重さに訝しみながら受け取り、中身を改めたグレゴは、思わず突き返してしまった。中には美しい装飾が施された短剣が入っていたからだ。
 その当時剣の良し悪しなど全く分からなかったグレゴでも一目で高価なものだと分かる様なもので、こんな見るからに高そうなもんは貰えねえよと突き返した彼に、女はやはり緩やかに首を横に振った。

『貴方は私をここまで送り届けてくださった訳ですから私はそのご厚意に対しての酬いをお渡しせねばなりません、どうぞお受け取りくださいまし。
 それに、その剣はこの子には危険なものでございますから』

 そう言った女は頑としてグレゴから短剣を受け取ろうとはせず、結局はグレゴが折れて有難く頂戴する事にしたのだ。その時の彼には女の「この子には危険なもの」という言葉の真意に気が付けず、そのままの意味に解釈してしまった。
今思えば、あの言葉は自分達の出自がばれてしまうと危険だという意味だったのだろう。グレゴも女と別れた後に気になってその短剣の刀身に刻まれていた紋様を暇を見付けては調べたが、女の出身国であろうソンシンの王家に連なるものであるという事を知ったのは随分と経ってからだ。
 大陸も違い、古いとは言えそこまで大きな国でもないソンシンの事を調べるのは骨が折れたが、傭兵業に就いてから築き上げた人脈、情報脈から、あの当時ソンシン国王がお手付きをした侍女が居り、それを知った妃が侍女を国外追放したのだという話を聞いた。その話が真実かどうかはグレゴには分からないが、火の無い所に煙は立たぬとも言うし、恐らくその様な事があったのだろう。それを照らし合わせればグレゴが船上で出会い、西フェリアまで送り届けたあの女は前のソンシン国王が手を出したとされる侍女になるし、呑気に寝ているこのロンクーはレンハやサイリの腹違いの兄弟という事になる。
 女が望んでソンシン前王とそういう関係になったのか、それは女が亡き者となった今では分からない。しかし送り届ける道中で赤子であったロンクーを抱き、慈しむ様に見詰める眼差しを思えば、少なくとも子に対しては愛情があった様に思える。ロンクーと同じで妄りに笑わぬ女であったが、不意に見せる柔和な表情が全てを物語っていた。グレゴは女がロンクーの父を男として愛していたか否かは興味が無く、彼を子として愛していたか否かの方が重要であったから、それを知る事が出来たら十分だった。だから、それ以上は何も調べなかった。
 レンハやサイリに仕えていた古参の者達であれば、ロンクーの存在は知っているかも知れない。が、話題に上がらない辺り、沈黙を守っているのだろう。余計な混乱を避ける為か、はたまた後ろめたいからなのか、それは分からないが、グレゴだって言うつもりはない。不要な騒ぎを赤の他人が言う必要は無いし、死ぬまで沈黙を守るつもりだ。あの女への淡い想いと共に。
 ロンクーの母であった女は、当時の国王から手を出されたと言われるのも納得出来る程に眉目麗しく端正な顔立ちで、美しいという表現以外が見当たらぬ様な女だった。声は耳に心地好く、また月の出ぬ闇夜の様な漆黒の髪は、連れ立って歩いていたグレゴも数えられないくらいにすれ違う者達が振り向いた。何より、赤子であったロンクーが寝静まった夜にグレゴに少しだけであったが剣の手解きをしてくれた程、腕前は確かだった。俺が送る必要あるのか、と思わずグレゴが尋ねると、赤子を抱いたまま剣は抜けませんとにこりともせず言った女は、それでも別れの際にグレゴに剣の道に終わりは御座いません、これからも精進なさる様にと言った時だけ初めて彼に対して微笑んだ。それまでは子にしか向けなかった笑みを、グレゴにも見せたのだ。その笑み一つで別れ難さを生んだ女に、ああ畜生、と思わずにはいられなかった。
 だからと言ってその息子であるロンクーに対し同じ様な想いを抱くかと問われれば、グレゴは即座に首を横に振る。彼にとって魅力を感じる様な男ではないし、そもそもおしめを変えた覚えもあるというのにどうやってそういう目で見ろと言うのか。初めて寝た時に妙な表情でロンクーのペニスを見た時に思わず出そうになったでかくなったもんだなあなどという呑気な言葉は辛うじて飲み込んだ自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいだ。……でかくなった割にはこんな中年相手に入れあげる様な残念な結果になっているが。
 グレゴが血縁者以外の他人から何かを依頼され、達成した暁には報酬を得る、という経験をしたのはあれが初めてで、傭兵になった切っ掛けと言って良い。ロンクーをどうしても拒みきれなかったのも、自分の剣の基本を指導してくれたあの女への恩義を感じたからかも知れない。ただ、それは結果論であって、絆されたという面が大きい。奇妙な縁は再度繋がり、こうやって同衾しているのから、全く以てこの世は不思議な事だらけだ。しかもまだ未練たらしく女から渡されたあの短剣を持っているし、あれを持つべき者に渡すまでは居なければと思っているのだから世話は無い。さっさと渡して姿を眩ませようと関係を持った当初の頃は思っていたというのに、すっかり絆されてしまって結局まだこの寝台に寝ている。
 グレゴは再度、大きな溜息を吐く。俺もヤキが回ったもんだと苦い表情で頭をガリガリと掻くと、布団に隙間が出来て寒かったのかロンクーが不明瞭な声を漏らして寄ってきた。人が側に居ても起きない大物感は赤子の頃と変わらないらしい。数十年前の今日と、ほぼ同じ顔で寝ている。そう、今日こそがグレゴがあの女と赤子であったロンクーと初めて出会った日付けだった。いい頃具合かな、と思ったグレゴは、夜が明けたらあの短剣と共に、長い黒髪の女の事をロンクーに話そうと心に決めた。あんたの息子は好意を持つ相手を間違えたけど良い腕前の剣士になったよと、もう居ない瞼の裏の女に呟いてから、気怠い眠気と昔船上で恩恵を受けた心地良い温もりに瞳を閉じた。