男が木陰で飛竜を枕に休んでいる。竜騎士でもないのに飛竜がここまで主以外の者を寄せ付けるというのは珍しいのだが、彼はそんな事などお構いなしに心底信頼している様な顔で眠っている。その表情は普段見せる厳つい顔つきではなく、ややもすれば幼い頃はこんな顔で眠っていたのかと思わせる程の無防備な顔だった。そして一人で眠っている時にしては珍しく、剣を抱いていない。彼は一人で眠る時は座っていようが寝そべっていようが剣を抱いて眠るのだが、飛竜にそれ程の信頼を寄せているのだろう。
その眠っている彼に、何の遠慮も無く別の男が近付いてくる。彼と共に寝ていたのだろう飛竜はその気配に気付き顔を上げたが、気配に敏感な彼が微動だにせずそのままでいるのを確認すると、彼が男を近付ける事を許可しているのだと判断して鳴きも吠えも威嚇もせず、黙っていた。
「タヌキ寝入りかよグレゴ。俺と話すのが面倒だってか?」
「………いやー、そうじゃねぇんですけど…」
そして彼、グレゴがとっくに眠りから覚めていた事に気付いていた男、バジーリオが遠慮なく話し掛けると、グレゴは普段通りの表情に戻って目を開けた。折角誰も来ない様な、野営地から離れた場所で休んでいたのに、それを邪魔されたのが癪だった。だから無視を決め込もうかと思っていただけだったが、相手がバジーリオであれば仕方あるまい。
グレゴは誰に対してもぞんざいな受け答えしかしないが、バジーリオに対しては幾分か丁寧になる。これでも彼にとってみれば丁寧なつもりだし、実際他の者に対する言葉遣いに比べれば遥かに丁寧だ。それはグレゴがバジーリオに対して恩があるという事に起因している。勿論グレゴがそんな言葉遣いをしている所を見たユーリ達は驚いていたし、変なもの(というか気持ち悪いもの)を見る目でグレゴを見ていた。一応グレゴだって恩人に対しては敬語を使う。ぞんざいな敬語ではあるけれども。
「その飛竜か、お前が昔助けたってぇのは」
「んー?ああ、そうっすよ。なあミネルヴァちゃん」
グレゴが背を預けている飛竜の顔を見遣ってバジーリオが尋ねると、グレゴが顔だけ後ろに向けて飛竜のミネルヴァに同意を求める。ミネルヴァはそうよ、と言いた気に控えめに声を上げ、彼に顔を擦り寄せた。
「人生何処でどういう奴と再会するか分からんな。
 まさかお前とも顔付き合わせる事になろうなんざ、思ってもなかったしな」
「そりゃーこっちのセリフっすよ。
 バジーリオさんが絡んでるって知ってたら、クロムに雇われてねぇですってー」
「お前の青い頃を知ってるからか?」
「…まぁ、そうっすね」
ミネルヴァが警戒していないとは言え、恐らく自分がグレゴと同じ様に背凭れにしては威嚇されると判断したバジーリオは、彼と向かい合う様な形で胡座をかいて座った。ミネルヴァもそれは許した様で、大人しく元の様に丸くなる。まるで仔竜の様に。古の赤髪の竜騎士と同じ名を持つミネルヴァは、戦場ではその竜騎士の逸話と違わず猛々しい。しかし主であるセルジュやグレゴを含めた一部の人間の前ではこの様に大人しく、また敵ではない者を威嚇したりする事は無かった。セルジュの躾の賜物だ。
バジーリオの言葉の通り、バジーリオと知り合った頃の自分は若かったのではなく青かったのだとグレゴは思っている。弟を喪ってかなり荒れていた頃に所属した傭兵団にまだフェリア国王になる前のバジーリオが居て、全く協調性が無く突っ走り、自分の体の一部を犠牲にしても相手を殺しにかかるグレゴを、叱り付けて矯正してくれた。ユーリに言った、青い果実が熟すまでは年長者から学べ、というのは、昔バジーリオから言われた言葉だ。勿論若かったグレゴはかなり反発もしたし、一度本気で殺し合ったりもしたのだが、結局勝てなかった。負けもしなかったけれども、あれはバジーリオが己の得物である斧を使わずグレゴに合わせて剣を使ったからだ。多分斧を使われていたら負けていた。
「別に機会が無かった訳じゃねえが、お前とサシで話すのも久しぶりだな。
 酒でもありゃ言う事ぁねえが」
「バジーリオさんの酒は絡み酒だから遠慮しますよ」
「ばっか、あん時ゃお前が危なっかしかったからだな」
「はーいはい、で、何か用っすか」
酔ってもないのに早速絡んでこようとしたバジーリオに少々辟易しながらグレゴが話し掛けてきた用件尋ねると、バジーリオはおぉ、と何かを思い出したかの様に膝を打った。
「そうそう、オリヴィエにクロムんとこの騎士がプロポーズしたろ。
 それで、皆で結婚式挙げてやろうぜって言ってな。
 ほれ、ちょうど何だかの神殿跡を通る事だし」
「あー…、息子も見つかった事ですしね」
「俺ゃ、オリヴィエとロンクーがくっつきゃ良いとか思ってたんだがなあ。
 あいつ、女が苦手な割に惚れた女には手が早かったな」
バジーリオが旅芸人の一座に所属していた頃の伝手でフェリアに居た踊り子のオリヴィエは、クロムの従者であるフレデリクに求婚され、それを受けたらしい。踊っている時とそれ以外での彼女のギャップは激しく、赤面症で恥ずかしがりなのだ。なのにうっかり(しかもよりによって)生真面目なフレデリクに自分は魅力があるのかどうかと尋ねてしまったらしく、フレデリクも他の兵士達に彼女に魅力があるかどうか尋ねていて、自分が気にしている事を全員に知られてしまったとオリヴィエは恥ずかしがり、結局暫くフレデリクの背に隠れて陣内を歩いていた。しかしそれはそれで微笑ましい光景であったので、そのままくっつくんだろうなーとグレゴだけでなく殆ど全員思っていて、案の定ヴァルム港に到着した後、改めて何時何処でどうなって死んでしまうか分からないからと結婚を決意したカップル達の細やかな結婚式が終わった後に求婚したらしい。そうしたらその後の行軍で通った、遥か昔にアルムだったか何だったか、とにかく有名な戦士達も戦ったという門の遺跡がある場所で、ルキナと同じく未来から来たオリヴィエの息子と名乗るアズールという男がその辺りを荒そうとしていたならず者相手に単身戦おうとしていたので、加勢したという訳だ。まだ結婚式も挙げていない内に息子が現れたのだから、さぞ二人は驚いた事だろう。
余談だが、ヴァルム港で結婚を決意したのは、このミネルヴァの主であるセルジュと彼女が仕えていたというヴィオール、呪術師のサーリャと彼女に随分と熱心だった聖職者のリベラ、めきめきと力をつけてきたドニと良く話をしていたソワレの三組だ。特にソワレは余り泳ぎが得意ではなかった様で、鎧を着た彼女を背負って別の船まで泳ぎ着いたドニは凄かった。そのままプロポーズしたのだそうだ。そしてヴァルム港での戦闘が終わった後に、三組の結婚式を執り行った。いつもならリベラが執り行うのだが、今回は三人の新郎の内の一人だったから、リズとマリアベルが代行していた。リズは神の名の下に、そしてマリアベルは法の下に、それぞれ誓わせて。新たに加入したサイリという女性剣士はさぞ驚いた事だろうが、この様な状況でも仲間の新たな門出を祝える貴殿らは心も強いのだなと言っていた。
「何か可愛い娘を嫁にやる気分だぜ。
 あのやろー、オリヴィエ泣かせたらぶん殴ってやる」
「娘も何も、結婚もしてないじゃないっすか」
「物の例えだろうが!そういうお前こそ未だに独り身とは思わなかったぜ」
「俺ぁ身軽な方が気が楽ですしねー。それに…」
「それに?」
「…いや、何でも。それよりミネルヴァを返さねぇと」
つい口を滑らせてしまいそうになったグレゴは咄嗟に話題を変え、漸く立ち上がって大きく伸びをした。今ここでこの相手に言う事でも無いと思ったし、そもそも誰にも言うつもりが無い事なので、言葉を濁して有耶無耶にしてしまいたかった。
親に恵まれなかったグレゴは、自身が親になる事に抵抗がある。あんな親にだけはなりたくはないと思わせる様な父親しか知らないのだが、自分もああなってしまうのではないかと思って柄にもなく怯えてしまう。そんな事はないだろうとバジーリオは言うかも知れないけれども、そんな事は誰にも分からない。馬鹿馬鹿しい杞憂だと言われてしまっても仕方ないとは思っているがこればかりはグレゴの気持ちの問題だ。だからこそ屍島での戦闘が終わった後にサーリャから言われた言葉がやけに引っ掛かり、あれ以来極力ノノと二人になる事は避けている。連携をとる為の特訓の様な事は未だにやっているけれども。ノノは気を抜くと戦闘中でも明後日の方向に行ってしまうから、誰かが先導してやらないといけないのだ。
「まあ、こんな所にむさい男が二人で居る必要は無いな。
 そうそう、ロンクーがお前と手合わせして負けたんだって?
 俺とも久しぶりにやろうじゃねえか」
「いやー、バジーリオさんとはやりたくねぇっすねー」
「そう言うな、プルフ使ってどれだけ腕上げたのか見てやるからよ」
「酒飲んでなくても絡む様になったんすか…」
バジーリオが何の稼ぎにもならない様な提案をしてきたのでグレゴは謹んで辞退したのだが、それでも尚バジーリオは食いついてきたのでうんざりした顔になる。バジーリオとの手合わせは若かった頃でもかなりしんどかった覚えがあるので、余りやりたくないのだ。だがこれは逃がして貰えないだろう。何せ娘の様に可愛がっていたオリヴィエが嫁ぐ事が決まり、尚且つ挙式もしようというのだから、何かで発散させなければ気が済まない筈だ。加えて、ユーリから支給されたプルフで不思議な技を取得してしまったものだからそれを以てかかって来いと言いたいのだろう。あのフラヴィアとかいう現フェリア国王も同じ技を使えるのだから、彼女と手合わせでもしていれば良いものを。確かに斧使い相手にもめっきり強くなったし斧の使い方も上達したとは言え、相手がバジーリオではそれが通用するかどうか。
結局その後、バジーリオに半ば引き摺られる様な形で手合わせする事になったグレゴは、その光景を見ていたロンクーやユーリなどに自分ともやろうなどと言われ、二日後に襲ってきた筋肉痛に苦しめられる羽目になったのだった。



ある天幕の中から賑やかな女性達の声が漏れ聞こえている。とても晴れた空の下、ミラの神殿というものがあったこの緑豊かな地で近隣の村から許可を得て野営を張り、その内の一つの天幕では花嫁の着付けが行われていた。花嫁は、オリヴィエだ。踊り子である彼女は普段は大人しくて控えめだが、流石と言うべきか何と言うべきか、花嫁の格好をさせると艶やかな美しさが引き立つ。
「お綺麗ですわ、オリヴィエさん。
 わたくしが刺繍したヴェールもお役に立てて良かったですわ」
「あ、有難う御座います、マリアベルさん…。
 で、でも、あんまり褒められると恥ずかしいです〜…」
「相変わらずね、貴女は。もっと自分に自信を持って良いのよ」
「は、はい…頑張ります〜…」
ベルベットに両肩をぽんぽんと叩かれ、オリヴィエがきゅうっと目を瞑って縮こまる。踊っていない時のオリヴィエは何時もこうやって引っ込み思案なのだが、マリアベルやベルベットに相談したりなどして、幾分かそれが改善されてきた。フレデリクと居る時は相変わらず背中に隠れてしまうけれども、それは最早お約束という域に達してきている。
マリアベルがこちらのヴァルム大陸に渡ってから行軍の合間に刺繍していたヴェールは、何とかオリヴィエの結婚式には間に合った。東の大陸にまだ居た頃は花嫁衣裳も手軽に用意出来ていたのだが、勝手の違うヴァルム大陸では中々手配出来ず、ヴァルム港で挙式した三組のカップルもそれぞれ仲間が花を用意したり綺麗な布をドレスに見立てて着せたりした。ソワレに至っては騎士の正装で式に臨んだものだから、とても勇ましい花嫁となっていた。それはそれで凛々しく美しかったのだが。
「マリアベルは器用だから刺繍が綺麗に出来て良いねー。
 私、何時まで経っても苦手だよ」
「あら、リズはきちんとブーケを作れるではありませんの。
 わたくし、お花の事は余り得意ではありませんから、羨ましいですわ」
「そうかなあ…」
ベルベットとマリアベルがオリヴィエの着付けを担当し、リズは他の者達が摘んできたり近隣の村から貰って来た花を彩りよく束ねてブーケにしている。仲間の結婚式の時は、皆が祝福しようと色々なものを持ち寄り、花嫁や花婿を飾って祝う。手作りの結婚式だ。豪華なものでもなければ盛大なものでもない。しかし誰もそれを不服とはせず、寧ろ喜んだ。特に、外での挙式というのはまた違った趣があって良いものだと思うらしい。
「そうそう、そのピンクの花、ブレディが摘んできたんですって?
 何と言うか…意外ね」
「わたくしもリヒトさんも、あんなおっかない顔なんてしていませんのに、
 どうしてあんな賊みたいな顔になってしまったのでしょう?
 わたくし、納得いきませんわ」
「でも貴女の息子なのだから、可愛いでしょう?」
「勿論ですわ!リズと纏めてわたくしが守ってさしあげるんですの!」
「私は良いから!ね、ブレディの事一番に守ってあげてよね?」
「リズ…有難う御座います。
 ふふ、オリヴィエさんの息子のアズールさんとも仲が良さそうでしたし、
 親子二代で仲良くなれるというのは素敵な事ですわね」
「マリアベルさん…はい、嬉しいです…」
ミラの大樹への行軍の途中で通ったこのミラの神殿跡ではこの近隣を荒そうとしていたザキハとかいうならず者が居たのだが、それに対抗しようとしていた村人達を癒しの杖で援護していたのが、未来から来たマリアベルの息子であるブレディだった。強面ではあるが心根は素直で優しい様で、それは口が悪いが内面はとても優しいマリアベルととても良く似ていて、リズは親子というのはそんな所でも似るのだと感心したものだ。オリヴィエの息子のアズールとも何やら仲が良さそうであったので、マリアベルもオリヴィエもほっとしていたらしい。
「ところで、リズはどうなっているんですの?あの呪術師の方と」
「えっ…ど、どうなって、って」
そして唐突に、マリアベルがリズに話をふった。リズはマリアベルよりも先にこの行軍に従事し、そして多くの者をその癒しの杖と、持ち前の明るさで癒してきた。軍内でも彼女に励まされた者は多く、一般兵の中でもファンは多いと聞く。そんなリズには浮ついた話は無かったのだが、ヴァルム大陸に渡った頃からペレジアの呪術師であるヘンリーがリズの不眠症をどうも心配しているらしく、最近は時間が許せば日の当たる所で日向ぼっこをしながら彼が枕になってリズを寝かせている様だ。
「ああ、この間も一緒に寝ていたわね。私まで眠たくなってしまったわ」
「えぇっ、ベルベットさん見てたのー?!」
「たまたま見掛けたのよ。気持ち良さそうに日向ぼっこしてたわね」
「だ、だって、色んな事考えると夜眠れなくって…」
「側に居て貰えると良く眠れるんですの?」
「う…うん…」
ブーケを纏めるリズの手が鈍り、どんどんと顔が赤くなっていく。まるでオリヴィエの様だ。オリヴィエは恥ずかしがりなので、フレデリクとの詳細を尋ねれば式の前に逃げ出してしまうかも知れないからリズに話をふったのだが、これはリズも逃げ出しかねない雰囲気になってしまった。この場に居ないティアモにもガイアとどうなっているのか聞きたい所だわ、とベルベットは思っていたが、生憎ティアモは宴の食事の用意で忙しい。
「ねえねえ、お花もっと摘んできたよー!入るね」
「あ…は、はいっ」
その天幕の中に響いた可愛らしい声に、オリヴィエが咄嗟に返事をする。誰にも警戒をさせないその声の持ち主は、天幕の中の誰もが知っていた。果たして天幕の入り口から顔を覗かせたのは、若いレモンの色の髪の少女、ノノだった。オリヴィエは良くノノに歌を歌っていて、そんなオリヴィエの結婚式なのだから何か手伝いたいと言ったのだが、ノノに出来る事を宛がったら花嫁を飾る花を摘んでくる事だったので近隣でブーケや装飾になりそうな花を摘んできたのだ。
「うわー、オリヴィエ、きれいだねー!」
「あっ…有り難う御座います。
 で、でも、あんまり見られると恥ずかしいですー!」
ノノが両手いっぱいの花を持ったまま心の底からオリヴィエの事を褒めると、オリヴィエは真っ赤になった顔を両手で覆った。ノノ相手にも恥ずかしがるオリヴィエは、自分を褒められる事に未だ慣れていなくてすぐに人の後ろに隠れてしまう。今の様に隠れられない時はこうやって顔を隠してしまうのだが、それを可愛いと思う人間も少なくないので逆効果だ。本人はその事に全く気付いていないけれども。
「元々お綺麗ですものね、オリヴィエさんは。
 きっとリズの花嫁姿も綺麗だと思いますわよ?」
「も、もう良いじゃん私の事はー!」
「リズ、誰か好きなの?結婚するの?」
オリヴィエが限界に達しそうだと悟ったマリアベルは、話の的をリズへと変える様に仕向けた。それを聞いたノノが尋ねたので、ベルベットがくすっと笑って代わりに返事をしておいた。
「リズはヘンリーが好きなのよね。一緒に昼寝するくらいだもの」
「そうなんだー!」
「う、うぅ、み、皆して〜…
 そ、そうだ、じゃあ、ノノちゃんは誰か好きな人って居るの?」
余りにも自分が槍玉に挙げられるので、リズがノノにも同様の話を振ると、ベルベットもマリアベルも、そしてオリヴィエも、それは興味があるという様な顔で一斉にノノを見た。マリアベルやリズにはその相手の心当たりはあったのだが、本人の口から聞いてみたいという好奇心もあった。
「ノノ?居たよー、300年くらい前に」
「あ…」
しかし返ってきた想定外の答えに、皆一斉に表情が固まってしまった。普段の言動で忘れがちだが、ノノは既に千年という長い時を生きている。自分達が過ごした時間の長さなど、彼女にとってはほんの僅かなものであるという事を、こういう時に思い出すのだ。まずい事を聞いてしまった、とリズは己の軽率な質問を後悔した。
「ノノ、その頃見世物小屋に売られててね。そこから連れ出してくれた人なの。
 パパとママを探したいってノノがわがまま言って、ずっと一緒に旅をしたよ。
 ずーっと一緒に居てくれたの。…置いてかれちゃったけど」
「………」
ノノは笑顔を崩さず、当時好きであった男がどういう人であったのかを説明する。だがそれを聞いているリズ達は居た堪れず、苦しそうな切なそうな顔になる。彼女は昔も今も、「置いて逝かれる」側であるのだ。伝承ではナーガは五千年という気の遠くなる様な時を生き、これから向かうミラの大樹の上に作られた神殿の中に幽閉されている神竜の巫女、チキも三千年は生きているという。彼女達にしてみればノノの千年というのはまだまだであるだろうが、リズ達にとってみれば永遠にも思える時間だ。マムクートの中でも恐らく子供に分類されてしまうであろうノノでも、今まで数え切れない程の別離を繰り返してきた筈で、その中の別離に恋人とのものが含まれている事だって少し考えれば分かった事であるのに。
「でもね、今はオリヴィエもリズもマリアベルもベルベットも、
 みーんな居てくれるから、ノノさみしくないよ!」
「ノノさん…はい、はい…!」
それでも明るく笑うノノを見て、オリヴィエが真っ先に泣き出してしまった。この戦いの中、死なないという保障はどこにも無い。勿論それがフレデリクであっても同様で、置いて逝かれる事を考えると酷く恐ろしくなってしまったと同時に、ノノはその恐怖、悲哀を何度と無く繰り返し味わい生きてきたのだと思うと堪らなくなって、涙が出てしまったのだ。マリアベルもベルベットも同じ事を思い、リズもまた同様の事を想像してそれぞれ泣きそうになってしまったが、ぐっと堪えた。
「ごめんねオリヴィエ、せっかくうれしい日なのに。ノノ、わるい子だね」
「いいえ、いいえ、私達こそすみません…
 で、でも、今は私達がノノさんのお側に居ますからね。
 だから…そのぉ…」
泣かせてしまった事をノノが詫びると、オリヴィエは首を振ってノノに非は無い事を伝える。そして涙を指で拭いながら、拙くも心を篭めて思った事を言おうとしたのだが、どんな言葉で伝えれば良いのか分からなくてどもってしまった。それを受け、ベルベットが自分の言葉で続ける。
「私達を頼って頂戴ね。貴女の遊び相手にくらいは、きっとなれるから」
「そうですわ、ノノさん。また今度、一緒に紅茶を飲みましょう?」
「お兄ちゃんも誘うから、かくれんぼでも追いかけっこでも、何でもしようね!」
「ほんと?!うれしいー!みんなありがとー!」
クロム達の軍に加入するまではずっと一人であったノノは、誰とでも遊ぼうとする。誰かが居てくれる事が嬉しくて、遊んでくれる人を何時でも探している。それを知っているから、ベルベットもマリアベルもリズも遊びの提案をしたのだ。それが少しでもノノが感じている孤独を和らげると信じて。
「ねえねえ、ノノが摘んできたお花も使ってね?たくさんあるから!」
「うん、もっと豪華なブーケが出来るね!
 オリヴィエさん、もうちょっと待っててね!」
「は、はい、有難う御座います〜…」
そしてノノが持っていた花を花瓶に挿してリズに言うと、リズも大きく頷いてその花に手を伸ばした。オリヴィエはその光景を見ながら、、本当はリズに渡そうと思っていたブーケだったけれども、きっとノノに渡そうと思っていた。



天まで劈きそうな大きな樹を全員で見上げる中、ノノは体の不調を感じていた。熱っぽい気もするし、倦怠感がある。かと言って、風邪の症状でもない気がする。先だってのオリヴィエの結婚式の時にはしゃぎはしたが、その程度で疲れが出るノノではないし、人間と違って体が頑丈なマムクートであるノノは滅多に風邪などひかない。ひいても100年に一度程度だ。
「良いか、皆。木の内部に造られた階段で上へ登る事が出来るそうだ。
 しかし階段へ続く橋は、ヴァルム帝国軍によって封鎖されているらしい。
 これより正面突破する!各自、ユーリの指示に従って進軍してくれ!」
戦闘に先立って、クロムが声を張り上げる。クロムが鼓舞し、ユーリが彼をサポートしながら全軍を見渡して指示を飛ばす。勿論ユーリが全ての指示を出せればそれに越した事はないのだが、ユーリだって己が戦う事に忙しい時が殆どなので、所々に配置される者達は各々ある程度自由に動いて進軍していく。戦士達は何人かに分かれてグループとなり一般兵達を率いて進むので、それなりに指揮する力を必要とする。そんな人物を振り分けるのがユーリの仕事でもある。ノノはどちらかと言えばその指示に従って動くのが常だ。率いる事など出来ないと彼女は思っているので。
「おいノノ、大丈夫かぁ?何か具合でも悪いのか」
「へ?…ううん、大丈夫」
「そーかぁ…?何かあったらすぐ下がれよ、近くにセルジュも居るからなー」
「うん」
大樹の根元の西側から回り込む事になったノノに、同じくそちら側から回り込む指示を受けたグレゴが声を掛ける。彼は以前ユーリの不調を誰より早く見抜いたりした事もある程、周囲の者達の体調も見ていた。体の具合が悪ければそれだけ進軍に支障を来たす為だ。毎回天馬騎士や竜騎士は地上付近で戦う事もあれば上空から戦局を見てそれを地上の者達、特にユーリやクロムに伝える重要な役割を担っていて、セルジュも愛竜であるミネルヴァと共に空を駆けている。今回は自分達の周辺を旋回している筈だからとノノに伝えると、ノノも素直にこっくりと頷いた。一応ノノも竜石を使って竜に変身すれば空を飛べるのだが、体調が余り良くない時は自力での飛行は避けた方が良い。
「そら、お出ましだ。なるべく俺とかリヒトの側を離れんなよー?
 リヒトもこいつの援護頼むな」
「分かった。ノノ、あんまり無理しないようにね?」
「うん、ありがとう」
グレゴ達と共に進軍する、プルフを使って癒しの杖を使える様になったリヒトが、魔道書を見せながらノノを気遣う。ヴァルム帝国の兵士がこちらへ進軍しているのが遠目に見えたのでノノが手に持った竜石を高く掲げると、薄いピンク色の花弁の様なものが彼女の体を包んだ後に弾け、その中から淡い金色の竜が現れた。グレゴもリヒトも、何度見てもこれは詐欺だと思う。外見はあんな少女なのに、竜石を使って変身するとこうなるのだから。
ヴァルム兵の戦士達は、この場を率いているセルバンテスという男が優秀であるのか、それとも彼が仕えているヴァルハルトの強さの賜物なのか、退くという事を一切せず、クロム達の行く手を阻んだ。流石神竜の巫女を幽閉している神殿を封鎖するという指令を受けているだけあって、手練れの者が犇き、苦戦を強いられた。このヴァルム大陸はイーリス教とは違い神竜信仰が盛んらしく、その神竜の声が聞けるという巫女を奪還されてしまっては帝国軍も厄介であろうから、わざわざセルバンテスという将軍を派遣したのだろう。聞けば、セルバンテスは「破れざる将軍」という異名を持っているのだそうだ。その将軍が率いているのだから、統制も取れているし強い。ユーリはスミアから齎される上空からの情報を元に伝令を飛ばし、ティアモやセルジュなど、飛行出来る騎士を通じて連携を図らせた。孤立しそうな部隊にはいち早く知らせ、後方に控えるリズやマリアベルが癒しや救出の杖で援護する。ヴァルム軍も退く事はないが、クロム軍も全く退きはしなかった。
リヒトやノノは遠距離で攻撃が出来る為、グレゴの様に敵に接近して戦うという事が余り無い。但し離れすぎてしまえばまた別の敵からも狙われてしまうから、乱戦になると一定の距離を保つ事が大事になる。リヒトは大勢の戦士の戦いの記録をつけながらその事を学んだし、ノノはグレゴからそれを教えて貰った。近くで戦う事が多いからと、連携を図る為に二人で、時には他の者も誘って訓練を時折しているが、それは実戦できちんと役に立っている。最初にその特訓を持ちかけた時、ノノが今まで味わってきた苦労も知らずに軽率な事を言ってしまったグレゴは大いに反省して、それ以降余り彼女に特訓をしようなどとは言わなかったのだが、ノノが自主的にやろうと言ってくるので退屈しない様にと色んな者を誘って相手になって貰ったリ、時には自分にかかってくるようにさせている。ノノが遊ぶ約束をしていたからとクロムに断りを入れた時、一緒にその後の進軍の作戦を話していたユーリからもノノはマムクートで強いのだからそんな必要は無いのでは?と言われた事もある。確かに竜になったノノのブレスは凄まじいので傍目から見たらそんなものは無用の事かも知れないが、グレゴにはどうしても気になる事があった。
「おーい、ブレス吐く時はよーくタイミング見計らえよー!」
「はーい!」
それを忘れさせない様にグレゴが後方に居るノノに声を掛けると、元気の良い返事が聞こえてきた。リヒトもグレゴの言葉がどういう意味であるのかは知っている。良く見てる証拠だよね、とリヒトはくすっと笑った。
ノノが竜に変化してブレスを吐く時、どうしても息を吸うので自然と顔が上がってしまう。その際、喉元が無防備になってしまうのだ。グレゴが敵であればまずその瞬間を狙うだろう。特に変身すれば視界が狭まってしまうと聞いたから、尚の事狙いやすい。一瞬の隙をついて懐に飛び込み、そして喉元に剣を突き刺す。巨体を持つ相手であれば懐に飛び込めばこちらのものだからだ。無理矢理一緒に訓練させたロンクーやベルベットにも意見を聞いてみたが、彼らも同じ考えであったから、矢張り敵も似たような事を考えるだろう。だからグレゴは、ノノになるべく味方から離れず攻撃モーションに移れと何時も言っていた。
ヴァルム兵も初めて見るマムクートに戸惑い、警戒している様で、遠くの者はノノの攻撃を見計らっている様にも見える。そういった者達は間合いを詰めてグレゴが仕留めるか、または他の部隊に任せておけば良い。心配なのは弓を持っている者だ。上空を旋回して急降下するセルジュを狙われてしまわない様、細心の注意を払う。遠くて間に合いそうにない時は、リヒトが魔法を発動させたりノノがブレスを吐いたりなどして応戦していた。遠距離攻撃が出来る者が居ると、一気に戦いが楽になる。
だが、そんな中不意にノノは下腹部に鈍い痛みを覚えて動きが止まってしまった。体験した事の無いその痛みは彼女の思考を鈍らせ、攻撃のモーションをとらせない。激痛ではなく鈍痛であったし、今まで斬られたり炎や雷の魔法に打たれても変化だけは解かずに何とかその場を凌げていたのに、足先から下半身が冷えていく気がして思わず変化が解けてしまった。何だか気持ちが悪くて、だけど風邪の気持ち悪さではなく、正体の分からない不快感が襲ってくる。戦場なのだからこの姿のままでは危険だという事をノノは重々承知しているので、手の中の竜石を握って再度変化しようとしたその時、隙ありとばかりに敵兵の剣士が駆け寄って来ているのが見えた。これは間に合わない。思わず目をぎゅっと瞑ってしまったが、その次の瞬間にはその敵兵の悲鳴が聞こえてきた。
「ノノ!大丈夫?!」
「あ…リヒト、ありがとう」
少し離れた所に居たリヒトがノノの異常に気付いたのか、サンダーを敵兵にお見舞いしてくれたらしい。風魔法にしなかったのは恐らくノノを巻き添えにしない為だろう。戦場が大樹の側であるという事を考慮して、今回は炎の魔道書を使用する事はユーリから禁じられている。
「何だぁ、どーした?!」
「グレゴさん、こっちお願い!僕、風の魔法で一旦遠ざけるから!」
前に出ていたグレゴが後方の異常に気付いたのだろう、大声でリヒトに様子を伺ってきたので、真っ青な顔で腹部を押さえて膝をついてしまったノノの近くで同じく膝をついていたリヒトは立ち上がり様にそう叫び、周りに他の敵兵が居ない事を瞬時に確かめてからグレゴが居る方向へと魔道書を広げながら走り出す。それを受けてグレゴもリヒトと入れ替わる様に後方へと走り出し、擦れ違い様にリヒトが渾身の力を篭めてギガウインドを発動させた。勿論上空に居るセルジュを巻き添えにしない様に注意を払って。
「どーした、斬られたのか?!」
「あ…ううん、怪我じゃないけど、お腹が痛くて」
「はぁ?!…ってあんた、やっぱ怪我してるじゃねぇか!」
「え?」
そして退いてきたグレゴが素早くノノの側で膝をついて様子を伺ったのだが、攻撃を受けた訳でもないのに怪我をしていると言われ、ノノはグレゴの視線の先を見遣る。そこには確かに鮮血が流れていた。だが。
「………や……いやぁぁぁぁぁっ!!」
「なっ、なーんだよ、おいノノ、…… …あっ…!」
ノノはそれに気付くと更に顔を真っ青にして悲鳴を上げ、地面に突っ伏した。その反応にグレゴは戸惑ったのだが、何故ノノが悲鳴を上げたのかの理由に、彼女にとっては最悪な事だが気が付いてしまった。
鮮血が流れていたのは、ノノの大腿部の内側だった。それがガーターベルトに留められたピンクのストッキングを汚し、それを見たグレゴはノノが怪我をしたと勘違いした。しかし、それは怪我による出血ではない。それに気付いた瞬間、グレゴはノノが着けているマントを彼女に巻き付け、抱き上げた。
「いやーあぁぁぁぁ!!降ろして、はなして!!」
「セルジュ!おい、セルジュ!!今すぐ降りろ!!」
「やだあぁ!おねがいグレゴ、降ろして!!はなして!!」
「この…っ、じっとしてろ、暴れるな!!」
「っ!!」
ノノを抱き上げたグレゴが大声を張り上げて、上空を旋回しているセルジュを呼ぶ。だがノノが降りようと腕の中で暴れたので思わず怒鳴ってしまい、ノノは小さな体をびくっと強張らせて紫水晶の大きな瞳いっぱいに涙を溜めて彼を見上げた。成人男性から本気で怒鳴られたのが恐ろしかったのだろう、その瞳には怯えの色が見え隠れしている。しくったな、とグレゴは後悔したが、後の祭りだ。だが自分が怯えられても、ノノの名誉は守らねばならない。そう考えたグレゴの前に急降下してきたセルジュがミネルヴァから飛び降り、そして二人に駆け寄る。
「どうしたのノノちゃん!大丈夫?!」
「悪ぃ、こいつ任せる。一旦リズ達のとこまで退いてくれ。
 ここは俺達が何とかする。リヒト、平気か!いけるな?!」
「大丈夫だよー!だから早くこっち援護してー!!」
「悪ぃな、任せたぜ!」
抱き上げたノノをセルジュに渡すと、セルジュも同じ様にノノを抱きかかえた。と同時にノノはセルジュに抱き着いて思い切り泣き出したのだが、何が何やら分からないセルジュに説明など全くせず、グレゴは再びリヒトが居る方へと剣を片手に走り去って行った。ミネルヴァもノノを心配して様子を見ている様で、取り敢えずセルジュはミネルヴァの背に乗り、そしてその場から飛び立った。
「ノノちゃん、大丈夫?」
「うぅ、ぐすっ、うえぇ、」
「よしよし、もう安心よ、すぐにリズ達に癒しの杖を使って貰いましょうね」
「ち、ちがうの、ど、どこもケガしてない、の」
「え…?」
セルジュもこれで立派な戦士なので、血の臭いくらいはすぐに分かる。ノノからは血の臭いがしていたから彼女が怪我をしてしまったのだと思ったし、実際ノノのマントは血で汚れていた。しかしノノは、怪我などしていないと言う。悪いとは思ったが、セルジュはノノに巻かれたマントをそっと捲った。
「…あぁ、なるほど、そうだったのね。
 そう、ノノちゃん、びっくりしちゃったのね?」
「うぇ、うっく、う、うわあぁぁ〜ん!!!」
「よしよし、大丈夫大丈夫」
そしてセルジュが出血を確認し、漸く得心すると、ノノはセルジュの首に腕を絡ませて大声で泣き始めた。そんなノノの背をセルジュは優しく片手で撫でる。こんな状態でもミネルヴァの手綱をしっかりと持ち、バランスがとれているのは流石と言うべきだろう。武器の斧は取り敢えずミネルヴァを傷付けない様に背中のホルダーに挿した。
ノノの出血は、経血だったのだ。よりによってこんな時に、しかも敵地のど真ん中での出血だったものだから、ノノも混乱してしまって叫んでしまった。そして運の悪い事にノノにとってはこれが初潮であったものだから、尚の事どうして良いのか分からずに泣き叫び、グレゴがリヒトにも敵兵にも気付かれない様にとマントで包んで抱き上げてくれたのに暴れてしまったのだ。
「でもね、ノノちゃん、これで本当に大人の女性になったのよ。
 お祝いを言わせて頂戴ね?」
「そう、なの…?」
「そうよ。月経というのは知ってる?」
「…よくは、知らない…」
「月経はね、赤ちゃんを産める体になりましたよ、っていうサインなの。
 ノノちゃんの体も、子供を産める体になったという事よ」
「…そ、っか…」
長い時間を生きてきたノノであっても月経の事は詳しく知らず、自分の体の中の月も動いてはいなかったものだから、こんなに突然訪れるものだとは知らなかったのだ。セルジュも今まで接した事のあるマムクートはノノ以外居なかったので、マムクートという種族の女性達の体の作りは良く知らないのだが、生を受けて千年以上経って漸く次代の命を身篭れる体になるのだという事を今知った。この世の中に現在どれ程の数のマムクートが居るのかは定かではないけれども、それ程のまでの時が掛かるのであれば、人間達によって繁殖の機会を減らされてしまったのではないか。そんな事を思った。
やがてセルジュとノノを乗せたミネルヴァが後方のリズ達の元まで飛行し、降下すると、セルジュは素早くノノを抱きかかえ、傷付いた兵士達の手当てにあたっていたマリアベルを呼んだ。リズは重傷者に癒しの杖を振るっていて、声を掛けるのが憚られたからだ。マリアベルは兵士の包帯を手早く結び終えるとその場は息子のブレディに任せ、慌てた様子で二人に駆け寄った。
「セルジュさんにノノさん、どうなさったの?!
 お怪我でもなさったんですの?!」
「いいえマリアベル、どうか騒がないで。
 ノノちゃんが初潮を迎えたの。大事をとって戦場には出したくないのよ」
「まあ…!それはおめでたいですわ!
 …と、大声で言う事ではありませんわね。わたくしったらはしたないですわ」
マリアベルが心配そうにリライブの杖を片手にセルジュに尋ねてきたので、セルジュが小声で手短に説明する。するとマリアベルはぱあっと顔を明るくして声を上げたのだが、すぐに手で口元を隠して声のトーンを下げた。手当てをしている者達の手前、大声を上げて会話の中身をばらしたくない内容であるというのは女であれば誰だって分かる。
「汚れてしまっているから、何か着替えをよろしくね。
 それと…」
「承知致しておりますわ。殿方がいらっしゃらない所で休息させます」
「ふふ、流石ね。じゃあお願いね、私すぐに戻らないといけないから」
マリアベルも小柄ではあるが何とかノノを抱える事くらいは出来る為、セルジュからノノを受け取り、抱きかかえる。ノノは下半身を汚してしまっていて、自分で歩くと他人にばれてしまうからだ。緊急治療用の簡易天幕も設けているから、一旦そこで着替えさせて休ませた方が良いとマリアベルは判断し、セルジュにお気を付けて、ご武運を、と述べ、セルジュも有難うと応えた。
「セルジュ!あの…ごめんね、ありがとう」
「どういたしまして。今日は私達に任せて、大事をとってね」
「う、うん。…あと、あのね、」
「ノノちゃん、それは後で自分で言ってあげて頂戴。
 ふふ、大丈夫、私とミネルヴァちゃんが首根っこ引き摺ってでも連れてくるから」
「…うん」
そしてミネルヴァに乗り、飛び立とうとしたセルジュにノノが礼を言ったのだが、その後に言おうとした言葉は遮られてしまった。セルジュにはノノが何と言いたかったのか、否、誰に何を伝えて欲しかったのかは分かっていた様だ。セルジュはノノが小さく頷いたのを確認してから、今度こそミネルヴァを飛び立たせた。それと同時に、マリアベルが踵を返して足早に天幕へと向かう。
「ごめんねマリアベル、忙しいのに」
「いいえ、今は随分と戦線で杖を使える方も増えましたから、
 以前に比べてわたくし達もそこまで忙しくありませんの。
 今は天幕に誰も居りませんから、着替えて下さいまし」
「うん…」
天幕に入ってやっと足をついたノノは、改めてストッキングやマントが経血で汚れてしまっているのを確認した。マリアベルが手早く用意した着替えは頭からすっぽりと被るワンピースであったけれども、流石女性の事を心得ているマリアベルは下着も月経の際に使用する様なものを用意してくれていた(※注:恐らくFE世界の女性達は月経になったとしても経血は全てトイレで排泄出来る様な下半身の持ち主だとは思いますが、貴族や王族の女性は下半身を鍛える機会が殆ど無い為に布製の用品はあるのではないかと考えております)。そして着替え終わって経血で汚れたストッキングやマントを見ると一気に恥ずかしいやら何やら、訳の分からない感情が沸き起こってきて、ノノはぺたんと座り込んでしまった。
「う…ぐすっ、…うぅ…」
「ノノさん?どうなさったんですの?」
「どうしたのノノちゃん、お腹痛いの?」
じわ、と涙が出てきて思わず泣き声を上げると、マリアベルが呼んだのだろう、リズも少し慌てた様に天幕の中に入ってきた。怪我人はブレディ一人に任せても大丈夫なくらい、戦局がこちらに優位に傾いてきているのだろう。一応は畳まれたノノの衣類は、マリアベルが布袋の中に入れて使用済みの包帯などを入れた籠の中に入れた。後で洗う為だ。
「う、うぅ、う、っく、」
「だ、大丈夫?びっくりしちゃった…?」
「…ノノさん、ひょっとして、
 セルジュさん以外のどなたかに見られてしまいましたの?」
「う、う、うわあぁ〜ん!!」
「ず、図星ですのね…」
ぽろぽろと涙を零すノノに、もしや、と思い至ったマリアベルが問うと、ノノは答える代わりに一層泣き声を大きくした。考えればノノをここまで連れて来たセルジュは飛竜に乗って上空を旋回していたりもするのだから、ノノの異変にすぐ気付いたとしても直行出来るのかという疑問もあるのだ。
「もしやリヒトさんですの?
 でしたらわたくし、忘れる様に杖で殴っておきますから!」
「ちょ、ちょっとマリアベル、いくら治療の杖でも殴ると痛いよ!」
「痛いくらい殴らないと忘れないではありませんの!」
「ち、ちがう、リヒトじゃない、の」
ユーリが出していた指示を思い起こしながら、マリアベルがそう言えば自分の夫であるリヒトがノノと行動を共にしていたと言う事を思い出して持っていたライブの杖をぎゅっと握ったのだが、ノノはしゃくり上げながら首を振った。確かにリヒトは変化が解けたノノにいち早く駆け寄って助けてくれたが、彼女の下半身の異変に気付く間も無く風の魔法で一旦敵を怯ませ遠ざける為に走り去った。見たのはその後側に来た男だ。
「…あ、じゃあ…」
「ひ、っく、うぅ、 うえぇ、」
「そ、そっか、それは…」
「お、怒られた、あ、あばれるなって、うぅ、」
「…え、怒られた?」
そしてマリアベルより先に気が付いたリズが、とても気まずそうな顔をした。ノノと同じく大樹の西側から回り込んだいくつかの部隊の中にはグレゴが居た筈だ、とリズは気が付いてしまった。一呼吸置いた後にマリアベルもどうやら気付いた様だ。しかし怒られたという言葉の意味が分からなくて思わず聞き返してしまったのだが、マリアベルも怪訝な顔でまたライブの杖を握り直した。ノノの回答によっては多分グレゴを殴るつもりだ。
「ば、ばれない様に、抱えてくれたのに、 …っく、
 は、恥ずかしくて、…ぐすっ、あ、あばれちゃったから、
 おこ、怒られ…っ」
「だ、大丈夫だよ、多分つい怒鳴っちゃっただけだと思うよ?」
「や、やだよぉ、もう遊んでもらえないのは、いや…っ」
「大丈夫ですわノノさん、
 万が一そんな事ありましたら、わたくしがこの杖でタコ殴りにしてさしあげますから」
「やめてマリアベル、いくらグレゴさんでも死んじゃう」
「うええぇ〜ん!!」
マリアベルとリズの掛け合いをよそに、ノノは声を張り上げて泣いた。怒鳴られたのが怖かったのもある、見られて恥ずかしかったのもある、病気でも何でもないのに退いてしまった申し訳なさもある。だがそれ以上に嫌われてしまったのではないか、役立たずだと思われてしまったのではないか、もう遊んで貰えないのではないか、もう二度と手を繋いで貰えないのではないかと思って悲しくなってしまったのだ。
イーリスの城下で手を引いて貰ってからというもの、ノノは行軍中に立ち寄る街で買出しなどに出る時、グレゴが一緒であれば手を引いて貰う様になっている。その方が迷子にならないからだ。一緒でなければ迷子になる確率は高く、それ故今ではグレゴはユーリから極力ノノの手を引いて歩けと言われる様になってしまった。その時もグレゴは保護者じゃねぇんだ俺は…とぶつぶつ言いながら、それでもちゃんとノノの手を引いて歩いてくれた。ノノが歩きやすい様に歩幅も心なし小さくして、色んなものに興味を持って立ち止まる彼女を諌めながら、他の者達と逸れてしまわない様に。
「…ねえノノちゃん、ノノちゃんは、その…、」
「グレゴさんの事がお好きなんですの?」
「うわ、物凄くストレートに…」
「わたくし、回りくどい事は嫌いなんですの」
リズがとても聞きにくそうに、それでも思い切って尋ねようとした事を、マリアベルはあっさりと尋ねた。リズもマリアベルも、オリヴィエの結婚式の準備の際にノノが誰が好きであったのかを聞いていたから知っている。だが彼女の今のこの反応は、好きな相手に嫌われる事を恐れる少女そのままだ。
「わ、わかんない…で、でも、」
「でも?」
「も、もう、手、つないでくれないのは、やだぁ…っ」
昔、恋人であった人の手の様に、硬くて大きくて無骨で荒れていて、だけど柔らかな温かさがある手。あの手がもう自分の手を引いてくれないと思うと、酷く悲しくなる。好きか嫌いかと尋ねられれば好きだと言えるが、ではそれが男女間での好きであるのかと問われるとノノには分からない。分からないが、手を繋いで貰えないのは嫌だと思った。
「心配しないでノノちゃん、きっとまた手を繋いでくれるよ。
 だってほら、グレゴさんが手を繋ぐのってノノちゃんだけじゃない。
 …あのね、気を悪くしないで聞いてね?
 ほら、ノノちゃん、背格好が私と同じくらいで、子供に見えるでしょ?
 でも、子供だって思ってたノノちゃんが大人になった所を見ちゃったから、
 きっと物凄くびっくりしちゃったんだと思うの。
 びっくりしちゃったから、動揺して怒鳴っちゃったんだと思うな」
「う、ふぇ、ぅ…っく、」
「いっつも子供扱いするんだから、ちょっとは悩んで貰わなきゃ。
 ね、マリアベル」
「そうですわね、わたくしを含めた女性に対してはそれなりの態度で臨んでいますのに、
 言われてみればノノさんにはそういう感じではありませんでしたもの。
 反省して戴こうではありませんの」
「…あり、ありが…と、リズ、マリアベル…」
二人が言葉を選びながら自分を慰めてくれているという事に気付いたノノは、呼吸を落ち着けながら礼を述べた。確かにノノを抱き上げてくれた時のグレゴは明らかに動揺していたし、当たり前かも知れないが殆どノノを見る事無くセルジュに引き渡した。否応なくノノが女であると認識せざるを得なくなってしまったのだろう。グレゴの中で唯一の「子供」であったノノが「女」になってしまったのだ。それは喜ばしい事だとリズは思っている。何せリズは川原での一件を知っている。今まで強引に「子供」だと自分に思い込ませていたに違いない、とリズは含み笑いを浮かべた。
「伝令ー!セルバンテス将軍、退却!!クロム様が勝たれたぞー!!」
その時、天幕の外から伝令の使者の声が響き、クロムが無事にセルバンテス将軍を撃破した事を伝えた。退却だという事は討ち取ったという訳ではないという事で、また対峙するかも知れないという事だが、それでも勝ちは勝ちだ。この大樹の上にある神殿まで進み、神竜の巫女を奪還出来る。
「ああ、良かった、お兄ちゃん無事みたい。
 じゃあ私、お兄ちゃんの様子見てくるね。
 マリアベル、ノノちゃんの事お願い」
「ええ、任せて下さいまし」
事前の作戦会議で、この場を突破出来たら神殿に上がる人間を決めていて、その内の一人にリズが含まれていた。何せ幽閉の場に使われているとは言え、神殿に行くのだ。全軍でぞろぞろと上がる訳にもいかない。大半の者は根元に残り、クロムやユーリ達の帰還を待つ手筈になっている。万が一の奇襲にも備える為だ。
ノノは、恐らくこの場まで退いてくるだろう者達の中に居るグレゴに会いたい様な、会いたくない様な、複雑な気分に駆られていた。礼も言いたいし、詫びも言いたい。それはリヒトにも同様なのだが、リヒトに対しては会いたくないという思いは無かった。申し訳ない気持ちはあっても素直に礼を言える気がしたからだ。だがグレゴに対してはどうであるか、ノノには分からなかった。生きてきた中で大人の男に怒鳴られた事も多かったが、あんな風に身近な(とノノは思っている)人間から怒鳴られた事が無かったものだから、会うのが少し怖い。それでも大声で泣いたらすっきりしたし、リズやマリアベルに落ち着けて貰ったから幾分か気持ちも晴れたし、勇気も貰った。だからグレゴが戻ってきたのなら詫びた後に礼を言って、仲直りの握手をしようとノノは思っていた。