……とは呼ばないで

 ノノは物心ついた頃には既に側に両親が存在しておらず、故に彼女には親の記憶というものが無い。どうやら自分は生まれて間もない時に人間に攫われた様であると分かったのは何百歳の時であったか、ノノにはもう覚えが無いのだが、自分を守ってくれる筈の存在が無かった為か彼女はマムクートの中でも比較的早い年齢で戦う事を覚えた。長寿のマムクートは特殊な石で竜の形態に変身出来、誰から与えられたのか、それともマムクートの本能がその石を使って変身出来ると思わせたのか、それは分からないが、とにかく彼女は幼い頃から自分を捕らえようとする人間達から逃れる為に戦ってきた。
 竜族であるが故に成長が遅いノノは、千歳を超えた現在でも尚こどもの様な外見であるし、言動もこどもじみている。実際、マムクートの中では千歳はまだこどもの部類だ。人間にしてみれば千年など気の遠くなる時間だが、ノノにしてみれば人間はひどく短命で、仲良くなったと思えばすぐに居なくなってしまう、刹那的な生き物だった。まだ赤子だった自分を攫った人間の様に、所謂「悪い人」も居れば、ノノに親切にしてくれる「良い人」も沢山居た。長い年月を生きてきたノノはそういう「良い人」に世話になった事も多く、だから彼女は人間に敵対心というものをあまり抱いた事が無い。純粋と言えばそうであるし、警戒心が無いと言えばそうでもある。しかしノノの中にはちゃんと「良い人」と「悪い人」の基準があり、その基準に則って生きてきたつもりだ。勿論、外れる事も多いのだけれども。
 あの時だってそうだった。捕らわれていた自分を連れ出してくれると言ってくれたのに、そう言ってくれた相手の顔が怖くてノノの中では瞬時に「悪い人」に分類され、逃げてしまった。結果的には、逃げたノノを慌てて追ったその男を追って、ノノを捕らえた者達から取り囲まれてしまったのだが、男はそれでもノノに対して文句の一つも言わずに守りながら立ち回ってくれた。顔で判断してはいけないとノノだって分かっていた筈であったし、それまでの経験から言って怖い顔をしている人間が必ずしも悪い人間ではないと知っていたから尚の事男に申し訳なくて、無事に切り抜け偶然通り掛かったイーリスのクロムという聖王の弟が率いる軍に保護してもらった時に泣きながら謝ると、おじちゃんじゃなくてグレゴさんて言えと明後日の方向の返事が返ってきた。どうやらグレゴと名乗るその男は、ノノに悪人に間違われた事よりもおじちゃんと呼ばれた事の方がショックであったらしい。見るからに「おじさん」という風貌であるが、そう言われるのは嫌なのだそうだ。変なの、とノノは思ったが、助けてくれた礼にと自分の鱗を縫い込んだ腹巻を渡す時にそれを忘れておじさんと言ったら再度「グレゴさん、だ」と言われ、ノノはそれ以来きちんと彼の事は名前を呼び捨てている。彼女には、さん付けをするという概念は無いので。
 ノノに怖いという第一印象を与えたグレゴは、しかし見た目に反して実に優しかった。二人一緒にイーリス軍に加入したからなのかは知らないが、エメリナを奪還する時も、それに失敗して退却する時も、再度ペレジアへ攻め入りギャンレルを討った時も、彼は殆どノノの近くで立ち回り、そして庇ってくれた。軍師のルフレもそしてクロムも、ノノの事は「あんたに任せる」とグレゴに言っていたからなのかも知れない。不承不承だったのか、自分がギムレー教団から連れ出した責任感があるのか、それはノノには分からないが、気に掛けてくれた事は事実だった。ひょっとしたら腹巻を作った際に竜形態の時の鱗をいくつも使ったものだから、防御が落ちる分俺が守るから側を離れるなと言っていたのを継続してくれているのかも知れない。もうとっくに治ってるのに、とノノが言っても、どうもグレゴは気になるらしく、納得した様なそうでない様な顔で曖昧に頷くだけだった事をノノは覚えている。
 ペレジアとイーリスの戦争が終わった後、ノノはこの後どうするのかと尋ねられたが、故郷も知らないし身寄りも無いし、ペレジアの王を討ったからと言ってギムレー教が無くなった訳ではなく、故にまた狙われる可能性もあるという事で、イーリスで過ごさせてもらっていた。彼女としても仲良くなれた者達とすぐに別れるのは悲しかったし、また一人になるのも嫌だったので、イーリスに滞在しておくと良いよと聖王になったクロムの妹のリズが言ってくれた事は有難かった。そしてグレゴはどうするの、とノノが何気なく尋ねると、彼は昔の顔馴染みだと言う西フェリアの王であるバジーリオの元で暫く働く事になったらしく、所在が分からなくなる訳ではなかったから、ノノにも何故かは分からないがほっとしたのだ。
 多分、ノノはグレゴに、見た事も無い父親を重ねていたのだろう。背格好が似た男はイーリス軍には多く居たが、見た目の年齢で言えば彼が一番父親を投影しやすかった。だからノノも自然と他の者達に対して提案する遊びとグレゴに対して提案する遊びを別物にする様になってしまった。その事に対してグレゴは不満を言った事は無かったが、どことなく複雑な表情はしていた様にノノは思う。しかし改めるつもりは全く無かったし、グレゴも半ば諦めている様でもあった。
 ノノの遊びはそれなりに体力を使うものも多く、それ故に野営に戻る頃にはグレゴがくたびれている事も多かった。それでも彼は殆どノノの誘いを断った事が無かった。ギムレー教団に捕らわれていた時の事を不憫に思っていたからなのかも知れない。しかしヴァルム帝国が攻め込んでくるとの情報が正式に入って再度行軍を共にする様になってからは僅かに距離を置かれていて、仕方ないとは言えノノはそれを寂しく思うのだった。



 何か温かなものに包まれ、浅いまどろみの中を揺蕩っていたノノは、不意にその温もりが離れようとしたのを感じて無意識の内にしがみついた。それはノノがとても安心出来て心地好いものであって、離れてしまうのが嫌だったからだ。しかしまだ覚醒していない意識の中、耳に入ってきた声は、彼女を完全に現実へと目覚めさせた。
「おーい、いい加減起きろ。俺ぁあんたの布団じゃねぇぞー」
「……んー……」
 細い肩を優しく揺さぶられ、身を捩って温もりの方へ体を向けると、仕方なしに引き剥がされてノノの体から完全に何かの温もりは離れてしまった。それが悲しくて目を閉じたまま顔を顰めたのだが、頭を撫でられた感触に渋々と目を開くと、見覚えのある服が視界に飛び込んできた。
「お、やーっと起きたかぁ。ほれ、降りた降りた」
「うぅー……もう少しー……」
「寝るのは良いが、俺の膝から降りてくれるかぁ?」
 呆れた様な声が上から落ちて、そこで漸くノノは自分がどこで寝てしまったのかを思い出し、目を手で擦りながら妙な声を上げると名残を惜しむ様に目の前の胸板にぐりぐりと額を擦り付けてから、やっと要求通りに座っていた所から降りた。まだ眠っていたかったのだが、他人の膝の上で一晩寝る訳にもいかないという事は流石のノノだって分かる。
「泣き疲れて寝るとか、あんたやっぱり子供みてぇだなー」
「むうー、ノノはこどもじゃないもん!」
「はーいはい、足は? 痛くねえか?」
「……うん」
 自分の膝から降りた自分に苦笑しながら尋ねてきたグレゴに、ノノはちょっとだけ決まりの悪そうな顔になる。もう傷はすっかり塞がっていても僅かに痺れが残っていて、だけどそれを言えばグレゴも困ってしまうだろうからと思うと、尚の事そんな顔になってしまった。
 イーリス軍はヴァルム大陸に渡ってからも、帝国との戦を続けていた。帝国軍は強く、故にイーリス軍もかなりの損害を被っている。怪我人も衝突の度に出ているし、それはノノだって例外ではなかった。彼女は変身して戦えるのだが、竜に変身すれば嫌でも戦場では目を引くし、体の大きさ故に狙われやすい。今日は足に深手を負ってしまい、あまりの痛みに変化が解け、斬られそうになった所をグレゴが助けてくれたのだ。
 ただ、近くに癒しの杖を振るえる者が居らず、グレゴは血が出て泣くノノを抱えて一旦後方に下がらねばならなかった。まだ安全と思われる場所まで下がり、彼がいつも所持している真鍮製の小さな容器に入った酒を傷口に掛けられた時、彼は自分の肩にノノの顔を埋め、そして言ったのだ。これ掛けたらすっげー痛ぇけど大声出すと敵に見付かっちまうから、俺の肩噛んどけ、と。
 グレゴはノノがマムクートである事を、当たり前だが知っているし、彼女の犬歯が人間よりも鋭いという事を勿論知っている。だからノノが思い切り噛んでしまえば最悪肩の骨が砕けるという事くらいは予測していた筈なのだが、それでも構わないと思ってくれたのか、噛む事を許してくれた。酒が傷口に掛けられた瞬間は熱いとしか思えなかったが、その後は激痛が走り、ノノが泣きながら彼の肩を噛むとグレゴから痛みの声が漏れたのが聞こえたけれども、一言も文句を言われなかった。消毒を済ませ、自分の服の袖を破いて引き裂き止血の為に縛ったグレゴは、痛みで泣くノノによく頑張ったな、と頭を撫で、異変に気付いて急降下してくれたセルジュに彼女を託すと、再度前線へと戻って行ってしまった。
 助けてくれた礼も、応急手当てをしてくれた礼も、そして噛んで痛い思いをさせてしまった詫びも言えなかったノノは、リズにきちんと癒しの杖を振るってもらい、戦闘が無事に勝利で終わった後に引き揚げてきたグレゴを足を引き摺りながら探していた。癒しの杖を使って傷を塞いでも、体内の痛みや痺れは中々取れるものではない。すぐに杖を使えない場合はグレゴがしてくれた様に応急処置が必要であり、するとしないとでは傷の回復の速さが違う。ノノは比較的処置が速かったしすぐに杖を使ってもらえたので治りは早かったのだが、やはり痺れは残っていた。そしてやっと見付けたグレゴはノノに使ってくれた酒が入った容器を顰め面で逆さまにして血と埃で汚れた服を脱いで露わになった肩に掛けていて、ノノはそこで自分が噛んだ痕がこの日彼が受けた傷の中で一番深いものだと知った。それが居た堪れなくて、申し訳なくて、また泣いてしまったのだ。
 まさかノノが自分を探していたとは気付かなかったグレゴは、わあわあと泣く彼女を宥めながら肩を拭いて着替えの服を着ると、陣営内で泣かせるのも忍びないと思ったのかノノを背負って野営の外れを散歩してくれた。肩は杖を使わないの、と泣きながら聞くノノに、彼はこの程度の怪我に杖使ってちゃキリねえだろと、そんな深い怪我でもねえのにと笑った。彼は傭兵だ、服を脱いだ上半身に見えた無数の傷跡は、確かに今まで彼が生きてきた中でいちいち杖を使っていられなかった状況を物語っていた。
 広い背中の体温と、ゆっくりと歩く振動と、泣いた事による疲労が心地好く、グレゴも殆ど喋らずにいてくれたものだから、ノノは背負われたまま眠ってしまった。そしてグレゴは野営に戻って天幕で寝かせてくれようと下ろしたのだが、ノノがぐずって彼にしがみついてしまったのだ。仕方なくグレゴは座ったままノノを寝かせていたけれども、いい加減自分もやる事があるからと起こしたのだろう。武器や防具と言った、グレゴの商売道具と言っても良い武具の手入れは彼の日課だ。怠れば万一の事もあるかも知れない。それはグレゴがよく知っていたし、手入れをする理由を彼から聞いていたノノもちゃんと理解している。
「ま、無理はすんなよ。明日はまた結構進むらしいし、痛くなったら誰かにちゃんと言え」
「うん。今日はありがとう」
「どーういたしまして」
 天幕の入り口を捲るグレゴから言われた忠告に、ノノもこっくりと頷いて素直に返事をする。お父さんってこんな風に面倒見てくれるのかな、心配してくれるのかな、と思いながら、彼女は天幕から出て行くグレゴの背を見送った。
 何度も述べるが、ノノは自分の父親を知らない。しかし、今まで生きてきた中で誰かの父親という存在は数多く見てきた。少年がすぐに大きくなって父となる様を見てきたノノには、この軍に所属する男達もすぐに父親というものになるのだろうという思いがある。しかし彼女にとってグレゴは既に父の様なものであって、彼がこれからどうこうという想像はつかない。自分よりうんと年下なのに父親と思わせるグレゴの背中の温もりを思い出しながら、ノノは再び眠る為に横になった。



 雲一つ無い青空の下、額の汗を拭って一息吐く男が一人。暑がりの彼は汗かきでもあり、僅かに塩を入れた水筒の水を一口飲んで栓を締めると、服の襟を抓んでぱたぱたと扇ぎ、熱が篭った服の中に空気を送り込んだ。気温はそこまで高くはないのだが、戦で負った体の傷を一般市民に見せる事を嫌う彼は暑くても長袖を着用する為、余計に汗をかいてしまう。なので、外での作業をする時に飲用する水には必ず僅かに塩を入れた。
「ねえねえ、ノノにもちょうだい」
「んー? あんたも水持って来ただろぉ?」
「飲んじゃったんだもん」
「あーのなあ……だから飲む配分考えろって言ったろー?」
 その彼に――グレゴに水をねだったノノは、困った様な顔をして自分よりも大きな彼を見上げる。飲むには井戸がある所まで行って汲み上げなければならない水は、どこに行っても貴重なものだ。自分よりも長く生きているノノならばそんな事くらいは知っているだろうにとグレゴは半ば呆れたのだが、仕方なしに溜息を吐くとちゃぷんと音がする真鍮製の水筒を彼女に寄越した。
「ゆっくり飲めよ、塩入ってるからなー」
「うん、ありがとう」
 人間に限らず生物には塩が必要不可欠であるという事を本能で知っているノノには、口に含んだ生温い水が僅かにしょっぱい事も然程気にならない。しかし長い事生きていても殆ど一人であったノノは知らない事も多く、人生経験が豊富なグレゴは様々な事を教えてくれた。やっぱりお父さんだ、と一人で笑ってしまったノノにグレゴが不思議そうな顔をしたが、何でもないと首を振った。
 ヴァルム軍との交戦は未だに続いている。その行軍の合間に休息日を差し挟む事もしなければ兵士達の体力が保たないし、食料調達や武具の修復、衣類の補修などの雑事をやる日を設けている。グレゴはそういう日に、通り掛かる街や村でちょっとした依頼を受けては報酬を貰っていた。それは傭兵業と関係あったり無かったりしたが、今回受けたものは全く関係無く、老夫婦が住む家のぼろぼろに塗料が剥げた柵のペンキ塗りだった。柵自体はそこまで腐食していなかったし、ニスを塗った上からペンキを塗れば当分保つとグレゴは判断したらしい。軍が設けた休息日は二日であるから、家を囲む柵を全て新調するには時間が足りない。
 ヴァルム帝国の圧政に苦しめられている地域も多いとは言え、イーリス軍がこの大陸の住民にとって侵略者である事には変わりなく、余程の事が無い限りはグレゴもイーリス軍に従事していると口にしない。事を荒立てて個人的な依頼を狭めるのを避ける為だ。ノノにもきちんとその事を説明しているから、彼女は今日の様にグレゴについて来る時はクロム達の名を口にしない様に心掛けている。二人はそこまでべったりと行動を共にしている訳ではないのだが、今日はたまたま危険の無い依頼である事、ノノと遊べる者が殆ど全員忙しかった事もあり、ついて来たという訳だ。依頼主の老夫婦もグレゴの娘と勘違いしていたが、今まで幾度と無く同じ勘違いをされてきた彼はいちいち説明するのも億劫になってきていたので、もう否定する事も無く曖昧に笑って受け流す様になってきていた。ノノはそれに対し不満もあったのだが、言ってもグレゴはまともに取り合ってくれないので渋々黙っている。
「グレゴ、ペンキ顔についてるよ?」
「マジかー。まあ良いわ、しょーがねえ」
 グレゴは軍内に居てもこういった大工仕事を引き受ける事も多く、作業服も自前で持っていて、セルジュやティアモが小綺麗に手入れしてくれているとは言え使い古されてくたびれている。今日はその作業服が所々ペンキで彩られ、汗を拭う際に軍手をしたままタオルを使う訳にもいかず、汚れに気付かず袖で拭ったりもしたものだから、頬に青い塗料が付いてしまっていた。が、不可避の事故だとして、グレゴもちょっとだけ眉を顰めただけで、特に気にしなかった。
 ノノは、今までにもこういう光景を見た事がある。その家の父親が仕事休みの日に家の修復などの為に鋸や金槌、刷毛を持って作業している姿を、故郷を探す放浪の中で見てきた。中にはあんな人でもするんだ、とちょっと心配な体格の男も居たけれど、グレゴは何と言うか、実にこういう格好がよく似合っていた。面倒見の良さや人付き合いの良さ、相手に合わせた適度な距離の取り方は大体の人間に好感を持たせる。人相で損をしている部分は否めない――実際ノノは初対面の時に逃げてしまった――が、話していく内に愛嬌があるという事も分かる。ただ、人は見掛けじゃねえとは言うが、初対面じゃ見掛けで判断されちまうしなあ、といつだったかグレゴがぼやいていた事をノノは覚えていて、全くその通りだとも思うのだが。
「まあまあ、有難う、朝からご苦労様。お食事作ったのだけど、少し休憩なさらない?」
「あー、お気遣いすんませんね。んん……、あとちょーっとやったらキリ良いんで、先にこいつ食べさせといてくれますか」
 再び刷毛を持って青い塗料が入った缶の中に入れたグレゴに、家主の片割れである老婦人が声を掛けた。決して華美ではないが品の良さそうな出で立ちは、よくグレゴを雇ったものだと思わせてしまう程である。何でもヴァルム港方面に子供が仕事を見付けて移住したらしく、今では足腰が弱った夫と二人で慎ましく暮らしているそうで、息子の背格好がグレゴに似ているのだそうだ。それを聞いた時、人相は似てないだろうとノノは思ったのだが黙っていた。
 グレゴは作業が終わった箇所とまだ終えていない箇所を眺めてからノノを指差し、一旦帽子を脱いでから再び被った。中が蒸れて暑かったのだろう。ノノはどちらかと言えば一緒に食べたかったのだけれども、彼女はこの行軍の中で我儘ばかり言わない事を覚えた。ノノの我儘というのは元はそういう事を言える相手が今まで居なくて、言える様になったからこそ言えていたのだが、グレゴやユーリ、サーリャ達から宥められ、矯正されつつあった。
 まだ作業を続けるグレゴを置いて、ノノは老婦人の言葉に甘え敷地内に入って食事を摂らせてもらう事にした。小さな庭にセッティングされたテーブルには彩り豊かな食事が用意されている。
「わあー、美味しそう! ねえねえ、本当に食べていいの?」
「勿論よ、その為に用意したんだもの。私達おじいちゃんとおばあちゃんだからいつもはこんなに沢山作れないんだけど、作るの大好きだから食べてくれると嬉しいわ」
 ノノはまだ分からないが、確かに年を取った者は若い者に比べると少食だ。しかしこの老婦人は食事を作る事が好きであるらしく久しぶりに色々作る事が出来て楽しかったらしい。ノノはそれなりに食べる部類であるから、にこにこしながら可愛らしく頭をぺこっと下げて礼を言った。
「ノノちゃんは、グレゴ君の一人娘になるのかね?」
 そして全粒粉を使った素朴なパンをスライスしたものに用意されていた野菜やハムを挟んで食べていたノノに、老紳士がにこやかに尋ねた。まだ口の中にパンが入っていたノノは、首を振って咀嚼し嚥下してから答える。
「ううん、本当は娘じゃないよ。親子じゃないの」
「じゃあ、養子みたいなものかな」
「あ、ノノそれ知ってるよ。自分のこどもじゃないけど、自分のこどもにすることだよね?」
「物知りね、そうよ。養女になるのかしら?」
「ううん。でも、お父さんみたいだなーって思う事はあるかなあ」
 老紳士の呟きを受けてノノが言った言葉に老婦人が尋ね、それにもノノは首を振る。なるほど確かに血の繋がりも無い、養子でもないのに仕事についてくるというのは、端から見れば不思議だろう。朝ここに来た時にお守りで連れて来たけど気にしないでくださいねー、とノノを指して言ったグレゴに、老夫婦は僅かに不思議そうな顔をしただけで何も聞いてはこなかったのだが、やはり疑問はあったのだろう。似てないのは母親似という事で片付ける事は出来ても、ノノはグレゴの名を呼び捨てにするから、どういう関係であるのかと勘ぐるよりは直接ノノに尋ねた方が早いと思ったに違いない。
「あのね、ノノ、悪い人たちに捕まってたの。グレゴはそこから逃がしてくれたの」
「連れ出してくれたという事かい?」
「うん。それでね、今でも危ない時はよく助けてくれるよ」
「まあ、まあ、それはまるでお父さんというより、お姫様を助ける騎士様って感じねえ」
「……きしさま?」
 老婦人が言った言葉に、ノノはきょとんとしてフォークに刺したレタスを口に運んでいた手を止めた。「騎士」という単語があの男に結び付かなかったからだ。
グレゴはノノがギムレー教の者達に囚われている所を助けてくれたし、戦闘中でも良く気に掛けてくれるし、いつかの様に怪我をした時に自分が痛い思いをしてでもノノの手当をしてくれる。それは確かにノノにとって物語の中の騎士の様な役割をしてくれているが、かと言ってあの男を指して「騎士」とは言えない気もする、とノノは思う。……自分を「お姫様」と評してくれた事はまんざらでもなかったけれども。
「騎士がどうかしたかあ?」
 その時、キリの良い所まで作業を終えたのか、作業着のボタンを外して麻のシャツを見せ、タオルで首筋を拭きながら三人の元へと歩いてきているグレゴが間延びした声で尋ねてきた。先に井戸で顔を洗ったのだろう、いつも上げている前髪が僅かに下りて水が滴っている。幼少のみぎりには飢える事も多かったらしいグレゴは食事に対して、また糧となってくれる作物や家畜に対して敬意を払う傾向があり、戦闘中で潜んでいる時でもない限りはちゃんと身形を小綺麗にするので、汗だくのままこの場に来る事は憚られたのだろう。
「あー、すんませんね、こーんな立派な飯……食事用意してもらって。良かったなー、ノノ」
「うん、おいしいよ! グレゴもよかったねー、お仕事もらえた上にごはん食べさせてもらえて」
「お、おお……」
 普段は粗忽な物の言い方をするグレゴであるが、相手によってそれなりに敬意を払ったり、敬語を使ったりする事もある。軍内でも彼がさん付けして敬語を使うのはバジーリオとフラヴィアに対してのみだ。そんなグレゴでも、老婦人が自分とノノに用意してくれた食事を「飯」と言うのは失礼だと思ったのか、きちんと言い直した。が、ノノはそんな事には気付かず、暗に食事も報酬として貰えて良かったねと言ったので、グレゴは顔を引き攣らせて笑った。
「ふふふっ、ノノちゃんは裏表無いのねえ。さあさあ、グレゴさんもお食事どうぞ。朝からずっと作業して、お腹空いたでしょう」
「これが張り切って沢山作ってしまってね。食べてもらえると有難いよ」
「有難う御座います、んじゃー、遠慮なく」
 不幸中の幸いは、老夫婦がそんな事は気にせずグレゴに座る事を促してくれた事だろう。彼は右手を顔の前で垂直に立てて礼を言うと、用意されていた椅子に座って老婦人が注いでくれたレンズ豆のスープを飲んだ。ノノはちょっとだけその姿を見ていたが、すぐに自分の前の皿に鎮座している食べかけのサラダにフォークを伸ばした。



 用意された食事を平らげたグレゴは柵の補修へ戻り、ノノは老婦人と共に食事の後片付けをしていた。穏やかな午後の昼下がりはノノに明日からの行軍の再開を、今が戦争中であるという事を忘れさせてくれている。老紳士は椅子を持ち出してニスが乾いた柵にペンキを塗っているグレゴと雑談をしていた。男同士で何か話す事もあったのかもしれないし、背格好が似ているという息子と話している気分になっているのかもしれない。
 ノノは作業が終わるのを待つ間、老婦人から絵本を読んでもらっていた。長い時を生きてきたノノであっても知らない物語というものは多く、老婦人が所持している本を読んでもらうのは楽しかった。その中で、悪い魔法使いに囚えられた姫が騎士によって助け出されるという話も読んでもらい、こんな感じなのかしらねえと老婦人は笑った。ノノは最初何の事を言っているのか分からなかったのだが、老婦人が次の絵本を本棚から探している間に淹れてもらっていた紅茶を飲み下してから自分達の事を言いたいのだと気が付いた。
「してること、似てるけど、やっぱりグレゴは騎士さまじゃないなあ」
「あら、じゃあやっぱりお父さんなの?」
「うーん……最近は、困った時に助けてくれるお友達、かなあ」
「まあ、まあ。ノノちゃんみたいな可愛らしいお友達が出来て、グレゴさんも嬉しいでしょうねえ」
「どうかなあ? そうだったらいいなあ」
 ノノにしてみれば騎士というのはフレデリクやソワレ、ソールの様なイーリス騎士団の者達を指すのであって、してくれている事は同様であってもやはりグレゴはノノにとって物語の中の騎士様ではない。ただ、以前思っていた様に父親という存在ではなく、幼い容姿である自分をそれでも同等に扱おうとしてくれるので、友人と思う様になってきていた。最初こそノノをまるきり子供扱いしていたグレゴは己の常識や尺度で彼女を測るべきではないと言って、今では一人の大人としてノノを扱ってくれる。恐らくギムレー教団から助け出してくれた当時は子供としか見ていなかったから過保護になってしまい、だから頻繁に助けてくれていたのだろうが、今はちゃんとノノを戦士として信用し、必要以上に干渉しない。ただ、それでも戦慣れしていないノノを気遣って援護してくれる。戦友として、友人として見てくれている気がするのだ。友達というものが今まで殆ど居なかったノノには、それがとても嬉しく思える。
「……あのね、ノノちゃんもグレゴさんも黙っているけど、あなた達二人、イーリス軍の方じゃない?」
「へっ? ……何で分かったの?」
 そんな事を考えていると、不意に老婦人が尋ねてきたものだから、ノノは思わず変な声を上げてしまった。バレると厄介であるという事はノノも重々承知の上で、しらを切ってしまえば良いのだけれども、生憎と彼女はそんな器用な事が出来ない。と言うより、そういう術を知らない。
「距離があるとは言え港もある地方だし、旅の方は珍しくないんだけど、イーリス軍がこちらの大陸に上陸してきたって情報は入っているからねえ……」
「……ご、ごめんね、ノノ達、迷惑だね……」
 いくらヴァルム帝国がイーリス大陸に攻め込もうとしていたとは言っても、老夫婦を始めとするこの大陸の住民にとってみればイーリス軍は戦をヴァルム大陸に持ち込んだ者達だ。恨み事を言われるかと思って縮こまってしまったノノに、しかし老婦人は困った様に微笑み、皺のある柔らかな手でノノの小さな頭を優しく撫でた。
「確かに戦は嫌だけれど……ヴァルム帝国は、私達の大切な神竜の巫女様を幽閉してしまっていてね。大事な方なのに、お助けする事が出来ないのよ。……だから、イーリス軍の方々が巫女様をお救いしてくれたら、少なくとも私は嬉しいわ」
「巫女様? えっと……チキってお名前の?」
「そう、チキ様。イーリス大陸に伝承として伝わっていないかしら、古の時代に英雄王マルスと共に邪竜を打ち破ったお方でね。神竜の声を聞く事が出来るお方なの」
「へえー……」
 チキという名はヴァルム港で孤軍奮闘していたサイリというソンシンの王女から聞いていて、長い時を生きているという話を聞いた時、ノノは自分と同じマムクートが居るという事に目を輝かせた。同じ種族であるという事は、ずっと行動を共にする訳ではなくてもどこかで自分の知っている者が生きているという事だ。ノノにとってみれば人間はすぐに死んでしまう生き物だから、巫女の事を聞いた時はひどく嬉しかった。
「ノノちゃん、物語の騎士様みたいに、巫女様を助けて欲しいの。……いいえ、騎士様でなくても、グレゴさんがノノちゃんを助けたみたいに、巫女様を助けてあげて。お願い」
「……むずかしいこと、ノノよくわかんないけど、ノノも巫女様とお友達になりたいから、がんばるね!」
「有難う。私達は何も出来ないけど、ここでノノちゃん達の無事を祈っているわね」
「うん!」
 ノノの元気な返事に、老婦人もどことなくほっとした様な、そんな表情で両手を合わせて祈りを捧げる仕種を見せた。ノノは生まれてから今まで神に祈った事は無かったのだが、老婦人の願いが叶うと良いと心の底から思ったし、巫女を助けたいという思いも強くなった。他人から頼られるのは、悪い気はしない。
「ああ、それと、ノノちゃんがグレゴさんとずっと仲良しでいられる様にもお祈りしておくわね」
「ノノ、そんなのお祈りしてもらわなくても、なかよしでいられると思うよ?」
「まあ、まあ。それは素敵な事ね」
 そして付け足された一言にノノが何の躊躇いも無く答えると、老婦人は破顔させて深く頷いた。先の事など誰にも分からないのだが、ノノは何故だか分からないけれどもグレゴとは仲違いをする事は無いだろうという根拠のない自信があった。だからそう言ったのだが、老婦人はその回答に満足した様に、もう一度ノノの頭を撫でた。



「ふぃー、やーれやれ、今夜はぐっすり眠れそうだぜ……」
 日が暮れる前に全ての柵にペンキを塗り終わったグレゴは、老夫婦から報酬を受け取り、水浴びをさせてもらってからノノと共に野営への帰路へついた。老婦人は夕食も一緒に摂らないかと尋ねてきて、グレゴもノノもそうしたいのは山々だったのだが、明日の出立が早い為に丁重に断った。その代わり、ノノが約束ちゃんと守るねと言うと、黙って静かに頷いてくれた。
「おつかれさまー。ねえねえ、おじいちゃんと何お話してたの?」
「んあー? ……まあ、色々だよ、色々」
「えー、ないしょなんてずるいー」
「じゃああんたらはなーに話してたんだぁ?」
「グレゴが教えてくれないから教えなーい」
「何だあ、そりゃ……」
 汚れた作業着を片手に、着替えたグレゴはそれでも暑そうに襟を抓んで扇ぐ。汗とペンキで汚れた彼の作業着を洗って乾かすには時間が無いだろう。作業着と同じ様にくたびれているグレゴは肩を回して関節を鳴らし、歩きながら大きく伸びをして欠伸した。
「うおっ、おいこら、なーにやってんだあんた」
「おんぶー」
「おんぶー、じゃねえよ! 俺ぁ疲れてんだよ、自分で歩けよ」
 しかし、ノノがいきなり背中によじ登ろうとしたので思わず立ち止まり、そして苦い顔をしながら後ろを見た。その表情は初対面の頃のノノであれば怯えてしまっただろうが、今では全くそんな事は無い。我儘を言わない事を覚えたとは言えたまにこういう我儘を言うノノをグレゴは仕方なさそうに叱るのだが、彼が無理に引き剥がそうとはしないという事をノノは知っていた。
「お姫様を助ける騎士様みたいねってお話したの」
「はあ? 誰がだあ?」
「グレゴ」
「ぶーっ! だ、誰が騎士様だあ?!」
 結局不承不承ノノを背負ったグレゴは、自分の太い首に腕を巻き付けて言った彼女の言に盛大に吹き出した。ノノからは顔が見えなかったが、耳が少し赤い辺り、赤面しているのかも知れない。柄ではないと自覚しているのか、そもそもそんな事を考えた事も無いのか、本気で動揺している様にノノには思えた。
「おばあちゃんがそう言ったの。でもノノ、お父さんみたいって言ったよ」
「お、おと……あのなー、俺は自分より遥かに年上の娘持った覚えねえぞー?」
「むー、だってそう思ったんだもん。……ノノ、お父さん知らないけど」
「………」
 夕暮れの中、老夫婦が住んでいる街を離れ野営へと続く草原をノノを背負って歩くグレゴに沈黙が走る。彼女が生まれてすぐに人間に攫われたという事は彼も聞き及んでおり、両親を知らぬ彼女が父親を口にした事に何か思う所があったのかもしれない。それはノノには分かりかねたが、まるで大事なものを落とさない様に脇をしっかり締めて背負った彼女の足を抱え直したグレゴの肩にノノは顎を乗せた。
「だけどね、最近はお父さんじゃなくてお友達みたいってお話したの。グレゴ、最近はノノのことあんまりこども扱いしないでしょ?」
「……まー、おんぶしろって時点で子供だけどなー」
「お友達をおんぶしてる子、ノノ見たことあるもん。……それに、グレゴが誰かお嫁さんもらってお父さんになるとこ想像つかないもーん」
「失礼だなーあんた……」
 悪戯っぽい声音でグレゴをからかったノノは、足を怪我した時に背負ってくれた時の事を、そして座ったまま自分を膝に乗せて寝かせてくれた時の事を思い出していた。あの時は確かに彼の事を父親の様だと思っていたから父娘として背負ってもらったと思えるのだが、では友人と思っている今、ここまで密着して背負われるのは、果たして。それに気付いた瞬間、ノノまで何となく顔が赤くなってしまった。
 自分で言った様に友人同士で背負っているところは見た事があっても、それは幼い者同士だった。決してグレゴの様に成人している者達ではない。ただ、恋人同士がしている所なら見た事がある。同じ事を考えているかもしれないが、顔を見られない体勢で良かったと思ったノノは、話をはぐらかす様にグレゴに尋ねた。
「ノノ、何お話したか言ったよ? 今度はグレゴが教えてくれる番だよ」
「はあ? 俺も言わなきゃならねえのかあ?」
「ノノちゃんと言ったもーん。グレゴも教えてよー」
「こーらこら、首を締めるな首を!」
 グレゴが老紳士と何を話していたのかを知りたかったノノは、彼の首に絡めた腕で軽く締める。いくら彼女の腕が細いとは言え力の強いマムクートであるノノの腕力というものは侮れず、グレゴは焦った様な声で止める様に訴えた。本気で締めなかったけれども喉の中央を抑え付けていたのだから、息苦しかったのだろう。
「それで、何お話したの?」
 大人の男同士の会話に純粋に興味があったノノは、諦める事無くグレゴに問う。彼は軍内ではロンクーと剣の事を話したり、ルフレと体のケアについて話したり、その他大勢の者達に対して自分の持つ知識を伝えている様だけれども、今回の様に彼より年上の者とどんな事を話すのかは想像がつかなかった。グレゴも教えられたりするのかどうか、何となく知りたかったのだ。
「んー……まあ、爺さんの息子の話とか、これから戦が激しくなるのかどうかとか、そーんな事だよなー」
「……ならないと良いね。おじいちゃんとおばあちゃんが巻き込まれるの、ノノ嫌だなあ」
「……そうだなー」
 ヴァルム軍は敵でも、ヴァルム大陸の住民は敵ではない。交流し、言葉を交わした者達が戦に巻き込まれるのはグレゴだって不本意であろうし、勿論クロムやルフレだって一般市民を巻き込みたくはないだろう。ノノは祈る様にグレゴの肩に顔を埋めた。……グレゴとしては帰る前に水浴びをさせてもらったとは言え汗の匂いが残っているかもしれないので、そうしてほしくなかった様であるが。
 夕焼けが照らす、草が疎らに生えている平原を、グレゴはノノを背負ったままゆっくりと歩く。野営の方向は彼がちゃんと覚えているし、ノノは心配する必要が無い。方向音痴な彼女は行軍途中で立ち寄った街で皆で買い出しに行くと迷子になる確率が高く、探されてしまう事が多かった。ただでさえ人混みの中でこどもの容姿の彼女がふらふらしていると目立つし、悪い輩に目を付けられてしまう可能性だってある。だからノノはグレゴに手を引いてもらう事が多かったのだが、いつの頃からかセルジュやリズに手を引いてもらう様になっていた。それに対し少し寂しいとは思っていたが、我儘を言う訳にはいかなかったし、何よりグレゴの仕事の邪魔をしてはいけないとは分かっていたから、ノノは何も言わなかった。だから、今の様に我儘を言って背負ってもらうのは久しぶりであったのだ。歩みから齎される振動、密着した体から伝わる温もりと鼓動は、普段遅く起きるノノを心地好い眠りに誘うには十分過ぎるものだった。
「……ちゃーんと守れよって言われたんだよ」
「……ふにゅ……?」
「だから……、あんたをちゃんと守れよ、って爺さんに言われたんだよ」
 しかし不意にぼそっと呟いたグレゴの言葉に、半分眠りに落ちていたノノは現実に戻された。しかし夢か現かという意識の中、教えられたその内容に、ノノの思考が追い付かない。
「爺さんの弟がな、昔の……あんたにとっちゃ最近になるのか、クロムの親父の代の頃のイーリスとペレジアが戦争してた頃に、戦で恋人亡くしちまったんだと。……守れなかった、って、爺さんの弟は半狂乱になっちまったらしくてな……」
「………」
「……俺も、弟守れなかったからなー……。そういう事、話してたんだよ」
「…そうなの」
 どうやら老紳士はヴァルム大陸ではなくてイーリス大陸の人間であったらしい。グレゴはそれ以上老紳士の身の上を話さなかったが、恐らく弟にとって辛い思い出があるイーリス大陸から連れ出したのだろうというのはノノにも分かった。ただ、グレゴが弟を亡くしているという事は知らなかった。
 汗のものでもない、平原のものでもない、独特の冷たいにおいがノノの鼻孔を擽る。これはかなしいのにおいだ、とノノが気が付くには時間を要さなかったが、それを確かめる気にはなれなかった。グレゴは死んでしまった弟を思い出して悲しんでいるのだろう。表情は見えなかったが、ノノはそう思った。家族を知らぬ彼女にとってその悲しみさえ多少羨ましいものではあったが、そんな事を思っている自分が汚く思えて、その思いを払拭する為に黙ったままのグレゴの頭を小さな手でそっと撫でた。
「ノノが強いって事、グレゴも知ってるでしょ? だから、心配しなくて良いからね」
「……いやー、そりゃそうなんだが……」
「でも、グレゴが守ってくれたらノノうれしいなあ。いつかの時みたいに、ケガしたら助けに来てね?」
「……おー」
 納得いかない様な声を出したグレゴに、ノノは擽ったい様な顔をしてはにかみ、そしてお願いをすると、相変わらず顔は見えなかったが彼は低く承諾の返事をした。曖昧ではない、ちゃんとした承諾だ。
 いつだってグレゴはノノを助けてくれた。ギムレー教団に囚われた時も、戦場で怪我をした時も、ノノが子供の様に見えるという理由ではなくて、自分の中の信条に基いて助けてくれるのだ。それは彼女を自分と対等に見ようとしてくれている事に他ならない。それが嬉しいと、ノノは思う。
「物語の騎士様みたいじゃなくっても、グレゴが助けてくれるとノノうれしいよ?」
「……騎士から離れようぜー……柄じゃねえっつーの……」
「えー、でも、お父さんも嫌なんでしょ?」
「……お友達、なんだろー?」
 遠目ではあるが、前方に白い煙が僅かに立ち上っているのが見える。そろそろ野営に到着する頃合いだ。それでもノノはグレゴの背から降りようとはせずに、身を乗り出して多少不満そうな彼の顔を覗き込む。ノノの透き通った紫水晶の瞳と、グレゴのくすんだ碧が混ざったアッシュグレーの瞳と視線がぶつかり、そして不意に彼の歩みが止まった。それに対し、ノノは小首を傾げる。
「……俺が嫁さん貰って親父になるとこは、想像つかねえか?」
「へ? ……うん」
「そうかい。んじゃー、あんたとはお友達止まりで諦めるかねえ」
「……… ……えっ?」
ノノは、ちょっとだけ困った様に苦笑したグレゴが何と呟いたのか一瞬分からなかったのだが、すぐに腑に落ちるとふい、とまた前に戻そうとした彼の顔を強引に掴んだ。僅かに彼の耳が赤く見えるのは夕焼けのせいではあるまい。
「ぅえっ。おいこら、首の筋痛めるだろー?」
「い、今の、もう一回言って?」
「あー……忘れろ」
「いやー! もう一回!」
「だからー……友達以上になるのは諦めるっつったんだよ」
 苦虫を噛み潰した様な顔をしたグレゴに、しかしノノは必死に尋ねた。この機会を逃したらきっともう二度と言ってもらえないと思ったからだ。
「なに? 何になりたいの?ねえ言ってよー!」
「人の背中で暴れるなっつーの! あー、くっそ、あんたの旦那になるのは想像つかねえんだろーが」
「誰かの旦那さんになるのが想像つかなかっただけだもん! ねえねえ、ノノの旦那さんになってくれるの?」
「あんたが俺みたいなおじさんが嫌じゃねえならなー」
 諦めた様に、ノノの追求に答えたグレゴは、短くはあっと溜息を吐く。容姿はまるきり子供のノノの隣に立つと、彼は今日の様に親子と勘違いされてしまう。それをノノが厭わないか、そして彼女にとっては殆ど差が無いとは言え数十年は自分より長く生きるだろう男を選んだ方が良いのではないかという懸念があった様で、躊躇っていたらしい。
「ノノ、グレゴと一緒におばあちゃんになる事できないよ?」
「そりゃーしょーがねえだろー? あんたはマムクートだし、俺が爺さんになってもこのまんまだろうし。俺の事ぁ良いんだよ、あんたが俺を好きかどうか聞いてんだ」
「好き!」
「ぐえっ! だーから首締めんな!!」
 自分をどう思うかと問うグレゴの首に、ノノは即答しながら今度こそぎゅっとしがみついた。変な悲鳴を上げたグレゴは本当に苦しかったのか、慌てて片手をノノの足から離して彼女の細い腕を引き剥がそうとする。だがノノは剥がされまいと力を篭めたものだから更に首を締めてしまったらしく、グレゴは手に持っていた作業着が入った袋を落としてしまった。
「お父さんからお友達になって、お友達から旦那さんになったね」
「……まー……お父さんからいきなり旦那にならなくて良かったと言うべきかねえ……」
 作業着を拾い、再び野営へと歩き出したグレゴは、複雑そうな声でノノに答える。ノノがどうしてもまだおんぶが良いと言うから仕方なしに彼はノノを背負っているのだが、そんなグレゴの広い背中にノノは体重を預け、そして肩に顎を置いた。鼓動の音が心地好かったから、自分の鼓動も届けば良いと思ったのだ。しかしグレゴの背はそれなりに筋肉が盛られているから伝わり難いかも知れない。
「ねえねえグレゴ」
「んー?」
「あのおじいちゃんとおばあちゃんみたいに、ずーっとなかよしでいようね。おばあちゃん、ノノ達がなかよしでいられる様にお祈りするねって言ってたけど、お祈りしてもらわなくてもなかよしでいようね?」
「そうだなー」
 食事の時に揃って話した老夫婦は、酷く睦まじそうに見えた。願わくばあの二人の様でありたいと、ノノは思う。グレゴがその提案に同意してくれた事が嬉しくて、彼の広い肩の上できゅっと笑った。
「あー……あとよぉ、ノノ」
「なあに?」
「その……胸あんま押し付けられると流石の俺も照れるから、ちょーっと離れてくれると嬉しいけどなー」
「…… ……グレゴ、そういうトコ、おじさんだね」
「おじさん関係ねえぞ?! 男ならそうなるって!」
「おじさーん」
「おじさん言うな! そんで押し付けるな!!」
「どうしたー、相変わらず仲が良いなあんた達」
 言い合う二人の声が届いたのか、野営の外れを見回っていたらしいルフレが魔導書を片手に苦笑して声を掛けてきた。結構な距離があるのに声を掛けられたという事は、二人の声がそれなりに大きかったという事だ。それを気にする二人ではないけれども。
 ルフレに気付いたノノはグレゴの背中から彼に大きく手を振り、そして言った。
「ねえねえルフレ、聞いてー! ノノ、グレゴのお嫁さんになったよー!」
「……はあっ?!」
「だああっ、大声で言うな!」
「なんでー? どうせみんなに言うのに」
「い、いやー、そうなんだけどよ、そーんなでけえ声で言わなくても、あああちょっ、待ーて待てルフレ、なーんで魔導書構えてんだあ?!」
 ノノの報告に驚愕した様な表情と声を披露したルフレは、彼女と遣り取りをするグレゴに向かって持っていた魔導書を静かに片手で掲げた。魔導書というものはそれなりに厚さがあって重く、故に角を頭に落とすと大変痛い。魔力が無い者であっても力さえあれば十分に凶器になると言えた。その特質を生かして、ルフレはおいたをした兵士達――例えば任された仕事を他人に押し付けたり、度の過ぎた悪戯をしたりなどだ――の頭に情け容赦無くその魔導書を落としてきた。ただ、別にノノがグレゴと結婚しようが何だろうがルフレにとってみれば何ら問題が無いだろうに、何故そんな仕打ちを受けなければならないのかグレゴには分からず、さあっと顔を青くした。
「問答無用! くそっ、皆して俺より先に結婚しやがって!」
「僻みかよ!!」
「受け取れ俺からの祝福だ!」
「なーにが祝福なん……だあああっ、逃げるぞノノ!!」
「きゃー! グレゴこんなに速く走れたんだねー!」
 勢い良くダッシュしてきたルフレの魔導書が振り下ろされる前に、グレゴはノノを背から下ろして抱え直してから走り出した。ルフレに背を向ければノノが危険に晒されると思ったのだろう。勿論ルフレはノノに対して魔導書を振り下ろすつもりは無いと二人共分かっているのだが、それを承知の上で自分を胸に抱えてくれた事が嬉しくて、ノノはグレゴの首に腕を絡めてぎゅっと抱き着いた。昼間の仕事でくたびれているにも関わらずノノが知る限りでの彼の最高速度で走るグレゴは、それでも彼女を落としてしまわない様に大事に抱えてくれていた。



父親とは、呼ばないで。
娘とは、呼ばないで。


だってもう、「旦那さん」と「奥さん」だもんね。