朝の気配を感じ、ゆっくりと瞼を開ける。視界に映るのは寝る前に見た天井で、何の変化も無い。胸ではなくて腹から息を吐き出し、そして吸い込めば、冷たい空気が鼻腔を刺激して心地よい。毎朝の習慣となっている腹式呼吸を終えて起き上がると、視界の端にまだ薄暗い部屋の隅に蹲っている人影を感知し、そちらに目を遣る。
 厚い毛布を纏って座り込み、細い体に不釣合いな剣を抱いてじっとこちらを見ている男の眼光は鋭い。灯りも小さなランタンのものだけであるのに、ギラついた眼から放たれる視線は彼を射貫こうとしている。ややもすれば殺気を放っていると言ってもおかしくないその男に、起き上がった彼は自分の頭を一撫でしてから言った。
 「お早うさん。一晩中そうしてたのか?」
 ちゃんと寝ろ、という意味も籠めて僅かに呆れた声で放たれたその言葉に、しかし男は彼を睨んだまま抱いていた剣を更にぎゅっと引き寄せながら答えた。
「野郎と同じ部屋で寝られるか、俺ぁペットじゃねえんだよ。お前、俺に首輪付ける気かあ?」
その反抗的な態度と言葉に彼はまた呆れたが、抱いている剣を抜かなかった事は褒めてやっても良いと判断し、苦笑するだけに留めた。カーテンの向こうから漸く朝日の光が滑り込む様な時間になってきていた。



 フェリア、という国は大陸にある国の中でも突出して広大な領地を所持していた。南東に位置する神竜ナーガを信仰の対象とするイーリス聖教のイーリス聖王国、南西に位置する邪竜ギムレーを信仰の対象とするギムレー教のペレジア国とは正式な国交は無く、国境には東西に延びる長城が国土を侵攻から守っていた。
そもそも、寒冷地域であり豪雪地域でもあるフェリアには資源が少ない。水と緑が豊かなイーリス、貿易が盛んなペレジアと違って、産業らしい産業というものも無ければ収入源となるめぼしいものも無い。そんな中で人々は農業を営んだり狩猟をしながら生活をしていた。ただ、貧しさが高じて賊に成り下がる者も少なくなく、山間の村などは自衛団を結成している所が殆どだった。フェリアでは賊が商団を襲う事もしょっちゅうであったから護衛の傭兵をつける事も当たり前であったし、荷を奪われても命まで取られなかったからマシ、などと考えられていて、無法地帯と化している所も多かった。この辺りが蛮族の国、などと呼ばれる所以でもあった。
そんなフェリアは東西に大きく二分され、西部の大きな川が流れる比較的栄えた地域の豪族の息子として生まれ育ったバジーリオは、少年期の頃から自分の周りの者を束ねる事に長けていた。腕っ節も強く、弱い者いじめなどの行為には嫌悪を示し、正義感のある男であったから、長じてからは自らが組織した隊を率いて近隣の賊を討伐しに行く事もあった。義理人情に厚い男でもあった為に説得した賊が望めば自分達の隊に加入させた。そうしてどんどん膨らんでいった隊は、ちょっとした軍隊の様にもなっていた。
そういう事をしている内に評判が上がり、地方の豪族で終わらせるには勿体ないという理由でバジーリオが住む地域を管轄している者から声が掛かった。何でも高齢であるからそろそろ後任を探していたとの事で、バジーリオも躊躇いはしたが結局は引き受けた。難しい事は彼には分からないが、人を引っ張っていく事は得意であったし、その中には政治経済に明るい者も多く居た為、何とかなるだろうという思いがあったのだ。フェリアでは強い者が好まれるから、余計にその思いは強かった。
そうして任に就いてからそれなりに長い期間を過ごし、その中で国王に謁見する機会も多々あった。たかが地方の豪族上がりが、と他国では見られてしまうかも知れないが、フェリアは強さが第一なので身分など関係無い。王になるにも血筋は関係無く、王の子供が国を継ぐという事も滅多に無かった。王が力を認めた者が王位を継ぐ、これが東西のフェリアの国王の選出方法だった為に、バジーリオは他の数名の者と共に西フェリアの国王候補として名を連ねていた。まだ二十代であった彼は若造と言われる事も多かったが、人一倍負けん気も強かったので誰にも文句を言われない様にと鍛錬を重ねる事を怠らなかった。
一方で、地方の賊討伐も怠る事はしなかった。報告を受ければ仮令自分の管轄外の地域であっても討伐隊を派遣するし、手に負えそうにないと判断すれば自ら率先する事もあり、そういった姿は矢張り民衆の好感度を上げていった。次期国王はあの人だろうと誰もが囁いた。しかしバジーリオは決めるのは自分ではないし自分の周りの者でもない、飽くまで国王が決める事だと思っていたから、誰かと比較する事も無ければ評価を気にする事も無かった。彼にとってはそんな事よりも、隣国のペレジアにイーリスが攻め込んだという事の方が余程感心があったのだ。
戦になれば国は消耗する。これはどんな国でも変わらない。国境の長城は滅多な事では外国籍の者が通過する事は出来ないが、疲弊していても裕福な者は袖の下を渡してフェリア国内に避難してきていた様だった。それは別に良いのだが、中には長城の見張りの隙をついて雪崩れ込む不届きな輩共も居るもので、管轄する地域に国境付近が含まれていたのでバジーリオも頭を悩ませていた。一般市民ならば大目に見ても良いが賊は別だ。フェリアの賊の様に生きる術が無くて成り下がった者であったとしても許し難い。だから国境の警備はより一層頑強なものにして彼自身も頻繁に長城付近を訪れていた、そんな時に耳に入ってきた出来事だった。



「賊荒らし、なあ」
報告を聞いたバジーリオは定期的に剃っている頭をつるりと一撫でしてから後頭部を掻きながら眉間に皺を寄せた。余り聞いた事が無い様な事案にどう対処して良いものか分からないと困り果てた様な顔をしている昔馴染みの報告に、バジーリオはふむと顎に手をあてる。
報告の内容は、こうだ。バジーリオが管轄している地域の山間や森林、街の郊外などで他殺体が発見される様になり、調べていくと被害者はいずれも賊である事が判明したらしい。賊であっても殺人は殺人であるし、下手人が正義の味方とも限らない。しかも殺害方法が随分と残虐で、中には体を滅多刺しにされた挙句に首を落とされていた遺骸もあったらしい。近隣住民も不気味がっているそうなのだが目撃情報がほぼ無いらしく、治安に当たっている者達も手を焼いているそうだ。
「単独犯か?いっぺんに殺されてるのは一人とか二人なんだろ?」
「遺体の傷跡の特徴からしてそうだと思われます。全員、必ず腹部を剣で貫通させられていますし、傷の大きさが全員一致していますので」
「が、同じ集団に属してるとかでもねえみたいだな」
「無差別、かと…」
渡された報告書には細かい事は書かれておらず、簡潔に纏められてある。バジーリオが細かい事が苦手であるという事を知っているから、報告書を持ってきた男が作成する際になるべく情報をコンパクトにしたのだ。こういった者達に支えられて、バジーリオは与えられた任をこなす事が出来ている。
今までに見つかった遺体は七つで、各人の繋がりは無いに等しいと言う。賊と言っても少人数で行動する者も多く、組織の様な集団は少数だ。そういった集団を討伐するのもバジーリオの仕事であるので、今では地方の被害というのもそこまで多く報告されていない。今回の被害が大きく取り沙汰されて騒がれないのは、偏に被害者が賊であるからなのだろう。普通に生活を営む民にとって、賊というのは得てしてアウトサイダーであり厄介者であり、蔑みと恐怖の対象である。
「よっしゃ、じゃあ俺も見回ってみるか」
「…そう仰ると思いました」
報告書を突き返したバジーリオの言に、男は説得など無駄だと最初から諦めた様な顔で言いながら書類を受け取り、代わりに現場周辺の地図を差し出したのだった。



バジーリオが管轄している地域は豪雪地帯の北方とは異なり、勿論温暖なイーリスや砂漠地帯のペレジアに比べればぐっと寒くもなるし雪も降るが、草原も広がる南部周辺だった。この地方の人間は男であれ女であれ馬を乗りこなす事に長けており、彼も例外ではなくて、長城への偵察や周辺地域の見回りも専ら馬を使った。ただ、乗馬した状態で得物の斧を振るう事は苦手であったから、戦う時は下馬する。
次期西フェリア王の候補として名を連ねているバジーリオに手を煩わせない様にと、彼に付き従っている者達は自主的に仕事をこなす。それは治安維持であったり一般市民の声を聞いたり農地の状況を見て回ったりなど、様々であったけれども、バジーリオは彼らだけに任せるのではなくて矢張り自分で見聞きする為に各地を良く回っていた。移動は全て馬だ。子供の頃から慣れ親しんでいるものだから、バジーリオは大抵の馬は乗りこなせる。
だから今回も件の賊荒らしが出没していると言われている地域にある街には、馬で駆けてきた。この地域は一年を通して天候も安定するし、何より近隣に広大な草原が広がっているという事もあって、フェリアの中でも良馬を産出する地域として名高い。良馬は高値で取引される為に金を持っている者も少なくなく、故に盗賊被害も度々報告されていたし馬を購入した商団が賊に襲われる事も多かった。ここ数年はバジーリオが管轄し、鍛えた自衛団員達の力添えもあってか被害は鳴りを潜めていたものの、被害が全く無くなった訳ではない。そんな中で連続して発生した殺人事件なのだから、市民は勿論賊も不気味であったに違いない。
無差別とは言え、執拗なまでに賊を付け狙った残虐な犯行であるから、何らかの怨恨があるのだろうとバジーリオでも推測出来た。賊に対しての恨みつらみ、憎しみ、そんなものが見知らぬ犯人を反抗へと追い立てている。大方親しい者でも殺されたのだろうと考えたバジーリオは、西フェリア内だけでも良いと前置きをした上で、ここ数年で賊の被害に遭った者、取り分け近親者が殺された者を調べさせた。まだその報告は上がってきていないが、数日の内に上がってくるだろう。
「最後の被害がここから南西約二十キロの所にある山間です。最初の被害から、どんどん北上していっていますね」
「だから次はこの近辺って訳か。まあ、妥当な線だろうな」
地図を広げて見せた男が言おうとしていただろう言葉を推測し、バジーリオも同意する。被害があった地点のバツ印は歪な経路を辿っていたものの、確かに北上していた。恐らく印と印の間の、空白になっている箇所でも、発見されていないか報告に上がっていないだけで、被害者は確実に居る筈だ。林道などであれば見付からない事も多いし、賊であれば被害を届けるという様な事もしない。
「しかし、どうなさるおつもりですか?この近辺と目星はつけたものの、必ずしもここに来るとは限りませんし、第一我々は犯人の顔すら知らないのですよ?」
「数日の間、俺が郊外近辺を見回る。それで見付かれば御の字だし、そうじゃなきゃ暫く警備を増員させる。それだけでも市民は安心するってもんだ。俺達の仕事はまず第一に市民の不安を除く事だからな」
地図を畳んだ男に、バジーリオはそうだろう?と言うかの様に肩を竦めて見せる。領主であっても国王であっても、自分の統治下で暮らす人々の安全を確保して安心させる事が仕事なのだから、バジーリオの言は正しい。だから、男もそうですねと頷くしかなかった。
ただ、矢張り犯人を捕まえる事が最善策であるし、そうしなければ信用問題にもなる。自分達の領主は殺人犯を捕まえる事も出来ないと不満を持たれても困るので、犯人探しには全力を上げる様にと通達が出ていた。バジーリオは通達を出すと末端の者達相手でも必ず頼りにしていると伝える為に、自衛団員達の信頼も尊敬も篤かった。言い得て妙な表現だが、彼は天然の人たらしなのだ。
そうして日が暮れ、街の家の窓から漏れる明かりが殆ど無くなった頃に、見回りの交代としてバジーリオも供を連れて外へ出た。厳しい寒さになる前の季節とは言え、薄手の服では風邪をひく様な外気温だ。
「結構冷える様になってきたな。見回ってる奴らが風邪ひかなきゃ良いが」
「そうですね、何年か前に高熱出して片耳聞こえなくなった奴も居たくらいですからね」
「あー、居たなあ、そういや。あいつ今どうしてる?」
「自衛団を辞してから音沙汰がありませんね…」
「…そうか」
いくら人望が厚いトップが居ると言っても、辞していく者もそれなりに居る。それを責める事など誰にも出来ないし、それで良いとバジーリオも思っている。そんな取り留めの無い会話をしながら街の郊外へと歩いていた彼らの目に、異様な光景が飛び込んできた。
三日月を少し過ぎた頃の、まだ月明かりも薄暗い深夜の寒空の下、血が滴り落ちる抜き身の剣を片手に立ち尽くす男が一人。こちらの気配に気が付いたのだろう、ゆらりと振り向いた男の表情は、バジーリオが僅かに息を飲む様なものをしていた。その傍らには、八人目の犠牲者が冷たい石畳の上で血塗れの無惨な姿となって倒れていた。



「バジーリオ様、危険です!何を考えていらっしゃるんですか!」
各地に点在する、領主が逗留する為の館の内の一つであり、この地方に置かれた小ぢんまりとした館に、焦りと呆れが混ざった声が響く。しかし尋ねられたバジーリオは館内の温度の様に涼しい顔をしていた。
「何ってお前、たった今言っただろ。これと同じ部屋で休むんだよ」
「ですからそれが危険だと申し上げているではありませんか!殺人犯ですよ?!」
「さっきまでの記憶が全くねえって言ってんだ、大丈夫だろ」
「し、しかし」
「任せとけ。心配すんな」
これ以上の問答は不要とばかりに押し切ったバジーリオに、進言した男は黙るしか出来なくなる。こうなると己の主は―バジーリオは自分を主だと思った事は無いのだが―聞き入れないという事を重々知っているものだから、彼もまたこれ以上の問答は無意味だと分かっていた。しかし危険である事には全く変わりがなく、バジーリオからしっかりと首根っこを捕まれて不貞腐れた様な顔をしている赤茶色の短髪の男をじっとりと睨んだ。
年の頃は二十を過ぎている様に見えるその男は、件の賊荒しだった。バジーリオ達が発見した時に石畳に転がっていた遺体の身元の調べはまだついていないのだが、恐らく賊かそれに準ずる者であろう。賊であれば無差別に襲い、残虐な屠り方をしていた犯人の男であるが、バジーリオも意外に思った程体格もそこまで良くなければ血色も悪く、手に持つ剣が不釣り合いに見えてしまう体付きをしていた。
それまでの被害は郊外であったり山の麓であったり、場所は様々だったが、街中という事は無かった。だからこれまでの賊荒しとは別の犯人かと思われたけれども、遺体を確認すると今までの被害者と同じで腹部を貫通する剣の痕があった事、また傷痕の大きさが他の被害者のものとほぼ一致する事が判明し、同一犯であろうと推定された。しかし当の犯人であるこの男は、それを覚えていないと言った。
バジーリオ達を振り返った時のこの男は、薄暗い月明かりの下でもはっきりと分かってしまう様な、何処か狂気に満ちた顔をしていた。焦点の定まらぬ目はやけに鋭く、返り血ではない、明らかに肉を噛み千切ったのだと分かる口元の夥しい血はそのままに、視界に認めたバジーリオに向かって剣先を石畳の上に滑らせながら一歩踏み出したかと思うと、全速力で駆けてきたのだ。一応は賊討伐の名目で外出していた訳なので得物を持っていたバジーリオは、咄嗟に背中のホルダーに収納していた斧を素早く抜いて応戦したのだが、その体躯の何処にそんな力があるのかと思う程、男の一振りは重たかった。ただ、憎しみしか感じられない太刀筋であった為に、力任せに振り回しているのだという事も察しがついた。力で押してくる相手よりも上の力を持っているのであれば、力で押し返せば良い。それと知っているバジーリオは、男が翻した剣をこちらも力任せに斧で叩き折った。そして、剣が折れた事に驚いた顔をしている男を斧で斬るのではなく、鳩尾に拳を叩き込んだ。
石畳に膝から崩れ落ちた男は、激しく咳き込みながら吐いた。その隙に後ろ手に縛り上げて敢無く御用となった訳なのだが、胃の中のものを全て吐いたらしい男は手ずから縛り上げたバジーリオに対し、斬り掛かってきた時の表情とは打って変わって放心した様な顔でここは何処だと聞いてきたのだ。のみならず、年月日まで聞いてきたので全て答えてやると、男は愕然としながら冗談だろ、と呟いた。
付き従っていた男がランタンの灯りを頼りに死体の検分をしているのを横目に、バジーリオは賊荒らしの男と少しだけ話した。名を尋ねると僅かに口籠ってからか細い声でグレゴと答えたその男は、ついさっき、バジーリオに腹を殴られた辺りまでの記憶が全く無いと言った。記憶がある日付は昨年の冬で、居たのも西フェリアとの国境近くのペレジアだったと言う。どうやって長城の国境を越えた、と尋ねても男は―グレゴは、だから記憶がねえって言ってるだろと忌々しげに答えた。記憶が無い事、その間の約一年という期間の自分の行動が全く分からない事に対しての焦燥感が彼を苛立たせたのだろう。見た目は二十歳を超えている様に見えるが、恐らく見た目よりは若い。
そんなグレゴを、バジーリオは自分が逗留する館に連れ帰ってきたのだ。この街に犯罪者を留置する機関が無い訳でもないのに、彼はそこに連れて行くつもりは無かった。配下の男は驚いたし反対したが、更に驚いた事に話を聞きたいから自分と同じ部屋で休ませるとバジーリオが言った事に、男もグレゴも目を丸くした。しかも後ろ手に縛った縄まで解き、折って悪かったなと言って剣まで与えた。馬鹿なんじゃねえの、と言いたげなグレゴの首根っこを掴んだまま、バジーリオは笑って言った。
「お前のあの剣筋、ありゃあ磨けばもっと強くなるぞ。暫く俺が鍛えてやる。覚悟しとけ」
バジーリオの扱きというのは厳しい。それを知っている配下の男は身震いしたが、同時に正気か、という思いも抱いた。西フェリアの王座がかかった大事な時期でもあるのに、よりによって殺人犯を拾って教育するなど。そんな事などお構いなしに、バジーリオは良い拾い物をしたと機嫌良く笑うだけだった。



深夜まで根気強くバジーリオが尋ねたのに対し、グレゴは部屋の隅で座り込んで剣を抱えたまま殆ど何も答えなかった。出身は何処か、記憶がある頃まで何をしていたのか、記憶を無くす切っ掛けに心当たりはあるのか…色々尋ねてはみたが、尽く答えは得られなかった。得られた回答、というか情報と言えば、予想した通り彼がまだ二十歳にも満たない若造であるという事だけだった。まだ十九歳なのだそうだ。思わず老けてんな、と言いそうになったバジーリオは寸での所でその言葉を飲み込んだ。ただでさえ気が立っているグレゴをこれ以上刺激する事も無いだろうと思ったからだ。
寝台は一つしか無かった為にお前はそれで休め、俺はソファで寝るとバジーリオは言ったのだが、グレゴはそれにも答えずじっと剣を持ったまま座り込んでいるだけだった。彼に武器を与えた以上はこちらも警戒するに越した事はないと、傍らに斧を置いて利き腕をソファの背凭れと自分の体に挟んで休んだが、グレゴが少しでも動こうものなら体を起こせる様にと熟睡はしなかった。扉の外では配下の者達が控えてもいるし、ここで殺される様であればそれだけの器だったという事だと腹を括っていたのだ。だがそのある種の余裕さが却ってグレゴを怯ませたらしく、彼は寝台の毛布を引っ張り出して肩に掛け、朝までじっと部屋の隅に座っていただけだった。そこから、二人の奇妙な共同生活が始まった。
まず、バジーリオは必ずグレゴを自分の側に置いた。これは彼にいつも付き従っている男を始めとして事情を聞いた他の者達も複雑な顔をしたが、野放しにするより遥かに良いと言ってバジーリオは聞かなかった。確かに八人、否、恐らくそれ以上の人間を惨殺しただろう男を野放しにするより良いけれども、それならば留置所に押し込んでいた方が良いのではと皆思ったが、聞き届けられないだろうと諦めた。当のグレゴは気が付けば知らぬ土地で知らぬ男に捕まえられ暫く鍛えてやるなどと言われたのだからこれ以上無く不服そうで、しかし毎朝のバジーリオの鍛錬には文句を言いたそうな顔で付いてきていた。初日の扱きで早速倒れたが、負けん気が強かったのもあるしバジーリオが首根っこを掴んで連れ出していたので一度も付いて来なかった事は無かった。その事について同じくバジーリオと共に朝の鍛錬をしていた者達から良く根をあげないなと感心されたけれども、グレゴは彼らを一瞥するだけで何も言わなかった。
そう、グレゴは基本的に誰とも話をしようとしなかった。話し掛けられてもじっとりと睨むだけで、無愛想にして答える事をしない。それに対してバジーリオは再々に渡ってせめて返事くらいはしろと言い続けたし、睨まれた相手に監督不届きを詫びた。グレゴのこの態度は性格の悪さと言うよりはどちらかと言えば人間不信の様な気がしたので、バジーリオはとにかく自分だけでも信用させる事が出来る様にと気を配った。
「バジーリオ様、それの何がそこまで気に入ったんです?」
グレゴを保護してから十日程経った頃、いつもの様に朝からの鍛錬に彼を伴わせたバジーリオに、怪訝そうな顔で配下の男が尋ねた。主であるバジーリオが保護して面倒を見ているとは言えグレゴを信用してはいない男は、彼の事を名では呼ばない。それに加えてグレゴは未だにバジーリオ以外の者にはろくに返事をしないし話もしないので、この男に対しても黙っていただけだったのだが、彼本人もそれは疑問に思っていた事であったらしいのでその時に睨む事はなかった。ただ、グレゴの痩せた体ではバジーリオの鍛練に付き合えば倒れてしまうから、今日も早朝の館の敷地内にある石畳の上に倒れこんで胸を大きく上下させ荒い呼吸を繰り返しながらバジーリオの返答を待った。
「何って言われてもなあ。特に理由はねえなぁ」
「理由も無くここまでする義理は無いですよ?」
「ねえけどよ。あの滅茶苦茶な太刀筋で終わらせるにゃ、勿体ねえ素質持ってるぜ」
剣は誰に習ったとバジーリオが聞いてもグレゴは答えなかったが、恐らく誰からも教えて貰った事はないのだろうと予測はついた。本能で動いているのだろう立ち回りは悪くないが、かと言って良い訳でもない。どことなく、体の一部を犠牲にして相手を倒そうとしてくるのだ。
グレゴは、バジーリオがどんなに言っても自分が傷付く様な剣捌きしか見せない。手元に置く様になってからまだ十日しか経っていないのだから矯正されないのも無理はないのかも知れないが、相手の刃に自分から突っ込んでいくなと何度言っても聞かなかった。執拗なまでに相手の懐に入り、そして腹を貫こうとするのだ。記憶が無いと言う割には賊を殺していた時の癖が抜けないらしい。勿論真剣を用いた鍛練は今のグレゴにやらせても危ないのでさせないが、良くこんな危なっかしい剣捌きであそこまで賊を殺せたもんだとバジーリオも思ったし配下の男も同様の事を思った様だった。
しかし、素質は悪くないとバジーリオは思う。痩せた体の割には重い一撃、瞬時の判断力、臨機応変にこちらの動きに合わせて翻す剣の速さは中々のものだ。これで鍛えてやれば戦場に出しても十分通用する様な戦力になる。後は、危なっかしい戦い方をする癖をどうにかすれば良いだけだ。
「ほれ、伸びてる暇ねえぞ。立て、もういっぺんだ」
朝食の前に今一度手合わせをする為、バジーリオは石畳に転がったままのグレゴに手を差し出したのだが、彼は不機嫌そうな顔でその手は取らずに自力で立ち上がった。吐いた息が、そろそろ白くなる季節になりかけていた。



室内の重い沈黙の中、むっつりとした、しかし気まずそうな顔をして、グレゴは押し黙ったまま自分の腕に包帯がくるくると巻かれるのを見ている。巻いているのはこちらもむっつりとした表情のバジーリオだ。癒やしの杖を使えば良いのにという声も聞こえてきそうだが、バジーリオが使用を承諾しなかった。グレゴが自分から傷付きに行った様なものだったからだ。
「腕曲がるか。指に痺れは?」
「………ねえ」
「そうか。なら、良い」
止血の処置が早かった為か傷口もそこまで大きなものにはならず、半月もすれば塞がるだろう。グレゴの傷の手当を終えたバジーリオは溜息を吐いてからぎろりとグレゴを睨んだ。
「突っ込んで行くなってあれ程言っただろうが。いい加減覚えろ、ばっきゃろう」
「…うるせえ」
悪態を吐いたものの強気な態度で噛み付いてこない辺り、反省はしているらしい。これで全く反省しないのであれば考えものだが、今日の所は大目に見るかとバジーリオも苦々しい顔で包帯やガーゼを仕舞った。
バジーリオがグレゴを側に置き始めてから二ヶ月は経とうとしている。片時も剣を離そうとはせず、夜も余り眠れていないグレゴは、それでも毎日体を動かして運動し、食事もきちんと食べる様になった為か、保護した当時よりも体付きが良くなってきた。肋骨が浮き出ていたとは思えない程しっかりとした体にもなってきたし、毎朝の鍛錬も座り込むとは言え倒れない程度にはなってきていた。
そんな折、滞在している街を通過してフェリア港へ向かった商団が賊に襲われたらしいとの情報が入り、現場も近いし捜索隊を出してバジーリオ自らが隊を率いて討伐に向かう事になったのだが、未だに危なっかしい立ち回りを見せるグレゴを連れて行くかどうか考えていると、珍しく本人が自分も行くとはっきりと言った。賊荒らしであったグレゴも隊に加えて良いものなのかどうか、バジーリオも多少悩んだが、最終的には連れて行ったのだ。商団を襲う程であるからそれなりに大きな集団であろうと予測はついていたし、報告でも十人以上は居るとの事だったので討伐隊も数は居た方が良いという事もあった。
そして街から見て西の山間で発見した盗賊団を捕縛しようとすれば応戦されるのも当たり前で、その時に再三に渡って自ら攻撃に当たりに行くなとバジーリオが言ったにも関わらず、グレゴは矢張り振り下ろされる剣に向かっていったのだ。その結果が、この上半身の怪我という訳なのである。
バジーリオはグレゴの頭に拳骨の一つや二つ落としてやりたかった。だが、以前何度言っても他人に返事をしようとしなかった彼に教育的指導として拳を振り上げた時、グレゴはそれまで見せた事も無かった様な怯えた表情で右手で頭を、そして左手で腹を庇ったものだから、それ以来バジーリオは決してグレゴに対して手を上げる仕草を見せなくなった。ほんの僅か、数秒ではあったが背を縮こまらせ頭を庇う姿を見せたグレゴに、バジーリオは何となく彼の子供時代を察してしまった。親か、養育した者か、それは分からないが、恐らくグレゴは殴られながら育ったのだ。その気遣いはグレゴも気が付いた様で、最近ではちゃんと返事もする様になったし少しずつではあるがバジーリオ以外の者とも会話をする様になってきた。
しかし、それでも矢張り立ち回りが改善されない。何度言っても突っ込んで行こうとするし、平たく言えば命を大事にしないのだ。まるで自分の命を投げ出そうとするその動きは、二ヶ月経ってもまだ改善されていない。保護した当時の焦燥感や不安、苛立ちなどは鎮まり、今ではそんな気配は見えないが、何処と無く死のうとする態度が抜けない。残虐に殺すなど、賊に対して敵対心や憎悪を剥き出しにして命を奪う癖に、己も死のうとするその態度がバジーリオには理解出来ないし謎だった。グレゴは未だに肝心な事を話してくれていないから、配下の者達が調べられた事柄しか分からないのだ。
「あのなぁグレゴ、俺はもうここ来る前に何処に居たのかとか何してたのかとか聞かねえよ。ただ、一つだけ言わせろ」
「…何だあ?」
「死のうとすんじゃねえ。良いな」
「………うるせえよ」
三日月の空の下で捕らえた時から遡ったグレゴの足取りというのは、優秀な配下達を以てしても未だ分からない事の方が多い。ただ、西フェリアの領土内で賊が殺され始めた時より少し前に、国境の長城の警備にあたっていた男が二、三名行方不明になっているとの調べはついた。その頃の記憶が既に無いと思われるグレゴに問い質したところで無意味だが、ペレジア国内の国境付近で何かがあった事は確かなのだ。グレゴが沈黙を守っている以上は分からない。根気強く待つしか無かった。だから、尚の事死ぬなと言ってしまうのだ。
「大体、何でお前はここまで俺の面倒見るんだよ」
「ん?言っただろ、良い素質持ってるって」
「鍛え上げた暁にゃ、お前の部下になれってか?俺に首輪付ける気かよ」
「なるならねえはお前の勝手だ、好きにしろ。それに俺は草原の民だからな、じゃじゃ馬ならしは得意なんだよ。馬に首輪は付けねえぞ」
「誰が馬だ!」
先にも述べたがバジーリオが生まれ育った地域は雪国のフェリアの中でも草原が広がる、比較的温暖な地だ。だから彼は幼い頃から馬に慣れ親しんだし、生まれつきの才覚なのか調教されていない暴れ馬も乗りこなす事が出来た。だから多少癖はあっても何とか教育は出来るだろうとグレゴを側に置いている訳なのだが、馬と同列に見られたグレゴは酷く不満そうにバジーリオに噛み付いた。しかしバジーリオは訂正も謝罪もせずに可笑しそうに笑うだけだった。
「よっしゃ、今日は久々に飲むか。お前も飲んでみるか?」
「…怪我人に酒勧めるなよなー」
「酒は良いぜ、一時だけでも嫌な事は忘れられるし憎しみもある程度追い出せる」
「………」
「お前も酒の味を覚えとけ。フェリアじゃ酒飲めねえと冬越せねえぞ」
フェリアは他の国よりも酒類の消費が多い。それは厳しい寒さを和らげる為の知恵からきたものであるが、それを抜きにしてもバジーリオは無類の酒好きだった。しかしグレゴを保護してからというもの、危なっかしいのでいつも素面で居なければならなかった為に殆ど飲んでいなかった。グレゴはたまに夜中に徘徊しようとするので、その都度見張っておかねばならなかったからだ。これに対して配下の男は過ぎていた飲酒が無くなって、そこだけはあれを拾って良かった事だと言ったが、たまには飲んでも良いだろう。グレゴの言う通り怪我人に酒を飲ませるのは良くない事だが、草原が広がるこの地方でもそろそろ雪が降り始める頃であるから、フェリア特有の度数の高い蒸留酒は飲める様になっていた方が良い。
「ま、これも社会勉強の一つだ。付き合え」
「…奉仕活動の一環の間違いだろー?」
「誰が上手い事言えっつった?」
「いででででで!いてぇよ!」
悪態を吐いたグレゴの両のこめかみを拳を作って折った中指でぐりぐりと抉る様に押してやると、大きな抗議の声と共に腕を叩かれた。最近はこんな風に随分と自分に慣れてきてくれたのでバジーリオも少し安堵する。危なっかしい相手はつい面倒を見てしまう、それがバジーリオという男だった。だからこそたかが地方の豪族の末っ子がここまでのし上がる事が出来ている。
「そうと決まったら酒だ酒だ!おい、酒持って来い!」
膝を打ってから豪快に笑い、そして立ち上がり部屋の扉を開けて別の部屋に居る配下に酒を要求しに出て行ったバジーリオの背をグレゴはいちいちやかましい男だと顔を顰めながら見送ったのだが、その口元が僅かに緩んでいた事には気が付いていなかった。



ちっと飲ませ過ぎたか、と向かいのソファで伸びているグレゴを見ながらバジーリオは手中にあるグラスの濃い琥珀色をした酒を一口飲む。口に広がるスモーキーフレーバーはフェリアで好まれるものだが、度数が高い上に酒豪のバジーリオに付き合った為にグレゴは一時間も保たずに撃沈してしまったという訳だ。
「いくら何でも飲ませ過ぎです。怪我人ですよ」
「悪ぃ悪ぃ。明日の鍛錬は休ませといてくれ」
配下の男が呆れた様に主を窘める。しかし彼もバジーリオがグレゴに酒を注ぎ続ける事を止めなかったので同罪なのであるが、そんな事は知らぬと言うかの様に涼しい顔をしていた。
「しかし、まだ危なっかしいとは言え随分と基礎がしっかりしてきましたね。側近になさるならもう止めませんが」
「そこまで考えてねえよ。面白ぇし見てらんねえ奴だったから鍛えただけだ」
「まあ、いずれ王となったら護衛も必要ですから」
「なると決まった訳じゃねえだろ」
「何としてもさせますよ」
現西フェリア王は来年で引退すると公言している。その王はまだ後継者を発表していないが、他の候補者を差し置いて最年少のバジーリオが内定しているという話もある。しかし矢張り彼は決めるのは王だと一蹴して驕る事をしなかった。今バジーリオの下で働く配下達は、そんな主に誇りを持っている。だからこそ彼が手元に賊荒らしであったグレゴを置く事を快く思わなかったのだが、たった二ヶ月の鍛錬で成長した事に目を見張り、一目置く様になった。性格に難は、まだあるのだが。
そして、まだ難はあった。グレゴに、ではない。関係無いと言えばそうなのだが、突き詰めていけば遠因は自分達にある。男は、ここ数日で新たに分かった事をバジーリオに言うべきなのかどうか迷った。言った方が良いに決まっているけれども、何と言えば良いのかと迷った。しかし主に隠し事は出来ぬと意を決して顔を上げた時、ソファで眠っているグレゴが呻き声を上げ始めた。
「……う… …うぅ、…うぐ… …」
酒を飲ませ過ぎた所為で気分が悪いのかとバジーリオは思ったのだが、それにしても様子がおかしい。脂汗を浮かべ、歯を食いしばって苦しげな表情で身動いだ彼は、明らかに魘されていた。バジーリオが男と顔を見合わせた後、取り敢えず起こそうと腰を浮かせた、その時だった。
「…だ… …よせ、駄目だ、逝くなグレゴ!!」
「?!」
グレゴが叫んだ名前は彼自身のものだったが、どうやら彼ではなくて誰かの事であるらしい。驚き、不可解な顔になりつつもバジーリオは取り敢えずグレゴが天井へ伸ばした腕を掴んでからしっかりと肩に手を回して抱き起こした。
「おい、寝惚けるな、起きろ!グレゴはお前だろう、しっかりしろ!!」
「っ?! あ、ああぁ、あ… …… …ぁ…?」
「今のは夢だ。ここはフェリアでお前がグレゴだ。ぼさっとすんじゃねえ」
「ち、違う、違うっ、俺じゃねえ、グレゴは、グレゴは弟だ」
「…取り敢えず落ち着け、ゆっくり話してみろ」
顔面蒼白になってがたがたと震えるグレゴの歯の根は噛み合っていない。バジーリオが拳を振り上げた時に見せた怯えた表情よりも遥かに恐怖というよりも絶望に満ちた顔は、彼の心の奥底に仕舞いこまれたものの片鱗を見せていた。
「グレゴが弟って事は、お前は違うんだな?」
「違う、俺はグレゴじゃねえ、け、けど、名前だけでも生かしときたかった、から」
「弟は死んだのか」
「し、死んだ、殺された」
「………」
途切れがちな震える声で返事をするグレゴの―実際はグレゴという名ではないらしいが―頬を濡らしているのは脂汗だけではない。彼はぼろぼろと涙を流して泣いていた。
弟が殺されたという事と、彼が賊ばかりを狙って殺していたという事を考えると、つまり彼のグレゴという名の弟は賊に殺されたのだろう。しかも恐らく、腹部を刺されて。そう推測したバジーリオは取り敢えず彼をきちんと座らせてから自分がその隣に座りながら、配下の男に目配せして彼の側に置いてあった剣を遠ざけさせた。衝動的に掴んで暴れられても困るからだ。
「賊に殺されたのか」
「殺された、お、親父みたいに」
「親父さんも?」
「お、親父は俺が十三、の時に、…けど、ずっと、殴られてたし、ろくに育てて貰えなかった、から、…ざ、ざまあみろって、気持ちの方が、大きかった」
何とか呼吸を落ち着けようとしているのだろうが、それでも時折しゃくりあげるグレゴは苦しそうで、バジーリオは大きな手で背を擦ってやる。随分と筋肉がつき始めたとは言ってもまだまだ薄い背中は、呼吸の度に小刻みに震えていた。
バジーリオが以前手を上げそうになった時に垣間見たあの怯えた顔は、矢張り親から虐待された事に起因しているらしい。死んだ事を悲しめなかった事さえ後悔していない様な口ぶりにバジーリオは複雑な思いだったが、言葉の先を促した。
「弟は、グレゴは、俺より小さかったから、ま、護んなきゃ駄目だって、思ってたけど、…ど、どうしてもたまに、そう思えなかった」
「居なけりゃ良いって思っちまったか」
「い、居なかったら良かった、って、あ、あいつさえ居なかったら、クソ親父なんてとっとと見限って、ひと、一人で、生きてけるのにって、思った事はあった、けどっ、」
「でもちゃんと弟の面倒見てたんだろ?」
「み、見てた、親父が賊に殺されて、でも別に、な、何も変わらなかった、し、…だ、だから、あいつが、グレゴが、いっつも俺に迷惑かけてごめんって、謝るのも、煩わしくって、…お、俺、俺、あいつに、そんな事ねえって、一度も言ってやらなかった」
「………」
「何で、何でそんな兄貴庇ってあいつが死ななきゃいけなかったんだ!ほ、ほんとに居なくなって欲しかった訳じゃなかった、のにっ! し、死んで欲しくなんてなかったっ!!」
胸の中になみなみと溜まって飽和状態になっていたのだろう膿を全て吐き捨てるかの様に、グレゴは悲痛な叫び声を上げた。弟の事を疎んじてしまった時期がある事を余程後悔している様で、それが恐らく彼を無意識に死ぬ方へと向かわせるのだろう。
グレゴは、自分を許せないのだ。心の底から大切に想っていた弟に対して疎んでしまった事、詫びる弟に何も言わなかった事、それなのにその弟は自分を庇って死んでしまった事、全ての罪悪感と後悔がグレゴを雁字搦めにして死ぬ方へと向かわせる。弟はそれを望んでいないだろうに、だ。
「ご、ごめん、ごめんグレゴ、ごめ、うあ、あああぁぁっ!!」
伝えられなかった弟への謝罪を叫び、グレゴは両手で頭を抱えて泣き崩れた。酒は彼の憎しみを追い出したと言うよりは押し出し、蓋を抉じ開けさせ、そして溢れさせたのだ。今までずっと外に出せなかったのだろう感情が爆発したのは酒の所為であったのか、それとも自分に拾われてある程度安定した今の状況であるからなのか、それはバジーリオには分からなかったが、知る必要など無い。
「お前は悪くねえよ。弟に悪ぃと思うなら、死のうとすんな」
「う、うぅ、…ふ…っ、…ぅぐ、げほっ、」
「…水持って来てくれねえか、頼む」
「御意」
苦しそうな呼吸を繰り返し、時々噎せるグレゴを落ち着けてやろうと、バジーリオは側に控えてじっと聞いていた男に水を所望する。僅かに目を細めた男は何処と無く顔を曇らせている様に見えたが、グレゴを宥める事に意識が偏っていたバジーリオには理由を尋ねる事が出来なかった。



フェリアの長い冬が終わり、南部地域でも日陰に積もった雪が解け始める頃、西フェリアの王が代替わりするという触書を出した。候補に上がっていた者達の内、指名されたのはバジーリオで、その事には特に誰も疑問を抱かなかった。特筆すべき点は、他の候補者達も彼の王位継承に対し誰も文句を言わなかった事だろう。バジーリオの人柄や純粋な強さというものはフェリアの民を惹き付ける。なるべくしてなったというものだった。
年を越した一の月が終わる頃にグレゴは一つ年をとり、イーリスとペレジアの戦はこの春にイーリス聖王の急逝によって終わりを迎えた。両国はただいたずらに疲弊しただけで、イーリス聖王国など十にも見たぬ王女が王位を継承したのだと言う。それを聞いたバジーリオは改めて戦争というものに勝者など居ない思ったものだ。
「王になるっつったって、特に何か変わる訳でもねえ気がするけどなあ。忙しくなって鍛練の時間が減るってんなら、考えもんだな」
厳しい冬の寒さの中であっても毎朝の鍛練を欠かさないバジーリオは、領主としての忙しさと王としてのそれの違いというものをきちんと心得ている。地方の領主である今とは違い広大な領土を見回さねばならない王になるのだから、配下に任せて自分一人がふらふらする訳にもいかない。
「…あんた、それ以上強くなって、どうすんだぁ?」
走り込みを終えて息を上げているグレゴは、以前に比べて体付きが逞しくなった。倒れこむ事も座りこむ事も無くなった。細かった体は人並み以上の厚さの筋肉で盛られ多少の運動では息が切れなくなってきたが、それでも毎朝のバジーリオの鍛練に付き合うと息を上げる。バジーリオ本人は大して息も切らさず多少かいた汗を拭うだけで、グレゴはその姿を見る度妙な顔をしてしまう。内心では「化け物か」と思っているに違いない。
彼は弟の事を告白して慟哭したあの夜から、度々夜中に魘される様になった。恐らくそれまでも魘された事はあったのだろうし、だからこそ徘徊していたのだろう。魘され飛び起き、弟の名を叫んで吼える様に泣くグレゴを宥めてから、バジーリオは必ずショットグラス一杯の酒を飲ませた。酒と言っても睡眠導入の為のものであるからバジーリオが普段飲んでいる様な度数の高いものではなく、水で割ったものを予め酒瓶に用意しておき、それを飲ませていた。バジーリオにとっては水の様な薄さでも泣いた後で喉を乾かせたグレゴには効いた様で、飲ませると取り敢えずは眠りに就く。グレゴが寝たのを見計らい、バジーリオも寝る。そんな日が随分と続いた。寝る前に飲ませても魘され起きるから、どうせなら起きて一頻り泣かせた後に飲ませた方が良い。その甲斐あってか、グレゴは酒の味は覚えたが依存まではしなかった。
西フェリア王となるかならないかの大事な時期であるにも関わらず、賊荒しで見ず知らずの赤の他人であった自分を引き取り、鍛え、夜中に泣き叫んでも嫌な顔一つせず宥めては寝かしつけ、翌朝には自分より早く起きてさっさと支度しろ朝の稽古行くぞと笑うバジーリオを、グレゴはもう「お前」とは呼ばなくなった。素っ気ない言葉遣いである事には変わりないのだが、それでも幾分か敬意を払っている事は他の者が見ても分かった。
「国王に必要なのは強さだけじゃねえが、強さはある程度の抑止力になるからな。特に今はイーリスとペレジアが戦争終わらせた後だ、用心するに越した事ぁねえ」
「…イーリスもあんたみてぇに戦争仕掛けねえ王様だったら良かったのになー」
「おうグレゴ、褒めてくれんのは嬉しいが、比較はするもんじゃねえぞ。比較する所から争いは始まるからな」
「………」
「こっちよりあっちの方が土地が良い、水が手に入る、資源がある、財産がある、そういった事比較するから争いが始まるんだよ。やめとけ」
自分の言を諌める様に言ったバジーリオに、グレゴは目を見開いた。どちらかと言えば血の気が多く、いかにも戦う為に生まれてきた様に見える男なのに、無用な争いは極力避けようとするその姿勢にグレゴは意外そうな表情を見せた。だがそういう一面をグレゴが知らなかっただけで、バジーリオは元からそうやって考えている男だ。
「現状で満足するのは怠惰だけどな。どうせ比較するなら自分を比較しとけ。お前も、ここに来た時に比べたら随分強くなったろ?」
「あんたと比較したら、あんたと戦わなきゃいけなくなる、って事か」
「………おうよ」
確かに、グレゴは毎朝欠かさずバジーリオが鍛錬に付き合わせた為に強くなった。また、根気強く諭した為に命を投げ出す様な立ち回りもほぼ改善されたし、最近は夜中に飛び起きる事も少なくなった。心身共に健康になってきた証拠だ。それを比べる相手はバジーリオではないとグレゴは言いたかった様なのだが、バジーリオは珍しく口籠って曖昧な返事を寄越した。その事に、グレゴは首を傾げた。
普段は共に鍛錬する者がそこそこ居るが、今日は二人だけだ。バジーリオが配下の男に言って、人払いをさせている。理由は、彼がグレゴに伝えなければならない事にある。
「…グレゴ、剣取れ」
「…?」
顎でしゃくって、石畳の上に置かれている剣を取る様に促したバジーリオの表情が硬い。普段ならば危険だからと木刀しか使わせて貰えないグレゴは怪訝な顔をしたが、言われた通りに剣を拾い上げるとバジーリオが僅かに目を細めた。
「今でも俺が率いている隊にはよ、色んな奴が居てな。身分なんて問わねえ、腕に自信がある奴なら誰だって受け入れてきた。…その中のペレジア出身の奴で、ある年の冬に高熱出してぶっ倒れて、片耳が聞こえなくなっちまった奴が居た」
「…居た?もう居ねえのか」
「居ねえ。いつの間にか自衛団辞めちまってたからな。…そいつはどうやら故郷のペレジアに戻って、賊に成り下がっちまってたらしくてな」
「………?」
「イーリスとペレジアが戦争やってたから調べるのに相当時間掛かっちまったがな、足取りが掴めた。国境付近で金奪うだけじゃなくて子供まで殺しやがってたらしい」
「……… …おい、まさか」
唐突に何を話し出すのかと不可解そうな顔をしていたグレゴは、段々とバジーリオの話の雲行きが怪しくなってきた事に嫌な予感を覚え始めた。その彼の動揺は、バジーリオにも感じ取れる。顔を青褪めさせて自分を見るグレゴに、彼は苦い表情を浮かべて息を吐いた。
「そいつの死体が見付かったのがペレジアとの国境の長城付近。何かから逃げるみてえに倒れ込んで、滅多刺しにされてたそうだ。…特に、剣が腹を貫通した傷が一番でかかったそうでな」
「………!」
見開かれたグレゴの目に、驚愕と失望と絶望が混ざった様な、光にも似た闇が宿った事をバジーリオは見逃さなかった。剣を持つグレゴの手が震えている。それも仕方ない事だし当然の事だとバジーリオも思う。
グレゴが初めて弟の事で慟哭したあの夜、宥めて寝かし付けたバジーリオに、配下の男は静かに報告した。昔自衛団に居た男が賊になっていた事、その男がペレジアで略奪行為をしていた事、そして人殺しもしていた事、殺した者の中には子供も居た事。それらの報告にバジーリオはこの上なく憤ったのだが、男が顔を顰めながら最後に報告した事に天井を仰いでしまった。

『恐らく、それの弟はあの男に殺されたのでしょう。近辺の村に賊に殺された弟の遺体を埋葬させて欲しいと、グレゴと名乗る男が頼んできたそうです』

弟の埋葬を頼んだ事を、グレゴが覚えているのかどうかはバジーリオには分からない。名前だけでも生かしておきたかったとグレゴは言っていたから、そこまでは覚えているかも知れない。本人が名乗りたがらなかった事と、バジーリオ達も無理に聞かなかったので、彼の本来の名というものをバジーリオは未だに知らないのだが、特に知る必要は無いと思っている。ただ、弟を殺した元自衛団の男を追い掛け、惨殺した事は覚えていないのだろう。そうでなければ無関係の賊を無闇矢鱈に殺す訳が無い。
「俺の責任だ。自分の配下なのに賊にまで成り下がらせた挙げ句に殺しまでさせた。お前は俺に剣先向ける権利がある」
「………」
「抜け、グレゴ。俺はお前の弟殺した男を賊に成り下がらせた元凶だぜ」
「…比較、しなくても、争い事が起こるじゃねえか」
「そうか?俺とお前の弟殺した男、どっちが憎い?」
「………っ」
報告した配下の男は、グレゴに真実を伝える事はせぬ方が良いとバジーリオに言った。しかし、もしかしたらどこかでグレゴが知る事があるかも知れない。その時、自分が事実を知っていたにも関わらず黙っていた事を知ればグレゴがどんなに憤るか、怒りを覚えるかを思うと、沈黙という選択肢を取ろうとは微塵も考えられなかった。ひょっとしたら裏切られたと思うのかも知れない。人というものは足し算ではなく掛け算で評価されると思っているバジーリオは、自分の何か一つでもゼロ点で評価が下されたらグレゴの中の己の評価はゼロになると考えている。否、ゼロどころかマイナスになるかも知れないのだ。
自分の配下でもない者に対してそこまで考えずとも、と他の者は言うだろう。しかしそう考えるのがバジーリオという男であったし、何より彼には自分が見知っている男が身体的障害を負ったにも関わらずフォローしなかった為に賊に成り下がらせ、その結果目の前で剣を握り締めて顔を歪ませている男の弟を死なせ、彼を殺人鬼にさせてしまったという負い目がある。
「但し、俺もむざむざ殺される訳にゃいかねえから武器取らせて貰うぜ。真剣勝負といこうや」
「………上等だ」
多分、グレゴにもバジーリオのその思いが伝わったのだろう。過ごした期間は短くとも、迷惑を掛け、誇張ではなく四六時中面倒を見てくれた男なのだ。いくら年若いグレゴでも察する事は出来る。
バジーリオが今朝の鍛練に誰も来ない様に配下に言ったのは、この為だった。誰か居れば必ず阻止しようとするだろうし、邪魔をするなと言っても聞かないだろう。何せバジーリオはもう地方の領主ではない。西フェリアの王となるのだ。このタイミングで伝えたのは卑怯な事になるのかも知れないが、イーリスとペレジアの戦が終結した今ならグレゴがフェリア国内に留まる理由が無くなるし、自らの意思で留まるか出て行くかを選択する事が出来る。戦争を言い訳にして自分の元に居させる事もないのだ。
グレゴが剣を鞘から抜く。バジーリオも石畳に置いていた斧を取る。張り詰めた空気の中、お互い間合いを取る様に立つ。視線は絡み合ったままだ。少しでも隙を作ろうものなら即座に踏み込まれる事は目に見えているから、暫くは睨み合いが続いた。グレゴは今まで木刀を用いた手合わせに勝てた試しが無かったが、真正面から向けられびりびりと体に叩き付けられる殺意はそんな事が如何に無意味な事であるかをバジーリオに教えてくれていた。仮令恩人であったとしても、溢れる憎しみを抑える事が出来ないのだろう。
「…おおぉっ!」
馬鹿が付く程正直に、グレゴが一直線に駆け出し向かってくる。バジーリオはそれに対し自身も石畳を蹴り、グレゴの間合いを崩してから斧の刃ではなく平たい部分で受け止めた。斧は剣に対して不利ではあるが、実力差がある場合はハンデにもなる。それを抜きにしてもグレゴは剣が、バジーリオは斧が得物であるから、両者共にそれがハンデだとは全く思わなかった。
力で押しても負けると分かっているのか、グレゴはあっさりと剣を引いて後ろへ飛び、バジーリオが体勢を立て直すよりも速く剣で薙ごうとした。しかし普段から薪割りなどの労働を自ら率先してやっているバジーリオは、剣より重たい斧をいとも軽々と振り回す事が出来る為にその刃も受け止め、逆に勢い良く押し返した。
「胴ががら空きだ、ぼさっとしてんじゃねえぞ!」
「く…っ、この…っ!」
剣を強い力で弾かれて脇が緩み、グレゴの胴体部分が無防備になった事を受けて今度はバジーリオの斧がそこを薙ごうとする。肌の上を刃が滑れば重傷を負う事は目に見えており、グレゴは咄嗟に横に飛んで斧の刃から逃れる様に石畳の上を転がり、そしてすぐに立ち上がった。その目には、はっきりと憎しみの色が見て取れた。
恐らく、子供の頃のグレゴにとっては弟が世界の中心だったのだろう。親に殴られながら育ったと言ったが、きっと弟を殴られたりしない為に庇ったり、自分の食い物を分け与えたりしていたに違いない。保護した当時のグレゴの体は不自然に痩せ、また体中に古い傷が点在していた。煙草の火を押し付けられたのだろう火傷の痕もあった。それらは全て、弟を守る為に刻まれた痕だったのだ。その弟を殺され、グレゴは狂った。三日月の夜空の下で捩じ伏せた、あの時の狂人となったのだろう。それ程までに、彼は弟を大切にしていたのだ。
「う、お、おおおおおおぉぉぉっ!!」
あの時と同じ様に力任せに振り下ろすグレゴの剣は、しかしどこか迷いに満ちていた。この復讐が何の実も成さぬ事、今この時の決闘が無意味である事、何をした所で弟が戻ってくる筈も無い事、何もかもグレゴが振るう剣先を鈍らせた。剣と斧の刃が激しくぶつかり合う音が朝の冷たい空に響き、吸い込まれていく。
だが、このままでは埒が明かない。気が済むまで振らせても良いのだが、グレゴの諦めがつかないだろう。何より、バジーリオ自身もグレゴの一撃をずっと受け止め続けた為に腕が痺れ、感覚が無くなってきた。初めて刃を交えた時の様に剣をへし折るかと決めたバジーリオは、しかし自分が思ったより腕の痺れが酷い事に気が付いた。上手く弾き返す事が出来なかったのだ。
「っづあああぁっ!!」
「!!」
そしてこれ以上は剣を弾けないと判断し、グレゴが剣を再度振り被った瞬間に後ろに跳ぼうとしたのだが、予想以上にグレゴの動きが早かった為に切っ先がバジーリオの左目を掠った。鮮血が空を舞い、その事にグレゴ本人が驚き、動きが止まる。だが、バジーリオはそれを見逃さなかった。
「ばっきゃろう、殺し合いの最中に止まるんじゃねえ!」
「うあああっ! がっ…は…!!」
腕の痺れも左目の痛みも全て押し遣り、渾身の力を振り絞って斧でグレゴの剣をへし折ったバジーリオは、そのまま体当たりを食らわせた。その衝撃で石畳に叩きつけられたグレゴは痛みに顔を歪めたが、振り下ろされた斧の刃が自分の耳を掠り、石畳に突き刺されて目を見開いた。
「いっちょあがり。引き分け、だな?」
「……… …ぁ…」
荒い息で笑いながらグレゴを見下ろすバジーリオの左目から溢れる血が、グレゴの頬にぱたぱたと落ちる。それを見たグレゴは見る間に眉間に皺を寄せ、口を戦慄かせた。これは泣くなと瞬時に分かったバジーリオは、斧を石畳から引き抜いて自分より離れた所に滑らせた。少なくとも、グレゴが駆け寄って自害する前に止める事が出来る位置までに。
「うぅ、うあ、うわああああぁぁっ!」
「どうだ、復讐ってもんはお前の気を晴らしてくれたか?」
「う、っく、うぅ、す、すみません、すみません、ごめんなさいぃ…っ!!」
バジーリオの左目は、もう役に立つ事は無いだろう。己がしでかした事の重大さに気が付いて飛び起き、彼の肩にしがみついて慟哭したグレゴの背を、バジーリオは大きな手で擦ってやる。逞しくなった背はそれでも矢張り呼吸の度に震えていて、大きな子供の様だと彼は思っていた。



とく、とく、とグラスに注がれる酒の音が耳に心地よい。この音はいつ聞いても良いとバジーリオは満足そうな顔をする。それに対して、酒を注いだグレゴは複雑そうな表情をしていた。
「おうグレゴ、酒飲むってのにそんな辛気臭ぇツラしてんじゃねえぞ」
「…怪我人に酒飲ませたくないだけですよ」
「怪我してても酒飲める程元気って事なんだから良いじゃねえか」
「どういう理屈なんすか…」
久しぶりに就寝前の酒盛りをするとあって機嫌の良いバジーリオと、余り気が乗っていない様な顔をしているグレゴは対照的だ。それもそうだろう、バジーリオの左目には仰々しい程の包帯が巻かれてある。
グレゴとの決闘を終えたバジーリオの左目は、矢張りもう光を失っていた。しかし当の本人は髪が無いから包帯を巻きやすくて良いなどと呑気な事を言い、目が見えなくなった事をさして問題にはしなかった。勿論配下の男達は血相を変えたし、グレゴを責め立てようとした者も居た。しかし、バジーリオはその者達を制して言ったのだ。西フェリア王の王座を賭けての真剣勝負だったんだ、左目だけで済んでんだから軽いもんだ、と。
そう、バジーリオはグレゴとの決闘を彼の復讐を果たさせる為とは決して言わなかった。納得がいかずに王位を継承する者に決闘を申し込んだという事例も、フェリアの歴史の中にはある。前例が無い訳ではないから言い訳にしても良いだろうと思ったのだ。本当は己も怪我などするつもりはなかったのだが、こればかりは武器を用いたのだから仕方ない。命があるだけ良しとしなければならない。
そんなバジーリオに対し、グレゴは自然と敬語を使う様になっていた。朝の鍛錬の時までの様な言葉遣いではない、ぞんざいではあるがきちんと敬語を使う対象にしていた。
「ま、良いじゃねえか、飲もうぜ。お前に初めて飲ませたやつと同じ酒だからな、夜中に飲ませてたやつじゃねえぞ」
「分かってますよ!」
暗に薄くないからすぐに酔い潰れるなよと言うと、まだ飲んでもいないのにグレゴがかっと頬を赤くする。それがおかしくて、バジーリオは上機嫌そうに笑った。不貞腐れた様な顔をしてグラスを上げたグレゴはチン、とバジーリオが持つグラスに軽く当て、そして一口飲んだ。それを見たバジーリオも、ぐいと一気に煽った。
「あと半月もしねえ内に西フェリア城に入る。ま、王様になったって外に出てくつもりだけどな」
「…自由奔放な王様になりそうですよねー」
「俺にゃ優秀な配下がわんさと居るからな。良いんだよ」
型に嵌った王になるつもりなど最初から無いバジーリオに振り回されるであろう配下達に同情を禁じ得ないグレゴは微妙な顔付きになる。そんなグレゴを、バジーリオは失礼な奴だなと小突いた。何を考えているのかは、短かった様で長かった奇妙な共同生活の中で分かる様になっていた。
そう、バジーリオもグレゴも、お互いが何を考えているのかは大体、何となくではあるが分かる様になっていて、だからバジーリオが自分に対しての配慮をしてくれているという事もグレゴには分かっていた。ペレジアもイーリスも戦争を終え不安定な時期であり、フェリアも相変わらず表面上は何事も無いが国内では賊が蔓延っている所もある。バジーリオに鍛えられたグレゴの腕は、そういった世界で十分通用するまでになっていた。
以前配下の男に言った様に、バジーリオにはグレゴを自分の元に留める意志が無い。それは本人が決める事だと思っている。それでも彼は聞かねばならなかった。グレゴが己の目を奪った事に、これ以上の負い目を感じない様にする為にも。
「お前も、一緒に西フェリア城に入るか?」
本心で聞いている訳ではないと、グレゴにも分かっただろう。そして、心の何処かでそうしたいと思っているグレゴにそのままで良いのかと暗に問い掛けているという事もまた、分かったのだろう。グレゴは僅かに逡巡してから、手の中のグラスの酒に視線を落として目を細め、苦い笑みを浮かべた。
「あんた、俺に首輪付ける気ですか」
出来ればそうしたいと、グレゴは思っている。しかしバジーリオが懸念している様に、このままでは精神的に依存してしまうという事が目に見えている。だから離れる事を選んだ。その決断を褒める様に、バジーリオは口元で笑ってからぐしゃぐしゃとグレゴの頭を撫でた。もう、三日月の夜空の下に佇んでいた狂人は何処にも居ない。
「…あの、ずっと言いたかったんですけど」
「ん?何だ、何でも言ってみろ」
「…あの時拾ってくれて、今までずっと迷惑掛けたのに見捨てねえでいてくれて、鍛え上げてくれて、本当に有難う御座いました。…バジーリオ、さん」
「…はっはっは、そうか、お前もちゃんと礼が言える様になったか、もう大丈夫だな!」
グラスを置き、深々と頭を下げたグレゴに内心驚いたバジーリオは、それでも何を言われたのか理解すると豪快に笑った。保護した当時は礼など全く言わなかったし、泣き喚く彼を寝かし付けていた事に対しても言わなかったのに、大した進歩だ。否、今の口ぶりから言えばずっと言いたかった事なのだろうが。
賊荒らしであったグレゴを保護し、鍛え上げ、剣先を向けられたにも関わらず憎しみが篭った剣を全て、それこそ全身全霊で受け止め、手元に置く事は為にならないからと考えて敢えて手放す事をバジーリオは選択した。それは家族がもう居ないグレゴに対して、兄の様な心持ちで接してきたから出来た選択だったのかも知れない。そんな豪胆なバジーリオに対してグレゴは最大限に敬意を払いながらグラスを再度上げる。それを見てバジーリオもにっと笑ってグラスを軽く上げ、声を合わせて言った。


「あんたの王位継承に」
「お前の新しい人生に」

『Cheers!』