手の鳴る方へ

 薄暗くひんやりとした石作りの部屋の中、一人の少女が膝を抱えて蹲っている。大きな岩山をくり貫いて作られたらしい、半ば石牢の様なこの部屋は勿論少女の部屋ではないし、頑丈な扉が備え付けられている上に、外部へと続くくり貫かれた窓には鉄格子が嵌められている。少女は囚われの身だったのだ。
 少女はマムクートという、人間ではなく竜の種族に属し、見た目とは反してひどく長い時間を生きてきた。どこからどう見ても年若い少女だが、彼女はこれでも千年以上生きている。マムクートは稀少な存在であり、高額で取引されるものだから、彼女もそういう生活を送ってきた。まだ記憶も定かではない時分に両親から離され、親を知らずに育った彼女は、見世物として各地を連れ回される日々をずっと過ごしてきたのだ。その中で命を危険に晒された事もあったし、ひもじい思いもしてきた。買われた先の見世物小屋から逃げ出した後も、マムクートと知られると騙されてまた売られた事もある。
 それでも彼女は、人間を恨まずに今まで生きてきた。確かにひどい目にも遭ってきたけれども、決して悪い人間ばかりではなかったからだ。マムクートは人間と違って時間の流れが違い、千年生きていたとしても彼女はまだ子供であり、子供らしく遊ぶ事が好きであったから、行く先々で遊んでくれる相手を探していた。彼女が知らない遊びを教えてくれたり、また彼女が教えたり、そんな時間はとても幸せで楽しかったと彼女は記憶している。だから彼女は人間を憎んではいなかった。
 しかし、そんな彼女を以てしても、今回ばかりは憎まないなどと言えるかどうかは分からない。これから彼女は生贄として、何らかの儀式にその身を捧げられてしまうからだ。逃げ出そうにも彼女の小さな体では抵抗出来る筈もなく、またマムクートは人間の姿からドラゴンへと変身が出来るのだが、その為には竜石という特殊な石が必要で、彼女はここに捕らえられた時にその竜石を取り上げられていた。せめてその石さえあればこの部屋から逃げ出す事も可能ではあるのだろうが、それすら持たない彼女にはもうなす術は無かった。
 やがてその石室の扉の向こうから誰かの声が聞こえ、少女は怯えた様に顔を上げる。複数名の人間のしわがれた声は彼女を絶望に叩き落すには十分で、少女は涙が溜まった瞳でじっとその扉を見た。ギイ、と重苦しい音を立てて開けられた扉の奥から禍々しい色のローブを纏った男共が二、三人姿を見せ、彼女は堪らず喉の奥をひくつかせて大声で泣き叫ぼうとした。
 だが、その時。
「うげっ!」
 その男達の背後からまた見知らぬ男が現れたかと思うと、後ろから剣で突き刺し、斬り付け、倒してから彼女に言った。
「……立てるかい、嬢ちゃん?」



 焚き火で暖を取りながら、男が剣の手入れをしている。その手元を興味深げに少女が眺めていると、男は気が散ってしまったのか、恐らく手入れもそこそこであるだろうにその刃を鞘に仕舞った。少女には分からなかったのだが、彼は見る人間が見れば一流の傭兵と分かる程の男であるらしいから、誰かに見られていようが剣の手入れくらいは出来るだろう。しかし今日はどうしても気が散ってしまったのか、手入れは断念した様だ。
「もうしないの?」
「ああ、もうしねーの」
「なんでー?」
「何ででも」
 まるで子供の様に純粋な目で尋ねる少女に、男は答える気が無いのか適当な声音で返事をした。少女はそれにむくれたが、突っ込んで聞いても良い話なのかどうか分からなかったのでそれ以上は聞く事を止めた。彼女は外見からしてまるきり子供であったのだが、その実この壮年の男より遥かに長い時間を生きている。苦労もしたし辛い事もあったし、悲しい事も数多く経験してきた。そんな中で培ってきた経験は、こんな風に時折役に立っている。相手の顔を見て話題を続けるか逸らすか、その程度なら判断出来るのだ。
「あんた俺の事相当怖がってたじゃねぇか、そーんな近付いて大丈夫かぁ?」
「あんたじゃないもん、ノノだもん。おじさん、顔は怖いけど良い人って分かったから大丈夫だよ?」
「おいあんた今すっげー失礼な事言ったって分かってるかぁ? ついでに言うならおじさんじゃなくてグレゴさん、だ」
「だからあんたじゃないもん、ノノだもん!」
「………」
 少女の、ノノの発言を聞いて、駄目だこりゃ、全然話聞いてねえと言いたげに、グレゴと名乗った男は諦めの溜息を吐いた。武器の手入れの話題を突っ込んで聞かなかった割には、自分の名前を呼ばれなかったのが不服であったノノは頬を膨らませて上目遣いでグレゴを睨む。しかし彼だっておじさん呼ばわりされた事に対して大変不服そうな顔をしていて、どうやらお互い呼び方について不満を抱いているらしい。
 ノノはこのペレジア国で信仰されているギムレー教という宗教の神であるギムレーという邪竜の復活を祈念する儀式に、同じく竜族であるマムクートだからという理由で生贄にされるところだった。しかし直前になって、このグレゴという男が助けてくれたのだ。彼が教徒を背後から斬り付け、倒したところで立てるかどうか、逃げられるかどうかを尋ねてきた。何故助けてくれるのかノノには分からなかったし、血を見るのは得意ではなかったし、そもそもグレゴもそのギムレー教徒達と変わらず自分を生贄にしようとしているのだと勘違いしていた彼女は、咄嗟にグレゴからも逃げ出してしまった。ノノにしてみれば、グレゴのその強面が怖かった、のである。彼はその事について傷付いた様だったが、ノノはそれどころではなくてただひたすら逃げた。
 しかし、長い事薄暗い中に閉じ込められていたせいで一時的に目が弱くなっていたノノには外の光は強すぎて、目が殆ど見えなくなってしまった。砂漠を照り付ける太陽の光が目を刺し、視界がぼやけて足元が覚束なくなった所を、グレゴが腕を引いて誘導しようとしてくれた。だがそれもその時のノノには大層恐ろしくて、思わず彼の手を振り払ってしまったのだ。泣きながら目が痛い、怖いと繰り返すノノに、グレゴは何を思ったのか両手を打ち鳴らして大きな音を立てた。そして、こっちだ嬢ちゃん、この音の方に来い、と大声で誘導してくれた。果たしてそれは遊ぶ事が大好きなノノには功を奏し、彼女はぼやける視界を足元に落として砂漠の砂に足を取られない様に細心の注意を払いながらグレゴの手の音を頼りに走った。普通の人間なら痺れを切らして抱えて走ったり、放って一人で逃げたりするものだが、彼はそうしなかった。辛抱強く、周りの敵と上手く立ち回りながら、ノノを誘導したのだ。
「石も見つけてくれてたし、ノノのこと放っておかなかったでしょ? おじさん一人でも逃げられたのに」
「だからグレゴさんだ。あんた……いや、ノノみてーな子供放ったらかしにして一人で逃げる程、俺はろくでなしじゃねぇの」
「ノノ、こどもじゃないもん! 千年以上生きてるお姉さんなんだから!」
「はーいはい……」
 地面に両手をついてずい、と覗き込んでくるノノに、少し顔を離しながらグレゴは辟易しながら折れる。言動は幼い子供そのものだが、竜石を使って変身した姿を目の前で見たからにはグレゴもその千年以上生きているという言を信じるしかないだろう。彼はマムクートの事を殆どと言って良い程知らなかったらしいのだが、たまたまグレゴを雇ったギムレー教団の者達が何事かを話しているのを盗み聞いた時、竜に変身するのに必要であるらしい竜石をノノから取り上げているから大丈夫だという様な主旨の事を話していたから、なるほどその石も必要な訳か、と判断してこっそり拝借したのだそうだ。しかしノノがよく分かったね、と言ったのも仕方ない程、竜石は見た目は宝石の原石の様な石で、たまに一般の露店商などが宝石として売っているくらいのものだ。通常の生活を送っていなくても、例えばグレゴの様な傭兵であっても竜石はそうだと言われなければ分からないものだったりする。しかしグレゴは以前これは竜石だと教えられた事があったから迷わなかったぜ、と言っていた。誰から教えられたのかはノノは聞かなかった。そもそも聞く余裕も無かったけれども。
「……だけどおじさん、上手だったねー。今度遊んで?」
「んー? 目隠し鬼の事かぁ? まあ……余裕が出来たらなー」
 そしてノノが小さな手をぱんぱんと鳴らしながらグレゴに誘導が上手かった事を褒めると、彼は思う所があるのか返事をはぐらかした。これから向かうのはイーリスの聖王を奪還する為の戦場だ、遊ぶ暇など無いと思ったのかも知れない。しかしノノはこの遊びが好きであったから、その余裕とやらが出来る事を楽しみにしていた。五、六十年前であったか、ノノの記憶は定かではないが、その頃知り合った少年が教えてくれた遊びだった。だからノノにしてみれば、「つい最近」知った遊びだ。その遊びの様に誘導してくれたので、ノノのグレゴに対する初対面時の怯えは薄れたと言っても良い。
「……あんたさー、……いやー、やっぱ良いや」
「なあに、言いかけてやめないでよ」
「いや、良いわ。大した事ぁねえから」
「むー。変なの」
 言いかけて止めてしまったグレゴにノノは不満を表す様に頬を膨らませる。大した事がないのなら言ってくれれば良いものを、彼は言う気が無いらしく、それきり口を閉じてしまったのでノノもそれ以上聞く事を止めた。恐らく聞いても上手くはぐらかされてしまうだろうと判断したからだ。
 昼間の事に話を戻すと、グレゴがノノを上手く誘導しているとたまたまこの砂漠を通り掛かったイーリスの王子であるクロムが率いる軍に出会った。人を隠すには人の中だ、と判断したらしいグレゴはノノを取り敢えずクロム達に保護してもらい、自分が引き連れて来てしまった様な教徒達も居るから、とすぐに戦場に戻ろうとしたので、その頃にはもう目も利く様になっていたノノもついて行くと言って彼の後ろを追い掛けた。グレゴがシスターか誰かの所に居ろと言ってもノノは聞かず、竜石を掲げて変身して戦い始めたので、彼も何か言うのを止めて彼女を庇う様にしながら戦ったのだが、誰かと連携して戦うなどという事はした事が無かったノノはそれでもグレゴが苦戦しない様にと竜の大きな体や翼を最大限に使ってギムレー教徒達を追い払っていた。この軍の軍師である若者――ルフレという名であったが、感心されてしまった程だ。ペアを組ませていても問題無さそうだからそのまま戦っていてくれと言われてしまい、結局ノノがクロム達に合流した意味は無くなってしまった。
 戦闘が終わるとグレゴは正式にクロム達に自己紹介をし、自分達も追われている事、雇ってもらえた方が何かと都合が良いという事を告げると、マムクートのノノの身を案じたルフレやクロム達は了承して、ノノはグレゴと同じ様な身の上となっている。だから今こうやって野営地に腰を下ろし、二人で他愛無い話をする事が出来ていた。但し、処刑されるらしいというイーリスの聖王エメリナを何としても奪還しなければならないから、全軍がぴりぴりしているというのも事実だ。加入したてのグレゴとノノが軽口を叩ける様な状況ではないと言っても良い。特に、イーリスの自警団という面子に対しては。
「……何だぁ? あんた、寒いのか?」
「……うん」
 そして焚き火に当たりながら小さな体を少し震わせているノノを見てグレゴが尋ねてきたので、彼女はこっくりと頷く。この辺りは砂漠という事もあってか、昼夜の寒暖の差が激しい。しかもノノはお世辞にも服らしい服を着ているとは言えず、そんな格好をしていれば寒いのは当然だと言われてしまう様な格好をしていた。
「向こう行って天幕入っとけよ。えーと、誰だ……クロムの妹の……そう、リズとか居るだろー?」
「おじさんは寝ないの?」
「だからおじさんじゃねーっての! まだ寝ねぇよ」
「なんでー?」
「何ででも。……あ、こら、おい」
 天幕の方を指差して休むように言ったグレゴに、ノノは彼も休めば良いのにと思って尋ねたのだが、どうも休む気は無いらしい。恐らく夜番を自主的にするつもりなのだろう。それならば、と、ノノは止めようとするグレゴの手をするりと潜り抜け、彼の胡座の上にちょこんと座って背を胸に預けた。こちらの方が温かそうだと判断したからだ。天幕で知らぬ人間、しかも気を張っている者達の中で眠るなど気まずいとノノでさえ思うのだから、グレゴだってその筈だ。だから取り敢えず新規加入者同士で居ようと思った、ただそれだけの事だった。しかしこの光景を他の者に見られたら色々変な印象を与えそうだと思って内心焦るグレゴをよそに、ノノは満足気にぬくい、と言った。
「俺はあんたの保護者じゃねえんだよ。ほら、退いた退いた」
「いやーん。だってぬくいもん」
「いやーんじゃねえ!」
「おう、楽しそうだな、グレゴ」
 二人が細やかな攻防を繰り広げているその時に焚き火の向こうからまた別の男の声がして、グレゴが顔を上げたのでつられてノノも顔を上げた。そこにはグレゴよりも厳つい体付きの、左目に眼帯を着けた男が立っていた。
「バジーリオさん、どうしたんすか……あのなー、この人は怖い人じゃねえの! 良い人だぜー?」
「うー……」
 その男の姿を認めるや否や、ノノはぎゅっとグレゴにしがみついてしまったのだが、彼は男が悪人ではないという事を告げ、何とかノノを自分から引き離そうとした。しかしノノは今までに強面の男達に売られたりした過去がある為、どうしても最初の反応がこうなってしまう。ましてこの男はノノが警戒してしまう様な事をしてしまったのだ、この反応は仕方ない。
「だってこの人、おじさんを殴ったもん……」
「いやー、うん、それはそうなんだけどなー」
「はっはは、随分懐かれたじゃねえかグレゴ! お嬢ちゃん、俺はバジーリオっつってな、そのおじさんの……うーん、そうだな、友達だ」
「友達すか」
「不満か?」
「いやー……光栄です」
 友達、と言われた事に微妙な顔をしたグレゴは、それでもバジーリオの念押しに乾いた笑いを浮かべた。ノノでさえそれはちょっとと思っているんだろうなと分かるのだから、無理もないだろう。
 ノノがグレゴの誘導でクロム達と合流した時、クロムの近くにバジーリオも居たのだが、バジーリオはグレゴが名乗ったのを聞くと彼に駆け寄り、いきなり拳骨を落としたのだ。目を丸くしたのはグレゴだけではなくクロムやルフレも同様であったのだが、バジーリオは構わずグレゴを怒鳴り付けた。

『ばっきゃろう、お前、何も言わずにどっか行きやがって! 俺がどれだけ探したと思ってやがる!』

 ノノは世界情勢など全く分からないのだが、このバジーリオという男はフェリアという国の元統一王なのだそうだ。フェリアは領土が広く、東西の国に別れてそれぞれ統治している王が居り、どちらかの王が統一王として国政を執り行う。そしてその統一王は数年に一度闘技大会が行われ東西の国を代表して王が選出した数人が戦い、勝利した側の国王が就任するのだそうだ。今回は東の王であるフラヴィアが代表にクロムを選出し、見事勝利を収めて統一王になったらしいのだが、以前はこのバジーリオが統一王だったらしい。そして、バジーリオが統一王になった時の闘技大会の西の代表がグレゴだったのだそうだ。見た目からはそこまで腕利きの男だと判断出来なかったのだろうクロムとルフレはまたそこで驚いていたが、残念ながらノノにもその凄さはよく分からなかった。ただ、それなりに強いのだろうな、という事は分かったのだけれど。しかし彼は東の代表に勝った後、バジーリオの即位を見ずにフェリアを去ったのだと言う。勿論、バジーリオにも何も言わずに。
 ただ、ノノはきちんと見ていた。この年でゲンコツ喰らうとか思わなかったぜ、とぼやいたグレゴの口元が、少し嬉しそうに上がっていたのを。だから悪い人ではないのだろうとは思っていたのだが、それでもノノにとってバジーリオは「少し怖い人」だった。グレゴだってそうだったのだが。
「まさかこんな所で再会するなんてな。しかも何だ、娘かと思ったぜ? その嬢ちゃん」
「……ノノは俺達より年上ですってー」
「むうー、そんな言い方するとノノがすっごくおばあさんみたいじゃない。やめてよ」
「じゃああんたも俺の事おじさんて言うなよなー」
 バジーリオが言った様に、今のグレゴとノノは何も言わなかったら親子に見える。それだけ彼らの見た目の年齢差は開いており、またノノが今日初めて会ったにも関わらず随分グレゴに懐いている様に見えるから、尚の事そう思われてしまう。初対面の相手にここまで打ち解けられるのはノノの特技でもあったが、それを許す様な相手でなければ当然こんな会話など出来ない。事実、ノノはギムレー教団の連中には一切軽口を叩けなかった。怖くてそれどころではなかったというのもあるのだが。
「しかし何だな、お前が老けたんだから俺もそれなりに老けるよなぁ」
 腰を下ろしてグレゴと歓談をし始めたバジーリオは、苦笑しながら焚き火の向こうで頬肘をつきながらグレゴにそう言った。二人が何年前に出会ったのかはノノには分からないが、口ぶりから推測すると結構な年数は経っている様だ。多分二人共、若いと他人に言われる時分に出会っていたのだろう。
「その言い方止めて下さいよ、俺がすげーおっさん臭く聞こえるじゃないっすか」
「実際そうだろ、ほんとお前ら親子に見えるし」
「ノノはこどもじゃないもん!」
「あーすまんすまん、お姉さんだったな」
 バジーリオの言にグレゴもノノも不服を表したが、ノノはグレゴの膝の上に座っているしグレゴも不承不承ではあるがそれを許容してしまっているものだから、その姿で否定されても説得力が無く、だからバジーリオも面白いものを見る様に笑った。エメリナの事があるのでクロム達自警団の中にはそんな風に笑う者も居なかったのだが、それだけでも心無し緊張して気を張っていたらしいグレゴは肩の力が抜けたらしい。その様子がノノには背中越しに分かった。強張っていた体が若干解れた様に思えたのだ。
「嬢ちゃん、明日は今日よりもっとしんどい進軍になるが、キツくなったらそのおじさんにおんぶしてもらいな。なーに、嬢ちゃんくらいの子ならおんぶしたって戦えるさ。だろ? グレゴ」
 明日からの進軍の事でノノを気遣ったのか、バジーリオが顎でグレゴをしゃくって茶化す様に言った。騎馬兵ならまだしも、ノノくらいの背格好の子供――に見えるだけで子供ではないのだが――を背負って戦える程、グレゴに体力は無い。しかもノノはまだ知らないが、彼は暑がりなのだ。なのに日中は地獄の様に暑くなる砂漠での進撃なのだから、誰かを背負っては戦えない。それをバジーリオは知っているのに、敢えてそんな事を言うのだ。グレゴは罰が悪そうな顔をしてガリガリと頭を掻いた。
「……あんまりおじさんを連呼しないでもらえませんかね……」
「なーに言ってんだ、俺もお前ももういい年したおっさんだろうが!」
「そうですけどー、気持ちはまだ若いんすよこれでも!」
「俺だって心だけはいつまでも若ぇよ!」
「……ふふっ、なかよしなんだね、おじさん達」
「………。」
 おじさんという呼称について二人が言い合っていると、ノノが面白そうに笑った。しかし、自分達よりも年上であるノノにおじさん呼ばわりされてしまうと沈黙しか出来なくなる。かと言って、ノノをおばあさん呼ばわりしようなどとは二人は思わなかった様だが。
「ノノ、ずーっとひとりだったから、誰かと一緒に居られるのってうれしいの。悪い顔と怖い顔の人達は一緒に居るのはいやだったけど……」
「………」
「だから、ここでノノもなかよしになれたら良いなあ。ねえおじさん」
「……グレゴさん、だ」
 ノノが千年と言う長い時間を殆ど一人で生きてきた事、その中で売買の商品として扱われてきた事を思うとバジーリオもグレゴもやはり沈黙しか出来なくなってしまうのだが、ノノが念押しの様にグレゴにおじさんなどと言ってしまったので彼は苦々しい表情で自分の名前を彼女に告げた。ご丁寧に、さん付けまでして。
 彼女が生きてきた千年の間に、親しくなった人間も居るには居た。ノノにしてみれば数十年というのは僅かなものにしか思えないのだが、その僅かな期間を共に過ごしたり、彷徨の途中で知り合った子供達はノノとよく遊んでくれた。彼らには帰る所があり、ノノには無かったが、それでも彼女は誰かが自分と一緒に居てくれる事が嬉しかった。ここ百年程は特定の誰かとずっと過ごすという事が無く、売られたり見せ物にされたりしていたから、仲良くしてもらえた記憶がノノには無い。否、あの目隠し鬼を教えてくれた少年は仲良くしてくれた様な気もする。ノノはその少年の事を思い出そうとしたけれども漠然としか覚えていなくて、そこで思い出すのを止めた。たった一日遊んだだけの相手の顔を残念ながらノノは覚えていなかったし、五十年は前の事だった気がするので当時少年だった彼はもう初老にはなっているだろうと思ったからだ。
「ま、この軍には気の良い奴も結構居るし、嬢ちゃんもいっぱい友達が出来るさ。少なくとも、そこのおじさ……悪ぃ悪ぃ、そう睨むなよグレゴ、とにかくそいつも仲良くしてくれるだろうしな。めいっぱい遊んでもらいな」
「うん!」
 ノノが少し感傷に浸る様な表情をしたのを受けてバジーリオが気を遣ったのか、ノノの背後のグレゴを指差しながら言ったのだが、さっきから自分より年上のバジーリオにおじさんを連発されてげんなりしているのか恨みがましそうにグレゴがバジーリオを睨んだので、バジーリオは低く笑いながら謝った。だがノノはグレゴが機嫌を悪くしている訳ではないと分かっていたので、にこにこしながら彼の胸に背を凭れる。ノノは人から発せられるにおいでその相手が何を思っているのかが分かるのだ。グレゴからは怒りのにおいは全くしなかった。
「但しクロムの姉さんのエメリナを助けてからな。すまねぇがそこは聞き分けてくれ」
「うん、ノノ、クロムのお兄ちゃんのお手伝いする。クロムのお兄ちゃん、ノノを助けてくれたもの。今度はノノがお手伝いする番だよ! でもその後は遊んでね?」
「なーんで俺を指名するんだぁ?」
「だってさっき余裕が出来たらなって言ったもん。ウソはついたらダメなんだよ?」
「はーいはい……」
 念押しする様にノノが後ろのグレゴを見上げながら言うと、彼は納得した様なそうでない様な、そんな顔で了承した。クロム達は飽くまで現在エメリナをペレジアから奪還する為に進軍しているのであって、決して遊んだりする為にグレゴ達を雇った訳ではない。グレゴはノノを保護したという身の上であり、その流れでノノごとクロム達がグレゴを雇ったので、グレゴは報酬という見返り以上の働きをしなければならなかった。
「はっはは、グレゴ、お前、結婚もしてねぇのに養う娘が出来たみてぇだな!」
「ノノ、こどもじゃないもん!」
「はーいはい、あんたはお姉さんだ、お姉さん。お姉さんなんだからちょっとは大人しくしとけ」
「はぁい」
 まるきり親子に見える二人のやり取りに、バジーリオは再度低く、おかしそうに笑った。昔のグレゴを知るバジーリオにとって、その光景が微笑ましかったのだろう。当然だが、ノノには知る由もないのだけれども。
 だが同じ様に、グレゴだってノノがどんな人生を送ってきたのかは分からないのだ。そんな二人が今日知り合ったばかりなのにこんな風に砕けて話せるのも、ひとえにお互いの性格と言えた。ノノはひどく明るくて誰とでもすぐに打ち解けられるし、グレゴもあしらいが上手いものだから、周りをちょこちょこと付き纏っていたノノの相手を野営の天幕を張りながらしていたグレゴを見て、ルフレが本当にあんた達は今日初めて会ったのかと尋ねた程だ。そうだよとノノが元気良く返事をすると、ルフレは何故か深く頷きながらグレゴに任せる、とだけ言って去って行ってしまった。何を任されたんだろうとノノが疑問に思いつつ天幕の紐を結んでいたグレゴを見ると、彼は微妙な顔付きで暫くルフレの背中を見遣っていたが、黙ってまた紐をしっかりと結び始めたので結局何も聞けなかった。
「で、嬢ちゃんはまだ寝ないのか? グレゴに付き合って起きてやってんのかい?」
「そうなの。それにみんなピリピリしてるから、天幕には居ない方が良いかなあって……」
「そうだよな。だがしょうがねえんだ、我慢してくれな。グレゴも嬢ちゃんの事任せたぜ」
「……はあ」
 ルフレから言われた事を今またバジーリオから言われ、グレゴはまた微妙な顔付きで返事をする。残念ながらノノにはその表情は見えなかったけれども、不承不承返事をしたというのは分かった。戦う事が本業の傭兵なのだから、子供に見えるノノの守りをするのは彼にとって多少不本意なのかも知れない。
「おいおい、気の抜けた返事してんじゃねえぞ! これも傭兵稼業の一環と思え」
「わーかりましたよ、取り敢えず今晩はここで見張りしてますんで、バジーリオさんはそろそろ休んだらどうっすか」
 そしてバジーリオがそのグレゴの返事に対してギロリと睨むと、グレゴは肩に掛けた薄手の毛布を掛け直してバジーリオに休息を促した。ノノにも休めと言った辺り、他人の体調にも気を配れる人種であるらしい。
「おお、そうだな、辺りを見回ってから休むとするか。じゃあ嬢ちゃん……ノノだったか? 風邪引かん様にな。グレゴ、お前もな」
「気ィつけます。バジーリオさんもあんま根詰めない様にして下さいよー?」
「……そうだな。ありがとよ」
「おやすみー、バジーリオ」
「ああ、お休み」
 夕方、天幕を張ってすぐにクロムやルフレと共にバジーリオが明日の行軍の事を話し合っていた事を知っているグレゴが一言気遣う言葉を言うと、バジーリオも肩を竦めて礼を言った。ノノにも分かる程の二人の間の何らかの結び付きの強さは、彼女にほんの少しの羨望を抱かせた程だ。ノノにはこんな風に会話を交わし、笑い合える相手など居ない。羨ましい、と彼女は素直に思った。思ったが、ちゃんと挨拶は出来た。
「……っくしゅん!」
 バジーリオが去った後、暫く二人は黙ったままだったが、ノノが小さな体を縮こまらせてくしゃみをしたので、グレゴは肩に掛けていた毛布で膝の上のノノをマントごと包んで呆れた様に言った。
「だーから天幕に行けっつったんだよ。まあ……居辛いのは分かるけどなー」
「……今日はここで寝ても良い?」
「あー、うーん……ま、まあ、しょーがねえわな……その代わり、襲撃とか万が一にでもあったら叩き起こすからなー?」
「うん」
 困った様にノノがグレゴを見上げてここで休む旨を伝えると、彼も困った様に頭を掻きながら了承を伝えた。それを聞くと一気に疲れが襲ってきて、ノノはそのままくったりとグレゴの胸に寄り掛かって眠ってしまった。意識が眠りに支配される直前に、ノノは彼の苦笑を聞いた気がした。



 浅い微睡みの中、ノノは夢を見ていた。幼く柔らかい手が鳴らされる方へ、素足でも傷付かない草原を踏み締めて、目隠しをしながら駆け寄って行く。鬼さんこちら、手の鳴る方へ、という掛け声と、鳴らされる手の音を頼りに、その声と音の持ち主の元へ。つーかまえた、とノノがその子に抱き着くと、少年の声がつかまったー、と楽しそうに落ちてきて、それが嬉しくてノノはぎゅっと少年を抱き締めた。けれども少年は、ノノ、ここでお別れだ、ごめんな、と謝り、そして彼女を離した。待って、まだ一緒に居て、とノノが言っても、少年はごめんなぁ、と謝るだけで、目隠しをしたままの彼女を置いて、どこかへ行ってしまった。悲しくて辛くて、泣きながら手を伸ばすと、不意に手を鳴らす乾いた音が耳に滑り込んできて、そこでノノの意識は夢から引き上げられた。
「起ーきろー。いつまで寝てんだあんた」
「ふにゅ……もう朝……?」
 聞き慣れた男の声が聞こえたかと思うと、天幕の入り口から差し込む目映い光が瞼を刺す。ノノはその眩しさに眉を顰めてころんと寝返りを打ち、背を丸めた。まだ眠っていたかったのだ。
「起ーきろー! あのなー、いくら俺があんたの保護者代わりでも、女の天幕に入る訳にはいかねえの! 水持って来てやったからさっさと起きて顔を洗えー!」
「ううー……はあーい……」
 入り口付近に水の入った桶を置いた声の持ち主であるグレゴは、ノノを起こす時は必ず手を鳴らして起こしていた。いくら外見が子供の様に見えるノノであっても無闇に触る事は避けているらしく、目隠し鬼で遊ぶ事も多いので自然と手を鳴らす様になった。そして軍内の女性達もグレゴが起こした方が早いから、と、いつの間にかノノを起こすのはグレゴの役割になっていた。あんたは文字通り保護者だから良いだろう、とグレゴはルフレから言われたのだが、何が良いんだよと彼が大きな溜め息を吐いた事を、ノノは知らない。ただ、律儀にこうやって起こしに来てくれる事に対しては有り難いと思っていた。起こしに来なければルフレから文句を言われるというか、恐らくそれもあんたの仕事の内だと言われてしまうに違いないからだとは思われるのだが。
 ノノがクロム達と出逢ってから、既に三年は経っていた。ペレジア王を討ってから二年もの間、何事も無く平和な時が流れたのだが、その間もノノは行く所も無ければ頼る者も居なかったのでイーリスに世話になっていた。ルフレがマムクートだと知られてまた売られたり危険な目に遭ってはいけないから、とクロムに相談してくれたのだそうだ。グレゴもその剣の腕を認められて、一年更新という条件付き契約ではあるが、イーリス騎士団の者達へ剣の指導を任されていた。指導なんて柄じゃねえよとグレゴは最初は渋っていたのだが、バジーリオから選り好みしてねえで暫くそこに居ろと言われて、結局イーリスに留まっていた。ルフレやクロム、バジーリオ、フラヴィアはイーリスが属する大陸より西の大陸、ヴァルム大陸の動向が気になっていて、杞憂に終わる事を願いつつも軍の強化を図りたかったらしい。
 そんな事も知らず、呑気にノノは毎日誰かに遊んでもらっていたのだが、特にグレゴには良く遊び相手になってくれた。ノノの遊びは体を使う事が多くて、走ったり、木に登ったり、とにかく全身を使う遊びが多かったものだから、グレゴにしてみれば少々ハードな鍛錬にもなっていたらしい。同じく遊び相手になっていたソワレやソール、ヴェイクなどの自警団メンバーもノノと遊ぶ事は鍛錬であったそうだ。
 そんな中で、小休止の様に取り入れていたのが目隠し鬼だった。一人がタオルで目隠しをして、周りの者達が手を鳴らし、音や声の方に導く。周囲の景色を暗記して暗闇でも動ける様に、という訓練にもなっていたので、夜間訓練の時に一定の効果は得られたとミリエルに観察してもらっていたソワレが言っていた。ただ、ノノが鬼になると大抵捕まるのはグレゴなのだ。他の誰の手の音は判別がつかなくても、彼のものは分かるらしい。勿論他の者も捕まえる事はあるのだが。
 そしてクロムが王妃を迎えて二年程経ったある日、ルフレ達が懸念していた通りにヴァルム大陸から侵略の軍が押し寄せてきた。フェリアの港で迎え撃ったが、その際にペレジアと戦った時の戦士達が素早く集結出来たのも、ルフレがイーリスやフェリアの王都周辺に戦士達を留まらせていたからだ。ギャンレルを討った事によりイーリス騎士団には新規加入希望者が続出し、鍛え上げていたとは言え、実際に戦を経験した者と未経験の者ではどうしても動きが違う。だからルフレは優先的に先の戦で経験を積んだ戦士達を近くに置いていたのだ。
 ヴァルム大陸の騎馬兵をフェリアの港で押し留めるには心許なく、ならばいっそ海上での戦に持ち込んだ方が良い、そう判断したらしい上層部はペレジアに持ち掛けて船を出してもらった。勿論一筋縄ではいかず、ペレジアに出向いた時は交渉が終わった後に就いた帰途を屍兵が大量に包囲していて、ペレジアの動向も気に掛けねばならなくなった。特にクロムの命が狙われた以上はヴァルム軍、ペレジアの暗殺部隊の両方の動向に目を光らせていなければならない。軍に新規加入者と称して密偵が忍び込まないとも限らなかったからだ。
 そんな経緯を経て、ルフレ達はヴァルム軍を海上で打ち破り、今はヴァルム港の街の近辺に野営を張っている。ヴァルム軍を率いる覇王ヴァルハルトに抵抗する、この大陸の権力者達が解放軍というものを結成しており、その一員であるサイリという女性剣士が新たにヴァルム港で仲間に加わった。ヴァルム大陸に詳しくないルフレ達にとっては渡りに船だ。今は彼女も交えて行軍の打ち合わせを入念にしているらしい。
 不慣れな大陸である事、海を渡ってきたという疲れも手伝い、ヴァルム港に到着してブラーゼを撃退した後、休息を一日挟むと通達が出て、今日はその休息日だ。休息日と言っても昼まで寝るなどという事は夜番要員がする事であって、昨夜も早くに休んだノノがもうすっかり陽も昇ってしまったこんな時間まで寝ているのはおかしい。
「ノノちゃん? 起きたのかしら?」
「あ、セルジュ……うん…おはよう……」
 ノノが起きた事を確認してからグレゴは交代を告げたのか、天幕には既に身支度を綺麗に整えたセルジュが入ってきた。フェリア港での戦いでイーリス軍に加入してきたセルジュはヴィオールの元従者だそうで、飛竜を駆るドラゴンナイトであったからマムクートであるノノとすぐに仲良くなり、今ではこうしてノノの身支度を手伝ってくれる程の仲だ。木桶に入った水でノノが顔を洗っていると、セルジュがその後ろからノノの髪を櫛で整え、結ってくれる。
「今日はお休みだけど、ノノちゃんは何をするの?」
「えっとね……おでかけ」
「お出掛け? ああ、そう言えばさっきグレゴが何か言っていたわね。一緒に行くの?」
「そうなの。ルフレったら、グレゴにノノのお守りしろって言うんだよ! ノノはグレゴよりお姉さんなのに〜」
「あらまあ、そうだったのね」
 道理でグレゴが朝から浮かない顔をしていると思った、とセルジュはくすっと笑う。今日の様な丸一日休息日という日がある場合、傭兵であるグレゴは何らかの簡素な依頼を受けてはそれを片付け、報酬を貰っている筈なのだ。一日の稼ぎが無しになるのであれば、ぼやきたくもなるだろう。ノノはそんな事は知らないが、お守りをしなければならないと思われている事が不服で仕方ない。しかし以前の休息日に夕方になっても野営に戻って来ずに皆に心配を掛けたという前科がある為、休息日には必ず誰かがノノにつく様になってしまった。
 余談だが、ノノが野営に戻って来なかった日に彼女を見付け、背負って戻ってきたのはやはりグレゴだった。ルフレに良く見付けられたな、と言われると、彼は人探しの依頼も結構受けてたんでな、と苦虫を噛み潰した様な表情で自分の背で眠りこけているノノを見てから盛大な溜め息を吐いた。ノノはただ単に野営の近くにある森に入って迷子になっただけだったのだが、その時もグレゴは手を打ち鳴らしてノノを探してくれた。見付けてもらった時にひどく怒られるかとノノは怯えたが、グレゴは怒らなかった代わりに物凄く機嫌が悪そうな顔をして――それはもう凶悪な顔付きになっていたが――ただ一言、戻るぞ、と言っただけだった。怖くて申し訳なくて、ノノが泣きながらごめんなさいと謝ると、怪我はねえんだな、ねえなら良いよと言って乱暴に頭を撫でてくれた。どうやらノノが無事であった事に対しての安堵と心労を掛けさせられた事に対しての怒りが綯交ぜになっていたらしい。結局歩き疲れた上に泣き疲れたノノを背負って戻っている間も無言ではあったけれども、その時までには彼からは怒りのにおいはしなくなっていた。それに安心して、ノノは眠ってしまったのだ。
「でも、ノノちゃんがはぐれて悪ーい人に捕まってしまうよりは、余程良いと思わない?」
「……それはそうだけど」
「どこに行くのかしらね。後で教えてちょうだいね?」
「うん」
 綺麗にノノの髪を結ったセルジュは、ノノのリボンを整えながら優しく微笑んだ。この笑顔が時には怖いとヴィオールが言っていたのだが、ノノは怖いと感じる時が無かったので、ヴィオールって変なこと言うんだなあ、としか思っていなかった。セルジュはフレデリクと同じで、笑顔の時が一番怖いのだ。
 ノノが天幕から出ると、太陽はもう元気良く地上を照らして格好の洗濯日和になっていた。快晴という訳ではなかったが、心地良い風も彼女の薔薇色の頬を擦り抜けていく。時間は過ぎてしまっただろうけれども朝食のパンを貰いに行こうと食事を作る簡易キッチンの天幕の方へ足を運び、そこに居たマリアベルからまたお寝坊さんですのねと悪戯っぽく笑いながらパンを渡されたので、そうなの、ありがとうと礼を言って受け取った。どこで食べようか、向こうに原っぱがあったな、と思いながら軽い足取りで目的地の方へと向かうと、何か硬い物がぶつかり合う大きな音と短い掛け声が聞こえ、ノノは野営の端にある天幕の隙間からそちらの方を見遣る。そこには木刀を構え、手合わせをしている二人の男が居た。
 普段使っている剣ではなく、手合わせ用の木刀を持っているとは言え、お互い真剣な目でただ相手の次の動きを少しでも逃すまいと視線をぶつけている。二人から発せられる気迫は、殺気にも似ていた。だが、二人はほぼ同時に口許でにやっと笑うと、構えていた木刀をどちらからともなく下ろした。
「よーお、ノノ、ちゃーんと身支度してもらったかぁ?」
 そして二人の内の一人、グレゴが木刀を肩に担いで普段と変わらない調子で尋ねてきたので、ノノははっとして思わずこっくり頷いていた。
「おはよう、ロンクー。朝からおけいこ?」
「稽古……? まあ、そんなところか……。お早うと言うには少し遅いな」
「むー。ノノは起きたばかりだからおはようなの」
 もう一人の男は黒髪の青年、ロンクーだった。以前の彼はグレゴに剣の相手をしてもらおうと躍起になっていたが、己の未熟さを認め素直にグレゴに謝罪すると、グレゴもその気になったのか、時折先程の様に手合わせの相手をする様になった。一度真剣でやった事があるのだが、危険だと判断して現在は木刀を使用する様にしているらしい。ノノはその手合わせを見るのは好きだったのだが、二人はあまり見られたくないものらしくて、ノノが来ると大体すぐに止めてしまう。今日もそうだった。
「左手首すこーし痛めてんな、今日一日冷やしとけよー」
「……分かるのか」
「あのな、俺は一流の傭兵だぜー? バレバレだっつうの」
「そうか、……礼を言う」
「どーういたしましてー」
 ノノが来たので先に戻ろうと踵を返したロンクーの背に、グレゴが声を掛ける。それを聞いてロンクーが驚きながらも礼を述べると、グレゴも右手を軽く挙げて返事をした。バジーリオとはまた違った感じで仲が良いな、とノノは二人を見ながら思う。バジーリオとグレゴは兄弟の様な仲の良さだが、ロンクーとグレゴは何と例えたら良いのかノノには分からなかった。分からなかったので、それ以上考えるのは止めた。ノノは難しい事を考えるのは嫌いなのだ。
「よーし、んじゃあ、あんたがそれ食ったら行くかー」
「……そう言えば、どこに行くの?」
「んー? まあ、行ったら分かるさ」
「ふーん……?」
 天幕の方に戻るのが面倒臭かったので、ノノがその原っぱに腰を下ろしてパンを食べ始めると、グレゴは木刀を使って伸びをしながら出発の旨を伝えた。セルジュからも聞かれたが、ノノだってグレゴに港町に出掛けるとしか聞いてないので、何をしどこに行くのか知らないのだ。単にぶらついて時間を潰すだけのつもりなのかも知れないけれども、ノノにとってみれば街中を歩くのも楽しいので特に不満は無い。
 ノノがパンを食べ終わり、グレゴが木刀を武器収納の天幕に戻すと、彼は今日一日野営に残って雑務をすると言っていたフレデリクに港町に行ってくる、夕方には戻ると告げた。ノノも元気良くいってきまあす、と言うと、フレデリクは行ってらっしゃいませ、お気をつけて、と普段のあの笑顔で見送ってくれた。それを受けてグレゴは誰にともなく、クロムの従者っつーより執事みてえだな……と呟いたので、ノノもたしかにと笑って二人は野営地を後にした。
 ヴァルムの港は先日の戦闘でひっそりしているかと思ったのだが、そこに暮らす人々は逞しいもので、戦闘で入港出来なかった船や商人達でごった返していた。その光景は圧巻で、クロムがイーリスで婚礼の儀を挙げた時をノノに思い出させる。あの時は確かリヒトとマリアベルにイーリス城下を案内してもらったが、やはりはぐれてしまい、丁度城下の警備で見回りをしていたグレゴを見付けて一緒に二人を探してもらった覚えがある。
「はぐれないかなあ? 大丈夫?」
「あー、行くとこはそーんなに人通りが多いとこじゃねえから大丈夫だろ」
「……?」
 この商店の通りを歩くのかと思っていたのだが、どうも違うらしい。そしてグレゴの口振りからして、彼はこの街を知っている様だ。そう言えば出身地を聞いた事が無かったとノノは思ったのだが、グレゴは傭兵であって依頼であれば様々な土地へ行くだろうからここが出身地と推測するには尚早ではある。
 人通りが多い所ではグレゴはノノの首根っこを掴んで歩き、それが彼女に不満を漏らさせたが、確かにこうしていれば人ごみの中でも逸れにくい。流石に裏通りまで来ると人もまばらで、それこそ街の住民達の日々の営みの光景が広がっていて、そこで彼は掴んでいたノノの首を離して流石にこっちでは逸れねえだろ、と言った。勝手知ったる足取りでノノの歩調に合わせながらも進むグレゴに並んでノノは街並みをきょろきょろと見回す。この街にノノは来た事があるのだが、何百年か昔の事で、しかも売られた時に船に乗せられた街だったものだから良い思い出が無かった。言っても仕方ないので黙っていたけれども。
 そしてどれだけ歩いたのか、そろそろノノが退屈さを感じる程度の距離を歩いた頃、街の外れにある一軒の簡素なレンガ造りの家の前まで来ると、グレゴは何の遠慮も無くその家の開かれた扉をノックして、勝手に入った。
「タマラ、居るかぁ?」
「……はーい?」
 彼の呼び掛けに、柔らかな陽が差し込む家の奥から落ち着いた女性の声が聞こえ、軽やかな足取りがこちらへ向かってきた。ノノが入って良いものかどうか入り口で迷っていたのだが、迷っている間にはもうタマラと呼ばれた女性は姿を現してしまった。
「その声、グレゴさんかしら? お久しぶりです」
「正解―。元気にしてたかぁ?」
「おかげ様で」
 しかしタマラという女性は目を閉じたままなのに、全くそれを不便そうにしていない。どうやら彼女はグレゴとの会話から察するに目が見えない様だ。そして何の躊躇い無く彼の顔に手を伸ばしたタマラはぺたぺたとグレゴの顔を触り、ふふっ、と笑った。
「あんた今、老けたって思ったな?」
「ごめんなさい、だって」
「何年経ってると思ってんだ、老けるに決まってんだろー?」
「ふふ、そうですね、ごめんなさい。……もう一人、いらっしゃる?」
「ん、ああ。……こっち来い、入って良いから」
 二人のあまりの親密さに胸の辺りが何故かもやもやとした感覚に襲われていたノノは、それでもグレゴに手招きされたのでタマラの前に立つ。ノノの髪に似た若いレモン色の髪は開いた扉から窓へと通り抜ける風で微かにそよぎ、差し込む光を美しく反射していた。
「ノノっつってな。今俺が雇われてる軍の……、仲間だ」
「ノノさん、ですね。初めまして、タマラです」
「はじめまして!」
 タマラが優しく微笑んで名乗ったのでノノも元気良く挨拶をすると、彼女はまあ、と感嘆の声をあげた。元気の良い声だと思ったのだろう。
「私、目が見えないので、よろしかったらお顔を触らせて頂いてもよろしいですか? どんなお顔をしていらっしゃるのか、知りたいので」
「良いよ! えっと……」
「手を顔に持って行ってやんな」
「はぁい」
 タマラの申し出を快く引き受けたノノは、それでも目が見えていないのであればどの位置に自分の顔があるのか分からないのではないかと思ったのだが、グレゴが差し出されたタマラの両手を指さして教えてくれたので、言われた通りに彼女の細い手をとって自分の顔に導いた。ノノの頬に触れたタマラの手は柔らかく、指先が少し冷たくて、その手がゆっくりとノノの顔を探っていく。額、眉、目、頬、鼻、唇、輪郭……全てをゆっくりと丁寧に探った後、そっとその手は離れていった。
「どうも有難う。ふふ、とても可愛らしいお顔立ちね」
「えへへ……ありがと」
 掌全体を使って相手の顔立ちを知るらしいタマラは、ノノのその顔を可愛いと評した。確かにノノは色んな人間から可愛いと言われてきたから、タマラの評価も自然とそうなったのだろう。可愛いと言われて不愉快になる女は居ないから、ノノも照れ臭そうに礼を言った。
「ちーっと港に寄ったもんでなあ。あんたが元気か見に来たんだよ」
「有難う御座います、可愛いひとまで連れてきて下さって。立ち話も何ですから、お茶でも淹れましょうね」
「あー、良いよ、俺淹れてくるからあんたら座ってな。水場借りるぜ」
「ああ、ごめんなさい、有難う御座います」
 茶を淹れようとタマラがキッチンへ向かおうとすると、グレゴがそれを制してさっさと奥の方へと行ってしまった。家の間取りをどうやら全部知っているらしい。ノノはテーブルへと案内されると、ちょこんと行儀良く座った。
「ノノさんはグレゴさんと仲がよろしいの?」
「うん、よく一緒に遊ぶよ!」
「遊ぶ?」
「追い掛けっこしたりねー、隠れんぼしたりとか、あと目隠し鬼もするよ」
「そうなんですか。大事にしてらっしゃるのね」
「へ?」
 待っている間、タマラが質問してきたので何気なくノノが答えると、タマラは微笑ましそうに、しかし意味深な事を言った。それにノノが首を傾げたのだが、タマラには見えていないのでノノのきょとんとした表情は伝わらなかった様だ。しかしノノが自分の言葉を理解していないというのは分かったらしく、緩む口許を手で隠して、言った。
「いえ、ノノさんが大事な人なんだろうなと思って。わざわざ誰かを連れて来るだなんて、しない様な人なのに」
「……放っておいたらどこ行くかわからないからじゃないかなあ?」
「それだけじゃないと私は思いますよ」
「でもいーっつもノノのことこども扱いするよ?」
「こどもだって思い込みたいだけじゃないですか?」
 タマラには何か思うところがある様で、ノノの言葉に丁寧に返す。そうだったら良いんだけどな、とノノは思ったのだが、はたとなる。何故そうだったら良いと思うのだろうか、と。
「子供がどーかしたかぁ?」
 しかしその思考は聞き慣れた声と紅茶の良いにおいで分断されてしまった。ポットとカップを乗せた盆を手に持ったグレゴが姿を見せ、手際良くカップに紅茶を注いでタマラとノノに出してくれた。
「グレゴ、紅茶淹れられたんだ。知らなかったー」
「いやー、タマラみてぇに上手くは淹れられんぜ。適当だからなー」
「でも良いにおい。随分上達されましたね。最初は全くにおいもしなかったもの」
 茶を淹れてくる、と言った時点で気付くべきだったのだが、どうやらグレゴはちゃんと紅茶を淹れる事が出来るらしい。タマラの言葉から察するに、彼はタマラに淹れ方を教えてもらった様だ。そんな仲だったんだ、とノノは思ったが、深く突っ込んで聞くのは躊躇われたので何も言わなかった。その代わりに一口飲んでみると、甘い香りが口の中でふわっと広がり、丁度良い渋味が舌を流れていった。
「……それで、今日はどんなお話をして下さるんです?」
「あー、そうそう、俺が話すのも良いんだけど、ノノが結構面白い話するからなー」
「お話? ノノ、お話なんてあんまり知らないよ?」
「物語じゃねえよ、今まで見てきた事とか聞いてきた事を話すのさ。タマラは遠出も出来ねえし、見れねえからな」
「あ……そっか」
 心なしかわくわくした様な表情のタマラは、グレゴの話を楽しみにしている様だった。言われてみれば、確かに彼女の目の状態では遠出も出来ないだろうし本を読む事も出来ず、誰かの話を聞く事で世の中の出来事に思いを馳せるのだろう。
「ほれ、飛竜の谷で飛竜と競争したりとかしたんだろー? そういうの話せば良いんだよ」
「あ、そんなのならいーっぱいあるよ! じゃあノノ、いーっぱいお話してあげるね!」
「有難う、お願いします」
 そういう事なら任せて欲しいと言わんばかりにノノが胸を張って自信たっぷりに言うと、タマラは本当に嬉しそうにぺこりと頭を下げた。年齢は聞いていないが恐らく二十代後半だろうに、笑顔は幼く見える。外見全体が幼いノノからそう思われてしまってはタマラは立つ瀬が無いだろうけれど、彼女は目が見えていないので外見など気にしていなかった。
 タマラには一言も言っていないが千年以上生きているノノは楽しかった事はあまり忘れず、実に多くの引き出しを持っていて、タマラは話を聞いている間に時折相槌を打ったり興味深そうに身を乗り出したり、ノノと一緒にきゃらきゃら笑ったりした。たまにグレゴがこういう事なんじゃねえの、などと注釈を入れたりしながらだったが、概ねタマラには伝わった様だ。途中で紅茶を淹れ直したり、軽めの昼食を三人で作って食べたりなどして話していると、あっという間に夕方に差し掛かろうとする時間になった。山の事、海の事、空の事……多くの事を経験したノノの話はタマラにとってひどく印象に残った様で、帰る頃には二人はすっかり打ち解けていた。
「もっとお話聞きたかったけど、お時間なら仕方ないですね。またいらしてね」
「おー、何年先になるかは分からんがなあ」
「でも絶対また来るね!」
「ふふ、お待ちしてます」
「ジーマに宜しく言っといてくれ。あんたも達者でな」
「はい、伝えておきます。グレゴさんとノノさんもご武運を」
 陽はまだ沈む様な位置にはないが、野営地が港町から少し離れている以上は余裕を持って戻らねばならない。タマラは名残惜しそうにノノの顔に触れ、またね、と言った。ノノも、タマラの顔を忘れてしまう前にまた来たいと強く思った。
 タマラの家を後にした二人は、ゆったりとした足取りで街並みを歩く。大通りは夕方の買い物客で溢れ返っていたが、路地を一本外れると人混みも無く、途中に点在する商店の中の果物屋に積まれてあったリンゴをノノがせがんだので二つ程買い、港町から抜けた頃には夕陽が西の空を茜色に染めていた。
「タマラにお話させるのにノノ連れてってくれたの?」
「んー、丁度良い時間潰しだったろー? 遊ぶのも良いけど、たまにはああやって誰かと一日話すのも良いもんさ」
「うん、新しいお友達が出来てうれしかったよ。ありがとう」
「どーういたしましてー」
 ヴァルム港に対して良い思い出が無かったノノにとってその港町に友達が出来たという事は本当に嬉しい事で、グレゴに礼を言うと、彼は薄く笑いながらリンゴを手の上で投げて返答した。ブラーゼを倒したばかりのヴァルム港の街には残党がまだ潜んでいるのではないかと思わせたが、この港町はヴァルム大陸全体の貿易の要となっている場所であるから、ヴァルム軍もこれ以上の戦闘で港を疲弊させたくはない様だ。それに対してグレゴは安堵しているらしかった。彼にとっても恐らく古くからの知り合いであるタマラが戦火に巻き込まれるのは不本意だろう。それはノノにだって安易に予想がつくのだ。
「……ねえグレゴ」
「んー? 何だあ?」
「タマラのこと、好きなの?」
「ぶっ! あ、あのなー、タマラには旦那が居るんだよ! ジーマっつって、俺を昔雇った奴でなー?」
 だからひょっとしたら、と思ってノノが思い切って尋ねてみると、グレゴは思い切り吹いてリンゴを落としてしまい、慌てた様な顔で拾いながらタマラが既婚者である事を告げた。しかしそれは答えている様で、全く答えになっていない。彼はそういう意味で好きな訳ではない、とは言わなかった。
「何年前だったかなあ、確か十年くらい前に、タマラがタチの悪ぃ奴らに付き纏われててな。自分が守りたいからって、剣を教えてくれって頼まれたんだよ」
「やっつけたの? その、ジーマって人が、悪い人達を」
「ああ、ちゃーんと追っ払って、その後プロポーズさ。タマラが小せえ頃から親身になってたみてえで、だったら協力しねえ訳にはいかねえだろー?」
 拾ったリンゴをまた手の上で投げ、グレゴが肩を竦めて見せる。お人好しな所は昔から変わらないらしい。多分彼の性格から言って、報酬は祝儀だと言って受け取らなかったのではないだろうか。何となく、ノノはそんな事を思った。
「ジーマは港町で商売やってんだけど、帰ってくる前にお暇しちまったから会えなかったけどなー。っつー事で、別に疚しい事ぁ何もねえよ」
「ふーん」
「なーんだよ、その全く信用してねえような返事は……、っと、おい、な、何だぁ?」
 ノノが持っていたリンゴとグレゴが投げていたリンゴが柔らかな草原の上に落ち、その上に伸びる影が重なる。不意打ちの様にノノが腰に抱き着いてきたものだから、グレゴは再びリンゴを落としてしまったのだ。
 疚しい事は何も無いと彼は言ったが、そうであるならば楽しそうに笑うタマラをあんなに穏やかな表情で眺める筈は無い。好きだけれども諦めているのだろう、とノノは思った。
「ノノはお姉さんだから、よしよし出来るんだよ?」
「……はあ?」
「だから遠慮せずにノノにぎゅーってされてればいーの!」
「……そ、そうかい」
 前触れも無くノノが抱き着いてきた事にかなり動揺しているらしいグレゴは、それでもノノを無理に引き離す事はしなかった。その代わり、夕暮れの冷たい風が彼女を冷やしてしまわない様に風上に立ち、暫くの間ノノの好きな様にさせていた。空は茜色から濃い紺色に染まりかけ、星が見え隠れし始めていた。



「おーにさんこちら、手ーの鳴る方へ」
「えいっ! つーかまえた!」
「おー、捕まったー」
 乾いた大きな音、聞き慣れた声の方へ、目隠しした状態のまま絶対的な信頼の元に飛び付くと、その信頼を裏切る事無く硬い体がノノを受け止める。距離感も狂う事無く飛び付く事が出来るのは彼女の得意技と言っても良かった。
 緑が多い場所を進軍してきたクロム達イーリス軍は、ヴァルム大陸で信仰の篤い紳竜の巫女の力を借りる為、彼女が幽閉されているミラの大樹というとてつもなく大きな樹の上にある神殿へと目指していた。その樹の根元、というか麓と言うに相応しい程大きな樹なのだが、そこで巫女を幽閉しているヴァルム軍との戦闘があった。あちらも巫女を渡すまいと力を入れているのは明白で、セルバンテスという名高い将軍が精鋭を連れて守っていたが、クロム達だって今まで幾多もの戦いをくぐり抜け生き抜いてきた戦士が多く、見事そのセルバンテス将軍を打ち破った。彼らは撤退していき、そして今クロム達は少人数で神殿の巫女に会いに行っている。全軍がぞろぞろと登る事もないだろうという事と、万が一にでもまた敵軍が攻めてきた時の事をルフレが想定して、大樹の側で野営を張っていた。
「クロムのお兄ちゃん達、巫女様に会えたかなあ?」
「会えたんじゃねえのー? ここに居るってのは分かってるんだしなあ」
「巫女様、ノノとおんなじマムクートなんだって。三千年は生きてるってでんしょーがあるってルフレが言ってた!」
「ほー、じゃああんたのお仲間か」
「そうなの。お友達になれたら良いなあ」
「なれるだろー、あんたなら」
 足元が覚束ない場所ではなく、ちゃんと草原まで出て野営を張っているので、ノノは安心して目隠ししても今話している相手、グレゴの方へ走って行けた。よくまあ飽きもせずこの遊びをするもんだ、とグレゴは思っていたのだが、ノノは気に入った遊びなら毎日やっても飽きないのだ。二人じゃつまんねえだろ、とグレゴは言うのだが、他の者達が忙しい時はノノの遊び相手は大体グレゴ一人になってしまうし、ノノは特に気にしていないのでそんなもんか、と彼も思っているらしい。
 今日は激しい戦闘もあった為に武器の手入れや服や鎧の修復、馬の蹄の手当などで皆忙しい。手伝える事が少ないノノは自然と邪魔にならない様に誰かと遊ぶ事になるので、今日は珍しくグレゴから声を掛けられた。珍しく、と言うより、初めてであった様にノノは思う。グレゴはいつでもノノに遊んでとせがまれる側で、決して彼から遊ぼうぜとは言わないのだ。それは実年齢がうんと年上のノノより、グレゴの方が精神年齢が上であるという事を物語っていた。グレゴより十歳は年下であるフレデリクでさえノノとあまり遊びはしないのに、空いた時間で行軍途中に立ち寄る村や街でちょっとした依頼を引き受けては片付け、稼ぎにしている傭兵であるグレゴは本当ならノノと遊ぶ時間などほぼ無いと言っても良いだろう。それでも彼はノノが遊ぼうと言うと、仕方なさそうに笑ってはーいはい、と言うのだ。最初の頃、知り合った頃は渋っていたが、最近はもう諦めているらしい。
「巫女様が居るせいか知らないけど、敵さんも強かったねー。爪欠けちゃった」
「あー、ちゃーんと手入れしとけよ? セルジュでもサーリャでも、どっちでも良いから頼んでも良いし……爪切りあったっけなあ」
 プルフの力で別の職種に変わる事が出来るとは言え、ノノは今まで戦い慣れている竜の姿が良いからと、敢えてその力の恩恵には頼らず竜石を使って戦っている。その為、時折今回の様に爪が欠けたり鱗が剥がれたりしてしまうから、人型に戻った時は随分な怪我になっていたりするのだ。ノノが言った様に、彼女の右手の薬指と左手の親指、中指の桜色の小さな爪は欠けていた。グレゴは自分の腰に付けている道具入れをひっくり返して爪切りを探し、見事探し当ててほれ、とノノに差し出す。
「返しそびれたら悪いから、グレゴがやって?」
「……あーもう、わーかったよ、こっち来い」
 しかしノノはよく物を落としたり忘れたりしてしまうので、爪切りを借りても失くしてしまうかも知れないと判断し、小首を傾げて爪の手入れをグレゴに頼んだ。一方の頼まれた側であるグレゴはノノに何を言っても無駄だと最近は諦めている様で、本当に仕方なさそうに眉間に皺を寄せて座っている前の地面を叩いた。ここに座れと言っているのだろう。けれどもノノはそれを無視して、初めて出逢った日の夜の様に勝手にグレゴの膝の上に座って胸に背を預けた。
「あんたなー、最近ワガママ放題じゃねえか?」
「そんなことないもーん。ノノは爪切ってもらう時はいつもこうして座るもん」
「お姉さんなら自分で切る事も覚えようぜー?」
「いやー」
 ぶつぶつ言いながらも膝から下ろす事無く、肩越しに覗き込んでノノの右手を取り欠けた爪を切るグレゴは、やはり普段と少し違うにおいがする、と彼女は思っていた。では普段はどういうにおいがするのかと言われても困るのだが、今は少し気が立っている様な、心に蟠りがある様な、つらい、かなしい、くるしい、せつない、そんな感情を表に出さない様に極力平静を装っている様なにおいがした。勿論何を考えているのかなど分からないし、何かをしてやれる訳ではないのだが、少なくとも初めてノノに遊ばねえか、誰も相手出来なくて退屈だろ、と声を掛けてくる程度には気を紛らわせたかったのだろう。
「ねえグレゴ」
「んー? 何だぁ?」
「何にも聞かない方がいーい?」
「………」
「ノノ、なーんにも出来ないけど、お話聞くくらいなら出来るからね?」
「……そーかぁ」
 さわさわと揺れる周りの草が風の形を教えてくれているが、生憎と二人の視線はその草には向けられず、四つの目はノノの桜色の爪に向かっている。パチン、パチン、と爪を切る乾いた音の後に、ヤスリをかける小さな音が風の音の中に溶けていく。ノノの小さな背中にマント越しに伝わるグレゴの体温と心音は、心なしか先程より多少変化した様に思えた。手に触れる彼の手の指先も、僅かばかりだが冷たくなった。
「……あんた、気付いて欲しくねえ時は勘が鋭いよなあ」
 爪を整い終えて、綺麗になったノノの手を自分の手の上に置いて眺めながら、グレゴがぽつりと言った。やはり何事かあったらしい。ノノは黙って彼の次の言葉を待った。
「んじゃ、ちょーっとだけ話聞いてくれねえかな」
「うん」
 はあ、と溜め息にも似た深呼吸をしたグレゴは、爪切りを仕舞ってノノを膝から下ろす事無く、自分の後ろにある木の幹に背を預けてから話し始めた。



 今日の事だけどよ、誰だっけな、セルバンテスだっけ? あいつが総大将でこっちに攻撃仕掛けてきてただろ。そうだな、奴さん達ぁ強かったよなあ。流石覇王とか呼ばれてるヴァルハルトを支持して集まった奴らだよなあ。俺も結構剣持ち相手にてこずったからな。んー? そりゃー俺だって強ぇ相手には素直に強ぇって言うしてこずるって言うわな。相手の実力を認める許容があるのも一流の傭兵の条件だぜー?
 ……その中にな。むかーし一緒に仕事した奴が居たんだよ。そう、傭兵仲間って言や良いかな。友達? うーん、友達とはちょーっと違うな。やっぱ傭兵仲間って言った方がしっくりくるな。分かんない? まあ良いさ、分かんなくて。とにかく、そいつが居て俺に気付いた訳だ。こんな所で再会するなんてな、とか言ってさ。そりゃー俺のセリフだって思ったけどよ。
 傭兵ってなぁ、早ぇ話が金で動くんだよ。俺がギムレー教団に金で雇われてたの、あんたが一番知ってるだろー? 金が全てじゃねえけど、金がねえと生きていけねえからな。まあ、そんな傭兵だからよ、ヴァルム軍に雇われたかって聞いたのさ。俺も一応はここに雇われてる身だし。そしたら、何つったと思う? 金で雇われてる訳じゃない、ヴァルハルト様が進む道のその先が見たいんだ、だとよ。
 ヴァルハルトって奴ぁ、相当強いらしいな。いやー、俺は見た事ねえよ。噂には聞いた事あるけど。確かに、男ってのは強さに憧れるし強ぇ奴に魅力を感じるもんさ。俺だって強ぇ奴と戦えるのは好きだしな。……なーんだよ、その疑いの眼差しは。本当だって、ただロンクーみてえに毎度毎度かかって来られるとたまーに面倒臭ぇなって思うだけなんだよ。
 ああ、それでな、絶対的な強さこそが正義だ、ってそいつが言ったのさ。純粋な強さを追い求めるのは分かるし、圧倒的な強さで全軍を引っ張ってく姿ってーのは惹かれる何かがあるだろうよ。けーど、力だけ信じて突き進むのが正しいなんて、俺にゃ思えなくてな。雇い主が変われば身の周りの正義なんざすぐ変わるし、何が正しいかなんて俺ぁ学がねえから分かんねえけど、周辺住民を怯えさせて山の様な死体積み上げて、戦で畑台無しにする事が正義かねえ? ……いやー、うん、俺達も似た様なもんって言えば、そうなんだけどよ……。
 確かに俺達傭兵は戦があってこその職業さ。それがなきゃ実入りも少ねぇし。けどよ、例えばあんたみてえな子供……いやいやー、ちゃーんと分かってるよ、あんたはお姉さんだ、お姉さん。取り敢えず、子供が戦に巻き込まれて親を亡くして泣いてるとこを見て、心が痛まなくなったら終わりだと俺は思ってるんだよなー。んー? ああ、傭兵じゃなくて、人間としてって事な。噂しか知らねえからそのヴァルハルトって奴を批判する事なんざ俺には出来ねえし、そもそも他人を批判出来る程偉ぇ人間じゃねえけど、部下から信頼も篤くて心酔してる奴も多く居るって事だからそれなりに出来た人間なのかも知れねえが、自分の理想の為、えーと、覇道? って言ったっけな? それの為にお前達血を流せって言ってる様なもんじゃねえかって思ってなあ……。……ま、綺麗事並べて部下や領民犠牲にして、言い訳ばっかする様な奴らよりきっぱりしてて逆に清々しいけどな。
 人が居る限り戦争っつーか争いは無くならんさ。そりゃ俺も分かってるし、あんたの方がよっぽど長く生きてるから、知ってるだろー? あいつもそう言ってな。無くならねえなら、強い者がどこまで強くなって、どこまで突き進んでいけるのか、それが見たいって言ったんだよ。……うーん、昔の俺ならもしかしたら同じ事思ったかも知れねえけど……けーど、今は違うからなあ。クロムはちゃーんと自分の弱さを知ってるし、ルフレとかフレデリクとか、俺達を頼る事を知ってるだろー?
 ヴァルハルトの軍に居た方が、そりゃー働きやすいだろうよ。だって本人が強ぇみてえだし。けどなあ、俺ぁこっちの方が働き甲斐があると思ってんだよな。周りの奴らがクロムの為にもっと強くなろうとして、慣れ合ってんじゃなくて切磋琢磨してるだろ。……ああ、えーと、誰かと競って一緒に強くなってく事な。ん? 俺とロンクー……? あー、まあ、そんな感じかな……。
 ……昔共闘した奴が敵に回るなんて、ざらな職業だからなあ。よくある事だって割り切ってるつもりでも、あーんな事言われちゃなあ……。色々考えちまうんだよな。



 普段から多弁なグレゴであるから、そこまでを一気に話されても特にノノは疲れたり退屈したりしなかったものの、難しい話であるという事は理解していた。なるべく顔を見せない様にしているのか、グレゴは終始ノノを向かい合わせにはしようとしなかったから彼女は時折後ろを見遣って尋ねたりしていたので、話の内容が分からないという箇所は無かった。ただ、やはりグレゴと同じで、昔彼と共に仕事をした男が言った事は理解出来なかった。ノノが女だからかも知れないけれども、男女の差を抜きにしても分からない気がしていた。
「……グレゴは、クロムのお兄ちゃん達と一緒に戦えて、うれしい?」
「……嬉しいっつーか……うーん、嬉しい、とはまたちょっと違うかなー」
「じゃあ、ワクワクする?」
「……人殺すのにワクワクするっつーのは不謹慎だよな?」
「そうだけど……でも、ルキナが言ってた未来とはまた違う未来をクロムのお兄ちゃんやルフレ達と作ってるの、ノノはワクワクするよ? 確かに敵さんでも、倒しちゃうのは……つらいけど」
「………」
 未来から来たクロムの娘であるルキナが言うには、未来は邪竜ギムレーが復活し、世界は絶望で覆われるのだと言う。クロムは殺され、大勢の仲間達も死に、ルキナを筆頭に子供達が奮闘するものの、状況は芳しくないらしい。だからルキナは神竜ナーガの力を借りて、過去の世界に来たのだ。絶望の未来を変える為に。その、絶望の未来ではなく、別の未来を今まさに創造している最中なのだと思うと、ノノは心が躍るのだ。
 そして以前、ノノがルフレと一緒に大きな蛇を捕まえたのでその蛇をグレゴに見せると、それどーすんだと聞かれて答えに詰まった事がある。そんなノノを見て、グレゴは遊びで命を粗末にしない様にとノノを注意してから、蛇を捌いて焼いてくれた。その時にたまたまクロムが通り掛かったのだが、流石に蛇は食べた事が無いと言うので一緒に食べたのだ。グレゴは自作の香辛料を持っているし、きちんと血抜きなどの下処理も丁寧にしていたから臭みも殆ど無く、それなりに食べる事が出来たから、蛇も立派に食料になるのだなとクロムも驚いていた。そんなクロムを見て、グレゴは先程ノノに話してくれた内容の中の言葉をクロムに言ったのだ。今まで雇われた奴の中でもお前は働き甲斐があるって俺に思わせるんだよなあ、働きやすいっつーのと働き甲斐があるっつーのは違うからな、だからお前もルフレもしんどい時は周りに頼りながら色んな事を色んな奴から吸収して経験してでっかくなっていきな、その為の協力なら俺ぁ惜しまねえよ、と。
 出会う前のグレゴの事を、ノノは知らない。だから今まで彼がどういう信念を持って生きてきたのかは知らないし分からないのだが、クロムの様なタイプの雇い主というのは初めてだったのだろう。元から面倒臭がりであるらしいグレゴにそこまで言わしめたクロム、そしてルフレはルキナが言った絶望の未来をきっと変える事が出来るのだろうとノノは思うし、そう考えるとひどく楽しくなる。勿論、人を殺す事は楽しい事ではないけれども。
 ノノは今でも、例え敵であっても他人を傷付けるのは好きではないし慣れない。しかしそれを誰も責めないし、それで良いと言う。グレゴもそう言った。あんたとかリヒトとかマリアベルとかリズとか、出来る事なら戦場に出て欲しくねえけどなあ。そんな風にぼやきながら。彼は今日の様に旧知の仲の者と切り結ぶ事があるにも関わらず、だ。
「……つらかった?」
「……さーて、なあ」
「前も言ったでしょ、ノノはグレゴよりお姉さんなんだからね? 甘えてもいーの!」
「う、うーん……お姉さんねえ……」
 言っている事は確かに正しいのだが、外見が全く年上に見えないというよりも寧ろ娘にしか見えないノノにお姉さんと言われても全く実感が湧かないグレゴは、見上げてくる二つの紫水晶の瞳に困った顔をした。明言はしなかったが、きっとその昔の仕事仲間だったという男を、彼は倒して――殺してしまったのだろう。そうでなければ平静を装う様なにおいを発する訳が無いのだ。ノノはグレゴを見上げたまま、小さな手をパンパンと可愛らしく鳴らした。
「あのね、グレゴが迷ったらノノがこうやって呼んであげるね。こっちだよーって。クロムのお兄ちゃんに周りに頼れって言ったのはグレゴでしょ。だったら、グレゴもみんなを頼って良いと思うな」
「いやー……年長者のプライドっつーもんがあってな?」
「ノノはグレゴよりうーんと年上だけど、みんなに頼ってばっかりだよ?」
「……ま、まあ、そりゃー……そうだけどよ」
 ギムレー教団から助けてくれた時に彼がそうした様に、ノノだってグレゴがどこへ向かえば良いのか分からなくなってしまったら手を打ち鳴らしてこっちだと教えてあげられたら良いと思う。そもそもグレゴはいつだって誰かを気に掛けていて、常に軍内の人間の様子を窺い、体調が悪そうなら早めに休めと言うし、落ち込んでいる様だったらさり気なく声を掛ける。けれども彼本人が何か気を落とす事があった時は、誰にも気取られぬ様にすぐに姿を消してしまう。今日、ノノに声を掛けて野営地から離れてしまった様に。
「グレゴってワガママだね」
「えっ? なーんでだよ、あんたに言われたくねえぞー?」
「むー、ノノのことはこっちに置いといて! だっておじさんって呼んだら怒るくせに、さっきみたいにねんちょーしゃだから頼るつもりがないって言うし」
「年上は若者の見本にならなきゃいけねえもんだろー?」
「じゃあグレゴにつらいだろうからちょっと休んでいーよって誰が言うの? 誰がグレゴのこと甘やかしてくれるの? ずーっと一人でガマンするの?」
「……今までそうやってきたからなあ」
「ほら、そうやって言い訳してガマンする! なんで? 年上だとどうしてガマンしなきゃいけないの? ノノはガマンするのいやだよ、グレゴがガマンしてるの見るのもやだ!」
「………」
 段々と声が大きくなっていっている事にノノは気が付いていたが、どうしても抑えられなかった。普段から殆ど本音を言わず、のらりくらりと他人の言をかわし、はぐらかして、決して他人に寄り掛かろうとはしないグレゴの姿に、今のノノは憤りを感じるのだ。
 恐らく、グレゴが今日手に掛けてしまった旧知の仲の男は、例え長い期間会っていなくても彼にとって親しい仲の者だったのだろう。そんな相手と剣を交え、問答し、彼が否定したかった「力によっての捩じ伏せ」をやらねばならなかった。だから様々な感情が綯交ぜになってどうして良いか分からず、とにかく野営地から離れて何も考えたくなかったからノノを遊びに誘った筈なのだ。そうと認める事を潔しとせず、彼は沈黙している。困った様な表情をしたままのグレゴにどうにも我慢ならず、ノノは体を反転させてぎゅっと抱き付いた。
「ちょ、おい、」
「本当のこと言って欲しいの。つらいならつらい、悲しいなら悲しいって、ちゃんと声に出して言わなきゃダメだよ?」
「……だから、それは」
「ずっと前から言ってるでしょ、ノノはグレゴより年上なんだからね? 言っても良い相手だよ? それでもいやなの?」
「……嫌とかじゃねえけど……なーんて言えば良いか……、慣れてねえからなあ、そういう事言うの」
 抱き付いてきたノノに多少の戸惑いを見せながら、それでも無理に離そうとしなかったグレゴは観念したのか、感情を口にする事に慣れていない旨を告白した。身体の不調、例えば痛みや熱の有無などはよく言うのだが、感情は言った試しがあまり無いらしい。自分に素直に生きているノノにしてみれば信じられない事だ。ノノは体を少し離し、間近で真っ直ぐグレゴの目を見て言った。
「じゃあ、ノノがもう一回聞くから答えて? はぐらかしたらダメだよ?」
「……んー」
「その人と戦って、……殺して、つらかった?」
「……ああ」
 僅かな沈黙の後、目を細め、そして伏せてから力無く項垂れて、グレゴが肯定の返事をする。それを聞いて、ノノは褒める様に、慰める様に、彼の頭を小さな手で撫でた。つらい、とは口にしなかったが、己のその感情を認め、他人に吐露出来たのは進歩と言えるのではないか。
こ れは単なる自己満足であるという事に、ノノは気が付いていた。無理矢理グレゴに言わせ、自覚させたのだから、彼本人が自ら気付けた訳ではない。しかしノノは隠してほしくなかったのだ。あんな風に全身から感情を表すにおいを出す程苦しんでいたのだから。
「……今、悲しい?」
「……ああ」
「そっか。……よくガマンしたね、えらかったね」
「偉かねえよ。……ひでぇ男なだけだ」
「ひどい人なら、きっとノノのこと助けなかったよ? グレゴはやさしいよ。ノノが一番知ってるもん」
「……そうかい」
 頭を撫でた後、まだ項垂れたままのグレゴの肩に顔を埋めて広い背中に手を回し、ぎゅっと抱き締めたノノは、この時初めてこの男が好きだと思った。否、前から仲間として、よく遊んでくれる仲の良い相手として好きだとは思っていたが、男として好きだと思った。だが、今はそれを言うべき時ではないとも思ったから、口を噤んだ。ギムレー教団から逃がし、助けてくれたというのもあるし、いつも遊びたがるノノの相手を一番してくれるというのもある。しかし子供扱いする癖に自分からは触れようとはせず、朝が弱いノノを起こす為でも決して天幕の中には一歩も入らず一人の女として扱ってくれるグレゴが手を鳴らして自分を呼んでくれる事が、ノノはとても好きだった。
「もう良いぜ、ありがとな。礼ついでにちょーっと良いか?」
「なあに?」
「慰めてくれるのは嬉しいが、あんた女なんだから、無闇に男に抱き付いたり顔近付けたりしたら駄目だぜー?」
 体を寄せていたノノを離し、背後の木の幹に背を凭れ、軽く両手を挙げて彼女に触れる意思が無い事を暗に示しながらグレゴが僅かに口角を上げて言った。普段から気軽に女に声を掛け、軽口を叩いている癖に、芯の所では潔癖であるらしい。ノノは少し残念に思ったが素直にこっくりと頷く。その返事に、グレゴも満足そうにノノの頭をくしゃっと撫でた。
「よーし、戻るかー。ん、ありゃーセルジュか?」
「あ、ほんとだー。今日のごはん何かなあ?」
 グレゴが見遣った先をノノも振り返って見てみると、セルジュが二人に手をひらひらと振りながらこちらに歩いてきているのが見えた。食事が出来た事を告げに来たのだろう。それを見て、二人も手を軽く挙げたり振ったりしながら立ち上がり、彼女に返事をした。野営から食事の良い匂いが、二人の元に風で運ばれてきていた。



 大地の微かな振動がする中、今日の戦闘でくたびれて深い眠りに落ちていたノノは、普段の彼女からは考えられないのだが、不意に真夜中に目を覚ました。この軍に加入してからというもの頻繁に目隠し鬼で遊んでいるせいか、今日も夢の中でこの遊びを教えてくれた例のいつかの少年と遊んでいたのだけれども、毎回捕まえたらここでお別れだ、と言われるのにどうしても彼を捕まえられなくてずっと追い掛けていた。目隠しをしたまま、少年の手の鳴る方へ、ずっとずっと。何で捕まえられないんだろう、とノノが多少疲れを感じ始めた頃に誰かの泣き声が聞こえた気がして、そこで目が覚めてしまった。
 目を擦りながら体を起こすと、同室で休んでいるサーリャとセルジュは寝息も静かに眠っていた。今日の戦場は溶岩が流れる大地であったから、いつもとは違う足場に戦士達は身体の疲れもそうであるのだが注意を払いながらの進軍だった為に心労も重なって、出撃した者は戦闘後に殆ど全員くたびれた様な顔をしていた事をノノは覚えている。ドーマの臓物と呼ばれるその火山を戦場に、ノノ達はそれこそ変化する大地も敵にして進軍したのだ。くたびれるに決まっている。
 今日はその近くに建つ要塞で休んでいて、微かな振動は火山活動が齎しているという事は明白だった。目を覚ましてしまったノノはもう一度目を擦ると、サーリャとセルジュを起こさない様にそっと布団から抜け出し、部屋から出る。多少の蒸し暑さはあるものの寝苦しさを感じる程の暑さではなく、だから彼女が起きてしまう様な要因にはならなかった筈だ。
 普段は毎日誰よりも遅く起きるノノが真夜中に目を覚ましてしまったのは、ひとえに夢のせいだと言って良い。変な夢だったな、と彼女は思いながら、外の風に当たろうと要塞の屋上まで出る事にした。靴を履くのも億劫で素足だったけれども、逆にそれが石畳の廊下に音を響かせず、休んでいる他の者達の眠りを邪魔しなくて良い。いつも結っている髪は起き抜けである為に下ろしてあり、その髪が歩を進める度にふわふわ揺れる。窓の外の夜空を見ると、空は晴れているのか星が瞬いているのが見えた。
 屋上に出たら綺麗な夜空が見れそうだ、そう考えていたノノの耳に、微かな声が聞こえて彼女は思わず屋上に上がる階段の上を見遣る。さっき見た夢と同じ、誰かの泣き声の様な気がして、ノノはひたひたと素足で階段を昇ると、扉の無い屋上の入口からそっと様子を伺ってみた。……誰かが、屋上の縁に腰掛けて片膝を折り、その膝に肘を置いて頬杖をつきながら夜空を眺めていた。足元には、きちんと武器を置いて。
「……何だぁ? どーしたノノ、寝れねえのか」
「ううん、目が覚めちゃったの。風に当たろうかなあって思って」
 上弦の月の光に照らされて見えたその人の顔は、疲れているというよりも憔悴している様に見えた。無理もないとノノは思う。その人の大事な友人が死んだ、という報告が今日の戦闘が終わった後に舞い込んできたからだ。だからノノは、グレゴも眠れないの、とは聞かなかった。そう、そこに居たのはグレゴだったのだ。
「珍しいな、あんたいっつも遅くまで寝てる癖に。……寒くねえか、大丈夫か?」
「へーきだよ! 暑いくらいだよ」
「まー、ここらは確かにあちーよな……けーど、汗が冷えると風邪ひくから、気ィつけとけよ」
「うん、ありがとう。……お隣座っていーい?」
「……おー」
 尋ねた後、一呼吸開いて返事があった辺り、本当は一人にして欲しいのだろうという予測はついたのだが、ノノは敢えてちょこんと隣に座った。グレゴは高い所が苦手だと漏れ聞いた事があったが、この要塞はそこまで高い建物ではないからまだ大丈夫なのかも知れない。一度、ドラゴンに変身した時に乗ってみるかノノが聞いたら全力で断られた事があったものだから、今の彼がここに座れているというのは意外だった。
「今日……じゃなかった、昨日はつかれたねー。グレゴ暑がりだから溶けちゃうんじゃないかと思っちゃった」
「あんたは俺を一体何だと思ってんだよ……溶けねえよ、マグマに落ちねえ限りは」
「やー! 怖いこと言わないで!」
「あんたが言い出したんだろー?」
 ギムレー教団から助けてくれたお礼に、と、ノノが自身の鱗で腹巻を作ってグレゴにあげた時、俺は暑がりなんだよと言われた事があったので、彼が暑い地域、場所が苦手であるという事をノノは知っている。だから今日の戦場はグレゴにとって辛かったのではないかと思って言ったのだが、彼からの返事がノノには生々しくて、思わず耳を塞いで目を瞑ってしまった。目の当たりにはしていないが、足を滑らせ溶岩に落ちた敵兵の断末魔が耳に残っているからだ。グレゴにしてみれば何気なく言った一言ではあったが、ノノがあまりにも体を震わせて耳を塞いでいるものだから流石に悪いと思ったのか、彼は思案した後軽くノノの頭をぽんぽんと撫でた。
「悪かったよ、もう言わねえから」
「うん……」
 目に涙を浮かべたノノがこくりと頷き、グレゴもやれやれと言いたそうにその手を離す。だがノノはその手を掴むと、必死な顔をして言った。
「死なないでね?」
「……まあ、死ぬつもりはねえよ」
「グレゴが死んじゃったら、ノノ泣いちゃうからね?」
「はーいはい、肝に銘じておきますよ……」
 いきなり何を言うんだ、と困った様な顔をしたグレゴは、それでも思うところがあるのか、素直にそう返事をしてきた。戦争で戦っている以上、死なないという保証は無いし、またその確約だって出来ない。しかし大切な仲間が一人死んでしまったものだから、ノノのこの反応は仕方ないと言えた。
 シュヴァイン要塞から脱出する時、敵陣の中を突破するクロム達とは別行動をし、件のヴァルハルトを引き付ける囮になったのはバジーリオだった。ノノが初めてこの軍に迎えられた日の夜に緊張を和らげてくれた彼が死んだと聞いた時、ノノはとても悲しかったし泣いた。だが、バジーリオと時折酒を飲み交わしたりしていたグレゴは、顔にも出さず何も言わず、黙ってロンクーと二人で剣を交えていた。ロンクーにとってもバジーリオという男は目標であったそうだから、二人は大きな存在を喪ったと言っても良かっただろう。
「……っと、おいこら、危ねえぞ」
 ミラの大樹での時の様なにおいが鼻腔をつき、またグレゴが誰にも言わずに一人で抱え込もうとしている事に気付いたノノは、手を離す代わりに彼の体に抱き付いた。体勢を崩しかけたグレゴは何とか手をついて耐えたが、ここは屋上の縁だ。落ちれば死んでしまう。驚いたのだろう、伝わる心拍数がいきなり上がったのが分かった。
「あーのなあ、前にも言ったろー? 覚えてねえのか、無闇に男に抱き付くなって」
「つらい?」
「あぁ?」
「バジーリオ死んじゃって、つらい?」
「……そうだな、つれぇな」
 ノノが簡素に短く尋ねると、グレゴはもう答えをはぐらかす事なく肯定した。口に出せば和らぐという事は無いかも知れないが、それを吐露して教えてくれる事は大事だとノノは思っていた。
「ノノも悲しいの。だから、こうするの」
「……そうかい」
 感じているその辛さや悲しみを、どうにかして分かち合える様にとノノが抱き付く行為に対し、グレゴはあまり良く思っていなかった様ではあるが、今回も特に無理に離そうとはしなかった。自分の事を思ってしてくれていると分かっているからだ。
 ノノの髪が時折吹き抜ける風を象り、月のぼんやりした光を反射する。若いレモン色のその髪はさらさらと揺れて、二人の間に緩やかな時間が流れているという事を伝えていた。
「……泣いた?」
「いやー……涙は出ねえな。実感がねえから」
「でも泣きたい?」
「泣けるもんならなあ」
 グレゴは泣いていない、と言った。それは嘘ではないだろう。しかし、ノノは確かに誰かの泣き声を聞いたのだ。その泣き声は、この屋上から聞こえてきていた。多分、あれはグレゴの心の内の声であったのだろう。それが聞こえてしまう程には、ノノにとってグレゴは近しい存在になっていた。
 とんとん、とグレゴが軽くノノの細い肩を叩き、離れる事を促す。それに名残惜しさを覚えつつも、ノノは素直に彼から離れた。
「あんた、本当にこういう時は勘が鋭いのなー。……慰めてもらってばっかだな」
「えへん! だってノノはお姉さんだもんね!」
「ははは、違いねえ」
 この軍の中でも年長の部類に入るグレゴより年が上の者など数える程しか居らず、全く見えないがノノもその中の一人だ。もっとも、ノノより年上となったなら、あの神竜の巫女であるチキというマムクートしか居ないのだが。悠久の時を生きる彼女達にとって、人間の一生などほんの僅かな時にしか思えないし、何と忙しない時を生きている事か、と思うのだけれども、それでもノノは人間が好きだと思った。確かに自分を生贄にしようとしたギムレー教団の様な輩達も数多く居る。しかしそれよりも多くの、ノノに優しくしてくれる人間もまた居るのだ。ノノはそれを知っている。
「たまには俺からも礼くらいさせてくれよ。何かしてほしい事とか、ねえか?」
「して欲しいこと?」
「ああ。なーんでも良いぜ」
 いい加減危ないと思ったのか、縁に座るのは止めて床に降りてちょこんと座ったノノに、彼女の前で今度は胡座をかいて座り、腕組みをしたグレゴが尋ねる。何時も遊んでもらっているのだから別にそれで良いのに、とノノは思ったが、欲しいものがあったのでそれを口にした。ほんの少し、顔を赤くして。
「あのね、グレゴのポケットの中に入ってるのが欲しいな」
「………」
「何日か前から入れてるね? ノノ、誰かにあげるのかなあって思って見てたの。……でも、誰にもあげないのなら、ノノにちょうだい?」
「……まーいったな……気付いてたのかよ」
「えへへ…言ったでしょ? ノノはお姉さんだもん」
「……そうだったなー」
 小首を傾げてねだるノノに、グレゴはばつが悪そうな顔をして頭を掻く。そして言われた通りにポケットの中のものを出すと、大きな掌の上に転がしてノノに見せた。月の光を反射して光るそれは、多分彼にとってみても相当な覚悟で買ったものだっただろう。
「……もらってもいーい?」
「あんたにやる為に買ったんだから良いよ。……ちょーっとこのタイミングじゃ、怒られちまうかも知れねえけどなー」
「そうだね。……でも、バジーリオならきっと許してくれるよ」
「……そうだなー」
 手の上に乗せたそれを持つと、グレゴは黙って手を差し出した。ノノも察して手を差し出すと、彼は手に持っていたそれをぐいとノノの薬指に嵌めた。鈍く光るそれをとても嬉しそうに眺めたノノが未だばつが悪そうな顔をした――単に照れているだけだと彼女は知っているが――グレゴにもう一度ぎゅっと抱き付くと、彼はやっとノノの小さな背に腕を回して抱き締めてくれた。それが嬉しくて、ノノはもっと力を籠めて抱き締めた。
 グレゴがいつ頃から自分に対してそういう思いを抱いてくれたのかは分からないが、ノノは同じ思いになれたという事が嬉しかった。穏やかな顔でタマラを見ていたグレゴを見た時に感じた胸の中のもやもやは、単なる嫉妬であったと今のノノなら素直に認める事が出来る。そして、グレゴが何度か言った「無闇に男に抱き付くな」というのが「他の男に抱き付くな」という意味であったのならば。そう思うと、案外この男は可愛いのかも知れない。見た目は厳ついけれども。
「……あんたさー……、あんたの好きな目隠し鬼、誰かに教えられたか?」
 暫く抱き合っていると、不意にグレゴからそんな事を尋ねられたので、ノノはきょとんとしながらもこっくり頷いた。少し体を離して彼を見上げると、くすんだ緑の瞳が自分を見下ろしている。
「うん、そうだよ。んっと……五十年くらい前かなあ? 男の子に教えてもらったの」
 そしてそのノノの答えに、グレゴは少しだけ眉を顰めた。何か思うところがあるらしい。何事か分からないノノは首を傾げるしか出来なかったのだが、次のグレゴの言葉に彼女は目を丸くした。
「……木のてっぺんに縛り付けられたガキ助けて、そいつに教えてもらわなかったか?」
「そうだけど……何でグレゴ知ってるの?」
「そりゃー俺だ」
「……えっ?」
 グレゴの告白は、その短さに反比例してノノにとても大きな衝撃を与えた。今まで目隠し鬼で遊んだ記憶の方が割合を占めていて、その遊びを教えてくれた少年が木に縛り付けられていた所を助けた事など、今尋ねられてやっと思い出したくらいだ。しかもグレゴの年齢を考えると、五十年前などという認識がおかしい事になる。だから先程彼は眉を顰めたのだろう。
「五十年どころか三十年も経ってねえよ、失礼だなあんた……」
「えっ……えっ、だ、だって名前違うよ? グレゴじゃなかったよ?」
 案の定、グレゴはそれを恨む様に小さく溜め息を吐きながらそう言ったのだが、ノノにはまだ信じられなかった。あの少年は確かにグレゴと髪の色は一緒だった様に思うけれども、名は「グレゴ」ではなかった筈だ。そう思ってノノが確認すると、グレゴは僅かに目を細めてから目を伏せた。
「グレゴは弟の名前だ。俺の本名は捨てた」
「……そうなの」
 弟の事を、ノノは直接グレゴから聞いた事は無い。サーリャから漏れ聞いた事があるだけだ。だから今詳しく聞こうかと思ったのだが、彼からまた悲しみのにおいがしたので止めてしまった。弟の名を名乗っているのであれば、その弟は死んでいるに違いない。しかも、恐らくは不当に命を奪われたのだろう。だからノノはそれ以上聞かなかった。
「なんで今まで言わなかったのー! ずるーい!」
「いやー……あんた、全然気付かねえから……」
「ふにゅ……ごめんね……」
「まあ……別に良いけどよ。思い出してくれて良かったぜ」
 その代わりに元気良く不満を言うと、グレゴも多少不満そうに、それでも苦笑しながらノノが自分に気が付かなかったから名乗らなかった事を告げた。たった一日しか遊ばなかった少年の顔を覚えておける程、ノノは記憶力が良い方ではなかったから、どうしてもあの少年とグレゴを結び付ける事が出来なかったのだ。
 しかし、そうであるならばノノは聞かねばならない事がある。ノノは床ではなくグレゴの胡座の上に座ると、彼を見上げてちょっと怒った様な顔をした。
「あの時、ノノ置いてグレゴどっか行っちゃったでしょ? ノノ、もっと遊んでたかったのに」
「あー……、置いてったっつーより、連れてったっつーか……」
「どっちでも良いもん、なんでー?」
「うーん……そりゃー、俺だって遊んでやりたかったのは山々だったんだけどよ……」
 いつか見た夢の様に、当時少年だったグレゴが手を打ち鳴らす方へと進んで彼を捕まえると、ノノに目隠しをしたままここでお別れだ、ごめんな、と言って彼はノノを置き去りにして走り去ってしまった。泣きながら目隠しを取ると、何かの積荷が乗った馬車の荷台に乗せられていて、別の街まで送られてしまった事を覚えている。
「……俺を木のてっぺんに縛り付けたのは俺の親父ってー事ぁあの時言ったよな? そりゃーもうろくでなしだったもんだから、あんたが人間じゃないって知ったら絶対見世物にするか売っ払うだろうって思ったんだよなあ。だから顔見知りの、気の良い行商人のおっちゃんに頼んで、あんたを連れてってもらったんだよ」
「……グレゴ、その後大丈夫だったの?」
「……まあな」
 グレゴがその時の少年であったなら、彼が竜石を何故知っていたのかも分かるし、昔見せてもらった事があるというのも納得出来る。ノノはその後に置いていかれてしまった事に対して不満を抱いていたが、グレゴなりの思い遣りがあったらしい。しかも今の彼の口振りからするに、ノノを荷馬車に乗せた後は多分大丈夫ではなかったのだろう。
「グレゴ、こういう時にウソつかなくても良いんだよ? ……ノノのせいで痛い思いしちゃったの?」
「……まー、いつもの事だったから、気にすんなよ」
「気にするもん……」
 何があったのか、詳しい事までは聞くつもりは無いが、殴られる程度では済まなかっただろう。ひょっとしたらまた木に縛り付けられたのかも知れない。それは分からないが、そんな親の元でちゃんと生きていてくれていた事に、ノノは心の底から彼を褒めてやりたくなった。
 ノノは両親を知らない。生まれてすぐに人間によって攫われてしまったから、親の思い出というものが無い。だから親に対する憧れというものは大きく、今まで彼女が捕らわれたり売られたり見世物になりながらも千年という長い間放浪を続けてこれたのも、ひとえに両親に会いたいという思いがあったからだ。だがサーリャの呪術によって占ってもらったところ、もう両親はどこにも居ないのだという。それが悲しくて、親というものへの憧憬はもっと強いものとなってしまった。しかし、グレゴの親の様な者も居るのだとノノは長い人生の中で学んだ筈なのに今また初めて知った気がして、彼女はついさっき貰った物――指輪を嵌めた左手で優しくグレゴの頭を撫でた。
「あの時も、今も、ちゃんとノノのこと考えてくれてありがとう。やっぱりグレゴはやさしいね」
「……そうかい。ありがとよ」
「ノノ、グレゴのそういうところすごく好きだけど、もうガマンしたりしないでね?」
「んー……善処するわ」
「ぜんしょって、なーに?」
「努力します、って事」
 胡座の上に座ったノノの背を支えるかどうか迷っていたらしいグレゴは漸くそこでノノの肩を抱いた。夜風は生ぬるく、少し暑いくらいではあるが、グレゴが言った様に汗が冷えて風邪をひくかも知れないから迷った末に自分から身を寄せたのだろう。無闇にノノに触る事を嫌っていた彼であったが、これからは気にする必要は無いのだ。それに気付いて、ノノは紫水晶の瞳でグレゴを見上げて言った。
「ねえねえ、グレゴ、ノノまだ聞いてないよ?」
「んー? 何をだぁ?」
「ノノ知ってるよ、指輪あげる時って愛してるぜって言うんでしょ?」
「ぶーっ! あ、あんた、そーいう知識どっから仕入れてくるんだぁ?!」
「ふーんだ、ノノはお姉さんだから知ってるもん! ……言ってくれないの?」
「しょ、しょーがねーなー……」
 ノノの言葉に盛大に吹き出したグレゴはぎょっとした様な顔で彼女を見たのだが、ノノの声音や表情で真剣であるという事を理解したらしく、月明かりの中でも分かる程頬を染めてガリガリと頭を掻いた。柄ではないと思っているのかもしれないし、本気で恥ずかしいと思っているのかもしれない。それはノノには分からないが、肩を抱く彼の手がじわりと汗ばんでいるから緊張している事は確かだ。
「あー……愛してるぜ、ノノ」
「……えへへ。ノノも愛してるよ、グレゴ」
 普段のグレゴからは考えられない様な小さな声で言われたその言葉は、それでもノノの耳にするりと入って心の奥底まで落ちていった。遠くから呼び合った手の音は、こんなにもしあわせな言葉になってノノの中に響いたのだ。うれしい、とノノは頭をグレゴの肩に擦り寄せ、彼の空いた手をきゅっと握った。
 硬い筋肉に覆われたその体は、今までどういう人生を辿ったのかをノノに教えてはくれないが、彼が少年の時分であった頃に彼女を受け止めてくれた体の柔らかさを思い出させてくれた。あんなにも柔らかであった少年の体は、逞しい壮年の男性のものになった。ノノにとっては刹那に感じる時の流れでも、グレゴ達人間にとってはそこまで変化する程の流れなのだ。つい最近遊んでもらった様に思っていた少年は、もうこんなにも大人になってしまった。それがノノには嬉しくもあり、寂しくもある。そんな事を思っているとグレゴが顔を覗き込んできたので、ノノは小首を傾げた。
「……? なあに?」
「いやー……察してくんねえかな」
「……何を?」
 彼が何を察してくれと言っているのか分からず、ノノはまた逆方向に首を傾げながらグレゴを上目遣いで見る。太陽の光の様に眩しくはない月の光に照らされ、さら、と流れた髪は、彼女の健康的な肌色の顔を露わにした。
「なーんであんたはこういう時には鈍いんだよ……さっきみたいな時には勘が鋭い癖に」
「むー、だからなあに? 言ってくれなきゃ分かんないもん」
「あー、もう、だから、目ぇ瞑れ!」
 半ば自棄気味に言われたその言葉に、ノノは首を傾げつつも言われた通り目を閉じる。しかし直後に齎された感触に、やっとその要求の意味を理解した。
 唇に降りてきた柔らかな感触は、確かにグレゴのそれであった。ノノの肩を抱く手も、支えている腕も、寄せている体も男性のものに相応しく硬いのに、唇は多少荒れているとは言え柔らかかった。今まで何人もの女と同様の事をしてきただろうに、繋いだグレゴの手は緊張の為か先程からずっと汗ばんでいる。勿論ノノだって予期せぬ事であったから若干体が強張ったのだが、僅かに開いた視界に穏やかなくすんだ緑の瞳が入り、それが彼女の体から緊張を消し去っていく。ノノの全体重が自分の体に委ねられた事を感じ取ったグレゴはほんの少し唇を離すと、最後に啄む様に彼女の小さくふっくらとした唇を、ちゅ、と音を立てて吸ってから今度こそ顔を離した。
「……ごっそーさん」
「……… ……うん」
 言われた言葉に一気に恥ずかしくなったノノは、顔が熱くなっていくのを感じながらも消え入る様な声で短く返事をした。千年という長い時を生きてきた彼女にとってみても、キスは片手で数える程度しかした事が無かったものだから、免疫が無いのだ。「愛してる」という愛を誓う言葉を要求した割には、愛を誓うキスの存在を忘れてしまっていた。お互い、良い年をした大人と言っても差し支え無いだろうに、ただ唇を重ねただけの口付けでここまで顔を赤くしているのだから、他人が見れば奇異なものを見るかの様な顔をするのかも知れない。けれども、ノノはそれでも良いと思った。うんと年下の相手ではあるが、きっと自分を大事にしてくれると確信していた。
「……あんた、もう寝ろよ。まーた遅くまで寝てたら、セルジュとサーリャに怒られるぜー?」
 そして話題を変える様にグレゴがそう言ったので、ノノはやっとそこで部屋から抜け出してきた事を思い出した。確かにもう寝てしまわないと、起きられなくてまた同室の二人に迷惑をかけてしまう。ノノはこっくりと頷いて、彼を見上げた。
「グレゴは寝ないの?」
「俺ももう寝るわ。荒れてるフラヴィアさんの剣の相手せにゃならんからなあ」
「そっか。無理しないでね?」
「しねえよ。……あんたも居るしな」
「……うん」
 名残惜しそうに離れた体温は、それでもノノに未練を残させない。これからは遠慮なく抱き付いて良い、そう思うと嬉しくて、もう一度だけグレゴの首に腕を絡めてぎゅっとハグして離れると、彼は困った様な照れた様な、そんな表情を浮かべて顔を少し赤くしていた。先程の一連の事が思い出されて恥ずかしかったのだろう。
 グレゴの胡座から降り、素足で立ったノノは、下ろした髪をふわりと靡かせ、その小さな手をぱんぱんと鳴らした。少年の頃の彼に教えてもらった、お気に入りの遊びをする時の様に。
「今度はずーっと捕まえててね。……ノノを一人にしないでね」
「……了解だ」
 ずっと一人で生きてきたノノに初めて出来た家族は、彼女の鳴らす手の音を愛おしそうに聞きながら目を細め、口元で微かに笑ってから立ち上がると、その愛しい手の鳴る方へと歩き出した。もう二度と彼女を一人にしない為に、そしてもう二度と彼女を離してしまわない為に。




「あらグレゴ、ノノちゃんに指輪あげたの貴方なんですってね」
「あー……おう」
「貴方が子供の頃に木に縛り付けられてたのを助けたのってノノちゃんなんですって?」
「……それ聞いたのかぁ?」
「女はそういう事が気になるんだもの。それで、ここからは私の推測なのだけど」
「……なーんだよ」
「初恋だったのかしら?」
「ぶっ! な、あんた、何言っ……」
「聞くところによると、タマラさんはノノちゃんと似た髪の色だったそうね?」
「なーんでタマラの事まで知ってんだよ!」
「あらまあ、首まで赤いわよグレゴ。図星だったのね」
「あ、あのなセルジュ、その、……ノノには黙っててくれねえかな……」
「どうしようかしら。その時のお話を聞かせてくれたら、黙っていようかしら?」
「あー、もう、何でも話すからあいつには黙っててくれ!」
「うふふ、交渉成立ね。ミネルヴァちゃん、後でゆっくり聞きましょうね」




鬼さんこちら、手の鳴る方へ……どちらが手を鳴らしていたのかしらね?