僅かにですが肉体的、精神的、性的虐待の描写を含みます。R-15



美しい青空の下、小高い丘まで続く草花の絨毯の上で、白い服を着た1人の男が目を閉じて緩やかに吹き抜ける風を心地良さそうに受けている。西の空は僅かに浮かび流れる雲を鮮やかな茜色へと染め、明日も晴れる事を教えてくれていた。
何を考えていたのか、それとも何も考えていなかったのか、それは彼にしか分からないが、一見すると美しい世界の中で穏やかな時を過ごしている彼は幸福そうに見える。しかし、彼が幸福であるのか不幸であるのか、彼は勿論誰にも分からない。彼の体に刻まれた傷も、心に刻まれた傷も、塞がれた様に見えてもその実彼を苛んでいたのに、今となっては彼はその痛みを思い出す事が出来ない。痛みによって彼は忘れたくない事を覚えていたのに、だ。
不意に、彼が薄く目を開く。余り聴こえていない耳は、しかし彼の研ぎ澄まされた気配を読み取る力によって、誰かが近付いてきている音に気が付いていた。警戒心も何も抱かず、緩慢な動作で体を捻って、歩み寄ってきた女性を目を細めて見上げると、女性は体を屈めて彼の耳元で優しく言った。

「風が冷たくなってきたわ…戻るわよ…」
「……ぁー…?」
「お家に帰るの…お部屋に戻りましょう…」
「…あーぅ」

その風貌からは凡そ想像もつかない様な返事をした彼に、部屋に戻る事を伝えた黒髪の女性はどこか居た堪れない様な表情をしたのだが、それを気取られない様に僅かに顔を伏せ、そして離れた。そうした所で、彼には自分の表情など殆ど見えていないという事は分かっていたのだけれども。
彼女の後ろに控えていた、暗い橙色の髪の男性が押してきた車椅子から離れ、座っている彼と目線を合わせる様に屈む。彼に怯えられてしまわない様、人懐こそうににっ、と笑うと、両手を軽く差し出した。

「今日はそこそこ歩いて疲れただろう。車椅子、持ってきたぜ」
「…いす…?」
「ああ、車椅子だ。好きだろ?」
「……… …ぁー」

言葉は辛うじて通じているのだろうが、意思の疎通が図れているのかどうかは怪しい。それでも、男性は彼が自分の手を取って立ち上がる事を待った。彼は他人の介助無しに立ち上がる事も歩く事も、もう殆ど出来なくなっていたからだ。以前の彼の姿を知っている分、黒髪の女性も橙色の髪の男性もその姿が居た堪れないしつらい。

「風邪を引いたら…お薬を飲まないといけなくなるわよ…?」
「いやぁ、おくすり、いやっ」
「ああ、大丈夫だ、飲ませないから落ち着け。
 サーリャ、そんな意地の悪い事を言ってやるなよ」

まだ外の風に当っていたいのか、彼は中々男性に手を伸ばそうとしなかったが黒髪の女性が言った言葉に過剰に反応し、怯えた様にぶんぶんと頭を振って彼女から離れようとする。男性はそれを宥め、女性を諌めた。…だが、2人共考えていた事は同じだ。彼が薬をここまで怯える様になってしまった経緯を想像するだに恐ろしい、という。
大きかった彼の体は、今となっては小さい。筋肉で覆われていた筈の体は痩せ衰え、以前では絶対無理であっただろうが、今では男性が容易に支える事が出来る。僅か1年で、彼はこうなってしまった。…否、実際はそれよりも短い期間で壊されてしまったのだけれども。

「薬なんて飲まなくて良いから。戻って休もうぜ。な?」
「……… …おくすり、なーい?」
「無いわよ… …悪かったわね」
「ぅー…」

男性は、根気強く自分の手に彼の手が伸びるのを待った。無理に抱えようとすると、彼が怯える事を知っているからだ。そんな事を怯える様な男ではなかったのに、という思いが2人を満たし、そんな心境を反映する様に冷たい風が彼らを吹き抜けていく。今日という日が、暮れようとしていた。






今自分が置かれている状況がどういうものであるのか、グレゴは暫くまんじりとしながら考えていたのだが、分かる筈も無いというか分かりたくもなくて眉を顰めながら無骨な手でガシガシと頭を掻いた。明るいとは決して言えない部屋には窓が無く、僅かに湿気がある。点在している照明を消せば真っ暗闇になってしまうだろうという事は想像出来たし、数日もこんな部屋に閉じ篭っていたら体調を崩すだろうという事もまた、容易に想像出来た。
邪竜ギムレーとの戦いが終結した後、グレゴはイーリス軍から正式にお役御免となってからヴァルム大陸のロザンヌ領に雇われていた。何処の国でも屍兵が沸く様になってからと言うもの、傭兵であるグレゴにとって職を失うという事はまず無くなっており、領主であるヴィオールとその妻セルジュによって彼は招かれ、そして領地内の各地で屍兵討伐を請け負っていた。そんな彼に、領主夫妻はイーリス大陸に居る旧友のリヒトとノノに子供が生まれたらしいので祝いを持って行って欲しいと頼んだ。領地に戻って数年が経ったとは言え、夫妻のどちらかが領地を離れられる程平定はしておらず、同じく旧友でありノノの保護者代わりでもあったグレゴに頼んだのだ。彼も特に断る理由も無かったので引き受けたのだが、そもそもそれが間違いであったらしいと今のグレゴに思わせていた。
リヒトは先の戦の功労が認められ、実家の地位はそれなりに回復していた。所謂没落貴族であったけれども、テミス伯の娘であるマリアベルを助けた事、幼くしてあの戦を戦い抜いた事、その他多くの功労は新たな聖王であるクロムが知っており、直々にリヒトの実家の位を上げる通達を出した。そして若くして迎えた妻のノノと共に与えられた領地を回り、領民達の話を聞いたり、田畑の状況を見て回ったりもしていた。
そんなリヒトとノノを訪れたのは何日前だったのか、グレゴは思い出せない。何せこの部屋には時計が無いし、窓も無いので現在の時刻というものが把握出来ないどころか昼夜すら分からない。恐らく屋敷の地下なのだろうという事は推測出来たものの、では何故自分がここに居るのかという事は良く分からなかった。
ヴィオールとセルジュに頼まれた祝いの品を届けに来た、それは良い。生まれた娘も見せて貰い、未来から来たらしい彼らの娘のンンとも髪の色が同じだと当たり前の事を笑った、それも良い。問題は、すぐに帰らないで少し休んでいってよと言われ、食事を摂らせて貰った時だ。ノノがまだ赤子の側を余り離れたくないからと言って食事は部屋で食べる事になったのだが、位が上がったとは言え食べるものが変わる訳ではないと出された食事は確かに一般家庭で食べる様なものが並び、三人で談笑しながら食べた。軍に居る時からそうだったのだが、グレゴは食べる時に良く零すものだから、それを見たリヒトは変わらないねー、などと苦笑していたし、ノノもにこにこしながらグレゴのコップに水を注いでくれた。そこまでは覚えている。注がれた水を飲み下してから、記憶が暗転している。
そして気が付くとこの部屋に居た、という訳だ。所持していた剣は屋敷に入った時に預けてしまったし、服の中に仕込んでいた様々な道具も一切を取り上げられていた様で、正真正銘今のグレゴは丸腰だ。風呂に入ったり水浴びする時でさえ小型ナイフを手に届く所に置いていた彼にとって、この状態がどれだけ心許ないものであるか。おまけに唯一の出入り口である扉は頑丈に鍵が掛けられているらしく、リヒトやノノが出入りする時は扉の5ヶ所から施錠を外す音がするのだ。ノブの鍵だけではないらしい。
そう、グレゴがこの部屋に閉じ込められてからどうやら既に数日経っている様で、何度かリヒトとノノが食事を運んで来てくれていた。どういうつもりだ、何が目的だと問い詰めても、2人はただにこにこ笑ってここで僕らとずーっと一緒に暮らそうね、と言うだけで、明確な答えを与えてくれてなかった。2人がこの部屋を訪れ、鍵を外し終わって開けようとした瞬間に不意を突いて扉を開けて逃げれば良いのだろうが、ここまでされても尚グレゴはリヒトにもノノにも怪我をさせたくはなかった。逃げても追ってくる気がしたし、恐らく同じ事を繰り返すだろうという危惧もあったので、それならばちゃんと説得を試みた方が良い。そう判断しての事だった。
動かなければ筋力も衰えるし歩行能力も弱る為、部屋に2人が訪れない時は筋力トレーニングもしてみた。が、外部からの刺激が何も無いこの部屋では自分が何をしているのかたまに分からなくなってきて、たった今数えていた数字も思い出せなくなり、結局何を何回やったのかさえ分からずに終了してしまう。声に出して1から数えても、いくつまで数えたのかふとした瞬間に分からなくなるのだ。
そうする内に、グレゴはリヒトやノノが持ち運んでくる食事にも殆ど手を付けられなくなってしまった。動かないから食欲が沸かないし、何よりその食事の中に訪れた日の様に何か盛られているのではないかという疑心暗鬼に駆られ、受け付けなくなってしまった。それを2人は本気で心配し、何が食べたいか、どういう調理法だったら食べられるかを尋ねてきたので、ここから出られりゃすぐ食えると答えたものの、頑として聞き入れてはくれなかった。

「最終手段は、ここにお前らが入ってきた瞬間にぶん殴って逃げる事だぜ?
 そーんな手荒な事、俺ぁしたくねえんだよ」
「グレゴさんは優しいもんね、そんな事出来ないって僕も分かってるよ。
 でもね、仮にそうしても、屋敷の階上に出る扉には僕のとっておきの封印を掛けてあるんだ」
「グレゴ、魔法が苦手だもんね。リヒトの結界なら、破れないと思うなあ」

何度目かの食事を運んできてくれた2人にうんざりしながらグレゴが言うと、リヒトもノノも無邪気に笑ってそう答えた。そう、無邪気に笑って、だ。それが本気である事、本当である事をグレゴに無言で伝えており、そこで漸く彼は2人が以前とは少し違う事に気が付いた。
何がどう違う、と尋ねられても、グレゴには答えられない。しかし、感覚的に分かる。もうリヒトもノノも、以前の2人ではない。何か邪悪なものに感化されている、と気が付いた時、グレゴの背筋にぞっとするものが走った。本能が逃げろと喧しい程に警告しているのが分かって、グレゴは食事を乗せたスプーンを自分の口元に運ぼうとしたノノを押し退けようとしたのだが、それを察知したらしいリヒトから霧吹きで何かの液体を顔に掛けられてしまい、気を失いはしなかったものの朦朧とする意識の中、無理矢理食事を摂らされた。
リヒトとノノは揃って訪れる事は少なかった。まだ生まれたばかりの赤子を抱えている若い夫婦にとってみれば目を離す事も不安であるからだろうという予測は付く。だがそれ以上に、屋敷に勤めている者達に気取られぬ為であろうという事はグレゴにも分かっていた。使用人達は自分が屋敷を訪ねてきた事くらいは知っているし、屋敷から辞していない事も分かっているだろうとグレゴは思ったのだが、それもリヒトが「客人は帰った」と言ってしまえばそれまでだ。決して主人夫婦が時折姿を消す事に対しても然程疑問に思わないだろう。特にノノの、子供の様に外に遊びに行きたがる癖は治っていない様であったから尚更だ。
外に知らせる手立ても無く、ただ数時間おきに運ばれてくる食事を僅かに口にするだけの無為な時間が過ぎていく。外部から遮断されてしまったグレゴには、この屋敷を訪れてからどれくらいの日数が経ったのかさえ分からない。1日3食与えられているのか、それとも1食だけなのか、時間の感覚が麻痺してしまった体では判別がつきかねた。矢張り食事に薬が入っているのではないかと思うと食べたくないし、食べなければ体力も落ちてしまう。寝台に横たわる自分の体がやけに衰えてしまった事は、グレゴも重々承知していた。もっと早い段階でノノでもリヒトでも押し退けて逃げれば良かったのに、それをしなかった己の甘さが招いた結果だと彼も分かっている。恐らくこの状態ではリヒトの魔力からもノノの力からも逃れられないだろう。ノノだって斧を振るって戦っていた事もある戦士であるから、腕力もある。
それでも、このままで居て良い筈は無かった。何とかしてこの部屋から出なければならない、というのはグレゴだって思っていたのだ。だから、水浴び代わりに体を拭く為の桶の水を運んできたリヒトが「久しぶりに外に出てみる?」と持ち掛けた事には、是非もなく頷いた。だが、それがまずかった。



激痛に、顔が歪む。倒れこんでしまったグレゴを受け止めたのは、冷たい床だった。余りの痛みに息が上がり、苦しくて短い呼吸を繰り返した。

「ほら、逃げようとしていきなり走ろうとするからだよ。
 結構長い事動けてなかったのにいきなり走っちゃ、
 足の腱を傷めちゃうのも当たり前でしょ?」
「…っ、 …ぁ…っあぁ…」
「頭とか打ってない?大丈夫?」
「… …ぅう、 …ぐ…」

リヒトの問いに、グレゴは答える事が出来なかった。痛みが大きすぎて受け答えが出来なかったのだ。それでも起き上がらせようとしてくれたリヒトの手から逃れようと身を捩ると、足を押さえていた手を無理矢理取られて顔を覗きこまれた。

「ねえグレゴさん、言ったでしょ、
ここで僕らとずーっと一緒に暮らそうねって。
大丈夫、グレゴさんが歩けなくなっても僕がちゃんと支えてあげるからね」
「…お前…っ、何が、どう、…て、そん… …っ…」

言葉を発する事も少なくなり、顔面筋が衰えていた為か、呂律が上手く回らない様になってしまったグレゴは震える声でリヒトに尋ねた。何故ここまで自分に執着するのか、何故ここまでする必要があるのか、彼には本気で分からなかった。冷たい廊下は暗く、今が夜である事を教えてくれていたけれども、使用人達は屋敷の一角での異変に気が付いていないのか他の人間の気配は認められない。目に滲んだ脂汗が煩わしくてグレゴが顔を更に歪めると、リヒトは肩に抱える様にグレゴを支えながらゆっくりと立ち上がろうとした。それに対し、グレゴの全身から血の気が引いていく。今早急に立ち上がりでもしたら、本当に歩けなくなってしまうからだ。

「よ…せ、 じ、自分で立つ…から、」
「遠慮しないでよ。立つよ?」
「やめ… …ひぎっ…――――!!!!!」

ぶつ、という嫌な音が足首に響いたのを、グレゴは半ば絶望の中で聞いた。声にならない悲鳴と共に、足の激痛が全身を支配してグレゴは体勢を大きく崩したが、イーリス軍に居た頃に比べて身長が随分と高くなって体つきも良くなったリヒトは痩せてしまった今のグレゴであるなら支える事が出来るので、再度倒れこむ事は無かった。腱を傷めたどころか切ってしまった、とグレゴが理解するには数秒もかからなかった。
 真っ青な顔で脂汗を流し、短い呼吸を繰り返すグレゴの顔を、再度リヒトが覗き込む。体つきとは裏腹に未だ幼さが残るその表情は、しかしどこか狂気に満ちている。グレゴがこんな状態になっても尚、リヒトは微笑を浮かべていた。腱が切れたという事を寧ろ喜んでいる様にも見える。

「歩く時は、僕が連れ添ってあげるね。
 僕じゃなくてもノノも居るし、大丈夫だよ」
「あ…っ… …が…」
「今日はもう外に出ない方が良いかな。また今度散歩に出ようか」

グレゴの片足を潰してしまった事への罪悪感など微塵も見せず、リヒトはにこやかに語りかける。また地下のあの部屋に閉じ込められるのかと思うと辛かったのだが、それ以上にグレゴはもう何も考えずに眠りたかった。足が利かなくなってしまった事、助けを呼ぶ程の声が出せなくなってしまっていた事、何もかも忘れて、ただ眠ってしまいたかった。激痛が走る足を引き摺りながら地下のあの部屋への階段をリヒトに支えて貰いながら降りたけれども、夢ならとっとと覚めて欲しいと心底願うなんざ弟が死んだ時以来だ、こんな思いするのは人生で1回で良いとグレゴは本気で思っていた。だが、彼にとって最悪な事に、足の激痛が夢ではないと生々しく教えてくれていた。



幾度の食事と水浴びを済ませたのか、まるで記憶に無い。利き足である右足の腱を切ってしまったグレゴは寝台から降りて歩く事もままならなくなり、また足の痛みを抑える為に鎮痛剤を定期的に飲ませられていたものだから、副作用なのかただでさえ曖昧であった時間の感覚が完全に失われてしまった。薬を飲む度に視界がぐるぐると回り、足の痛みが和らぐ代わりに気持ちが悪くなるものだからグレゴは薬を飲む事を嫌がったが、リヒトから飲ませる様に言われているのかノノは執拗に飲ませようとした。医学的知識が無い彼女は、リヒトの言う事は絶対的に信じる節がある。

「お薬は、いや?」
「…いや」
「そっかあ。じゃあ、お外にお散歩、行く?」
「………ない」

既に言葉が断片的にしか話せなくなったグレゴは、ノノの問いにふるりと首を横に振った。足が痛くて動きたくなかったのだ。だが、ノノは彼の痛みを和らげたいのか痛みへの意識を別のものに逸らそうとしてくれているのか、どうしても外へ連れ出そうとした。太陽の光も浴びる事が出来ず、歩けなくなってしまったのなら体が弱るのは当たり前なのだが、ノノにはそんな事は分からない。リヒトよりもグレゴよりもうんと長く生きている彼女であっても、分からないのだ。…否、分かろうとする気が無いだけなのかも知れない。とにかく紫水晶の大きな瞳でグレゴを覗き込んで、小首を傾げて見せた。今は使用人も出払って夕方まで戻って来ない筈であるし、娘はリヒトが見ている筈だから、外へ連れ出しても構わない状況であるから、ノノはどうしても久しぶりに彼と外に出たかったのだ。

「ノノが付いてるよ。行こう」
「………ない」
「行くの」

押し問答をしても埒があかないと判断したのか、ノノはグレゴの細くなってしまった体をぐいと引っ張り強引に寝台から下ろした。腱を切ってしまった足を庇う様に床につけた彼を支えながら扉に向かおうとすると、グレゴはいつになく怯えた様に首を横に振った。
何がそんなに怖いのか分からないノノには、また足を傷めてしまう事が怖いのだろうかという予測しかつかない。リヒトが以前連れ出そうとした時に突然走り出そうとして腱を切ってしまったという事は聞き及んでいるのが、今の彼であればいきなり走り出す事も出来ないだろうしそんな心配は無いのにという思いしか無い。屋敷の廊下へ繋がる隠し扉への階段を彼を引き摺る様に上ったノノは、不思議に思いながら扉を開けた。

「あ――――あぁああああっ!!!!!」

しかし開けて太陽の光が差し込んだ瞬間にグレゴがその場に座り込み、顔を覆ったものだから、ノノは驚いて扉を締めてしまった。この扉は厚いから大声を出しても大丈夫だとリヒトから言われているから悲鳴を上げられても大丈夫だし、使用人もほぼ居ないから聞かれないとどこか冷静な頭でノノは考えたのだが、大きな背を丸めて呻いているグレゴが一体何を訴えているのか良く分からなくて、取り敢えず彼の細くなってしまった肩を抱いた。

「…たい、いたいぃ」
「痛い?どこが痛いの?」
「め、 …め… …あぁ…っ」

両手で目を覆うグレゴを覗き込むと、彼は口許を歪めて肩を小刻みに震わせていた。ノノの手に伝わるその振動が彼の感じる痛みの大きさを彼女に教えてくれている。少ししゃくり上げている様にも見えて、泣いているのかも知れないと判断したノノは取り敢えず彼が落ち着くまで背を撫でた。
グレゴが痛みを声にして訴えるのは珍しい。足の腱が切れてしまっている今も寝台の上で「いたい」とは殆ど言わず、小さく呻くか背を丸めて足を押さえているかどちらかだし、行軍していた当時も痛みを口にした事が殆ど無かった。なのでノノも本当に痛いのだろうと思って落ち着くのを待っていたのだが、震える手を涙に濡れた目から離して細く長い息を吐いたグレゴは顔を上げると数回瞬きをしてからきょろ、と周りを見回した。

「大丈夫?もう痛くない?」
「…… …ノ…ノ?」
「? そうだよ?」
「……かいだん?」
「…階段だよ?」
「…かべ…」
「……… グレゴ、ひょっとして、見えないの?」

てのひらでぺたぺたと階段や壁を触りながら確かめる様に口にしたグレゴに、ノノは最初こそ訝しんだのだが、やがて彼の目が利いていないのではないかと思い至った。地下の部屋やこの階段は確かに暗いし、昼間の屋敷内との明るさとは雲泥の差がある。ノノだって日が出ている時分にこの階段から廊下に出る時は目を自然と細めてしまう。
しかし長い事地下に閉じ込められていたグレゴの目にとっては、この昼間の明るさは毒であり強烈な刺激であった。まるで矢で目を射抜かれた様な激痛が走り、一瞬にして両目を焼かれてしまった。くすんだ碧が混ざったアッシュグレーの瞳は、僅かに光や他人や物の輪郭を悟らせる程度で、もう彼に鮮明な視界を提供してはくれなくなったのだ。
途方に暮れた様に扉に手をつけたグレゴの手を、ノノがそっと取って引き寄せる。近付ければ辛うじて見えるのだろう彼は、自分が今何をされたのか分かる様で、離れようと抵抗する。しかし、ノノはグレゴの首に腕を絡めて今度こそぎゅっと抱き締めた。

「ごめんね。これからは、ノノがグレゴの目の代わりになるね」
「…… …ない…」
「いいの。するの」

今のグレゴにとって「ない」は拒否の言葉だ。だから「必要ない」と言っているのだとノノには分かっているが、目を潰してしまった責任は彼女だって感じている。しかし彼には、ノノが側に居る事自体が既に恐怖なのだ。ノノだけではない、リヒトだってそうだ。彼ら2人が居ない間のあの狭い空間は、それでもグレゴに安寧を齎してくれる。どちらかが姿を見せた途端に、その安寧は破られるのだ。動けなくなってしまったグレゴには何も考えなくて良い、何も食べさせられない、何も飲ませられない静かな時間が何より恋しいものになっていた。
 結局その日もグレゴが外に出る事は無く、彼はノノに支えられながらまた階段を下った。暗い階段に響く足音は、生気の欠片も無かった。



「いやあ、おくすり、いやっ」
「飲まなきゃ足も目も痛いままだよ?」
「いやー…」

ノノが差し出した粉薬と水に対し、首をぶんぶんと横に振って拒絶したグレゴは本当に嫌がっていた。嫌がっているというより、怯えている。鎮痛剤は確かに痛みを和らげるけれども、リヒトが用意したのはかなり強い部類のもので、副作用として意識が混濁してしまうから、ただでさえぼんやりしている意識が薄れるのが怖いのだろう。
グレゴの足の痛みは随分と薄れ、歩くなどの負担を掛けない限り痛む事は無くなっていた。目も、焼けてしまった時に比べればそこまで痛まない。しかし、リヒトはそれでも毎日鎮痛剤を用意した。必要の無い薬、しかも強力なものを飲ませられていたグレゴは薬害と言って差し支えない症状が時折出ており、もう夢なのか現実なのか、起きているのか眠っているのかの判断が自分ではつかなくなってしまっていた。だからこそ、薬を飲む事を過剰に怖がった。
彼が発する言葉は既に、成人男性のそれではない。まるで幼児の様な口調は、グレゴの姿には似つかわしくない。しかし、ノノが自分の子供対する様に話し掛ける様になってしまったものだから、その口調が伝染ってしまったらしい。短期間で人間をここまで変える事って出来るんだなあ、などと、リヒトはグレゴを見ながら妙に感心していた。
ノノは暫く困った様に考えていたが、やがて薬と水を自分の口に含むと、グレゴの顔をしっかりと掴んで口付けた。舌を僅かに出して彼の口を抉じ開けようとすると口の中の水が少し溢れたが、そんな事を気にするノノではない。寝台に横たえたグレゴの鼻を軽く抓むと、彼は呻き声を上げながら抉じ開けられた口から注がれる薬が混ざった水を音を立てながら飲み下した。

「うー、…んぐ… …ん、ぷぁ…」
「…もう少し、お口開けて?」
「…………ん、んん、んぅ、んっ、」

薬も水も全て飲ませたノノは、それでも尚グレゴに口を開ける様要求した。鼻を抓まれるのが嫌なのか、今度は素直に開けた彼の口を自分のそれで塞ぐと、両手で頭を掴んで逃げられない様にしてするりと舌を入れた。僅かに薬の苦味が残るグレゴの舌を絡め取り、弄び、吸う。苦しそうな声が聞こえても、ノノは止めなかった。リヒトの目の前ではあるが、そんな事はお構いなしに熱っぽく彼の口を貪る。

「ん〜…っ、ん、ん、んぷ、ぷぁ、ああぁ」
「おててどけて?」
「…やー…」
「どけて?」
「は、あっ!あー、う、」

グレゴの耳を指で柔らかに愛撫しながら暫く口付け、おもむろに右手を下半身に忍び込ませようとすると、彼は先に察知したのか阻止しようとノノが触ろうとしたそこを手で隠した。が、それを許すノノでもなく、僅かに口を離して手を退ける様に要求し、グレゴが渋ったままでいるとその手ごとそこに押し付けて刺激した。不意討ちに驚いたのか、彼の体が僅かにびくりと跳ねる。

「ノノ、旦那さんの前でそんな事しちゃうんだ?」
「ダメ?」
「他の人なら駄目だけど、グレゴさんなら良いよ」
「ほんと?やったぁ」
「あ、ゃ、…ない、…ない…」
「しない?しようよ」
「や、ない…ぃあ、あ、はっ、」

リヒトが薄く笑って承諾したのを聞くと、ノノが喜ぶより先にグレゴが顔を青くした。まだ僅かに理性というものは残っているらしい。身体的、精神的虐待と言って良い程の仕打ちを与えられているグレゴに、この日より更に1つ虐待が加わる事になり、それは彼の心を完全に蝕んだ。

「僕、一旦上に上がってンン見ておくね。
 あんまり疲れさせないでね、僕の分も残しておいて」
「うん。ねえグレゴ、ノノの後にリヒトにもして貰おうね」
「い、いや、やぁ、…ひん…っ んんう、うあ、あああぁ、」

地下室の扉を閉める直前、聞こえた喘ぎは、リヒトの口許を禍々しく歪んだ笑みを浮かべさせた。どんな事をして遊ぼうか、ノノはどんな遊びをするんだろう、そんな事を考えながら、リヒトは扉の鍵をしっかりと施錠した。



3ヶ月もすれば戻ってくると言ってイーリスへと向かったグレゴが半年経っても戻らない、と、ヴァルム大陸のロザンヌ領主からイーリスのリズの元へ便りが届いたのは、温暖なイーリス地方でも冬の寒さが本格的になってきた11の月も半ばを過ぎた頃だった。イーリス聖王であるクロムは執務に忙しいだろうという配慮から、まだある程度の自由が利く王妹であるリズに便りを出したのはヴィオールの判断であろう。彼は戦中、手紙を伝書鳩に託して離す所をリズに目撃されており、戦が終わった今は時折リズと手紙の遣り取りを楽しんでいる。
その手紙を読んだ時、リズは真っ先にグレゴの身に何かあったのだろうと考えた。ヴィオールの手紙にもあったが、グレゴは傭兵であるから所在が分からなくなる事はおかしな事ではないのだが、契約途中で行方を眩ます様な不義理をする人間ではない。イーリスへ向かう途中か、戻る途中で何かあったのか、それが知りたいとのヴィオールの頼みに、リズはすぐに行動を起こした。国境を超えた形跡はあるか、入国したままであるのか出国をした後であるのかを調べ、フェリアにも同様の手紙が届いている様であったから、東西どちらの王からも何か分かれば連絡するとの返事があった。
しかし、案外すぐに調べはついた。元々グレゴはヴィオールとセルジュに頼まれて子供が生まれたリヒトとノノへ祝いを持って行ったのだから、2人に聞けば分かるだろうとリズが城からそれなりに離れているリヒトの領地の屋敷に訪問のコンタクトを取り、訪ねてみると、リヒトはあっさりと屋敷に居る事を認めたし、ノノも無邪気に居るよと笑った。
だが、リズは2人のその笑みがどことなく薄ら寒く感じた。何か邪悪なものが見え隠れしている様な笑みがうそ寒く、思わず身震いしたのだ。それを押し遣って会いたい旨を伝えると、拒否されてしまった。明らかにこれはおかしいと感じたリズは、一応の護衛で連れて来た数名の騎士団の者に命じて2人を拘束し、屋敷内を全て捜索した。拘束された2人はそれでも慌てる風も無く、抵抗らしい抵抗もせず、ただ薄く笑いながらその様子を外から眺めていた。それがリズをぞっとさせた。
隠し扉を見付けたのは、護衛の騎士としてリズに付き添っていたソールの妻であるベルベットだった。彼女にはついてくる義理など無かったのだが、行軍当時はグレゴに世話になった事があるからとついてきてくれていて、タグエルである彼女の第六感というものが役立つという事を改めて証明してくれていた。
しかし、その扉の先に続く階段の奥の、頑丈に施錠された部屋でリズ達が見たのは、彼女達が良く知る姿のグレゴではなかった。扉の鍵を全て壊して入ってきたリズ達を怯えた様に見た彼は寝台の隅で縮こまっていて、その体は戦場を駆けていた時分の彼とは全く違って酷く痩せ衰えており、逞しかった筈の体は見る影もなくなっていた。鍵を壊す音が余程怖かったのか、呆然としながら近付いたリズにさえ怯え、子供の様に頭を抱えて縮こまらせた体を震わせていた。
リズが話し掛けてもベルベットが話し掛けても、彼は怯えて首を横に振りながら後退るだけで、言葉らしい言葉を発する事は無かった。それに対してリズ達は困惑したのだが、リヒトとノノから事情を聞いたのだろうソールが顔を真っ青にしながら、グレゴはもう既にあの2人以外の者の記憶が無い事、受け答えを初めとする会話が殆ど出来ない事、介添えが無ければ歩けない事、目が殆ど見えていない事、耳も聞こえが悪くなっている事を伝え、その場に居たグレゴを除く全員の表情が凍ってしまった。
俄には信じ難い事ではあったが、ソールが伝えた事を裏付ける様に、リズが「私リズだよ、分かる?」と尋ねてもグレゴは首を傾げた後に横に振って怯えるだけで、何一つ会話が成立しなかった。何を尋ねられているのかも分かっていない、リズが誰なのかも分かっていない様であり、助けを求める様にきょろきょろと周りを見回しては何か不明瞭な声を上げるだけだった。この状態でいつまでもこの地下室に居させる訳にもいかず、取り敢えずソールが抱えようとグレゴに寄ると極度の怯えを見せて何か叫んだ。どうやらノノとリヒトを呼んでいるらしいと気が付いたのはベルベットであったが、彼らを呼んで会わせる訳にはいかなかったし、さりとて暴れられても困るので、仕方なくソールがグレゴの項に手刀を落として気を失わせてから運んだ。戦中であったなら確実に無理であっただろうが、意外と簡単に抱える事が出来た事にソールが言い様も無い表情を見せた事が、ベルベットとリズに悲痛な顔をさせた。

「僕が抱えられる筈なかったのに。
 それくらいしっかりした体だったのに。
 こんなに軽くなっちゃうなんて…」

リヒトの屋敷の者に命じて馬車を用意させ、とにかくこの領地から離れさせる為に城へと走らせている間、ソールが泣きながら言ったその言葉がリズにはつらく、荷台で横たえられ眠り続けるグレゴを見ながら何故彼がこんな目に遭わなければならなかったのか、何故あの夫婦が彼をこんな風にしてしまったのかを嘆いた。ヴィオールがグレゴを遣いにやったのはまだ5の月の頃だと手紙で読んでいたリズは僅か7ヶ月で別人の様になってしまった彼の頭を撫で、そして顔を覆って泣いた。



イーリス城ではなく、城に程近い、リベラが仕えている教会の離れで静養しているグレゴの元に、リズはヘンリーを伴って訪れた。彼女はヘンリーを夫として迎えており、イーリスの重鎮達は良い顔をしなかったが、未だ残るペレジアのギムレー教徒などの呪術から王室を護るにはペレジア屈指の実力の持ち主であった呪術師のヘンリーの力は心強いとの意見もあり、取り立てて大きな問題にはなっていない。そんなヘンリーを連れて来たのは、窓際の寝台に横たわる、別人の様に細くなってしまったグレゴの精神状態を看て貰う為でもあった。心が壊れていると称された事もあるヘンリーであるなら、何か対策があるかと思われたからだ。教会に運び込まれてまだ間もないので何とも言えないかも知れないというのはリズも分かっていたのだが、ヘンリーを連れて来ずにはいられなかった。彼がリズと共にリヒトの屋敷に行かなかったのは、単に生まれた子供の面倒を見ていたいと言ったからだ。

「うわ〜、これは… 随分とひどいね〜」
「や、やっぱり…?」
「うん、ひどい」

ここに運び込まれてから孤児院の仕事の合間を縫ってグレゴの世話を見ていたリベラが、ヘンリーの言葉を聞いて沈痛そうな面持ちで俯く。彼もあれこれやったのだが一向に治る気配は無く、如何に自分は無力であるかを痛感したところだった。リズとヘンリーが部屋に入って来ても全く反応を示さなかったグレゴはぼんやりと天井を眺めているだけで、呼吸の為に胸が上下に動いている以外は少しも身動ぎしない。戦中であった頃の彼ならばまず音に敏感であり、気配に敏感であり、誰が近寄るにも僅かな警戒は怠らなかった。それが今では、こうだ。

「リベラさん、どう?やっぱり呼び掛けても駄目?」
「それが…どうやら、グレゴさんのお名前は本当のものではないらしくて。
 呼んでも返事をしませんし、違うと言うのです」
「え、じゃあ、本名が分かれば反応するかな…?」
「可能性はあると思います」
「ヘンリー、出来る?」
「う〜ん…難しそうだけど、ちょっとやってみるね〜」

リベラとリズの会話を聞いていたヘンリーは手を口に当て、少し考えてから寝台の側に立った。視界に入ったヘンリーに気が付いたのか、グレゴの目線が僅かに動いて軽く顔を向ける。それに対してヘンリーは変わらぬ笑顔で手を振ってみたのだが、グレゴは瞬きを2、3回しただけで特に返事は無かった。
 食事もろくに摂らず、動く事さえままならなかった為に衰えたグレゴの顔に掌を翳し、ヘンリーはすう、と息を吸った。そしてぴたりと止めた瞬間に部屋にぶわっ、と広がった風はリズやリベラを驚かせたが、矢張りグレゴは無反応だった。リズはこうする事でヘンリーが他人の心の内部へ侵入していける事を知っている。その中で本名も見付ける事が出来るかも知れないと彼女は祈る様に胸の前で手を組んだ。
だが。

「あ〜… …やっぱり無理だね〜」
「え…ヘンリーでも駄目なの?」
「ばらばらになっちゃった心のピースを集めようとしたんだけど、
 あんまりにもばらばらになり過ぎちゃってて、核が見付からないんだ〜。
 それに… …ここまで深い闇は、ギムレー以来だね〜…」
「ぎ、ギムレーですって?」

困った様に頭を掻いたヘンリーの口から出た名前は、リベラまで驚かせた。討ち滅ぼした筈であるギムレーは、確かに闇の竜ではあったのだが、まさかここでその名が出てくるとはリズも思わなかった。しかしギムレーが何らかの形で居るとしても、たかが人間1人の精神を崩壊させるとは思えない。況して、一介の傭兵相手にだ。どちらかと言えばクロムなどを狙ってきそうなものなのだが。そんな考えが顔に出ていたのか、リズに向けてヘンリーは肩を竦ませた。

「ほら〜、ノノってマムクートでしょ?竜族だよね〜?
 ギムレーも竜族、だったでしょ〜?」
「あ………」
「しぶといよね〜、消滅させられた癖に、邪念は残ってるんだよ〜。
 ノノは同じ竜族だし、どちらかと言えばまだ子供で感受性は豊かだし、
 それで感化されて「一緒に暮らしたい」っていう思いが
 邪念に変わっちゃったんだと思うな〜。
 それがリヒトにも感染っちゃったんだろうね〜」

ヘンリーの声が聞こえているのかいないのか、それまで殆ど反応も示さなかったグレゴは、ヘンリーが言ったノノとリヒトの名前にだけ反応し、少しだけ体を起こしてきょろきょろと周りを見回した。それに対してリベラがなるべく穏やかに、刺激しない様にまた横になる様に宥める。あの2人は生まれたばかりの子供、しかもマムクートと人間のハーフであり人間とは勝手が違うという事も考慮し、屋敷に軟禁されている。
弁明を聞いたものの話によると、リヒトもノノもグレゴの事を除けば全く以て正常な判断や受け答えをするのに、彼の事になった途端に異常なまでの執着を見せるらしい。本当に驚く程であるそうだ。そういう報告を聞いているから、「邪念に感化された」というヘンリーの言葉は酷く説得力があった。

「残念だけど、僕じゃ元には戻せないや〜。
 それに、戻れても体がこれじゃ、まともに生きていけないよね〜」
「そ、そうだけど、でも」
「うん、リズ、言いたい事は分かるよ〜。
 …だけどね、どうしようもない事ってあるんだよ。
 僕とサーリャが力を合わせても取り払えない闇、って言ったら、
 どれだけひどいものか、分かるよね」
「そんな…」

故郷には戻らず、イーリスとペレジアの国境近くに居を構えたサーリャは、ヘンリーと同じくペレジア屈指の呪術師だった。人から記憶を消し去る事も、死んだ人間の魂を呼び出す事も、自分より精神力の弱い人間を呪い殺す事さえも出来るらしい2人が協力しても駄目である程酷い状態なのだという事を、リズは今漸く理解した。何より、ヘンリーが笑みをその顔から消して間延びした声ではなく真剣な口調で言った事が深刻さを物語っていた。

「…のー、と、りぃと、…どこ…?」

3人の暗い思いなど分かる筈もなく、グレゴは寝台の側で座って自分を見ているリベラにか細く尋ねる。まるで刷り込みをされた雛鳥の様に、彼は今ここに居ない2人の名を呼び、そして不安そうに視線を彷徨わせた。そんなグレゴにリベラは己の無力さを噛み締め、ただ黙って聖印をきる事しか出来なかった。



日当たりの良い部屋で椅子に座り、ゆっくりとスプーンを口に運ぶグレゴを見て、訪れてきた男は暫く呆然としていた。何の変哲も無いカーシャを食べるにも苦労する程腕力が落ち、痩せ衰えてしまった彼を、男は一瞬誰か知らない人間なのではないかと思ってしまった程だ。だがスプーンからカーシャを零してしまい、ちょっと嫌そうに顰めた顔が全く変わらなくて、男は受け入れ難い現実を受け止めざるを得なくなってしまった。

「ほら、お友達が来てくれたわ…誰か、分かる…?」
「……ぁー…?」
「貴方が知ってる人よ…、見える…?」

側に居た黒髪の女性がグレゴが零したカーシャをタオルで拭き取ってやった後に耳元で優しく問い掛けて、彼の意識を男の方に向けてやる。聞かれたグレゴは緩慢な動作で男を見ると、瞬きを何度かした後に小首を傾げたのだが、根気強く回答を待った彼女を見ながら男を指差した。

「………… ……ろ、……?」
「そう、そうよ、分かる?」
「……あーぅ…」

ぽつんと呟かれたのは名前とも言えないものであったが、それでも女性は身を乗り出してグレゴに確認する様に尋ねる。だが彼はそれ以上は思い出せなかったのか、矢張り小首を傾げただけで男を警戒する様に唸った。そんな彼を見て男は―ロンクーは力無くその場に膝から崩れ落ちてしまい、女性―サーリャは顔を歪めてその様を見ていた。

「流石と言うべきなのかしらね…、…今まで誰も、分からなかったのよ…」
「……… …誰も…?」
「そう…、ノノとリヒト以外はね…。
 最近はやっと私が分かる様になった程度よ…」

へたり込んでしまったロンクーに僅かな嫉妬を混ぜた言葉を投げたサーリャは、まだ皿に残っているカーシャが冷えきってしまわない内にと思ったのか、手ずからグレゴにスプーンを運びながらそう言った。彼は目線をロンクーからついと外し、口許に寄せられたスプーンを確認してから口を開けた。
サーリャはリズから事情を聞いてイーリス城を訪れ、ヘンリーと共にグレゴの心の中を探ったのだが、結果は矢張り変わらなかった。この男の心は既に集められない程、修復不可能なまでに壊されており、また幼少期の記憶も探れない程で、ペレジアでもトップクラスの呪術師であるヘンリーとサーリャ2人の力を以てしてでも本来の名を見付ける事は出来なかった。その事に対してサーリャは自分のプライドが許さないと言ってグレゴを引き取ると言ったのだが、リズにもヘンリーにも彼女がグレゴをリヒトとノノが居る所から少しでも遠くへ連れて行こうとしてくれている事、少しでもグレゴが静養出来て体の機能を回復させようとしてくれている事が分かったから、一言も反対せずに彼を託した。夫であるガイアもグレゴのこの姿は余程ショックであったらしく、闇稼業に戻った今でも殆ど毎日帰って来ては日中の彼の面倒を見ていた。
フェリアのロンクーの元にグレゴの行方を知らせる事が出来たのは、そんな頃だ。リヒトの屋敷で発見されてから1ヶ月は経った頃であったが、冬は雪に閉ざされるフェリアからイーリスとペレジアの国境近くまで足を運ぶのは時間が掛かり、1の月も終わろうとしている今日、漸く到着した。しかし、再会した男は既に自分の事も殆ど分からなくなっていたのだ。ただ、辛うじて僅かに分かっている様だというのは幸いな事であるらしいのだが。

「全ての記憶が殆ど飛んでるの…自分の本当の名前さえもね…」
「…本当の?グレゴではないのか?」
「グレゴ、なーい」
「違うのね。じゃあ、貴方のお名前は…?」
「…… …なーい」
「…この通りよ」
「………」

何度も聞かれている所為か、グレゴという名は自分のものではないと主張する彼は、それでも自分の名を聞かれて困った顔をしながら首を横に振った。言いたくないのか、本当に分からないのか、それはサーリャにもロンクーにも判別はつきかねる。しかしそれ以上の会話も食事もしたくはないのか、グレゴは口を閉ざして再度ふるふると首を横に振った。サーリャもロンクーも、グレゴから拒絶された様な錯覚を感じていた。






ペレジアに近いとは言え、イーリス領であるこの地域は夕方になると風が冷たくなる。まだ戻りたがらないグレゴを何とか宥めたガイアは持ってきた車椅子をサーリャに固定して貰うと、ほれ、ともう一度グレゴに手を伸ばした。すると渋々ではあった様だが彼も手を伸ばしてきたので、自分の子供を褒める様に良い子だ、と声を掛けた。
そしてガイアに半ば抱えられる様にして車椅子に座ったグレゴの手に何かが握られているのを見て、サーリャが僅かに眉を顰める。たまには外で過ごさせようと連れ出した時は何も持っていなかった筈であるから、この草原で手に入れたものである事は間違いない。しかし家に何か変なものを持ち帰られても困るので、彼女はなるべくグレゴを刺激しない様に覗き込んだ。

「あなた…何を持っているの…?」
「ぅ…?」
「手に、何を持っているの?」
「……あー」

そしてサーリャが尋ねた事に、グレゴは何の事か分からない様な顔をしたのだが、彼女が手を指差しながら再度尋ねると得心したかの様に、存在を思い出したかの様に明るい声を上げてずいっと手を2人へ差し出した。その、大きなてのひらの上には。

「…クローバー…?」
「…俺達に、くれるのか?」
「あーぅ」

握られ、萎れてはいたが、それは確かにクローバーだった。しかも、幸運を意味する四つ葉のものだ。目も余り見えていない筈であるのに、指先の感触だけを頼りにこの草原の中を探り、そして摘んだのだろう。その事を物語る様に、彼の両手の指先は緑というよりも黒ずんでいた。
こんな風に壊れてしまう前、グレゴは実に気配りが出来る男だった。受けた恩は極力返すし、サーリャが弟の魂を呼び出した事への礼なのか、良く戦場では庇ってくれた。過ぎた事だと何度サーリャが言っても、彼は俺がやりたくてやってるだけさと笑うだけだった。
そんな男であったから、今自分が施されている事に対しての礼をしたかったのだろう。しかし今の彼では出来る事など殆ど無い。目も耳も殆ど利かない、歩く事もままならない、言葉を発して伝える事も上手く出来ない、それでも何か自分に出来る限られた事の中で最良を選んだ。その結果が、このクローバーなのだろう。ガイアは僅かに震える声でありがとな、と礼を言い、差し出されたままのグレゴの手からそのクローバーを受け取ろうとした。
しかし。

「俺と、サーリャにひとつずつ。良いんだな?」
「うー」
「…あとは、誰にあげるの…?」
「……?」

グレゴの手にあったクローバーは、4つだった。まさか自分達に2つずつとは考えられなくて、ガイアの言葉の後をサーリャが続けた。しかし、尋ねられたグレゴは不思議そうな顔をして小首を傾げ、瞬きを数回しただけだった。質問の意図するところが分からないのかと思い、サーリャが細い指で彼の手の上のクローバーを1つずつ摘まむ。

「これは、ガイアに…そして、これは私に。…貰って、良いのね…?」
「うー」
「…じゃあ、これと、これは…?誰に、あげたいの…?」
「のー、と、りぃと」
「………」

彼の手の上に残された2つのクローバーを順に指差し、尋ねたサーリャに、グレゴは舌足らずな声で、しかししっかりとここには居ない2人の名を挙げた。自分をこんな風にしてしまった2人に対し、それでも幸運を象徴するものを渡したいと、そう言うのだ。記憶を消してしまった、体も駄目にしてしまった、社会生活など出来ぬ様にしてしまったあの2人に。
何か言いたくて、だが何と言って良いのか分からず結局口を噤んでしまったサーリャの肩をガイアが抱こうとする前に、グレゴがクローバーを持っていない手を彼女に伸ばす。不思議に思って少しだけ屈むと、彼はサーリャの艷やかな髪を慈しむ様にそっと頭を撫でた。彼女が複雑な想いを抱いたのを感じ取ったのか、それともぼやけた視界の中でも落ち込んだ様に見えたのか、サーリャには分からなかったが、まるでごく親しい者を慰める様に与えられた愛撫は今度こそサーリャに膝を折らせ、手で顔を覆わせてしまった。

「…さーや?…いたい?」
「…大丈夫さ、…ちょっと…驚いただけだよ」

泣いてしまったサーリャを心配する様に彼女の様子を自分に尋ねたグレゴに、ガイアは自分の涙を気取られぬ様にさっと目尻を拭って無理に笑った。それでも心配なのか、困った様な顔で彼女の頭を撫でるグレゴの指先は、草原を長時間探った事を証明するかの様に皮膚がぼろぼろになっていた。


今、2人の目の前に居る男は、心を壊した幼かった2人をそれでも拠り所とし、そしてこの世の全てから隔離された。
誰の声も届かない。
誰の手も届かない。
誰も彼を元に戻す事は出来ない。


もう、彼の本当の名は、誰にも分からない。




Collapse・END


collapse(名詞・動詞)
倒れる/倒す;崩れる、挫折。文脈によって精神的に打撃を受けて崩れ落ちることを表す。