柔らかな陽光が差し込んでいる窓辺の側に設置されている机の上に、白い花で作られた冠が置かれている。イーリスでは野原や道端に無造作に咲くその白い花は、しかし寒さが強いフェリアでは比較的暖かい場所でしか咲く事が無い。その花をたくさん摘んできて編まれたのだろう冠は多少歪な形をしていたものの、綺麗に輪になって机の上に鎮座していた。陽光を僅かに反射する様に光る花冠が作る陰は机の上に優しく伸びている。
開け放たれた窓から入る風は多少冷たさを感じるが寒いとは思わせず、太陽というものはこうも偉大なものなのだ、と恩恵を受ける者は思うだろう。フェリアは南に位置するイーリスと違い、一年を通して肌寒さを感じる国だから、彼の国の者がこのフェリアに定住しようとしても寒さに耐えられない事が多い。しかしそんなフェリアでも極寒と呼ばれる地域は北の地方であり、温暖地域のイーリスや砂漠地帯のペレジアに近い南の地方は過ごしやすく、栄えている街も多くあった。そんな街でも外れになると人通りも少なく、閑静な土地となる。静かに吹き込む風は人々の営みの匂いは運ばず、ただ木々や大地の匂いを部屋へと連れ込むだけだった。
 その風が、窓に設えられたカーテンを揺らす。ひらひらと揺れるレースのカーテンは陽光を透かし、部屋の中の明るさをゆっくりと変化させる。南向きのこの部屋は晴れると明かりなど日が暮れるまで必要無く、それ故に窓辺に置かれたランタンには明かりが点いていない。こんなにも世界は美しいと思える程の窓辺は、机の側で揺れている椅子に座る女を酷く幻想的に見せていた。
 丁寧に縦に巻かれた彼女の髪が、緩やかに吹き込む風を象る。綺麗に手入れしているのだろうその豊かな淡い金色の髪は陽光を反射して、美しく輝いていた。まるで彼女自身が光り輝く様に、彼女の髪も、血色の良い頬も、身に纏う淡い緑のワンピースも、陽の光を受けて輝いている様に見える。しかし彼女は自身がそんな風に輝いている事など分かる筈もなく。気持ち良さそうにゆっくりと揺り椅子に揺られていた。今の彼女の世界は、この何の変哲もない、しかし穏やかに時間が流れる部屋が全てだった。時計も本も手紙も世話をする人間も、何も無いこの部屋が、今の彼女の全ての世界だった。
不意に彼女が腹を撫でる。臨月とまではいかないが、随分と大きくなった自身の腹を。彼女の胎内には小さな命が宿っており、彼女は愛おしそうに眺めては擦った。生まれてくるのが本当に待ち遠しいのか、その手付きは小さな赤子を撫でるかの様に優しい。彼女はほぼ毎日、この窓辺に座っては腹の子を優しく撫でていた。椅子と机しか存在しない、この小さな部屋の中で。
 ふわ、と彼女の鼻孔を別の匂いがくすぐる。その匂いに、彼女は緩慢な動作で顔を上げた。窓から差し込む陽光は部屋の中央部分で途切れ、部屋の入口の扉までは届かない。それでも部屋全体は明るく、陰になっている部分でも十分に暖かさを感じるだろう。その事に彼女は安らかな笑みを浮かべる。しんと静まり返った部屋に響くのは風がカーテンを翻す音と外の木立のざわめきだけで、他人が見ればこの部屋だけが非日常的なものに見えるかも知れないが、今酷く満ち足りている彼女にとってはそんな事は全く問題ではなく、ただ穏やかに微笑して自分の陰が伸びる先を見ていた。



 その少女の生存の一報は、クロムを始めとするイーリス軍に衝撃を与えた。既に成人していたので少女とは呼べないのかも知れないが、クロム達に保護された彼女は見た目が少し幼く、話し方は少女と言うよりは幼児の様になっていたので、少女としか形容出来なくなっていた。
 クロムやリズにとって悪夢の様な出来事であったあの日は、恐らくあの場に居た者であれば忘れてはいないだろう。二人の姉であり、当時のイーリス聖王であったエメリナは、当時のペレジア王であったギャンレルにより公開処刑された。否、正確には処刑を一目見ようと集まったペレジア民衆の前で平和を願う言葉を投げ掛け、自らの身をその崖から投げたのだが、その場に居た誰もがエメリナは絶命したのだと信じて疑わなかった。クロムも、リズも、フレデリクも、エメリナを救出する為の策を弄した軍師のバーブチカも、そしてギャンレルも、彼女が死んだと思ったのだ。イーリスを憎むペレジアにエメリナの遺体を放置していれば死して尚辱めを受けると思ったクロムが彼女の遺体を回収するのだと手を伸ばそうとしていたが、退路を絶たれると判断したバジーリオが担ぎ上げて全軍撤退した為に、エメリナの体はペレジアに残されたままになってしまっていた。
 ギャンレルをフェリアの国境近くの荒野で倒した後も、エメリナの遺体は見付からないままだった。どうやら身投げをしたその日、混乱に乗じて失われたらしいという情報がクロムの元にも入ってきていて、あの時何が何でも連れ帰れば良かったとクロムは悔い、リズも同様で、その下に誰も眠っていない墓に花を供えては祈っていた。自分が未熟であった所為でと自身を責めたバーブチカも、彼らと同じ時に墓参りをするのは躊躇われるからと時間をずらして参っていた様だった。イーリスの自警団の面々も、エメリナを助ける為に力を貸してくれた他国籍、無国籍の者達も、エメリナの墓に花を絶やした事は無かったのだ。
 だから、彼らの中ではエメリナはとうに死んだ者であった。過去の人間になっていた者が、突然クロム達の目の前に現れたのだ。だから、驚いたなどというものではなかった。生存してくれていた事を、クロムは確かに喜んだ。しかしそれまでの記憶も失い、幼児の様な言葉しか喋る事が出来なくなっていたエメリナを前に、素直に喜んで良いものなのかどうか、彼には分からなかった。しかしリズはお姉ちゃんはお姉ちゃんだよと心から喜び、エメリナを保護してから暫くは姉から離れなかった。そんな妹を見て、戸惑いつつもクロムもエメリナと少しずつ話をする様になってきていた。
 そして、エメリナを主君としていたフレデリクも幾分か落ち着きを取り戻してきていた。エメリナが身投げをしたあの日、彼はクロムがギャンレルを討ち、聖王を継いだ暁には後追いをする覚悟を決めていたのだ。エメリナを護る天馬騎士団は彼女の救出を目前にして命を落としており、フレデリクはある意味あの天馬騎士団の者達が騎士の姿だと思っていた。結果的に命を落としても身を呈して主君を護る事が騎士のあるべき姿だと彼は思っている。ただ、彼女達の最大の不幸はエメリナが身投げをしてしまった事だろう。
 クロムが聖王を継ぎ、スミアを王妃に迎えた事により、フレデリクは自らの生に幕を下ろそうと試みた。だがクロムはそれを許さなかったし、何よりリズが泣いて止めた。フレデリクは口にした事が無かったがエメリナを密かに想っていて、リズはそれを知っていたがそれでも彼が好きなのだと言った。だからフレデリクはその時から主君はエメリナではなくクロムとし、リズを妻に迎えていた。フレデリクはエメリナへの想いを忘れた訳ではない。ただ、その想いよりリズへの想いの方が大きくなっただけだ。リズは少し気にしていた様であったが、その事についてフレデリクが言及すると、リズも少しは安心したらしい。
 バーブチカもそんな彼らを見て、悔やむ事はあれども不幸の中でも最善の方向へ向かっていると信じていた。聖王であった頃のエメリナが遺してくれた大きな財産はこれであると、誰もが思っていたのだ。それは彼女が存命であると分かった後も変わらなかった。エメリナの記憶は無くなっていても彼女は平和という単語には反応し、バーブチカに対しこんな自分でも役に立てているのかと不安を漏らした事がある。バーブチカは自分がエメリナに対しての配慮が足らなかった事を詫びたし、エメリナはバーブチカに自分を支えて欲しいと言った。記憶は無くとも、言葉が少し不自由でも、エメリナやクロム、リズ、フレデリクとバーブチカは均衡を保っていられたし、イーリスの自警団員を初めとする軍内の者達もエメリナに対し腫れ物を触るかの様な態度を改めてきた。少しずつではあるが、エメリナに交流を持ちかけては話すようになってきていた。そう、まだ屍兵やギムレーとの戦いは続いていたが、軍内は安定していたのだ。少なくとも、一人の男が加入してくるまでは。



 最低の悪夢だ、と、彼は思った。自分が死に追いやった女が、見知った男の後ろでこちらの様子を窺っている。魔導書を手に持っているならまだ分かるのだが、ご丁寧に癒しの杖を持っている辺り尚質が悪い、と彼は思わず忌々しげに舌打ちしてしまった。不思議そうにこちらを見る女と、怒っているのか呆れているのか分からない表情をしている男と、その周りの者達は、彼が手にしている武器で攻撃する事を目線で封じていて、その事も彼を不機嫌にさせる一因となっている。
 不意に、女が歩を進める。無意識の内に、彼は一歩後退る。やめろ、来るな、と口に出したくても、乾ききった喉からは声が出なくて制止させる事が出来ない。距離を縮めようと、彼女は更に踏み出す。周りの者は誰もそれを止めない。何で止めねえんだ、俺はそいつを死なせたんだぜ、と罵りたくても、矢張り声は出なかった。

 クソったれ、来るんじゃねえ、俺はお前なんて見たくねえんだよ、やめろ―――。

「―――!」
 大きく見開いた視界に、眩い緑が飛び込んでくる。その緑が太陽の光を反射して彼の目を刺し、痛みを感じてすぐに彼は目を細めてしまった。どうやらうたた寝をしていたら夢を見たらしい。それも、とびっきりの悪夢だ。夢の中でも最低の悪夢と思ってりゃ世話ねえぜ、と彼は顰めっ面になって舌打ちした。
少し細めの体をのそりと起こす。野原に寝転がっていたから背中が葉っぱまみれになってしまっていたが、マントを着けていたからどうという事はない。頭を軽く振って伸びをすると体の節々が鳴って彼の眉間の皺をますます深いものにしていき、ただでさえ寝起きが悪い彼を不機嫌な表情にしていた。何もかも最悪だ、クソったれ、と、彼は頭上に広がる天気とは裏腹に曇った心の内を誰にともなく吐き出した。
 そもそも、彼があんな夢を見てしまったのは今日下された命が彼にとって最悪だったせいだ。軍議などに呼ばれる事など皆無だろうと思っていた彼が軍議を開く為に設置されている天幕に呼ばれたので、面倒臭ぇと思いながらも入幕すると、この軍の専属軍師であるバーブチカがその美しい表情をにこりともさせずに彼に言った。

『ギャンレル、貴方今日からエメリナ様の護衛に付いてくれるかしら』

 何の冗談だ、お前ら何考えてんだ、と彼が―ギャンレルが思ったのも詮無い事だろう。その天幕に居る者を始めとするイーリス軍に所属する者のみならず、イーリスとペレジアの戦争を知る者であれば誰だってギャンレルがエメリナに対してしでかした事は知っている筈だ。ギャンレルはまだペレジア王であった頃、エメリナを囚えて処刑の場を設けた事がある。彼女は自ら身投げしたが、ギャンレルが殺したと言っても良い程の状況であったのだ。
 バーブチカがその命を下したという事は、イーリス軍の総指揮官であるクロムがそれに合意したという事になる。勿論クロムもその場に居たが彼は口を挟む事無く、黙ってギャンレルを見ていた。その目はギャンレルが否という事を封じており、断れる様な立場ではないギャンレルはクロムを睨み返したものの諾と言う他無かった。
 ギャンレルがエメリナの護衛に付くという事は全軍にも通達が出ており、その事について不安を抱く者が居なかった訳でもなければ不満を漏らす者が居なかった訳でもない。しかしクロムの決定は絶対的なものであり、翻るものではないと彼らは分かっているから、その決定を受け入れるしかないのだ。何時だってイーリス軍の者達、取り分けイーリス自警団の者達はクロムを信じ、その決定に従ってきた。だから、今回も一応は従うつもりなのだろう。
 ギャンレルは、数年前にフェリアとペレジアの国境近くの荒野でクロムに倒された。エメリナ同様、彼も死んだものと思われていたのだが、イーリス軍が彼の遺体を荒野に葬った為に完全に死んだと誰も確認はしなかったのだ。今でもギャンレルはそんなクロム達は甘いと思っている。そういう時は相手の首を取って晒すもんだろうとギャンレルは思っているが、どうやらクロムは違うらしい。そうされなかったお陰で今彼はこうやって生き恥を晒す事が出来ている訳なのだけれども。とにかく、クロム達が甘かったお陰で彼は生きている。
 ペレジアの暗愚王として名高かったギャンレルを忌み嫌う者は、イーリス軍にも多かった。マリアベルなどは戦争が始まる引き金となってしまった様な事件の当該者であったから、特に彼を嫌った。大部分の者はギャンレルを避け、彼はこの軍の中でも孤独を強いられた。それは自業自得の事なのでギャンレルも大して気にしなかったし、寧ろ当たり前の事だと思っていたから構わないのだが、何故か当のエメリナはギャンレルを見掛けると気になるのか近寄ってこようとするのだ。エメリナの護衛にあたっていた者達がそれを一応は止めてくれていたけれども、止められてしまうと余計に気になるのか、どうしてもギャンレルと話をしようとした。それが面倒臭くてギャンレルは極力彼女の目に留まらない様に行動していたのに、今回のバーブチカからの命だ。これで更に軍内からの風当たりが強くなるだろうとギャンレルは重苦しい溜息を吐いた。
 ギャンレルは自分がしでかした事を、反省などしていない。あの時はああするしかないと思っていたし、それが彼の正義であったからだ。落魄れた貴族である母が貧民街で飢えと貧困の中で死んだ時から彼は自分のこの手で必ず世界を変えてみせると思ったし、実際その思いの元に王にまでのし上がった。だがそれまでに大勢の者を陥れ、裏切り、騙し、容赦なく葬っていった。それでも彼は勝者は正しいと思っていたから、良心が痛む事など無かったのだ。
 しかし今になって、後悔していないかと問われれば沈黙してしまう。血塗れの中で息を吹き返し、何とか動ける様になったは良いものの、彼の恐怖政治に不満を積もらせていたらしい民衆が自分の死を喜んでいるところを見るのも気分が良いものではなかったから放浪をする羽目になった訳だが、その中でギャンレルも自分がやってきた事を考える長い夜もあった。随分と血生臭い事ばかりをしてきたと思ったし、血の匂いが既に己の手に染み付いてしまった気がして、彼は一人愕然としたのだ。それは、絶望以外何物でもなかった。
 以来、彼は生きる屍として日々を過ごしている。自分で死ぬ事も出来ず、放浪の途中で知り合った賊の手下として使われていたが、その中でクロムがギャンレルを見付け、一国の王であった者ならば民の為に戦って死ねと言ってイーリス軍へと半ば強引に引き入れた。その時に、ギャンレルはエメリナが生きている事を知った。クロムのすぐ側、軍師のバーブチカがエメリナを護る様に連れていたからだ。心臓が止まるのではないかと思う程驚き、呼吸すらする事を忘れて立ち尽くしたギャンレルに、クロムは少しだけ顔を歪めて剣を鞘に収め、彼に攻撃する意思は無いと示してから静かにギャンレルに対して問い掛けをしてきた。彼は未だにあの時の遣り取りを鮮明に思い出せる。

『分かるかギャンレル、忘れる筈もないな?』
『…な…んで、…生きてた…のか…?』
『ああ、生きていた。…その代わり、もう以前の姉さんではない』
『何…?』
『…姉さん。あの男が、分かるか?』
『……ごめん…なさい。わから…ない…』
『な…?』
『…姉さんは、昔の記憶を一切失った。言葉もこの通りだ』
『記憶を、って、お前の事も覚えてねえのかよ?』
『そうだ。余程辛い事があったからだろうと…そのショックのせいではないかと聞いている』
『………』
『良いかギャンレル、これがお前のしでかした事だ。
 俺はお前を許さない。だが殺しもしない。お前はそれに値すらしない』

 クロムから伝えられた事はギャンレルには俄には信じられなかったのだが、一度倒された自分が生きていたのだからそういう事もあるのだろうと半ば強引に自分に言い聞かせた。取り分け、エメリナを処刑したあの場にはギムレー教徒の中でも魔力の強い者達も居た筈だ。彼らの力を以てすれば、瀕死だったエメリナを回復させる事だって出来ただろう。恐らく、ギムレーへの供物として彼女の体と魂を捧げる為に。
 エメリナは、何もかも覚えてないのだとクロムは言った。自分がイーリス聖王であった事、クロムとリズの姉であった事、ペレジアから命を狙われていた事、ギャンレルが彼女を殺そうとしていた事、そして自分があの日身投げをした事。一切の記憶を無くし、また言語が不自由になってしまった彼女の姿に、ギャンレルだって呆然としてしまった。そんな姿を見てしまったら、クロムやリズ、フレデリク達のあの冷たい目も尤もだと彼は思った。
 だから、ギャンレルは極力エメリナを避けた。自分の側に寄らせてしまえば、クロム達は良い顔をしないだろうし不愉快だろうと思ったからだ。しかしそれは建前で、単にギャンレルが彼女の姿を見て苦しみたくなかっただけに過ぎない。エメリナの今の姿はギャンレルの罪そのものだ。それをこの軍の者達は全員分かっている。なのに、先述した様にエメリナは彼を見掛けると話し掛けてくる。それと言うのも、エメリナが珍しく一人で野営を離れてうろついているのを、野営内の居心地の悪さを理由に野営を少し離れて寛いでいたギャンレルが見掛けてつい話し掛けてしまったからだ。

『何やってんだ、一人でうろつくと危ねえぞ』
『…さんぽ、してるの』
『散歩ぉ?…散歩だろうが何だろうが、誰かと一緒に行け。危ねえから』
『…だれかと…?じゃあ…あなた…と、いっしょ… …いい…?』

 今思ってもあれは軽率だった、とギャンレルは忌々しく思う。自分がエメリナと一緒に居れば皆が良い顔をしないのだという事を説明した所で記憶を無くした彼女はそれを理解出来ないだろうし、説明する気にもなれなかったギャンレルは、針の筵状態になる事を覚悟でエメリナの散歩に付き合った。誰かを呼びに行っても良かったのだが、その間エメリナを一人にしてしまうし、一旦連れ帰っても結局は散歩した後と同じになってしまうから、そのまま付き合ったのだ。と言ってもエメリナと肩を並べて歩くのも気が引けたので、彼女から少し離れて後ろから歩いただけであったけれど。
 誰にも会わなきゃ良いが、とギャンレルは思っていたのだが、そういう場合に限って野営から離れた所で鍛練をしている者は居るもので、何処ぞの剣遣いが二人、エメリナと彼女から少し離れて歩くギャンレルに気が付いて訓練用の刃を潰した剣を持ったまま不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。しかしギャンレルが見せモンじゃねえぞと言う前に、彼より年上の壮年の剣遣いが手合わせ中によそ見すんなと言いながらもう一人の若者の頭に手刀を落とした為にギャンレルはその胸のむかつきの遣り場を無くしてしまった。
 例えば目撃されたのがイーリスの生真面目そうな連中であったなら、あの場で何かを言ってきただろうからエメリナを押し付ける事が出来た。しかし何も見なかったと言う風に、あの場に居た男達はギャンレルがエメリナと共に歩いていた事を咎めもしなければ口出しもしなかった。だから、ギャンレルはそのままエメリナが野営に戻るまで散歩に付き合わねばならなかったのだ。そして野営にまで戻れば自分が付いている事もないだろうと思ってギャンレルがまた踵を返したら、エメリナは彼のマントをそっと掴んでにこりと笑い、そして言ったのだ。よりにもよって、彼女を探していたフレデリクの前で。

『また…いっしょ、に…さんぽ、しま…しょう…?』

 取り立てて、何かをした訳ではない。そして、何かを話した訳でもなかった。なのに、エメリナはギャンレルに対してそう言った。ギャンレルにとってみれば、青天の霹靂と言う他無い。しかも拒否の言葉を出したくても彼は拒絶出来る立場ではないから、苦虫を噛み潰した様な顔で用事がある時に呼べとだけ言って背を向けた。
 フレデリクがその時の遣り取りを知っているから、今朝のバーブチカの決定であったのかも知れないとギャンレルは思う。フレデリクも彼の妻でありエメリナの妹であるリズも、弟であるクロムもギャンレルを憎んでいる。聖王である以前に一人の人間であるクロムにしてみれば、これは復讐なのかも知れなかった。エメリナを前にすればギャンレルはただ立ち尽くしてしまう。その存在に、己の罪の大きさに、立ち込める血の生々しい臭いに、呆然としてしまうのだ。ギャンレルがそうなってしまうというのを知っていて、彼らは彼らなりにギャンレルに復讐しているのだ。バーブチカもそれを許した事になる。  
 そっちの方があいつらも人間らしくて良いか、とギャンレルは投げ遣りに笑った。どれだけ綺麗事を口にしたところで、人間というものは憎しみを抑えたりは出来ないものだ。そして恐らくは自分達のその行為に、その醜い想いに、大なり小なりの嫌悪感を抱いているだろう。そういう人種なのだ、クロム達は。だがギャンレルはこのイーリス軍の者達は自分に対して復讐する権利はあると思っている。しかし、一番復讐して然るべき者であるエメリナはああいう状態だ。世の中は上手くいかねえもんだな、と、ギャンレルは空を仰いで笑うしか無かった。



 淡い金髪の少女が、淡い緑のマントを翻しながら野営内を歩いている。手には白い花で作られた輪がいくつか束ねられていた。彼女がその輪を作ったのか、指先が多少緑でくすんでいる。しかし彼女はそんな事は全く気にせず、出来上がった輪を持ったまま目的の天幕の入り口をそっと捲った。居るかどうかは分からなかったが、幸いにも彼女が探していた者達は天幕の中に居た。先を急ぐとは言えたまには休息する一日も必要だからと今日は終日全員で体を休めていて、その為クロム達もゆったりと寛ぐ時間を設ける事が出来ているという訳だ。
「姉さん、どうしたんだ?見当たらなかったから呼びに行こうかと思っていたんだが」
「そう…なの?ごめん…なさい…、これ…作ってた…の」
「わっ。これ、花冠?お姉ちゃんすごーい!」
 天幕の中ではクロムとリズ、フレデリクとバーブチカが茶会の用意をしていた。クロムの娘であるルキナとシンシア、妻であるスミアはリズとフレデリクの息子であるウードと共に、茶菓子を買いに近くの街まで足を伸ばしている。茶を淹れるのはフレデリクが一番上手いので、彼が茶葉を用意していた。エメリナも招こうとしていたのだろう、用意された茶器は九つある。
 エメリナは、最近良く一人で行動する様になっていた。今まではクロムやリズが側についていたのだが、これではエメリナの為にはならないとバーブチカが言ったので、二人共少しずつエメリナを自由に行動させていたからだ。心配なのは分かるが、ずっとエメリナを拘束していては彼女が窮屈であろうし、一人で何も出来なくなってしまうとクロム達に納得させた上での事だ。だから、エメリナは一人で野営から少し離れた所で花冠を作っていた。
「これ…、くろむ…」
「…お、俺にくれるのか?」
「うん…。りず…も…」
「えっ…私に? …あ、有難うお姉ちゃん!」
 エメリナが微かに微笑みながら花冠をクロムとリズに渡すと、二人は一瞬固まったのだが、すぐに破顔させて姉に対して礼を言った。まさか自分達にくれる物だとは思っていなかった為に、その驚きと喜びは大きい。二人が笑顔になったのを嬉しそうに見た後、エメリナはついと視線を外した。
「ふれでりく…と、ばーぶちか…、も…」
「…わ、私にですか?恐縮ですエメリナ様」
「有難う御座います…綺麗…」
 姉と弟妹の遣り取りを微笑ましく見ていたフレデリクとバーブチカは、エメリナの手にあった花冠が自分達に対しても作られたものだと知って驚き、そして喜んだ。彼女が自分達に対して何かをしてくれるなど、この軍に入ってきて初めてではないかと思ったからだ。
 エメリナは今まで随分と一生懸命に自分に出来る事は何か無いかと模索していて、水汲みや武具の手入れ、その他の雑事をやろうと試みていたのだが、その度誰かが止めていた。だからエメリナは何もさせて貰えなかった事になる。勿論彼女の魔力というものは大きく、類まれなるものであったから、癒し手として杖を振るう事は多かったのだけれども、こんな風に特定の誰かに対して何かをするという事は無かったし、そもそもそんな機会を作って貰えなかった。過保護にし過ぎてしまったわね、とバーブチカが自己嫌悪に陥るのも当然の事だ。
 しかし、バーブチカははたと我に返ってエメリナの手元を見る。彼女の手に束ねられていた花冠はほぼ全て自分達に渡されたのだが、最後の一つはまだ手に持たれていた。この場に居ない誰かの為に編んだのか、それとも自分の為に編んだのか、それは分からない。しかし、バーブチカは思い当たる相手をちらと脳裏に浮かべて複雑な心境になってしまった。
「…エメリナ様、私達今からルキナ達が戻ってくるのを待ってお茶会をしようと思っているんです。
 よろしかったらご一緒されませんか?」
「おちゃ…かい。ありが…とう…、でも…わたし… …これ、あげてくる…ね…」
 バーブチカの提案に、エメリナは礼を言ったものの、物腰柔らかにそれを断り、手元の花冠を掲げてにこりと微笑んで見せた。エメリナは誰に、とは言わなかったが、その場の全員が彼女が誰にあげてくると言わんとしているのかは、分かりたくもなかったが分かっていた。そして、止めたくても止める事は出来なかった。あれだけ仲間や絆を熱弁しているクロムが、エメリナが花冠をやろうとしている相手に近付くなとは言えないからだ。
「みな…よろこん…で、くれて… …うれしい…です。
 わたし…、なにも、できない…けれど…、もらって、くれて…ありが、とう」
「…姉さん、俺達は姉さんが居てくれるだけで嬉しい。俺達こそ礼を言わせてくれないか」
「そうだよお姉ちゃん、何も出来てない事ないよ。私達を喜ばせてくれるじゃない」
「くろむ…、りず… …あり、がとう…」
 エメリナは穏やかに、弟妹に対して微笑む。そして、フレデリクとバーブチカにも微笑んだ。その微笑みを見ると、クロム達は何も言えなくなってしまう。彼女がこんな風に笑える様になったのが幼い頃からその細い肩に伸し掛っていた聖王という重圧から逃れる事が出来た今なのだと思うと、これで良かったのだとも思ってしまう。
 だが、エメリナが少女の様な心根で花冠を渡そうとしている相手を思うと果たして良かったのかどうかとも思うのも事実だった。この場の全員が一人の男を思い浮かべているのは確かなのだ。困った様に沈黙してしまったクロム達にエメリナは少しだけ首を傾げたが、辿々しく外に出る事を伝えて行ってしまった。残ったのは、四人の奇妙な沈黙だ。
「…なあバーブチカ、俺は…心が狭いのだろうか」
「さあ。クロムの心が狭いなら、私の心なんて無いに等しいんじゃないかしら」
 バーブチカもクロムも同じ思いであったのか、心なし苦しい顔をしてエメリナの後ろ姿を見送った後にぼそりとクロムが口にした言葉に、バーブチカは肩を竦めて返答した。ルキナが来た未来ではエメリナはペレジアではなく故国のイーリスで死んだのだと言う。遺体もきちんとした形で埋葬されたらしい。エメリナが生存していると判明する前は、同じ死ぬなら異国ではなくて故国で死なせてやりたかったと嘆いたクロムだったが、人間というのは現金なもので、生存を知った今ではほんの少し変わった歴史で良かったのだろうという思いがある様だ。だが、それもエメリナの現状を見れば揺らぐ。
 リズはリズで姉が生きていた事を最初は素直に喜んだけれども、姉は夫となったフレデリクの嘗ての想い人である為に複雑な思いを抱く様になってしまった。先述したがフレデリクはきちんとリズに今は貴女が一番であり息子のウードごと守りたいとも告げている。それでも不安なのだ。その不安や葛藤を消化出来ず、苛立ちだけが募り、八つ当たりでエメリナが今花冠を渡しに行ったのであろう人物に辛くあたってしまう。
 勿論リズはその男に対して辛くあたる権利はある。姉であるエメリナをあんな風にしてしまった元凶を作った者なのだから当然なのだが、ではその男が何故イーリスとの戦争を執拗に求めたか、謝罪を求めたか、イーリスの宝を求めたかの元凶を考えれば、リズも沈黙してしまう。己の父がしでかした尻拭いを、姉が全て引き受けてしまった。リズが暗い顔をして俯いてしまったのを慰める様に、フレデリクが妻の肩をそっと抱く。彼女は礼を言う様に、夫の胸に凭れ掛かった。
「ごめんねフレデリク、私、嫌な女だね」
「いえ、そんなリズ様だからこそ、私がお守りしたいのです。
 …クロム様、クロム様の御心が本当に狭いのであれば、私含めこの軍の者は貴方についてきておりません。
 …私も同罪です」
 リズの肩を抱いたまま、フレデリクが項垂れて懺悔する様にクロムに言った。この場に居る者全員、同じ苦しみを抱えている。クロムは娘達がこの場に居なくて良かった、こんな姿を見せずに済んで良かったと思いながら、フレデリクと同じ様に項垂れた。
「…ところで、エメリナ様に先日ファルコンナイトになって頂いたじゃない」
 重苦しい沈黙を破ってバーブチカが発言したのを受け、我に返ったかの様にクロムが顔を上げる。
「あ、ああ、スミアが乗り方を教えて…今はもう危なげなく乗れる様になっていると聞いたが」
「そう。それは結構な事ね」
 エメリナは聖王を勤めていただけあって、魔力がとても高く高度な魔導書も杖も使える。治癒の杖が使える者の機動力が高ければ遠方の者への治療も出来るからと、バーブチカはエメリナをファルコンナイトへと転職させていた。天馬やファルコンに乗った事が無かったエメリナに、元からの天馬騎士であるスミアやティアモがエメリナに乗り方を指導していて、まだ転職して日が浅いがエメリナは随分と乗りこなせる様になっていた。元々そういう素質があったのだろう。
「…あの、バーブチカさん、それが何か…?」
「いえね、ファルコンに乗れる様になったのなら、偵察もお願い出来るかと思ったのよ」
「姉さんを…?しかし、一人では危険だ。誰か… …おい、バーブチカ、お前まさか」
 用意はしたが使われないだろう一組の茶器を眺めながらバーブチカが言った言葉に何か嫌なものを感じ、クロムは眉を顰めた。多分、否、十中八九、彼女はクロムが思い浮かべた男をエメリナと共に偵察に出させる気だ。正気か、と困惑するクロムに、軍師はにこりと微笑んで見せた。
「何処かの誰かは、高い所が苦手なんですって」
「………え?」
「この程度の細やかな嫌がらせくらいなら、罰は当たらないんじゃないかしらね」
 いつも傍らに置いている、軍に所属している戦士達の名簿を掲げて彼女が言う。その名簿の中には、一人一人の苦手なものや得意な事、判明している簡素なプロフィールが書かれているのだが、その名簿はバーブチカしか見る事が出来ない。一応彼女は守秘義務があると思っているのか、滅多に名簿の中に書いている事を口外したりはしない。しかし、今回ばかりは目論見があるらしかった。
「…暴れて、お姉ちゃんが危険な目に遭ったりしない?」
「あれだけエメリナ様の前でしおらしいんだもの、二度と高い所から落としたりはしないでしょうよ」
「………」
 細やかな嫌がらせと言うか、これもまた復讐になるのだろうが、リズが懸念を示すとバーブチカは薄く笑って肩を竦めた。あの男はエメリナを崖から飛び降ろさせたのだから、もう二度と同じ様な真似などさせないだろうという考えが彼女にはあるらしい。
「ですが、引き受けるでしょうか?高い所が苦手なら、それを理由に断りそうですが…」
「彼は断れる立場ではないもの。それに、この軍にはもう一人高所恐怖症が居てね」
「…?」
 話題の中心である男には、クロムたちが下そうとしている命に逆らえる権利は無い。それでも難色を示すであろうから、バーブチカは予め人身御供を用意していた。もう一人居るのだから文句は無いだろう、と念押しの為だった。
「性格悪い女だって言うかしら?」
「…いや…」
 おどけた様に笑うバーブチカにクロムはうっかり頷きかけたのだが、何とか否定の言葉を口にした。しかし誤魔化す事が苦手なクロムのその態度にバーブチカは肯定されたと分かった様で、名簿で口許を隠してふいと顔を背けた。
「ま、何にせよ明日の軍議の後が楽しみね。
 図体でかい男達の引き攣る顔が見られるだなんて、今からぞくぞくしちゃうわ」
「………」
 随分前から何となく分かっていた事だが、クロムもリズもフレデリクも、何故バーブチカが今まで誰とも番わず独身のままなのか、その原因を改めて垣間見た様な気がして、口を噤む事しか出来なかった。同時に、野営内の何処かで盛大にくしゃみをした男が居たのだが、彼らはその事を知る由も無かった。



 ギャンレルは相変わらずぼうっと座ったまま青い空を見上げている。故郷であるペレジアは砂漠地帯が多く、たまに砂嵐が起これば街でも空が濁ったし、そもそもギャンレルが空を見上げる事が少なかったので青空をこんな風にゆっくりと見上げる機会が無かった。エメリナの護衛を仰せつかったとは言え、四六時中べったりと側に居る必要は無いだろうと判断して彼女を放っているのだが、そろそろ護衛の真似事をせねば誰が何を言うか分からない。否、ギャンレルは誰から何を言われてもどうと言う事は無いのだけれども、喧しい事は嫌いだ。鬱陶しく思ってしまう。しかし、仕方ねえ戻るかと思って腰を浮かしたその時、さわさわと草花を踏み分けてこちらに向かって来ている足音に気付き、彼はその音の方へと顔を向けた。
「……げ」
 ギャンレルが目にしたのは、件のエメリナだった。彼女は普段と変わらない、穏やかな表情でこちらに歩を進めている。本音を言えばギャンレルは逃げてしまいたかったのだが、さりとてそれが叶う訳でもなく、諦めてエメリナが自分の傍らで足を止めるのを待つしかなかった。
「ぎゃん…れる…、みつけ…た」
「…、何か用かよ」
 彼女が嬉しそうに笑ったものだから、どういう反応を示して良いのか分からずギャンレルは気まずそうにエメリナに用件を尋ねる。普段から会話を殆どしないのに、何を話せば良いのかという疑問が少なからず彼にはあった。これから先、護衛につくとなれば何か話題を見付けていた方が良いのだろうという思いはあるが、ギャンレルにはエメリナと会話する意思は余り無い。余計な事を話して変に記憶が戻られても困るからだ。
「あの…ね、…これ…つくった、の…」
「…あぁ?」
 両手で持っていたものを口許まで掲げ、エメリナがはにかむ。ギャンレルの目がおかしくなければ、彼女が手にしているものは花冠だ。綺麗な輪にして頑丈そうに作ってあるそれは、エメリナが被るには少し大きいだろうという予測はついた。まさか、とギャンレルは思ったのだが、彼が何か言う前にエメリナは彼が未だに着けているペレジア王の王冠の上から、自分が作った花冠をそっと被せた。
「つくった…の。あなた…に、…あげ…る」
「そ…そうか…。その…あ、ありがとよ」
 今まで生きてきた中で花冠など貰った事が無かった―そもそもペレジアでは花冠を作れる様な花など殆ど咲かない―ので、ギャンレルには本当にどういう反応をして良いものなのか分からない。普段はどんな相手に対しても不遜で横柄な態度をとる彼であっても、バーブチカがクロム達に言った様にエメリナの前ではしおらしい。彼女はギャンレルの全ての罪そのものだ。人は己のしでかした大罪を目の当たりにすれば、こんな風になってしまうのだろうという事をギャンレルは体現していた。
「…他に、あげたか?」
「うん…、くろむ、と、りず…と、ふれで…りく。…それから、ばーぶちか…」
「ん…、そうか」
 まさか自分だけに作った訳ではないだろうと思ったギャンレルが尋ねると、エメリナは彼が予測した通りの者達の名を挙げた。その四人は勿論エメリナが今こうやって自分に花冠を渡しているという事を快くは思わないだろうし、出来る事なら休んでいる自分達と一緒に話をして欲しかっただろう。だが、エメリナはここに来る事を選んだ。自分をこんな風にしてしまった、記憶を傷付けてしまった男と知らずに、花冠を戴冠させる為に。
「…その…、何か思い出した事とか…あるのかよ」
「…ううん…、なにも…おもいだせ…な… …ごめん…ね…」
「謝る事はねえよ。…思い出せたら良い、な」
「…うん…」
 時折、軍の皆が自分に対して複雑な表情を見せるのを気にしているのか、エメリナがギャンレルの問い掛けに少し表情を曇らせたので、彼は少し慌ててフォローを入れた。しかし、彼女が思い出した所で自分の酷い仕打ちを思い出す事になる。それはそれで自業自得なので、何も気にする事は無い。…だが、聖王であった頃の重圧、葛藤、苦しみ、それらと共にペレジアでギャンレルが彼女に対してした事も思い出す事になるのだろう。
 ギャンレルはエメリナをペレジア城に幽閉した際、彼女を犯した。俗世の穢れを全く知らないとでも言う様なすまし顔が気に入らなくて、死よりも酷い屈辱を与えてやろうと鬱屈した思いでエメリナを犯したのだ。しかし、エメリナは抵抗らしい抵抗を殆ど見せず、ただじっとその行為が終わるのを待つ様に、甘んじて彼の暴行を耐えた。服を破るように脱がせた時に多少の恥じらいと拒絶の言葉を口にしたが、余り動揺もしなかったのでこの期に及んでまだすました顔しやがるのかと不愉快を覚えたギャンレルは、しかし彼女が生娘でなかった事に酷く驚いた。そう、エメリナは処女ではなかったのだ。
 誰に抱かれた、とギャンレルが詰問しても、エメリナは頑としてそれに答えなかった。手酷く犯しても、最後まで彼女は口を閉ざしたままだった。ただ、一度だけ辛そうに涙を流していたから、不本意な相手であったのではないかという思いがギャンレルにはある。超が付く程のシスコンだとギャンレルが思っているクロムか、彼女を慕っていた風に見えるフレデリクか、とも彼は思ったが、それも違う気がした。彼らはギャンレルと違ってエメリナに対してそんな暴挙に出る様な男達ではない。王女であったエメリナに近付ける、そして彼女が抵抗出来ない相手と言えば、後は父親しか浮かばなかった。ギャンレルが子供の頃、ペレジアに対して理不尽な戦争を仕掛けてきた、彼と同じく暗愚王と呼んでも良いであろうエメリナの父親であれば、それも納得出来る様な気がする。
 しかしそれに気付いた時、ギャンレルは何故かその事をエメリナに対して問う気にはなれなかった。肉親を侮辱して彼女に不快感を与えても良かったし、もしその憶測が当たったとして彼女を傷付け不名誉を世に暴いても良かったのだが、何となくそれを言う事は出来なかった。エメリナは父親の業を幼い身で全て背負い、民衆から蔑まれ、憎まれ、それでも長い時をかけてやっと統治が上手くいく様になったという時にギャンレルが戦争を仕掛けてきたのだ。挙句に幽閉され、犯され、そして死を迎える。いい気味だ、とあの当時ギャンレルは思ったのだが、それでも尚誰かに言う気にはなれなかった。
 今思えば彼女の心はギャンレルが犯したあの時に壊れていたのかも知れない。そして、もし身投げした後に瀕死の体を攫ったギムレー教徒の者達がギャンレルが彼女に与えた屈辱よりも酷い事を強いたのであれば、今のエメリナの状態も納得出来るしこのまま思い出さずに生きた方が彼女の為になるのではないかとギャンレルは思う。しかしそれは、彼にとってみても都合の良い、虫の良い話だ。そして、思い出して自分を責めてくれれば良いと願うのも、自分にしてみれば己の心を軽くする為ではないかと自己嫌悪に陥ってしまう。こんな思いをするくらいならとっとと死んでおけば良かったぜ、とギャンレルは苦い溜息を吐いた。
「…な、何だお前、いきなり」
 色々と考え込んでしまっていた自分の隣に何時の間にか座っていたエメリナが、何を思ったのか突然その白い柔らかな手で頭を撫でてきたので、ギャンレルは珍しく狼狽して彼女から少し離れた。しかし、エメリナは微かに微笑んで再度彼の頭を撫でた。
「わたし…、なにも、できない…、…あなた…こまらせて…ばかり…」
「……べ、別に、困っちゃいねえけど」
「あなた…やさしい…ね…。…また、いっしょ…に、…さんぽ…しましょう…?」
「……… …あ、あぁ」
 一瞬何を言われたのか理解出来なかったギャンレルは、しかし数秒後に飲み込むとしどろもどろになりながらも頷いた。優しいなどと言われるとは思わなかったし、そんな単語と自身が繋がるとは思っていなかったから、反応が遅れてしまったのだ。負い目を感じ後ろめたい思いで話をしているだけなのに、優しいとは。他人が聞けば、さぞや鼻で笑う事だろう。
 少女の様になってしまったエメリナには、聖王であった頃の様な凛とした雰囲気は無い。しかし、見ているこちらが何となく守らねばならないと思ってしまう雰囲気があった。大輪の花の様に咲き誇るのではなく、この花冠の様に、可憐で頼りない。護衛を命じられた以上ギャンレルはエメリナを守る義務があり、その花を散らせる訳にはいかなかった。
「…お前、あんまり前に出たら危ないからさ。戦闘の時は俺のサポートしてくれよ。良いか?」
「…いい、よ。あなたは…わたしが…まもる」
「…そうか」
 守るのは俺の方だ、とはギャンレルは言えなかった。頼られたのが嬉しかったのか、エメリナがにこりと笑ったからだ。その笑みを台無しにする必要はどこにも無い。思わず苦笑したギャンレルを彼女は不思議そうに見たが、やがて彼の少し冷たくなった手を取ると、自分の柔らかな両の手で包み込んで自分の額にある聖痕の箇所まで掲げて祈る様に目を閉じた。ギャンレルはその行為に驚いたのだが、それ以上にその時の彼女が聖王であった頃の様な神々しさを身に纏い、崖から飛び降りた時の様な芯の強さを見せたものだから、手を振り払う事も出来ずに黙ってその祈りを享受した。この軍に加入してからというもの、エメリナに触れて良いのかどうかギャンレルには分からなかったのだけれども、彼女から触れられた事で少しは躊躇いが薄れた。そして、今漸く生身のエメリナに触れる事が出来た様な気がしていた。



 ギムレーの器であったらしいバーブチカがその身を犠牲にして邪竜ギムレーを討ち、姿を消してから、屍兵による混乱はまだ残っているとは言え世界には一応の平穏が訪れた。それでも世界各地には様々な問題が残っており、イーリス軍に所属していた各国の者達は故国に戻ったり、帰る所の無い者は縁のある所に世話になったりして、散り散りになっていった。
 エメリナは初め、イーリスに戻ることが検討された。しかし前聖王が生きていたという事が知られれば国内でも混乱が起こるし、エメリナを傀儡にしてクロムを廃そうとする輩も現れないとは限らない。彼女はもう聖王でいられる状態ではないのに、権力を欲しがる者達はそれでも利用しようとするだろう。そういった事を懸念し、クロムはフラヴィアに頼んでエメリナをフェリアに預けた。預けると言っても身元が知られてしまえば困るので王宮に住まわせる訳にはいかず、イーリスの人間であった事も配慮して、東フェリアの南にある街の郊外に小ぢんまりとした家を構えさせてそこに住まわせた。エメリナは行軍の中で様々な事を覚え、もう一人では何も出来ない女ではなくなっていたとは言え矢張りクロムやリズ達は心配したので、定期的にイーリスの天馬騎士が様子を見に来ていた。
 そしてクロムもリズもフレデリクも余り良い顔をしなかったが、エメリナがギャンレルに対してフェリアに来て欲しいと言った為に彼もフェリアに行く事になった。これにはフラヴィアだけでなく西フェリアの王であるバジーリオも考えた様であったのだが、無頼漢を野放しにしておくよりは自分達の目の届く所に置いていた方が良いと判断したのか、最終的にはエメリナが望むのであれば自分達は構わないと返事をした。力に重きを置くフェリアでは、多少の事は気にしないらしい。例えそれが他国の元国王、元聖王の事であったとしてもだ。
 ギャンレルは、エメリナの頼みを断れる立場ではない。イーリス軍に居た頃も他の者達に対しては元からの不遜な態度を変えなかったが、エメリナの前でだけ大人しくなった。彼女はそんなギャンレルが去る事を引き止めた。自分が何をしたのか、どれだけ酷い事を強いたのかを言えなかったギャンレルに、側に居て欲しいと言った。勿論共に住む事はギャンレルも拒否したしクロム達も許さなかったが、エメリナの警護を条件に近くに住まわせた。
 いくらエメリナの身分を隠し、一般女性として過ごさせようとしても、癒しの杖や魔導書が使える事、イーリスの天馬騎士が時折訪ねてくる事などを近隣の住民に知られれば、憶測や様々な噂話が飛び交うものだ。フェリアであってもイーリスを快く思っていない者や良からぬ事を考える者が居ない訳ではない。だからエメリナに護衛が居るに越した事は無かった。ギャンレルもその旨については了承しており、ほぼ毎日エメリナと顔を合わせていた。
 そうしている内に、彼らは男女の仲になってしまった。エメリナは無防備にギャンレルに触れ、微笑み、そして一度だけ頬に触れた彼の手を拒まなかった。否、それを待っていたかの様に受け入れたのだ。ペレジア城で彼女に与えた苦痛を思い出すと躊躇われたのだが、体を委ねる女を拒む程ギャンレルも野暮ではなかったし、元より女を好む男であったから当然の流れであったかも知れない。クロムが知れば今度こそ殺しに来るだろうとは思ったものの、それもまた一興だと半ば投げ遣りに諦めた。
 そして、エメリナは身篭った。疑い様も無く自分の子であると分かっていたギャンレルはエメリナに了承を取ってからフラヴィア経由でクロムに連絡をして貰い、第二子が生まれたばかりのクロムが血相を変えてフェリアまで駆け付けて来た。恐らく最初に殴られるだろうと思っていたギャンレルはエメリナの住む家の玄関先でクロムを待ち、エメリナは中で待機させていた。弟であるクロムが他人を殴る所を見せたくなかったのだ。しかし、マントを翻して到着したクロムは腕組みをして扉に凭れ掛かっているギャンレルを少し睨んだ後、握り拳は作ったものの静かに口を開いた。

『一つ、聞きたい事がある。…お前にとって姉さんは、今でも世界で一番無責任なクソったれ女か』
『こりゃまた、随分懐かしい言葉拾ってきたもんだなあ?
 お前なら分かるだろうが、世界で一番無責任なのは俺だってよぉ』
『…分かっているなら良い。だが、これだけは忘れるな。
 他のどの事に対して無責任であっても構わない、だが姉さんと子供に対してはしっかりと責任を持て。
 …姉さんがお前を選んだなら、俺は何も言う事は出来ん』

 意外にも、クロムはギャンレルを殴りもしなければ責めもしなかった。そうしてしまえば、一人の男としてギャンレルを受け止めた姉を否定してしまうと思ったからだろう。クロムにとってエメリナは絶対であり、また彼女が決めた事を否定する事は決して無かった。だから、不本意ではあっただろうがギャンレルとの仲を認めたのだろう。ひょっとしたらエメリナがギャンレルに対して共にフェリアに来て欲しいと言った時点で覚悟していたのかも知れない。しかしそんな事はギャンレルには分からないし、そもそも分かろうとも思わなかった。
 クロムが言った様に、ギャンレルにはエメリナと子供に対して責任を負う義務がある。ペレジア王であった頃の彼ならば知った事ではないと一蹴していたであろうが、今の彼はその意思があった。母は貧困の中で死に、天涯孤独となったギャンレルには心を開ける者も居なかったから、長い事孤独であった彼に齎された家族というものは殊勝な思いを抱かせるには十分な存在であったらしい。日を追う毎に大きくなるエメリナの腹はギャンレルの罪の意識を消す事は無かったし、もし何かの拍子で過去を思い出してしまったらという恐怖をギャンレルの上に撒き散らした。だがそれでも、もうギャンレルは逃げる訳にはいかなかったのだ。仮令エメリナの記憶が戻り、蔑まれ憎まれても、彼女を守り、子供を守る意思が彼にはあった。
 しかしエメリナが身篭った事はイーリスの一部の者達にも知られ、前聖王であるエメリナの子供にも聖痕が現れた場合の懸念が囁かれる様になり、クロムの与り知らぬ所で密やかにエメリナの暗殺計画が持ち上がってしまった。否、彼女が身籠る前から前聖王が生存しているという事でまた国内が荒れる、と先の戦争で混乱に次ぐ混乱を経験したイーリス内の保守派の者達が以前から忌々しく思っていたらしい。未だ地方の屍兵討伐で城を開ける事も多いクロムやフレデリクには知られぬ様に水面下で動いていたエメリナの暗殺計画は、フェリアの春が訪れる頃に決行された。されてしまったのだ。



 いてえ、と口の中に溜まる血を床に吐き捨て、ギャンレルは痛む脇腹の傷口を押さえながら、転がる死体を弱々しく蹴り上げる。流石に一人で十人以上の相手は無理があったか、と少し霞む視界を紛らわす為に頭を振ったが、そんな事で改善されるとは彼も思わなかった。まさかイーリスの者共がエメリナを狙ってくるとは、クロムの野郎は何やってんだと忌々しそうに舌打ちしたギャンレルは、しかし手にへばり付く己の夥しい出血に死を覚悟していた。エメリナが治癒の杖を使った所でこれでは助かるまい。それでもせめて別れを言おうと、彼は覚束ない足取りで激痛を耐えながらエメリナが居る部屋へと向かった。
家を取り囲もうとしている気配に気が付いたのはエメリナだった。何か嫌な予感がすると辿々しく言う彼女が外を窺おうとしたその時、窓の向こうで不審な影が動いたのをギャンレルも見た。窓から離れてお前はここから一歩も出るな、と、彼女が使える魔導書を持たせて明かりを消し、剣を携え外に出たギャンレルは、侵入しようとしていた者達と対峙し、そして応戦した。暗い夜であったからお互い苦戦し、数では圧倒的に不利であったギャンレルはその時点で既にこりゃ死ぬなと思っていた。子供の顔も見られずに死ぬのは不本意ではあるが、エメリナを守って死ねるのならばせめてもの罪滅ぼしになるだろう、そんな事を考えながら応戦していた。
 そして家の中に侵入されたものの、何とか全員を倒せたらしい事に安堵したギャンレルはそこで自分の出血に気が付いた。道理で痛ぇ筈だ、と暗闇の中体を探れば、全身に傷を負っていた。中には随分と深い傷もある。これは助からねえな、とやけにあっさりと諦めたギャンレルは、部屋に一人残したエメリナの元へと出来る限り急いだ。
 明かりを消した筈の部屋には、再度ランタンに光が灯っていた。エメリナが点けたらしく、窓辺に置かれたそれの光はエメリナの姿を暗闇の中浮かび上がらせている。傷だらけの自分の姿を見て一瞬だけ表情を強ばらせたエメリナに、ギャンレルは弱く笑ってみせた。
「…なあ、どうやら俺はその腹ん中のガキの顔、見れねえみてぇだ」
 部屋の入口に凭れ掛かり、そう口にすると、一気に力が抜けて床に座り込む。傷一つ無く無事であったエメリナを見て安心してしまったらしいと彼が気付いたのは座り込んでしまってからだ。本当は血など見せたくなかったのだが別れくらいは言いたかったので姿を見せたが、エメリナは取り立てて驚く風も無く動揺も見せず、揺り椅子に座ったままじっとギャンレルを見ている。それを不思議に思った彼は目を凝らしてエメリナを見たが、彼女はほんの少しだけ笑い、そして口を開いた。
「大丈夫…、貴方が居なくても、私はこの子を守り育てます」
「……… …な…?」
 はっきりとした口調で答えたエメリナに、ギャンレルは目を見開いた。今までずっと片言でしか話さなかったエメリナが、ペレジアで身投げする前と同じ様に話したのだ。記憶が戻ったのか、いつだ、とギャンレルは尋ねたかったのだが、疑問が顔に出ていたからなのか先にエメリナが口を開いた。
「ギャンレル殿… …いえ、もうギャンレルと呼んでも良いですね。
 クロム達に保護された時、私は確かに記憶を失い、言葉も不自由になっていましたが、
 貴方が生きていると分かった時に戻りました」
「…何…で、言わなかった…?俺は…ともかく…、クロムやリズ達は…」
「…クロムもリズも、私の記憶が戻る事を心では望まなかったからです。
 いえ、望んでいたのかも知れない。
 ですが、聖王はクロムが務めるべきだと思いました。…それに…」
 エメリナの記憶が戻る事をあれほど望んでいる様に見えたクロム達が、彼女がまた苦しむのであればこのままで居て欲しい、と願っていた事を彼女は感じ取っていたらしい。そして、聖王という地位は自分ではなく弟が相応しいと判断したのだろう。エメリナは余り他人に頼ったり、寄り掛かったりする事をしない人間であったが、クロムはちゃんと頼る事を知っている。それを踏まえての判断だろう。だが、それだけでなく彼女にはまだ記憶が戻った事を黙っていた理由があるらしかった。
「…私は愚かで浅ましい女です…
 私があのままで居れば、貴方が私を見る度に苦しんで、貴方に私が刻まれると思いました」
「…な…に…?」
「貴方は私が他の者に…父に犯された事を知っても、誰にも言いませんでしたね。
 イーリスの聖王は実の父である前聖王に犯されたと、声高に言って貶める事も出来たのに」
 …矢張りギャンレルの予想通り、エメリナは父に犯されたらしい。彼女にとって人生最大の屈辱であり汚点は、しかしギャンレルによって秘密として守られた。彼がそれを言いふらさなかったからだ。往々にして強姦というものは身内による犯行が多いとギャンレルはペレジアで過ごした日々の中で学んでいたから気が付いただけで、それも気まぐれで黙っていただけの事だったのに、エメリナにとっては自分にギャンレルを繋ぎ止めたいと思わせる程に心を動かされた事だったらしい。ギャンレルは腹からの出血を手で押さえながら呆然としてしまった。まさかそんな事で今まで芝居を続けられるとは思わなかったのだ。
「…たったそれだけの事の為にと呆れますか?
 …けれど、私にはこういう方法しか思い付きませんでした」
 ランタンの光に浮かぶギャンレルの表情が余りにも呆然としていたからだろう、エメリナは一瞬だけ泣きそうに顔を歪めて自嘲する様に吐き捨てた。幼い頃より重圧に耐え、年頃の女の様に恋をする事も叶わず、恐らく帝王学を学んだ筈であるから民衆を慈しむ方法は知っていてもたった一人の男を愛する方法を知らないエメリナには、これしかギャンレルを繋ぎ止める方法が浮かばなかったに違いない。
「私が記憶を無くしたのは、飛び降りた恐怖からでもギムレー教団の者達から暴行を受けたからでもありません。
 …子供を亡くしたからです」
「子供…だと…? …まさか」
「はい。…貴方の子です」
 そして、エメリナは漸く記憶を無くした原因を教えてくれた。自分を犯し、死に至らせようとした男をそれでも想い、子を宿した事が嬉しかったのだろう。だからこそ子供の死が耐えられずに記憶を無くす事を選んだ。クロムやリズ達を含め過去の事を全て忘れてしまったのは、それまでの記憶が全て子供の死に繋がっていくからだ。
「ギムレー教の者達は、邪竜に私を捧げる為だと言って私を犯す事はありませんでしたが…
 私が子を宿していると知ってから、好き勝手に犯す様になりました。
 …それでも私は、貴方の子供が産みたかったから耐えたのです。
 …なのに死んでしまった…、死んだまま生まれてしまった。それがショックで記憶を無くしました」
「……何…で…、そこまで…? 俺、俺は、お前を犯して、殺した…ぞ…?」
「さあ…私にも良く分かりません」
 首を横に振ったエメリナは、腹を少し撫でて目線をそこに落とす。胎内で死に、産声を上げる事無く生まれてきた我が子の事を思い出しているのかも知れなかった。何が彼女をそこまで動かし、暴力に耐えさせたのか、ギャンレルには分からない。ここまでどうしようもない男を好きになった女を哀れにも思ってしまった。
「ギャンレル…貴方はあの時私に言いましたね、私は世界で一番無責任なクソったれ女だと。
 …その通りです。私は無力で愚かで、貴方にもこの子にも責任を取ろうとしない、どうしようもなく酷い女です。
 貴方を私に縛り付けたいが為に、あの冠を貴方に作ったのですから」
「………」
「クロム達への花冠は、確かに礼のつもりでした。…ですが貴方には、枷のつもりだったのです」
 まだギムレーを倒す為にイーリス軍に従軍していた頃、エメリナはギャンレルに花冠を寄越した事がある。あの時の冠の重みをギャンレルは今でも思い出せる。白い指先を黒くさせてまでも編まれた冠は、彼女の大事な家族や元従者、軍師に対しての礼をする為のものだった。しかし、エメリナは知っていたのだ。自分がギャンレルに対して何か施す度、彼が自分に対して罪悪感を抱き、後ろめたい思いに苛まれる事を。それはエメリナへの愛情ではないし、今でもギャンレルは彼女に対しての愛情よりは罪悪感の方が大きい。その事を知っていたエメリナは、それでも良いと思ったのだろう。

「どうかそのまま、私を憎んで死んでください。私の王であった人、…どうか私を許さないで」

 懇願する様なエメリナの声は、微かに震えていた。時間が二人の間の溝をゆっくりと埋めていく事さえ待たず、己への激しい思いを抱かせたままギャンレルを死なせたいのだとエメリナは思っている。愛でなく、憎しみでも良いと願う彼女に、最早聖王の面影は何処にも無かった。一人の女として、何処へぶつけて良いのか分からない想いに苛まれている。

――そこまで苦しませたかよ、こんなクズ野郎なんかが。

「エメ、リナ… 俺は、俺ぁよ、…っ …ヴァルハラと、やらには…逝ける、訳ゃねえんだ…
 地獄に、しか、逝ける訳…ねえ…」
「………」

「だから、だからよぉ、死ぬ時ゃ俺のとこまで堕ちてこい…!
 無責任な、クソったれ同士、…地獄で仲良く連れ添おうぜ…!」

 エメリナの位置から自分の表情がきちんと見えていたのか、ギャンレルには分からない。しかし彼は腹を押さえていない手を彼女に伸ばし、無理に笑って血の混じった声でそう言い放った。聖王であった頃のエメリナにも、他の者にも良く見せた、不遜な笑みを。まるで世の中の全てを馬鹿にする様な、自分自身をも馬鹿にする様な表情ではあったが、それを聞いたエメリナは顔を歪め、ぎゅっと目を閉じてから一度だけ深く頷いた。
 腹の子に対し無責任過ぎる二人の約束は、恐らく誰からも褒められないだろうし認められないだろう。それでも二人は良かったのだ。まるで正反対の王であった二人を結ぶ小さな命は、頷いたエメリナを見て満足したギャンレルの手が音を立てて床に落ちたその瞬間にエメリナの腹を蹴った。どうしようもない程の充足感が、彼女を支配していた。



 クロム達がフェリアに居るエメリナの暗殺計画を知ったのは、決行されるという二日前の夕方だった。イーリス城からエメリナが居住する家まで二日で到着出来る筈も無く、またフラヴィアへの伝令も間に合う筈も無く、それでも計画を企てた者達を拘束してすぐさまクロムはフレデリクを伴いスミアが操る天馬に飛び乗った。リズも一応は天馬に乗れる様になっていたのでフレデリクを乗せたが、月明かりも殆ど無い夜間の飛行は天馬にとっても危険であり体力が保たないとスミアが申し訳無さそうに言い、進める所まで進んでまんじりとした思いで一夜を過ごした。
 そして彼らが越境し、フェリアにも派遣されている天馬騎士の天馬に乗り換えながらエメリナの住む家に到着したのはイーリス城を出立してから三日目の午後だった。その前日に計画は決行されていると分かっていたクロム達は気が気でなかったのだが、街外れにあるその家の前で倒れている者を見て誰かが応戦したのだと知った。エメリナの腹の子の父親だろうと現場を訪れた四人にはすぐに分かったけれども、では何故この遺体がこのままなのかと思うと居ても立ってもいられず、クロムは閉まっていた玄関から家に飛び入った。鍵は掛かっていなかった。
「姉さん!何処だ、姉さん!」
 明るい日差しが入る家の中に続く血の跡を辿り、クロムがその先へ急ぐ。彼の後ろから走ってついてきていたリズは、しかし兄が突然足を止めてしまったので背中にぶつかってしまった。リズは不満を言う為に鼻を押さえながら兄から離れたのだが、視界に飛び込んできた光景に言葉を失った。それはクロムもフレデリクもスミアも同様だった。
 開け放たれた窓から吹き込む風が、レースのカーテンをひらひらと揺らす。その風を象る、部屋の中に居る女の淡い金髪は陽の光を受けて美しく反射していた。設えられた机の上には何も置かれていないどころか、この部屋には机と揺り椅子と照明であるランタン以外の物が無い。この部屋には殆ど生活感が無く、それ故に机と揺り椅子だけがその存在を強調していた。
 姉は、彼女が妊娠してから座っているとクロムが記憶している揺り椅子には座っていなかった。日差しが照らす床に直に座り、駆けつけたクロム達には目線を寄越さない。彼女の視線は傍らの花冠に注がれていた。…否、花冠を冠した男に注がれていた。
 部屋の入口の血溜まりから伸びる血痕から鑑みるに、彼女が男をそこまで引き摺って横たわらせたのだろうという事は分かる。部屋に来るまでに落ちていた剣は、男が振るっていた武器であろう。だからその男が彼女を守ったのだという事も、クロム達には理解出来た。そして横たわる体が微動だにしない所を見れば、男が既に事切れているという事も分かった。男は姉を守って死んだのだ、とクロムは確信した。だが、姉は昔自分にしてくれた様に、男の頭を撫で続けていた。酷く穏やかな顔で、満ち足りた様に。その指先は少し黒ずんでいた。
「姉…さん…」
「…お姉ちゃん…」
 弟妹の呼び掛けに、彼女は緩慢な動作で漸く顔を彼らに向ける。その時の彼女の微笑は、クロムやリズ、フレデリクとスミアの呼吸を一瞬止めさせてしまった。確かに穏やかで、美しくて、儚げで、それでいて凛としている彼女の表情は、しかし何処か狂気に満ちていたからだ。
 呆然と立ち尽くすクロム達を尻目に、彼女はついと目線を男に戻す。そして床に落ちたままの男の手をやおら取ると、両の手で包み込んで額の聖痕まで掲げて祈る様に目を閉じた。彼女が何を思い、願い、そして祈っているのか、彼女に掛ける言葉を失ったクロム達には分からなかった。
 部屋の中に吹き込む風が彼らの体を擦り抜け、男が冠した花冠を揺らす。姉を守ってくれたその男に感謝すれば良いのか、それとも姉をこんな風にしてしまった事を憎めば良いのか、クロムには判断がつきかねる。しかし、彼女がもう自分達の与り知らぬ者になってしまったという事だけは分かった。その事に気付いてしまったクロムは膝から崩れ落ち、両手を床につき、そして慟哭した。彼女には弟のその泣き声すら届いてはいない様で、ただ安らかな微笑を浮かべたまま男の手を握り続けていた。







※シロツメクサ(白詰草/クローバー)の花言葉:「復讐」「約束」「私を想って」