三皿目

 皆が寝静まる深夜のイーリス城内で、ガイアは蜂蜜の瓶と玉子が入った袋を手にご機嫌な顔で厨房に向かっていた。イーリス郊外の森では蜂が巣を作る事も多く、蜂蜜を取るには格好の場とも言えた。緑の多いイーリスは花の種類も多くて様々な花の蜜が集まり、手に入れる事が出来たなら様々な形で楽しもうと彼は思っていたのだが、軍師のユーリからの頼まれ事を片付けたら報酬としてこの蜂蜜の瓶を1つ、貰えたという訳だ。
 ガイアは、ペレジアとイーリスの戦争が終わった後にイーリスと言うよりもユーリ個人に雇われていた。国の内情、国外の偵察、そういった事はイーリス人を使うよりも無国籍で且つフットワークが軽い者を使った方が良いとユーリは考えていた様であったし、またガイアもその考えは間違っていないと思ったし食いっぱぐれないというのは良いと思っていたから、定期的に城のユーリの元を訪れては国内外の細々とした情勢を伝えていた。
 それはさて置き、手の中の蜂蜜であるが、味見と称して指先に取って口に含んだ時、まろやかな甘さと独特の風味が口の中に広がり、勿論このまま食べても全く以て構わないものだとガイアは判断したのだが、どうせなら夜の厨房を拝借してパンケーキを焼こうと思ったのだ。甘味に対して並々ならぬ執着を持つガイアは菓子を自作する事にも長けており、さりとて昼間の人目につく場所で作れば横取りされる事は目に見えているのでこうやって深夜を選んだ。夜の城は静まり返っており、警戒に当たる兵士の影もまばらで、ゆっくりと作れそうだと彼は自然と口角が上がるのを感じていた。

 しかし、厨房に近付くにつれて微かに甘い香りと、香ばしいというよりも少し焦げた様な香りが漂ってきて、ガイアはちょっとだけ首を傾げた。こんな時間に自分と同じ様に何か作る者も珍しいと思ったし、どちらかと言えば何かを失敗した様な匂いであったし、それで甘い香りというものおかしな話だとも思ったのだ。厨房からは明かりが漏れていて、誰かがそこに居る事を教えてくれている。少しだけ迷ったものの、自分もパンケーキを焼きたいのでそっと中を覗いてみると、途方に暮れた様に項垂れて溜息を吐いている赤い長髪の女が立っていた。

「……ティアモか? どうしたんだ?」
「えっ?! だ、誰……あ、ガイアさん……」

 あまりにも途方に暮れた雰囲気を身に纏っていたので思わず声を掛けると、彼女は驚いた様に何かを探る素振りを見せながら振り向いた。ティアモは天馬騎士だ、有事の際は武器を持って戦う者であるから恐らく槍か何かを無意識に探ってしまったのだろう。
 彼女の傍らにはボウルと玉子の殻、恐らくシュガーポットであろう壺と牛乳が入った瓶、無残にも焦げた何かが皿の上に鎮座している。天才と称されるティアモであっても料理に失敗する事もあるらしい。珍しいものを見た、とガイアは何となく感心してしまった。ティアモは本当に何でもそつなくこなすし、また不得意な事など無いのではないかと思わせる程何でも出来た。ペレジアへの行軍の際も食事当番をしている姿を見掛けたから、てっきり何でも作れるのかと思っていたのだ。

「どうした、それ」
「あ……えっと……や、焼くのに失敗しちゃって……」
「パンケーキか?」
「……そ、そうです……」

 決まりが悪そうな顔をして、というか恥ずかしそうな顔をして正直に答えたティアモに、矢張りガイアは意外に思ってしまう。パンケーキはケーキの中でも比較的簡単な部類のものであるから、ここまで焦がしたものを見たのは初めてだ。しかも余り膨らんでいないし、ティアモにしては本当に珍しい失敗になるのではないかと彼は思った。

「ちゃんと重曹入れて粉振るったか?」
「……あっ」
「あと、1枚焼いたらフライパンは濡れ布巾の上に置いて温度を下げた方が良いぞ」
「……は、はい……」

 基本中の基本を忘れていたのか、ティアモはガイアの言葉に漸く自分の失敗の元に気が付いた様で、耳まで赤くして俯いてしまった。知らなかった訳ではなさそうだが、上の空で材料を合わせたのだろう事は想像に難くない。スポンジケーキならば重曹など必要無いけれどもパンケーキであれば必須だし、失念していたのかも知れない。
 つい、と目線を動かしてみれば、粉が飛散る事無く綺麗に整理されている台が視界に入る。ボウルから生地の液が垂れている訳でもなければ割れた玉子が散乱している訳でもない。菓子を作る時は総じて作業台が汚れるものだが、綺麗なものだった。ガイアはそこでまた妙な感心をしてしまう。玉子は持参しているし、粉や砂糖は厨房から拝借しようと思っていたし、牛乳は諦めて水で作ろうと思っていたから、彼はひとつの取引を考えた。

「あのさ、俺もパンケーキ焼こうと思ってたんだけど、作り方教えるからその牛乳くれよ」
「……ガイアさんも、スミアにパンケーキ焼くんですか?」
「は? 何でそこでスミアが出てくるんだよ」
「だって、明日はスミアの誕生日ですよ?」
「……へー」

 どうやらティアモはスミアへ贈る為にパンケーキを焼こうと思っていたらしい。だがガイアはスミアの誕生日などたった今知ったし、そもそも彼は他人の為に菓子を作ろうという気は無い。まずは自分であって、その他は後だ。だから気の抜けた様な間抜けな声が出た。
 しかし、何故ティアモがパンケーキを焼くのに失敗したのかも同時に分かった。スミアは年が明けるとクロムと結婚する事が決まっていて、ティアモにとってスミアは親友であるしクロムは想い人だ。胸中の複雑な想いがティアモらしからぬ失敗をさせたに違いない。1人で納得してしまったガイアは、袋の中から玉子を取り出して軽く空中に投げては手の中に落として見せた。

「俺は自分以外の奴に甘いものをやる趣味は無いんでね。俺の腹に収める為に作るのさ」
「……そうなんですか」
「ガキの頃に飢えた経験があるとな、他人よりまず自分になるんだよ」
「………」

 物心ついた時から1人だったガイアは、幼少の頃は飢えた思い出しか無い。その分口にするものに対しての執着、取り分け甘味という高価なものへの情念は凄まじい。飢えて全く肉がついていない体に慈悲で与えられた甘味が今でも彼の記憶に鮮明に残っている。あの時の強烈な充足感は未だに忘れられなくて、ガイアは良く甘味を口にした。それで胃も心も満たされるのであれば安いものだ。複雑な表情を見せたティアモはそれ以上は深く聞かず、新しいボウルを取り出してからお願いしますと頭を下げた。ガイアもそれ以上は何も言わず、パンケーキを作る為にボウルを秤の上に置いた。



 ふんわりと焼き上がったパンケーキが皿の上に何枚も積み重ねられているのを見て、ガイアは顔がだらしなく緩んでいくのを止める事が出来なかった。バターの芳醇な香り、砂糖が僅かに焦げた匂い、バニラの甘い香りは彼を厳かにその場に座らせる。そしてテーブルの傍らに立つ赤い長髪の女性の顔色を窺う様に上目遣いで見上げると、彼女は苦笑しながら皿とカトラリーを彼の前へ置き、蜂蜜が入ったハニーポットも置いてくれた。

「どうぞ、食べても良いわよ。スミアの分はちゃんとあるから」
「本当か? 全部食べても良いのか?」
「ええ、そのつもりで作ったから」
「蜂蜜も全部使っても良いんだな?」
「お好きなだけ、どうぞ」

 髪を揺らして頷いた女性の――ティアモの承諾を受けて、ガイアはぐっと握り拳を作ってから早速一番上に乗せられたパンケーキを皿に取った。厚みのあるそのパンケーキは綺麗な丸を描いており、わざわざセルクル型を使って蒸し焼きにした事を物語っている。ティアモは以前ガイアに教えて貰ったパンケーキの作り方を自分で改良して、今では彼よりも上手く焼ける様になっていた。
 数年前にイーリス城の厨房でガイアにパンケーキの作り方を教授して貰ったティアモは、それ以降毎年スミアの誕生日の前日に大量のパンケーキを焼く様になった。スミアはパンケーキが好物であるらしいのだが、砂糖や粉は物資が限られる行軍の中では貴重なものであるし、王妃となった今でもイーリス国内で貧しい者も存在するのに自分が豪華なものを食べるのはおかしいと言って誕生日にだけ食べると決めているらしい。ティアモはそのスミアの気持ちを尊重して、毎年誕生日プレゼントにはパンケーキを焼く。そして、ガイアにもお裾分けしてくれた。ガイアが甘味が好きであると知っているというのと、彼にとって甘味は何よりも幸福を与えるものであると知っているからだ。

 まだ温かいパンケーキに、固形のバターを乗せる。パンケーキの熱で溶け始めたバターの上からハニーポットの蜂蜜をかける。バニラの匂いと蜂蜜の匂いが混ざってガイアの空腹を助長させ、逸る気持ちを抑えつつナイフを入れるとさっくりと切れた。上出来だ。彼は切り分けた一口大のパンケーキをフォークに刺すと、何の疑問も迷いも無くテーブルの向かいに座ったティアモに差し出した。

「……何?」
「何、って、作ったお前が一番に食べるのが道理だろう?」
「……他人よりまず自分なんじゃなかったの?」
「昔の俺だったらな。今はお前に一番に食べさせたい」

 数年前のガイアが言った事を覚えていたティアモが不思議そうな顔をしたのだが、今のガイアは自分の好きなものは目の前の惚れた女と共有したいと思う様になっていた。指輪を渡して所謂夫婦となった今でもガイアはティアモの側に居ない事が多いけれども、彼女が作ってくれる料理や甘味はどんな店のものより、どんな腕利きの菓子職人や料理人が作ったものよりも満たしてくれる。子供の頃に、飢えた自分を満たしてくれた菓子の様に。

「……ガイア、蜂蜜つけすぎよ」
「これくらい甘い方が良いんだよ」

 差し出されたパンケーキを食べたティアモが耳を赤くしながら言った文句はガイアの予想した通りのもので、その文句でさえ彼の口角を上げさせるには十分な効力を持っていた。大好物の甘味を真っ先に自分のものではない口に差し出す事が出来るという幸福は、舌ではなくて心に蜜の様な甘みを広げていってくれた。