子供の頃、グレゴは自分より幼い弟の為に、時折スープを作ってやっていた。放浪の民であった彼らには定住の地というものは無くて、ひとところに長く滞在する事が殆ど無かったから収入というものも殆ど無く、弟を生んで暫くもしない内に母親が死んでしまったからろくな食事というものを与えて貰った記憶がグレゴには無い。父親はとにかく子供の事には無関心で、食事を与えようという姿勢が見受けられなかったから、グレゴは何をどうしたら腹を満たす事が出来るのか、自分が自然の中で採れるものの中で何が食べられて何が食べられないのかを自分で学ぶしかなかった。
ただ、父親は全く食わせてくれなかったという訳でもなく、簡易の天幕を張ってそこにグレゴ達を残してふらりと居なくなったりしていたが、毎回ではなくとも戻ってきた時に手には穀物だの野菜だのを持ってそれをグレゴに寄越してくれていた。それらをどうやって調理して食べたら良いのかまでは父親は教えてくれなかったし、基本的には構って貰えなかったから、腹を空かせてぐずる弟の為に何とか食べられるものを作っていたものだった。
子供が独学で作るものなど味が良いものではなかったし、実際グレゴも自分が作ったものを美味いと思った事は殆ど無かった―余りにも腹が減っていたら何でも美味かったが―けれども、そんな食事情の中でも弟が好んで口にしたのはとうもろこしの粉から作ったスープだった。何か具が入っていれば上等なもので、大抵は粉と湯と塩だけ、しかも粉も余り使えるものではなかったからかなり薄いという質素なものであったが、それでも弟は湯気の立ち上る木の椀から薄いスープを啜っては美味しい、と破顔した。寒い夜には鼻を赤くしてぼろぼろの毛布を肩に掛けながら、少しでも体を温める為にと熱く作ったスープで舌を火傷させていたものだ。

「ふーふーして飲め。ほら」
「うん、ありがとう兄さん」
「どーういたしまして」

礼を言われた大人の真似をグレゴがすれば、弟もにこにこ笑って具なんて入っていないに等しい薄いスープに息を吹き掛け、また飲んでいたものだ。空腹を満たすものなんてそれ以外に無くて、調達してきた水で薄めてしまえばそれはもう単なる温かい塩水にしかならない。それでも弟はグレゴが作るそのスープを好んで飲んだし、グレゴも弟が椀に少しも残した事が無い事にほっとしていた。決して満足な量を食べられていた訳ではなく、腹は空かせていたが、二人とも心まで飢えていた訳ではなかった。

「今日はちっとばかし金が入ったけど、何か食いたいもん、あるかあ?」
「僕?兄さんが作ったとうもろこしのスープが良い」
「…あのな、ちゃーんと食えるだけの稼ぎはしてきたから、
 もうちょーっと良いもん言ってくれて良いぞー?」
「だって僕、あれが一番のごちそうだもの。あれが良い」
「変な奴だなー…」

父が死んで、弟と二人きりで生活する様になっても然程生活環境が変わらなかったので、グレゴは相変わらず弟に食事を作った。ろくな食材が手に入らなくてもそれなりに食べられる様に、と、香辛料のブレンドも出来る様になった。変わったと言えば、彼が剣を持って雇われの用心棒じみた事をする様になった事だ。
弟は、グレゴが危険な仕事をする事を嫌った。しかし賊に父親を殺された事を思えば剣を取る事は身を守る術を覚えるという利点があったし、手っ取り早く金を稼げる手段でもあったから、何とか弟を説き伏せた。ただ、弟は「僕の名前を名乗る事」という条件だけは絶対に譲らなかった。

「兄さんが危険な目に遭ってお金を稼いでるなら、その危険を半分こしたい」

それだけは譲れないと頑なに言われたグレゴもついに折れて、それから以降ずっと弟の前以外ではグレゴと名乗り続けた。いつしかグレゴは自分の元の名を殆ど使わなくなってしまったし、また呼ぶ者も居なかったから、気にする事も無くなってしまった。
兄の危険を減らす為とは言え名前を塗り潰した様な状況にしてしまった事を弟は嘆いたが、グレゴにとっては既に呼ぶ者も居ないので大した問題ではなかった。彼にとってはとにかく弟を食べさせる事が第一であったから、帰ってきた自分を安心した様に迎えてくれる弟に食材を手渡せる事が何より嬉しかったし、自分が作る何の変哲もないスープを美味しそうに飲んでくれる弟がかけがえなかった。



「あつっ。うぅ、ヤケドしちゃった」
「あーあー、ふーふーして飲め。ほら」
「うん、ありがとうグレゴ」
「どーういたしまして」

今、グレゴの前に弟は居ない。遠い昔、自分の目の前で喪われてしまった。弟にひもじい思いをさせない為に剣を取ったというのに、それが原因で死なせてしまった。その事実は今でもグレゴを苛んでいるし、一生拭えぬ蟠りとなるだろう。
しかし、今のグレゴにはとうもろこしのスープを作ってやる相手が居る。昔の癖でつい薄く作ってしまうが、それでもグレゴが息を吹き掛けて冷ましてやったスプーンを口に入れる、隣に座る少女は文句も言わずに幸せそうな顔をしてくれた。

「薄いか?」
「ううん、おいしいよ」
「そーかあ。なら、良いんだけどよ。
 次の街に着いたらちったぁマシなもん食わしてやれるから、勘弁な」
「ノノ、グレゴが作ってくれたスープが一番好きだから、これでいいよ?」
「うーん…そうは言われてもなー」
「あのね、ノノ、グレゴが作ってくれたらそれでごちそうなの。ノノの為に作ってくれるのがうれしいの」
「…そーかあ」

死んだ弟が生前話していた内容と殆ど同じ事を、小さな手に椀を持った少女が―ノノが言う。どんなに質素でも、どんなに形が不恰好でも、自分の為に作られた料理は口に美味しく感じるものであるらしい。弟もノノも、グレゴが作ったものよりも味がうんと上等なものを知っていたが、それでも彼が作るスープを一番好んだ。その事に対して、グレゴは苦笑してしまう。照れ隠しに笑ってしまうのだ。
父親が死んで随分経つが、グレゴは父が育ててくれなかった、食べさせてくれなかったという考えは既に持っていなかった。父は父なりに子供達の為に金を工面したり食べ物を運んできてくれていたし、息子達と食事を共にしなかったのは自分の取り分を子供達に与える為だったのだと気が付いたからだ。皮肉にもそれに気が付いた時には父はおろか弟も死んでしまった後であったから、グレゴは父に礼を言う事も弟に真実を伝える事も出来ない。いい加減に育てられたからいい加減な人間になった、のではなくて、父から不器用な温情を与えられ、弟から偽りの無い慈しみを与えられ、それなりに情の深い人間になった。だから今目の前に居るノノを、あの時ギムレー教団から連れ出そうと思ったのだ。

「グレゴも食べてる?」
「んー?おぉ、食ってるぜ」
「一緒に食べるともっとおいしいね」
「そうだなー」

湯気の立ち上る鍋からスープをおかわりしたノノは、グレゴの手元にある干し肉を見遣りながら尋ねる。ノノも飢えた経験があるからなのか、グレゴが食べずに自分に食べさせようとする事を嫌がった。ちょっとくらいお腹が空いても良い、一緒に食べよう、と、グレゴが与えたパンを半分に割って寄越してきた事もある。グレゴもノノも、飢えた経験があるからこそ相手が―夫が、妻が、腹を空かせる事を嫌った。未来から来た娘のンンは、そんな両親からの食い物攻めに遭ってはそんなに食べられないのですと怒った様に言っていたが、表情は嬉しそうだった事を二人はきちんと覚えている。この時代の二人の間にはンンは生まれてきていないけれども、子供が飢える事程つらい事は無いと、グレゴもノノも心の底から思っていた。

「ねえねえ、明日もこのスープ、作ってくれる?」
「んー?じゃー、明日は別のスパイス入れてみるかねえ」
「ほんと?やったあ」

もう1杯のスープも変わらず美味しそうに飲むノノが可愛らしく小首を傾げて尋ねてきたので、グレゴは荷物の中にあるとうもろこしの粉の残量を思い出しつつ、ノノが眠ったら調合しようと思っていた香辛料を入れた小袋を確認した。グレゴが調合するものを、ノノは好む。その時々によって配合も変えるけれども、辛いとか酸っぱいとかの文句を言われた事が一度も無かった。普段は我儘なノノでも、彼が作るものに対しては不満を言った事が無い。自分の為にグレゴが用意してくれていると分かっているからだ。

「あっ、流れ星だ!」
「おっ?おー、本当だ、良いもん見たなー」
「うん!」

白い息を吐きながら椀を片手にノノが指差した先には、確かに流れ星の光が一筋弧を描いて消えた。長い年月を生きてきたノノにとってはそこまで珍しいものではないだろうけれども、それでも人間の子供と変わらぬはしゃぎ方をした彼女に対してグレゴは僅かに苦笑してしまったが、満面の笑みで頷いたノノの肩を引き寄せて抱き、腹と共に心も満たされた事に対して言い様もない幸せを感じていた。