皿に乗せられた何か崩れた物体を前に、リズは途方に暮れていた。焦げた匂いが辺りに充満し、積み上げられたボウルだの皿だのが悲惨な様相を呈している。慣れない事はするものではないと彼女だって分かっていたのだが、乙女心というものは彼女にだって存在していて、好きな相手に手料理を振る舞いたいと思って調理スペースを借りたのだ。手伝いましょうか、と言うマリアベルの厚意を自分一人で作りたいと丁重に断ったものの、この惨状は余りに酷い。
否、これは練習なので失敗しても当然と言えば当然なのだが、少ない物資を分けて貰って作ったのだから無駄にするには忍びないし申し訳ない。分けて貰った材料で練習し作ったものは自分の口に入るものとリズも分かっていたから、これは明日の自分の朝食になる訳で、無駄にはならないのだが、しかしこれは食べられるものなのかどうか。素直にマリアベルに手伝って貰えば良かった…、と後悔しても遅く、リズは溜息を吐いてちょっと浮かんだ涙を指先で拭った。

リズは、この戦いの中で不眠症に陥っていた。目まぐるしく変わる情勢の中、戦で怪我をした兵士達を杖で癒やし、持ち前の明るさで皆を鼓舞していたが、その行動はひとえにペレジアとの戦争で姉を亡くし、誰も死んで欲しくないという想いからだった。それは戦をしていればどだい無理な話であるし、リズだってそれを十二分に分かっているのだが、それでも死ぬ人間の数を少しでも減らせるのではないか、自分の力が足りないのではないかと自責の念に囚われてしまって、上手く眠る事が出来なくなっていた。
そんな日が続いて目の下に隈が出来る様になり、マリアベルやユーリから心配される様になってきて、鈍いクロムからも眠れていないのかと心配されてしまった。しかしこればかりは自分で乗り切るしかないので大丈夫だよ、と言っておいたが、矢張り深い眠りに就く事は出来ずにいた。

だが、昼日中に欠伸をしたリズをたまたま見掛けて声を掛けてきたヘンリーが呪術を使って安眠を齎してくれた。それまでの不眠が嘘の様にぐっすりと眠れたのだ。久しぶりにこんなに良く寝たと思ってヘンリーに礼を言うと、彼は事も無げに呪術の為に生贄を使うなどと言ったので、慌てて止めた。小鳥とは言え自分の眠りの為に命を犠牲にするなど、リズには耐えられない。だから止めた。寝不足で足元がふらつくリズを見てヘンリーは不服そうであったけれども、どうしてもそれは譲れなかった。
そしてとうとう彼と話している時に倒れてしまったリズは、何か温かなものに包まれている事に気が付いて目を覚ました。目の前にヘンリーの顔があって驚いた彼女は、しかし自分の体を労る様に被せられた彼のマントに気が付くと、そこで漸く自分が倒れたと理解した。ちょうど良かったね、お昼寝出来たからちょっとは体が楽になったでしょ、と笑って伸びをしたヘンリーと、木陰から見える太陽の位置が自分が結構な時間眠ってしまっていた事を物語っていて、とても申し訳無い気持ちになった。それでも、呪術を使わなくてもここまでぐっすりと眠れたのは恐らく彼の温度があったからなのだとリズが気が付くにはそこまで時間は掛からなかった。

それから以降、少しの時間を見付けては、ヘンリーはリズが眠れる様にと枕になってくれていた。昼間に寝るから夜眠れなくなるんですのよとマリアベルは言ったけれども、それまでもリズが夜に眠れなかった事を知っていたから咎めはしなかった。ただ、殿方に枕をして貰うなどとぶつぶつ言っていた。リズだってそれはちょっと恥ずかしいと思っていた事ではあるのだが、ヘンリーが枕になってくれると本当に心穏やかに眠る事が出来るのだ。彼の事が好きなのだ、と自覚した様で、少し恥ずかしかった。

その想いを伝えるよりも、まずは先に枕になってくれているお礼に何か作ろうと思い立って調理スペースを借りたらこの有り様、という訳だ。ヘンリーの体は妙に細く、細身のリズと比べても腕など殆ど彼女と変わらない。寄り掛かったりすると彼を潰してしまうのではないだろうかと思う程、細かった。その癖、食事には余り興味関心が無く、ヘンリーがたくさん食べている所をリズは見た事が無い。だから、何か作って食べて貰いたいなと思った。出来れば、自分も好物のものを。
そう思って貴重な卵を分けて貰ったというのに、出来上がったのは表面が焦げているし返すのに失敗して形が崩れ、割れた所から半熟の部分が垂れている、何と形容して良いのか分からない物体だった。一応王族として色々な教養を身に付けているリズは、しかし裁縫や調理などは不得手で不器量だった。刺繍も出来ないし包丁を持つ手は危なっかしい。杖を使うのは得意なのだから、何か不得意なものがあってもおかしくはないと城の侍女達は励ましてくれたけれども、しかしこれは無い。もっと真面目に食事当番のお手伝いすれば良かった…、と本当に途方に暮れた様に彼女は再度溜息を吐いた。

「リズ〜?どうしたの、闇魔法みたいに暗いね〜」
「えっ?! あ、へ、ヘンリーこそどうしたの?こんな夜中に…」
「僕?僕は夜の見回りだよ〜」

その時、件のヘンリーの声がしたので驚いて振り返ると、普段通りの笑みを浮かべたヘンリーが魔導書とランタンを持って歩み寄ってきていた。持ち回りで夜の野営の巡回をするのだが、今日は彼もその内の一人であったらしい。既に眠っているだろうと思っていたリズは、よりによってこんな時にと苦虫を噛み潰した様な顔になってしまった。

「…あれ〜?何してたのリズ、リズも何か呪術を試してたの?」
「じゅ、呪術って、私は使えないよ」
「そうだよね〜、リズは呪術を使うには心が綺麗すぎるもの〜。
 でもそれ、なあに〜?」
「こ、これ…」

積み上げられた調理道具と焦げた匂い、リズの後ろに鎮座している元が何であったのか分からない物体を見て、ヘンリーは不思議そうに首を傾げる。誰だってこれは何だと言いたくもなるだろう。居た堪れない気分になったリズは、悲しそうに俯いた。

「お、オムレツ…作ろうと思ってたんだけど…」
「オムレツ?」
「う、うん…」
「オムレツって〜、何だっけ、卵とか牛乳とかで作るんだっけ〜?
 僕食べた事無いな〜、それがそうなの〜?」
「そ、そのつもりだったんだけど… …失敗しちゃって…」

そうなのだ。リズはオムレツを作ろうとしていて、こんな失敗作を作ってしまったのだ。オムレツというのはもっと卵の色が鮮やかでふっくらしていて、焦げもしていなければ形が崩れてもいない。今リズの後ろに隠れている、皿に鎮座しているそれは、お世辞にもオムレツとは呼べない何かだった。しかしオムレツを見た事が無いらしいヘンリーにとって初めて見たオムレツがこれなのだから、何とも申し訳なくて悲しくなってしまった。自分の好きな食べ物を食べて欲しかっただけなのに、ここまで失敗するとは思わなかった。

「ねえねえ、それ、リズの夜食なの〜?」
「えっ…と、…お夜食って言うか…れ、練習しようと思ったんだ。でも失敗しちゃったから…」
「あ、そうなの〜?じゃあ僕、食べても良い〜?」
「えぇっ?!し、失敗したんだよ?!」
「え〜?でも食べられるでしょ〜?」
「た、食べられなくはないけど…多分…」

しかし平然と食べたいと言いのけたヘンリーに、リズは驚きの余り声が引っくり返ってしまった。まさかこの状態のものを食べても良いかと聞かれるとは思わなかったし、また食べたいと思うようなものでもないからだ。確かに焦げて形が悪いが、塩で味付けしただけであるし、食べられなくはないだろう。それでも見た目というものは食欲を左右するものであるから、ヘンリーが気の毒に思ってそう言ってくれたならと考えるともっと悲しくなってしまった。

「ヘンリー、別に無理して食べるなんて言わなくて良いんだよ?ちゃんと私が食べるから」
「え〜、駄目なの〜?リズが作ったもの、僕食べてみたいな〜」
「…で、でも」
「駄目?」
「………た、食べられなかったら無理しなくて良いからね…?」
「良い?やった〜」

リズが頑なに後ろに隠そうとしている皿をヘンリーが覗き込んでくるので、根負けした彼女はおずおずとその皿をヘンリーに差し出した。彼はランタンと魔導書を積み上げられたボウル達の側に置くと嬉しそうに皿を受け取り、フォークで半熟部分を掬ってリズに食べるね、と掲げて見せた。そして口に運び、咀嚼する彼を、リズは内心はらはらしながら見ていた。

「うん、リズ、美味しいよ〜」
「…へ、ヘンリー、無理して美味しいなんて言わなくて良いんだよ」
「え〜、だって本当に美味しいもん。
 リズ、これ、僕に食べて貰いたいって思って作ったでしょ〜?」
「えぇっ?!な、何で分かるの?!」
「僕、呪術師だもの〜。人の心を見るのは得意だよ〜」
「そ、そんなあ…勝手に見ないでよ、恥ずかしいよ」
「あはは〜、ごめんね〜」

口にした卵を飲み込んだヘンリーが美味しいと言ってくれたのだが、リズにはどうしてもその言葉はお世辞にしか思えず、だから戸惑いの表情しか出せなかった。しかし驚く様な事を平然と言われ、一気に首まで真っ赤になる。心を見るのが得意という事は、まさか自分が今までどういう気持ちでヘンリーに枕になって貰っていたのか知っているのではないかと思い至り、リズはここから逃げ出したい衝動に駆られた。そんなリズの前で、ヘンリーは矢張り平然と焦げた部分のオムレツを掬っては食べ、嬉しそうに咀嚼した。

「僕さ、親からも預けられた施設からもあんまりご飯食べさせて貰えなかったから〜。
 硬くなり過ぎて食べられなくなったパンとか、腐りかけた肉とか、
 まともなもの食べさせて貰えなかったんだ〜」
「え… …えっ…」
「それにペレジアって暑いから、卵を生とか半熟とかで食べると危ないんだよね〜。
 リズはこのオムレツ、失敗なんて言うけど、僕にとっては立派なオムレツだよ〜。
 …有難う、リズ。とっても美味しいよ」
「…ヘンリー…」

そして唐突に語られた彼の過去に、リズはその身を硬直させた。まさかそんな悲惨な食生活を送っていたとは思わなかったから、驚きが先行して何も言えなくなってしまった。しかしそれを聞いて納得したのも事実だった。彼の体は、本当に不自然に細かったからだ。

まともなものを食べさせて貰えなかったから、彼は少ない食事で命を繋ぐしかなかった。そんな生活が長く続いた結果、食を余り必要としない体に、興味を持たない人間になってしまったのだろう。その事に対してヘンリーは何も文句を言わずに淡々と事実を述べる。普段と変わらない、薄い笑みを浮かべながら。
それでも、彼はリズが作ったオムレツを食べたいと言ったのだ。リズは初めてヘンリーが何かを食べたいと言っているのを聞いたし、また食い下がってきた姿も見た。リズが作ったものを食べてみたいと、そう言ってくれた。見目も悪い、焦げもしている、オムレツと言えない様なものを。

「…ヘンリー、私、もっと頑張って、もっと美味しいオムレツ作れる様になるからね。
 だから、ヘンリーももっとご飯食べようね」
「わ〜、じゃあ、リズが練習で作ったら、僕も食べて良い〜?」
「た、たまにしか練習出来ないけど…卵なんて貴重なものだから…
 それでも良いなら、良いよ」
「やった〜。嬉しいな〜」

誓うかの様に言ったリズの言葉に、ヘンリーは嬉しそうに頷いた。その笑みは普段の作った様な笑みではなく、心の底からの笑みの様に思えて、リズも何だか嬉しくなってえへへ、と笑う。そうすると、ヘンリーはやっと笑ってくれたとまた笑みを深くした。まだまだ上達しなければならない腕前ではあるけれども彼が一口分も残さずに完食してくれた事に対し、リズは面映いやら嬉しいやらの感情が心を満たしていくのを感じていた。



余談ではあるが、この後結ばれた二人の前に現れた、未来から来たという二人の息子であるらしいウードが、「母さんが作ってくれたオムレツが一番のごちそうだったし一番美味しかった」と言うのは、また別のお話。