シュヴァイン要塞の包囲を辛くも突破した後、クロム達はすぐには南下せず、ヴァルハルトが率いる軍の目を掻い潜り、撒く為に飛竜の谷の方面へと向かっていた。要塞から退却する際、クロム達にも犠牲が出なかったかと言えば、そうではない。脅しで帝国側についた元解放軍が取り囲み、本気で潰すつもりで掛かっては来なかったとは言え、やはり命を落とした一般兵もそれなりの数に上った。戦争であるから犠牲はつきものと頭で分かっていても、軍師であるユーリや指揮官であるクロムにとっては胸を痛める事であり、また怪我人の救護に当たるリズやマリアベルなど癒しの杖を振るう者、共に戦う者達も同様に毎回の様に辛い想いをした。特にバジーリオとフラヴィアは少数の兵士を率いてミラの大樹方面から進軍してくるヴァルハルトの軍を足止めする為に別行動を取った為、消息が不明であるから、ロンクーやオリヴィエが酷く心配していた。
時間を稼いで貰っているのだからなるべく急がねばならないという事は分かっていたのだが、飛竜の谷に於いて飛竜を乱獲しようとする不届きな輩共が居て、近隣の村人がそれを阻止しようとしていたので、そういう事は黙って見過ごせないクロムが手を貸したのだ。飛竜を駆って戦うセルジュもその光景には憤りを感じており、「そもそも竜騎士たる者は、自分で愛竜を探して相棒にするべきなのよ」と言っていた。それを聞いたユーリは、流石に世の中の竜騎士全員が自分で飛竜を捕まえる事は出来ないのでは、と思ったのだが、黙っていた。セルジュの愛竜であるミネルヴァは、昔仔竜であった時分に弱っていた所をまだ幼かったセルジュが保護したらしい。そんな経緯で相棒となる飛竜と出逢うのは稀だと思われるが、セルジュの考えは変わらない様だ。
その飛竜の谷で、仮面を着けた若い竜騎士と出会った。名をジェロームと言い、彼を見かけたセルジュが声を掛け、手を貸してくれないかと頼んだ。ジェロームは最初こそ渋った様な素振りを見せたが、セルジュが彼の飛竜も諦める事を望んでいるのかと問うと、暫く沈黙した後に承諾してくれた。セルジュのミネルヴァに乗せて貰っていたノノはその会話を聞いていたのだが、ジェロームの操る飛竜が傷が多いとは言えミネルヴァそっくりである事、ジェロームの髪の色がセルジュの夫であるヴィオールそっくりである事に気が付いていて、ひょっとしてジェロームはルキナやアズール、ブレディ達と同じで、未来から来たセルジュの子供ではないかと思っていた。果たしてその通りで、飛竜を乱獲していた者達を率いていたモリスティアという男を倒した後、改めてセルジュがジェロームに話し掛けると、ジェロームはお互いの飛竜が同じである事、そしてセルジュが身につけている指輪も自分も持っている事を告げた。馴れ合うつもりはない、とジェロームは言ったが、要らぬ悲しみは背負いたくはない、とも言ったので、きっとジェロームはセルジュに会いたかったのだろうし、寂しい思いをしてきたのだろうとノノでさえ容易に想像出来た。
そのジェロームの飛竜のミネルヴァと遊ばせて貰おうと、ノノは野営地を外れてジェロームを探していた。どうやらジェロームはこの時代のセルジュ達と関わるつもりは殆ど無いらしく、仲間に加入して数日経っているのに一人で行動する事が多かった。同じく未来から来たアズールが積極的に関わろうとしているのとは対照的だ。尤も、アズールは女性と仲良くなるという邪な想いもあった様だったが。何せミラの大樹の上にある神殿で、ヘンリーに求婚されたリズとガイアに求婚されたティアモの結婚式を挙げた際に、新婦のリズとティアモを口説こうとした程だ。勿論新郎のヘンリーとガイア、そして父親であるフレデリクに怒られていたけれども。リズは散々マリアベルやベルベットに冷やかされ、ティアモはスミアに心から祝福され、二組の新しいカップルはとても幸せそうだったので、アズールもそれに免じて許して貰えた様だ。
飛竜の谷を抜け、南下する道程は、開けた平野が続くらしい。余り開けた辺りに野営を張れば敵軍や偵察隊にすぐ見付かってしまうので、ユーリはサイリと共に行軍のルートを毎日確認していた。どの辺りに山があり、どこからどこまでが開けているのか、どこに村があるのか、逐一偵察をした。その偵察はジェロームがふらりと出て行く事もあったので、彼が居ない事も多々あったのだが、流石に夕暮れが近ければ戻ってきているだろう。そう思ったノノが暫く探していると、野営地から離れた岩場の方から何やら楽しげな笑い声と飛竜の鳴き声が聞こえてきた。聞き覚えがある様な笑い声だったのでそちらに足を運んでみると、探し人であるジェロームの後姿と、彼に並ぶセルジュの後姿があった。
「ジェロームにセルジュ、どうしたの?」
「あらノノちゃん。いえね、あれ」
ノノがセルジュに声を掛けると、セルジュはうふふ、と笑って飛竜の鳴き声がする方を指差した。そちらを見ると、恐らくジェロームのミネルヴァであろう飛竜が一人の男に戯れ付き、さながら取っ組み合いの様な事をしていた。
「あっはは、こーら、止めろ、舐めるな舐めるな!うははは」
「………」
ミネルヴァが多少興奮した様に、楽しそうに戯れ付いている相手はグレゴだった。セルジュのミネルヴァが懐いているのは知っているし同じミネルヴァであるジェロームのミネルヴァが彼に懐くのも当たり前なのだが、あんな風に戯れ合っているのは見た事が無い。ノノがびっくりしているのと同様に、ジェロームも呆然としていた。自分の愛竜のあんな姿を見たのは初めてだったのだろう。
「うふふ、ミネルヴァちゃんったら嬉しそう…。
 当然よね、恩人に再会出来たのだもの」
「おんじん?」
「そうよ。グレゴはミネルヴァちゃんの恩人なの」
「どういう事だ?」
セルジュの発言に、ノノが尋ねる前にジェロームが反応する。ミネルヴァと意思疎通が出来るジェロームでも、それは聞いた事が無いらしい。セルジュはグレゴと戯れているジェロームのミネルヴァを慈しむ様に見ながら言った。
「私が弱ったミネルヴァちゃんを保護するまだ前の事らしいのだけど、
 グレゴが請け負った依頼に飛竜の爪を集めるという仕事があったらしいの。
 命を奪わない事が条件だったそうなのに、グレゴ以外の人は飛竜を沢山殺してしまったみたいで…」
「…ひどい…」
「ミネルヴァちゃんの両親はね、ミネルヴァちゃんを護ろうとしてたらしいの。
 だけどやっぱり殺されてしまって…
 その時に他の傭兵さん達を敵に回してまでも、
 ミネルヴァちゃんを助けてくれたのがグレゴだったんですって」
「………そうなんだ」
相槌はノノのものであったけれども、ジェロームも同じ思いであったのか、仮面の奥に見え隠れする瞳を悟られまいとじっと自分の飛竜を見ている。心から嬉しそうな自分の愛竜があんな姿を見せるのが自分以外の者である事に複雑な想いがある様だ。
「…目の前で、ご両親を殺されてしまったのですって」
「…え?」
「ろくでもない親達だったけど、目の前で殺されるのは辛いものだって…
 ミネルヴァちゃんにも同じ思いをさせたと言っててね。
 一時期、私やミネルヴァちゃんの近くにも寄ってくれなかったのよ。
 思うところがあったのでしょうね」
「………」
弟は自分が死なせた様なものだ、とノノはグレゴの口から聞いた事はあったが、両親も目の前で殺されたというのは初耳だった。別に彼が過去の事を誰に話そうが話すまいがそれは勝手だし、その事についてノノが言及する権利など無い。しかし自分の知らない事をグレゴからではなく他の者の口から知るというのは何だか釈然としなかった。
「だからね、ジェローム。貴方も機会があったらグレゴにお礼を言って頂戴ね?
 あんなにミネルヴァちゃんが喜んで戯れ合う相手なのだもの、
 ヤキモチを妬かずに言ってあげてね」
「な…馬鹿っ」
セルジュが言った、ヤキモチという単語にジェロームが反論するかの様にセルジュに噛み付く。だがジェロームもその自覚があるからこそそんな態度になってしまったのだという事にセルジュは気付いているし、微笑ましく思った。セルジュだって少し妬けるのだから、ジェロームもきっとそうだろうと思ったのだ。主である自分以外の人間に仔竜の様にはしゃぐミネルヴァは、何時にも増して可愛い。
「…ずるい」
「…ノノちゃん?どうしたの?」
「ずるーいっ!!」
しかし、そんなセルジュとジェロームを尻目に、ノノは暫く黙っていたがどうにも我慢出来ずにグレゴとミネルヴァの方へ駆け出してしまった。ミネルヴァと遊ぼうと思って探していて、先客が居たから待っていたのに、その先客が何時まで経ってもミネルヴァと遊ぶのを止めようとしないものだから、ノノの辛抱も限界に達してしまったのだ。
「ずるいずるーいっ!ねえねえ、ノノとも遊んでー!!」
「うおっ!?ちょ、ちょっと待てノノ、一緒に乗っかるな!!」
「遊んでー!!」
「遊ぶから退けー!!」
いくらノノが小さいからと言っても、ミネルヴァと共に圧し掛かられてはさしものグレゴも潰れてしまう。慌てた様にグレゴがミネルヴァの下から這い出ようとすると、ミネルヴァは彼が逃げてしまうのではないかと勘違いして前足でそれを封じてきた。
「ちょまっ…放せミネルヴァちゃん、俺が死ぬ!ぐえっ」
「わーいミネルヴァもっとやれー!」
「殺す気かぁ!?」
グレゴとミネルヴァ、ノノが楽しそうに―否、グレゴだけは楽しそうではなく逆に必死に逃げようとしているが―戯れ合っているのを、セルジュは心の底から微笑ましく見ていた。ノノはずるいと言って駆け出していったが、果たしてその「ずるい」は一体誰に対して言ったものであったのか。ノノは恐らくミネルヴァと遊ぼうと思ってジェロームを探していたのだろうし、そうでなければこんな所まで来ないだろうから、グレゴに対して言ったのだと思うのが道理だ。だが、セルジュは最近グレゴがノノを避けている事を知っている。あからさまに避けている訳ではないが、極力彼女に接する事が無い様にと野営地をぶらついている事が多く、以前の様にノノと行動する事が少なくなった。それは、あのミラの大樹での出来事に起因していると言っても全く差し支えないだろう。
グレゴは、ノノが「こども」から「おとな」になった所を見てしまった。それは別に女であれば誰にでも訪れる時なので何ら不思議な事ではないし、寧ろその事―月経の事を忘れ去っていたという事はセルジュ達にとっても反省すべき事であった。自分達には毎月訪れるのに、ノノにそれがあるとは考えもしなかったから尋ねもしなかった。考慮もせずに男と一緒に戦わせていたのだから、リズやマリアベルも反省した様で、軍師であるユーリの妻のアンナにそれとなく進言して考慮して貰う様に頼んだらしい。矢張り男に対して直接言うのは憚られる。それと同時にどうやらグレゴも気まずいと思った様で、なるべく一緒の隊で行動させないで欲しいとユーリに進言していた様だ。
女に対してまるで口説くみたいに気軽に声を掛ける癖に、肝心な所で臆病ね。セルジュはそう思って小さく笑う。つい二日程前に、あんまりにもグレゴがノノを避けている様であったからセルジュがそれとなく言ってみたのだ。ノノちゃんを放ったらかしにしているんじゃない?と。するとグレゴは保護者じゃねぇんだ俺は…、と不服そうにぼそっと反論した。


『別に俺らは四六時中一緒に居る訳じゃねぇよ。
 ノノはノノ、俺は俺で行動もするさ』
『だけどノノちゃんは貴方を探していたわよ?』
『そりゃー配給の果物剥いてくれってだけだろー?』
『あらまあ、そんな事分かるの。流石ね』
『………』
『何をそんなに怯えているの?
 あの事があってから、途端に余所余所しくなったわよね?
 私だけじゃなくて、皆そう思ってるみたいだけど』
『そーかぁ?そもそも今までがべったりしすぎだったろ、あいつが』
『あらまあ、ノノちゃんの所為にするなんて。貴方らしくないのね』
『…あーのなぁ…そもそもノノには好きな奴が居るんだよ、
 俺みてぇなおじさんとどうこう言われんのは迷惑だろ…』
『あら、まあ…』


会話の中で得られたグレゴの回答は、セルジュにとって意外なものだった。しかしノノに好きな相手が居たと、いうのが意外な事ではなく、グレゴがその事に対して遠慮しているという事が意外だった。ノノは(セルジュもつい忘れてしまうが)長い時を生きているから、人間の恋人の一人や二人、居た事だってあるだろう。だが、居たとしてもその者達は既に居ないのだ。グレゴとの会話の後にそれとなく、ミラの大樹での戦闘時にノノの介抱を任せていたリズに知っているかどうか尋ねると、300年程前に居たらしいと聞いた。だから、ノノのその「好きな人」はもう居ないのだ。人間でさえ一生に愛せる人の数は必ずしも一ではないのだから、悠久の時を生きるマムクートのノノであれば尚更だろう。本当に妙な所で臆病な男だとセルジュは思った。
ただ、セルジュはグレゴが幼少期に余り良い環境に居なかった事も知っている。ほんの少ししか聞かなかったが、彼の口からは父親はろくでなしだったと伝えられた。親が子供を虐待していたなら、長じた子供が親になった時に自分の子供に対して虐待するケースは多いと聞く。多分彼はそれも恐れているのではないか、セルジュはそう考えている。そしてそれは、見事に当たっていた。
「おい、セルジュ!この際えーと、ジェロームか!お前でも良い!
 ちょーっと助けろ!」
「どうしようかしら。どうする、ジェローム?」
「…お前の好きにすれば良いだろう」
「あらまあ…。ヤキモチ妬いてるからって、大人げないのね」
「ヤキモチなど…」
「おい人の話聞いてるかぁ?!」
セルジュとジェロームが自分の要請をまるで無視している様に会話しているのを見て、グレゴが思わず二人に大声を出す。それを聞いたジェロームが、渋々と歩み寄ってミネルヴァを咎めた。ノノは不服そうであったが、グレゴからもう一度「殺す気か!」と言われたので、改めて「遊んで?」と頼み、彼も不承不承ではあったが了承する。それを見て、セルジュがまたうふふ、と笑った。
「ノノちゃん、ジェロームがそろそろミネルヴァちゃんを返して欲しいらしいの。
 だから、私のミネルヴァちゃんと遊んであげてくれないかしら?
 グレゴも、お願いね」
「えっ、俺もかぁ?」
「だって、ノノちゃんと遊ぶんでしょう?今そう言っていたじゃない」
「…わーかったよ…」
セルジュとしては助け舟を出したつもりだったが、グレゴにしてみればどうせならミネルヴァと二人(正確には一人と一匹)で遊んで欲しいという思いがあったのだろう、短髪の頭を掻きながら行くぞ、とノノを促した。ノノも嬉しそうににこにこ笑いながらミネルヴァと遊ぶの久しぶりだねーなどと言い、彼と並んで歩いて行く。セルジュはそんな二人の後姿を微笑ましく見ていたのだが、ジェロームが何か難しい顔をして考えているのに気が付き、首を傾げた。
「あら、どうしたのジェローム?」
「…あの二人はンンの両親か?」
「ん…?何を唸っているの?」
「誰が唸っていると言うんだ。ンンだ、ンン。
 私達のなか… …いや、私と同じ様に未来から来たマムクートの子供だ」
ジェロームが言いかけた言葉を訂正したのは、恐らく「仲間」という言葉を使うのがむず痒かったからなのだろう。しかしセルジュの関心は残念ながらそこではなかった。
「マムクートの子供が居たのね?その子は人間とのハーフ?」
「ああ。髪の色があの男と同じだ」
セルジュはジェロームのその返事に、言葉も無く黙って頷いた。ジェロームは父親であるヴィオールの、ルキナは父親であるクロムの、アズールは父親であるフレデリクの、ブレディは父親であるリヒトの髪の色と同じ髪の色だ。どうやら子供達は父親と同じ髪の色で生まれてくるらしい。ならばそのンンという子供の髪の色もまた、父親のものと同じである可能性は高い。という事は、つまり。
「…ジェローム。その事、暫く黙っていてくれるかしら。
 特にあの二人には」
「何故だ?」
「何故って、あの二人、まだそういう仲ではないもの」
「なっ…?あ、あんなに睦まじいのにか?!」
「あらまあ、ジェロームにまでそう思われているのね。
 そうよ、あんなに睦まじいのにまだなの」
「…そ、そうか。ならば黙っておこう」
珍しくジェロームが驚いた様な表情で―否、目元は見えなかったのだが―セルジュに思わず聞き返したが、セルジュはジェロームもそういう事をきちんと思える人間であった事に胸を撫で下ろしていた。ジェロームはどちらかと言えば寡黙で、余り仲間内でも会話を交わそうとしないし、感情を表に出そうとしない。だから余りこういう事には興味が無いのかと思っていたのだが、そうでもなかった様だ。
しかし、恐らく結ばれるのだろうと思っていた二人がこれでやっと「恐らく」ではなく「確実」になった訳だ。それが何時になるのかはセルジュには分からないが、グレゴのあの様子ではすぐにという訳にもいきそうにない。本当に変な所で臆病ね、とセルジュは一人で苦笑し、ジェロームのミネルヴァに困ったおじさんよね、と語り掛けると、ミネルヴァもセルジュに同調する様に小さく鳴いた。その光景を、ジェロームは矢張り憮然とした表情で見ていた。



「あー、楽しかったー!ありがとう、ミネルヴァにグレゴ」
「おーう…」
その小さな体のどこにそんな元気が詰まっているというのか、ノノは久しぶりに力いっぱい遊んでご機嫌でミネルヴァの背に乗って野営地に向かっている。グレゴはぐったりしながらそのミネルヴァの手綱を引いて歩いていた。夕暮れが近かったのに遊ぼうと言われ、結局半時(一時間)は走り回っていただろうか、とっぷりと日が暮れていた。先を急ぐ行軍であるのに筋肉痛で動きが鈍くなったなどプロの傭兵にあるまじき事なので、グレゴは今日はじっくりと筋肉を温めて解して念入りにマッサージしようと心に決めた。屍兵相手の戦闘でもここまで疲労はしないのに、ノノが力いっぱい遊ぶと必ずこうなる。それほど最近ノノと遊んでいなかったという証拠ではあるのだが。
「グレゴ、大丈夫?疲れちゃった?」
「あー…まあ、流石になー…」
「マッサージする?ノノ、踏んであげようか?
 肩とか腰とか、変身したら結構強く踏めるよ?」
「やめろ殺す気か」
ノノが竜に変身した状態で踏まれたら確実に骨折する。しかもノノはそれを本気で、善意で言っているのだから性質が悪い。グレゴの言葉を受けてノノはむうーとむくれていたが、厚意だけは受け取っとくぜと言ったら機嫌を直してくれた。
セルジュから言われた通り、グレゴはミラの大樹の戦闘後からずっとノノを避けている。セルジュとミネルヴァに引っ張られて戦闘後にノノの元へは行ったが、抱き上げてくれた時に暴れてしまった事、途中で戦線を離脱してしまった事を謝られた後に、仲直りの握手しよう?と差し出された手を暫く握れなかった。暫くと言っても5秒程だったが、その5秒はノノの顔を曇らせるには十分な時間だった。一応要求通りに握手もしたし、無理はすんなよとは言ったけれども、どうしてもその後ノノと行動を共にするのは憚られて、何か適当な理由を見つけては遊ぼうと言ってくる彼女を避けていた。その結果がこうだ。流石に放置しすぎたらしい。
「でも良かったー。もう遊んでくれないかと思ってた」
「…あ?」
「だってグレゴ、ずーっと訓練もしてくれなかったもん。
 前はそんな事無かったのに」
「そりゃー…あれだ、俺だってここんとこの行軍で疲れてるわな」
「もうおじさんだもんね」
「おじさん言うな。それ言ったらあんたはおばぁぁぁぁさんだろ」
「ノノはお姉さんだもん!」
「へーへー…」
ノノの言葉にグレゴは適当な理由でまた誤魔化す。勿論疲れているというのは嘘ではないし、ロンクーやオリヴィエ同様、グレゴだってバジーリオの消息については内心かなり心配しているから、心労だって溜まっている。あのバジーリオが簡単にやられるとは思わないが、戦場では何があるか分からない。まして、覇王と呼ばれるヴァルハルト相手だ。シュヴァイン要塞で心配そうに見送ったロンクー達の後ろにグレゴも言葉も無く佇み見送ったが、それに気が付いたバジーリオはにやっと笑って手を挙げてから背を向けた。殊勝な事もあるもんだと言いたげなその笑みは昔と変わらず、だからグレゴもバジーリオの強さは昔と変わらないと信じたいのだ。ユーリも勝てなくても良い、時間を稼げれば、と言った。しかし負けながらの撤退というのは難しい、それは傭兵であるグレゴも嫌という程知っている。
「…グレゴ、大丈夫?本当に疲れちゃった?」
「…あ?あぁ…だーいじょぶだ、あんま心配すんな」
神妙な面持ちで黙ってしまったグレゴの顔色を伺いながらノノが尋ねてきたので、グレゴも無理に笑って返事をする。それでもノノは矢張り少し心配し、無理させちゃったかな、と心の中で反省した。
以前からそうなのだが、グレゴはどれだけ疲れていてもノノが遊ぼうと言うとしょーがねーなーと言いながら付き合ってくれるのだ。仮令屍兵との戦闘が終わって野営を張っている時に遊ぼうと言っても、疲れている筈なのに良い訓練になるしなーと言って付き合ってくれる。草臥れきっている時は流石に無理かと思ってノノが声を掛けるのを遠慮していたら、彼女の目線に気が付いたグレゴは顔の前で手を合わせて「すまん!四半刻(30分)…いやその半分で良い、寝かせてくれ!その後なら遊んでやるから!」と言って本当に少し寝た後に遊んでくれた。ノノだってそれくらいは我慢出来るし他の者に遊んで貰えば良いので寝てても良いよと言ったが、他の者も同様に疲れている筈だし、特にユーリとクロムはゆっくり休ませたいからと言って相手をしてくれた。初対面の時にノノが逃げてしまった程の強面の持ち主ではあるが、その実とても優しい男であるという事を今のノノは知っている。グレゴのそういう所が、ノノは好きだ。だがそんなグレゴがここ最近ずっと自分を避けていて、本当に久しぶりに遊んで貰ったものだから、ついはしゃぎすぎてしまった。
「ちゃーんと飯食えよ。俺ぁもう寝るわ」
「えー?ご飯食べないの?」
「たまには胃腸を休ませにゃあなー。
 夜番だから真夜中に交代するし、どうしても腹減ったらそん時に何か食うさ」
「パン残しといてあげようか?」
「いやー、あんた食っとけよ。俺の事ぁ気にすんな」
野営地に程近い、馬や天馬達を休ませる場所にミネルヴァを休ませ、良い匂いが漂う方へ二人は足を運んだが、グレゴはいよいよ体力の限界を感じて見張り交代の時間まで眠る事に決めた。あれ程走り回ったのだから腹も空く筈なのだが、残念な事に食欲が沸かない。二人が戻ってきた事に気が付いたセルジュが手を挙げてくれたけれども、グレゴはほれ、とノノの背を軽く押してから夜番要員の休眠用の天幕へと足を向けた。
「ゆっくり休んでね!今日は有難う」
「おーう、お休みー」
背に掛けられた労いの言葉に、グレゴは顔は向けなかったが手をひらひらと振って応える。その程度には草臥れていた。そして自分と交代する予定の兵士に声を掛け、時間になったら呼びに来る様に頼み、天幕へと引っ込む。流石に食事の時間とあって先客は誰も居らず、グレゴは隅の方でどっかり座って首を回し、取り敢えず筋肉を解す為に軽くストレッチをした。ノノと遊ぶととにかく全身の筋肉を使うものだから、マッサージは見張りの時にやるとして、体を少し休ませねばならない。若い頃はこれくらい無茶しても翌日には平気だったんだが、寄る年波には勝てねぇなあ、と何とも切ない苦笑が漏れた。
ノノは基本的に誰とでも楽しく遊べるから、別にグレゴが遊んでやらねばならない義理は無い。それでも何故かノノは遊んでと寄ってくるし、その姿がどうしても死んだ弟の幼かった頃とかぶってしまい、遊んでやらんと、というある種の強迫観念の様な思いが沸いてしまう。同じ様に、リヒトの背格好も死んだ弟と同じくらいであるものだから、何となく世話を焼きたくなってしまう。弟離れ出来ていないというのはグレゴ自身が一番分かっているのだが、こればかりはどうしようもない。多分一生治らないだろう。
しかしいくら避けていたからとは言え、ここまで力いっぱい筋肉痛になりそうな程走り回される羽目になるとは思っていなかったグレゴは、前の様な頻度は無理にしてもたまには遊んでやらないと駄目だという事を学んだ。ノノにとってみればグレゴはグレゴ、であるらしく、他の者に対しても同様だ。例えばセルジュと遊んでなければセルジュに突進して行くし、サーリャが構っていなければサーリャに遊んでと言いに行く。…だからこそ、尚更性質が悪いとグレゴは思う。
ミラの神殿跡でオリヴィエとフレデリクの結婚式を挙げた時、リズがどうにも暗い顔をしていたので何事かと思ってグレゴがさり気なくリズにどうしたのか尋ねたのだ。傍から見ていて、リズはどうもフレデリクの事が好きであった様だったからそれで落ち込んでいるのかと思っていたのだが、そうではなかった。


『あのね…私、ノノちゃんに物凄く無神経な事聞いちゃったの。
 だから自分で自分が情けなくて…』
『無神経?』
『うん…ノノちゃんに、好きな人居るのって聞いたの。
 そしたら…300年前に居たよ、って…』
『…あー。そうか、あいつあれでも千年以上生きてるんだよな…』
『置いてかれちゃった、って。
 でも今は、皆が居るから寂しくないよ、って。
 きっと悲しい筈なのに、気を遣わせちゃって…
 私、情けないなあって…』
『あー、泣くな泣くな。俺が泣かせたみたいだろー?』
『ねえグレゴさん、ノノちゃんといっぱい遊んであげてね?
 ノノちゃん、グレゴさんと遊んでる時が一番楽しそうだから…』


マムクートのノノと人間である自分達の時間の流れというのは、同じだけれども全く違う。ノノにとってその300年というのはつい最近の事であったのか、それとも随分昔の事であるのか、それは本人にしか分からないけれども、少なくとも今まで一人で寂しかったから色んな者達に声を掛けて遊んで貰おうとしているというのは分かる。だが、両親が居ない寂しさからくるものなのか、それともその好きだった男がもう居ない寂しさからくるものなのかは、残念ながらグレゴには分からなかった。
多分、ノノはもう居ないその男の事が今でも好きなのだろう。だったらそれで良いのではないかとグレゴは思う。セルジュにも言ったが、好きな相手が(仮令もう存在しなくても)居るのであれば、自分の様な男とどうこう言われるのは迷惑な話だろう。グレゴは誰が相手であろうと憚らずに自分は汚い人間だと公言してきたけれども、その考えを改めるつもりもないし訂正する必要も全く無いと考えているものだから、尚の事そう思ってしまう。人の道を外れた様な依頼は受けてこなかったとは言え、殺しは何度もした。戦争であるからそれは当たり前なのかも知れないのだが、親も殆ど見殺しにした様なものだし、弟も自分が殺した様なものだ。そんな男が今更誰かの、否、ノノの手を取り、繋ごうと考えるなど。


―――いや、待て、なーんでそうなる?


そこまで考えて、グレゴははたと考えが横道に逸れている事に気が付き、ぴたりと動きを止めた。伸ばした腕の筋肉がぴりっと痛んだのだが、その痛みに気付くのが遅れる程、彼は呆然としてしまった。これではまるで、自分がノノの事を好きだと認めている様なものではないか。
こどもだと認識していたノノが、あの日いきなり「女」になってしまった。だからグレゴはそれまで何でもない様に繋いでいた手を、途端に繋ぐ事が出来なくなってしまった。…否、自分にとって手を繋ぐ事がどういう意味があるのかをノノに言っていたのだから、何でもないと思い込んでいただけなのかも知れない。とにかく今はノノと繋ぐ事を躊躇ってしまう。サーリャが言った、ノノの子供の父親が自分であるという事が現実のものになってしまいそうで、恐ろしかった。それはジェロームが言った様に現実となるのだが、今の彼に知る由は無いのだ。
今クロムが率いているイーリス軍の中でも年長の部類に入るグレゴは、それでも今まで惚れた女というのが居ない。面倒臭いと思っていたし、自分の父親を見て育っているので親にはなりたくなかったから、女に本気になる事が無かった。女に口説く様に話しかける事は日常茶飯事でも、心のどこかで本気にならない様にシャットアウトしていた。だからこそ、「女」として認識していなかったノノがその閉じられたグレゴの心の扉をすり抜けて入ってきてしまったのかも知れない。しかもその入り込んできた「こども」がそこで「女」になってしまったのだ、グレゴにしてみれば青天の霹靂としか言い様がない。その上、ノノのもう存命ではない恋人に対して妙な遠慮をしてしまうなど。


―――…正気か?俺…


恐らく周りの者からしてみれば一様に「遅い」と思ってしまうのだろうが、グレゴ自身は今漸く気が付いた上、確信ではなく曖昧な感じで気が付いた。背中にひやりとした汗が流れたのを感じた後、どっと嫌な汗が吹き出てきて、ぞっとする。疲れている所為だ、とグレゴは頭を振って伸ばしていた腕をやっと下ろし、そのまま天幕の隅で横になって剣を抱き、無理矢理目を閉じた。夜番の交代まであと二刻(四時間)程ある筈だ。それまでは死んだ様に、泥の様に眠りたいと思っていた。何も考えたくは、なかった。