最近、どことなくだが、ロンクーが何だか落ち着きがないと言うか、端から見れば至って普段通りなのだろうがベルベットの目を通せばそわそわしている様な印象がある。ベルベットと同じで騒々しい所は苦手で静かな環境を好む彼が、進軍の途中で通り掛かった街に珍しくふらりと姿を消したり、かと思えば常に鍛練の時間を欠かさないのに空き時間に何かの書物を読んでいたり、じっとこちらを見ているかと思えば慌てて視線を逸らしたり、本当に何と言うか落ち着きがなかった。かと言ってお互い若いとは言え良い年をした大人であるからそんな事で口論をしても馬鹿馬鹿しいので、余りにもこの状態が続くのであれば注意しようかと思っていたのだが特に何かあった訳でもないのでベルベットも黙っていた。

女嫌いと名高いロンクーと人間嫌いと周知されていたベルベットが結婚したというのはイーリス軍(当時は自警団と言っていたが)の者達に大いに衝撃を与えたし、ペレジアとイーリスの戦争が終わってからヴァルム軍が攻めこんでくるまでの2年の間にいつの間にか結婚していたので、またそれも皆を驚かせた。勿論散々冷やかされたが、ロンクーと結婚したからと言ってベルベットの人間嫌いが治ったかと言えばそうでもなかったから、祝福してくる者達の質問攻めをそれとなくロンクーが遮ってくれた。そういう気配りは出来たらしいと知って驚いた彼女はその後で礼を言ったのだが、彼は何と答えたものやら分からず困った様な顔をして気にするな、とだけ言った。
元から口数が余り多くないロンクーは、同じく何を話して良いのか分からずに沈黙するベルベットと長時間話す事は少ない。それでも、魘されない様にと野草茶を淹れて渡せば礼を言って安心したかの様に茶を啜る。そんな彼の隣で同じ茶を飲む時間がベルベットは好きだった。結婚した時に約束した様にフェリアの茶はロンクーが淹れてくれるし、野草茶はベルベットが淹れる。だから、朝の茶はロンクーが淹れて夜の茶はベルベットが淹れる事が習慣になっていた。そんな時間を、2人は好んだ。

とは言え、会話が無ければお互いのずれなど分かる筈も無く、特にベルベットは人間とタグエルの違いに良く悩まされた。タグエルにとっての常識と人間にとっての常識はまた少し違うし、ベルベットには理解出来ない事も多い。それを口にすると、ロンクーは困惑した様に眉間に皺を寄せ、お前が嫌なら従う必要は無いと譲歩してくれた。
それはタグエルだから、人間ではないから譲歩してくれているのではなくて、妻だから譲歩してくれているのだろうとベルベットが気が付くまでには多少の時間がかかった。何せ本当に会話らしい会話というものが無い夫婦であるので、お互いの考えている事はいまいち分からない。口下手であり素直ではないと自覚しているベルベットは何かと突っかかってしまう様な口振りになってしまい、それでロンクーを困らせたり怒らせたりする事も多く、その度口喧嘩の様な事もした。ただ、ベルベットが謝る前にロンクーが謝罪のつもりなのか茶を淹れて無言で渡してきてくれるので、毎回謝り損ねてしまう。それをオリヴィエやティアモに相談すると、2人は意外そうな顔をして黙った後に遅れて謝っても別に悪い事ではないのだから謝っても良いんですよと言ってくれた。それ以降、喧嘩をした後に茶を淹れてくれたロンクーにまず謝ると、喧嘩が減った。何だか結婚してから所謂「お付き合い」をしている様だと思った。

そんな関係の夫婦なのだが、ここ最近はロンクーがよそよそしいと言うか、はっきりしない態度で話すので、ベルベットも多少辟易していた。思った事をずばずばと言うベルベットがぐっと耐えて言いたい事があるなら言いなさいと口にせず、彼からのアクションを待っている。何か意味があると思ったからだ。
果たしてそれは的中していた様で、ベルベットがロンクーの態度がおかしいと思った時から実に6日は経ったその日の夜、彼女がそろそろ眠ろうと寝台に横たわろうとしたその時、見廻りの番にあたっている筈のロンクーが何故か天幕に戻ってきた。

「…どうしたの?まだ交代の時間じゃないでしょう?」
「…早めに交代して貰った」
「ふうん…?でも、貴方の分のお茶が無いの。沸かしてくる?」
「いや…、良い。大丈夫だ」

夫婦になって随分褥を共にしたというのに、何故か緊張した面持ちのロンクーからベルベットの耳に届く鼓動は心なし速い。初めて茶を淹れてやった時の様に緊張しているのが目に見えて分かったのだが何を今更緊張するのかと訝しんでいると、何も言わずにいても話が進まないと思ったのだろう、意を決した様に彼が言った。

「その…、う、後ろから抱き締めても良いか」
「………は?」
「だ、だから…背後から…」

顔を赤くして尋ねられたその質問に思わず間抜けな声を出してしまったベルベットに対し、言葉が足りなかったかと誤解したロンクーはそれでもどうやって言い換えたものやら分からないのか言葉に詰まっている。しかしベルベットだって今更何故そんな事を聞かれたのか全く以て分からなかった。

「別に、貴方なら良いわよ。何をそんなに遠慮して緊張するの」
「いや…タグエルは誰かが後ろに居るのは余り落ち着かないらしいと書物で読んだものでな」
「…ああ、それは勿論そうだけど…誰にでもそうという訳じゃないわよ。
 貴方なら断る理由が無いし」
「…そうか」

どうやらここ数日読んでいた書物はタグエルに関して書かれいているものであった様で、そういう事はちゃんと調べようとするのねとベルベット妙な感心をした。そんな彼女の回答に緊張した顔を緩めてほっとした表情を見せたロンクーは、遠慮がちにではあるがベルベットの背後に立つと震える腕でそっと細い体を抱き締めた。

「貴方、それ聞く為に最近そわそわしてたの?」
「聞いて良いのかどうかも分からんし、その、…は、恥ずかしくてな」
「でも聞くのね。面白い人だわ」
「お、俺だって男だから好いた女を抱き締めたいと思う事はある」
「そう。6日掛かって抱き締められたんだから、精々堪能して頂戴」

抱き合って寝る事は多いが、確かに後ろから抱き締められた事は無かったとベルベットは思う。背後に寄られる事が苦手なのは別にタグエルだけではないだろうけれども、こちらが嫌がる事は極力避けようとして調べてくれて、あまつさえ許可をとろうとした姿勢は有難い。他の者であればこんなにも時間を掛けて考えないであろうし、すぐに実行に移すだろうから、いかにもロンクーらしい。照れ臭いやらで嬉しいやらで苦笑してしまったベルベットは、しかしゆっくりと手首に通されたそれを見て首を傾げた。

「なに、これ」
「…腕輪だ」
「見れば分かるわよ。くれるの?」
「お前に買ったものだからな。…女が居る店は…入るのが勇気がいる、な…」
「…街に出掛けてたのって、これを買ってたの?わざわざ?」
「…今日は、お前が俺に応えてくれた日だからな」
「………」

手首に通されたのは、綺麗な石で作られた腕輪だった。女物が売っている店に入るなど、ロンクーの人生で恐らく二度目なのではなかろうか。一度目は、勿論指輪を買った時に他ならない。しかしタグエルは金属が苦手であると知っているからそのチョイスになったのだとは思うが、贈り物をされるには身に覚えがない日であるので矢張り訝しんでしまったベルベットは、ロンクーの簡素な言葉に耳を疑った。なるほど、人間で言うところの「結婚記念日」にこの腕輪をくれたらしい。

「…人間の集団の中で生きるのはお前にとって窮屈かも知れんし、不快な事も不便な事も多かろうが…、
 それでも俺の側に居てくれる事に感謝している。礼を言わせてくれ」
「………」
「…な、何だ、どうした、どこか痛いのか」
「貴方が私をとても大事にしてくれてるんだわって思っただけ。
 嬉しくて泣いてるのよ」
「…そ、そうか…」

酷く穏やかな声が耳元で響き、背に伝わる鼓動が心地良い。何より嘘偽りの色が全く感じられない言葉が体の中に染みていくのが分かって、思わず眼の奥が熱くなり涙がこぼれた。慌てたのはロンクーで、動揺した様に顔を覗き込まれたのだが、ベルベットはその涙を拭う事無く微かに笑みを浮かべて首を横に振り、嵌めてくれた腕輪を慈しむ様に指先で撫でた。冷たい石の温度は、それでも彼女の心を温めてくれた。

「…私がタグエルなのはどう足掻いたって変わらないし、私もこの血を誇りに思っているけど…、
 その所為で貴方に迷惑を掛ける事も多いと思うのよ。
 それでも大事にしてくれて嬉しいわ。ありがとう」
「迷惑を掛けられた覚えは一度も無いし気にした事も無い。
 お前も知っているだろう、俺の判別基準は人間かタグエルかではなくて男か女かだ」
「ふふ、そうだったわね」
「好いた女を守れん様な男に成り下がるつもりは毛頭無い。負けるつもりも無い。
 だから、その… …これからも、側に居て欲しい」
「…ええ。喜んで」

人間と日常生活を送る様になってからそこそこ経つが、矢張りベルベットは未だに人間の目に触れる事が余り好きではなかった。イーリス軍に手を貸すという形で加入した当時はただ単に人間が好きではないという事、そして好奇の目に晒されるのが嫌だという事も手伝って1人で過ごす時間が多かったけれども、今はそれよりもタグエルが居ると知れて襲撃されるのは不本意この上ないという思いが強い。ベルベットの里を襲撃して滅ぼした人間達は、タグエルが獣化した際の毛皮が一部の人間達にとって酷く高価で取引されるからという理由で攻めてきたのだ。今は恐らく自分1人だろうタグエルを狙うかどうかなどベルベットには分からないが、目先の利益を優先する者など掃いて捨てる程居るという事は知っている。だから外の人間に知られて、万一襲撃されたのなら、軍の他の者達に迷惑がかかってしまう。その事を彼女は懸念していたから、軍師であるルフレにその旨を伝え、彼もそれとなく彼女の懸念を皆に伝えていた。

今、ベルベットのその懸念は西フェリア王の後継者という立場にあるロンクーに注がれている。後を継ぐ、継がないは別として、彼は恐らく西フェリアの中でもそれなりの地位に立つだろう。その時、果たして人間ではない自分が側に居て大丈夫なのか、標的にされるのは構わないが被害を彼も被ってしまわないか、それが心配だった。だがその心配を全て払拭してしまう程の力を持ったロンクーの言葉に、ベルベットは深く頷いた。里が滅んだ時に家族や同胞と共に死ねなかった事を後悔した事は数え切れない程あったけれども、生きていて良かったと思う回数は増え続けているし、そう思う時はいつもこの男が側に居る。里を滅ぼしタグエルとしての尊厳を奪ったのは人間だが、自分の心を救い、慈しみ、抱き締めてくれるのもまた人間だと、穏やかな温もりと鼓動に包まれたままベルベットは思っていた。