face to face

 ―――困りましたね、見当たりません。

 夜も更け、水浴びから天幕に戻ったミリエルは、愛用の眼鏡を探していた。水浴びに行く時は必ず誰かと行動する為に眼鏡をしていなくても良いので、天幕に置いて行く事にしている。眼鏡は高価なものであり、従軍している以上は壊してしまうと作り替える事は困難であるから、なるべく大事に扱っているのだ。いくらスペアがあるとは言え、使い慣れた物の方が良い。

 さて、困りましたね。

 ふむ、と顎に手をあてて、取り敢えず落ち着こうとミリエルは寝台に座る。座る前に寝台の上に眼鏡は無いか確かめてから、ではあるが。水浴びに行く前に、組立式の台の上に置いたのは確かなのだ。その際、伴侶であるカラムにも眼鏡はここに置いて行く旨を伝えた。だから、それは間違いないのだが。
 水浴びから戻ってきたら、その眼鏡の代わりに少しだけ天幕から抜けるという置き書きがあって、夫と共に眼鏡が見当たらないと言う訳だ。天幕を留守にするから一緒に持ち出たのかも知れない。仲間内を疑う訳ではないが、貴重品は常に身につけているに越した事はない。戻ってきたらカラムに聞こうと決めたは良いが、待っている時間に眼鏡が無いのでは本も読めない。この時間が惜しいとミリエルは寝台に座ったまま、珍しく足をぶらぶらさせた。

「――あれ、ミリエル、帰ってたの……」

 どれだけ待っていたか、時間にして5分も経っていないと思うのだが、天幕の入り口を捲ってカラムがその長身を見せた。眼鏡をかけていないミリエルには彼の姿はぼやけて見えて、しかし声できちんと夫だという事が分かる。
 たまにミリエルは、全ての人はカラムがこんな風に見えているのではないかと思う。影が薄いという表現は曖昧でも、こんな風にぼやけて見える、と自分が分かれば他人にも説明はしやすそうだ。自分にとっても注意して見ていなければ見失ってしまう程だったこの男は、いつの頃からか見失わなくなった。誰からも存在を認識され難いカラムが興味深くてじっと観察していたら、特に何の意識をしなくても見付ける事が出来る様になった。腕を組んで捕まえておかなくても良くなったのだ。

―――って、今はそんな事はどうでも良いのでした。

「カラムさん、私の眼鏡を知りませんか?」

 まだカラムを観察していた頃の事を思い出してみると、端から見たら何と恥ずかしい事をしていたのかという気分になり、ミリエルは軽く頭を横に振り、この天幕に戻ってきた時からの失せ物を尋ねた。すると彼は、ああ、と思い至った様な声を上げて手に持っていた盆を台の上に置いた。

「そろそろミリエルも戻ってくるだろうから、お茶淹れて来ようと思ってね……」

 盆には淹れたてであろう茶が入ったカップが2つ載せられており、その内の1つをミリエルに寄越したカラムは熱いから気を付けてね、と言った。有難くそのカップを受け取ったミリエルは、しかし尋ねたのはこれではないと眉を顰める。

「お茶は嬉しいのですが、眼鏡は……」
「あるよ……ここに……」

 カップを両手で持ちながら隣に座ったカラムに失せ物の行方を聞くと、彼はポケットから見覚えのあるケースを取り出した。ミリエルの愛用の眼鏡ケースだ。ああこれで本が読める、と思ったミリエルは有難う御座いますと手を出したのだが、カラムは何故かそれを寄越してくれなかった。

「……あの、カラムさん」
「何?」
「いえ……眼鏡を返して頂けませんか?」
「どうして?」
「……どうしてと言われましても……」

 そして予想外のカラムの言動に、説明に困ってしまった。普段ならばすぐに返してくれるのに、何故か今日は返してくれない。
 手の中のカップは相変わらず茶の良い匂いを昇らせ、ミリエルの鼻腔をくすぐっている。彼女はこの匂いを嗅いで、味わいながら本を読むのが好きだ。カラムが淹れてきてくれる茶は美味しいし、楽しみの内の1つでもある。しかし、考えたら最近は行軍がきつくてそんな余裕は無かった。久しぶりに少しゆっくり出来そうだという事で、こうやって今夜は野営の各自の天幕で休めている。

「……ミリエルさ……、本を読み出すと、夢中になっちゃうから……
 たまには僕と、ゆっくりお茶でも飲んで欲しくてね……」
「……すみません」
「謝る事は無いよ」
「ですが、眼鏡が無ければ足元も覚束ないですし、危ないので返して頂けませんか?
 それに……」

 どうやらカラムはミリエルが本の虫になってしまう事に多少の不満を抱いていたらしい。ミリエルは自分が本を読み始めて様々な事を検証し始めると周りが見えなくなるという自覚があったものだから、カラムを放っておいた事に対して素直に謝罪した。しかし、それはそれ、これはこれだ。眼鏡が無ければ天幕の中、否、すぐ隣に座っているカラムの顔でさえぼやけて見える。ミリエルは言いかけた言葉が何となく恥ずかしいものの様に思えて、口を噤んでしまった。

「それに……何?」
「いえ……」

 だが、カラムは優しい口調でミリエルの言葉の先を促した。何気ない聞き返しではあるが、ミリエルは言えなかった言葉の内容を思うと何だか意地悪をされている様な気分になってしまう。言うのは恥ずかしいし、かと言ってこれでも変なところで頑固なカラムは、多分言わない限り尋ねてくるだろう。仕方なく、ミリエルは一口だけ茶を飲んでから口を開いた。

「……眼鏡が無ければ、カラムさんが良く見えません」


 ただでさえ、貴方は他の人にとっては見失いやすいのに。
 私まで貴方を見失ってしまったら、誰が貴方を見付けられると言うんです?


 後に続けたかった言葉は、流石に口から出す事は出来なかった。穏やかで優しい夫は、その存在感の薄さから、軍の中で飛び抜けて他人から忘れ去られる事が多かった。それに対して本人は何も文句を言わないし、僕は存在感が無いから、と小さく笑うだけで、ミリエルに対しても不満を言った事が無い。彼にとって昔から当たり前であったその事実は、しかしミリエルにしてみれば漠然とした不安を抱かせてしまう。このまま、彼が居なくなってしまうのではないか。自分の与り知らぬ所で、姿を消してしまうのではないか。そんな不安を、ミリエルの心に沸き起こさせるのだ。
 そんな不確実で曖昧な感情を、ミリエルは嫌う。そんなありもしない様な事を想像して不安に駆られるなど、彼女にはあってはならない事なのだ。しかし、今のミリエルにははっきりとその不安が存在した。普段は本を読み耽ってカラムと会話をしていないのに、随分身勝手だとミリエルは自分で自分に心の中で叱責した。

「……そう。じゃあ……」
「………っ」
「……これで、見える?」

 カラムはそんなミリエルの肩を抱き、そして彼女が手の中のカップを落とさない様に十分注意しながら自分の方へと引き寄せ、そして顔をぐっと近付けた。柔和な顔がすぐ目の前にあって、何故か動揺してしまう。鼓動が速くなるのを感じ、これは緊張している証拠ですねとどこかずれた考えが頭を掠ったミリエルは困った様な顔をした。

「み、見えますが……こ、これでは近すぎます」
「でも、良く見えるでしょ……?」
「……はい……」

 水浴びで冷えてしまった体を温める様にミリエルの肩を抱いたカラムは、開いた片手で彼女の眼鏡ケースを傍らの台の上に置いた。ヴァルム大陸に移動してからというもの、慣れない大陸での行軍は軍の兵士達の体力を少しずつではあるが蝕んでいき、疲労もそれなりに溜まっている。だがミリエルはそれと気付かず、相変わらず深夜まで本を読んでは朝早くに起きている。それでは疲れも取れる筈がないし、このままでは本人の疲労の自覚も無いまま倒れかねない。だからカラムはミリエルに、今夜くらいは本も読まずにゆっくり休んで欲しくて眼鏡を隠したのだ。案の定、彼女は眼鏡の返還を要求したけれども。
 目の前に、困った様な、照れている様な、そんな表情のミリエルの顔がある。目線は泳ぎそうになっているものの、逸らしたくないのか逸らせないのか、カラムに注がれたままだ。有効的な時間の使い方ではないとか、このままでは睡眠の効率が良くないとか、そんな事を言われる覚悟はしていたのだが、意外にもミリエルは一言もそういった事を言わなかった。彼女との時間を大事にしたいと常日頃から思っていたカラムは、この時間を拒絶されなくて良かった、と安堵した。

「………、」

 少しぬるくなってしまったカップを取り上げ、組み立て式の台の上に置いた眼鏡ケースの横に置きながら、彼女の唇に自分のそれで軽く触れる。ミリエルは驚いた様な顔をしたものの、拒みはしなかった。そして珍しくも彼女の方から唇を寄せてきたので、今度はカラムが驚く番だった。
 普段のミリエルは、こういう愛情表現をしない。どうやって良いのか分からないというのもあるだろうし、そのタイミングが掴めないのだと言う。しかし今、ミリエルは彼女の意思でキスという行為を施した。それは、さっき口に出来なかった言葉がまだ胸の中に蟠っていたからだ。普段の自分ならばカラムを見失う事はない。だが眼鏡を掛けていなくて人の区別が出来ない今の状態ではどうか。そう思うと、途端に恐ろしくなってしまったのだ。

「……カラムさん、お願いがあります」
「……何?」
「今日は、私を抱き締めて眠ってくれませんか」
「良いけど……どうして?」
「上手く説明出来ないのですが……貴方を見失いそうで、怖いのです」
「……分かった、じゃあ、一晩中そうしておくから……」
「……有難う御座います」

 彼の肩に凭れ掛かり、そっと目を閉じたミリエルは、こうやって寄り添って貰えただけで不安が僅かに軽くなるのを感じ、不思議なものだとほんの少しだけ笑う。この現象は一体何と呼べば良いのか、そして何故こうするだけで靄が晴れていく様に不安が取り除かれるのか、検証してみる価値はありそうだ。けれども今はそんな事は後回しにして、とにかくカラムの気配を全身で感じていたかった。台の上に置かれた2つのカップの中の茶はすっかり冷えてしまっていたけれども、2人の重なった体温はひどく温かいものだった。