まだ夜も明けぬ暗い天幕の中、備え付けられた簡素な寝台の上で眠っていたロンクーは不意に目を覚ました。彼が人の気配に敏感だからと言って、天幕の外を誰かが通ったという訳ではない。単に目が覚めてしまっただけだ。
以前の彼は、こんな風に夜中に目を覚ましてしまう事が多かった。悪夢に魘され、飛び起き、時には吐いてしまう。それは己の心が弱いからだと勝手に決め付けて、再度眠る事はせずに黙々と剣の素振りをしていた。剣を握っている時は、何もかも忘れる事が出来たからだ。彼の知人(友人と言って良いものか彼には分からなかった)が剣の手入れをしながら、人は裏切る事があっても武器は自分を裏切らないと言っていたのだが、ロンクーも全く以てその通りだと思っている。自分が腕を上げた分だけ、剣は応えてくれる。それは偽りでもなければ幻想でもない。ロンクーはその事実を知っていた。
しかし、今の彼は夜中に目を覚ましたからと言って、天幕を抜け出して一人素振りを行うなどという事はしなかった。剣の腕を磨きたい、更に上達したいという向上心は変わらないが、腕の中にある温もりが彼を寝台から降りる事を妨げていた。数年前、まだこの軍に加入する前の己を思えば信じられない事だと、ロンクーは思わず小さく苦笑してしまう。彼の腕の中では濃茶の髪、淡いクリーム色の長い耳を持つタグエルのベルベットが深い眠りに落ちていた。

幼少の頃のトラウマから、ロンクーは女が苦手だ。近寄られたら体が強張るし、立ち竦んでしまう。別に自分と関わったからと言って全ての女が不幸になる訳ではないと頭では分かっているのに、どうしても自分を庇って死んだ少女の姿がちらついてしまうのだ。ロンクーはその時の悪夢を繰り返し見ては飛び起き、苦しんできた。もう10年以上経つと言うのに、だ。
そんな彼が、唯一触れる事が出来るのがベルベットだった。否、触れる様になるまでに随分と時間は掛かったが、今では触れるどころか抱き締める事が出来る。以前彼女が野草を入れた袋を落として、それを渡そうと試みたものの、女であったものだから上手く渡せなくて、結局また日数が経ってから返す事が出来た。袋の中に入っていた野草は苦く、あげると言われたもののどう扱って良いものか分からず、矢張り返そうと思ったのだ。その時に初めてあの野草は食べるのではなくて煎じて飲むものだと知った。煎じられたものを飲み干せと言われて飲み干した後、悪夢を暫く見なくなった。
その事をベルベットに告げると、彼女も悪夢を見るのだと言った。ベルベットはタグエルであり、里を人間に滅ぼされている。その時の夢を時折見るのだと言った。ロンクー自身にはそういう経験は無いが、賊に襲われ略奪され滅ぼされた村は何度か見た事があるから、それがどんなに悲惨な事であったのかはある程度想像がつく。しかし、ベルベットの苦しみは彼女のものであって、ロンクーには全てを理解してやる事は出来ない。お互い辛い過去を持っているとは言え、同じ苦しみ、悲しみではないのだ。分かろうとする事、同じであると思う事はエゴであり傲慢だと、ロンクーにだって分かっている。だからそれ以上の事を聞いた事は無い。話したいと思った時に話してくれれば良いと思っている。
ベルベットも似た様な事を考えているのか、ロンクーに過去の事を一言も聞いた事が無かった。辛い事は無理に思い出したり話したりする必要は無いと思ってくれているのだろう。タグエルとしての勘が働く彼女は感情の起伏には聡く、ロンクーが表情を表に出さなくても何となく察して、今でも黙って距離をとってくれる。面倒臭い男だろう、と一度自嘲気味に言った事があったが、自覚している分マシよと言ってくれた。彼女は決してロンクーを否定しないし、拒む事も無い。貴方の中は人間かタグエルか、ではなくて、男か女か、という区別しか無いのねと笑っただけだった。

彼女は今でもロンクーに同じ茶を淹れてくれる。もう悪夢に魘される事は無くなったが、安眠の為にと気遣ってくれているのだろう。指輪を渡したと仲間内に報告したら夫婦は同じ部屋、天幕で寝ろと冷やかされ追い遣られ、結局ずっと同じ寝台で休んでいるが、最初の頃はただでさえ女に触れる事さえ出来なかったロンクーは眠れなかったし、眠っても緊張の所為ですぐに目が覚めてしまったり、最悪の場合悪夢に魘された。その時の事を、ベルベットは覚えているのだ。魘され飛び起き、脂汗をかいて頭を抱え込んだまま震えている彼を、ベルベットは黙って抱き締め、一晩中背中を摩ってくれた。情けない話だが、ロンクーはその時初めて彼女を抱き締める事が出来たし、触れても良いのだと漸く分かった。
それ以来、ベルベットは定期的にあの茶を淹れる様になった。もう大丈夫だとロンクーが言っても、私の為でもあるのよと微かに笑うだけで、淹れてくれるのだ。確かに、共に寝る様になった後にベルベットが魘されている声が聞こえて起きてしまった事もある。目の前で故郷が蹂躙され、家族や仲間が殺されていく所を目の当たりにした彼女の心の傷は癒える事などないのだろう。
だが、恐らくそれだけではあるまい。ロンクーはベルベット以外の女を知らなかったが、ベルベットはロンクー以外の男を知っていた。それが恋人であったのならまだ納得はするものの、彼女は里を滅ぼされた女だ。人間の村でさえ襲われ略奪されたのなら住人の女は犯されたり売られたりする事が殆どであり、タグエルの里であってもそれは変わらないだろう。多分、彼女は心無い人間の男に陵辱されたのだ。決してそんな事を言ったりはしないし教えてもくれないが。その時の夢を見てしまわない為の茶なのだろう、あれは。

ベルベットはまだ眠っている。今日は嫌な夢を見ていないのか、消しそびれたランタンの光の中に浮かび上がる寝顔は穏やかだ。出来れば自分の腕の中で眠っている時には魘されて欲しくないものだとロンクーは思ったが、案外ベルベットだって同じ様な事を思っているのかも知れない。自分の大事な者が、自分の側に居るというのに魘されているとなれば、気分も良くない筈だ。貴方が触れる女が私だけというのも悪い気はしないわね、と言ってくれるくらいだから、同じ思いであると自惚れても良いだろう。
不意に、ベルベットが身動いで体を寄せる。寒いのだろうかと思い、被っている薄手の毛布を彼女にかけ直して腕枕をしていた腕で肩を抱き、ぴたりと体を寄せると、くぐもった小さな声が彼女の口から漏れた。

「…ん、すまない、起こしたか」

そして結局赤褐色の瞳を見せたベルベットに起こしてしまった事をロンクーが詫びると、彼女は眠そうに目を何度か瞬かせてから首を緩やかに振った。

「…ずっと起きていたの?」
「いや…、さっき目が覚めた」
「そう。…眠れないの?薬草茶を淹れた方が良いかしら?」
「いや、良い。…お前の寝顔を見ていただけだ」
「変な人ね。面白くも何ともないでしょうに」
「…そうでもない」

ベルベットが起き上がろうとするのを制し、適当な事を言ったのだが、彼女は余り納得していない様な顔で、それでもロンクーの腕からすり抜けようとはしなかった。寝顔を見ていて飽きないというのは本当の事なので、嘘は吐いていない。起こしてしまった事を本心で済まなく思いながらも、指先でベルベットの目元に触れて小さく笑った。

「…魘されなくなったな」
「…貴方もね」
「ああ…、お前のお陰だ」
「あら。あの薬草茶のお陰じゃない?」
「それもあるが…一番はお前だ。礼を言う」
「そう。だったら、私もきっと貴方のお陰ね」
「…そうか」
「ええ」

心の傷は癒せなくても、触れて、慈しむ事は出来る。ロンクーもベルベットも、お互いそれを知っている。だから過去に何があったのか、どういう仕打ちを受けたのか、そんな事を聞く必要は無いのだ。願わくば、自分に安眠を与えてくれている彼女に自分の腕の中に居る時くらいは心安らかに眠って欲しいと、心の底からロンクーは思う。
柔らかな彼女の体をもう一度抱き寄せ、額に唇を寄せる。前髪が肌に触れてくすぐったくて、また笑みが零れた。

「ねえ」
「…何だ」
「口にして欲しいわ」
「な…っ お、お前はいきなり何を」
「あら、してくれないの?」
「…し、しないとは言っていない」
「そう。じゃあして頂戴」

そして突然の要求に狼狽したロンクーは、それでも拒絶する訳でもなく、こちらを見上げているベルベットの頭を抱えて口付ける。初めて交わしたキスの様にただ重ねるだけのものであったけれども、ベルベットはそれでも満足してくれた様で、彼の案外大きな体をぎゅうと抱き締めた。まるで彼を包み込む様に。
何時だってベルベットはロンクーを黙って受け止める。それしか出来ないからと漏らした事があったが、ロンクーにしてみればそれだけでも十分なのだ。ケリーの代わりに赦して貰えた様で、心にべっとりと張り付いたヘドロの様なものが少しずつ剥がれ落ちていっている気がする。勿論ベルベットはケリーではないし、ケリーが彼に赦すと言った訳でもない。しかし、とうに赦されていたと分かっていても、自分で自分を責めていたロンクーを、ベルベットは何時でも赦してきた。同じ様に、ロンクーもベルベットに赦されていると感じて欲しいのだ。生き残ったのではなく、生かされたのだと。

「…起こしてすまなかった…、もう寝ろ」
「貴方もね」
「…ああ」
「ねえロンクー」
「…何だ」
「好きよ」
「…、 …お、俺も… ……すき、だ」
「ふふ、有難う」

しどろもどろになりながらもロンクーが愛の告白の返答を口にすると、ベルベットは酷く嬉しそうに笑い、彼の胸に顔を埋めておやすみ、と言った。そんな所に顔を寄せられてしまっては、鼓動が速い事がばれてしまう。だが引き離す事も憚られたので、ロンクーは顔を赤くしたまま苦虫を噛み潰した様な表情になりながらも、おやすみと返して目を閉じた。眠れそうにはなかったが、ベルベットの温もりを感じるには良い時間だと思っていた。