誰かが啜り泣く声が聞こえる。その声に、男は深い安寧の泥の底から意識が引き上げられるのを感じた。まだ男が少年であった頃、悲しい事があった時に幼かった弟はこんな風に啜り泣いていた事が瞬時に思い出され、彼は無意識の内に手をさ迷わせる。

―――泣くな。泣いたら神様まで泣いて、雨が降っちまうぞ。

 泣いているその頭を撫でてやりたくてさ迷わせた手は、しかし虚しく空を切る。ああそうだ、あいつはもう居ないんだ、そんな世界にわざわざ戻らなくても、と、男が手を下ろそうとしたその瞬間、彼の大きな手はしっかりと握られた。小さく柔らかな両の手が、武骨で硬い手を包む。その感触に意識が完全に引き上げられた彼がまだぼんやりとしている頭を働かせて薄く目を開くと、視界には何処かで見た事のある少女が紫水晶の瞳に溢れんばかりの涙を浮かべて覗き込んできていて、男は思わず目をぱちくりとさせてしまったのだが、そんな男の反応を見て少女は見る間に顔をくしゃくしゃにさせて、大声を上げて泣き始めた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさあぁい、うわああぁん」
 いきなり泣き始めた目の前の少女と自分の状況が掴めず、男は驚きながらも宥めようと体を起こそうとしたのだが全身の痛みがそれを遮り、その痛みによってやっと事態を把握した。

―――天使じゃなくて、神様だったか。

 全て把握したとは言え目の前の少女が泣き止む訳ではなく、彼は体の痛みを押し遣りながら、取り敢えず少女を宥める為に小さなその頭を撫でようと、捕まれた手ではなく、包帯が巻かれた腕を彼女に伸ばした。今度は空を切らなかった。



 照り付ける太陽を窓の外に見ながら、グレゴは眉を顰めて額に滲む汗を手の甲で拭った。暑がりである彼にはこの砂漠の国ペレジアの厳しい暑さが堪える。肌を焼く太陽の光は砂地を熱し、昼間はグレゴにとっては辛い程の暑さになる。そして、その暑さは傷の治りも鈍くしてしまうのだ。
 グレゴはこのペレジアで負った怪我の療養中だった。癒しの杖を使える者は、身を寄せている村の中には居ない。ペレジアを行軍していた途中であったらしいイーリスの軍のシスターが一応は杖を使ってくれた様であったが、グレゴが負った深い傷は完全には塞がらず、またその時の彼は意識不明であったものだから、被験者の意識の有無も左右される癒しの杖では尚の事治りが悪かった。
 寝台の側に用意されたタオルで汗を拭き、腰掛けていた椅子から立ち上がると、グレゴは慎重に伸びをする。余り無理に伸ばせば傷口が開いてしまうから、傷に負担を掛けぬ様に気を配った。本職が傭兵である彼には戦で怪我を負う事は決して珍しい事では無かったが、慣れぬ暑さの国での立ち回りは、今までの傭兵人生の中でも一、二を争う程の大怪我を負わせてしまった。しかも、依頼主に逆らって負ってしまったのだから世話は無い。
このペレジアと、隣国のイーリスが戦をする様だと察知したのは数ヶ月前だ。余り喜んではいけないが、彼の様な傭兵は戦場が職場であるのと同じであるから、雇われればその間は食いっぱぐれない。そう算段して雇われ先を探していたら、たまたま以前同じ傭兵団に居た男に遭遇してギムレー教団の一行の護衛を紹介された。何でも、その男もその護衛をやるらしかった。
 護衛って言うくらいだから教団のお偉いさんが地方のどさ回りでもするのかねぇ、などとグレゴは呑気に思っていたのだが、そんな身分が上の者の姿を一介の傭兵であるグレゴが契約の際に見る事など出来る筈もなく、内容は聞いていた様に単なる「護衛」だった。しかし何故ギムレー教を信仰するこのペレジアでギムレー教団の者を護衛する必要があるのかとグレゴだって疑問に思ったものの、雇って貰えたのだし報酬は後払いとは言えちゃんと貰える様であったから、余計な詮索はせぬに限ると判断して隊列に加わったのだ。
 確かに教団の者達の護衛、ではあった。ただし、その教団の者達が運んでいるものに問題があった。彼らはペレジアが信仰する、他国では邪竜と呼ばれるギムレーに捧げる為の供物を運んでいたのだが、その中に生きている子供が含まれていた、のだ。グレゴは直接その子供を見た訳ではなかったが、檻付きの馬車で何かを運んでいるのを訝しんでちらと鉄格子の隙間から見た子供は後ろ手に縛られ猿轡を噛まされ横たえられていた。泣き声を上げる事さえ許されない子供を見て、それなりに戦場を渡り歩いて年端のいかない子供が死んでいく光景を幾度と無く見てきたグレゴでも酷く気分が悪くなったし、またそれを悪びれもせず平然とした顔で行う教団の者達に不快感を覚えた。
 彼は人相こそ良くはないが、根は人情に厚く、お人好しだ。その性格で損をする事も少なくはなかった。しかしそんな生き方しか知らぬ彼は己の性格故に不利益を被って反省する事はあれども後悔する事は無く、だから護衛として雇われて数日も経っていない日に近くまでイーリス軍が迫っているらしいと情報を得て一か八か賭けるかと思い立ち、見張り役の男に手刀を入れて気絶させ、幽閉されている少女を連れて逃げた。…否、正確に言えば連れて逃げようとしたら、逃げられた。そんなに俺は人相悪ぃかよ…、と何となく落ち込んだが、少女一人で逃げ遂せられる程このギムレー教団の者達は間抜けではないし、またペレジアの砂漠も甘くはない。とにかく保護が必要だと判断して急いで追ったら案の定教団の者達に追い付かれてしまった。
 ただ幸運な事に、と言うか彼の目論見通りにイーリス軍の者達が通り掛かった為に手助けはして貰えたものの、矢張り最初はグレゴを賊と間違えたらしく、中々信じて貰えなかった。それでも少女を守りながら教団の者達と立ち回る彼を見てやっと信じて貰えた様だったのだが、慣れぬ暑さと照り付ける太陽と覚束ない足元での戦闘に不覚を取り、再度捕らえられそうになった少女を庇ってグレゴは深手を負ってしまった。相当な出血と痛みの中で、それでもまだ意識のある内にと駆け付けてくれたイーリス軍の天馬騎士に少女の首根っこを掴んで託し、そこから彼の記憶は無い。赤い長髪の天馬騎士にその子を頼んだと言ったのは覚えているのだが、自分がどうやってこの村に運び込まれたのかは知らなかった。
 世話になっている村の住人達は、余所者にはそこまで関与する事を好んではいなかった様であるが、こちらが深く干渉しなければ特に文句は言われなかった。勿論このペレジアと交戦しているというイーリス軍の者達から運び込まれた訳であるから良い顔はされなかったが、グレゴはイーリス軍の者ではない。その事をイーリス軍の中にグレゴが昔世話になった、現在は西フェリアの王であるバジーリオが説明してくれたらしい。彼は意識の無いグレゴを一番近くにあったこの村に担ぎ込んでくれたそうだ。身分は隠さねば預かって貰えないと判断したのか、バジーリオは身元は一切言わなかったそうだ。
 それでも矢張り余所者である事に変わりはなくて、もう暫くすればこの村からも出て行かねばなるまい。グレゴはそう考えている。閉鎖的な村社会は身元が明らかでない者を嫌うし、況して今ペレジアはイーリスと交戦中だ。極力余所者との接触は避けたいところだろう。あらぬ嫌疑を掛けられては堪らないという事は、グレゴにだって分かっている。だからこうやって、完治しているとは言い難い体を動かしてストレッチなどしている。
「グレゴー、ごはんもらってきたよぉー。食べ… あー、また無茶しようとしてるー」
「無茶じゃねえって、無茶じゃ…」
 不意に開いた扉の向こうから可愛らしい声が聞こえてきたかと思えば、その声はすぐに不服の色へと変わった。グレゴもそれに対して眉を顰めて否定したが、声の持ち主の少女が片手で重たそうな盆を持っているのに気付いて慌てて手を伸ばした。グレゴにとって軽いものであっても細い少女の腕では重たそうで、実際盆はぐらぐらと揺れていたからだ。折角の食料が台無しになってしまうのは避けたい。
「あのなー、あんまりじっとしとくのも体が鈍っていけねえの。俺ぁ傭兵なんだから、戦えなきゃ飯食ってけねぇんだよ」
「でも、ちゃんと治さなきゃダメだよ? ノノのせいでグレゴ大ケガしたんだもん、ちゃんと治してほしいもん」
「いやー、別にあんたの所為じゃねえけどなー?」
「ノノのせいだもん…」
 しょんぼりとした表情で俯いてしまった、ノノと名乗る少女はギムレー教団に捕らわれていた子供だ。グレゴが逃げ惑う自分を庇って重傷を負った事を気に病み、一緒にこの村に留まって彼の意識が回復するまで殆ど付きっきりで側に居たらしい。バジーリオが担ぎ込んできてくれたというのもノノから伝え聞いた話だ。グレゴは盆を備え付けの机の上に置くと、ノノの小さな頭を大きな手でくしゃっと撫でた。
「あんたに信じて貰えなかった時点で俺はあんたの敵だからなー。逃げられるのは仕方ねえって」
「…ごめんなさい…」
「だーから、もう気にしてねえよ。ほれ、泣くな泣くな」
 とうとう涙を零してしまったノノに苦笑しながら、少し腰を屈めて宥める。ノノにしてみれば連れ出そうとしてくれたグレゴを恐れて逃げ出してしまった挙句に大怪我を負わせてしまったという負い目があるからか、毎日の様にグレゴの傷の具合を見ては大丈夫?と心配してくれるのだが、余り傷跡をこんな幼い風貌のノノに見せるのは流石のグレゴであっても憚られる。仮令ノノが自分よりうんと長い年月を生きていると言っても、だ。
 ノノは、マムクートという竜族の少女だ。マムクートは長寿で、まだ子供にしか見えないノノであっても千年以上生きているのだと言う。だからこそギムレー教団の者達が邪竜に贄として捧げようとしていたのだろうけれども、グレゴにしてみればマムクートであろうが何であろうが子供を贄にするなどとんでもない話で、だったらお前らがなれと言いたい。縛られ、声も上げられず、ただ殺されるのを待つだけの日々はノノの心を蝕み、猜疑心を育てたのだろう。だからこそ余計にグレゴが信じられずに逃げてしまった。…勿論、彼の人相が怖かったというのもあるだろうけれども。
「俺ぁ泣かれるのが苦手だからさ、泣き止んでくれよ。な?」
「…うん…」
「ありがとよ。んじゃー、飯冷めねえ内に食おうぜー?」
「…うん!」
グレゴの言に手の甲でごしごしと目尻を拭ったノノは、空腹であったのか彼が机の上の食事を指さすと元気良く頷いた。それを見て、グレゴはもう一度だけ苦笑した。



「うう〜…寒いよぉ…」
 ペレジアでの暑さは大した事はなさそうだったのに対し、フェリアの寒さは堪えるのか、ノノは自分の小さな体を抱き締める様にして震わせた。彼女がペレジアで着ていた服はフェリアで過ごすには誰が見ても寒すぎるので、今は着込んでいる。
「だーいじょうぶかぁ? だから城に居ろっつったのに」
 吹いてくる風を遮る様にノノの側を歩くグレゴは眉を顰めて呆れた声を出したのだが、ノノはそんな彼に膨れて見せた。
「だってお城に居てもつまんないんだもん。ノノだってせっこーしてみたいもん」
「…まあ、良いけど」
 彼らは今、西フェリア城からフェリア港に向かう道を歩いている。何でも海を挟んで西の大陸からヴァルム帝国が攻め込んでくるらしいという情報を得たバジーリオから先に行って様子を見て来いと言われたので、グレゴもそれを引き受けて向かっている途中だった。
 ペレジアの砂漠で重傷を負ったグレゴは、完治とまではいかなくてもそれなりに動ける様になった後、早々にその村から辞す事にした。イーリス軍所属の者ではないとは言え、マムクートのノノを連れている自分がここに居ては村に不都合であろうと思ったし、いつまでも余所者が居ても良いという雰囲気ではなかったから、家の離れを貸してくれた家主に礼を言ってから村を出たのだ。宛ても無い、しかも自分一人ではなく成り行き上自分が面倒を見る事になったノノを連れての出発であったけれども、幸か不幸か撤退していたらしいイーリス軍が再びペレジアへと行軍してきているらしいとの情報を得たグレゴは、その中に世話になった村まで担ぎ込んでくれたバジーリオも居るかも知れないと思い、半ば賭けではあったがペレジア軍の中に忍び込んで機会を窺った。
 ペレジア軍に入るのは酷く容易かった。王に大した信用も無かった様であったから軍の統制も殆ど取れていなかったし、雇われ兵も多く、グレゴは傭兵である事を告げるとあっさりと入隊させて貰えた。ノノの存在は伏せ戦場となる荒野の林に潜ませていて、開戦と同時に戦隊を離脱してとにかくバジーリオの姿を探した。幸いにもイーリス軍の中の、ノノを託した天馬騎士がグレゴを覚えてくれていて、姿を認めると急降下して敵になってしまったのですかと厳しい口調で問い質されてしまったのだが、短く事情を説明するとバジーリオが居る方角を教えてくれた。その時を含めて二度しか会った事が無い男をすんなり信用するという警戒心の無さに多少彼は戸惑ったが、有難かった事には変わりなく、礼を言うと返す剣でそれまで所属していたペレジア軍の兵士を斬り伏せた。
 グレゴにしてみれば、正直なところどちらに所属しようが構わなかったのだ。ただペレジアという国のやり方が気に食わなかったし、またギムレー教団のやる事も気に入らなかった。子供を贄にするという事に心の底から嫌悪を感じたから、彼はイーリス軍に加勢する事を選んだ。それはノノにとっても納得がいく事であったらしく、事前にペレジア軍に入隊するが途中でイーリス軍に寝返るから頃合いを見計らって林まで迎えに行くと伝えると、ノノは何の不満も言わずにこっくりと頷いて了承してくれた。
 そして再会したバジーリオは、グレゴを見るなり思い切り頭を叩いて心配させやがってバッキャロウ、と怒鳴ったのだが、無事であった事を安堵し、まだ傷の具合が良くないのではないかと気に掛けてくれた。確かに体は本調子ではなかったが、傭兵という職業の人間はそんな事を理由に戦線を離脱する事など出来ないとグレゴが言うと、バジーリオはじゃあ俺の背中を守れと豪快に笑った。
 そんな経緯があったからか、飛び込みでイーリス軍に加入した形になるグレゴはそれでも歓迎され、剣を振るう事が出来た。途中でノノを迎えに行く事も出来たし、彼女が持つ竜石で変身して敵を威嚇する事も出来た。グレゴはノノが変身したのをこの時初めて見たのだが、綺麗なもんだと感心したものだ。ペレジアでは邪竜が信仰されている所為か、ノノを標的にする兵士も多かったものだから上手く彼女を誘導してなるべく危険な目に遭わせない様にと気を遣った。
 結果的にイーリス軍はペレジア王ギャンレルを討ち、勝利した。その時点で傭兵であるグレゴは用が無くなってしまうのだが、バジーリオが暫く西フェリアで働けと言ってくれたので、ノノにこれからどうするかを尋ねると一緒に行くと言ったから連れて来た。お前の娘みてえだなとバジーリオは笑ったがグレゴには外見的に洒落にならなかったし、ノノも不満の色を隠さなかった。しかし親子だと言っていた方が面倒臭くないという事を知ったグレゴは、不承不承ではあるが関係を尋ねられると娘だと言う様になってしまった。勿論違うと知っている者はそれを聞けば失笑している様であるが。
「本当にまた戦争になるのかなあ。ならなかったらいいね」
「…そうだなー」
 白い息を吐きながらノノが言った言葉に、グレゴも曖昧な相槌を打ちながら同意する。戦場が職場である彼には同意して良いものやら分からない言葉であったから、自然とそんな受け答えになってしまった。しかし、ノノの言う通り戦争など起こらぬに越した事は無い。好き好んで戦争をしている者達はそれで良いかも知れないが、巻き込まれて多大な迷惑を被るのは一般市民だ。グレゴだって幼い頃は迷惑を被る側の人間だったから、戦争は無い方が良いとは思う。
「…でも、戦争がなかったらノノはグレゴに助けてもらえてなかったね」
「…んー…そりゃそうなんだが…」
 グレゴがペレジア方面に赴いたのは、ペレジアとイーリスが戦争を始めそうだという情報を聞きつけたからだ。故に、ノノの言う通りあの戦が起こってなければノノはグレゴに保護されてはいなかっただろう。戦に感謝すべきなのかどうか、グレゴにもノノにも分からない。ただ、ノノを助ける事が出来た事、そもそも見付けられた事は、己の幸運に感謝しても良いとグレゴは思っていた。
 彼はジプシーであった両親の元に生まれ、部族の者達と共に各地を放浪した幼少期を過ごしている。そしてその部族は昔から蛇を神として崇めていた。蛇は竜が姿を変えたものであると信じられていて、グレゴもその教えの元に育った。何でも彼らの先祖が竜に助けられた事があったらしく、それ以来竜を神としているらしかったが、時を経る内に何時の間にか蛇も神と見做す様になったらしい。時折しか見掛けない飛竜より、物語の中でしか知らない竜族より、身近な存在であった蛇の方が崇め易かったのだろう。
 しかし、グレゴは竜族、マムクートであるノノを知ってしまった。捕らわれの身であったノノがマムクートだと知ったのはギムレー教団の者達がぼそぼそと交わす会話を偶然聞いたからだったが、彼にとって神である竜族を贄にするなど仮令邪竜という名の神であっても許せる訳がなく、だから連れて逃げる事を選んだ。生死の境をさ迷う程の重傷を負ったとしても、報酬を貰えなかったとしても、神を、ノノを死なせずに済んだという安堵が大きくて損をしたとは全く思わなかった。昔、傭兵となってまだ間もない頃に引き受けた飛竜の谷での依頼で、親を喪った子供の飛竜を助けた時の様に後悔は無かった。
「何が幸せなのかなんて、分からねえもんさ。誰かの不幸の上に、幸福は積み重なるもんだからなー」
「…むー。グレゴのお話、むずかしくてよくわかんない」
「ありゃりゃ…」
 初めて会話を交わした時と同じ事を言われ、グレゴは思わず苦笑してしまう。申し訳ないとは思ったが見張り役の、顔見知りだった男の項に手刀を落として気絶させてノノが閉じ込められていた部屋でノノに言った言葉と同じくらい、ノノには難しい事だと思ってしまうものであったらしい。
 ノノを助けられたという幸運は、確かにグレゴにとっては不幸の上に重ねられたものだ。彼は幼少の砌に目の前で両親を賊に殺され、自分より幼い弟の手を引き命からがら逃げ延びたがその弟もグレゴがまだ十代の頃に同じく賊に殺されてしまった。親を、そして弟を殺されてしまった、守れなかったという現実が彼に剣を取らせる事を選ばせ、そして屈強な戦士に育てた。それは子供の頃のグレゴが自ら望んだ訳ではなかったのだが、彼の身の上に降りかかった不幸がそうさせた。
 しかし、家族を目の前で殺されたからこそ彼は強くなり、傭兵となり、そしてノノをあの教団から連れ出す事が出来たのだ。ノノは戦争が無かったらグレゴに助けて貰えなかったと言ったけれども、グレゴにしてみれば家族を殺されていなければノノを助ける事は出来ていないのだ。だとしたら家族を喪った事は幸福の為に必要であったと思わなければならないのだろうかと彼は思う。…そんな事は、恐らく誰にも答える事は出来まい。
「ま、今はとにかく、戦になっても被害が最小限になる努力をする事を考えねえとな。
 あんたも俺も、立派な戦力なんだからよ」
「うん!」
 難しい事を考えるのは、グレゴだって余り得意ではない。ただ分かるのは、これから戦になろうとしている事だ。彼はノノの小さな頭をぽんぽんと撫でると、はぐらかす様に笑った。彼女はそんなグレゴを見上げ、元気良く頷いた。




 額の重さが不意に軽くなった気がして、グレゴは瞼を薄く開ける。視界に飛び込んできたのは白い天幕の天井と、くすんだピンク色の髪で、ぼやけた頭で何があったのかを暫く間抜けな顔で考えてしまったのだが、傍らに居たそのピンク色の髪の女性が振り返り彼の意識が戻った事に気が付いたらしく、ほっとした様な呆れた様な表情を見せた。
「気が付いたのね、良かった」
「……… …俺、倒れたのか?」
「運ぶのは大変だったわよ?」
「…あー…悪ぃな…」
 苦笑しながら桶の水の中にタオルを浸して絞った女性、セルジュは、上体を起こしたグレゴにタオルを寄越して肩を竦ませて見せた。罰の悪い顔でタオルを受け取ったグレゴは額に当てると自己嫌悪の深い溜息を吐いたのだが、喉を焼く酸に思い切り眉間に皺を寄せてしまった。
「お白湯ならあるけど、飲むかしら?」
「ああ、悪ぃ、くれ」
 その喉の酸を薄めたくて、グレゴは苦々しい顔をしながらセルジュから渡されたカップの白湯を一気飲みする。空になった胃に温かいものが落ちるのを感じて、少しは落ち着いた。しかし倒れてしまった経緯も思い出してしまったのでまた喉を酸が焼きそうになったのだが、今度こそは耐えた。
 フェリア港に攻め込んできたヴァルム軍を突破した後、イーリスのクロム率いるイーリス正規軍はヴァルム軍の勢力を抑える為にヴァルム大陸へと渡った。そのイーリス正規軍の中にはイーリス国以外の者も数多く所属しており、グレゴもバジーリオに言われて所属する様になっていた。勿論、ノノも一緒にだ。一応は残るか否かを尋ねてはみたのだが、彼女が行くと答えたので、好きな様にさせている。
 そのノノが、クロムの無二の親友でありこの軍の軍師でもあるルフレという男と仲良くなり、彼とも遊ぶ様になった。ずっと一人で過ごしてきたノノはいつも誰かと遊ぶ事を楽しみにしていて、グレゴが遊んでやれない時は他の誰かに突進して行っては遊んで貰っている。それは良いのだが、今日ノノはルフレと一緒に捕まえた蛇を、調理して食べていたのだ。
 一般人にしてみれば蛇を食べるなど、と思うだろうが、行軍の最中では蛇も貴重な食料だ。昔グレゴが仕事を共にした傭兵達の中でも、食べる者は居た。なので別に何ら不思議な事ではないのだが、グレゴにとってみれば蛇は神なのだ。神を殺して食べるなど、彼には考えられないしする事も出来ない。だが信仰を他人に押し付ける事もしたくはないし、そもそもその信仰を誰にも公言していなかったのだからノノが無邪気にグレゴも食べてみて、ルフレがちゃんと味付けしてくれたから美味しいよ、と木の枝に刺して炙った蛇の肉を差し出してきたのもおかしな事ではなかった。
 その時、はっきりとグレゴが要らないと答えれば良かっただけなのだ。自分にとって蛇は神であり、故に殺生も出来なければ食す事も出来ないと、断れば良かっただけの話だ。ノノではなくてルフレが食べるか、と聞いてきたらグレゴだってそうしただろう。しかしグレゴに蛇の肉を差し出したのは、ノノだった。蛇が神であるというのは、その蛇は竜が姿を変えているからとグレゴが幼い頃に居た部族で信じられていたからであり、だから竜族であるノノもグレゴにとって神なのだ。神の命には、逆らえなかった。
 奥歯が咬み合わない事を気取られぬ様に食らい付き、何度も嘔吐きそうになりながら飲み下し、脂汗を拭いながらノノに礼を言った後から、グレゴの記憶は曖昧になっている。ノノが遊ぼうと言ったのだったか、それとももっと食べる?と聞いたのだったか、それは覚えが無いが、用事があると嘘を吐いてその場を辞してノノの視界から姿を消してからグレゴは一目散に野営の近くの林へ駆けた。そして、胃の中のものを全て吐いてしまった。ツンとした臭いが鼻孔をついて更に吐き気を催し、胃液まで吐いた。全身から脂汗が噴き出て、顔面蒼白で吐くと涙がぼろぼろと零れた。いくら「神(ノノ)」の命とは言え、「蛇(かみ)」を食った事は、彼にとっては苦痛で耐えられなかったのだ。そしてセルジュの慌てた様な声と彼女の愛竜であるミネルヴァの鳴き声を聞いた気がするが、そこから彼の意識は途絶えている。
「何を食べたの? 余程悪いものを食べた様だけど」
「………」
「あら、まあ。言えないの?」
「…いやー…、蛇、食ったんだよ」
「蛇? …ああ、ノノちゃんがルフレと捕まえてた蛇かしら」
「んー…」
 恐らく倒れた自分をミネルヴァに運んで貰い、そして天幕で介抱してくれていたのだろうセルジュに事情を話さない訳にもいかず、グレゴは余り答えたくはなかったのだが、額を押さえたまま小さく頷いた。
「意外ね、傭兵だから何でも食べられる人かと思っていたわ。蛇なら戦場でも食料になると思うのだけど」
「…あのよお、セルジュ、ノノには黙っててくれるって約束してくれねえかな。蛇は駄目なんだ」
「…? 何か、事情があるのね?」
 聡いセルジュはグレゴの表情と声音で察してくれたらしく、声のトーンを落として寝台の傍らに置いてある椅子に座った。天幕に使われる布は厚く頑丈なものであるから大声で話さない限りは外に声が漏れる事は無いのだが、念を押してくれたのだろう。彼女は暇さえあれば仲間の衣服を繕ったり武器の修繕をしたりと忙しいのだが、今はグレゴの話に耳を傾けてくれる様だった。
「…俺にとっちゃ、蛇は神様なんだ。ガキの頃からそう教えられてる」
「まあ…グレゴがそういう信仰を持っているって、ちょっと意外ね」
「俺だってガキの頃からの刷り込みにゃ勝てねえなあ」
 セルジュの、グレゴの信仰心を意外に思う言葉に彼は苦笑してしまったのだが、恐らく他の者が聞いても同じ反応が返ってくるだろう。職業傭兵という者は大抵神を信じない。彼らは神が居るなら自分達が見る地獄の様な光景は眼前に広がらないと思っているからだ。
 グレゴもそう思う事はある。しかし彼が幼少期を過ごした部族の中では「神はいつも助けてくれる訳ではない」という教えがあったので、今まで神に何かを期待などした事が無い。もし神が助けてくれるのであれば今頃グレゴの家族は健在の筈だ。だが、彼の肉親は全て喪われてしまった。だから、グレゴの中で神は助けもしなければ救いもしない存在だった。
「だったら、断れば良かったじゃない?蛇は神様だから食べられないって」
「…… ……になるんだよ」
「え?」
「だーから、俺にとっちゃノノも神様になるんだよ」
「あら、まあ…蛇もノノちゃんも神様なの?」
 ぼそっと呟いた言葉が聞き取れなかったらしくセルジュが聞き返してきたので、グレゴは半ば投げ遣りに答えた。彼女はヴァルム軍がフェリア港に攻め込んでくる、とロザンヌというヴァルム大陸にあるヴィオールの領地からフェリアに訪れ進言してくれた竜騎士なのだが、彼女の愛竜であるミネルヴァがマムクートであるノノととても親しくなり、故にセルジュも今ではノノと大の仲良しだ。二人で楽しげに話す事もあるし、ノノがどういう経緯でイーリス軍に所属しているのかも知っているが、ノノをギムレー教団から助けてくれたらしいグレゴがそんな風に捉えているとは思わなかったのだろう。
「俺がガキの頃に居た部族じゃ、蛇は竜が姿を変えてるって信じられててなー。その昔、先祖が竜に…多分あいつと同じマムクートだと思うんだが…、助けて貰ったらしくてなあ。神々しいもんに見えたんだか何なんだか知らねえが、神様として崇める様になったんだよ」
「だから、ノノちゃんもミネルヴァちゃんも助けてくれたの?」
「ま、それが理由の大半だよなー…単に気に食わねえってのもあったんだが…」
 グレゴの先祖は、少女が竜に姿を変えたところを見たらしい。それ故に竜が蛇に姿を変えているという考えも出たのだろうと彼は思っている。そしてセルジュは、そんなグレゴの回答にもう一つの疑問を投げかけた。彼女の愛竜、ミネルヴァは幼い頃にまだ若かったグレゴに助けて貰った事があるらしく、それと分かってからはセルジュに対する様に彼を慕い、擦り寄ってきてくれる。グレゴにしてみれば両親を死なせてしまったという負い目があるのだが、それでもミネルヴァは甘える様に擦り寄ってくるのだ。
 当時のグレゴはまだ駆け出しであったから仕事も選べなくて、だから飛竜の爪を取るという仕事も引き受けたのだが、ミネルヴァの一件以来決して竜に関する仕事は引き受けなかった。ノノを保護出来たのは本当に偶然だったのだ。勿論、彼女がマムクートである事を知っていた上で護衛をすると分かっていたならすぐに引き受けたのだが。
「なるほど、神様が食べてと言ったら、さしものグレゴも断れないわね。
 …でも、繰り返されると困るでしょう? 言った方が良いんじゃないの?」
「…んー…」
 セルジュの言は、尤もだ。それはグレゴだって思う。しかし説明をすると神だから危険を冒してでも助けたのかとノノが気に病むのではないかという懸念が、彼にはある。ただでさえノノには連れ出そうとしてくれたグレゴから逃げ、結果的に生死の境をさ迷う程の重傷を負わせたという負い目があって、今でもたまにその事で泣くのだ。無闇に彼女を傷付けたくはない。
「…分かったわ、私からノノちゃんに言っておくわね。ただし、神様がどうこうという事は絶対に言わないから」
「んー…悪ぃな。恩に着るぜ」
「貴方はミネルヴァちゃんの恩人だもの。恩には恩で報いないとね」
 ノノに伝える事を渋る様な素振りを見せたグレゴに対し、セルジュは苦笑しながら肩を竦めて見せた。彼女の提案が有難かったので、グレゴも軽く右手を上げて礼と詫びを示す。そして空の状態である胃が少し気持ち悪かったのでもう少し休もうと体を横にすると、セルジュも彼を一人にしてくれるのか椅子から立ち上がった。
「…だけどグレゴ、神様だからと言って、余りノノちゃんの想いを無碍にしないで頂戴ね?」
「…はあ?」
「あらまあ、気付いてる癖にとぼけるなんて。ノノちゃんも歴とした女の子…いえ、女性なのよ?
 それだけは心に留めておいてくれるかしら」
 水が入った桶を手に天幕から出ようとするセルジュが不意に何かを思い出したかの様に振り返り、意味深な事を言ったのに対し、グレゴは間抜けな声を出してしまった。しかしそんな彼にセルジュはうふふ、と笑ってからお大事に、とだけ言って天幕を辞して行った。彼女の、素肌が部分的に露わになった背を呆然と見送ったグレゴは目を点にしたまま暫くそのままで居たのだが、セルジュの言を理解すると矢張り間抜けな声を上げて寝台に撃沈してしまった。
 セルジュの言う、ノノの想いというのは恐らく好意とイコールのものであろう。しかしそれはノノが勘違いしているだけであろうと思ったから敢えてグレゴも知らぬふりをしていたし惚けていた。囚われの身であった自分を助けてくれた男を慕うというのはある種の刷り込みの様なものであって、それは本当の意味での好意ではない、と、グレゴは思っている。そして、もし仮令それが勘違いであっても良いとノノが言ったとしても、グレゴは困る。セルジュにも言った事だが、彼にとってノノは「神」なのだから、恋愛対象として見るなど恐れ多い。否、助けても救ってもくれない存在である神に恐れ多いと思う事自体おかしな事なのかも知れないけれども、矢張りグレゴにとってノノやセルジュの愛竜であるミネルヴァは特別な存在であると思ってしまう。
 そんなグレゴの思いを知ってか知らずか、ノノは無邪気にグレゴに懐き、そして子供の様に戯れた。子供らしい幼少時代を送れなかったグレゴにしてみれば彼女の相手をしている時だけ少年になれる気がする。そこまで考えてグレゴは力無く首を横に振ってから、これ以上は深入りしちゃいけねえ、と苦々しい顔をしたまま顔を枕に埋めた。



 ミラの大樹という神木に建てられた神殿に幽閉されていた神竜の巫女であるチキの救出に成功していたイーリス軍は、ヴァルム帝国軍の三つの勢力の内の一つであり、大陸の中央に位置するシュヴァイン要塞へと向けて行軍を続けていた。救出された巫女は三千年は生きているという事だったが、それにしてもまだうら若い少女の様にも見える女性であり、マムクートというのは本当に年齢不詳なんだな…とクロム達を驚かせた。千年とちょっとは生きていると公言しているノノでさえ年端のいかぬ少女の姿なのだから、当然の事なのかも知れないのだが。
「ねえねえグレゴ、みこさま、見た?」
「んー?いやー、良くは見てねえけど、どうしたー?」
 そのミラの大樹で巫女を奪還させまいと陣を張っていた帝国軍と交戦した為、戦闘後の武器の手入れを薄暗い天幕の中で一人でしていたグレゴの側に、彼を探していたノノがちょこんと座った。何もする事が無くて暇なのだろう。他の者達も武器の手入れや野営の設置、炊き出しの準備で忙しそうで、ノノと遊んでいる暇は無い。グレゴも手が空けば彼女の遊び相手にはなるのだが、生憎と商売道具でもある武具の手入れの方が大事だ。いくら自分の中の神相手であろうとこればかりは譲れない。
「みこさま、すらっとしてきれいだったねー」
「んー? 俺ゃ遠目でしか見えなかったから良く分からなかったけど、あんたがそう言うんならそうなんだろうな」
「…ノノもあと二千年くらい経ったらあんな風になれるかなあ?」
「う、うーん…そうなんじゃねえの?」
 二千年などという、人間には想像もつかない様な年数を言われ、グレゴは思わず顔を引き攣らせながらも辛うじて笑って見せる。二千年どころか二十年すら彼にとっては長い時間であり、傭兵という職で食い扶持を稼いでいる以上は二十年後も生きているかどうかさえ怪しいのだ。…否、明日の命をも知れぬ身だ、ノノの背が僅かに伸びたところでさえ見る事が出来ない可能性が高い。
「二千年も経ってりゃ、あんたも巫女様になってるかも知れねえなー」
「ノノが? でも、みこさまが居るよ?」
「その時は巫女様でももう五千歳だぜー? 確か神竜ナーガは五千年生きたんだろ?
 生きてても高齢である事にゃ変わりねえから、世代交代だってするだろ」
「…ノノ、そんなのしたくない…」
 グレゴとしては冗談半分で言った事であったのだが、ノノは本気にしてしまったのか憂鬱そうな表情で膝を抱えた。彼女が膝を抱えるのは拗ねた時の癖だ。どうやらへそを曲げてしまったらしい。ノノの機嫌のスイッチはどこにあるのか未だに良く分かっていないグレゴは参ったな…、と独りごちて剣の刀身を専用の布で拭きあげると、早々に鞘に仕舞ってから頭を掻いた。まさかこんな会話で不機嫌になられるとは思わなかったのだ。
「なーんだよ、どうした? 何が嫌だったんだ?」
「…なんでもないもん…」
「何でもねえならそーんな拗ねた顔すんなよなー」
「………」
 胡座をかいた膝に肘を乗せ、上体を屈めた様な姿勢でノノの顔を覗き込むと、彼女は横目でグレゴを見てからぷいと顔を背けた。これは完全に機嫌を損ねている。しかし理由も言わずに拗ねられてもグレゴだって困るし間が保たないので、どうしたものかと顰めっ面で思案していると漸くノノがぽつりと呟いた。
「…グレゴ、そうやってノノのこと遠ざけちゃうの?」
「…はあ?」
「みこさまになったら今みたいに自由に遊べないこと、ノノ知ってるもん。
 しんせーなひとだからだめですよ、って言われちゃうんでしょ?」
「…あー、うん、まあ、あんたがもしなったらの話だよな?」
「やだ!」
 神竜の巫女であるチキは、確かに行動が制限されている様にも見えた。今だってソンシン王国の王女であるサイリが側に控え、身を護っているらしい。イーリス軍内部であってもどこに刺客が居るか分からないからだ。それでなくても神竜ナーガの血を引くとも声を聞くとも言われている神聖な身分の者だ、仮令本人が希望しても砕けた態度を好むクロム達の様にはいかない。勿論ノノはチキではないし、神竜の血を引いているかどうかも分からないのだが、少なくとも人間とは別格扱いされるに決まっている。それをノノが嫌っているというのは、グレゴも知っていた。
「いやだから、もしもの話だし随分先の話であってな…」
「グレゴはノノが竜だから遊んでくれるの? かみさまだから? だからおとなの女として見てくれないの?」
「……… …あんたそれセルジュに聞いたのか?」
 そして唐突にノノの口から出た「神」という言葉に、グレゴの眉間の皺が一層深いものとなる。セルジュには口止めしていたし、彼女も口が固い女であるとグレゴは思っていたから、落胆は大きかった。しかしノノはすぐに首を横に振って否定した。
「ううん、ミネルヴァに聞いたの」
「…あー…なーるほど…」
 どうやらセルジュは確かにノノには言わなかったがミネルヴァには事情を話したらしい。ミネルヴァだって立派な「女」であるし、ならばノノとそういう話もするのであろう。
「ま、バレたんじゃしょーがねえよなー…。
 あのよお、ノノ、大人の女がどうこうっていうのはこっち置いといて、ちょーっと俺の話聞いてくれねえかな」
「…ちゃんとあとで元にもどしてくれる?」
「んー、約束する」
「…じゃあ、いいよ」
「そうかい。ありがとよ」
 両手で箱の様なものを横に退ける仕草を見せたグレゴに対しノノは少しだけ不服そうな顔を見せたが、話を元に戻すという約束を交わすとこっくりと頷いてくれた。それに礼を言ったグレゴは無骨な手で頭をガシガシと掻くと、その手を口許にあててどこから話したもんかと思案してから再び口を開いた。
「俺がまだあんたくらいの背格好のガキだった頃、ジプシーとして色んな国を渡り歩いて暮らしてて、その部族の中じゃ竜が神様だったんだ。むかーし、ご先祖さんが危ない所を助けて貰ったらしくてなー。どうも、あんたと同じで姿を変えたらしいんだ」
「…マムクートだったのかなあ?」
「だろうなあ。蛇は竜が姿を変えてる、とか言ってたし、あんたらはヒトから竜に姿を変えるだろー?
 そんで、その神様が泣くと雨が降るって言われててな。
 だから悪さをすると神様が悲しんで雨が降るぞ、なーんて言われてたな」
「ノノ、雨なんて降らせることできないよ?」
「そりゃそうだろー、ガキに悪ささせねえ為の大人の嘘なんだしよ。
 …ひょっとしたらご先祖さんが助けて貰った竜が泣いて、その時に偶然雨が降ったのかも知れねえけどな」
 セルジュにも話さなかった事を口にするとノノが首を傾げながらきょとんとしたので、グレゴも苦笑してしまう。言う必要など無いだろうと思って言わなかった事は、しかしノノが興味を示してくれる話題であったらしい。
「…あんたがペレジアの村で俺を看病してくれてた時、良く泣いたろー? ひやひやしたぜ、神様泣かしてんだもんなあ」
「だって、ノノのせいでグレゴが死にかけたんだもん…」
「そりゃ俺の力不足さ、あんたの所為じゃねえよ。気にすんな」
「………気にするもん…」
 ノノを助けた時に負った傷は、今もグレゴの体に痕として残っている。大きなものもあれば小さなものもあって、包帯を変えて貰う時にその痕を見たノノが良く泣いたものだ。ただ、グレゴにしてみれば今度こそ守り抜く事が出来た証であり、後悔する事でもなければ惜しいと思う事でも無かった。
 彼は昔、弟を守れずに死なせてしまった事がある。目の前で奪われた、たった一人の弟は、当時の彼にとっても今の彼にとっても掛け替えの無い存在であったのに、守る事が出来なかった。それ以来、グレゴは大事なものを作る事を避け続けてきたし、無為に生き続けてきただけだった。何の彩りも無い人生を、日々を、ただ淡々と。
 しかしあの日、彼の目の前に現れた囚われの少女は、グレゴの日々に再び彩りを与えてくれた。若いレモン色の髪、紫水晶の大きな瞳、そして竜へ変化した時の眩い金色の体、エメラルドグリーンの翼は、彼の世界を鮮やかに彩ってくれた。昔助けられた自分の先祖とやらの目にもこんな風に映ったのだろうか、ならば神として崇めたのは頷けると思った程に。勿論、らしくないという自覚はグレゴにもあるのだが、そう思ったのだから仕方ない。
「確かに俺ぁガキの頃から蛇も竜も神様と思えって言われてたし、実際そう思ってたけどよ…。
 けーど、ミネルヴァを助けたのもあんたを助けたのも、切っ掛けはその教えだったにしても、最終的には俺の意志で決めた事さ。
 神様だから、じゃなくて、俺が気に食わねえ、だったんだよ」
「………」
「蛇食え、って言われて、無理矢理食ったのも、神様の命令だったからじゃねえんだ。
 あんたががっかりするとこ見たくなかっただけさ」
 セルジュからノノの想いを無碍にするなと言われた後、グレゴも随分と考えたのだ。確かにあの時、神の命令には逆らえないと思って吐き気を抑えこんでまで無理に食べたが、それは自分への言い訳にしか過ぎなくて、単に純粋な厚意で自分に差し出してくれたノノの顔を曇らせたくなかっただけだった。最初の内は「ノノは神様だから」と思っていたが、すぐにそれが自分への言い訳に変化してしまっていて、しかし自覚するのも憚られたので沈黙を貫いていた。
 セルジュがちゃんと伝えてくれたのか、あれ以降ノノが蛇をグレゴに食べさせようとした事は一度も無い。それどころか、蛇を捕まえようとする事も止めた様だ。あんなに楽しそうにルフレと捕まえていたのに、それこそグレゴは自分の所為で彼女の遊びを一つ減らしてしまった事は申し訳無く思う。ただ、無闇な殺傷を止めさせる事は出来たのではないかとは思うけれども。
「…だからよお、その…えーと、何だ、大人の女としてどうこうっていう話に戻すとだな…」
「あ! そう、それ! 大事なことだよ!」
「わーかったよ、落ち着けよ。
 …まー、あんたはマムクートとしてだったら、子供なんだろうし、実際俺にゃ子供に見える事も多いけどよ」
「むー、ノノはおとなの女だもん」
 気まずそうに、言い難そうにグレゴが口籠りながら発した言葉に、ノノは身を乗り出して反応する。それに対して彼は待ったとでも言う様に両手をノノに付き出したのだが、そんな事を気にする彼女ではないとも知っていた。
「…ま、大人かどうかはこの際置いとくとして」
「置いちゃダメー!」
「話進まねえだろー?」
「…だって、おとなじゃなきゃグレゴはいつまでもノノのことこどもとしてしか見てくれないでしょ?
 そんなのやだ」
「大人であろうとなかろうと、あんたは女だろ。…あのな、女が無防備に男しか居ねえ天幕に入るもんじゃねえの。
 あんたこそ俺の事男として見てねえんじゃねえか?」
 グレゴが急に表情と声の調子を真面目なものにし、ノノの細い腕を掴むと、彼が言った事がすぐに理解出来たのか、そこで初めて彼女の体が強張り一瞬で顔が真っ青になった。グレゴより長く生きてきたとしてもノノには男女間の駆け引きの経験など殆ど無い筈で、しかし危険な目には幾度となく遭ってきたであろうから、今の状況がどんなものであるのか彼の言でやっと把握したのだろう。紫水晶の双眼に怯えの影を落とし、自分を見上げて体を縮こまらせた彼女の腕を、グレゴは苦笑しながらそっと離した。
「なーんてな。冗談だよ、冗談。悪ぃな、怖がらせたかった訳じゃねえんだ。…痛かったか?」
「…… …へーき…」
 か細い声で返事をしたノノの腕を見遣ると僅かに赤くなっていて、彼女の柔肌にとって自分の力がどれだけ強いものであるのかを再確認し、グレゴの胸に罪悪感が過る。しかしこれで無闇矢鱈と絡んでくる事も無くなるだろうと勝手に解釈して僅かにノノから離れた所に腰を落ち着けた。
 ノノはいつだって誰に対しても無防備だ。外見が怖ければ用心する様であるが、基本的に警戒心が薄い。その事に対してグレゴは多少なりとも苦いものを感じていた。世の中には色んな性癖の者が居るという事は自分よりもノノの方が知っている筈であるのに、彼女はそれを忘れているのか何の疑問も持たずにこうやって男が一人で居る天幕に入ってくるのだ。勿論それはノノがグレゴを全面的に信頼しているからであるし、彼も重々承知の事なのだが、もう少し男として警戒心を持ってくれても良いのではないかとも思う。
「…ノノも、ヘビ食べさせちゃったから、おあいこ」
「んー?」
「グレゴにやなことさせちゃったでしょ?だから、おあいこ。…仲直りしよう?」
「…ん…、」
 ぼそりと呟いたノノが小さな手を差し出し、仲直りの握手を求めてきたので、少し躊躇いはあったもののグレゴはその手をしっかりと握った。小さく柔らかいノノの手は、とても千年という長い月日を生きてきたとは思えない。しかし彼女は紛れもなく自分より長く生きていて、想像もつかない様な苦労をこの小さな体に重ねてきたという事をグレゴは知っている。イーリス軍に加入する前、二人で行動していた時、一人で寝かせると夜中に泣きながらグレゴの寝床に入ってきたノノは、過ぎ去った数多の日々の中で蓄積させてきた孤独感や悲しみを彼の体温で薄れさせようと必死だった。それはグレゴが両親と弟を亡くした不幸の上にノノという神を見付けた幸福を重ねた事に似ていて、それこそ女が男の寝床に入ってくるなと注意せねばならない事だったのだがこればかりはグレゴも何も言えず、傷付いた動物が身を寄せ合う様にして眠った。
 多分、その時からノノはグレゴの中で神ではなくて一人の女になった。しかしそう思う事は長らく竜や蛇を神として見ていた彼には憚られ、だからずっと「ノノは神様だから」と自分に言い聞かせてきて、その結果彼女に「大人の女として見て欲しい」と言わせてしまった。何とも、男として情けない事ではないか。
 ノノがいつ頃から自分に対して大人の女として見られたいと思い始めたのか、それはグレゴには分からないが、彼が鑑みるに己はほぼ最初から、所謂恋情の様なものを抱いていた訳なのである。あのペレジアの村で目覚めた時の事を考えれば、ほぼ間違いないだろう。外見からしてとんでもなく危ないというのは自覚しているので無意識の内に押し込めてしまったけれども、ノノから告白じみた事を言われてしまっては立つ瀬が無い。


――こちとら最初は天使だって勘違いしたっつーの…


 意識が回復したあの時、目に涙を溜めて自分を覗き込んでいたノノを見た際に抱いた感想を思い出し、グレゴは心の中で盛大な溜息を吐く。どうやら彼の中の神様は天使でもあり、このままいくと恋人になるらしい。何とも豪華な加護を齎してくれる存在じゃねえの、とグレゴは何となく苦い顔になる。そんな彼をノノは不思議そうに首を傾げて見たのだが、グレゴは何でもねえよと苦笑してから繋いでいた手をそっと放した。離れた柔らかなノノのぬくもりは、しかし彼の手にしっかりと刻み込まれていて、それがグレゴの苦笑を幸せなものへと変化させていた。