まだ陽が落ちていないがそろそろ傾きかけるかという時間帯の賑やかな大通りの中を、グレゴは罰が悪そうな顔をして歩いている。左手には自分の物ではない別人の剣を、そして右肩には大きな荷物を抱え、道行く人々がくすくす笑ったりにーさん大変だねーとジョッキ片手に声を掛けてくる中、黙ったままイーリス城の方角へと歩いていた。
クロムの婚礼の儀がある当日に、グレゴは出席する身でもないからと辞退して街中の見廻りを買って出た訳だが、その最中にロンクーから手合わせを挑まれたので、ロンクーの言う「卑怯な手」を使って戦わずして勝たせて貰った。その後、若人を落ち着けてやろうと酒に誘ったら、何とロンクーは下戸であったらしくジョッキの半分も飲まずに潰れてしまったのだ。マジかよ…飲めねーなら最初にそう言えっての…とグレゴはげんなりしながら自分が飲んでいた酒を一気に呷って勘定を済ませ、そして今ロンクーを抱えて城へと戻る最中という訳だ。酒を一気に呷ったとは言っても、酔うどころか逆に醒めてしまった。
ロンクーは見た目は少し細いが、矢張り剣を振るう者である以上は鍛錬を怠らず、鍛えてある所為か、見た目よりも遥かに重い。グレゴが肩に抱える時に思わず腰を庇う様な立ち方をしたくらいだ。割に合わねえ、絶対次は何か奢って貰わにゃ、とぶつぶつ言いながら店を出て、今に至る。見廻りの最中に酒を飲ませて潰したとなればグレゴだって立派に怒られてしまう立場なのであるが、これはもう事故としか言い様が無い。まさかあの程度で潰れるとは思わなかったのだ。
イーリスに居る間、グレゴもロンクーも騎士団の者達同様に宿舎が与えられ、そこで寝泊りしている。訓練場が隣接しており、騎士団の者達と訓練を共にしたり剣の手解きをしたり、そんな事をしている。ロンクーは女が苦手なので、グレゴは専らソワレの相手をしているが、負けん気の強い彼女は毎回挑んできては返り討ちに遭うという事を繰り返していて、それなりに退屈しなかった。彼女は最近夕食の時に村人のドニと色々話している様で、お互い突っ込んだ話もしているのだろう、ソワレが少し女性らしさを見せてきた気がする。良い事だ。
否、それはそれで良いのだが、問題は今の自分の状況なのだ、とグレゴは我に返る。とっととこいつを宿舎に帰して街中に戻るか、と足早に城門を抜け、宿舎を目指す。いい加減降ろさないと右肩がだるいし筋肉痛にもなりそうだ。…恐らく二日後辺りに。
「…… わああああ……!」
「?」
そして漸く宿舎が見えてきた時、遠くの方から何か慌てる様な声が聞こえて、グレゴは咄嗟に身構えた。身構えると言っても肩にロンクーを抱えているので大した構えは取れなかったけれども。だが見えてきたのは先程の喚き声の主であろう、ヴィオールが切羽詰った様な顔でこちらに走ってきていて、グレゴを見つけるなり助かったと言わんばかりの顔をしてそんなに速く走れたのかと思うくらいの速さで走り寄りガシっとグレゴの左肩を掴んだ。その表情は鬼気迫っていて、グレゴが少し怯んだ程だ。
「ああグレゴ君、良い所に戻ってきてくれた!貴族的に心の底から感謝するよ!!」
「何だぁ?何かあったのか」
「実はだね、婚礼の儀が終わってノノ君が退屈していたので、私は優雅に彼女との遊びに応じたのだ!」
「おいあんたまさか」
ノノの「遊び」はままごとだったりかくれんぼだったり、様々あるのだが、その中でも一番ハードなのは竜に変化した彼女との「遊び」だ。具体的には取っ組み合いであったり追いかけっこであったり、なのだが、
「ヴィオールー!!」
「来ーたー!!
 という訳でグレゴ君、もう私は貴族的に足がガクガクなのだ!!
 後は君に華麗に任せるよ!!では!!」
「では!じゃねーよ!おいちょっとまっ…」
…矢張りヴィオールがノノに提案されたのは「竜追いかけっこ」であるらしい。竜に変化したノノと追いかけっこをする、正確に言えば追い掛けられるという遊びで、グレゴも何度か付き合った事があるが、地獄の特訓なのではないかと疑う程きつい遊びなのだ。ロンクーを抱えた状態で竜に変化したノノに追い掛けられたら確実に体力的な意味で死ぬ。そう判断したグレゴはノノがこちらに来る前に逃げようとしたのだが、運悪く既にノノはそこまで来ていて、大きな羽音が耳を劈いた。あ、これ詰んだわ…と思わず諦めの乾いた引き攣り笑いが出た。
「あれー?ねえねえグレゴ、ヴィオールは?」
「…向こうに逃げたぜ」
しかしノノはグレゴの姿を認めると変化を解き、元の少女の姿に戻った。既に着替えた後らしく、昨日見た青いドレスではなくて普段の格好をしている。追いかけっこをしていたのだから当然の事かも知れないが。
「むうー、ヴィオール捕まえられなかったー。
 逃げるのは速いんだから」
「いやー、あの姿のあんたに追い掛けられたら誰だって逃げ足早くなるだろ…」
ノノが変化を解いた事に胸を撫で下ろしたグレゴは、これだけ騒いでも尚目を覚まさないロンクーに少し呆れていた。剣士は何時敵に斬り掛かられても良い様に、常に神経を尖らせておくものだ。酒は何があっても飲ませちゃいけねーって事だぁな、と一人で納得する。ロンクーも恐らく自覚はしているのだろうが、負けた手前断れなかったのだろう。
「ロンクーどうしたの?おままごとしてるの?」
「…なーんでおままごとなんだよ」
「えー?だってお母さんと赤ちゃんでしょ?」
「えっ俺が母親役なの?!」
子供、というか、ノノは時折突拍子も無い事を言い出すのだが、今回も全く予想が付かなかった事を言い出したのでグレゴは心底ぎょっとした。他人を抱えているからというだけで母親と赤ん坊を連想するその思考が凄い。そもそも性別自体違うではないか。
「良いなー!ノノもおままごとする!じゃあノノはお父さん役ね!」
「いやー、ちょっと待ってくれ、
 ままごとでも何でも良いから、取り敢えずこいつ置いてくるから、な?」
「お父さんって何するんだろう?ノノ、お母さん役しかやった事無いから分かんない」
「あのな、人の話聞け」
もうかれこれ四半時以上はロンクーを肩に抱えているグレゴはいい加減降ろしたくて堪らないのだが、ノノは全くそれを分かってくれていないらしかったので、彼は仕方なく宿舎に向かって歩き出した。そうすると漸くノノもグレゴが肩のロンクーを降ろして休ませたいと思っている事が分かった様で、とてとてと後ろをついてくる。
「あ!分かった!お父さんってこういう事言うんでしょ?
 えーと…誰が食わせてやってると思ってるんだ!気に食わないなら実家に帰れー!」
「実家とかねぇよ!何処で覚えたそんな言葉!」
「だめだよグレゴ、お母さんはそんな事言わないよー!」
「あー…あのなノノ、あんまりそういうセリフは言わねぇ方が良いぞ…
 何処で見てきたのかは知らねぇが、絶対それは良い家庭じゃねぇよ…」
「そうなの?」
そうなの?と聞かれてもグレゴだってお世辞にも良い家庭とは言えない環境で育ったので答えられなかったが、少なくともそれは良い家庭、夫、父親ではないだろう。俺のオヤジじゃあるめーし…と喉まで出掛かったが、寸での所で飲み込んだ。
グレゴの父親であった男は世間一般的に見てもろくでなしの分類に入り、とにかく酒を飲んでは暴れ、グレゴは殴られながら育った。母親は確か娼婦であった筈なのだが、もう顔もろくに覚えていない。同居していた女を母親だと父親が言っていたからグレゴも弟もその女を母と呼んだが、実際本当の母であったのかは未だに分からない。それでも弟は母親と違って、確実に血を分けた兄弟である事には変わり無かった。顔は似ていなかったが双子だったからだ。その弟を、父親の暴力から守る幼少期を過ごした。弟が高熱を出した時に無断で薬を買って飲ませたら、勝手に金を使ったと責められ木の上に三日三晩括り付けられた事もある。それがトラウマになっていて、グレゴは今でも高い所が苦手だ。あの時は高い所も怖かったし、弟が父親に酷い事をされていないか気が気でなかった。
「…ゴ、グレゴったら」
「…あ?ああ、すまん、何だぁ?」
「何だぁじゃないよ、ロンクーのお部屋、こっちだよ?」
「ああ、悪ぃな」
昔の事を思い出していたら歩きながらぼーっとしていたらしく、ノノが呼ぶ声でやっと我に返ったグレゴは慌ててノノが指差した部屋へ向かう。どうやら逆方向へ向かっていた様だ。ろくでなしの男の事を考えていても仕方ない、と、考えを切り替えてロンクーに宛がわれている部屋の扉を開けた。
必要最低限の荷物しか無い部屋の隅に設えられているベッドにロンクーを降ろし、やっと一息吐く。ずっと抱えていた所為で右肩が重くて、肩を回すとごきん、と音がして、思わずいって、と声を出してしまった。
「ロンクー、顔真っ赤だね。どうしたの?熱があるの?」
「酒飲んだんだよ。言っとくけどほーんとに少しだぞ?
 少しでこれだけ酔っ払って潰れるんだからすげーよ」
「お酒飲んだんだ、じゃあロンクーがお父さん役だね?」
「ままごとから離れようぜー?」
「えー」
ノノはどうやら遊び足りないらしく、事あるごとにままごとの配役を口にする。王族の婚礼の儀というものは往々にして厳かに行われるものであるから、恐らくノノにとっては退屈であったに違いない。それで女性に対して気の利くヴィオールが遊び相手を買って出た、という所だろう。ノノの遊び相手は正直言ってかなり体力を使うからヴィオールには辛い筈だ。これは遊び相手の矛先が確実に自分に向かうなとグレゴは思ったのだが、思った瞬間に何か奇妙な音が聞こえた。きゅるる、という。
「…何だぁ?あんた、腹空いたのか」
「…うん…」
「飯は?食ってねーのか?」
「食べたけど、ドレス汚しちゃ悪いなーって思ったからそんなに食べられなかった…」
奇妙な音の正体はノノの腹の虫であった様で、どうやら彼女は空腹であるらしい。考えたらグレゴも昼にパンを齧った程度で食事らしい食事をしていない。ノノの腹の虫を聞いたら自分まで一気に腹が空いてしまった。
「そうかい、そーれじゃあ、飯でも食いに行くかぁ」
「良いの?」
「俺も腹減ったしなー。見廻りがてら食えば良いさ」
「うん!」
幸い余剰金もあるし、という余計な一言は言わなかったグレゴは、風邪でもひかれたら困るので取り敢えずロンクーに薄い毛布を被せてからノノと一緒に退室した。何時目を覚ますかは知らないが、剣は傍らに置いてやっているので危険な事も無いだろう。
「やあグレゴ…さん、お疲れ様。戻ってきてたんだね」
「よーう、お疲れさん」
宿舎から出ると、丁度訓練場に向かっているソワレやソール達が居て、声を掛けてきた。ソワレがグレゴにさん付けしているのは、訓練での手合わせで敗北したからだ。さんを付けないと返事をしないと言っている辺り、グレゴも大人気ないという事に本人は気付いていない。
「見廻りしてたんですよね?僕達、交代しますよ」
「んー?でもお前ら、さっきまでパーティだか何だかに出てたんだろー?
 少し休んどけよ」
「十分休みましたから…大丈夫ですよ…うん…」
「うおっ、居たのかカラム」
「ずっと居ましたよ…」
存在感の無いカラムが居た事に全く気付いていなかったグレゴは、いきなり聞こえた彼の声に驚いて変な声を出した。手練れの者であっても存在に気付き難いというこのカラムという男は、得をしているのか損をしているのか分からない。戦場であれば確実に得をしている筈だが、日常生活の中では間違いなく損をしている。
「ノノはどうしたんだい?確かさっき、ヴィオールと遊ぶと言っていた気がするけど」
「ヴィオール逃げちゃったの。だから今からグレゴとごはん食べに行くの」
「…へえー…」
「へー」
「へー…」
「なーんだよお前ら、その反応は」
ノノがソワレの問いに答えると、ソワレもソールもカラムも感心した様にグレゴを見たので、心外だと言わんばかりにグレゴは眉を顰める。しかしここにヴェイクが居なくて良かったとも思った。多分居たらおっさんだけじゃ心配だし俺様もついてってやるぜー!とか言い出して煩いだろう。
「ねえねえ、ヴェイクはどうしたの?」
「ヴェイクは…潰れちゃったね…。今ミリエルさんが介抱してるよ…」
「あー…」
そのヴェイクが居ない事に気付いたノノが尋ねるとカラムが静かに答え、そしてグレゴが納得した様に声を上げる。ヴェイクにとって永遠のライバルである(らしい)クロムの結婚だったので、つい飲みすぎてしまったのだろう。ロンクー同様潰れて使い物にならない訳だ。しかしソワレ達騎士団が直々に見回っていると知ると、民衆達もそこまで騒ぎを起こさないだろう。
「ま、それはそれとして、ボク達も支度をしたら直ぐに出るし、
 君達はゆっくり食事をすると良いよ。
 ノノ、グレゴのお・じ・さ・ん、に美味しいものを奢って貰いなよ」
「うん!」
「おじさんを強調すんな。ノノも突っ込め」
「えー、だってグレゴはおじさんだもん」
「それ言ったらあんたはおばああああああさんだろが」
「むー、ノノはおねーさんなの!!」
「あのぉ…そろそろ行った方が良いと思いますよ…
 お腹空いてるんでしょ…?」
「お、おぉ」
ソワレが失礼な事を言ったのでグレゴが突っ込んだのだが、彼とノノが言い合いになりそうであったのを察知したカラムが邪魔して悪いけど、と言いたげに口を挟んでくれたお陰でその場は収拾がついた。普段余り会話をしないカラムだからこそ収める事が出来たのかも知れない。じゃあな、とグレゴとノノの二人はソワレ達に別れを告げて、何食べよっかー、だの、あんたの好きなもん食えよ、などと話しながら城外へと向かったのだが、その後姿をソワレやソール、カラムが微笑ましく見送っていた事を、彼らは知らなかった。



城下へ出ると夕暮れが近いにも関わらず、大通りは大勢の人で賑わっていた。今夜は夜通し祭り状態であろうから、夜遅くまでこの調子だろう。これだけ人が多いと、ただでさえ色々なものに興味を示して寄り道をしてしまうノノが迷子になる可能性が高くなる。
「ぼさっとすんなよー?逸れても知らねーぞ?」
「うー…」
何時もであるなら、ノノはここで「逸れないもん!」とか、そんな調子で言い返すのだろうが、今日は違っていた。本当に人が多くて逸れてしまいそうで不安なのだろう。戻る場所は決まっているので逸れても危険ではないけれども、探し回るよりは逸れないに越した事はない。何処の国のどんな者が居るか分からないし、祭りの最中に子供を攫う犯罪というのも多いのだし。
「ねえねえグレゴ、お手て繋ごう?はぐれちゃうよ」
「………あー…、 …うーん…」
そして困った様に見上げて小さな手を差し出したノノに、グレゴも困った様な顔をする。確かに手を引いて歩いた方が逸れないから良いのだが、グレゴには思う所があるのか、まーいったな…と小さく言いながら短い頭髪の頭をガリガリと掻く。しかしノノが困った顔のまま小首を傾げたので、渋々その小さな手を取った。
ノノの歩幅とグレゴの歩幅は当たり前だが違っていて、グレゴはノノと歩く時はきちんと自分の歩幅を小さくする。出会った時の砂漠ではノノの歩くスピード、走るスピードが分からなかったので、つい離れがちになってしまっていたのだが、今ではもうそういう事は無い。ノノもそれを分かっているのか、グレゴと並んで歩く時は心なし歩幅を大きくする。そうすると、お互い丁度良いスピードで進む事が出来る。
ノノはこの時初めてグレゴと手を繋いだのだが、見た通りその手は大きく無骨で硬く、荒れていた。手のひらには何度も潰れたのだろう肉刺の痕の感触がいくつもある。そして、意外な事に柔らかな温もりがあった。熱いだけかと思っていたのだがそうではなく、温かかった。手に触れられるのが嫌だから繋ぐ事を渋ったのだろうかとノノは思ったのだけれども、それとは少し違う気がする。
「…で、何食いたんだ?」
暫くお互い無言で歩いていたのだが、思い出したかの様にグレゴがそう聞いてきたので、ノノはうーん、と首を傾げながら考えた。空腹ではあるが具体的に何が食べたいのかと聞かれても、すぐには思いつけない。
「おいしいものが良いなー」
「いやー…誰だって不味いもんは食いたくねーだろ…」
大変曖昧な答えが返ってきて、グレゴはそうくるかと眉を顰める。彼が食事を摂る所と言えば場末の酒場であったり、適当な出店で買って食べたりするのだが、流石にそんな所にノノは連れて行けない。お互い空腹であるのだし、大通りに面した適当な食堂であればまず間違い無いだろうと判断し、目に付いた店を覗くと丁度座れそうだったので入った。…給仕していた女性が可愛かった、というもの理由の一つだったのだが、勿論そんな事は口には出さずに。
「いらっしゃいませー。メニューどうぞ」
「ん、ありがとな。ほい、選びな」
「うん」
店内はそこそこ客が入っていたが和やかな雰囲気で、空いていた丸テーブルの席に向かい合って座るとコップに入った水を盆の上に乗せた給仕の女性がメニューが書かれた紙を渡してくれた。グレゴはそれを受け取り、そのままノノに渡す。
「んーっとぉ…ミートスパゲッティーにする」
「…ねーさん、小せぇサラダとかあるかい?」
「ええ、これくらいの大きさの生野菜サラダがございますよ」
「んじゃそれ、こいつに頼む」
給仕の女性に尋ねると、彼女は自分の手で小ぶりな皿の形を作って大きさを表現してくれたので、その程度だったら食べられるだろうと判断したグレゴはノノを指差しながら注文した。案の定、ノノは不服そうな顔をした。
「えー、ノノ、サラダいやー」
「野菜食え、好き嫌いすんな。大人なんだろー?
 俺はー…おぉ、ライスがある。
 バターライスとボラの香草焼き、…と、玉葱とナツミカンのマリネ」
「ライスの量はいかがなさいますか?」
「山盛りくれ。あとクヴァス1杯」
ノノの抗議を軽く受け流し、グレゴも目に付いて食べたいと思ったものを適当に頼んだのだが、ナツミカンの表記を見て思わず追加してしまった。彼はナツミカンが好きで、それが入っていれば何でも食べる。仮令それが余り好きではない玉葱とのマリネであったとしてもだ。
「承りました、暫くお待ち下さいねー」
給仕の女性は彼らの注文を聞くとメニュー表を持って厨房の方へと向かって行き、他の客への給仕もし始めた。他にも3人程給仕係は居る様だが、彼女が目立たない様に他の女性達に指示を出している辺り、多分リーダー格なのだろう。
「さっき、ごめんね?」
「んー?何がだぁ?」
そして先に出されたクヴァス(ライ麦と麦芽の微炭酸・微アルコール飲料)を飲んでいると、何故かノノが謝ってきたので何事かと思って聞き返したのだが、ノノは少ししょんぼりした様な顔をした。彼女がこういう表情をするのは珍しい。
「お手て、繋ぎたくなかったんでしょ?」
「…あー、いやー…別に嫌って訳じゃなかったんだが…」
「人さらいに見えるから?」
「なーんであんたはそう失礼な事を素で言うんだよ…」
繋ごう、と手を差し出した時、困った様な顔をして渋ったグレゴに、ノノは少しだけ違和感を覚えたのだ。フェリアとペレジアの国境にある砂漠で助けて貰った時、クロム達から連れ去りと勘違いされた程度にはグレゴは人相が宜しくないので、あの雑踏の中でもそう勘違いされるから嫌だったのだろうかとノノは思ったのだがそれも違った様だ。グレゴはクヴァスを一気に飲み干すと、無骨で大きな手を掲げてノノに見せた。
「手、の別の呼び方、あんた知ってるかぁ?」
「手?えっと… …てのひら?」
「あー、惜しい、それの他には?」
まるでなぞなぞを出された気分でノノが答えたのだが、グレゴはちょっと違う、と言いたそうにひらひらと手を振る。だがノノはそれ以外の呼び方を知らなかったので降参し、分かんないと首を横に振った。
「たなごころ、だよ」
「たなごころ?」
そして言われた答えに、ノノはおうむ返しに聞き返した。聞いた事はある単語だが、使った事は無い。何処か古めかしいその言い回しを、ノノは使う機会が無かったのだ。口にしている人も、ノノは長い事生きてきたけれども殆ど見た事が無い。
「おぉ。た、は手の事な。手綱とか、手繰るとか言うだろー?
 な、は「の」の意味だな。で、心だ」
珍しい事に、グレゴは単語を分解しながら丁寧にノノに説明する。例えば彼の口から戦い方の説明が出るのは全く以て珍しくはないが、こういった文学的な事を口にするのは珍しいと言うか、失礼かも知れないがノノは意外に思った。恐らくノノでなくてもそう思うだろう。
「つまりな、手の中に心があんだよ。
 手ぇ繋ぐって事ぁ、その相手の心を触ったり繋いだりする訳だ。
 心ってなぁ、むやみやたらに触ったり繋いだりするもんじゃねぇだろー?
 だから、な」
「へえー…」
そうしてグレゴは、見える筈の無い「心」がさもその手のひらの内にある様に見せ掛ける。まさか彼がそんな考えの持ち主であったとは知らなかったノノは素直に感心したし納得した様な声を上げ、じっと彼の手を見た。しかしグレゴは苦笑しながらその手を下げ、今度は水を一口飲んだ。喉が渇いているらしい。
「なーんてな。全部弟からの受け売りだけどな」
「え?グレゴ、弟が居るの?」
「…居たんだよ。もう死んだ」
「…そうなの」
グレゴの死んだ弟は幼い頃に父親から守る為グレゴが良く手を引いていた所為か、10才を過ぎても手を繋ぎたがった。流石に思春期に入った頃にそろそろ手ぇ繋ぐのは卒業しろとグレゴが言ったのだが、手のひらってたなごころって言うんだって、手の中に心があるんだよ、僕は兄さんと繋ぎたいなと言われて結局止めさせる事が出来なかった。だが、そんな弟はとうの昔に喪われた。グレゴにはもう手を引き、心を繋ぐ相手は居ない。目の前で奪われてしまった。
ノノにもその「心を繋ぐ」というのは分かる。昔好きだった男と手を繋いだ時、その手の温もりが自分にも移って自分の体温と同じになるのが嬉しかった。あんなに安らかな気分になれていたのは彼の手の中に心があったからなのだと、ノノは300年を経て漸く知った。剥き出しの心に触れる事、そしてそれを繋ぐ事を許してくれていた事にやっと気付いたのに、もう礼さえ伝えられない。そう思った瞬間、ノノは頬肘をついてテーブルに置いた自分の手のひらを眺めていたグレゴのその手にぽすんと小さな手を置いた。
「…な、何だぁ?」
「…なーんとなーくだよー」
グレゴの手は、あの男の手に少し似ていた。大きくて無骨で、荒れていて、硬い。だけどその手が優しく自分の頭を撫でたり頬を包んでくれる事が、ノノは大好きだった。グレゴは弟にもう会えない。同じ様に、ノノはあの男にもう会えない。二人共、大切に思う相手と繋ぐ事は二度と出来ないのだ。一緒だね、とは口に出さなかったが、ノノはそんな事を考えていた。
「はーい、すみません、お待たせ致しましたー。
 スパゲティにサラダ、バターライス大盛りとボラの香草焼き、玉葱とナツミカンのマリネでーす」
騒がしい店内に似つかわしくなく奇妙な沈黙が流れていた二人の間にタイミング良く元気な女性の声が割り込んできて、二人は我に返ったかのようにぱっと手を離した。そこに料理を置かねばならないというのもあるし、あんな話をした後に何故か手を繋いでしまったという気恥ずかしさもある。運んできたワゴンから降ろされて並べて貰った食事を見ると一気に空腹が増して、二人は取り敢えずフォークを握ると給仕の女性に礼を言ってから無言で食べ始めた。
普段のノノが食べるスピードはそこまで速くないが、今日は本当に空腹だったのだろう、嬉しそうににこにこしながらスパゲティを食べている。食事を美味しそうに食べる事が出来るというのは、それだけで美徳だ。作った人間であろうと一緒に食べている人間であろうと、その姿を見て喜ばない者は居ないだろう。ノノは自分の好物であれば本当に美味しそうに食べる。食べ物の好みが思い切り子供である所が難点ではあるが。そして案の定、サラダの方には殆ど手を付けていなかった。
「おい、スパゲティも良いけどサラダも食え」
「だってサラダ、トマトが入ってるんだもん」
それをグレゴが咎めると、ノノは表情を一転させて口を尖らせた。野菜が嫌いというよりトマトが嫌いらしい。ミートソースもトマトが原料なのに、不思議な事を言うものである。生と加熱したものでは確かに味わいも風味も違うものだし、実際加熱したものだと食べられると言う者も居るには居る様であるが。グレゴも玉葱は加熱していない生のものは余り食べたいとは思わない。ナツミカンが入っているから頼んだだけだ。
「食えよトマトぐらい。大人のおねーさんなのにトマトも食えねーのかぁ?」
「大人もこどもも関係ないもん!」
「そうかぁ…?
 あーあー、大人のおねーさんがミートソース顔に付けてんじゃねーよ…」
抗議したノノの口元にソースがついているのを、しょうがねえなと言いたげにグレゴが指で拭いてやる。残念ながら彼はハンカチなどという気の利くものは持っていなかったので指になってしまったが、ノノは大して気にしていない様だった。
確かに野菜の好き嫌いは大人も子供も関係無いのかも知れないが、出されたら食べるという行為が出来るのは大人である証拠な気がする。出されたサラダにはくし型の大きなトマトが2つ鎮座しており、グレゴは仕方なくその内の一つに自分のフォークを刺すとひょいと自分の口に収めた。
「一つは手伝ってやるからあと一つは食え。ほら」
そしてグレゴが残った一つに同じ様にフォークを刺してずい、とノノの口元に持っていったのだが、ノノは困った顔を通り越して泣き出しそうな顔をした。しかしグレゴは俺が苛めてるみてぇじゃねえかその顔止めろ、とは言えなかった。言ったら十中八九「おじさんが苛めるよー!」と喚くに違いなかったからだ。こんな所でそんな事を叫ばれたら本気で人攫いに間違われてしまう。
「うぅー…トマトいやー…」
「よーし分かった、食ったらオレンジジュース飲ませてやる」
「オレンジジュース?」
「あぁ、好きだろあんた。だから食え」
「……うー…」
とうとう涙声になり始めたノノに、妥協案として彼女の好物であるオレンジジュースの名を出してみる。確かメニュー表の一覧に連ねられていた筈だ。苦手なものを克服させるには褒美が無いといけないとグレゴは思っているのでそう言ったのだが、どうやらそれが功を奏した様で、暫くトマトを睨んでいたノノは意を決した風に目をぎゅっと瞑ってぱく、とトマトを口の中に入れた。瞑った目に涙を浮かべながら咀嚼し、押し込むように嚥下する。
「うぅ… ぐすっ、」
「よーし良く頑張った、ねーさん、すまねぇけどオレンジジュースくれねぇか」
嚥下し終わるとノノが本格的に泣き始めたので、グレゴがぽんぽんと彼女の頭を撫でながら近くに居た給仕の女性に声を掛けると、女性はにこにこ笑いながらかしこまりましたと言って厨房付近に居た別の給仕の女性に手を挙げ何かの合図を出した。すると、大体の店というのは注文を受けてからオレンジをプレス機で潰してジュースを作るものなので多少時間が掛かる筈なのだが、すぐに出てきた。
「んー?なーんか早くねえ?しかも多くねえ?」
「うふふ、悪いなーとは思ったんですがお話が聞こえちゃってて。先に搾っていたんです。
 あと、頑張ったご褒美でちょっと多めです」
「だってよ、良かったなー」
「わぁー、有り難う!」
どうやら会話内容は給仕の女性達には聞こえていたらしく、それであるならば注文してすぐに出てきたのも分かる。だがこんな子供に対して苦手な野菜を食べさせようとしているという、ちょっと情けない会話内容を聞かれていたというのも恥ずかしい。それでもノノはそんな事を全く気にしてないのか、すぐに機嫌を直してジュースが入ったグラスを両手で持って幸せそうに飲み始めたので、泣いたカラスが何とやらだな、とグレゴは思わず苦笑してしまった。ノノは単純だ。
暫くして食事も終わり、グレゴが途中で頼んでいたクヴァスの2杯目を最後に飲み干してから会計を済ませると、例の給仕の女性がまた来て下さいね、とにこにこしながら二人にキャンディーをくれた。今日は祭りなので来客にキャンディーを用意しているらしいのだが、ノノにウインクしながら1つ多く渡してくれて、ノノも嬉しそうにまた来るね!と返した。しかし恐らくその際は自分が連れてくる事になるのだろうとグレゴは微妙な顔つきになる。ノノは場所を覚える事が苦手なので多分一人では来れないだろう。ごっそーさん、と女性に言ってから外に出ると、人通りは食事前に比べて減っていたとは言え暗くなっていて、グレゴは頭を掻いて思案したが結局ノノにほれ、と手を差し出した。
「ごちそーさまー。有難う、グレゴ」
「どーういたしましてー」
その手を取って歩き出したノノが礼を言ってきたので、グレゴもそれに返す。食事をする前はノノを城へ送り届けたら一人で酒でも飲みにまた出るかと考えていたのだが、空腹が満たされるとそれが億劫になってきてしまった。喉が渇いていたのでクヴァスを2杯も飲んでしまった所為もあるだろうし、城下へ出るのは今日二度目なので流石に三度も出てくる気にはなれなかった。戻って大人しく訓練場で素振りでもするか、とグレゴが考えていると、ノノから手をくいくいと引っ張られた。
「ねえねえ、あれ、ユーリかな?」
「んー?…ああ、ユーリと…
 …ほーぉ?ありゃーアンナか?」
ノノが指差した先には、薄暗くて目を凝らさないと判別がつかなかったが確かにユーリが居て、その傍らにはアンナが居た。アンナが楽しそうに喋り、ユーリが微笑んで黙って聞きながら時折相槌を打っている。ユーリは朴訥な青年ではあるが、その人柄は軍内でも非常に好かれ、今やクロムにとっては唯一無二の親友となっている様だ。仲間内の連携が円滑に進む様にと色々気遣って橋渡しをしている事も多いのだが、特定の、しかも異性とあんな良い雰囲気で居るのは珍しい。珍しいどころか、初めて見る。
クロムと共に行軍してきた者達の中には、クロムの様に異性を意識し、そして良い雰囲気になっている者も少なくない。戦いの中で深まる仲もあるだろう。若いねえ、とグレゴはにやりと笑い、ノノに邪魔しちゃ悪ぃしとっとと行くぞ、と言って手を引いてまた歩き始めた。クロムも結婚した事であるし、ユーリもあの調子であれば案外早いかも知れない。
「グーレゴさーん。に、ノノー」
そして人ごみの中を城門に向かって歩いていると、何処からともなく聞いた事があるまだ幼い声が自分達を呼んだ気がして、グレゴがその声がした方へと顔を向けると、リヒトがマリアベルと連れ立ってこちらへと歩いてきていた。背が伸びきっていないリヒトはマリアベルと並んでも身長がほぼ同じで、この人ごみの中ではグレゴも呼ばれなければ見つけられないかも知れない。
「おー、どうしたリヒトにマリアベル。お前らも飯でも食いに出たのか?」
「ううん、見廻りがてらグレゴさん探してたんだ。
 絶対見付からないだろうねーって話してたんだけど、見つけられて良かったぁ」
「んー?何だぁ?何か用事か?」
通行の邪魔にならない様に道の端へと移動して、リヒトがマリアベルと顔を見合わせて照れ臭そうに笑う。おんやぁ?とグレゴが思ったと同時に、リヒトはマリアベルとぎゅっと手を繋いでえへへ、と笑った。
「あのね、僕達結婚するんだ。ね、マリアベル」
「ええ。これからの人生を共にする事を決めましたの」
「わぁー、そうなんだ!おめでとう!!」
「有難う御座います、ノノさん」
「……… …ほー」
「グレゴさん、反応遅いよ」
リヒトの報告にすぐ反応して祝いの言葉を述べたノノに対し、グレゴは思い切り反応が遅れた上に感心した声しか出せなかったので、リヒトから苦笑されてしまった。確かに仲が良いとは思っていたし、最近良く紅茶を一緒に飲んでいるとは思ってはいたが、まさかこの二人が真っ先に結婚を決めるとは思っていなかったのでそういう反応しか出来なかったのであるが。
「クロムさんが結婚したからって訳じゃないんだけどね。
 でも、踏み切るには良い時期かなって思って」
「そうかぁ、なら、何か祝いの一つや二つ、用意しとくからなー」
「ううん、いらないよ!
 記録付けるのにお世話になってるから、一番最初に教えかったんだ」
「わたくしも助けられた事がありますし、同意したんですの。
 ノノさんにもお祝いしていただけて、幸せですわ」
「マリアベルも花嫁さんのドレス着るの?ノノにも見せて欲しいなあ」
「勿論ですわ!」
本当に幸せそうに笑うリヒトとマリアベルは、グレゴから見ても良いカップルに見えた。先程のユーリとアンナとはまた違った雰囲気で、子供らしさが残ってはいるが。しかし本当にまさかこの二人がクロムとスミアの次に結婚するとは思ってもいなかったし、グレゴがそう思うという事は、恐らく他の者も同じ事を思うだろう。これを機に、ひょっとしたらプロポーズを躊躇っている者は申し込みをするかも知れない。例えばユーリとか。
「ではわたくし達、他の方々を探してご報告しますわね。
 お引止めして申し訳ないですわ」
「あれ?でもマリアベル、さっきそろそろ帰ろうって…」
「いーえ!わたくし達を祝福して戴かなくてはなりませんもの!
 参りましょう、リヒトさん。
 ではごきげんよう、グレゴさんにノノさん」
「おー、ごきげんよう」
「ごきげんよー!」
リヒトの言葉を遮ったマリアベルは、少々強引にリヒトの手を引いて城とは反対の方向へ向かって歩き出した。リヒトも慌ててそれに従い、またね!と手を振って雑踏の中に消えた。あれは多分、マリアベルの尻に敷かれるだろう。グレゴとノノは知る由も無いが、この後リヒトはマリアベルから「折角あんなに仲睦まじく手を繋がれていましたのに、お邪魔をしてはいけませんわ!」と叱られる事になる。
「そっかー、リヒトはマリアベルと結婚するんだね!
 マリアベルの花嫁さん姿もきれいだろうね」
「元が良いからなあ、マリアベルは。さぞ別嬪な花嫁になるだろうなー」
「そう言えばグレゴはおじさんなのに花嫁さん貰った事無いの?」
「だからおじさん言うな。ねぇよ」
「へーぇ」
「なーんだよ、にやにや笑いやがって…」
「べーつにー」
そして二人は、専らリヒトとマリアベルの話題を中心に取り留めの無い事を話しながら、歩幅を合わせてリヒト達とは正反対の方角へ再び歩き始める。その手は食堂を出た後からずっと繋がれていたのだが、二人共その事を失念していて、城に戻るまで気が付かなかった。グレゴの心に触れ、繋げらていたのか、ノノには分からなかったけれど、少なくとも悪い気はしなかったし、拒絶されなかったという事だけは分かっていた。大きくて無骨で硬くて、だけど温かなその手は、遠い昔の恋人のそれの様に安心を与えてくれている気がしていた。