もう日付も変わってしまったであろう時刻に、薄暗い部屋の中で、二人の男が差し向かいで酒を飲んでいる。二人とも言葉は無く、ただ黙って酒を飲んでいる。否、飲んでいるのは壮年の男だけで、黒髪の若者は殆ど口を付けていなかった。下戸である彼は酒は殆ど飲めないので、飲めるだけを口に付けている様だ。
サイリの兄であるレンハを撃破し、ヴァルハルトは帝都へと引き返したらしい。だが、その前にクロム達は信じられない報告を聞いた。バジーリオが戦死したというのだ。何かの誤報ではないかと疑うクロムやルキナに、バジーリオと共に行動していた筈のフラヴィアが現れ、本当であるという事を告げた。その報告はクロムやユーリ、ルキナだけではなく全軍に衝撃を与え、オリヴィエはその場で泣き崩れてしまったのでフレデリクが抱き上げて宛がわれた部屋へ運んでいた。
バジーリオの訃報の衝撃は勿論黒髪の若者、ロンクーにも齎されたし、壮年の男、グレゴにも同様だった。今彼らが飲んでいるのはバジーリオへの弔い酒だ。だから言葉は無い。グレゴの隣ではフラヴィアが突っ伏して寝ているが、彼女は酒が強い方ではあるのだけれども流石に今日の酒は酔いが回るのが早かった様で、早々に潰れてしまった。特にロンクーとグレゴの二人を相手に手合わせをした後であったから、余計に回るのが早かったらしい。バジーリオが何時も好んで飲んでいた度数の高い蒸留酒だったから当たり前かも知れない。後で部屋に運ばねえとな、とグレゴは空になったグラスに手酌で酒を注ぎながら考えていた。
「本当に…死んだのか」
そしてロンクーがぽつりと呟いた言葉に、そんなもん俺が知りてぇよと思ったグレゴは無言で無理矢理ロンクーのグラスに酒をなみなみと注いだ。殆ど減っていなかった酒がまた増えてロンクーは顔を顰めたが、文句は言わなかった。
「信じられるか、あの男が…そんな簡単に、死ぬなんて」
「簡単かどうかは知らねぇが、生きてると信じてぇもんだな」
「………そうだな」
何度か述べたが、グレゴにとってもバジーリオという男は恩人だ。傭兵という職業が真っ当なものかどうかは別としても、弟を喪って捻じ曲がり過ぎたグレゴを矯正して、何とか協調性を持たせてくれた。バジーリオから学んだ事は多く、それはロンクーだって同じ事だろう。二人はとてつもなく大きな存在を喪ったと言えた。お互い、涙は出なかったけれども。
フラヴィアも先代であり肩を並べて国を治めていた男を連れて戻れなかった事を酷く悔やみ、ユーリやルキナと同じ様に自身を責めた。恐らく一番自責の念に駆られている筈だ。ぼろぼろの風貌で、それでもまた出陣しようとした所をクロムが諌め、止めた。その後リズ達が治癒にあたったが、傷が回復するや否やロンクーを呼び出して剣を交え始めたという訳だ。何も考えず剣を振るわなければ頭がおかしくなりそうだったのだろう。勿論ロンクーだってかなりの手練れなので彼女の剣を受け止める事は出来るが、大きな存在を喪った者の剣は憎しみと哀しみが篭り、その思いの分だけ重たい。ロンクーには荷が大きすぎるだろうと思ったグレゴが、俺も相手になりますよと申し出たのだ。実際、彼女の剣は重くて鋭くて、迷いは無かったが怒りでぶれていた。だからグレゴはそんなんじゃヴァルハルトは討てねぇよという思いを篭めて、フラヴィアの剣を叩き折った。それ以上やると、どちらかが大怪我を負ってしまいそうだったというのもあるが。
「そんな男の軍と戦わねえといけねぇんだから、
 気合入れて訓練しねえとなー」
「…明日、酔いが残ってなければ相手をしてくれ」
「お前の?俺の?」
「俺のだ」
「お前、ほんっとーに酒弱ぇなー」
「…放っておいてくれ…」
少ししか飲んでいない癖に、既に少し気分が悪そうなロンクーがグレゴに明日の訓練の相手を頼んできたのだが、これでは無理だろう。明日には恐らく帝都へ向けて出発する筈だが、死人の様な面構えで隊列に加わるに違いない。朝起きた時に、妻であるベルベットが二日酔いに効く茶でも淹れてやってくれれば良いのだが。
そして、グレゴが一向に目を覚ます気配の無いフラヴィアを何とか気合で抱え上げて部屋に運んで戻ると、ロンクーは矢張り潰れてしまったのか突っ伏して既に眠っていた。これは予想通りだったので仕方ないのだが、何故かそのロンクーの隣に、短い金髪の、一見すると無愛想な男が座って勝手に酒を飲んでいた。
「…何だぁ?ユーリ、眠れねぇのか」
「ん…、ちょっと、な」
男は、この軍の軍師であるユーリだった。彼は夜番でない限りはきちんと睡眠をとっている様なのだが、眠れなくて妻のアンナを置いてベッドから抜け出してきたのだろう。グレゴはユーリの差し向かいに座って、自分のグラスに残っている酒を飲み干してからまた手酌で注いだ。
「嫁の添い寝が効かねーのか、贅沢な奴だなー」
「いや、勿論効果は抜群だけど。…でも、やっぱり眠れない日くらいはある」
「…ま、そりゃー、な」
ユーリは軍師であるが故の葛藤や悩みが絶えない。グレゴは経緯を良く知らないが、イーリスの領地で倒れていた所をクロムやリズによって保護され、記憶喪失のままあれよあれよと言う間にその才能をクロムに買われて軍師になったのだと言う。勿論最初は極少数の人数の行軍を指示していた様だが、クロムが率いる自警団が段々と大所帯となり、今ではイーリス正規軍だ。その正規軍の軍師を、ユーリは変わらず勤め上げている。戦争だから仕方ない事とは言え、死者の数も多くなっていくし、自分の判断ミスで死ななくても良い者達が死んでいくのだ。エメリナの時も、今回のバジーリオの時も、ユーリは自分を責め、一人で苦悩している。その痛みや苦しみを誰かと分かち合おうとはしないのだ。半身と称するクロムや、伴侶であるアンナにさえも。自分一人の業として、背負っていくつもりなのだろう。
グレゴとしてはそれは間違っていると思うのだが、本人が頑として聞きそうにもないし、また受け入れるつもりも無さそうなので黙っている。能天気に笑っていたならそれはそれで考え物ではあるけれど、ユーリはそうではない。グレゴが出来る事と言えば、迷いを吹っ切る為に魔道書より得意ではない剣を携えて稽古をつけてくれと言うユーリの頼みを聞くくらいだ。剣は心の鏡だから、迷いも出れば吹っ切れも出る。逆を言えば、言葉よりも剣を交える事で思いをぶつける事も出来る。ぐだぐだ悩んでねぇでもっと仲間に頼れ、そういう念を刃に篭めてグレゴはユーリと剣を交わすのだ。ユーリの様な若造が一人で背負うには、その業は大きすぎる。
「それはそうと、嫁が添い寝と言えば、グレゴ」
「んー?」
「あんたらは何時結婚するんだ?」
「…はぁ?」
そんなユーリが唐突に切り出した話が余りにも突拍子が無くて、グレゴは素っ頓狂な声を出した。全く関係の無い話題の様な気がしたし、そんな事を聞かれるとも思っていなかったので、思わず口に運んでいたグラスの酒を少し零してしまった。大体「あんたら」とは何だ。俺と誰の事を指しているんだ、とグレゴは思ったが、正直思い当たる相手が幸か不幸か一人しか居ないので、その疑問を口にする事は無かったけれども。
「はぁ?じゃない。
 もうあの時にプロポーズしたものだと皆思っていたのに、まだなんだろう?」
「…ちょ、ちょーっと待て、皆って何だぁ?」
「皆は皆だ。
 俺はてっきり「俺がお前を一生懸けて守るからな」とか言っているものかと思っていたのに、
 プロポーズもしてないなんてガッカリだよ」
「手ぇ握んな、気持ち悪ぃ」
想像を再現する為なのだろう、ユーリがグラスを持ったままのグレゴの手をそっと両手で包んできたので心底気持ち悪く、グレゴは眉間の皺をぎゅっと深くしながらそのユーリの手を払う。少し鳥肌が立ってしまった。ユーリはそれでも大真面目な顔をしているから、これは本気だ。
多分ユーリの言う「あの時」というのは、先だってのレンハ軍との戦闘でノノがグレゴを庇った際に大怪我を負った後、重傷者の救護用の天幕でグレゴがずっとノノの側についていた時の事を指しているのだろう。しかしグレゴにしてみれば(周りから言わせれば大変遅いのだが)その時にやっと自覚したのであって、その勢いで求婚などする筈もない。
「あーのなあ…
 俺だってあん時にやーっと自覚したんだ、即プロポーズとかするかよ」
「意外だな。普段女に声掛けまくってる癖に」
「それとこれとは話が別だろぉ?」
「じゃあ、するんだな?」
「………すぐには、しねぇよ」
「何で」
「何でって、そりゃーお前、バジーリオさんが死んだすぐ後に結婚とかしねぇよ」
この場にバジーリオの名を出す事は気が引けたが、それがグレゴの思いだ。恩人とも言える男が死んだ直後に女に求婚する気にはなれなかったし、そもそも全軍がそんな雰囲気ではない気がした。しかしユーリは畳み掛ける様に背筋を伸ばしながらグレゴを見据え、そして言った。
「クロムはエメリナ様が死んですぐ結婚しただろ?」
「…いやー、それとこれとは話が」
「違わない。
 良いかグレゴ、俺達はあんた達がどれだけ信頼し合ってるか知ってるんだ。
 傍目から見ても好き合ってるのは十分分かる。
 あんたが躊躇ってるのは、ノノがマムクートだからだろう?
 俺達が死んでもノノは生き続ける、だから彼女を置いて逝く事になる。
 それが嫌か、怖いのか?」
「………」
ユーリが言った事は、いちいち全てグレゴの本音だった。勿論バジーリオが死んだ直後に自分が誰かに求婚する事は気が引けるのも本当だし、嘘ではないのだが、それ以上にユーリが言った様にノノを置いて早々と逝ってしまうのであろう事が怖かった。
ルキナが言う絶望の未来では、クロムを含めた戦士達は子供達を遺し、皆死んでしまったとユーリを含め全員が聞いている。しかしサーリャから以前聞かされたノノの未来では、彼女はこの戦いを終えたら一人ではなくなり、多くの人に囲まれて幸せな日々を送るのだという。その傍らには子供が居て、髪の色は―――。
「あんたの都合でノノを待たせるのか?
 ただでさえ明日も知れない身なのに?
 グレゴ、俺は軍師だけど、あんたやノノの明日の命を保障してやれないんだ」
「…そりゃー、誰だって保障出来ねぇよ」
「だからさ。誰にも後悔して欲しくないんだよ」
運命を変える為に未来から来たのだとルキナは言った。クロムも運命を変えると宣言した。だが、それで誰かが死ななくなる訳では決して無い。事実、バジーリオは死んでしまった。
「帝都へ行くにはそれなりに時間が掛かる。
 その間にも何があるか分からない。
 そんなの、あんたの方が俺より良く分かってるよな?」
「…まーな」
何があるか分からない。それは、明日も知れない傭兵として長い事生きてきたグレゴは身に染みて良く分かっていた。昨日仲間として戦っていた男と今日は敵として戦地で顔を合わせる、そんな事を彼は何度も味わってきた。今だってついさっきまで笑って話していた相手が、そこに物として転がっている事だってざらだ。それはグレゴもそうなってしまうかも知れないし、ユーリがそうなるかも知れない。今まで長い時を生きた少女の様なマムクートだって、同じ事が言えた。
「お互い後悔しない様にしよう、グレゴ。
 俺はあんた達が前みたいに楽しそうに遊んでるとこが見たいよ」
「こっちは必死だけどなー?」
「ははは、確かに」
底無しの体力の持ち主である彼女と遊ぶには、グレゴの体力は残念ながら年齢には勝てないので少々足りない。しかしそれでも彼女は真っ先にグレゴの元に来ては、遊ぼうと誘うのだ。こんなおっさんと遊んで楽しいのかねぇ、と最初の内は思っていたが、彼女は誰とでも楽しく遊べるので、他の奴とも遊んだら良いだろー?とグレゴが言うと、彼女は屈託なく笑って言ったのだ。


皆忙しいとまた後でねって言うけど、グレゴは一度も言った事無いもん。
ノノ、グレゴのそういうところ、すごく好きだよ?


『…あー、』
そう言えばそうだった。彼女は随分前から、自分に対して好きと言っていたのだった。今更ながらにそれを思い出して、グレゴは罰が悪そうな顔をして項を擦る。余りにも屈託無く言うものだから、全く気付かず流してしまっていた。女から言わせるなど男にしてみれば有るまじき事ではないか、という気がして、彼は顰めっ面のままグラスに残っていた酒を呷って飲み干すと、グラスを机にタン、と置いてからユーリをじろっと睨んだ。
「帝都に向かって出発するんだよなー?明日から」
「ああ、その予定だ」
「途中でどっか大きめの街に寄れ」
「言われなくても寄るさ、
 皆だってたまには野営から開放されたいだろうからな。
 ところでグレゴ、今回特別に給金を前借りする事を許そう」
「あー…悪ぃな、恩に着るぜ…」
ユーリは軍師であると同時に、この軍の軍資金を管理する会計係でもある。行軍途中で村や街が屍兵や賊に襲われていると、黙っていられないクロムは先を急ぐ行軍であっても必ず時間を割いて討伐するのだが、お布施よろしく住民から礼金を献上される事もあって、戦士達にはきちんと給金が与えられているのだ。余り貯蓄というものが得意ではないグレゴにとって、ユーリの許可は大変有難いものであった。
「あー、安心したし酒も回ってきたし、ゆっくり眠れそうだ。
 俺そろそろ寝るよ、お休みグレゴ」
「おいちょっと待て、そいつ連れて行け」
「あんたももう寝たら良い。ついでに連れて行ったら良いだろ」
「あーのなぁ…おっさんをコキ使うんじゃねーっての…」
そしてユーリがすっきりした顔で酒を飲み干すと、ロンクーを放っておいて宛がわれた部屋へ戻ろうとしていたので、グレゴがロンクーを指差して連れて行く様に言った。しかしユーリはロンクーを抱えるのが嫌らしく、グレゴに押し付けようとする。フラヴィアも抱えて行ったと言うのに、ロンクーまで抱えて行かねばならないのは割に合わなさすぎる。
「くっそぉ、バジーリオさんを目標にしてんなら、
 せめて酒も人並みには飲める様になれっての」
ユーリがロンクーを抱える気が全く無いのを受けて、仕方なくグレゴはこれ以降の飲酒を諦めて突っ伏したまま深い眠りに就いているロンクーを肩に抱え上げた。以前も抱えた事があるので知っているが、ロンクーもそれなりにガタイが良いので重たい。グレゴがぶつぶつ言いながら部屋を出ようとすると、ユーリが苦笑しながら部屋の灯りを消した。何だかんだ言って、グレゴは誰に対しても面倒見が良い。きっとあの少女もそういう所が好きになったんだろう、ユーリはそんな事を思っていた。



帝都へ向けてドーマの臓物と呼ばれる火山の麓から出発してそろそろ半月は経とうとしているその日、クロム達は森の近くに野営を張った。森と言う立地は敵の偵察部隊が身を潜めやすいが、こちらも同じ事で、身を潜めやすいし敵の目を騙しやすい。そして、障害物が多い場所での訓練には丁度良い所だった。部隊長や師団長を務める者は自分が率いる兵士達を連れて訓練するし、またそれとは別に個々人で訓練する者達も居る。今日はこれ以上進むと陽が暮れる頃に川越えをしなければならなさそうだから、と、早めに野営を張って、偵察部隊はティアモとガイア、そしてジェロームが天馬や飛竜で飛び立って行き、それを見届けた後は各々武器の手入れや確認、鍛錬などをした。ユーリは引き続き、クロムやサイリと行軍のルートを確認している。今日早めに休む分、明日は明け方には出発すると野営を張る時に伝達があったから、各自それなりに時間の振り分けを考慮する必要があった。夜番の見張りや交代も時間が繰り上がるからだ。
そんな中、ノノは今でも余り使い慣れない斧の使い方をグレゴに教えて貰っていた。斧ならば元からの斧使いであるヴェイクやセルジュに教えて貰った方が良いのだろうが、斧も使う様になったグレゴがそれなりに上達していた様だったので、訓練がてら教えて貰っていたのだ。随分以前から二人は連携の為の訓練をしていたので、その事について誰も何の疑問も持たなかった。
セルジュから預かっているミネルヴァは、今日は森の中での訓練であるので休ませている。ミネルヴァに乗っての飛行訓練も慣れない内はセルジュとしていたのだが、今ではもうノノ一人で危なげなく乗りこなせる。問題は武器の扱い方だ。ノノは今まで竜に変身して戦っていたので武器を使って戦うという経験が無く、だから専ら最初の内は斥候や偵察しか出来なかった。ユーリ達はそれでも良いと言ってくれてはいたが、ノノは戦えた方が良いからと言って、武器を取る事を選んだ。斧は重いしやめとけとグレゴも一応は言ってはみたものの、使える様になりたいの!とノノが言うと、それ以上は何も言わずに彼女が扱える様な斧を持ち出してきてくれた。多分言っても無駄だと思ったのだろう。これと決めたノノの意志というのは強く、誰が何を言っても聞かないからだ。
ドーマの臓物での戦闘の時、まだノノは斧に不慣れであったから敵の剣を防ぐ事が出来なくて、だから大怪我を負ってしまった。そういう経緯もあって、グレゴはノノに斧の使い方を教えている。武器に不慣れな者の相手というのも面白く、たまに予測もしなかった行動をとられるから、グレゴにとっては良い訓練にもなる。それにノノは飲み込みが早いので、教えるのは楽だった。ノノが竜に変化しなくなってからの連携もやり直しだったし、彼はここ半月はほぼノノに付きっきりだったと言っても良い。勿論その事についても、誰も何も言わなかった。裏でユーリが他の者達に根回しをしていたからなのだが、そんな事を二人が知る由も無いし、そもそもミラの大樹での戦闘以前は彼らの訓練は良くある事でその頃から誰からも何も言われた事が無かったから、グレゴもノノも大して気にしていなかった。
「よーし、今日はもう止めだ。お疲れさん」
「ありがとーございましたー」
「どーういたしましてー」
構えていた剣を下ろし、グレゴが終了の声を掛けると、ノノも斧を下ろしてぺこっと頭を下げる。斧は重量があって速さが出せない分、剣相手にはどうしても弱いので、グレゴが剣で相手をしてやったりサポートする場合の確認をとったりしている。基本的には竜に変化していた時と余り変わらないのでその辺りは特に何の問題も無かった。変わったと言えば、ノノがきちんと体が隠れる服を着る様になった事くらいだろう。レンハ軍との戦いの際に負った怪我の痕を隠す為、グレゴがセルジュに頼んで何枚かノノに買ってきて貰ったのだ。ノノの小さな体にあんな大きな傷痕があるのを見ると、グレゴは居た堪れないし胃が痛くなってしまう。それはグレゴだけではなくて他の者達も同様であったらしくて、セルジュはグレゴからその服の代金を頑として受け取らなかった。
「これで俺達の連携は完璧だ、長かった特訓も終了だな」
「やったぁ!やっとグレゴといっぱい遊べるね!」
そしてやれやれ、と剣を鞘に収めながら言ったグレゴの言葉に、ノノは嬉しそうににこにこ笑った。今までも遊んでくれなかった訳ではないが、特にこの半月はどちらかと言えば遊びよりも訓練の方が多かったので、ついその言葉が口に出てしまった。訓練は嫌ではなかったし、寧ろ楽しかったけれども、武器を持っての訓練より走り回ったりする遊びの方がノノは好きだ。まだ夕暮れには時間があるし、今日は何して遊ぼうかな、そう思っていると、グレゴが手で項を擦りながら言い難そうに口を濁らせた。
「あー…それについてだが…」
「えぇっ!遊ばないの!?」
「なーんでそうなるんだよ」
「じゃあ、遊ぼうよ!」
遊ぼう、と言ったら大抵はすぐに了解の返事をしてくれるグレゴが言い淀んだので、ノノがむう、とむくれて見せると、彼は少し呆れた様な顔をする。そーんなに遊ぶ事が大事かぁ?と言いたげなその顰めっ面はしかし、罰が悪い様などこかぶっきらぼうな表情に変わり、グレゴは項を擦っていた手をポケットに突っ込んでから何かを取り出し、ずい、とその手の中にあるものをノノに見せた。
「いやー、その前に、これを見てくれ」
「え?あ、指輪だ!きれいだね!」
彼の大きな手の中にあったのは、チェーンに通った指輪だった。宝石も何も付いていないシンプルなそれは、サイズがとても小さい。少なくとも一般的な成人女性の指には通らないのではないかと思わせる様な大きさのその指輪は、それでもノノにとっては綺麗なものに見えた。それはそうだろう、その指輪はプラチナ製であったので、金製や銀製の指輪よりも腐食しないし変色もしない。その分金よりも高価なものであるけれども、勿論ノノにはそんな事は分からない。
「あぁ、こいつはな、一生一緒に遊ぶっつー約束をする指輪だ。
 ノノに、貰って欲しい」
「わぁ、一生いっしょに!?それ、すごいね!
 ちょうだいちょうだい!!」
「あー…もしかして分かってねぇか?
 結婚しねぇかって事なんだが…」
繰り返すが、ノノは指輪の良し悪しなど分からない。分かっているのは、「指輪を渡す」という行為がどういう意味を持つのか、という事だ。だから恐らくグレゴが思い切って言ってくれたのであろう「一生一緒に」という言葉も、どういう意味かは分かっている。しかしノノの返事が余りにもあっさりすぎる上に無邪気に両手を出してねだったものだから、通じてないとグレゴに思われてしまったのだろう。だが、ノノはこれでも千年以上生きている。指輪を差し出すという事が求婚の意味を持っているという事くらい、知っているのだ。彼女はウインクしながら悪戯っぽく笑って、言った。
「わかってるよ!愛してるぜ、って言うやつでしょ?
 はい、じゃあグレゴから」
「なにぃ!?じょ、冗談だろ?」
ノノの言葉にぎょっとした様な顔を見せたグレゴは、明らかに動揺していた。彼はそんなごくありふれたセリフを、しかし今まで誰にも言った事が無かったからだ。言う相手も居なかったし、今までその「愛」とやらが自分の中には無いものの様な気がしていた。…間違いなく存在したので、今こうやって求婚している訳なのだけれども。だがそれを今ここで面と向かって言うのは死ぬ程恥ずかしい、そう思って抵抗してみたものの、当たり前だがノノは口を尖らせた。
「どうして?ノノとは遊びなの?
 はっ!そういえば一生遊ぶって…!」
「ぐっ、何でそうなんだよ。ったく、しょうがねぇな…」
そっちの遊ぶって意味をなーんで知ってんだよ、と危うく突っ込みかけたグレゴは、何とかその言葉を飲み干す。言ってもノノはおねーさんだから知ってるもん、などと言うに違いないと思ったからだ。彼は手の中の指輪を睨んで小さな溜息を吐き、意を決してその指輪が通ったチェーンをノノの細い首に着けてやりながら―情けない事に少し手が震えてしまったが―ぶっきらぼうに言った。
「あー… …愛してるぜ、ノノ」
「えへへ…ノノも愛してるよ、グレゴ」
無理矢理言わせてしまった気もしないでもないが、それでもグレゴが本心で言ってくれたのであろうその言葉が嬉しくて、ノノは彼の逞しい体にぎゅっと抱き着く。硬くてごつごつしていて、お世辞にも抱き着き心地が良いとは言えないその体は、しかしノノにとっては大事なものだ。そして見上げてみると、初めて見たのだが、グレゴの頬が赤く染まっていた。頬だけでなく、耳まで赤い。心底照れているのだろう。それを見て、ノノも今更ながら顔が熱くなってしまった。
「指輪、何で指じゃなくて首に着けたの?」
「いやー…あんた、色々落とすから…」
「むぅー、指輪は落とさないよ!」
「本当かぁ?金まで落とすじゃねぇか。
 宝物が入った袋まで落としたのは、どちら様だ?」
「ふーんだ、良いもんね。
 …でも、そこまで考えてくれてうれしい。ありがとう」
どうやらチェーンはノノが指輪を失くさない様にという配慮であるらしい。確かにノノは大事な物もたまに落とすので、グレゴのその考慮は正しいだろう。そしてノノが首に着けて貰ったチェーンに通った指輪を手に乗せて改めて見ると、内側に何か彫られてあった。


―――in your hand.


何年前になるか、確かクロムとスミアの婚礼の儀が行われた日にグレゴと連れ立って城下に食事に行った時に手を繋ぐ事を渋った彼が、その理由は手の中に心があるからだと教えてくれた。簡単に繋ぐものでも触るものでもないからと言って。けれども、この書き方だと心は己の手の中にあると言いたい訳ではなさそうで、寧ろ、


―――俺の心はお前の手の中に。


そんな風に言っている様な気がして、ノノは手のひらがじんと熱くなっていくのを感じ、同じくらい耳が熱くなったのを感じた。
だが、それだけではなかった。その一文の他に、誰か別の名が彫られてある。その名に、ノノは目を見開いた。
「…ねえねえ、グレゴ、この名前…」
「あー…、そりゃ俺の名前だ。本当の…な」
「………」
グレゴという名が彼の死んだ弟のものである、という事は、ノノもサーリャに聞いた事がある。しかし本名を聞いた事がなかったし、そもそもグレゴ自身も捨てた本名を名乗るつもりはなかった様だったので、今まで知る機会が無かった。だが、ノノはこの名を知っている。忘れた事は無い。


一人にしてごめんね。
だけど、ノノに忘れられてしまわない内に、また会いに来るからね。
姿が変わっても声が変わっても、またノノを好きになる為に生まれてくるよ。


死ぬまでノノの側に居て、その最期の瞬間までノノを案じてくれた男。暑がりで、ナツミカンが好きで、大きくて武骨な手の持ち主だった人。
「…グレゴ、あのね、ノノ、昔すっごく大好きだった人が居るの」
「…そりゃー…あんたは千年以上生きてるんだから、
 恋人の一人や二人、居ておかしくはねぇが…」
「優しくて、かっこよくて、いっつもノノの事守ってくれてね、」
「…いや、ノノ、もう良い、よせ」
「暑がりで、ナツミカンが好きでね!」
「………」
その昔、ノノには恋人が居たという事を知っているグレゴは複雑な気分になり、何が悲しゅうてプロポーズした直後に過去の男の話を聞かにゃならんのだ、と、彼がノノの言葉を遮ろうとしたのだが、逆にノノから遮られてしまった。遮ったノノの言葉は、どちらもグレゴに当て嵌るものだ。ノノは少し驚いた様に目を丸くしたグレゴの手を、指輪ごとぎゅっと握って彼を見上げ、笑った。


「―――って名前だったの」


捨てた名と同じ名が、ノノの唇から漏れる。ずっと昔、弟が死んだ時に捨てた名は、それでも尚彼の中にまだ存在した。捨てた筈であったのに、だ。サーリャには弟の名を使っているから本当の自分になりきれていないと言われたが、もう吹っ切れた。だから今でも弟の名を名乗っている。だが、ノノには本当の名を知っていて貰いたかった。その小さな手に包んで貰える様に。
けれども、矢張りグレゴはその男ではない。記憶も無ければ身に覚えも無い。名が同じというだけで同じ人間と思われるのも困ると言うか、何と言うか、癪だ。
「…あのな、ノノ、」
「分かってるよ。グレゴはグレゴだもんね。
 違うって事、ノノはちゃんと分かってるよ。
 でもね…、」


「生まれてきてくれてありがとうね。
 ノノをちゃんと見つけてくれて、ありがとう」


親から出生を望まれた訳でもなく、生まれた事を感謝された事など無く、そんな言葉を言われた事など一度も無かった。否、弟には言われた事があった様に思うのだが、その弟を死なせ、生きる為とは言え多くの命を奪い、真っ黒に汚れきってしまった自分にそんな事を言ってくれる目の前の女―彼にとってノノはもう立派に「女」になっていた―が、酷く愛おしいと思った。しかし抱き締めようとしたその前にノノが再びぎゅっと抱き着いてきて、グレゴの胸の辺りで彼を見上げながら、はにかむ様に笑った。
「…ノノより先に死なないでね?」
「…は、ははは…了解だ」
そりゃ流石に無理だ、と喉まで出掛かったが、グレゴはぐっと堪えて乾いた笑いと共に了承の返事をする。何千年も生きる彼女よりも長く生きる事など、人間には不可能だ。しかしノノが言う様に、もし、万が一にも彼女の過去の男が姿かたちは違えど自分と同じであるならば、彼女の前に姿を変え何度でも現れる事が出来たのならば。何度も転生して、ノノの悠久の命が尽きるその瞬間を、看取る事が出来たのならば。その約束は、果たせるのかも知れない。


―――柄にもねぇ事考えちまったな。


抱き着いてきたノノの背に左腕を回して、右腕で彼女の頭を抱える様に抱き締め返す。改めてこうしてみると、ノノは随分と小さい。だが、小さくても彼女はグレゴにとっては酷く大きな存在だ。大きな存在に、なってしまった。
「…ねえねえ」
「んー?」
「おててつなごう?」
「…ん…、」
そして離した後、ノノが見上げて手を伸べてきたので、グレゴはちょっとだけ自分の手を眺めてから差し出された彼女の手を握る。本当に今更だが、生きる為とは言え今まで犯してきた殺人の事を考えるとノノの白くて綺麗な手を取るのは躊躇われたからだ。しかし、それでも彼はしっかりと握った。自分のてのひらの中にある心を、ノノに触れて貰える様に。
「…あ、そうだ、リヒトとマリアベルがノノ達に一番最初に教えてくれたから、
 ノノ達もリヒトとマリアベルに一番最初に教えよう?」
「あー…そういやそうだったなー…
 んじゃー、ぼちぼち戻ってリヒト達探すかー」
「うん!」
首元に光る指輪、繋がれた手、そして遠くから香ってくる微かな柑橘類のにおい。今日の配給の果物は、間違いなくナツミカンだ。うれしいがいっぺんにきちゃった、ノノがそう思いながら手を繋いでくれたグレゴを横目で見上げると、目が合った彼は少し困った様な顔をしながら小さく笑った。照れ臭いのだろう。ノノはえへへ、と笑って、繋いだ彼の大きな手を、指を絡めてぎゅうっと握る。しあわせだな、とその時の二人は心から思っていた。