申し出られたその言葉を理解するのに時間が掛かったルフレは、意味を飲み込もうとして冷めきってしまった紅茶を一気に呷った。しかしやはり理解出来なくて、申し出たその壮年の男を凝視した後に緩慢な動作で人差し指を立てた。
「すまんがグレゴ、もう一度言って貰えるか?」
「だから、クビにしてくれねぇかって言ったんだ」
 ルフレの要求に対し即座に、且つ簡素に述べたグレゴという男は、まるで世間話をするかの様な気軽さの口調と態度でそう言った。しかしルフレは不可解さが増しただけで、見る間に眉間に皺が寄っていく。
「……軍の金を使い込んだか?」
「誰がだよ。そもそも軍資金はお前が管理してるから、俺がくすねたらすぐ分かるだろー?」
「じゃあ、ここより条件の良い職場が見付かった、とか?」
「お前は俺をそーんな薄情もんだと思ってんのかよ……」
「…… ……だったら、何故だ?」
 解雇してくれというグレゴの願い出に思い付いた理由を述べてみるも、解せないという様な顔で否定され、ルフレが仕方なしに降参の意を込めて沈黙してから尋ねると、グレゴは短い髪の頭をガリガリ掻きながら口を開いた。

「居ても邪魔だろー、剣が握れなくなった傭兵なんざよお」




 天幕の一角をランタンで明るく照らしながら、グレゴは手元にある帳簿と武器の照らし合わせをしている。それなりに大雑把で細かい作業が得意ではない彼にはあまり向かない仕事であるがタダ飯食らいになる訳にもいかないので、宛がわれた仕事をこなす為に黙々とその作業をやっている。
ここ、イーリス軍が所持する武器はルフレとフレデリクが共同で管理しており、輸送隊の部隊長が定期的に在庫の確認をして彼らに報告をしている。不正な持ち出しが無いかを確認する為だ。売り払って私財にするという事も考えられるし、実際その様な事例もあったので、今はこの様な仕事が必要とされていた。ただでさえ足りない人手が更に割かれるのかよと以前のグレゴは思っていたものだが、今の彼にとってはタダ飯食らいにならない為の仕事になっているので世話は無い。
 何故彼がこんな事をしているかと言うと、戦場に出る事が出来なくなったから、である。戦場に出られない傭兵など存在価値は無いので解雇にしてくれとグレゴはルフレに申し出たのだが、戦場に出ずとも仕事など山程あると言われて結局軍から離れる事が出来ず、彼はそのまま籍をイーリス軍に置いている。
 怪我をした訳でもないのに何でまた、と皆が訝しんだが、グレゴは理由を一切言わなかった。言ったとすれば、剣が握れなくなったんだから仕方ねぇだろという一言だけだ。数々の戦場を渡り歩き、潜り抜けた修羅場の数は軍の中でも上位クラスに入る男が突然そんな事を言ったのだから驚かれたなんてものではなかったが、そうなってしまったのだから諦めて貰うしかない。ただ、戦争がどういうものであるかという事を十分理解している者達――例えばフェリア国王達などはそんな事もあるよな、と口を揃えて深く尋ねてこなかった事により、同僚達による質問の嵐は驚くほど収まった。バジーリオもフラヴィアも国内の小競り合いをどうにか鎮圧してきた立場であり、戦場でのストレスで率いていた兵士達が廃人同様になっていく様を何度も見ている。グレゴはまだそこまで重症ではないと安堵している部分もある様だった。
 しかしそういう理解がある者が居るという事実を以てしても、傭兵という職業に就いているグレゴにしてみれば進軍を続けるイーリス軍に所属し続けるのは居心地が悪かった。傭兵は武器を持って戦場を駆けてこそ、雇われた価値があるのだ。今の自分には商品価値は無いと、彼は本気で思っていた。散々戦場で人を殺した男がこんなとこで呑気に点検かよ、と何とも言えない感情が胸に渦巻いた。
 与えられた仕事を終えたグレゴが首の関節を鳴らしながら天幕から出ると、北に位置する土地であるからなのか、肌寒さを感じた。空には薄い雲が所々広がっているものの晴れており、明日も晴れそうだと空を見上げたグレゴの表情は空とは裏腹に晴れやかではなく、彼は重苦しい溜め息を吐くと書面を挟んだバインダーを片手にルフレの天幕まで報告に行く為に重い足取りで歩き始めた。
「あっ、グレゴだー。ただいまぁ」
「んー? ああ、あんたらか。おかえりー」
 天幕の間を歩いていたグレゴの背中に、可愛らしい声が掛かる。その声に彼が振り向くと、夕方の偵察に出ていたらしいセルジュとノノが連れ立って歩いていた。二人は竜騎士とマムクートという事もあり、セルジュがイーリス軍に加入してきた当初から仲が良い。
「ただいま。今からルフレの天幕に行くの?」
「おぉ、武器の点検報告にな」
「ノノ達も行くんだ、一緒に行こ?」
「ん……、そうだなー」
 イーリス軍に所属している面々は一握りを除きほぼ全員がヴァルム大陸に詳しくなく、地形や勢力図にも明るくない。この大陸のロザンヌ領を出身とするヴィオールとセルジュ、そしてソンシン出身のサイリに知識があるだけで、他の者達には殆ど無い。グレゴも飛竜の谷での仕事を請け負った事があったが、もう十年以上前の事であるから詳しく覚えていないのだ。
 向かう先の遠目に見えたルフレの天幕からクロムが出てくる姿があり、相変わらず様々な事を話し合っている様子が窺える。イーリス大陸に先に攻め込んできたのは帝国軍とは言え、更なる侵攻を防ぐ為にヴァルム大陸に上陸したのはイーリス軍であり、こちらの大陸の諸侯や民にとってみればイーリス軍の方が侵略者である。帝都に直接攻め込めるのであればそれに越した事はないのだが、大陸北西部に位置する帝都を叩くとなると背後を牽制しておかなければならない。そうなればこの大陸を縦断する形で進軍していかねばならず、やはりイーリス軍が侵略していると見られてしまうのだ。その戦いによる被害を最小限に抑える為にも、ルフレはアンナの姉妹やセルジュ達斥候から得られる情報を元に策を練っていく。イーリス大陸の国々はヴァルム帝国軍が侵攻さえ止めてくれればそれで良いのであって、この大陸に勢力を伸ばしたい訳ではない。クロムも俺はイーリス聖王国だけで手一杯だと真面目に言っている。
 その重要な局面の最中に剣が持てなくなってしまったグレゴは、気まずい顔をしてクロムが去ったルフレの天幕の入り口を捲った。天幕の主は相変わらず書物が積まれた机の前に鎮座しており、入ってきたグレゴ達をちらと見て腕を上げながら背伸びをした。
「お疲れ様、三人共。先にグレゴの方から聞こうか」
「んー、報告が上がってた出納数と点検数、今日はばっちり合ってたぜ」
「そうか。最近はお前が点検係になってくれているから変な気を起こす輩も居ないと見えるな」
「……だと、良いけどよ」
 手渡した点検表を受け取りながらにやっと笑ったルフレの言葉に、グレゴは何となく微妙な顔になってしまう。今剣を持てないとは言え、少し前までは前線で戦っていた男が武器管理をしているのだから、不埒な輩もそうそう現れない様だ。武器の在庫を誤魔化し、売却した金額を山分けする悪巧みを持ちかける者も居そうなものだが、今の所はそんな輩は現れていない。もし持ち掛けられたとしても、ほぼタダ飯食らいになってしまっている現在のグレゴには片棒を担ぐ気にはなれない。否、勿論元からそういう事はあまり好まない男ではあるのだが。
「何か気になる事はあったか?」
「そうだなー……、別に粗悪品って訳じゃねえんだろうけど、ちいっとばかし武器全般の消耗が激しい様な気がするな。
 俺が見た限りでちょろまかして売りに行くなんて狡い事やってる奴は居ねえ様だけど」
「ヴァルム帝国軍が相手だもの、不思議な事じゃないわ」
「だよなー。だから、もうちょーっと質が良い剣とか槍とかあった方が良い気がするぜー?」
「そうか……、魔導書もそろそろ今までのものじゃ厳しくなってきてるからな。
 分かった、それはアンナに掛けあって貰おう」
 お世辞にも丁寧とは言えない字が記入された点検表を見ながら尋ねてきたルフレに、グレゴは襟足が少し伸びてきた項を擦ってヴァルム大陸に渡った頃から思っていた事を言った。軍事力がある帝国には上等な武器や軍馬が集まってくるし、それらを取引する商人も各地に点在する。この軍に在籍するアンナは世界各地に姉妹、親族が居り、ヴァルム大陸であっても例外ではない。彼女の姉妹達のネットワークを通じてルフレ達はイーリス大陸から渡ってきた時に不足した馬を調達する事が出来た。それも、随分と質が良い馬を。
 加えて、その場に居たセルジュの言葉は流石ヴァルム帝国の強さを重々知っている為に説得力があった。所持していた武器が修復不可能な程に摩耗したり破損したりすると輸送隊が管理している武器を貰わざるを得なくなるし、在庫が減っていくのも当然の事だ。帝国軍ではなくて支配下に置かれた領地が所持する兵士達が相手であっても手強い事に変わり無く、また銀で製造された武器を使用している者も多く見受けられる様になってきたので、ルフレとしても銀の剣や銀の弓などがそろそろ欲しいと感じてきたところであったらしい。
「その件はこの後アンナに話しておく。これからも気になったところがあれば報告してくれ。
 戦場から離れないと見えない部分もあるからな」
「んー、分かった」
 さり気なくルフレがグレゴを労い、点検表の末尾にサインをする。崩した字を書くルフレのサインは誰が見ても彼のものと分かるし、また誰にも真似が出来ない事から、点検表も偽造する事は難しい。クロムからもう少し丁寧に書けと言われても、この字が不正を阻止しているんだと字の汚さを正当化するのだからすごい、と色々な雇い主を見てきたグレゴでも思った。
「それじゃ、セルジュ達の方を聞こう。どうだった?」
「地図を見て分かっているでしょうけど、この先は山岳地帯が続くの。
 狭い谷もあるのだけれど私とミネルヴァちゃんが見た限りでは潜んで待ち伏せしている風ではなかったわ」
 そして散らかっている机の隅に点検表を置いたルフレは、偵察を頼んだセルジュをちらと見ながら置いていた書物を点検表と同様机の隅に追い遣った。書物の下敷きになっていたのはヴァルム大陸の地図で、仕舞うという事はせずに敷いたままにしているらしい。セルジュはその地図に歩み寄ると今日見てきた箇所を指差し、ルフレは神妙な面持ちで頷いた。
「そうか。ノノが見た感じがどうだったかも聞いて良いか?」
「うん! えっとね、きれいなお花がたくさん咲いてたよ」
「て事は、人間が踏み入った形跡が無いって事だな」
 次にルフレがそれまでおとなしく黙っていたノノに話を振ると、彼女は嬉しそうに見たままを伝えた。それが役に立つ情報なのかとグレゴは一瞬思ってしまったのだが、ルフレがすぐに有用な情報と変換した為にそう言われりゃそうだと納得した。セルジュもそうだったわね、とノノが飛んでいた辺りの地点を指で示した。
「でも食べ物が少なくてうさぎさんとか熊さんがこまってるって小鳥さんたちが言ってた」
「食料が無い……?
 変だな、この近辺が不作とは聞いていないから山の方も実なりは潤沢だろうし、乱獲なんてしないだろうに」
「……いやー、それ以前に、あんた鳥と話とか出来たのかあ?」
「ノノはマムクートだもん。ミネルヴァだって鳥さん達とお話してるよ?」
「へ、へえー……」
 ノノが唐突に鳥から得た情報などと言ったのでグレゴは驚いたというのに、ルフレもセルジュも全くそんな素振りは見せずに彼女の言をごく当たり前の様に受け止めた。思わず口を挟んでしまった為にルフレがついとグレゴに視線を寄越し、そういう事は後で聞いてくれと目配せする。話の腰を折ったのは自分であるので、グレゴは文句を言わずに黙った。
 しかし、確かにルフレが言う通り、豊作とまではいかずとも食うに困らぬ程度に作物が収穫出来ているのであれば、何もこんな山間の人里離れた場所に食料を探しには来ないだろう。来たとしても野生動物が困る程の量を取りはしない筈だ。しかも花が踏み荒らされていないとなればそんなに大勢で収穫には来ていない事になる。土地勘があり、何らかの事情で食料を必要としている者が存在するという訳だ。きな臭いな、と思ったのはルフレもセルジュもであるらしく、二人共口元を抑えて何か考え事をしていた。ルフレは軍全体の命を預かっている様なものであるから、尚の事慎重になるのだろう。
「……そうか、ノノ、有難う。
 また近い内にセルジュと一緒に飛んで貰うかも知れないから、その時はよろしく頼む」
「うん! ノノ、がんばるね!」
「セルジュも有難う。今日はもうゆっくり休んでくれ。
 ミネルヴァにも礼を……いや、それは俺が後で直接言おうかな」
「そうして頂戴。きっとルフレの事待ってるわ」
 暫しの間沈黙して思案していたルフレは、口元を緩ませてノノに礼を言ってからセルジュを労った。偵察も危険が付き纏うものであるから絶えず気を張っていなければならないし、その状態のまま夜番などやろうものなら翌日に支障を来す。その事を分かっているからこそ、まだ早い時間であるというのにルフレは二人に休息を促した。特にノノは自分の体でそれなりの距離を飛んでいるから、いくら元気が有り余っている彼女であるとは言え危険だ。
 そんな任務をこなしている二人を前に、グレゴは何とも居心地が悪かった。片や危険が伴う偵察をしている身、片や単なる武具の数の点検をしている身であるので、劣等感が否めない。どちらも大事な役割だとは分かっていても、剣が握れなくなった傭兵という何の役にも立たない肩書が彼にはあるので、自然と苦い表情になってしまった。イーリス軍の、グレゴに対する処置は慈悲と言えば慈悲であるし、飼い殺しだと言えば飼い殺しだ。何とも言えない宙ぶらりんな状態で放置されているグレゴにとっては腰の座りが悪かった。
 そしてルフレの天幕から辞したグレゴは、さて何をするかと思案する。以前の彼ならば剣の手入れをし、仮眠をとってから深夜番を請け負っていたのだが、剣を握れない今は手入れも出来ないし丸腰で見回りなど以ての外なので、やれる事は少ない。非戦闘員である者達が暇かと言えばそうでもないのだが、仕事に割って入っても迷惑が掛かる様な気がして、彼らから声を掛けられない限りグレゴが手伝う事は無かった。
「ねえねえグレゴ」
「んあ? 何だあノノ、どうしたー」
 本当に毎日が針の筵みてえだぜ、と溜息を吐いたグレゴの背に、先程と同じ様に可愛らしい声が掛けられる。彼が振り向くより早くその背中にノノがよじ登ろうとしてきたのだが、もう慣れているグレゴは彼女が登りやすい様に膝を曲げて屈んだ。
「あのね、遊んで?」
「……良いけどよー、こーんな時間に何して遊ぶんだあ?」
 ノノはグレゴに助けて貰った経緯があるからか、折に触れて彼に遊ぼうとねだってくる。遊んでくれそうな者など自分でなくとも大勢居るだろうにとグレゴは思うのだが、ご指名ならば受けねばなるまい。
「遊ぶっていうか、おんぶしたままお散歩してほしいの」
「う、うーん……このままかー……」
「ダメ?」
「いんや、良いぜ。どうせ何の役にも立ってねえんだ、あんたの遊び相手くらいは務めねえとなあ」
 背中に登ったノノが首に腕を巻きつけてきたので、落ちない様に足を抱えると、彼女はこの体勢のまま散歩がしたいと言ってきた。いくら背丈が小さいとは言え、それなりに重量があるノノを背負ったまま散歩というのは中々にきつそうだとは思ったのだが、長時間飛行して疲れているノノの頼みを今のグレゴが断る事など出来る筈もなく、彼は承諾の相槌を打った。
「けーど、あんまり長くは駄目だ。ルフレも今日はもうゆっくり休めって言っただろ」
「うん」
 ノノを背負って歩くのは、何もこれが初めてではない。寧ろ良くせがまれるし、グレゴも用事が無く、且つ体力が残っている時は背負ってやっている。千年余りという気の遠くなる様な年月の大半を一人で過ごしたらしい彼女は、とにかく人を恋しがるし、また甘えたがる。ただ、外見からしてノノは子供に見えてしまうけれども矢張り歴とした女であるから、誤解を招かない様にしたいとは常日頃からグレゴは思っている為に、ルフレの言を口実にして長時間の密着を避けた。その事に対してノノは一言も文句を言わず、素直に頷いた。
「そういやあんた、鳥と話せるんだなあ」
「うん。鳥さん達はクマさんとかウサギさん達と話せるから、お話聞かせてもらうの」
「ほーお……」
 散歩をすると行っても無言で歩くのもつまらないので、先程天幕の中で聞いた話をグレゴが尋ねると、ノノはいつもよりは若干大人しい声で返答した。元気な様に見えても疲れは溜まっているのだろう。あまり話し掛けずに歩いて眠らせてやった方が良いかも知れない、と話を振ったグレゴが思う程度には、彼女の声には疲労が滲んでいた。
「でも、グレゴもミネルヴァとお話できるんでしょ?」
「んー? まあ、なんとなーくだけどなー」
「竜騎士じゃないのに飛竜とお話できるのって、すごいことだってセルジュが言ってたよ。ノノもそう思うなあ」
「そ、そーかあ……?」
 少し黙るかと決めた矢先に思いがけず褒められ、グレゴはどういう反応をして良いか分からなくて間抜けな声を出した。しかしノノは対して気にする事なく、うんうんと頷いた。彼女は竜の姿に変身するマムクートだ、人語を話さない飛竜と話せるのは評価のポイントに成り得るのだろう。ひょっとすると、ノノはグレゴのそういうところを本能的に見抜いて懐いているのかも知れなかった。
「そうだ、グレゴ、ミネルヴァとお話できるなら、ソワレ達のお馬さん達ともお話できるんじゃないの?」
「うーん……馬と話したりは出来ねえなあ。
 それに、出来たとしても主人を差し置いて俺がぺらぺら喋る訳にはいかねえだろー?」
「あ、そっか……」
 ノノが思いついた様に竜以外とも会話が出来るのではないかと質問してきたが、生憎とグレゴは飛竜以外の動物の言葉は解せない。解せたとしても、自分の愛馬でもないのに無闇矢鱈と話す気にはなれない。まだ駆け出しの傭兵であった頃に請け負った依頼でひょんな事からミネルヴァを助けた事があり、その件もあってミネルヴァとは良く話すけれども、それもセルジュが側に居る時以外は話し掛けない。セルジュは恐らく気にしないとは思うのだが、矢張りグレゴは主を差し置いてミネルヴァと話す気にはなれなかった。
 多分、ノノはグレゴが今の状態でこの軍に居る事に対して感じている居心地の悪さを慮り、軍馬達の世話をする提案をしたかったのだろう。ノノにまで気を遣われてしまう程、彼は傍目から見ても所在なさ気にしていた。軍内には武器を持って戦う者ばかりが居る訳ではないと重々分かっているのだが、今まで散々剣を振るい、人を殺してきた男が、剣を携えて警戒の為に見回る事も出来ず、少女を背負って散歩するしか出来ないとは情けない話だ。ゆっくり歩を進めながら、グレゴはそんな事を思った。
「ねえグレゴ」
「んー?」
「どこにも行かないよね?」
「……はあ? 何だあ、藪から棒に」
 色々思うところがあったのと、ノノも疲れている様なので黙っただけだったのだが、唐突な事を彼女が尋ねてきたのでグレゴは間抜けな声を出した。ノノの声は真剣そのもので、グレゴが軍から離脱してしまわないかを本気で心配している様だ。
「だって、毎日居づらそうにしてるんだもん」
「いやー、そりゃまあ、何の役にも立ててねえからなー」
「そんなことないよお。グレゴ、ちゃんとお水汲んできたり武器の在庫チェックしたり、色々してるよ?」
「してるけどよお。やーっぱ、剣一本で生きてたんだから、剣振るってなんぼだろー?」
「そうだけど……」
 ノノの言いたい事は分かるが、グレゴの考えは頑として変わらない。多分、彼女はこうやって遊んでくれたり相手をしてくれたりする大人が減ってしまう事が嫌なのだろうとグレゴは思う。しかしノノの心配は、ルフレがグレゴに脱退を承諾しない限りは杞憂に終わる。
「あんたは、どうだあ?
 竜石が手に入らなくなっちまって、変身出来ないまんまの状態でこの軍にずっと居られるかあ?」
「……お手伝いいっぱいするもん」
「でも、居辛ぇだろー?」
「………」
 釈然としない様であったので自分の今の境遇をノノにも分かりやすい様に彼女の立場に置き換えて尋ねると、ノノはとうとう口を閉ざしてしまった。訓練すればノノも斧など振るえる様になる筈なので、竜の姿に変身出来ない彼女が役に立たないとは思わないし、周りも気にするなと言うだろうが、当の本人というのは居た堪れないものなのだ。身を置いている状況がどれだけ心労を重ねていくものなのかをやっと理解したらしいノノは、グレゴの背にぎゅっとしがみついた。
「あー、悪ぃ悪ぃ、変身出来ねえあんたが役立たずって言ってる訳じゃねえんだ。
 リズみたいに居るだけで周りが元気になれる奴って居るだろー?
 あんたもそれと同じだと思うよ」
「……うん」
 傷付けてしまった風でもなさそうだが、落ち込ませてしまった事には変わりなく、謝った後もグレゴは苦い顔になる。これ以上何か言ってもフォローにもならない気がしたので、彼は今度こそ黙って歩いた。
 野営内のざわめきなど日が落ちれば無くなっていくもので、グレゴも黙って歩いた所為か、ノノは程なくして彼の背中で寝息を立てていた。ヴァルム大陸に上陸して休息日も何日か設けられたが、遊びがてら偵察の為に飛ぶノノの体には随分と負担が掛かっており、本人もそれに気付かず過ごしているから、温かい所で静かにされるとすぐに眠ってしまうらしい。そっちの方が有難ぇけどな、とずり落ちそうになったノノの足を抱え直したグレゴは、前方から誰かが歩いてくるのに気が付いた。
「やあグレゴ、ノノのお守り?」
「そーんなとこかねえ。お前らは見回りかあ?」
「そうだべ。ついでに夜食と思って林檎をもいできたけど、グレゴさんも食べるべか?」
「いやー、俺は良いよ。ありがとなあ」
 山の方まで入っていたのか、麻袋に詰めた林檎と剣を持って歩いてきたのはソールとドニだった。彼らは同じイーリス出身という事も手伝ってか、仲が良い。あともう一人、カラムとも良くつるんでいる様なのだが、いかんせんカラムの影が薄い為にグレゴはあまり気が付かない。目を凝らしてもそのカラムの姿は見えなかったので、今日は一緒ではないらしい。……目を凝らしても見えない時はあるのだが。
「随分疲れてるみたいだね、ぐっすり寝てるよ」
「あー、さっきセルジュと一緒に飛んできたみてえだからなあ。
 自分の体で飛ぶんだから、やーっぱ疲れるんだろうなー」
「あと、おんぶってよっぽど信頼してねえとされねえもんだべ。安心してるんだべなあ」
「う、うーん……そうなら良いけどなー」
 眠ったままのノノを見て、ドニが感心した様に頷く。しかしグレゴとしてはノノと出会った時に助けようとしたのに逃げられた覚えがあるので、どうも妙な顔になってしまう。そんなグレゴを見て、ソールはちょっと笑ってから麻袋の中から林檎を一つ差し出した。
「やっぱり食べなよ、グレゴ。食べた方が良いよ」
「……俺、そーんなにやつれてるかあ?」
「そうじゃなくて……、林檎って胃薬代わりになるんだ。最近少し胃の調子が悪いでしょ?」
「……そう、だなー」
 暗いからそう見えるのではないグレゴの顔色の悪さをそれとなく気にしていたらしいソールは、流石薬屋の息子なだけはあって様々な食物の薬効に詳しい。グレゴもそれなりに知識はあるが、実家が本業である彼には敵わない。居た堪れなさや罪悪感からくる不眠を紛らわせる為に酒を飲む夜も少なくなく、それ故に荒れた胃がグレゴの体調を芳しいものにしていなかった。元から酒飲みである彼でも、戦闘などの運動をしていない状態で飲酒を繰り返していれば体調を崩すというものだ。
「食べられないなら、枕元に置くのも良いべ。林檎の匂いって良く寝られる様になるんだべ」
 そんなグレゴとソールの遣り取りを見ていたドニが、ノノを落とさない様に片手できちんと彼女の体を支え、もう片方の手で受け取った林檎を指差して言った言葉に、ソールもグレゴも首を傾げた。
「そうなんだ? 僕、それは初めて知ったけど……グレゴは知ってた?」
「いやー、俺も初耳だなー」
「村のおばばがおっ母に教えてくれただよ。おっ父が死んだ時、おっ母が眠れなくなっちまって……」
「………」
 確かにほの甘く、爽やかな酸の匂いは鼻に心地よいものであるが、安眠を齎すものだとは知らなかったグレゴはソール共々感心したのだが、知識の出処を聞いて沈黙してしまった。彼らは、ドニの父親が何故死んだのかを知っているからだ。
 ドニの父親は、クロムの父親が聖王であった頃にペレジアとの間で繰り広げられた戦争により、疲弊した国で横行する賊に殺されている。彼の村が再び賊に襲われた際に救助したソールはその事を聞いているし、またグレゴもドニに剣の使い方を多少教えた事があるのだが、何故武器を持とうと思ったのかを尋ねた際に聞いた。そして、戦など無い方が良いとお互い話したものだった。
「グレゴさんも、ノノみたいに眠れる様になると良いだなあ。最近、ちょっとばかし目の下の隈が濃い気がするべ」
「……そうだな、ありがとよ。お前らもちゃんと休めよ」
「うん、今からルフレに報告して、それから休むよ」
「んー、じゃあな」
 ドニとソールの気遣いが何とも面映ゆく、グレゴは表情を悟られない様に僅かに俯いて林檎を持った手を後ろに回してノノを背負い直すと、二人に労いの言葉を掛けてから歩き出した。全く起きる気配が無いノノは、確かに安心しきってぐっすり眠っている様だった。



 辺り一面の暗闇の中、グレゴはその気味の悪さから逃れようと走っていた。どこかに出口は無いかを探し、闇雲に走っている彼の体力はそろそろ限界に近い。上がった息を整える為に足を止めて荒い呼吸を繰り返していた彼は、しかし足元にぞろりとした感触を覚えて短い悲鳴を上げた。足首を、何かが掴んでいる。
 嫌なものを感じて咄嗟に振り払ってもしつこく掴んでくるそれは、地面の中からゆっくりと這い上がってきた。まるで今や珍しくも何ともなくなってしまった屍兵の様な動きを見せるその塊はやがて何かの――否、誰かの姿となり、それを見たグレゴは心臓が握り潰された様な錯覚に見舞われ、絶叫した。
「――ゴ、……っかりして、グレゴ!」
「っ?!」
 聞き覚えのある声が耳を劈き、大きな体をびくりと震わせたと同時に起き上がったグレゴは、先程の暗闇の中と同じ様に荒い息を繰り返している。脂汗が額から流れ、顎から落ちたが、彼はそれすら気が付かなかった。ただ分かったのは、悪夢に魘されたらしいという事だけだった。
「大丈夫? 汗びっしょりだけど……」
「あ……ああ、悪ぃな。大丈夫だ」
「ほんと?」
「……だーいじょうぶだ」
 心配そうに顔を覗きこんできたのはノノで、彼女はグレゴの流れ落ちる汗を小さな手で拭った。だがそんな事をさせるのも忍びなく、彼はやんわりとノノの手を退け自分の袖口で乱暴に拭った。
「あったかいからお昼寝できると思ったのにね。やっぱり、ダメだった?」
「……ま、しゃーねえよな。気にすんな」
「気にするもん、うんと疲れた顔してるもん……」
 しゅんとした顔で自分を見るノノの耳が心なしか普段より垂れている気がして、グレゴは申し訳ない気分になる。別に彼女は何も悪くないのに、落ち込ませているのは自分であると分かるからだ。
 フェルス将軍を破る為シュヴァイン要塞へと向かったイーリス軍は、苦戦しつつも将軍を討ち取ったものの帝国軍に反旗を翻した筈である解放軍から包囲された。ノノが報告し、ルフレが訝しんだ不作ではなかったにも関わらず食物が少なかった事案は、帝国に寝返った各地の解放軍の者達の乱獲が原因であったらしい。それを見過ごした挙句、ヴァルハルトを足止めする為にフラヴィアを伴って出撃したバジーリオが戦死したという報告がソンシンのレンハを辛くも破った後に齎されたルフレは、苦い顔をして虚空を見上げる事しか出来なかった様だった。
 そして昔バジーリオに世話になった事があるグレゴにとっても、戦死の報告はつらいものでしかなかった。特に今の彼は剣を持つ事が出来ず、単なる足手纏いでしかないのだが、もし戦える状態であり加勢が出来ていたなら逃走の手助けにはなれたかも知れないと思うと居た堪れない。その罪悪感のせいなのか、彼は最近良く魘されていた。
「フラヴィアのケガもだいぶ良くなったし、
 破れちゃったみんなのお洋服の縫製もほとんど終わったってセルジュも言ってたから、
 もうちょっとしたら出発ってルフレ言ってたよ?
 疲れたままじゃ、グレゴ倒れちゃうよ」
「けーど、夜中に寝るより随分寝られたぜー?」
「だったら良いけど……」
 レンハを破ったイーリス軍は、暫くソンシンに駐屯していた。王を喪ったソンシンの王位継承者はサイリであり、彼女がその提案をしたのだ。疲弊した軍を休ませる必要は確かにあったし、新しい武器や馬を調達するのは行軍しながらでは難しいから、クロムはその申し出を有難く受け入れた。
 そんな束の間の休息期間なのだが、グレゴはちっとも休めていなかった。眠れば魘されるので、殆ど眠っていなかったからだ。職業柄元から深く眠らないグレゴでも連日の睡眠不足は体に負担が掛かり、足元がふらつく様になった為、たまたま背負われていたノノが少し寝たら、と暖かな木漏れ日が心地よい木の下で昼寝を勧めた。彼もここなら少しは寝られるかと横になったのだが、結果はこの有り様だ。
「あんたも、俺の心配より自分の心配しときな。
 いくらヴァルム軍が強いからって、飛竜は見た事あってもマムクートは見た事ねえだろうからなー。
 未知の敵ってのは随分と相手を怯ませるもんだから、あんたは申し分ねえ戦力になるだろうし」
 二人で共にイーリス軍に加入した経緯があるからか、ノノは他の者と比べてグレゴの側に居る事が多い。彼女をギムレー教団から助けた時は自分を怖がって逃げたというのに、今や一番懐いている相手となっているのだから大した出世ぶりだとグレゴは思う。しかし現在の自分では以前の様に戦場での連携をとる為の特訓もしてやれないのだから、他の者と行動を共にした方が良いだろうとも思うのだ。ノノがこんな風に昼寝の面倒まで見る必要は無い。
「でも巫女様もマムクートだったよ?」
「あの巫女さんは変身したとこ見せてねえだろー?
 変身出来てたら、あーんなとこに幽閉なんてされてねえよ。
 マムクートが変身したら強ぇって事は、あんた見てる俺達がよーっく知ってるさ」
「そうだよ、ノノは強いの! だからね、今度はノノがグレゴを助ける番なの」
「は……?」
 ヴァルム軍によってミラの大樹に幽閉されていた神竜の巫女と呼ばれるチキという名のマムクートは、長い間眠っていたせいで本来の力がまだ目覚めておらず、竜石による変身が出来なかったらしい。しかし、少女の様な――実際マムクートという種族の中では少女に分類されるのであろうが――ノノであっても竜に変身し戦う際は無敵とは言えないが相当な強さを見せる。長い事傭兵として戦場に出ていたグレゴであってもペレジアのあの砂漠で初めて見た程であったから、大半の者がノノは未知の存在である筈だ。だから敵に大いに動揺を与える上に相応の牽制力を持つだろうとグレゴだけではなくてルフレも考えていたらしかった。彼女は、戦略上でも大事な身なのだ。
 だから今全く役に立てていない男よりも自分の身を第一に考えろと言ったのに、ノノは自分の強さに胸を張ってグレゴを助けると言った。しかも、「今度は」とは一体何だ。そんな疑問が顔に出てしまっていたらしく、彼女は言葉を続けた。
「ペレジアでノノを助けてくれたのはグレゴでしょ。だから今度はノノがグレゴを助ける番なの」
「い、いやー、気持ちはありがてえんだけど、俺ぁ今戦場に出られねえから、助けるも何もねえと思うんだけどな……?」
「助けることができるのは戦ってる時だけじゃないもん。
 眠れない時にぐっすり眠れるようにするのは助けることになるでしょ?
 あんなにうなされて苦しそうにしてるのに、なんにもできないのはイヤだもん……」
 どうやらノノは、ギムレー教団に捕まっていたところをグレゴが助けた事を未だに恩義に感じているらしい。確かにあの時グレゴが助けていなければ今頃彼女はこの世に居ない可能性が高いのだが、その礼は鱗を編み込んだという腹巻きを貰った事によって済んだ事だと彼は思っていたものだから、意外に思って咄嗟に何と言って良いのか分からなかった。
「うなされてるのと、剣が持てなくなったのって、何か関係があるの?」
「……あるって言や、あるけど……」
「話したくない?」
「………」
 紫水晶の瞳は、グレゴの目を捕らえて離さない。純粋さで透き通ったその目は彼を責めている訳でもなく、ただ疑問だけを浮かべていた。そういう目を見ていると、グレゴは頭を掻いて溜息を吐くしか出来なかった。
「……例えばの話だけどよお、あんた、俺が屍兵になったらどうする?」
「えっ……グレゴ死んじゃうの? どこか悪いの?」
「いやだから、例えばの話って言ったろー?」
 緩やかに太陽が西へ向かおうとしている空を細めた目で見たグレゴが唐突な例え話をしたので、ノノはきょとんとしてから心配そうに彼の上着をぎゅっと握った。何でそうなると眉を顰めたグレゴはやんわりとその手を遠ざけさせた。
「で、どうする? 屍兵になった俺があんた襲ったら」
「……わかんない…… そんないじわるなこと聞かないでよ」
「けーど、可能性が全くねえって訳じゃ……あーあー、泣くな、悪かったよ、俺が悪かった」
「うぅ〜〜……」
 例えであっても想像するのが嫌だったのだろう、再度尋ねるとノノが大粒の涙をぽろぽろと零したのでグレゴが手でその涙を拭ってやる。きゅっと目を瞑って涙を瞼から押し出したノノは、少しだけ洟を啜った。涙を何とか止めたノノを見て、グレゴは一度目を伏せ暫し沈黙した後に重い口を開いた。
「……俺よぉ、昔家族を賊に殺されたんだよな。
 俺も殺されかけたんだけど、そん時に助けてくれた人が居て、暫く世話になったんだ。
 覚えて損はねえからって、俺に剣の基本を教えてくれてさ。
 中々良い筋してるし、強い人んとこで鍛えて貰えって言って、わざわざバジーリオさんのとこに連れてってくれたんだよ」
「その人、バジーリオと知り合いだったの?」
「直接の知り合いじゃなくて、バジーリオさんの部下が知り合いだったみてえでな。
 それでも快く迎えてくれたし、俺も強くなれたから、色んな意味で恩人だったんだ」
 グレゴは、過去を他人に話す事があまり無い。言って憐れまれる事は大が付く程嫌いであったし、賊に襲われるのは珍しい事でもなかったので、自分だけが不幸ではないと分かっていたからだ。現に、ドニだって賊に父親を殺されている。だから、自分だけが特別な訳ではないのだ。
「……こっちの大陸にきた後、屍兵の群れと戦ったの覚えてるかあ?」
「えっと……ミラの大樹に向かう途中の?」
「んー。その群れの中にな、居たんだ」
「……… ……えっ?」
「居たんだよ、あの群れの中に。あの人が」
「……………」
 再度のグレゴの唐突な問いに今度はすぐに反応出来たノノは、しかし彼の抑揚の無い声で告げられた内容に絶句し、呆然とした顔でグレゴを見上げた。顔からさあっと血の気が引いた彼女は、心なしか微かに震えている様にも見えた。
「二十年近く経ってても覚えてるもんだし、分かるもんなんだよなー。見間違いなんかじゃねえ、確かにあの人だった」
「……そ、それで、どうしたの……?」
「だから、さっきの質問だよ。あんたを俺の立場にしてみただけさ。あんたなら、どうする?」
「……、……」
 グレゴの問いに、ノノは口を開きかけたが結局は閉ざした。回答が出なかったのかも知れないし、自分の中での整理が全く付かないのかも知れない。どちらにしても、ノノからの返答は無かった。
 先程の例え話は、グレゴが実際に直面した現実であった。不明瞭な声を上げ、意思を持っているのかいないのか分からない体で剣を振り回す嘗ての恩人は、それでもグレゴを助けてくれた時の面影があり、声にも聞き覚えがあった。殺す事など出来る訳がなかったが、だからと言って他の誰かに斬られて霧散する様を見るのも嫌で、グレゴは周りの仲間に涙を悟られぬ様に動く屍と化していたその男を斬ったのだ。
 そして、それ以降グレゴは剣を持てなくなってしまった。剣の基礎を教えてくれた男を斬ってしまった事のつらさや虚しさもあったし、仲間がいつか屍兵と成り果てて自分を殺そうとするのではないかという空恐ろしさもあったし、逆に自分が屍兵となって仲間に斬り掛かってしまうのではないかという恐怖もあり、情けない事に剣を持つと途端に全身が震える様になってしまった。未来から来たルキナ達はそんな事など日常茶飯事だっただろうに気丈にも武器を捨てたりはしないしグレゴの様に怯える風も無い。だが、グレゴは十数年経っている上に屍兵となったというのに一目で気が付いた程の男を斬った事に対する罪悪感で押し潰されそうになる程参ってしまった。
「笑っちまうよなあ、傭兵稼業に就いてりゃ昨日まで同僚だった奴が今日から敵になる事なんてザラだし、
 実際そういう経験もしてるのによ。屍兵になった知り合い斬っただけで、剣が持てなくなっちまうなんて、さ」
「……だよ」
「んー?」
「当たり前だよって言ったの。ノノだって屍兵になっちゃったグレゴ殺したら、二度と変身したくなくなると思うもん。
 戦いたくなんてなくなるもん……」
「………」
 自嘲気味に薄く笑ったグレゴに、しかしノノは真剣そのものの声を振り絞る様に言った。元来戦う事を好まないノノは、それでも出会えた「友達」が傷付くのは嫌だからと竜石を掲げて変身し、戦場を飛ぶ。しかしそれは見た事も無い者達が相手だからであり、少しでも会話を交わした者相手であればノノは躊躇いを覚え、攻撃が出来なくなるだろう。グレゴが相手であってもだ。
「さっきうなされてたの、その時の夢見たの?」
「いやー……、……不謹慎だけどよ、屍兵になっちまったバジーリオさんの夢見ちまったんだ。
 すぐにあんたが起こしてくれて助かった」
「そっか……」
 夢の中、暗闇からグレゴの足を掴んだのは確かにバジーリオであったし、グレゴは竦み上がって何もする事が出来なかった。あの強靭な男が死ぬとは思えないし、戦死の報告を聞いた今でもグレゴにはその死を信じる事が出来ないのだが、フラヴィアが間違いないと言っているのならそうなのだろうけれども、何も夢枕に立つのに屍兵の姿でなくても良いだろうと思う。賊に襲われ殺されかけた自分を助けてくれたあの男を殺した挙句、バジーリオまで斬る羽目になったなら、グレゴは恐らくその場で自決してしまう。それが夢の中であってもだ。
「……でも、その男の人はグレゴのこと殺さなくてよかったって思ってるかもしれないね」
「……あ?」
「時々なんだけど、屍兵の中にわざと攻撃されようとしてくる人も居るの。生きてる時の心が残ってるのかなあ……」
「………」
 ぽつりと呟かれたノノの言葉にグレゴは暫し沈黙した。確かに彼女が言った様に、武器を持ち襲い掛かってくる屍兵の中には動きが緩慢な者も居り、わざと斬られやすい様に動いてくるのだ。殺してくれと懇願している風にも見えるその動きは、グレゴだけでなく他の者達にも虚しさや後味の悪さを齎したが、あの時の、あの男の姿をした屍兵はどうであったか。グレゴはあまり引き出したくない記憶を、吐き気を抑えながらも引っ張り出そうと試みた。
男の姿を認めたグレゴが呆然としていると、男もその視線に気が付いたのか進む方向を彼の方へと変えた。他にも大勢の戦士が居たにも関わらず一直線に彼に向かってくる男は他の屍兵に比べて殺気を出しておらず、それまで振り回していた剣を構える事無く腕を下げたままゆっくりと歩み寄ってきた。そうして、泣きながら剣を振り上げたグレゴに微かに笑った様に見えた。ノノが言う通り、僅かに残っていた生前の心がグレゴに殺される事を望んだのかも知れない。
「ねえグレゴ、さっきの答えだけどね、グレゴがもし屍兵になっちゃったら、ノノがちゃんと眠らせてあげるからね。
 グレゴがみんなに斬りかからなくても良い様に」
 その事に漸く気が付けたグレゴは難しい顔をして口を真一文字に結び、自分を賊から助けてくれた当時の男の事を思い出して不覚にも涙が滲みそうになったのだが、ノノが自分を見上げて約束ね、と言ったので、眼の奥の熱を何とか鎮めて肩を竦めて見せた。
「じゃー、もしあんたが屍兵になっちまったら?」
「ノノは強いから屍兵なんかにならないもん」
「そりゃーまた、大した自信だなあ……」
 我ながら意地の悪い質問だとは思ったが、有り得なくはない事を尋ねると、ノノは自信たっぷりに言い切った。その根拠の無い自信はどこから出てくるんだよ、と思わず出かかった突っ込みを既の所で飲み下したグレゴは、自分が苦笑している事に驚き、目の前のこの幼い容姿でありながら自分よりも数十倍も長い年月を生きてきたノノが自分を救ってくれているのだとぼんやり思った。
「バジーリオもきっと大丈夫だよ。どこかでばーん! って出てくるの見計らってるんだよ」
「いやー、そりゃ……いや有り得るなあ、あの人なら……」
「でしょ? だから、安心して寝ると良いよ」
 漸く笑ったグレゴを見て嬉しくなったのか、ノノは立ち上がって両手を広げておどけて見せた。彼女が言う様に、バジーリオは確かに他人を驚かせる事が得意であったから、それも有り得るかも知れない。そうして、何だお前まだ剣握れねえのかと笑うに違いないのだ。そう思うと、胸の中の黒い靄が少しずつ晴れていく様な気がした。まるで陽の光を浴びて暗闇が無くなっていくかの様に。
「今日ぐっすり眠れるように、おまじないしてあげるね」
 今なら剣を握れる気がして、後で武器庫にでも行ってみるかと思っていると、ノノが何の躊躇いも無く体を曲げ音を立てて額に口付けてきた。一瞬何をされたのか分からなかったが、にこにこと笑っているノノは本当に何の気も無く純粋におまじないのつもりでやったのだろう。
「………ありがとよ」
だから良い年した男の自分が動揺する訳にもいかず、グレゴが得も言われぬ苦笑のまま礼を言うと、ノノはどういたしましてと笑った。
「グレゴ、良い雰囲気のところ邪魔して悪いんだけど、ちょっと良い?」
「ぅおっ?! な、何だあソールにドニ、どうした」
 その時、不覚にも気配に全く気が付けなかったのだが、ソールが大きな笊をいくつか持ってすぐ側に来ていた。隣には、顔を赤くしてあさっての方向を見ているドニが居る。どうやら先程の光景を見られてしまったらしく、どもったグレゴにソールは持っていた笊を一つ差し出した。
「いや、ドニと一緒に夕飯の為の野菜を収穫しに行くんだけど、手伝って貰えると助かるなと思って。
 良かったらノノも手伝ってくれる?」
「うん、いいよ! グレゴ、一緒にいこ」
「お、おう、行くから引っ張らねえでくれ」
 夕食の材料の調達などグレゴを誘う必要は無いのだが、細やかなところに気配りが出来るソールは所在なさ気にしているグレゴの事も気になっていたのだろう。言葉の端からも気遣いが分かってくすぐったい気分になったグレゴは笊を受け取った自分の手をぐいぐいと引っ張るノノを宥め、立ち上がった。
「なあ、これが終わったらよ、三人共ちょーっと手合わせに付き合ってくれねえかなあ」
「……いいよ!」
「勿論!」
「おらで良ければ付き合うべ!」
 そしてソンシン城が所持する畑へ向かおうとする三人の背中に頼みを投げかけると、同時に立ち止まったノノがいち早く満面の笑みで頷き、後の二人も快諾して頷いてくれた。収穫と手合わせという運動が、今夜の安眠を約束してくれている気がしていた。