+ミネルヴァ

 野営地から離れた場所で羽を休めている飛竜が1頭。夕食の準備や武器の点検などで賑わう野営を遠目に見ながら、その飛竜は所在無さげに蹲っていた。
 彼女の名は、ミネルヴァと言う。古の竜騎士の名を冠した彼女は、その名に相応しく勇猛に戦場の空を主と共に駆ける。主と共にある事こそが彼女の歓びであり幸福であるのだが、今その主は側には居ない。仲間に馴染めぬ彼の為に自分も何かせねばならないと彼女も思ってはいるのだが、どうしても彼女はそれをする事が出来ずにいた。
 今、ここに居るミネルヴァはイーリス正規軍に属しているロザンヌの竜騎士であるセルジュの愛竜、ではない。未来から来た、セルジュの息子であるジェロームの愛竜、である。ここに居るミネルヴァから見ればセルジュの側に居る飛竜は過去の自分であり、若かりし頃の姿をしていた。その事について彼女は特に何の想いも抱かない。たとえ体に残る傷痕が少ない姿であっても、自分より年若い姿をしていても、それは何も羨む事ではない。体に刻まれた年月と数々の傷痕は彼女が主であったセルジュと共に居た事を証明してくれていたし、成長したジェロームを幾度となく守ってきた証であったから、彼女は過去の自分の姿を羨む事は無かった。
 ただ、記憶の中に佇む若い頃のセルジュを直に見るのはつらかった。ミネルヴァは主を守れなかったし死なせてしまったけれども、セルジュから託された息子のジェロームを守り育てる事で精一杯の日々を過ごしてきていたから、セルジュの死を嘆き悲しむ余裕は無かった。何より自分が悲しむ姿を見れば、残された幼いジェロームが負い目を感じてしまうのではないかという恐れがあった為、今まで感傷に浸る暇が無かった。
 それが、過去に来てからジェロームが不承不承(それでも内心喜んでいる事をミネルヴァは知っているが)イーリス軍へと加入してからというものセルジュは実に良く自分を労ってくれたので、今まで押し殺していたセルジュに対する様々な感情が胸の中を満たしていって、溢れ零れてはミネルヴァを苦しめた。死の間際に居たセルジュに対し、感謝の言葉も詫びの言葉も言えなかったからだ。だから彼女は、ジェロームとはまた別の理由で陣営に近付く事が出来なかった。
「よお、どうしたんだい、こーんなとこで。
 ジェロームだけじゃなくてあんたも馴染めねえのかい」
 その時、間延びした声と共に男がミネルヴァに近付いてきた。彼女が警戒心を抱かなかったのは彼が見知った者であり、たとえ過去の人間であったとしても彼女にとっては特別な存在であったからだ。
 この壮年の男は、名をグレゴと言う。彼はミネルヴァの以前の主であるセルジュよりもうんと年上ではあるのだが、ミネルヴァは彼の若い頃の姿を知っている。未来から来た彼女にはもう遠い記憶となりかけているけれども、彼女の中で決して忘れる事の出来ない出来事の中心に、若い頃の彼はずっと存在し続けていた。
「まー、あんただって過去に来て見知った奴が居るってのは複雑な心境だよなー。
 そんな中で冷静に振る舞えって言われたって、無理な話だわな」
 よいせ、という掛け声と同時にミネルヴァの側に腰掛けたグレゴは、顔に見合わず人懐こそうな笑顔で彼女を見上げる。軍内の人間を良く見て体調が悪そうだと思った相手に休む様に声を掛けたり、何か悩み事がありそうだと思えばさり気なく話を聞いたり、そういう気配りが上手い彼は未来から来たミネルヴァも元気が無いと思って声を掛けてくれたのだろう。彼女は彼のそういう変わらぬところに安心して彼と目線が合う様に頭を低く下げた。
 グレゴは、幼かった頃に飛竜の谷に住んでいたミネルヴァを助けてくれた事がある。大勢の人間が谷に来たかと思えば仲間の飛竜を捕まえては次々と爪を切り落とし、暴れた飛竜は容赦なく殺していった。捕らえやすいのは矢張り子供であったから、当時まだ子竜であったミネルヴァも捕らえられそうになったのだが、両親が上手く飛べない彼女を守る様にして人間達を威嚇してくれた。だが人間達は竜族に有効である武器を使って両親を殺してしまった。悲しくて悔しくて、だけど恐怖で動けなくて、彼女はただ鳴く事しか出来なかった。そんなミネルヴァに対しても下卑た笑い声と共に振り上げられた剣は、しかし1人の男の剣によって受け止められた。その男が、グレゴだった。
 共に谷を訪れていた傭兵達を全員敵に回してまでも、彼はミネルヴァを助けてくれた。依頼にねえ事をするんじゃねえ、飛竜だろうと何だろうと無抵抗の相手を殺すなんざお前らは全員クズか、と怒鳴ったグレゴは逆上した男達から斬り掛かられたが、背後のミネルヴァを守りながら戦ってくれた。他の者達が去った後、グレゴは弔い合戦にもなりゃしねえと死に絶えた飛竜達を見て吐き捨ててから、両親を前に弱々しく鳴くミネルヴァの側に立ち、何度も謝った。謝って許される事ではないと分かっているとの前置きを言って。
 ミネルヴァにしてみれば、あの時のグレゴは確かに「谷を荒らしに来た人間の内の1人」だった。彼を含めた人間達が引き受けた依頼は飛竜の爪を取るというものであったらしいのだが、その時点でミネルヴァには乱暴なものだと思える。爪はまた伸びるものとは言え伸びきってしまうまでは不便なものであり、勝手に切られるのは困る。セルジュやジェロームも、ミネルヴァにきちんと切っても良いかどうかを尋ねてから切るのだ。だからグレゴはあの時、ミネルヴァに自分も同罪だと詫びた。
「……なあ、ちょーっとあんたに聞きてぇ事あんだけど、良いかあ?」
 不意に、グレゴがミネルヴァの顔色を窺う様に尋ね、彼女は僅かに首を傾げた。人間臭いこの仕草は、セルジュと生活を共にしてから身に付いてしまったものだ。なるほど、グレゴはどうやらミネルヴァが所在なさげにしているのも気になったのだろうが、本当の目的は何かを質問する事だったのだろう。彼女は了承の返事をする様に、喉を鳴らした。
「未来の俺は、あんたに詫び言ったのかねえ。
 どこまでが共通してんのか、俺にゃ分かんねえから、さ」
 困った様な、すまない様な、そんな顔をしてそう尋ねたグレゴは、なるべくミネルヴァを傷付けない様にと配慮して何に対しての詫びであるかを言わなかった。しかし彼女はちゃんとグレゴが言いたかった事を察し、すぐに肯定の意味で頷いて見せた。そうか、と呟いたグレゴは、だがそれでもまだ浮かない顔をしている。何か引っかかるものがあるのだろうかと彼女が暗に先を促すと、グレゴは何と言って良いものなのか悩んでいた様だったのだが、やがて重たい口を開いた。
「その……、……セルジュの側に居るあんたは、そんな事ねえけど……
 あんた、こっち来てから、セルジュの事殆ど見てねえだろ?
 ……あの時みたいな経験しちまったのかなって思ったら、ちょっと、な」
 ……察しの良い所はミネルヴァがセルジュと共にあった頃と変わらないらしい。否、その当時のグレゴなのだから当たり前なのかも知れないのだが、未来から来た自分に対しても変わらずに気にかけてくれる事が嬉しかった。
 グレゴの言った「あの時」というのは、間違いなくミネルヴァの両親が死んだ時の事を指している。彼が言った通り、ミネルヴァがセルジュをまともに見る事が出来ないのは死なせてしまったからに他ならないのだが、それ以上につらい事があったからだ。
「ん? 何だあ? ……ああ、良いぜ、言ってみな」
 ジェロームにも言えなかった、この世界のセルジュにも言えなかった胸の中の蟠りを、目の前の男には伝えても良い様な気がして、今度はミネルヴァがグレゴに伺いを立てる。この男の口が堅い事は彼女も承知しているし、それを信頼した上での目配せであった。
 あの日、ミネルヴァがセルジュと今生の別れをしたのは、星も見えない夜だった。闇を明るく照らしていたのは村を焼き尽くす炎で、その灯りを頼りにセルジュは愛竜と夫であるヴィオールと共に屍兵と戦っていた。だが、既に死んでいる体を持った兵達は炎の熱さなど物ともせずに機敏に動き、熱と煙で動きが鈍るセルジュやミネルヴァ、ヴィオールを取り巻いた。動く事すら困難となっていた怪我を負っていた彼らに最早逃げ道は無く、それでも最後の最後にヴィオールがセルジュをミネルヴァの背に押し遣り、離陸させたのだ。夫の名を叫び続けるセルジュの声が今でもミネルヴァの耳には残っている。しかし何とか逃げ果せたとは言えセルジュも治療など手遅れの状態であり、せめて夫と同じ地上で死にたいと言った主の願いを聞き届けたミネルヴァが安全な場所で着陸して降ろすと、セルジュは最期の力を振り絞り、掠れたものではなくぴんと張り詰めた声でミネルヴァに言った。


 屍兵となり果ててあなたとジェロームを手にかけてしまう前に。
 ミネルヴァ、私を食べなさい。


 セルジュはミネルヴァに対し、頼みの形で言い付ける事はあっても命令の形で言い付ける事は無かった。呼称も必ず「ちゃん」を付け、呼び捨てる事も無かった。それはセルジュがミネルヴァをしもべではなく友として、また妹として、家族として見ていたからに他ならない。だからミネルヴァはあの時、初めてセルジュから呼び捨てられたし命令された。後にも先にも、あの一度だけだ。たった一度、最初で最後の命令が「自分を食べろ」であった事は、恐らくセルジュにとってもつらいものであっただろう。少女の頃から親しんだ、半身とも言えるべきミネルヴァに、酷な事を命じたのだ。
 そうして、ミネルヴァは主の命に従った。心の底から従いたくはなかったが、もしセルジュが屍兵となってしまったならばミネルヴァも倒す事など出来る筈が無い。だから、血のにおいの中で息を引き取ったセルジュの遺体を食べた。食べ終えた後の咆哮は、遠くで焼け落ちる村へ届く程の遠吠えとなった。
「……そーかぁ、あんたもつらかったなあ。
 つらい事思い出させて、悪かった」
 全て解す事が出来たのかどうか、それはミネルヴァには分からないが、か細い鳴き声を黙って聞いてくれていたグレゴは細く重苦しい息を吐いた後に漸く彼女と向き合った。過去に来て生きているセルジュを見て、それが自分の罪を見せつけられている様でずっと苦しんできたミネルヴァを労る様に、彼はその無骨な手で彼女の頭を自分の肩に置き、鱗でざらつくのも気にせず頬擦りしてくれた。
「じゃあ、ついでに俺もあんたに懺悔しようかねえ。
 俺、むかーし賊に弟殺されたんだ。
 目の前で俺の事庇って死んでよ。
 ……その弟、食ったんだ」
 目も合わせず、声音も変えなかったグレゴの告白は、ミネルヴァの目を見開かせるには十分なものだった。彼の両親が目の前で殺されたという事は知っていたけれども、弟が居た事は知らなかったし、まして殺された事も全く知らなかった。ミネルヴァにとってセルジュを死なせてしまった事が最大の罪であるのと同じ様に、グレゴにとって弟を死なせてしまった事は人生で一番後悔している事であるし誰にも言えなかった事であるらしい。ミネルヴァが彼に対して懺悔したからこそ漏れ出た告白だったのだろう。
「食えるだけ食って、時間経つと腐っちまうから後はぜーんぶ燃やして、残った骨を全部食ったんだよ。
 ……大地に返すくらいなら俺のもんにしたかったから」
 一部の国を除き、殆どの地域では土葬が主流だ。だから人間は死ねば遺体を埋める。しかし、グレゴは弟をそうしなかった。自分の中に収めて、神に返す事をしなかった。ミネルヴァと同じ罪を、彼はずっと背負っていた。ただ、ミネルヴァがセルジュに命じられて食べたのに対し、グレゴは己の意志で弟を食べた。そういう意味ではグレゴの方がずっと業が深い。その業を、今まで彼は誰にも言わずに生きてきた。今この世界に居るミネルヴァにさえ言っていないだろう。セルジュを食べた、未来のミネルヴァだからこそ彼は懺悔出来たのだ。今度はミネルヴァがグレゴを慰める様に小さく鳴く番だった。
 その慰めに礼を言うかの様にぽんぽんとミネルヴァの頬を撫でたグレゴは彼女の頭を肩から解放すると、ミネルヴァの透き通った紺碧の瞳を見据えて微かに笑って言った。
「だから、俺は弟とずっと一緒だし、あんたはセルジュとずっと一緒だ。
 誰が何言ったって良い、神様とやらが許してくれなくたって良い、
 食った事を後悔しねえようにしようぜ。
 ……けーど、なあ、ミネルヴァ、」


「今度こそ、お互い大事なもん護りぬいてみせようぜ。
 俺があんたの力になる。
 あんたも俺の力になってくれ」


 言い様も無い、けれども哀しいものではない笑みを浮かべ、グレゴがミネルヴァの顔を優しく撫でながら溢したその言葉に、彼女もはっきりと自分の意思で小さく鳴いて返事をした。主ではない、主の家族でもない人間の頼みを彼女が受け入れるのは珍しい。それは間違いなく彼が過去ミネルヴァを命懸けで守った事に起因していたし、同じ罪を背負った者同士の密約でもあった。
 年若い時分のグレゴはお世辞にも善人とは呼べぬ風貌をしていて――今もそうであるという事は本人の名誉の為にも言わないが――、ミネルヴァの両親を殺した人間達と変わらないと彼女は思っていたのだが、そんな彼女の前に躍り出て守りながらグレゴは立ち回ってくれた。あの当時の彼の剣捌きは今の様な手練れのものではなかったけれども、ミネルヴァを遊びで殺そうとしていた輩共を退かせる程度のものではあった。彼の気迫に押されて白け、他の者達が退いた後、2、3日はその場に留まり彼女の手当てをしてくれたし、両親を含め殺された飛竜の埋葬をしてくれた。生き残った飛竜達の中にはグレゴを攻撃しようとした者も居たが、ミネルヴァや彼の行為を評価してくれた飛竜が庇ったお陰で、彼は飛竜からの傷を受けずに済んだ。
 しかし、ミネルヴァを庇った際に負傷した傷は今も痕として残っていた。彼女を狙った弓矢が刺さった痕は今でも彼の左肩に残っていて、それを思い出したミネルヴァは自分を撫でてくれた彼の左肩を鼻先で優しく撫でた。以前、この軍にジェロームと合流して再会を果たした後に戦闘後の怪我の手当てを「程度が軽いから」とセルジュに彼が頼み、それを見ていたミネルヴァは傷痕が残っている事を確認していたのだ。
「んー? ああ、もう大丈夫だって。心配すんな。
 ん? ……ああ、痛んだりしねえよ。ちゃーんと動くだろ?
 ありがとなぁ、あんたは優しいな」
 撫でられた肩にある、服の下に隠れた傷痕を思い出したのか、グレゴが彼女を労る様に礼を言う。見た目も声も、助けてくれた当時よりも確かに老けたけれど、ミネルヴァにとってグレゴは昔も今もヒーローだった。
 ミネルヴァの意思を解してくれる人間は限られている。意志疎通は難しいと最初から思い込んでいる人間は決して彼女の言葉が分からないが、グレゴは最初から、それこそ助けてくれた時から解してくれていた。助けてくれた事に対しての礼、両親や仲間を埋葬してくれた事に対しての礼、彼が谷を去る際に掛けた別れの挨拶…まだ若かった彼は全て解し、彼女に返事をしてくれた。自分も親を目の前で殺された事があるのに同じ目に遭わせてしまったという罪悪感が彼の背を押し自分を助けたという事が分かっていても、ミネルヴァにとってはグレゴは恩人であったし大切な存在だった。彼が助けてくれなければセルジュにも出逢えず、彼女の息子を守る事も出来なかったからだ。
「んー? どうした?」
 じっと自分を見つめるミネルヴァに、グレゴは首を傾げて尋ねる。しかし彼女は何でもないと言うかの様に小さく鳴き声を漏らし、そっと彼から離れた。
 ミネルヴァは、彼がセルジュと一緒になってくれれば良いと思っていた。セルジュも好意を持っていた様であったし、彼も同様だったらしいのだが、セルジュが最終的に選んだのは騎士として仕えていたヴィオールだったし、彼は未だに特定の誰かを側に置こうとはしていない。「お互い今度こそ大事なもん守ろうぜ」と言ったグレゴに偽りの色は見られなくて、けれども彼の言う「大事なもん」にはセルジュの色は感じ取られなかった。勿論グレゴにとってはセルジュもミネルヴァも大事な「仲間」ではあるが、それ以上でも以下でもないという事なのだ。


――私が人間だったら良かったのに。そしたら私、きっとあなたの良い奥さんになれたわ。


 出逢った当時は自分の方が年下であったのに、今ではすっかり目の前のグレゴの年を追い越してしまった。その事に対しても彼女は残念そうに鼻を鳴らしたが、人間の女心は心得ていても飛竜の女心はそうはいかないのか、グレゴはやはり不思議そうに首を傾げただけだった。