more than expected

 半月ほど休暇を取ったから遠出でもしないか、と提案された時、ベルベットはロンクーにも休暇を取るという概念があるのかと面食らった。こう言っては何だが、休むという事を知らないのではないかと思うほどの生活を送っている男であるし、たった一日の休日でさえ時間を持て余している姿を見てきているので、心底驚いた。しかも、半月もの休暇を取っただけでも驚きであるのに、一緒に遠出しようなどと言う。何か変なものでも食べたの、と訝しんで聞いてしまったベルベットに、ロンクーは顰め面でお前と同じものしか食ってないと返答した。
「遠出は良いけど、どこに行くの?」
「北にある遺跡を覚えているか? ルフレの子供のマークを保護した場所だ」
「ああ、あの遺跡……結構遠いじゃない、遠出じゃなくて旅行よそれは」
 聞かされた場所は、この西フェリア城から馬で移動しても二日はかかる。積雪量は多くはないがここよりは寒い地域であるから、しっかりとした防寒具は必要だろう。編みかけの帽子を急いで編み終えたい、とベルベットは自室に置いたままの編み物と毛糸玉の在庫の算段をした。
「お前が億劫なら、無理には言わんが……」
「行くわよ。貴方が珍しく誘ったんだもの」
「……そうか」
 断るという選択は無かったベルベットが承諾の返事を寄越すと、ロンクーは見るからに安堵した様な表情を見せた。きっとこの遠出、もとい旅行を切り出すにもかなりの時間――それこそ数日は悩んだに違いない。妙なところで臆病で、遠慮をする男なのだと知ったのは、先の戦が終わって共に西フェリア城に来た後だった。知った時はかわいい男だわね、と思ったし、今も思った。



 毛糸の帽子を目深に被り、防寒具も着込んで、夜空の下で佇む。西フェリア城の夜より寒く、心なしか空気も澄んでいる様な気がするが、息を吸い込むと冷気が喉に抜けて中々その清廉さを味わえなかった。数時間もすれば慣れると思っていたんだけど、とベルベットは手袋を嵌めた手を擦り合わせながら白い息を見遣る。足元に置いた二つのランタンの光が息に反射して、キラキラしていた。
 遺跡から三十分程歩いた所に小さな街があり、時折旅人が宿泊していく事もあるらしく、今回はその街の宿屋に数日滞在する事となった。宿屋の主が言うには、旅人だけではなく商人も行き交うし、不定期ではあるが中央――西フェリア城から数名の兵士が派遣される事もあるそうだ。これはフェリアに限らないが、統治者の目が届きにくい地域では賊が蔓延りやすいので、その措置も尤もな事と言えた。マークを保護した当時は戦争中であったし、王であるバジーリオとフラヴィアが不在であったから、フェリア国内で賊がのさばってしまったのだ。帰国した二人が大規模な討伐隊を派遣し、今では随分落ち着いている。だから、この遺跡も現在は静かという訳だ。
「それで、わざわざこんな所まで来て、何があるの?」
「ん……、ついて来てもらっておいて何だが、今日見られるかどうかは分からん」
「はあ……? 見られるって、何が?」
 夕食も終わった後に外出する旨を伝えられ、着込んでから言われるがままについてきたベルベットは、何の目的があってこんな辺鄙な場所まで連れて来られたのか今の今まで聞きそびれていた事に気が付いた。否、疑問に思わなかった訳ではないのだが、冒頭でも述べた様にロンクーが長期休暇を取って旅行に行くという事自体が青天の霹靂だったので、それ以上の何かがあるとは思ってなかったのだ。……などという考えを言ってしまうと、お前は俺を何だと思っているんだと不貞腐れてしまうので言わないが。
「オーロラと言って、空にカーテンがかかった様なものが見える時があるんだ。この付近では比較的観測しやすいらしくてな」
「へえ……何か、発生条件とかあるのかしら?」
「極夜が近くて晴れた日は出やすいと聞いた。俺も何度か見た事がある。多分見えると思うんだがな、向こうの空の色が違う」
 彼が指差す方向の空は、確かに不思議な緑がかった色になっていた。タグエルは月を直接見る事をしない習慣がある為に夜空を眺めるという事があまり無いので、気が付くのが遅れてしまった。どうやらロンクーは天体現象を見せたかったらしい。見られるかどうかも分からない、そんな不確定なものの為に、半月もの休みを取って連れてきてくれた様だ。滞在中に一度でも見られたら良い、そう思っているのかもしれない。
「それと、お前、人間が多い所に長く居ると気疲れするんだろう。最近、ため息が多かった」
「……貴方に嫌な思いさせちゃったかしら?」
「いや、俺は良いんだ。どうしたらお前が少しでも気を張らないで良くなるか考えて、たまにお前が気疲れしない様な所に行けば良いかと思ってな。俺も、少しは休めと言われてしまったし」
「ふふ。貴方、地方討伐にもよく行くものね」
 ベルベットが編んだマフラーに口元を埋めたまま話すロンクーの声は少し籠もっていて、それでも空気が澄んでいるせいか聞こえにくいという事は無かった。元からベルベットは耳が良いので聞き逃しもしないし、すぐ隣に立てる程度には慣れてくれたものだから、鼓動の音まで聞こえている。随分と、穏やかな心音だった。
 ロンクーが言った通り、西フェリア城に生活拠点を移してからというもの、イーリス軍に居た頃に比べて気を許せる人間が少なかったからか、ベルベットはあまり心身が休まらない様な気がしていた。ただ、フェリアでは実力がある者が一目置かれる傾向が強い為、彼女に対して「タグエル」というより「武人」としての目が向けられており、概ね友好的な者が多い。それは有り難いのだが、静かな場所を好むベルベットにとって他人が常に話しかけてくる状態は、正直とても疲れる。その上、これは仕方ない事ではあるのだが、夫であるロンクーは地方討伐にも行く際、ベルベットを同伴させない。その間、彼女は慣れない人間社会の中で過ごさなければならないのだ。しかし人間を伴侶に選んだのだし、その伴侶が城務めであるという事も承知の上であったのだから、不満を言うのもおかしな話かと思って黙って耐えていた。その事に、どうやらロンクーは気付いてくれたらしい。
 そのオーロラとやらが見えても見えなくても、恐らくロンクーとしてはどちらでも良いのだろう。先程ベルベットが推察した様に、見えたらそれはそれで僥倖、程度に思っているに違いない。要は、ベルベットを城から連れ出して、人間が少ない所に滞在させてやろうとしてくれたのだ。
「貴方、私が思ってる以上に私の事好きなのね」
「……そっくりそのまま返す」
「あら、どういう事?」
「人間が嫌いな癖に、わざわざ編み物を教わってくれたそうだな。セルジュから聞いた」
 二人が被っている帽子も、嵌めている手袋も、首に巻いているマフラーも、全てベルベットが編んだものだ。故郷は山の中だったとは言えここまで寒くはなく、変身すれば温かな毛皮で暖を取れるベルベットは防寒具の編み方を知らず、ロンクーが言った様にイーリス軍に居た頃にセルジュに教えてもらった。彼女がヴィオールの為にポットカバーを編んでいて、編み上がっていくカバーを不思議そうに眺めたベルベットに、覚えておくと良いかもと言ってくれたのだ。ベルベットはその頃にはもうロンクーの側に立てる唯一の女性となっていたので。
「……私の帽子が欲しかっただけよ」
「ついでだろうが何だろうが、施しには礼を言うのが道理だと思っている」
 ベルベットは戦時中、夜に野草茶を煎じようと水を汲みに行く途中で、目が覚めたとこぼすロンクーに淹れた茶を分けてやった事がある。里を滅ぼされた時の夢を見て魘されない様にと自分の為に淹れたものであったから、礼を言った彼についでだと言うと、施しには礼を言うのが道理だと返されてしまった。あの時と全く同じ事を言われ、無意識ならちょっとタチが悪い、とベルベットは思った。
「……ん、珍しいな、初めて見た」
 何とも言えない雰囲気――お互いただ自分の言に気恥ずかしさを感じただけだが――となってしまい、じっとしていても寒いだけなのでランタン片手に遺跡内を暫く散歩していると、上空の変化に気付いたロンクーが声を上げた。視線の先には、確かにカーテンの様な緑の光の帯が一筋、横たわっていた。
「これがオーロラ? 珍しいの?」
「俺が見た事があるのは、ああいった光が本当にカーテンみたいにこう……たくさんたなびいている感じだったんだが……」
「へえ。でもこれはこれで綺麗だけど」
「ん……、見られただけでも運が良かったと言うべき、か……っ?」
 どう言葉で表現したら良いのか分からなかったのか、ロンクーは手を浪打たせる様に空をなぞる。その動きからして、今見ている様な光の帯ではないのだろうとベルベットが思っていると、不意にその光が大きく揺らめき、徐々に広がって渦巻いていった。たった今まで静かに横たわっていた光の帯が、ロンクーが言っていた通りカーテンのドレープが空を覆う様に広がったのだ。まるで、爆発した様だった。その光景に、二人で目を丸くする。
「すごい、本当に綺麗ね。びっくりしたわ」
「……俺も驚いた」
「あら、これを見に来たんでしょう?」
「それはそうだが、こんな大規模なものは見た事が無かったからな……当分の運を使い切った気分だ」
 あまりの壮大な光景にぽかんとしていたが、嘆息を漏らしたベルベットは、珍しく感動しているかの様な表情で空を見上げているロンクーが使わないであろう言い回しをした事に、何となく感心した。この人にもそういう思考があるんだ、と思いながら、何気なく尋ねた。
「その運、もっと他の事に使いたかったかしら?」
「いや、お前に使えたのならそれで良い」
「……そ、そう」
 まさか即答でそんな事を言われるとは思いもしていなかったので、ベルベットは反応が遅れてしまった。しかも、渦巻いては揺れている様に見える空一面のオーロラから視線を自分に移し、真っ直ぐに見ての回答だ。嘘偽りの無い素直な気持ちを、何の飾り気も無い言葉で伝えてくれるこの男は、ひょっとしなくても本当に自分が思っている以上に自分の事が好きなのではないか。そんな事を考えていると、ロンクーは再度上空に視線を上げて言葉を続けた。
「俺が綺麗だと感じたものを、お前も同じ様に感じてくれたら良いと思った。だから、今夜のこの景色に使い切れたならそれで良い」
「……私、貴方に何も返せないわよ」
「俺の側に居てくれるだろう。それで充分だ」
「……そう」
 人間から故郷を、家族を、一族を奪われた時、一生人間を憎み続けていくつもりでいた。エメリナからの謝罪を受けた時、僅かに揺らいだその憎しみは、イーリス軍で人間と共に過ごす内にゆっくりと薄れ、この男の手を取った時に氷解した。勿論、完全に消える訳ではないし、実際に今だって基本的に人間は嫌いだ。それを差し引いてでも、ここに――ロンクーの隣に居たいと思う。
「訂正するわ。貴方、私が思う以上に私の事大好きなのね」
「……恋だの愛だのは分からんが、お前がそう思うなら、そうなんだろう」
 夜空を彩るビロードを眺めながらベルベットがそう言うと、マフラーで口元を隠したままのロンクーは少しだけ眉を顰めたものの、否定はしなかった。ただ、帽子とマフラーでは隠せなかった彼の眦が、頼りないランタンの明かりだけでも紅潮したのは横目で分かったので、ベルベットは満足した様に笑ってから手を繋いだ。ロンクーもその手を拒む事無く、しっかりと握り返した。