何時もの元気は何処へ行ったのか、そして何時も遅くまで眠っているノノが、まだ夜が明けるには一刻は掛かるだろう時分に膝を抱えてぼんやりと野営の火を眺めている。ヴァルム帝国がこの東の大陸に攻め込んでこようとし、フェリアとイーリスは新王を擁立したというペレジアに協力を求めた。その際、指定された場所が屍島という何とも物騒な土地であり、案の定大量に現れた屍兵を相手にクロム達は応戦した。やっと敵将を討ち取ったかと思ったその時、突如現れた刺客にクロムが危うく斬られかけたのだが、同じく突如現れた青い髪の少女―ルキナという名で、未来から来たクロムの娘であるそうだ―がその窮地を救った。何でも、未来では邪竜ギムレーが復活し、世界は絶望に覆われているらしい。その運命を変える為に、ナーガの力によって彼女は過去へと来たのだそうだ。しかし共に過去へと飛ばされた仲間達とははぐれてしまったのだと言っていた。
だが、はぐれたならば探し出せば良いだけだ。ノノにはもう、探し人が居ない。ペレジアの呪術師であるサーリャが占いをするからマムクートの爪をくれないかと聞いてきたので、ノノはその代わりに両親の居場所を占って貰った。ノノは生まれてすぐに何者かによって拐われてしまったので両親を知らなかったから、その両親を探して今まで一人で、時にはこうやって誰かと放浪していた。手掛かりなど無いに等しく、唯一あったとすれば額につけているサークレットだけで、ノノはそれだけを頼りに長い時を旅していた。少しでも可能性があるのならば諦めたくはなかったから。だが、サーリャの占いでは既に両親は何処にも居ないのだと言う。彼女は気遣って口を濁していたが、ノノはサーリャより何倍も何十倍も生きている。サーリャが言えなかった事実は、ノノには全て分かってしまった。
それが昨晩の事だ。ルキナがクロムを救った後、フェリア港へ向かう途中の野営を張っている時に教えて貰った。こんなに広い世界なのに自分の探し人は居ないのだと思うと悲しくて、眠れなかった。仮令サーリャの占いで、この戦いを生き抜けばもう一人にはならずに幸せな人生が送れると出ていても、だ。両親はもう居ない、そして大好きだった恋人も、もう居ない。さみしい、とノノは思った。
「ノノちゃん?起きているの?」
その時、ノノの背後から大人びた女性の声が聞こえて、彼女が顔だけで振り返るとくすんだピンク色の長い髪の女性がこちらに歩いて来ているのが見えた。名をセルジュと言い、フェリア港での戦いから参戦してくれた、ヴィオールの元従者だそうだ。貴族であった事は本当であった様で、領地から逃れた彼の代わりにヴァルム帝国の動向を探っていたらしい。彼女は女性には珍しく竜騎士であり、その相棒である飛竜のミネルヴァとノノはすぐに仲良くなれた。
「セルジュ…どうしたの?眠れないの?」
セルジュは野営の見張り番ではないので天幕で休んでいても良い筈だ。それはノノも同じ事なのだが、どうしても眠れなかったというか眠りが浅くて逆に疲れてしまいそうだったから、火の見張りを買って出た。交代を名乗られた兵士は不安そうであったが、ノノが竜石を見せて大丈夫、と言ったので、すぐ近くの天幕で休んでいる。クロムが率いる軍も一般兵士が増えた事により、こうやって野営の見張りの人員を心配する事も少なくなった。それでも矢張りユーリは平等に休むべきだと言って、一般兵であろうがクロムや自分達であろうが野営する際はローテーションを決めて休む事になっている。
「私は皆の服を繕っていたの。
 先日からの戦闘で、結構破損していたみたいだったから」
「そうなの。セルジュはえらいね」
「うふふ、有難う」
どうやら裁縫が得意であるらしいセルジュは、仲間の服や外套が解れたり破れたりしているのを積極的に繕ってくれている様だ。服というのは特にこういう行軍を続けていれば容易に手に入るものではなく、総大将であるクロムでさえ着古したものを着用している。ノノも外套を繕って貰った事があったし、持ち前の人懐こさでセルジュともすっかり仲良くなった。どうやらヴィオールは元従者であるならば当たり前なのかも知れないがこのセルジュと親密である様で、竜騎士と弓兵で相性も良く、先日の戦いでもユーリがペアを組む様にと指示を飛ばしていた。流石昔馴染みという事もあり、連係プレーは素晴らしいものがあって、ユーリは勿論イーリス騎士団の面子も感心した程だ。
「そう言えば、ノノちゃんはお裁縫出来たの?」
「ううん、マリアベルに教えてもらったの。
 でもあんまり上手には出来ないから、セルジュがしてくれたらうれしいな」
「そうだったの…。でもとても上手に出来ていたじゃない、腹巻き」
「…あれ?何でセルジュ知ってるの?」
「頼まれたの、グレゴに。
 編み込みがある様な複雑な縫い付けは出来ないんですって」
どうやらセルジュはノノがグレゴに渡した腹巻きも繕っていたらしい。先だっての屍兵との戦闘はそれなりに激しかったし、何処から沸いて出るのか増援の量も多かった。自然と全員の着衣は破損したし、普段から上半身に殆ど何も着用していないヴェイクに至っては随分と生傷を作っていた。リズやマリアベルが防具くらいはつけろと文句を言ったくらいだ。そんな戦闘であったものだから、たまに無謀な戦い方をするグレゴの防具も破損してしまったのだろう。しかし胴部分を保護する腹巻きが破損するというのも凄い。
「じゃあ、鱗取れちゃった?新しいの、要る?」
「いえ、何とか大丈夫だったわよ。
 ミネルヴァちゃんが以前脱皮した時の鱗を残しておいたから」
「そっか、じゃあ安心だね!」
「ふふ、そうね」
今まで手先の作業をしてきたセルジュは疲れている筈なのだが、そんな素振りは全く見せず、普段通りの笑顔を見せる。ミネルヴァの鱗も流石飛竜のものだけあって頑丈だから、ちょっとやそっとの事では破損しないだろう。セルジュもミネルヴァの鱗を使って手甲などちょっとした防具を作っているから、鱗の縫い付けは得意だった。
セルジュはノノにグレゴが複雑な縫い付けが出来ないと言っていたと伝えたが、それは少し違っていて、本当は彼はミネルヴァの鱗が余ってないか尋ねてきたのだ。グレゴはどうも飛竜が脱皮する事を知っていた様で、竜騎士がその鱗を使って防具を作る事があると聞いた事があるらしく、それで尋ねたらしい。彼女が仲間内の服が草臥れているのを見かねて積極的に裁縫しているのを見て、他の裁縫が出来る者、例えばマリアベルなども手伝う様になったのだが、一応簡単な繕い物ならグレゴも出来るらしい。各国を渡り歩く傭兵であったなら不思議な事ではない。その彼が飛竜の鱗など不思議な事を聞いてきたので何故かと尋ねると、腹巻きの事を聞かされた。セルジュにしてみても初めて見るマムクートの鱗の防具に驚いたが、飛竜の鱗よりも薄くて硬く、頑丈だった。残念だがミネルヴァの鱗ではそこまでの強度は出せず、それでも良いか尋ねると、グレゴは苦虫を噛み潰した様な顔で項を擦りながら言ったのだ。


―――まーた鱗剥がされちゃたまんねぇからな。俺の所為で怪我がでかくなったとか、洒落になんねぇし。


鱗で防具を作る、と言っても、そこまで大量の鱗を使う訳ではない。しかしノノが作ったというその腹巻きは明らかに大量の鱗が編み込まれていて、セルジュだってこんなに沢山使って大丈夫だったのかしらと思った程だ。しかもセルジュがミネルヴァを通して知る限りでは、ここまで薄くて頑丈な鱗は胸部のものの筈だ。あらまあ、仲が良いのねと思わずセルジュが言ってしまったが、それは何ら不思議な事ではない。実際、加入して日が浅いセルジュから見てもグレゴとノノは仲が良い様に見えた。但しそれは男女間での「仲が良い」ではなく、どちらかと言えば親子や友達といった感じの「仲が良い」であったけれども。
「セルジュは良いね、ミネルヴァが居て」
「あら。ノノちゃんには皆が居るじゃない」
「今はそうだけど…また一人になっちゃうかも知れないんだもん」
「………」
ミネルヴァの話を出したノノが、不意に暗く悲しそうな顔をする。セルジュも彼女がマムクートであり、長い時間を一人で生きてきたという事を聞いた。セルジュには想像もつかない程の時を生きてきたノノの言葉には重みがあり、また全てを物語っている。どう慰めるべきなのか悩んだセルジュは、膝を抱えたノノの小さな頭を優しく撫でてから抱き寄せた。
「こんな時間に起きているから、嫌な事ばかり考えちゃうのね。
 ノノちゃん、私がここに居るから、少し休みましょう?」
「…うん…」
普段ならばノノはこの時間、既に夢の世界の住人となっている。その事がノノに余計な事を考えさせている一因になっているのではないか、そう考えたセルジュは取り敢えずノノを寝かせる事にした。ノノが感じている孤独や寂しさは、残念ながらセルジュには理解してやる事は出来ないが、側に居て寝かしつける程度なら出来る。ノノはそのままセルジュの膝を枕にしてころんと寝転がり、目を閉じた。こうやって他人の膝を借りて眠るのは、見た事も無い両親に思いを馳せる事が出来たからだ。だが、もうその両親は居ない。一度で良いからパパとママに会いたかったな、とノノは思い、けれども泣くのはぐっと堪えた。
ノノが完全に眠りに就くまで優しく頭を撫でていたセルジュは、ノノが外套を羽織っているとは言え少し寒いのではないかと不安になった。だが上着を掛けてやろうにも、動けばノノを起こしてしまう。困ったわね、と思っていたら、焚き火の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
「…何だぁ?セルジュ、あんた今日は夜番じゃねえだろ?」
「…それは貴方も同じだと思うのだけど」
野営地の周りを見廻りしていたのか、剣を肩に担いだグレゴの姿が炎の光に照らされる。まだ夜明けには早く、曇った夜空は月明かりさえ無いので、炎の光が頼りだ。セルジュが言った通り、確かグレゴは今日の夜番ではない。にも関わらず見廻りをしていたという事は、何事かあったのだろうか。
「ああ、そうだグレゴ、ちょっと良いかしら。
 何でも良いから掛けるものを持って来て貰える?」
「んー?…あー、なーるほどな…
 はーいはい、ちょっと待ってろよ」
セルジュの膝を枕にして眠っているノノの姿を認めたのか、グレゴが納得した様な声で返事をして奥の方の天幕へと消えて行ったがすぐに戻ってきた。手には薄手の毛布を持っている。恐らく自分が使う筈のものだったのだろう。
「有難う。でもこれ、貴方の毛布なんじゃないの?」
「俺ぁもう寝ねぇから良いさ。あんたは大丈夫なのかい?
 良い女が目の下にクマ作ってたら、台無しだぜー?」
「徹夜には馴れているからお気遣いなく。
 そうそう、頼まれていた腹巻きも修繕が終わったわ。
 後で取りに来て貰えるかしら」
「おぉ、悪ぃな。助かったぜ」
自分の発言を軽く受け流したセルジュに毛布を手渡すのではなく、直接ノノの体に掛けてやったグレゴは焚き火を挟む様にセルジュの向かいにどっかりと座る。傍らには何時敵襲があっても良い様に剣を置き、気配や物音にすぐ反応出来る様に。
「美女二人に護られるだなんて、世の中の殿方の嫉妬を一身に受けてしまうわね、グレゴ」
「あぁ?び、美女…?」
「あらまあ。ノノちゃんとミネルヴァちゃんよ」
「いやー…美女か…?」
「あら…違うとでも言いたいの?」
「おぉっと、そう睨むなよー、美人が台無しだぜ」
セルジュが言った言葉が理解出来ず、思わずグレゴは聞き返してしまったのだが、言われた事がまた更に理解出来なくてつい口を滑らせてしまった。セルジュは怒らせると怖い。否、怒ったところを見た事は無いが、この手の女は怒ると怖いとグレゴの直感が囁いている。
確かに鱗といえどもマムクートと飛竜から護られていると考えられなくはないけれども、美女かと問われればグレゴは首を傾げてしまう。しかもミネルヴァに至っては人間ではないから可愛いのか綺麗なのかどうか、判別がつかない。セルジュはこんなに可愛い飛竜は居ないと言うのだが、グレゴを含めた殆どの人間はその判別はつかないだろう。取り敢えず、適当に笑って誤魔化した。
グレゴが夜番でもないのに見廻りをしていたのは、何の事はない、ノノと同様眠れなかったのだ。屍兵との戦闘で疲れきっているから何時もなら泥の様に眠れる筈なのだが、今日に限っては眠れなかった。何故なら死人を蘇生する事は出来ないが、死人と会話する事なら出来るかも知れない、とサーリャから聞かされたからだ。
この世の理として、死人が生き返る事は有り得ない。仮令それが呪術を使ったとしても、有り得ない。それでも、グレゴは死んだ弟がもし戻ってくるのであるならば自分の命など投げても良いと思っている。魂が入れ替わっても良い。しかし、それは出来ない相談であるときっぱりと言われてしまってはグレゴも諦めるしかない。それでも、少しでも話せるならば。僅かな時間でも良い、弟へ贖罪をしなければ。グレゴはそう思っている。
「あら、まあ…。二人して、難しい事を考えているのかしら」
「…あ?」
「貴方も眠れなかったの?ノノちゃんも、眠れなかったみたいだけど」
「ほー…。何時も一番遅くまで寝てる奴なのにな」
腕組みをして何やら難しい顔をしていたグレゴを見て、セルジュがくすっと笑う。彼女にはグレゴが何を考えているのかなど分かる筈もないし、まして弟の事など知る由も無い。それでも、何か余り良くない事、気が滅入る事を考えているのは分かった。眠れないというのはつまり、嫌な事を考えてしまうからなのだ。セルジュにもその経験があるから良く分かる。戦争で散り散りになってしまった家族が、もう既に死んでしまっていたら…と考えると酷く恐ろしくなってしまい、眠れなくなる。だから彼女は余計な事を考えなくても良い様に、針を取って裁縫をする。その服が、防具が、仲間の命を助ける事を信じて。
「あんたは?」
「え?」
「眠れてねぇんだろ、あんたも。
 さっきも言ったけど、良い女が目の下にクマ作ってたらそれこそ台無しだぜ。
 俺が起きてるからあんたも少し眠りな。
 だーいじょぶだ、何たって俺が見張ってんだからな」
「…そうね、ノノちゃんも居るから妙な真似はされないというのは確かね」
「おいおい、俺はそーんなに信用ねぇのかよ…」
グレゴの気遣いを無駄にする必要も無いと判断したセルジュは、膝で眠るノノを起こさない様に彼女の頭をそっと地面へ降ろし、添い寝する様に隣に寝そべる。枕代わりになるものが無かったのでノノに腕枕をすると、ノノは甘える様にセルジュに擦り寄ってきた。そしてノノの口から漏れ聞こえたママという単語に、成る程彼女は親が恋しいのだと知った。マムクートの親であるなら、少なくともセルジュ達人間よりもノノと同じ長い時を過ごす事が出来る。ノノは自分達よりも長い事生きているとは言え、矢張り子供なのだとセルジュは思った。そしてセルジュは、背中の向こう、焚き火の向こうの男の気配が微動だにせず沈黙しているのを感じながら瞳を閉じた。夜明けまではまだ半時は掛かりそうだった。



いよいよ明日、ヴァルム大陸へと渡る船に乗り込むという夜、グレゴはサーリャに呼ばれてフェリア港がある港町の外れに張っている野営地の彼女の天幕に居た。女の天幕に男が入るとなると変な噂も立ちそうなものだが、幸か不幸かサーリャの天幕にはそういう噂など皆目立たない。彼女は呪術師であり、毎日何らかの呪(まじな)いを研究したり飛ばしたりしている様なので、誰かがその天幕に入るという事は実験体になる可能性も大いにあるからだ。実際、今までそれなりの人数の兵士がその犠牲となった。犠牲と言っても大した呪いではなかったけれども。
「なあ、サーリャ。資料の調査が終わったってぇからついてきたが
 ほーんとに死者と話をする事が出来るのかい?」
屍島での戦闘の前日に、グレゴはサーリャに死者と話す事なら出来るかも知れないと教えられたのだが、どうやらその儀式の準備が整ったらしく、それで呼ばれたのだ。出来るのかどうかと尋ね、出来ると言われたは良いものの半信半疑であったグレゴは、黒いクロスをかけたテーブルに何やら奇怪な魔方陣が書かれた紙や怪しげな道具を陳列しているサーリャに怪訝な顔で問う。それに対して心外だとでも言いた気に横目でサーリャがちらりとグレゴの方を見た。
「ええ…誰の魂を呼び出して欲しいの…?」
そして道具の陳列が終わったのか、サーリャは漸くくるりと振り向いてグレゴの方を向く。前髪が目元までかかる程長い彼女の目ははっきりとは見え辛く、しかもグレゴよりも身長が少し低い所為で上目遣いで見られるので、異様な雰囲気になっていた。呪術師に陽気さを求めてもおかしいかも知れないが。例外はどうやら一応居る様であるけれども。
「弟だ。名前は…グレゴ」
「? 同じ…名前?」
そしてぼそりと伝えた相手の名を聞き、サーリャが不思議そうな声を上げる。それもそうだろう。グレゴが伝えた名は彼自身が名乗っている名前であったからだ。しかしこれは彼の本当の名ではない。元は死んだ弟のものだった。
「ああ。弟が死んだ時、名前だけでも生かしておこうと思ってな…」
「そういう事…それで私の呪術が効果を発揮しなかったのね…」
賊に捕らわれ、人質にされ、そして最後には自分を庇って死んだ弟がこの世に生きていた証を残しておきたくて、それでグレゴは弟の名を自分のものとした。それからというもの、住んでいた所を離れて傭兵として放浪してきたので彼の本当の名を知っている者はもう居ない。居ても、今のグレゴを元の名では呼ばないだろう。
「貴方は名前を受け継いだ相手の弟に…何か未練を残している…
 だから…本当の意味で貴方の名前になりきっていないのよ…」
「そーれだと何か問題でもあるのか?」
「勿論よ…本当の名前でなければ…呪いはかからない…
 貴方に呪いが掛けられなかった理由が、やっと分かったわ…」
呪いを掛けるのに相手の髪や爪が必要な場合があるとは知っていたが、上辺や偽りの名ではいけないという事は初めて知った。グレゴはそれに素直に感心する。呪術というものは思っていた以上に色々と守らねばならない事があるらしい。
「あ、そーいう事ね。必要なら前の名前を教えるけど?」
「…後で良いわ。
 それより…念じなさい…会いたい者の姿を…
 そして話しなさい…」
未練なら山程ある。話したい事、伝えたい事、何より聞きたい事がある。遠い記憶を辿って弟の姿を引きずり出し、念じる。そして、俯いて目元が見えなくなってしまったサーリャに対して声を掛けた。
「…グレゴ。聞こえるかい?」
「…兄さん…兄さんなの?」
「! 弟の声…?」
サーリャの口から発せられた声は、先程までの彼女の声とは明らかに違っていた。心なし、天幕の中の空気も変わった気がする。記憶の中の弟の声とそっくりそのままである声を聞き、本当に魂を呼び出したのか、と、驚きを隠せずにいるグレゴに、サーリャに憑依したのであろう弟は、彼の言葉を待っていた。
「兄さん…」
「…すまなかった。お前には本当に悪かったと思ってる。
 …恨みが消えないなら…言ってくれ。俺が出来る事は何でもする」
己の力を過信して、その結果が弟を死なせた。人質として捕られていたのに、グレゴに危険が及ぼうとすると捕まえていた男達を渾身の力で振り切り、そして彼を庇って死んだのだ。守れなかったどころか、死なせてしまった。弟は真っ当に生きて、自分の様なろくでなしにもならず、弟なりの幸せを掴んで生きる筈であったのに。それが辛いと、グレゴは思う。
「ううん。恨んでなんていないよ。
 兄さんは僕の為に戦ってくれたもの。
 もう、苦しまなくて良いんだ。兄さんはいつまでも僕の自慢だよ」
しかし、弟は恨みも言わず、グレゴを労わる様な事を言った。ずっと罪の意識に苛まれ、悪夢に魘されていたグレゴにとって、その言葉は余りにも残酷な程に優しくて心臓を突き刺す。子供の頃から兄さん兄さんとグレゴの後をついてきた弟は、何時でも兄を自慢としていた。グレゴにとっても、弟は自慢だった。
「…やめてくれ。俺にそんな事を言って貰う資格はねぇ…」
恨んでくれれば良いものを、そんな風に言われてしまってはグレゴも居た堪れなくなってしまう。吐気の様な、寒気の様な、様々なものが綯い交ぜになってグレゴの胆から込み上げてくる。自分で自分に反吐が出そうだ。
「じゃあね、兄さん。僕はもう行くよ。
 会えて…話せて…嬉しかった…」
だが、弟は結局恨み言など一言も言わず、別れを切り出した。その弟の声も、口調も、何一つ記憶の中の弟と変わらなかった。サーリャが芝居をしたとは全く考えられない。本当に死者の魂を呼んだ、しかも無理矢理になのだから、長居出来る筈もない。サーリャの体から別人の気配が消え、そして天幕の中はまた元の空気へと戻った。
「…気は済んだ?」
そしてゆっくりと細い息を吐いた後に眼を閉じたまま天幕の上を仰ぎ、小さく深呼吸したサーリャが漸くグレゴを見据えて尋ねてきた。実力のある呪術者とは分かっていたが、ここまでとは思っていなかったので、グレゴはサーリャに対する評価を上向きに修正した。
「あぁ…ありがとよ、サーリャ。
 弟を助けられなかったあの日から、
 ずっと心にかかっていた事が…あんたのお陰ですっきりしたぜ。
 もう思い残すこたぁねぇ。魂でも何でも、持って行きな」
弟を助けられなかった、守れなかった、死なせてしまった。その事実は、仮令弟に赦されてもグレゴ自身が赦せない。それでも弟はもう苦しむなと言った。ならばグレゴはその言葉に従うだけだ。
しかし、あれだけの呪術を使わせてしまったサーリャには、それなりの対価を払わねばならないだろう。元より、骨でも魂でも何でもくれてやると約束していたのだからそう言ったのだが、意外にもサーリャは緩やかに首を横に振った。
「…少し疲れたから、それは次の機会で良いわ…」
「そうかい…じゃあ、次の機会まで魂を洗って待ってるぜ」
恐らくサーリャから見れば、自分の魂など汚れきってしまっているだろう。今更魂を禊する事など出来ないだろうし手遅れだろうと思うのだが、それでも彼女への礼としてそう言った。グレゴが他人に心底感謝するという事は余り無い事だし、魂を投げ打つなど考えた事も無かったが、弟と話をさせてくれた事は彼にとってそれほど大きな事であったという事だ。
「…やっぱり…いらないわ…。
 そんな事したら…またノノが泣くもの…」
ところが、驚いた事にサーリャは最終的に不要だと言った。引き受けて貰う時に魂をくれてやると言ったら食いついてきたのに、どういった心境の変化だろうか。しかも、何故かノノの名前を持ち出して。
「…なーんでそこでノノが出てくんだよ」
「貴方達、仲良いじゃない…」
「なーんでお前らはそう俺らが仲が良いって強調すんだよ…」
先日はセルジュに言われ、その前にはフレデリクにも言われ、すっかり軍内ではグレゴとノノは「仲良し」認定されてしまっているらしい。それは否定するつもりもないし、実際共に行動する事も多いが、それはノノが追われている所を助けたという出会いがあって話す機会が多いというだけであって、そこまで色んな輩に強調される事ではないとグレゴは思っている。今ではノノが居なくなるとグレゴに何処に居るのかを尋ねに来る輩も居て、保護者じゃねぇんだ俺は…とたまにげんなりする事もある。
「私、ノノに頼まれて…あの子の両親が何処に居るのか占ったの…。
 そしたら…何処にも居ないの…もう、居ないのよ…」
「………」
「あの子、悲しかった癖に…私を気遣って、私に見付からない様に隠れて泣いていたわ…。
 そんな思い、出来るだけさせたくないじゃない…
 結局は私達の方が先に死ぬと分かっていても…ね…」
サーリャはノノの両親の事を占った時の事を思い出しながら、そして一人で泣いているノノを見付けた時の事を思い出しながら、淡々と普段の口調でグレゴに話す。サーリャの家族はまだ健在だが、ノノには家族がもう居ない。グレゴにも、もう居ない。クロム軍の中でも恵まれている部類だとその時サーリャは改めて自覚した。
「それに…ノノの未来も占ったわ…。
 それによると…この戦いを生き延びれば、あの子は…ひとりぼっちじゃなくなるの…
 家族が出来て、幸せそうだった…」
外見と同じく中身も子供であるノノは、長い時をたった一人で今まで生きてきた。時折行動を共にした者も居たのだろうが、それでも千年という長い時間を生きた彼女にとって高々数十年である人間の命はとても短いものであろう。そしてもし今までに好いた男が居たとしても、女として未熟な彼女の体では子供を作る事が出来なかったのではないか。だが、今ならば、或いは。サーリャはそんな事を思った。
「ノノの傍らには…子供が居てね…。マムクートの女の子よ…
 その子の髪が…貴方のその髪の色、そのままだったわ…」
「…はあ?」
「だから…髪の色が貴方のものと同じだったと言っているの…」
「い…いやー…、見間違えじゃねぇの…?」
「何よ…貴方、私の占いや呪いが外れると言うの…?」
「俺には掛からなかったじゃねぇか」
「それは貴方が弟の名を使っているからでしょ…。
 まあ…良いわ…とにかく何であれ、ノノも悲しむし…
 戦力が減るとユーリに迷惑が掛かってしまうもの…いらないわ…」
俺の都合は関係ねぇのかよ、とグレゴは突っ込まなかったが、思い残す事も悔いも無いとは言え確かに魂まで取られないのは有難いと思った。ただ、サーリャが言った言葉には引っ掛かるものがあるけれども。自分の髪の色の男など世の中に腐る程居るのだから、サーリャが占いで見たノノの子供とやらの父親が自分であるとは限らない。そもそもグレゴはノノをそんな対象に見た事は一度も無いし、大体そんな対象として見たらある意味犯罪ではないかと思うのだ。仮令ノノが自分よりうんと長い時間を生きていたとしても。
『…あー、』
否、一度だけノノを「女」として見た事があったとグレゴははたと思い出す。まだクロムに雇われて間もない頃に、リズに頼まれて水を汲みに行った時、小川の畔でノノが鱗を剥いでしまった箇所をリズが診ていたところに運悪く(と彼は思っている)遭遇してしまったのだが、よりによってそれが胸であったから思わず謝って顔ごと目を反らした。今にして思えばノノは子供と大差ない体付きなのだから、健全成人男性として娼館に女を買いに行く事もしょっちゅうであるグレゴにしてみれば別にどうという事はなかったのに、何故かあの時は慌てて目を反らしてしまった。見知った相手だったからかも知れない。あれが全く知らない少女であれば、恥じらっているところをからかっていただろうに。ノノをそういう対象で見てしまったという事なのだろうか。


…いやー…、ねぇから…。


「…ユーリに迷惑が掛かるし、あの綺麗な僧侶のにーちゃんにも怒られるから、ってか?」
「………一言多いわ…
 やっぱり三日三晩鼻水が止まらない呪いでも掛けてあげようかしら…」
「おぉっと、それは勘弁してくれ」
言われっ放しも癪なので、時折サーリャと一緒に居る所を見掛ける美形のバトルモンクの事をそれとなく言うと、サーリャが露骨に不快感を示してグレゴを睨んだので、彼はおっかねぇ、と言いたげに肩を竦めた。
聖職者と呪術師ねぇ、とグレゴは思っていたのだが、案外そのバトルモンクのリベラは女性の様な外見とは裏腹に積極的な男であったらしく、サーリャに呪いを掛けられる事も恐れず彼女と話している。サーリャと話す時にあれ程柔和な顔をする者も珍しいが。リベラと言えば、ヴィオールが彼を女と勘違いしていたのも面白い出来事であった。エメリナを救出する為に単身奮闘していたリベラをクロムが軍に引き入れたのだが、話しかけたクロムでさえ女と間違えた程だ。ただ、グレゴはそれに対して微妙な顔になってしまう。リベラは体付きからしてどう見ても男だ。リベラと良く話しているガイアにそれとなく尋ねてみると、ガイアも「どこからどう見ても男」と同じ意見だったので、良かった俺だけじゃなくてと胸を撫で下ろしたものだ。女性陣は男なんて勿体なーいなどと言っていたけれども。
否、それは良いのだが、そんなリベラが軍の中でもユーリに対して異常なまでの執念を燃やすサーリャに積極的に話し掛けているのは、傍から見ていても意外に思える。サーリャは聖職者相手に戸惑う事もある様で、若い男女の恋愛模様というのは見ていて実に面白い。そう思っている時点で既に年寄り臭いのだが、残念ながらグレゴはそんな事には気付いていなかった。
「まー、何だ…とにかくありがとな。
 あんたに見逃して貰った命だ、大事にするさ」
「…そうしなさい…
 ふん、珍しいのよ、私が見逃してあげるのは…」
「はーいはい、ユーリの為だろ」
取り敢えず改めて礼を言うと、サーリャはグレゴがもう一度礼を言うとは思っていなかったのか驚いた様な顔をして、照れ隠しなのか何なのかは分からないがぷいとそっぽを向いて憎まれ口を叩いた。こういう所は可愛らしいのだが、如何せん普段がああなのでそれが分かり難い。まあ俺が分からなくてもあの綺麗なにーちゃんが分かれば良いか、と、グレゴは右手で項を擦りながら苦笑した。



サーリャの天幕から出ると、とうに月が空の高いところにあった。夜中とまではいかないがそれなりに良い時間だ。フェリアの港町からこの野営地までは近いので、酒でも飲みに行くかと歩きながら伸びをすると、不意に後ろから誰かが突進してくる足音が聞こえたので素早く振り返り、そしてグレゴはその足音の正体を捕まえた。
「…あのなー。突進してくんの止めろ」
「むぅー、また膝かっくん出来なかった」
「あんたは俺に何の恨みがあんだよ…」
果たしてその正体は件のノノであり、悪戯が成功しなかったので大変不満そうな顔をしている。最近彼女は後ろから膝を軽く攻撃する事に凝っているらしくて、専らユーリやリヒト、ヴェイクなどが犠牲になっている様だ。背後からの気配に敏感なロンクーやグレゴなどには全く通用しないのであるが、ノノはそれでも諦めずに仕掛けようとしてくる。走ってきたらばれるに決まっているというのに。そもそもグレゴはノノの足音は判別出来るので、近付いてきたら身構えるというものだ。
「で、何か用かぁ?」
「あのね、お昼にカラム達と一緒に買出し行ったら、お手伝いのご褒美にナツミカン買って貰ったの。剥いて?」
「俺はナツミカン剥き係なのかよ」
「半分あげるから」
「よっしゃ」
恐らく今の二人の遣り取りを見た人間は、こんな時間に食べるのかという突っ込みをするだろう。しかしノノは食べたい時に食べるしグレゴも好物であれば何時でも食べる。カラム達と、と言う事は、恐らくミリエルも同行したのだろうし、そうであればこのナツミカンは余計な出費ではなかった筈だ。余談だがカラムの存在感の無さはミリエルにとって興味深いものであったらしくて、何時の間にか結婚していた。この二人の結婚ほど周囲が驚いた事は無い。ロンクーとベルベットの時よりも驚かれただろう。
酒を飲みに行く事を早々に諦めたグレゴは、野営の火の光が届く所、しかし死角になるので敵襲が来るならここからだなという所に腰掛けてノノから手渡されたナツミカンを剥く。死んだ弟もナツミカンはそこまで好きではなかったが、グレゴが良く食べていたのでノノの様に剥いたものをたまに欲しがった。ノノにとってナツミカンが思い出の果物であるという事をグレゴは知らないが、彼にとってもそうなので、見掛けて状況が許せば必ず買う。そろそろシーズンも終わる頃だし、船旅にもなるから今季は食べ納めかも知れない。
ナツミカンの分厚い皮を剥いて、中袋も取ってから、隣で座って大人しく待っているノノの口に果実を放り込んでやる。別に手渡しても良いのだが、こちらの方が早い気がするので、グレゴはノノからナツミカンを剥いてくれと頼まれた時は何時も口に放り込む。何時だったかそれを見たスミアから親鳥が雛に食事を与えている様ですねと言われてしまったのだが、彼女の天然さは誰が相手でも変わらないらしい。
「すっぱーい」
「こーの酸っぱさが良いんだろが」
「そうかなぁ?ノノはもっと甘い方がいいなー」
「じゃあ甘いの買って貰えば良かっただろー?」
「えー、でもグレゴ好きでしょ。だったらノノも好きになりたいもん」
「…あ、そ」
だったらの意味が分からない。グレゴは首を捻りながら渋い顔をして中袋をまた剥き始めたが、「面倒臭いから誰かに剥いて貰えるものを食べられる様になりたい」と言っているのだと勝手に解釈した。ナツミカンを剥いて食べさせる報酬として半分貰えるとの事だったので、次に剥いたものは自分の口に放る。爽やかな苦味のある果汁が口いっぱいに広がり、そろそろ食えなくなるなーなどと考えていると、ノノから質問された。
「ねえねえ、サーリャと何お話してたの?グレゴも何か占ってもらったの?」
「…まぁ、な」
ノノはグレゴも、と言ったが、彼はサーリャからノノの両親の居場所を占ったという事を聞いているので不思議には思わなかったし聞き返しもしなかった。ノノの両親はもう居ないのだそうだ。その結果を蒸し返させる必要も無いだろう。だがノノはグレゴがサーリャに何を占って貰ったのか、何をして貰ったのかに興味がある様で、多分それでナツミカンを持ってきたのだろうと察しがつく。報酬のつもりなのだろう。食っちまったからなあ、とグレゴは諦めて、再度剥いたナツミカンの果肉をノノの口に放り込んだ。取り敢えずノノは聞こうとはせず、飽くまで話してくれるまで待つつもりであった様なので。
「弟の魂を呼び出せるかどうかを、ちょっとなー…。俺が殺した様なもんだったから」
「…そんな事、できたの?」
「あぁ。呼び出して貰って、詫びたんだよ」
先程の出来事を簡素に伝えると、ノノも呪術師が死者の魂を呼び寄せる事が出来るというのは初めて知ったらしく、身を乗り出して聞いている。こりゃー両親の魂を呼び出して貰うつもりだな…とグレゴは思ったのだが、意外にもノノは別の事を聞いてきた。
「…それで?」
「?」
「ゆるしてもらえたの?」
「…まぁ、あいつぁ優しい奴だったからなー…。恨んでなんかねぇんだと」
「じゃあ、グレゴは?」
「…あぁ?」
「ちゃんと自分の事、ゆるしてあげたの?」
「………」
まさかノノがそんな事を聞くとは思わなかったし、自分の胸の内を見透かされるとは思っていなかったグレゴは、思わず中袋を剥いていた手を止め目を丸くしてノノを見た。ノノは相変わらず、何の曇りもない紫水晶の瞳でグレゴを見上げている。澄んだその瞳はしかし、一切の逃げを認めようとはしていなかった。
弟はもう苦しむなと言った。だがグレゴは一生弟を死なせてしまったという業を背負って生きていかねばならない。それがあったからこそ今まで生きてこれて、今の彼の強さを作ってくれた。業まで糧にしてしまった、のだ。そんな薄汚い自分を赦せない。赦せる筈がない。苦しむなという弟の言葉に従う、それは本心ではあるのだが、果たして出来るのかとも思う。
「ゆるせない?」
「…こればっかりは、な…。気持ちの整理もつかねーからなぁ」
「じゃあ、ノノがゆるしてあげるね」
「……は?」
「弟はゆるしてくれたんでしょ?だけどグレゴはゆるせないんでしょ?
 でも、ノノがゆるしたら倍になるでしょ?」
「…う…うーん…?」
でしょ?って言われても、とグレゴは微妙な顔になる。ノノの理屈は時々分からない。否、言いたい事は何となく分かるのだが、それを口に出してしまう辺りが凄い。何と言って良いのか分からなくてナツミカンを持ったままグレゴが固まっていると、ノノがきゅっと笑い、その小さな手でグレゴの頭を撫でた。
「おねーさんがゆるしてあげますからねー。
 だから、もうそんな暗い顔しちゃダメだよ!」
「……あ…あのな…」
何処からどうみても子供のノノに「おねーさん」と言われても説得力が全く無い。しかしノノは何度も言うがグレゴよりも遥かに長い時間を生きているのだからその「おねーさん」は正しいのだが、これでは子供に慰められている駄目な大人ではないか。一気に脱力してしまったと同時に、こんな情けねぇ所を誰にも見られてなくて良かった…とグレゴは内心でかい溜息を吐いて、ノノの手をやんわりと退けた。その退けたノノの手がぺたりと頬にあてられ、不意を突かれたグレゴが驚いているとすぐに離れた。その行為だけに驚いた訳ではない。ノノの表情にも驚いた。彼女の顔は酷く穏やかな笑みを作り、そして酷く大人びていた。
「ノノのパパとママは、どこか遠いところに居るんだって。
 でもね、ノノは悲しくなんてないの。
 クロムのお兄ちゃんもサーリャもグレゴも、みんな居るから、ノノとっても幸せなの。
 悲しいことなんて起こらないんだよ」
「………」
何処か遠いところに居る、のではなく、もう何処にも居ない、が正しいし、ノノもそれを理解している。両親はもう居ない。手を繋いでくれた恋人も、もう居ない。それでもノノには今、多くの友達が居てくれる。だから彼女は幸せなのだ。そう思い込んでいる。出来れば目の前の男も、そうであれば良いと願いを篭めて。彼が自分自身を赦せる様になるまでまだ時間は掛かるだろうけれども、ノノにとってみればあっという間だ。ノノはまだ目を丸くしたままのグレゴに、もう一度にこっと笑った。
「ねえねえ、ナツミカンー。早く剥いてよ」
「…お、おぉ」
ノノに言われて我に戻ったかの様に、グレゴはまたナツミカンの中袋を剥き始める。そして怪訝な顔をしたまま果実を再びノノの口に放り込んだが、その時のノノの顔は何時も通り、無邪気なものだった。だが、まさかあんな風に穏やかな顔をするとは思っていなかったものだから、調子が狂ったというものある。


―――この戦いを生き延びれば、あの子はひとりぼっちじゃなくなるの
―――ノノの傍らには子供が居てね、その子の髪が貴方のその髪の色、そのままだったわ


…いや、まさか、なぁ。

サーリャの言葉が不意に思い出されて、グレゴは少しだけ顔を青くしてノノに分からない様に頭を振る。それは焦りでも照れでも何でも無く、ある種の怯えにも似た感情で。彼はノノにこのナツミカンを与え終わったら、すぐに港町の酒場に行こうと決心した。月はもう南天しようとしていたが、そうでもしなければ眠る事が出来そうになかったので。