静寂が包む冷えた空間の中、二人の男が沈黙を守ったまま剣を構えて対峙している。一人は両手で上段、地面と水平に剣を構え、一人は片手で体の後方に据え、右足を引いて構えて。その構え方の違いは、二人が今まで身を置いて生きてきた状況を物語っている様にも見える。
上段の構えは斬り下ろす攻撃に限れば凡そ全ての構えの中で最速の行動が可能であり、踏み込んでしまえばこちらのものだが、構えている間は顔以外の部分を曝け出している状態であり、防御には向かない。それに、一対一ならば有効であっても相手が複数ならば左右の肘が死角となってしまう。これは黒髪の青年、ロンクーが剣を覚えた場がそういう戦場ではなく、一対一での戦いが多かったという事を表していた。
一方の、やや灰色がかった赤茶色の髪の壮年の男、グレゴがとった構えは、真剣を用いた多対一や多対多の乱戦や障害物の多い場所での戦闘で、真剣を抜いたまま走り回ったり飛び回ったりする必要がある状況では役立つ構えだ。乱戦になれば仲間の位置との兼ね合いで他の構えを取るスペースが無い場合もあるので、戦を渡り歩く傭兵を生業としている彼は自然とその構えを自分のものとした。この構えからだと全ての上半身の防御が出来る。グレゴは自分ではっきりと己の戦い方は汚いと評し、それ故に一対一でもこちらの武器の射程距離を相手に正確に確認出来ない様な構えをとる事に対して何ら罪悪感を持たなかった。
お互い、その構えをとってから呼吸動作以外では微動だにせず、流れる空気はより一層張り詰めていく。二人の間に横たわる、ある種殺意にも似た緊張感は二人の足先から頭頂までゆっくりと這い上がり、内部の心臓や脳の奥までも侵食する。まるで幻覚を引き起こす薬を服用したかの様だ。手練れの者と対峙するこの高揚感は、味わった事がある者にしか分かるまい。寒気の様な興奮が体中を満たし、二人の男はどちらともなく薄く笑う。そして、申し合わせた様に同時に床を蹴った。
傭兵であるグレゴは、何の稼ぎにもならない戦闘や決闘を嫌う。面倒というのもあるし、そんなものに命を賭けたくはないと思っている。実際、最初にロンクーが勝負を持ち掛けてきた時にそう言って断って有耶無耶にした。だがクロム軍に入ってからというもの、ただ働きが多くなってしまった所為か奉仕活動の一環と考える様になり、こうやって剣を交える事にしたのだ。彼だって戦いの中で生きてきた戦士であるから、本気で戦える相手が居る、そして本気で戦いたいと思える相手が居るというのは貴重な事だと思っていた。そういう相手は滅多に現れるものではない。
ロンクーの長剣の切っ先が、馬鹿正直にグレゴへ真っ直ぐ迫ってくる。その速さはしかし寸での所でかわせるものであり、グレゴも前方へと向かう為前へ跳んでいたので軸足である左足に重心を思い切り掛けぐっと体を沈めた。突きは速さでの勝負には向くが、かわされた時の胴への攻撃に対して無防備になる。ロンクーもそれを重々承知で仕掛けてきた筈であり、それを罠としているのかも知れない。ならばその罠に敢えて嵌ってみるのも一興だ、瞬間的にそう判断したグレゴは左足にまた力を篭め、ロンクーの胴に向かって下から剣を振り上げた。果たしてそれは正しく罠であった様で、ロンクーはグレゴのその動作を見て口元で笑い、踏み込んだ左足に重心を掛け素早く剣の柄の持ち手を替えると思い切り振り下ろし、踏み込みの距離が足らなかったグレゴの剣を受け止めた。罠というより、思い通りの行動を誘導出来た事に笑みを浮かべたらしい。
力では負けるという事は最初から分かっているロンクーは、鍔競り合いを避ける為に一瞬腕の力を抜く代わりに左足に力を篭めて後ろへ跳ぶ。グレゴはそれを追い掛けはしなかった。速さ、身軽さではロンクーが上だ。無理に追い掛けて体勢が整わない内に斬り込まれたら不利となる。特に刃を潰していない実戦用の真剣を用いているのだから、慎重になった方が良い。
グレゴは、ロンクーに自分の剣も足りていないと言った。何が足りないのかを教えるから、剣を構えろと言った。ロンクーにとってみれば自分の剣に足りないものは何であるのか、何が自分に不足しているのかすら朧気にしか分かっていないのに、相手の足りないところが見えるのかと思っていた。だが、確かに剣を交えなければ分からない事もある。なるほどな、とロンクーは高揚したざわつきの中で、妙に冷静に考えていた。
先にも述べたが、グレゴの構えは多対一の乱戦の時に有効なものだし、ロンクーの構えは一対一の決闘で有効なものだ。つまり、今二人が置かれている状況を鑑みれば構えからすればロンクーの方が有利である筈だし、また速さもロンクーの方が上であった。グレゴの剣には速さが多少足りない。だが、一撃が重い。受け止めた時に両手が痺れ、構え直す時まで痺れが残っていた程だ。ならばその一撃を誘導させてかわし、踏み込めば良い。それは分かる。が、ロンクーにはそれがどうやったら成功するのかが分からなかった。先程の動きを誘導出来たのも、グレゴがそれにのったからだ。
そうして、まんじりと考え、考えて、導き出した答えは。
「…はあぁっ!」
あれこれ考えるよりも本能に従って体を動かせば良い、そう判断して、構え直したグレゴの懐に渾身の力を篭めて踏み出したロンクーは、グレゴがその剣を受け止める構えを瞬時に取ったと同時に右に跳んだ。そして着地と同時にまた床を蹴り、グレゴの真正面ではなく彼の利き手とは逆の左側から斬り掛かる形をとった。速さはこちらが上なのだ、防御する暇を与えなければ良い。
「おぉっ!」
だが、グレゴは右手で剣を逆手に持つと樋(刀身の根元の平たい部分)に左腕を押し当て、剣がぶつかり合う衝撃を全て己の剣を通じて左腕で受け止めた。少しでも角度を間違えれば己の剣の刃が左腕を切断するし、また少しでも遅れればロンクーの剣がグレゴの左腕を切断している。勝利条件として「明らかに勝ちと分かる状態での寸止め」というものを掲げているが、グレゴのこの行動を予測出来なかったロンクーには寸止めなど出来る筈もない。傭兵を生業としているグレゴは普段から自分は勿論、他の仲間の体調まで細心の注意を払うし、体が資本なので危険な賭けに出る程愚かでもない。絶対的な自信があったからこの防御をとったのだ。それはつまり、今のロンクーの攻撃の速さに間に合う自信があったという事になる。
この体勢のまま、少しでも動けばどちらかの剣の餌食になる。それは二人とも分かっていたから、動けずにいた。刀身が軋む嫌な音が耳を刺し、ロンクーはこの状況をどう打破するか頭をフル回転させて考えているのだが、何一つ浮かび上がらなかった。どう動いてもグレゴの剣が自分の剣を弾いてしまうだろう。これは負けだ。
「おい、今日は止めにしようや」
「何…?」
「これ以上やるとどっちかが死ぬぜ」
潔くロンクーが負けを認め、それを口にしようとした瞬間、意外にもグレゴから中断の申し出があった。グレゴはどちらかが怪我する、ではなく、はっきりと死ぬ、と言った。それは恐らく正しいだろう。お前が死ぬぜ、と言わなかったのは、ロンクーのプライドを守る為であったに違いない。
どちらともなく力を緩め、そして離れる。ロンクーが自分の剣が刃毀れをしていないかどうかを確かめていると、グレゴがやれやれと言いたげに肩を竦めて左腕を擦った。ロンクーも渾身の力を篭めて振り下ろしたのだから、痺れたのだろう。
「いやー、素直に引いてくれて助かったぜ。
 あれ以上やったらマジでユーリにどやされるとこだった」
「…お前が俺を斬るからか?」
「んー?結果的にはそうなるかも知れねぇが…
 ロンクー、お前、例えば俺が普段の戦場であの状況に陥ったらどうすると思う?」
「………」
あの次の行動をどうするか、と問われ、ロンクーは少しばかり眉を顰めて閉口する。自分ならば防御を崩さずわざと力を抜いて相手の体勢を崩すところだが、グレゴはわざわざ「俺が」と言った。ならばその答えではないという事だ。彼自身の戦法は、先日斬り合う前に吐いた嘘の様に、多少汚い。少なくとも、その嘘でロンクーに剣を抜かせなかった程度には。
「…俺の足を踏む、とかか?」
「おぉ、その手も使うな」
「何…?まだあるのか」
「あのな、何回も言うけど俺は傭兵だぜー?汚ぇ手なら山程知ってんだよ」
「………」
ロンクーが思い至れたのは足を踏む、脛を蹴る程度だったのだが、グレゴが持つ対処方法はそれだけではないらしい。それ以上考えても時間の無駄だと思ったロンクーは、おとなしく降参してその先の言葉を促した。
「もっと手っ取り早い方法はな、蹴り上げるのさ」
「蹴り上げる…?脛をか?」
「ばーか、そこだそこ」
「………!」
ロンクーと同じく剣の状態を確かめてから鞘に収めたグレゴは、口元でにやっと笑いながらロンクーの下半身、というより股間を指差した。言われた瞬間、蹴り上げられる想像を思わずしてしまったロンクーは無意識の内にじり、と後ずさる。腿から下腹部にかけて、何もされていないのに鈍痛が走った気がする。想像しただけであったのに。
「急所だからなー。一番効くし一番ダメージでけぇんだよ」
「だ、だからと言って」
「生け捕りにする時も便利だぜー?
 まあ…加減を間違えると不能にしちまうけどな」
「………」
聞くだけで痛い、とロンクーは背筋に嫌な汗が伝うのを感じながら思った。確かにバジーリオからも下半身、急所を防御する事は忘れるなよ、と言われた事はあったのだが、戦場での乱戦の経験が少なかったロンクーには全く考えもつかなかった方法であったものだから、余計異様に思えたのかも知れない。しかも加減を間違えると、などと具体的な事を言ったという事は、恐らく間違えた事があるのだろう。そう考えてロンクーは改めて下腹部がさあっと冷えるのを感じた。
「さっきみてぇに顔が至近距離にあったら唾吐いて目潰したりとかな。
 色々あるぜ、手段を選ばなかったら」
「そ、そうか」
「ま、今じゃ殆ど使えねぇけどなー」
「………?」
癖なのだろう、グレゴは手で短く刈り上げられた項を擦りながらそう言ったのだが、ロンクーには何故かが分からなかったので、尋ねる様に視線を送る。するとグレゴはそろそろ宿舎に戻ろうとしているのか、鞘に収めた剣を肩に担ぎながら言った。
「雇い主の顔に泥は塗れねぇだろ。
 イーリス軍には卑怯な戦い方する奴が居る、ってな噂がたつと、
 俺だけの問題じゃなくなるんだよ。
 クロムや軍師のユーリ、ひいてはイーリスの名誉に関わるだろー?」
「……今まではそういう事をしても構わない雇い主だったと?」
「そーいうこった」
その様な事を気にしている男とは思っていなかったのだが、意外にもグレゴはグレゴなりにクロムやユーリの事を慮っているらしい。ペレジアとの戦争が終わったとは言え、各地で出没する屍兵や賊達の討伐に出向いたりする機会も多い。その中でも指揮を執るのはクロムであり、指示を出すのはユーリだ。屍兵相手は構わないのかも知れないが、蛮族相手とは言え卑怯な戦法を取れば確かに余計な噂が立つかも知れない。どこの国でも支持をしない国民は居るし、また王宮内にも良からぬ事を考えている者が居ないとは言い切れない。不安材料は少しでも減らしておくに越した事はないのだ。その為にロンクーやグレゴといった、他国または無国籍の剣客が居る。
クロム達の婚礼の儀が行われた数日後、雨で増水した川で城に仕えている侍女の溺死体が発見された。その侍女はムスタファー将軍を撃破した後、オリヴィエが馬車を用意してくれた時に行軍の世話係として加入した女で、見た目も可愛らしく明るい性格でクロム達とも良く話していたし、グレゴも良く言葉を交わしていた。その女が死んだとあってクロム達は酷く悲しんだが、グレゴはそーかぁ、死んだのかいとしか言わなかった。ロンクーも薄々気付いてはいたが、あの女は間違いなく間者だったのだ。ペレジアか、イーリス国内の貴族か、そこまでは定かではない。だが、クロムという新しい聖王を快く思っていない者である事は確かだった。ユーリがそれに気付き、クロムには黙って秘密裏に始末しようとした時に、グレゴがそれを買って出たのだろう。そういう男だ。
「お前も少しはそういう戦い方、覚えといた方が良いぜー?
 使えって訳じゃねぇぞ、使われる可能性があるって事だ」
「…次はその攻撃への対処法もご教授願いたいものだな」
「おーっと、そう来ちゃったか」
各地で傭兵として戦い、渡り歩いてきた男の言葉には、重みがあった。ロンクーは素直にその忠告を受け取る代わりに、意趣返しとして次の手合わせの約束を取り付ける。こうでもしないとこの男は捕まらない、そう思ったので。
「じゃーなー。
 剣の鍛錬も良いけどよ、お前もたまにゃ城下に出て女の一人や二人、侍らせろよー?」
「なっ…!」
「ははっ、冗談だ冗談。
 んな事やったらベルベットに蹴飛ばされるわな」
「………!」
訓練場から出て行こうとするグレゴが手をひらひらさせながら言ったその言葉に、ロンクーが一瞬にして顔を真っ赤にして硬直した。未だに女が苦手なロンクーは、しかし周囲の予想を大幅に裏切って先日ベルベットに求婚したのだそうだ。最年少のリヒトや女嫌いのロンクーが仲間内で最初に結婚するとはさしものユーリも予想外だった様で、じゃあそれを考慮した戦略立てないとな…と難しい顔をしながら戦術書を捲っていた。彼らの間にどういう絆が生まれて結婚に至ったのかなどグレゴには興味が無いが、護るものがある者は強くなれるから、それもまた一つの手段であり方法だろう。
グレゴは今まで情を交わした女を作った事が無い。女は勿論好きだが、そこまで入れ込んだ事が無い。一緒になってくれなきゃ死ぬと喚いた女も過去居たのだが、その当時の彼は荒れに荒れていたので勝手に死ねと言ってしまい、その女は自殺未遂までした。それ以来彼は素人には手を出さず専ら娼婦を買う様になったし、そちらの方が楽だったから、誰かと夫婦になろうと思った事が無かった。ただそれは飽くまで個人的な感覚であって、妻を娶る男に対してその気持ちが分からんと思う事も無い。他人は他人、自分は自分であって、そのスタンスを崩すつもりもなかった。
若者は嫁を侍らせるだろうし、俺は女でも買いに行こうかね。グレゴがそう考えて今度こそ訓練場から出ようとした時、軽やかな足音が訓練場に続く石畳の廊下に響いてこちらに誰かが走ってきている事を告げた。
「…あちゃー…」
よりによってこのタイミングか、逃げるに逃げられねー…。心の中でそう呟きでかい溜息を吐いて、グレゴはたった今考えた事を全て諦めた。足音の持ち主が、恐らく自分を呼びに来たのだろうと予測がついたからだ。果たしてその足音の持ち主は、訓練場に駆け込んできた。
「グーレゴー!に、ロンクー!!」
「…でけえ声で呼ばなくても聞こえてる。どーした」
天真爛漫というのは恐らくこういう子供の事を指すのだろう、屈託の無い笑顔のまま駆け込んできた林檎色の頬の少女―ノノは訓練場に居た二人の名を大きな声で呼んだのだが、グレゴが言った様にそんな大声でなくても十分聞こえている。しかしノノはグレゴのその言葉など気にせず、良い知らせだよ!と言った。
「あのね、ユーリ、アンナにプロポーズしたんだって!」
「…ほー」
「今日アンナの誕生日でしょ?だから!」
クロムとスミアの婚礼の儀があった日の夕方、二人が睦まじく話しながら歩いているのを見掛けていたグレゴには、大した驚きは無い。しかし、誕生日にプロポーズとは中々粋な事をする男だとは思った。ロンクーも同じ事を思ったようで、ほう、と感心した様な声を出した。
余談であるが、どうやら結婚相手を探していて積極的に女性陣に声を掛けていたヴィオールは、どうもその言動とは裏腹に本気で口説き落とすつもりはないのか、今のところ特定の女性と懇意にはなっていない様だ。ひょっとしたらもう心に決めた相手がいるのかも知れない。こんなご時世に色恋沙汰で盛り上がれるなんざ、小競り合いがあっているとは言え案外平和な証拠かも知れねぇなあ、などとグレゴは間延びした考えを過ぎらせた。
「でね、皆でお祝いするの!
 折角だからロンクーとベルベットのお祝いもしようって」
「な、何?!」
「おぉ、そーりゃ良いな。良かったなロンクー」
「くっ…!ほ、放っておいてくれれば良いものを…!」
ロンクーが心底困惑した様な顔を見せたので、グレゴは更ににやにやしながら彼と肩を組み、そして逃亡を封じた。何度も述べるが力ではグレゴの方が上だ。しかもノノまで加わっている。ロンクーにはこの時点で勝ち目も逃げ場も無かった。
リヒトとマリアベルはお互いの領地で新郎新婦のお披露目が終わっているし、仲間内でも祝った後だ。ユーリは丁重に祝いの席を辞退したものの、リヒト達を祝ったのであるならばクロムが半身と称するユーリも祝うべきだという声が誰からともなく上がり、直ぐに決まったので、それを聞いていたノノにソワレが訓練場に二人が居る筈だから呼んできてくれるかな、とお遣いを頼んだ。だからノノがここに現れたのであるが、ロンクーにとってみれば有り難くない使者だった。否、祝福して貰える事は有難いのだが、祝いの席を設けるというのは恥ずかしいので有難くないという意味なのだが。
「よーし、そーれじゃ、行くかー」
「行くかー」
「ま、待て、俺は」
「今度気が済むまで手合わせしてやるよ」
「ぐ…」
ノノがグレゴの口調を真似し、ロンクーの脇を二人でがっちり固める。何故かこういった連携は既に何も言わなくても出来る様になっている二人相手に、それでも尚逃れようとしたロンクーにグレゴが手合わせの提案をすると、かなり考える素振りを見せた。どこまでいっても剣の腕を磨く事を重要視する男である。
そしてロンクーを引き摺りながら訓練場を後にしたグレゴは、既に石畳に響く足音だけでその足音の主がノノだと判別出来ていたという事には気付いていなかった。共同生活が長くなれば足音だけで誰であるのか判別くらいはつく様になるが、よりによって真っ先に判別出来る様になったのがノノのものである、という事にも、彼は気付いていなかった。それが石畳であろうと荒野であろうと、何処であっても判別がつく。他に完全に分かると言えばユーリのものくらいであろうか。彼がその事実に気が付くのはまだ随分と先の話である。
グレゴとノノが嫌がるロンクーを引き摺りながら、夕焼けで美しい赤に染めた空の下のイーリス城の中庭に辿り着くと、既に多くの仲間が集まって、綺麗に着飾ったアンナとベルベットを囲んでいた。傍らには照れた様な困った様な顔をしたユーリが居る。そして真っ先にベルベットがこちらに気付いたので、グレゴがちらと横目でノノの方を見ると彼女も横目でグレゴを見上げていた。それを見てまるで悪戯っ子の様にお互いにやっと笑うと、掴んでいたロンクーの腕を放す代わりに、その背を二人で思い切り押した。
「ほれ、綺麗な花嫁貰ってこーい」
「こーい!」
「なっ…!!」
二人の声と押されたロンクーの慌てた様な声で、その場に居た全員が一斉にこちらを向き、そして笑ってもう一人の花婿だーだの花嫁を攫いに来たぞーなどとからかう。それはまさに束の間の平和な、そして幸せな光景であった。