red rose for you

 溜め息を吐く彼の手の中には、普段と同じ様に菓子が納められている。闇夜に紛れて痕跡も残さぬ事が要求される盗賊という職に就いている彼は、病気とも言える程の甘味好きだ。故に、常に菓子を手にしていると言っても過言ではない。扉などをピッキングする時でさえ口には飴を入れているし、食べていなくても体に忍ばせている菓子をうっかり落とす事もあって、それで足がついてしまう事もある。だから止めた方が良いとは分かっているが、甘いものを止めるくらいなら足がついた方がマシだと思っている辺り末期だという事は本人にも分かっている。
 戦争だからいつ死ぬか分からない、と、彼が今所属する軍の者は良く口にするが、彼は―ガイアは戦でなくてもいつ死ぬか分からないという事を重々知っていた。幼い頃から1人で生きていた彼は身の回りで様々な人間が死んでいくのを間近で見ていて、昨日話していた者が今日路地裏で死んでいたなんて事は良くある事だった。自分だってそうならないなどという保証はどこにも無いから、ガイアはいつ死んでも悔いは無い様に食べたいものを食べたい時に食べる様にしている。

 だが、今ガイアの手の中にある菓子は彼の口に運ばれる事は無かった。これは自分で食べるものではなく、珍しい事に他人に渡す為に用意された菓子だ。溜め息は菓子が惜しくて吐かれたものではなく、単に渡すのが躊躇われるから吐いただけに過ぎない。決して惜しい訳ではない。苦労して手に入れたものを自分の口に入れる前に他人に渡す事が惜しい訳では、決して

「ガイア? どうしたのそんな所で」
「?!」

 渡す相手の天幕の前――正確に言えば自分の天幕でもあるのだが――でまんじりとしていると不意に後ろから声を掛けられて、不本意ながらガイアは体を跳ねさせた。職業柄気配には敏感であるのに背後に立たれた事は不覚と言っても良い。意識が手の中にあるものに向き過ぎたのは誰の目にも明らかであり、彼は渋い顔をしながら声を掛けてきた相手を振り向いた。相手の髪は、少し濡れていた。

「水浴びしてたのか」
「え? ええ。色々してたら行くのが遅くなっちゃって」
「髪ちゃんと乾いてないぞ。風邪ひくなよ」
「有難う、後でちゃんと乾かすわ」

 ガイアの忠告ににこりと笑って礼を言った彼女――ティアモは何をやらせてもすぐに天性の才で片付けてしまう。それを本人も十分に承知していて人手が足りない時は進んで手伝いをするので、就寝時間が遅れてしまうのもしばしばだ。指輪を贈った今でもガイアは夜の仕事が多い為に褥を共にするという事は少ないのだが、その少ない機会の時でさえティアモがベッドに滑り込む時間は遅い。人の生活に干渉する事を余り好まないガイアであっても思わずもう少し早めに休めと言った程なのだ。
 それでもティアモはあたしはこれで良いのと笑う。誰かの為に動く事が半ば癖となってしまっている彼女は、そうしていないとそわそわするのだと言う。そういう性分の者も居る事はガイアだって知っているし、またティアモのそういう性格は嫌いではないのだが、外に逸らす意識を半分でも良いから自身に向けて良いとも思う。

 そもそもティアモがガイアに接触を持ったのは、彼の身嗜みを注意をしようとしたからだ。ティアモ自身は肌の手入れも疎かにしていたのに、ガイアの服装や頭髪、果ては爪のチェックまでしてきた。一時期、ガイアはティアモと顔を合わせたら何か言葉を交わす前に手を見せていた程だ。場合によっては爪が伸びていなければならない時もあるので適度な長さで切り揃えられた指先を得意げに見せると、ティアモも合格と言わんばかりに自分に配給された飴やビスケットなどを彼に与えた。子供か、と思われるかも知れないが、ガイアに対しての褒美は甘い菓子が一番なのである。何せクロムが彼を仲間に引き入れた時の報酬が菓子だったので、推して知るべしと言ったところだ。
 その中で、ガイアはティアモが自身に対しての注意が向けられてない事に気が付いた。折角綺麗な顔をしているというのに肌が少し荒れていて、それは勿論戦の中で十分な手入れなど望めないと言われればそうなのだが、彼女がこなしている雑多な事への手を少し休めて自身に向ければ十分に取れる時間であった。だからわざわざ女しか居ない様な店に入って化粧品を買って与えたのだ。彼が女に貢ぐ為に金を出すという事は珍しい。ガイア本人もその事に気が付いたのはその化粧品を渡した時にティアモが苦笑しながらこう言った時だった。

『これだけのお化粧品買うだけのお金があったら、
 ガイアさんの好きなお菓子も結構買えたでしょうに。
 大事に使わせて貰いますね』

 そうなのだ。ガイアは仕事で必要であると感じた時に女に対しての金を出すが、それ以外では大抵自分への菓子を買う時にしか出さない。けち、なのではなく、必要無い、と思っているからだ。ややもすれば童顔と見られがちなガイアは女から貢がれる事の方が多く、それ故に普段女に対して何かを買い与えるという事は無かった。が、いつも自分の散髪や身嗜みのチェックをしてくれているティアモ本人の肌が荒れているのは気になった。
 彼女の肌荒れは近くで見なければ分かり辛いものだったが、間近で見る機会が多かったガイアにはすぐ分かったし、そもそも彼は女を良く見てきた。ティアモよりも美しい女だって数多く見てきたし、何も彼女が世界一綺麗な訳ではない。しかし化粧が施されたティアモは酷く魅力的ではあった。誰に入れ知恵されたのか休息日に普段とは違う女らしい服装で化粧をして陣営内を歩いていた時は驚いたものだ。

「……ア、ガイアったら」
「ん、ああ、何だ?」
「何だ、じゃないわよ。私に何か用事だったの?」
「ああ、お前にこれをと思ってだな……」

 どうやら意識が全く違う所に飛んでしまっていたらしく、自分を呼ぶ声ではっとしたガイアはティアモの問いに漸く自分の手の中のものを潔く渡した。ティアモの掌の上に納まったそれは布に覆われていて、僅かに重い。開けても良いの、と聞く代わりに小首を傾げるとガイアは黙って頷き、それを見たティアモは包みを開けると感嘆の声を漏らした。現れたのは、赤い薔薇を模した飴細工だった。
 ヴァルム大陸の美しい飴細工はイーリス大陸でも知られている。行軍でヴァルム大陸に渡った時から暇を作ってはその飴細工を見て回っていたガイアだったが、先日見付けたこの薔薇の飴細工は余りに見事で美しくて、けれども見た瞬間思ったのは「食べてみたい」ではなくて「あいつに似合いそうだな」だった。そんな事を思った自分に驚いたガイアは動揺を誤魔化しながらも買い求めようとしたのだが、繊細な作業が要求される為に1日に生産出来る数は極僅かで、予約制だと言われてしまった。だから、手に入れるのにそれなりに苦労したのだ。

「良いの? 食べたいんじゃないの?」
「良いんだよ、お前の為に買ったんだから」
「そう。……嬉しいわ、有難う」

 甘いものが好きだと公言して憚らないガイアが他人に対して菓子を与えるのは、ある種の愛情表現だと言って良い。それをちゃんと知っているティアモは嬉しそうに微笑むと飴細工の薔薇の花弁をひとひら手折り、自分の口へと運んだ。そしてもうひとひら手折ると、ガイアの口元にそれを差し出した。反射的に彼はその花弁を口に入れてしまって、何とも罰の悪い顔になる。これはティアモに買ってきたものであって自分が食べる為に買ったものではないと言いたかったのだが、渡す事を躊躇っていたのだから物欲しそうな表情であったのかも知れない。

「飴をくれようとしたのかしら、それとも赤い薔薇をくれようとしたの?」
「……好きに受け取れ」
「そうするわ。だから、お茶を飲んでいかない?
 ……私も久しぶりにゆっくり話したいから」

 赤い薔薇の花言葉を知らぬ女はそう居ないだろう。ティアモも例外ではなく、きちんと知っている。だから少し意地悪そうにガイアに尋ねてみたのだろうが、彼はぶっきらぼうに答えをはぐらかした。
 ガイアは偵察に出る事が多いし、ティアモも武具の手入れや修繕、その他の雑多な事で忙しい。それ故に2人でゆっくり話すという事は少なく、前述した通り結婚したと言うのにこの2人は未だに自分達の天幕で共に寝る事が少ない。いつもティアモが1人で眠っており、ガイアは彼女を起こす事が忍びなくて雑魚寝用の大きな天幕で眠る。しかし、今日はそれを回避する事が出来そうだし素直に嬉しくもあった。

「そうだな。じゃあ、朝までゆっくり話すとするか」
「……… ……そ、そう」

 さっきの仕返しとばかりににやっと笑ったガイアの言に反応が遅れたティアモは、薔薇色に染めた頬を隠す様にふいと顔を彼から逸らす。しかし目についた彼女の首筋は同じ様に赤く、そこが何となく美味なものに見えて、ガイアは口の中の花弁の飴を噛み砕いた。世の中で一番甘いものが目の前に既にあったので、それ以上口の中のものを味わう必要は彼には無かった。