ロンクーには物欲というものが無い。なので、何か欲しくて金を貯めるという事が無い。「強くなりたい」という欲は人一倍強いが、それ以外の欲というものは殆ど持ちあわせていなかった。食事は出されたものを黙って食べるし、衣類も配給のものを丁寧に着る。貪欲になるのは強さに対してのみであり、物欲は本当に無かった。
その事を、妻となったベルベットも重々に知っている。共に過ごした時間はそこまで長くはないが、彼が何かを欲しいと言っている所を見た事が無いし聞いた事も無い。だから彼女は今、とても困っていた。誕生日に何をあげれば良いのか、心の底から分からないのだ。彼が何を好み、何を欲し、そして喜ぶのか、全く分からなかった。そもそもタグエルは誕生日に何かをプレゼントするという習慣が無く、祝うだけで終わる。人間の習慣というものは不思議なものねと眉を顰める事しか出来なかった。
ヴァルム大陸に渡るまでに、彼の誕生日を過ごさなかった訳ではない。ベルベットは女嫌いと評判だったロンクーとは割と早い段階で結婚している。イーリスとペレジアとの戦が終わった後に身の振りを考えていたベルベットにフラヴィアが声を掛けてくれて、暫く東フェリアに滞在して彼女の手伝いをしていたのだが、ペレジアとの戦の最中に野草茶を淹れてやっていた縁もあって西フェリアのロンクーに時折野草を送ってやっていたのだ。そうすると、必ず礼の書状が届いた。ベルベットが東フェリアの現状報告の様な短い手紙を野草と共に送っていたから、その返事でもあったのだろう。そういう遣り取りを1年以上続け、東フェリアでも漸く雪が解ける頃ベルベットを訪れてきたロンクーが求婚してきた、のだ。女が苦手な割には惚れた女には手が早かったらしい。
そういう経緯があるから、ベルベットはロンクーの誕生日を知らなかった訳でも過ごさなかった訳でも無い。ただ、「何かをあげる」という日であると知らなかっただけなのだ。実用性のあるものをあげた方が良いだろうとは思うのだが、ロンクーに聞いた方が良いだろうし、聞けば恐らく「欲しいものは無い」と言うのだろう。そういう男なのだ。だから、他の者達が彼に対して物品を渡せる事に驚いてしまう。良く思いつくわね…と小首を傾げてしまうベルベットに、ロンクーも小首を傾げたものだ。彼女が何を不思議がっているのか分からなかったらしい。

別に、妻だから彼の誕生日に何かを与えなければならないという事はないだろう。しかし、ベルベットも一応はロンクーが喜びそうなものを差し出してやりたいという思いはある。多分何を渡しても礼は言ってくれるとは思うのだが、どうせなら彼がちゃんと喜んでくれそうなものをあげたい。そう思い、澄んだ気持ちの良い秋空の下、行軍途中に側を通過した比較的大きな街―仲間に見付かると何となく気恥ずかしいので、野営の近くの街ではなくて多少離れた街に彼女は足を運んでいた―の通りを彼女が人通りの多さに耐えながら歩いていると、路地裏に続くのであろう細い道の入り口で座り込んで見るからにガラクタを売っている露天商に目が行った。
古びた金属製の花瓶らしきものや人形、その他何であるのか分からない様なものばかりが地面の上に敷かれた布の上に無造作に置かれてある。ゴミにしか見えないその山に、往来の人々は目もくれずに通り過ぎて行く。ベルベットだって通り過ぎてしまいそうになったのだが、その異様さについ足を止めてしまった。何と言うか、ペレジア出身のサーリャやヘンリーが喜びそうなオーラを放っている様な気がする。直接地面に座り込んでいる老人も、しゃがんで多分一応は商品だと思われるものをまじまじと見ているベルベットに何も言わないから、一層異様に見えてしまう。
そのガラクタの中に、ベルベットは気になるものを見付けた。何処かで見た事がある様な棒状のものに手を伸ばし、取ると、紛れも無くそれは一振りの剣だった。それも、皆が良く使っている様な剣ではない。ロンクーが好んで使っている様な、片刃の剣だった。薄汚れた鞘に収まり、柄の紐はぼろぼろで、柄と鞘の間にある何か装飾が施された金属の円状のもの―ベルベットはそれを鍔と呼ぶとは知らなかった―も錆びていたし、試しに鞘から抜いてみると刀身もものの見事に錆びていた。抜く時に力を篭めなければならなかった程だ。ガラクタというよりもゴミとしか呼べないものを売っている事にベルベットは呆れたが、しかし彼女は何故かこの剣を気に入った。本当に、自分でも何故なのか分からないのだが、抜いて刀身を見た瞬間にロンクーを思い出したのだ。
彼女がその剣を手に取った瞬間、こんなにぼろぼろに朽ち果てようとしている剣であるのに、頭に強烈に浮かんだのは鈍く光る美しい刀身の剣を構えたロンクーの姿だった。剣に対して素人同然であるベルベットにも頭の中の彼が持つ剣が見事なものであると分かる程で、彼女は思わず背筋を震わせた。

「娘さん、それが気に入ったかね」
「え? …ええ、まあ」

それまで微動だにしなかった店番の老人が嗄れた声で尋ねてきたので、ベルベットは表情には出さなかったが驚いていた。耳の良い彼女は老人の鼓動はきちんと聞こえていたので生きている事は分かっていたが、まさか突然話し掛けられるとは思っていなかったのだ。しかし勝手に品物を見、鞘から抜いたのだから話し掛けはするだろう。

「その剣は持ち主を探す… 娘さんを探しておった訳ではなさそうだがの」
「持ち主を探す?剣が?」
「剣も意思を持つ…刀匠が念を篭めれば篭めただけ、その意思も強くなる…
 娘さんの親しい者に、それが探す持ち主が居るやも知れぬ」
「………」
「持って行きなされ。儂が持つには荷が重い」

老人は被ったローブのフードから覗き見える歯が殆ど無い口を笑みの形にし、ぎょろりとした目をベルベットに向けた。どことなく不気味にも見えるが悪人とは思えなくて、ベルベットはその役に立ちそうにもない剣を譲り受ける事にした。売り物ではないの、とベルベットが尋ねると、その剣だけは売り物ではない、儂はその剣の指示に従って彷徨っているだけだと言われ、有難く貰う事にしたのだ。別にベルベットに手持ちが無かった訳ではないのだが老人は頑なに金を受け取ろうとはせず、ベルベットの手にある剣に向かい、良かったなあと深く頷いただけだった。
端から見れば、否、一般人から見れば、老人は頭がおかしいと思われてしまうのかも知れない。しかし、ベルベットにはそうは思われなかった。彼女は人間に比べると勘が働く方であるし、何より老人の言葉を聞いて自分の手の中にある剣が生きている様な気がしてきたのだ。但し、起きてはいない。眠った状態の様な気がした。

「その剣は気性が荒い…持ち主になる者に、振り回されん様に伝えておくれ」
「有り難う。でも、きっと大丈夫…あの人を護ってくれる気がするの」
「ほう。良かったなあ、期待されておるぞ」

立ち上がったベルベットに老人が注意を促したが、彼女は微かに笑って剣を見遣り、素直な気持ちを述べた。老人の言う通り、かなりの曰く付きである様に思われたその剣は、しかしロンクーを護ってくれる様な気がしてならなかった。ただ、彼は元から持っていた剣をずっと使っているが、他の剣が使えないという訳ではなくて単に昔から使っているものが手に馴染んでいるという理由で使っているし、何よりこの剣はこのままでは使えない。修理代の方が高くつく上に、貴重なハマーンの杖を果たしてこんな剣に使わせて貰えるのだろうか。名刀である根拠など無いし、自分の「護ってくれそう」という勘を誰が聞き入れてくれるのか、ベルベットには分からなかった。
一抹の不安を抱えながら、ベルベットは老人に別れを告げてその場を去った。老人は静かに彼女の背を、彼女の手に握られた剣を見送っていた。



野営に戻れば、休息日という事も手伝ってか洗濯されたシーツや衣類が風にはためき、今日という日が気持ちの良い秋の一日であるという事を教えてくれている。ヴァルム大陸でも温暖な気候であるらしいこの地方は春夏秋冬の季節がはっきりしており、人々が居住するには適しているのか、大きな街が点在する地域でもあった。
戻ってきたは良いものの、ベルベットは少し困っていた。手に持っているものを誰かに見られたら咎められてしまうかも知れないと思ったのだ。街並みを野営へと戻るために歩いていた時も道行く人々にぎょっとした様な目で見られてしまったし、失笑されたりもした。ベルベットはそういう目を余り気にしないタイプであるけれども、流石にぼろぼろの剣を持ち帰ったとなればユーリに怒られてしまうかも知れない。かと言って、彼への申し出無くハマーンの杖を誰かに振るって貰う事は難しい。この軍の財務は全て軍師であるユーリが掌握しており、武具も私財にする為に売り払われない様、不正を働かれない様に彼の鋭いチェックの目が入る。だから、彼女はこっそりと物陰からユーリを探していた。
しかし、ユーリよりも先に見付けたのは剣を渡そうと思っていたロンクーだった。普段から暇さえあれば鍛錬を怠らない彼がいつも使っている剣ではなくて木刀を持ち、リベラを立会人として誰かと手合わせをしていたのだが、ベルベットはその相手に驚いた。ソンシン王女である、サイリが相手だったからだ。
ベルベットと結婚はしたものの、ロンクーは未だに彼女以外の女は苦手だ。戦場ではそうも言っていられないので何とか自分を奮い立たせている様なのだが、それ以外の時は今でもベルベット以外の女が近寄れば後退り、必ず一定の距離を保とうとする。酷い時など、ベルベットの後ろに隠れようとするのだ。これにはベルベットも呆れてしまうし、相手の女―例えば剣を教えて欲しいと志願したティアモなどは苦笑するしかなかったらしく、軍内の女性戦士は必要以上にロンクーには近寄らない。そんな彼が珍しく、本当に珍しく女相手に木刀を構え、真剣な顔付きで手合わせをしていた。
木刀と木刀が激しくぶつかり合う音が響き、時折2人の短い気合の声が秋晴れの空に吸い込まれていく。お互いの手の内が分かっているかの様に受け止め、流し、そして次の一撃を翻している様は、まるで手探りでお互いを分かろうとしている風にも見えた。ロンクーの出自はソンシンであると言うし、サイリとは気が合うのかも知れない。そう思った時、ベルベットの胸が痛んだ。
勝負を決したのは、ロンクーの一撃だった。サイリが仕掛けた連続の打ち込みを流すのではなくて全て受け止め、耐え、そして最後の一撃を跳ね返した。サイリの木刀が宙を舞い、音を立てて地面へ落ちる。

「そこまで!ロンクーさんの勝ちです」

立会人をしていたリベラが右手を上げ、終了の合図を出すと、サイリは口惜しそうに痺れたのだろう右手首を掴んだ。一方のロンクーは上がった息を整えながらサイリの木刀を拾い上げ、無言で彼女に渡した。受け取ったサイリが僅かに悔しそうに唇を噛み、足元に目線を落としたのだが、ぱっと顔を上げた時には打って変わって晴れ晴れとした顔でロンクーに右手を差し出した。彼は勿論妙な顔付きになって戸惑っていたのだが、意を決したのか右手を震わせながらもしっかりと彼女の手を握った。戦士として敬意を表す握手であったのだろうが、ベルベットにはそうは見えなかった。まるで極親しい者に対しての握手に見えてしまい、胸の痛みが大きくなった。

「…おや?どうなさったんですかベルベットさん」

その時立会人のリベラがベルベットに気が付いたらしく、彼女に声を掛けてきた。よりによってこんなタイミングで気が付いて欲しくなかったのだが、見付かってしまっては仕方ない。本当はそのまま立ち去ってしまいたかったのに、慌てた様にサイリから手を離して自分を見たロンクーと目が合ってしまっては去る事も出来なかった。

「…邪魔をした様ね。何か込み入った事があるみたいだけど」
「べ、別に何も… いや、何も無い訳ではないんだが…」
「そう。たまたま見掛けただけだから気にしないで頂戴。
 私、ユーリの所に行かなきゃいけないから」
「ユーリさん?どうかなさったんですか?
 …というか、ベルベットさん、その手に持っているものは何ですか?」

馬鹿馬鹿しい嫉妬をしている所を見られたくもないので早々に立ち去ろうとしたのだが、リベラが余計な事を聞いてきたのでベルベットは足を止めざるを得なくなる。ばつが悪い顔で体の後ろに隠そうとしても、剣がそこそこ長かった為に上手くいかなかった。

「刀…?」
「カタナ?」
「あ、いや、我がソンシンではそういう形状のものを刀と呼ぶのだ。
 ソンシン以外ではキルソード、と呼ぶのだったか…
 失礼だが、ベルベット殿、それはどちらで…?」
「どこって…近くの街の露天商で譲り受けたのよ。
 今日は… …いえ、何でもないわ」

そしてロンクーやリベラが何か言う前に、サイリがぽつりと呟いた言葉にベルベットもオウム返しをしてしまった。うっかり今日が誕生日のロンクーに渡す為にと言いそうになったのだが、何だかそれが癪になってきてしまって、仮令ユーリからハマーンの杖の使用許可が下りてもロンクーに渡す気になれそうになかった。
だがサイリは神妙な面持ちで一度だけ頷くと、ちらとロンクーを見てから再度ベルベットに目線を向けた。

「ベルベット殿、再度失礼するが、それはロンクー殿の為に求めたものだろうか」
「…… …まあ、そう、だけど」
「そうか。…今でもまだその様な、呼ぶ刀があるのだな」
「呼ぶ刀?」
「左様。己が主を求めて呼ぶ妖刀があるという言い伝えが、ソンシンにはあってな。
 しかし、本人ではなくて奥方を呼んだか…」
「サイリさん、では、その…刀?が、ロンクーさんの手に渡る為にベルベットさんを呼んだ、と…?」
「恐らく。…何故かは、分からないが」

サイリが言う通り、ベルベットはあの露天商を通り過ぎるつもりだった。それなのに足を止め、この剣を譲り受けた。老人も何の疑問も持たず、また妙な確信でこの剣が求める持ち主の手に渡ると思っていた。ベルベットは、この剣に呼ばれたのだ。この剣が求める主である男の妻であった為に。そして彼女が人間ではなくタグエルであり、第六感が働いた為にこの野営に程近い街ではなくて少し離れた街であっても呼ぶ事が出来たのだろう。

「ベルベットさんは、ユーリさんにハマーンの杖の使用を頼みに行かれようとしたのですね?」
「…そうよ」
「そうですか。では、ユーリさんには後で私が言っておきましょう。
 ハマーンを持ってきますから、少し待っていて頂けますか?」
「…ちょ、ちょっと、そんな勝手に使ったらあなたが怒られるかも知れないのよ?」
「以前、私を馬鹿にした兵士を怒ってくださいましたから、いつか恩返しがしたいと思っていたのです。
 それに、今日はロンクーさんの誕生日でしょう?
 呼ばれたという事を抜きにしても、旦那さんの為に求めたものを使えないままにしておくのは悲しい事ですから。
 では、少々お待ちくださいね」

リベラがユーリの許可無くハマーンを持ち出して来ようとしているのを慌ててベルベットは止めようとしたのだが、彼はにこやかに笑って聞き入れなかったどころか余計な一言を言い放って野営の天幕の密集地へと向かって行ってしまった。残された3人はどうしたものかと顔を見合わせたのだが、リベラの厚意を無碍には出来ないのでその場で待つ事にした。

「…誕生日など、忘れていたな。そう言えば今日か…」
「…忘れていたの?呆れた」
「いや…誰も何も言わないから、気が付かなくて」
「多分夜に何かされるのよ。今の内に心の準備でもしてなさい」
「う………」

自分が持っているのも何だし、元々ロンクーに渡す為のものであったから、ぼろぼろのまま渡すのは気が引けたのだがその一振りを渡すと、彼は礼を言いながら受け取って暫く硬直していた。何か感じるものがあったのかも知れない。だが、それを誤魔化す様に呟かれた言葉にベルベットは本当に呆れてしまった。ロンクーは確かに自分の事に関しては無頓着な男であるから、忘れていてもおかしくはないのだが。
そしてこの軍の者達は人を驚かせる事が大好きなので、きっと今頃こそこそと誰かが何かの計画を練っているに違いない。普段から仏頂面のロンクーを驚かせる事に執念を燃やしているユーリ辺りがあやしいとベルベットは予想していた。そんな彼女は、サイリがどこか柔らかい表情で自分達を見ている事に気が付いた。

「…何?そんなにじろじろ見られると落ち着かないのだけど」
「あ…、失礼した。いや、睦まじくていらっしゃるのだと思って」
「…貴女も、珍しくこの人が手を握れた女性なのだけど?」
「ああ、そうか、ベルベット殿に誤解されてしまったか。
 …言っても、構わないだろうか?」
「いや…、俺から話す」

つい口に出てしまった悋気にしまったとベルベットは思ったのだが、サイリは気を悪くする素振りも見せず、意味深な問いをロンクーに投げる。その事についても何となくベルベットは面白くなかったのだが、ロンクーが言った言葉に目を丸くした。

「…妹、らしい」
「………え?」
「だから…、…サイリは、俺の妹、らしい」

その告白に、一瞬何を言われたのか分からなかったベルベットは瞬きを数回してしまった。言われてみればきつい目元は似ているかも知れないし、古風な性格も同様な気もするが、しかしロンクーはフェリアの貧民街に居た孤児であったとベルベットは聞いている。どうやってその身元が知れたのか、さっぱり分からなかった。

「…で、でも、貴方は孤児だって…」
「サイリの父親…俺の父親でもあるらしいんだが…、城仕えの侍女に手を出したらしくてな。
 女であれば問題無かったんだろうが、生まれてみれば男だったものだから、
 手切れ金を持たせて城から追放したそうだ」
「……随分、勝手な王様じゃない。自分が手を出した癖に」
「面目無い。…父も父なりに、男児であったが故に後継者争いに巻き込みたくなかったのだろう」
「…貴女を責めた訳じゃないのよ」
「…かたじけない」

ロンクーの言葉はいつも僅かに足らないのだが、つまり彼の口ぶりからしてその「王から手を付けられた侍女」という女が彼の母親になるのだろう。既に生まれていた男児のレンハの事もあり、王妃の顔を立てる為、そして無闇な王位継承問題を避ける為にその侍女は子供と共に放逐されてしまったという訳だ。その事についてベルベットが眉を顰めると、サイリがすまなさそうに顔を曇らせる。彼女も苦悩している様であった。

「…でも、良く分かったわね。貴女は知っていたの?」
「…知ったのは、兄と…レンハと袂を分かつ事になった時だ…。
 父が他の女に生ませたロンクーという男が居ると、レンハから聞いた、から」
「………」

サイリの言を聞いて、ロンクーが僅かに目を伏せる。ベルベットには、サイリがつらいと思っているという事が手に取る様に分かった。恐らく、サイリの兄であるレンハはもう自分は兄ではない、お前には他にも兄が居るのだから、そちらを兄と思えと言いたかったのだろう。サイリが心からそう思えるとはベルベットには思えなかったが、少なくとも兄として、妹として、歩み寄ろうと努力する姿勢は先程の握手で見て取れた。あれはそういう意味での握手だったのだ。ベルベットは妙な悋気を起こした自分が俄に恥ずかしくなってしまった。あの手合わせは兄を、妹を認める為のものであったのだろう。

「すみません、お待たせしました。お持ちしましたよ」

微妙な沈黙が流れそうになったその時、タイミング良くリベラがハマーンの杖を手に戻ってきた。本当に良いタイミングだとベルベットは思ったし、ロンクーもサイリも同様であったらしく、ほっとした様な顔をリベラに向ける。3人が自分を同時に見たものだからリベラは少し首を傾げたけれども、特に気にせず杖の柄の先を地面へ付けて立てた。
ぼろぼろの剣を持ったロンクーがリベラの前に立ち、ずい、と杖の方へと差し出す。別にそんな事をしなくても大丈夫なのだが、何となくそうしたかったのだろう。それを見たリベラは小さく笑うと杖を両手で持ち、自分の頭よりも少し上に掲げながら魔力を高めてハマーンの杖の効力を発動させた。剣が光ると同時にハマーンの杖の球体がぱきんと音を立てて割れる。いつ見ても不思議な光景だと、ベルベットは思う。
ぼろぼろだった鞘は黒光りする立派なものへと変化し、柄も新品同様の姿となった。後は刀身を確かめるだけなのだが、ロンクーは暫くその姿のままじっと立っていて、思わずベルベットは不思議そうにしているリベラと顔を見合わせてしまった。ただ、サイリだけが顔色を替えずにロンクーをじっと見ている。…否、ロンクーではなく、剣を見ていた。

「………!」

そうして、長い息を吐いて漸くロンクーが引き抜いた刀身は、ベルベットがその剣を持った時に強烈に頭に浮かんだものとそっくりそのままだった。鈍く光る美しい刃は、しかしどこかぞっとする。武器というものは元々人を殺める為のものであるから当然と言えば当然なのかも知れないのだが、それにしてもタグエルであるベルベットの背筋をここまで震わせるものは今までに無かった。
柄を握るロンクーの手が、僅かに震えている事が分かる。耳の良いベルベットには、彼の鼓動もはっきりと聞こえた。穏やかではないが、しかし歓喜に満ちていると彼女に思わせた。そこでやっとベルベットはほっとしたのだ。自分の勘が外れなかった事、そして彼を喜ばせる事が出来た事に。

「…名刀は、名匠の一振りだから言うのではない。持つ者が、名刀にするのだ」
「………?」
「…私に剣を教えてくれた人が良く言っていた。
 あの刀は、ロンクー殿が主になって漸く名刀になれる」
「…名刀とか、そういうのは私には分からないけど…
 あの人を護ってくれそうだと思っただけよ」

ぽつりと呟いたサイリの言葉に、ベルベットは簡素に言う。変身して戦う彼女には武器の良し悪しなど分からないが、あの剣を持った時、紛れも無くこの剣はロンクーを護ってくれると思ったのだ。それは剣がずっと探していた主の手に行き届く様に彼女の心に働きかけたのかも知れない。だが、それでも良いのだ。彼を護ってくれさえすれば、それで。
女が苦手で、案外傷付きやすくて、素っ気ないが素直な所があるロンクーは、いつでもベルベットを庇う様な立ち回りで戦う。彼女も立派な戦士であると重々承知であるのに、どうしても少年の頃のトラウマが原因でそういう立ち回りを見せた。ベルベットは、そんなロンクーを護りたかったのだ。
ロンクーが剣をゆっくりと下ろす。そして鞘に収めると、天を仰いで短く息を吐き、緩やかにベルベットを振り返った。

「…礼を言う、ベルベット。…良いものを貰った」
「…気に入って貰えたなら、良かったわ」

短い礼に対して、彼女も短く応える。彼らにはそれだけで十分であった。リベラは苦笑し、サイリも気恥ずかしそうに笑う。彼らは本当に、似合いの番であった。

「良い奥方を娶られた。大事にされよ」
「…これ以上大事にしたら戦場に出せなくなる」
「………ちょっと!」
「おや、ロンクーさんから惚気を聞けるとは思いませんでした。
 これは貴重なものを聞いてしまいましたね」
「うっ…うるさい!!」

サイリの言に対してロンクーがこれ以上無く素で言った言葉は、しかし彼以外には惚気としか受け取れなかった。その不意打ちにベルベットは柄になく赤面してしまったし、サイリもまた頬を赤らめながら笑ったし、リベラに至ってはからかってきた。惚気だとは全く思っていなかったロンクーはどうやら自分が途轍もなく恥ずかしい事を言ったのだと気が付いたらしく、首まで赤くしてリベラに怒鳴ったのだが、言葉を取り消す事など出来る筈も無く、うう、と撃沈しながら呻いた。彼の手の中にある剣が、何処となく主の様子を楽しんでいる様にベルベットには感じられていた。