リヒトは自分の声が余り好きではなかった。少年であれば仕方のない事なのだが、特有のボーイソプラノが気に入らず、どうしても他人、特に大人と話す時は声が小さくなりがちだった。実家が没落した貴族の家であった所為でコンプレックスも手伝って、他人に嘲笑されている様な気もしていた。
だが、歌う事は嫌いではなかった。周りに誰も居らず一人の時は人目を気にせず声を出す事が出来たし、何より晴れている空に向かって自分の歌声が吸い込まれていくのを実感する事は嫌いではなかった。声が好きではないのに、と人は言うかも知れないが、それはそれ、これはこれという彼なりの考えがあったのだ。
クロムが率いる自警団に同行する様になっても、リヒトの声の高さは変わらなかった。その年ならそろそろ声変わりしてもおかしくないのにな、と言う者も少なくなく、彼は会話する事が苦痛になってきていた。好きでこんな声な訳じゃないのに、と悔しくて涙を拭った事もある。戦いだって専ら後方支援に回されていたから尚更不満で、いつになったら大人扱いされるのだろうと、クロム達が戦場を駆けるのを遠目で見ていた。


「そりゃー、イーリスの歌か?」

ペレジアに人質にとられたエメリナを奪還する為に砂漠を行軍していたある日の夕方、野営から少し離れて何かの骨の様なものの上に座り、足をぶらつかせながら一人で歌っていたリヒトの背中に、誰かが声を掛けてきた。全く気配に気が付かなかったので驚いたリヒトが振り向けば、肩に剣を担いだ中年の男が立っていた。つい最近、行軍を共にする様になった傭兵で、確かグレゴという名だった筈だ。

「う、うん…イーリスの地方の歌で…」
「あ?悪ぃ悪ぃ、俺昔の怪我でちょーっと片耳聞こえづらくてよ。
 もうちょーっとで良いから大きな声で喋ってくれねえかな」
「…い、イーリスの、僕の実家がある地方の歌、だよ」

歌っていた声の半分くらいの声量でぼそぼそと質問に答えたのだが、グレゴは指で右耳をとんとんと叩きながら聞こえなかった旨を伝えてきた。傭兵であるなら怪我も多かっただろうし、聞こえづらいのであれば仕方ないので聞こえやすい様にリヒトが再度答えると、グレゴは珍しいものを聞いたかの様に笑いながら頷いた。

「そーかあ、あんまイーリスの地方は回った事ねえから、
 聞いた事ねえメロディラインだと思ったんだよなー。
 なーんか他に歌えるもん、ねえか?」
「え…っと…、じゃあ…」

初めて話したので出身国など知る訳も無いが、どうやらイーリスの者ではないらしい。声を聞かれるのは余り好きではないけれども、人懐こそうな笑みでリクエストされたなら歌わざるを得なくて、リヒトは思案した後に故郷に伝わる歌を披露した。イーリスの豊かな緑と清らかな水、美しい山々を旅人が賞賛するという内容の歌なのだが、どうやら気に入って貰えたらしく、歌い終わるとグレゴは無骨な手で拍手をしてくれた。

「お前、中々上手いなー。いやー、歌とか聞くの久しぶりだったから聞き入っちまったわ」
「そ、そう…?だったら良いんだけど…」
「んー? …お前、名前は?あ、俺ぁグレゴってんだけど」
「…リヒト、だよ」
「リヒトか。よーしリヒト、背筋伸ばせ。胸張ってみ?」
「へ?…こ、こう?」
「そんでな、顎引け。…そーそー、それで良い」

突然、僅かに眉を顰めたグレゴがリヒトに注文をし、猫背気味だった姿勢を正させると、満足した様にうんうんと頷いた。何が何やらさっぱり分からずリヒトが不思議そうな目で彼を見上げると、グレゴはにやっと笑った。…ちょっとだけ悪人面だと思った。

「あの姿勢じゃ、声も出ねえだろー?
 背中丸めて声小さくしてるとな、腹に力入らなくていざって時に体が動かねえもんだ。
 お前だってこの軍に居る以上ペレジアにとっちゃ敵だし、敵にとっちゃ大人も子供も関係ねえからな。
 あと、声のでかさは気迫にも影響するもんだからなー。
 しゃんと胸張れ。背を丸めんな。声をちゃんと出せ。良いな?」
「………う、うん」
「返事が小せえぞ」
「は、はい!」
「よーし」

どうやらグレゴはリヒトの話し声の小ささや姿勢が気になったらしく、それを矯正しようとしてくれたらしい。だが、リヒトはそれ以上に「大人も子供も関係ない」と言ってくれた事が嬉しかった。戦士として見做されている様な気がして、嬉しかったのだ。
子供の声でいる事が恥ずかしくて、自然と背を丸めて小さな声になってしまっていたのだが、確かに言われた通り余り体に力が入らず、それ故魔法の詠唱も上手くいかなかった。歌を歌う時はあんなにすらすらと声が出るのに、と歯噛みした事もあるが、どうやらそれは声の大きさに関連していたらしい。その事を、初対面のグレゴがあっさりと指摘して矯正してくれたのだから、驚く他無かった。

「んじゃー、陽もそろそろ落ちるし、野営戻ろうぜ。腹減ったなー」
「…僕も、歌ったらお腹空いちゃった」
「おー、健康的で良いねえ」

剣を肩に担ぎ直したグレゴが西の空を見遣りながら言った言葉に、リヒトの腹の虫が応える様に鳴る。背筋を伸ばす事、声をきちんと出す事にはまだ慣れないが、片耳が少し悪いと言っていたグレゴが自分の言葉を聞き返してこなかった事には満足していた。



「天使の歌声っつーけど、人間に羽根が生えてんじゃなくて、声に生えてんだよなあ」

フェリア港で再会し、敵陣を遠目に見ながら、全く関係ない事をグレゴが言ったのでリヒトはちょっとだけ首を傾げた。こんな時に何を言ってるの、と眉を顰めてしまいそうになったけれども、それは踏みとどまれた。

「いやー、お前のあの歌声、もう聞けねえんだなーって思ったらなー。
 惜しいなーって思っただけさ」
「…それ、今言う事でも無いんじゃない?」
「そーかあ?良いじゃねえか今言っても」

ペレジアとの戦が終わった後、リヒトはイーリスへ戻ったのだが、グレゴは旧知の仲であったらしいバジーリオの元に居たらしい。ヴァルム大陸の帝国がどうやらイーリス大陸へ攻め込む準備をしているという情報が前々からあった様で、その同行を探る為に働かされていたのだそうだ。果たして、ヴァルム帝国軍はこのフェリア港へ攻め込んできたのだが、前情報を掴んでいたクロム達は港で押し留めるべく布陣した。
リヒトがイーリスに戻ってこのフェリア港に来るまでに、2年の歳月が流れた。その間に彼は変声期を迎え、あのボーイソプラノはアルトへと変化していた。リヒト本人は惜しいとは余り思わなかったのだが、再会したグレゴはリヒトの声を聞いて僅かに苦笑し、声変わっちまったなあ、と言ったけれども、姿勢と声の大きさが完全に改善されていた事を褒めてくれた。これはクロム達からも褒めて貰えていたので、何だかとても嬉しかった。

「ま、これでお前も本当に大人の仲間入りって訳だ。
 大人になった以上はちゃーんとついて来いよ」
「うん。でも、無理はしないからね」
「おー、弁えも身についたってか。成長したなー」

石畳を蹴る馬の足音を遠くに聞きながら、携えていた剣を抜いてグレゴがにやっと笑う。それに対してリヒトも持っていた魔導書を掲げながら謙虚に言うと、彼は褒める様に頷いた。ペレジアでの戦でも魔導書を片手に戦ったが前線には出して貰えず、実質これがリヒトの初陣になる。ベテランが側に居た方が良いだろうというルフレの配慮から、グレゴの近くで戦う事になったという訳だ。

「んじゃ、いっちょやるかあ!」

グレゴの一声を聞いてリヒトはぐっと背筋を伸ばし、腹に力を込めて石畳を踏みしめ、魔導書を開く。その姿をちらと横目で見たグレゴは満足そうな顔を見せ、敵の方へと駆け出して行った。その背中には、既にリヒトのボーイソプラノに対する未練など欠片も見受けられなかった。