深夜、仲間内の交流に使う為に設けられた天幕の中で、ランタンの明かりを頼りに男が2人、備え付けられた机に差し向かいで座り、グラスに酒を注いでいる。しんとした真夜中の空気はいささか緊張感があるものの、2人は夜番の見回りも無いので幾分かリラックスしている様にも見受けられた。
「ん、じゃあ、結婚おめでとさん」
「おぉ、ありがとよ」
酒の入ったグラスを傾け、細やかに乾杯する。橙色の髪の男は赤茶の髪の男が酒を煽るのを見てから自分も一口飲んだ。
「しかし遅かったなー、お前らの結婚」
「お前に言われたくねぇぞ」
「そうだけどさ。あんなにノノがアプローチしてんのに避けまくってたもんな、おっさん」
「おっさん言うな。そっちこそティアモがどれだけ俺に悩み相談してきたと思ってんだぁ?」
赤茶の髪の男―グレゴにとっては失礼な言に当たる言葉に彼は少しだけ眉をしかめたのだが、目の前の男―ガイアは全く悪びれた気配も無い。少しくらいは罰の悪そうな顔をしてくれても良いとグレゴは思う。
ガイアの妻となったティアモは、グレゴが言った通り結婚するまでグレゴに色々と恋愛相談をしていた。最初の対象はクロムであった様なのだが、彼女の大親友であるスミアがクロムに想いを寄せている事、そしてクロムもスミアに惹かれているという事を察して身を引いた様だ。元からティアモは他人の世話を焼く事が多く、失恋してからはそれが一層多くなり、このガイアがたまに呆れる程身辺の世話を焼いた。伸びっ放しの頭髪を整えたり、服を入念に洗わせたり、そんな事が主であったのだが、それしか出来ないから…と言う彼女を着飾らせて送り出したら成功したらしい。
「そう言うけど、俺だって相手がクロムなもんだからそれなりに悩んだぞ」
「それなりに、だろぉ?ったくよぉ、あーんな不安そうな顔させやがって良く言うぜ」
「最後の最後まで昔の男に遠慮してたどっかの誰かさんには言われたくない」
「………」
「………」
空になったショットグラスにまた酒を注ぎながらガイアが言った言葉にグレゴは押し黙り、ガイアもまた黙る。端から見れば一触即発の状態の様にもなっているのだが、彼らはこれでに喧嘩をした事が無い。引き際というものをお互い心得ているし、喧嘩をしても何の得も無いと分かっているからだ。
「ま、でも、おっさんがノノと無事結婚したから言うけど」
「おっさん言うな。何だぁ?」
改めて酒が入ったグラスをちびりと口にしたガイアがどこか遠くを見る様な、何かを卓越した様な、そんな目をランタンが灯っているとは言え薄暗い室内にさ迷わせた。何か重大な事でもあっただろうかと少し怪訝な顔をしたグレゴは、しかし心の底からしみじみと吐き出されたガイアの言葉にゆっくり深く頷き同意した。

「女は胸じゃないな」
「ああ、女は胸じゃねえな」



男というものは一般的に女性の胸というものが好きな生き物だ。否、人間は普通赤子の頃に母親から乳を与えられて成長するものであるから、動物の本能として女性の胸に大なり小なりの憧憬を抱くものである。今差し向かいで酒を飲んでいる2人は母親の記憶が余り無い、と言うか孤児であったガイアには皆目無いしグレゴもどの女が母であったのか知らないので、とにかく母性というものを知らない。
だからと言ってそれで2人が女性の胸に対して憧憬を抱いているかと言えば全くそんな事は無くて、単に好きなだけ、なのである。ガイアとグレゴはお互いが裏稼業という事もあってか気が合うし、情報交換も度々していたし、こうやって酒を飲む事もしばしばだ。花街に女を買いに行った事もある。勿論ガイアが結婚を決めた頃くらいから全く無くなったのだが、彼の妻となったティアモから恋愛相談じみた事をされていた上に酒の席でガイアからも時々悩みの様なものを聞いていたグレゴもまあくっついてもおかしくねえやなとは思っていた反面、あの巨乳好きがねえ、とお世辞にも褒められたものではない感想を持った。多分ガイアも今回の結婚でグレゴに対して同じ事を思ったに違いない。
「やっぱなあ、女は懐の広さだよなー」
「同意だけど、ノノは懐広いか?いっつも俺に菓子をねだってくるんだが」
「あいつはあいつなりに懐広ぇぞ、俺らより長く生きてるだけあって」
「ああ…うん、そうかもな…」
つまんだラムレーズンを咀嚼しながらガイアは抗議じみた問いをしたのだが、グレゴの実感の籠った声につい同意しかけてしまった。確かにノノは妙なところで達観しているからそう言っても差し支えないかも知れないけれども、ガイアにしてみれば毎回自分に寄ってきては所持している菓子をねだるので、俄かには信じ難い。
「けーど、ティアモだってそうだろー?お前の仕事に対して文句言わねぇんだろうが」
「言わないな。身嗜みに煩いくらいで」
「まあ、汚ねぇ身形だと病気しやすいしな。心配なんだろうよ」
「だと良いけどな。それ以外は言われた事が無いな」
「一緒に寝なくても文句言わねぇのは大したもんだと思うけどなー」
「へー、ノノは言うのか」
「言う」
「うっわ、ごちそーさん」
ティアモは基本的にガイアのやる仕事に口出しをしないし、褥を共にしなくても文句を言わない。ユーリに言われて諜報活動を普段からしている彼の立場を分かっているから邪魔にならぬ様にと思っているのだろう。ガイアの活動は軍の、クロムの為にもなる。ティアモは元はクロムを慕っていたから尚の事だ。今も多分そうだとは思うのだがそれは役者に対して恋する様な感情であるとガイアは知っているから何も言わない。元々そこを引っ括めて、承知の上で好きになったのだ。
ただ、他の番となった者達と比べると、寝台を共にしない事は珍しかった。その事をグレゴから感心された様に言われたからからかい半分で尋ねたというのに、即答で肯定されてしまったものだから思わずガイアも妙な声を出してしまった。考えなくてもノノは誰に対しても甘えたがるので一緒に寝たがるというのも頷ける気がする。そう思ったガイアは再びラムレーズンに手を伸ばして雑談をする様に尋ねた。
「で?嫁の添い寝は効くか?」
「あー…あいつ寝相かーなり悪ぃみてぇでなあ…添い寝っつーより抱き枕だな、ありゃ」
「あーはいはい、腹いっぱいです」
「若造がおっさんをからかおうなんざ10年はえーよ」
随分以前ユーリに添い寝は効くという様な旨をグレゴが言った事があると小耳に挟んでいたガイアが何気なく聞けば、さらりと惚気けられてしまったので今度こそ露骨に渋い顔をする。中々この男をからかうのは難しいが、しかし自分と同じで惚気けが言える様になれたのだからある意味凄いとも思った。
何度も述べるが、ガイアは盗賊でグレゴは傭兵であり、金で雇われる事が多い職業であるから表立って胸を張れる様なものではない。イーリス軍に雇われてからというもの何かと話をする事が多かった2人は、しかし周りが結婚していくのを何とも思わなかったし、また自分には縁が無いものだとも思っていた。素人の女に手を出す事は久しくしておらず、本気になる事も無かったものだから、まさか雇われた先の天馬騎士や自分が助けて共に雇われたマムクートを娶る事になるとは思っていなかったのだ。だから良くつるんで女を買いに出ていたし、好んで買う女のタイプというものをお互い心得ていたから、ガイアもグレゴも「まさかあいつをなあ」と思う相手の手を取ったというのも事実だった。
「おっさん、細身の巨乳好きだったからノノは柔らか過ぎるんじゃねえの?」
「いやー、柔らけえのは……良いぞ」
「ああ、うん、それは同意する」
「お前こそちょっと肉付きの良い巨乳好きだったじゃねえか。ティアモは細すぎねえか?」
「あれはあれで…良いな」
買っていた娼婦のタイプを思い起こしながらガイアが尋ねればグレゴがしみじみとした声で答えるし、同様に彼がガイアに尋ねれば矢張りこちらもしみじみとした声で意味もなく頷いて答える。そのお互いの回答に、2人は申し合わせたかの様にグラスを傾けた。
「まー、そりゃ、惚れた女が好みになるわなあ」
「そうだな、胸とかどうでも良く……なる、な」
「今の間は何だあ、今の間は」
「いや…正直なところおっさんはどうなんだよ」
「………成長が楽しみかなー」
「死んでるだろ成長する頃には」
「まあな…」
酒が入っているとは言え、高々2、3杯で酔う彼らではない。素面ではないが、かと言って酔っ払っている訳でもない。ただ、普段は決して言わない本音がうっかり零れているだけ、なのである。しかし断じて不満がある訳ではないのだ。2人共、自分の妻になった相手は自分には勿体ないと思っている程で、見合う様な男にならねばならないと思っている。
「…ま、胸はどうあれ、カミさんは大事にしたいもんだな」
「………カミさん、ねえ」
「んー?何だあ?」
空になったグラスに再び酒を手酌で注ぎながらグラスが言った言葉に、ガイアはちょっと意外そうな顔をしてからにやっと口の端を上げる。その表情がまたからかう様なものであったのでグレゴが僅かに眉を寄せると、実に面白いものを聞いたかの様にガイアが喉で笑って言った。
「お前が嫁が神様なんて言うなんてな、と思ってさ」
「……… …あ、あー…」
一瞬何を言われたのか分からず目を丸くしたグレゴは、しかし意味を飲み込むと間抜けな声を上げた。確かに彼は先程妻の事を「カミさん」と言った訳で、それがガイアには「神様」に聞こえたのだろう。神など信じていない様に見える―実際グレゴにはあらゆる神に信心など全く無い―男が何の気も無しにカミさんなどと言ったのだ、ガイアにはグレゴがノノを妻にした事よりもそちらの方が意外だった。
「居るか居ねえか分かんねえ神様とやらよりよっぽど有難ぇ存在だしなー」
「おいおい、ナーガはどうした」
「見た事ねえし。姿が見えねえなら居ねえもんと同じだよ」
「ノノはそのナーガの親族かも知れないぞ?」
「お前こそナーガとティアモ、どっち信じるよ」
「ティアモだな」
「そら見ろ」
理想より現実を直視する2人は、見た事があるものしか信じない。未来から来たルキナ達は神竜ナーガに過去まで飛ばして貰ったと言っていたし、実際来たのだからそれを信じない訳でもないけれども、彼らは見た事が無いのだから、ナーガよりも今この野営内で眠っている妻の方を信じる。
「お互い、泣かせねえ様にしたいもんだよなー」
「不用意な一言も含めてな」
「おぉ…それは肝に銘じとかねえとな…」
感慨深そうにちびりと酒を飲んで言ったグレゴに、再度虚空を眺めながらガイアが言う。どことなく実感が籠っている様なその言葉に、言って泣かせた事があるのかとグレゴはつい突っ込みそうになったのだが、敢えてそこには触れなかった。
「…やはりここに居たか。グレゴ、ノノがぐずっているぞ」
「んー?ありゃー、ベルベットでも駄目かあ」
妙な沈黙に包まれた空間に突如割って入ってきた男の言葉に、グレゴは困った様な顔をした。今日はガイアと少し飲むから誰かと一緒に寝て貰え、と言うと、じゃあベルベットと一緒に寝ると言ったノノは快くベルベットの天幕に迎え入れて貰った。夫であるロンクーは夜番の見回りで居ない予定であったから構わないと言ってくれたのだ。しかし、結局はぐずって呼び出しがかかってしまった。
「俺は構わないから、ノノをこっちに連れてきたらどうだ?まだ飲み足らないだろ?」
「そうだなー」
「…余り、そういう事は感心せんな」
「うるせえこのおっぱい魔人」
「黙ってろよこのおっぱい魔人」
「?!」
酒の席に眠るノノを同席させるなと暗に言って眉を顰めたロンクーに、しかしグレゴとガイアは憎々しげに吐き捨てたものだから、何の事かさっぱり分からないロンクーは驚いた様な顔で耳を赤くした。女嫌いの癖に軍の中でも随分と早い段階で結婚した彼はそれなりに胸がふくよかなベルベットを妻に迎えたから、酒の入った2人のとばっちりを食らってしまったらしい。何と言って良いものやら分からず顔を赤くして口をぱくぱくさせているロンクーの横を通り過ぎる時、グレゴはその大きな手をロンクーの肩にぽん、と置いた。
「男ってのはな、現状に全く以て満足してても、不意に羨む我儘な生き物なんだよ…覚えとけ?」
「何の事だ?!」
「おっさんの有難いお言葉だ、黙って聞いとけよおっぱい魔人」
「だ、だから何なんだそれは?!」
理不尽に変な呼び名で呼ばれ怒ったものやら赤面して良いやら分からず、うう、と呻くロンクーを尻目にグレゴは外に出る。僅かに酔った頬を撫でる風が少し冷たくて心地よい。ガイアには悪いが、ぐずるノノを背負ってちょっと散歩してから戻るのも良いだろう。…背中には、まあ、そういう感触がもたらされるか否かというのは、放っておいて欲しい。
「んじゃー、いっちょ、カミさん迎えに行きますかねえ」
誰にともなくそう独りごちたグレゴは、点在する篝火の明かりと月の光を頼りに、自分だけの神を迎えに行く為に歩き始めた。



余談であるが、翌日の演習の際に「貴方達がお酒を飲もうと何を話していようと勝手だけど、ロンクーに変な事を言うのは止めて貰えるかしら」と酒の残る体に蹴りを入れられ悶えているガイアとグレゴを冷ややかな目で見ているベルベットを目撃し、不思議そうに首を捻っているティアモとノノが見られたそうだ。