温かな微睡みを堪能していたノノは、小さな肩を優しく揺すられてゆっくりと夢から引き摺り上げられた。天幕の入り口は朝の換気の為開けられたのか、入り込んでくる朝日が閉じた瞼を優しく刺激して彼女の目覚めを促す。本当はもう少し眠っていたかったのだが肩を揺らしてくれた手の持ち主の事が瞬時に浮かんで、起きなければという使命感に駆られて起き上がった彼女は、紫水晶の様な美しい瞳を半分隠す瞼を擦り、伸びをした。
「おはようグレゴ、起こしてくれてありがとう。お腹すいたでしょ、顔洗ったらミルク作ってくるね」
傍らに座り言葉も無くノノの起床を見ていたグレゴと呼ばれた男は、彼女のその言葉にこっくりと頷いた。



中年男性にしか見えないグレゴとミルクという単語は繋がりようも無いものかも知れないが、彼の主食はそれなのだから仕方ない。プランツドールと呼ばれる彼は一日三回のミルクと週一回の砂糖菓子、そして持ち主から与えられる愛情が何よりの養分なのである。
名人と呼ばれる職人が丹精込めて作り育て、稀少なものであるが故に高価な品物であるプランツドールは、金を積んだからと言って手に入れられる代物ではない。普段は眠った状態で持ち主が現れるのを待ち、波長が合った人間が側に近寄らなければ目を覚ます事はない。イーリスの街を歩いていたノノは何気なく立ち寄ったプランツを扱う店で眠っていたグレゴと波長が合ったらしく、随分長い事眠ったままであった彼が目を覚ました。驚いたのはノノだけではなく、店主もだった。
本来ならプランツは少女の姿であり、彼の様に男性型というものは作られないのだが、時勢もあって観用型ではなく戦闘型の少年も作られる様になった。それでも矢張り少年の姿での生育であり中年の姿にはならないそうで、前の持ち主がミルク以外のものを与えてしまったせいで成長してしまったらしかった。少年型ならまだしも中年のプランツは売り物にはならず処分するつもりであったから、とノノに譲ってくれたのだった。
譲り受けたグレゴは、実に優秀な戦力となった。ペレジアとの戦を終えたイーリス軍は各地で出現する様になった屍兵を討伐する為に地方に遠征する事も多々あって、正式にイーリス軍師となったルフレがグレゴも一度ノノと共に同行させたのだが、その際にグレゴが良い働きを見せて以来ほぼ毎回同行させた。グレゴはノノの命以外は聞かないし、彼女以外がミルクを与えても飲まない為に常にノノの近くで控えていなければならないから、二人はほぼ一緒に居ると言っても良かった。ノノが指示をすれば勝手に自分でミルクを用意して飲む事も出来る様ではあるが、可能な限りは自分が作ってあげたいからとノノが自主的に世話をしている。クロム達に助けられた当初は我儘ばかり言っていた彼女も、自分が面倒を見なければ「枯れて」しまうグレゴを引き取ってからはそんな素振りを全く見せなくなった。千年もの間殆ど一人で生きてきたノノはその寂しさやいつまた一人になってしまうか分からないという不安から我儘を言っていたのであるが、グレゴを引き取ってからというものその寂しさや不安が無くなったのだ。
物言わぬ「植物」ではあるがヒトの形をした生き物であり、ミルクも飲めば砂糖菓子も食べる。何よりノノにだけであるが笑う。ノノの取り留めのない話を、脈絡の無い話を、黙って微笑み頷きながら聞いてくれる。ただそれだけの事は、しかしノノにとってひどく尊い事なのだ。人間が生きている時間は悠久の時を生きる彼女にとってとても慌ただしくてあっという間に過ぎ去っていく。しかしプランツであるグレゴは人間の時には囚われず、ノノが生きる時間の流れに近いところで「生きて」いる。だからイーリス軍と共にヴァルム大陸に渡った時も、ずっと一緒に居られるのだと思っていた。信じて疑ってはいなかった。



その変化にノノが気付いたのは、ミラの大樹に向かう行軍の途中だった。いつもの様に起こしてくれたグレゴにミルクを作って与え、彼が大きなマグカップを両手で持って飲み干した後に礼を言う様ににっこり笑った彼に満足して頭を撫でたノノは、手に触れた感触に違和感を覚えた。髪質はいつもと変わらないのだが、頭頂部に何か異物がある気がしたのだ。どこかぶつけて怪我でもしたのかと思って自分を膝に乗せてくれようとしたグレゴの手を擦り抜け、不思議そうな顔をした彼の頭を覗き込んだ。
「……ねえねえグレゴ、これなあに?」
ノノがそこに見付けたのは、真紅の丸い何かだった。頭にちょこんと乗っかっているそれは、昨日無かったものである。ヒトの形をしているとは言え飽くまで植物であるグレゴは喋る事が出来ずノノの質問にも言葉では返事をしないので、無骨で大きな手でその何かに触れて首を傾げた。どうやら彼も知らないらしい。
「たんこぶじゃないと思うんだけど……なんだろうね?」
指先で触ったそれは硬く、赤茶色の髪の中に鎮座している姿は明らかに異質だ。プランツについて詳しく知らないノノにはそれが一体何であるのかは全く分からなかったし、グレゴも不思議そうに指の腹で撫でたりしている。
「ノノちゃん、ちょっと良いかしら。頼まれていた腹巻き、直しておいたわよ」
「あ、セルジュ、ありがとう。ねえねえ、セルジュはこれなにか分かる?」
二人が暫く首を傾げていたその時、セルジュがノノの鱗が編み込まれた腹巻きを手に開けていた天幕の入り口から顔を覗かせた。戦局が厳しくなるにつれて装備品や衣類の損傷が多くなってきており、縫製が得意なセルジュはいつもその役を買って出てくれている。ノノがグレゴに与えた自分の鱗を編み込んだ腹巻きも随分と破損してきたのでセルジュに任せていたのだが、どうやら持ってきてくれたらしい。それを受け取ってノノがグレゴの頭を見ながら尋ねると、セルジュも座っているグレゴの頭を覗き込み、少しだけ難しい顔をした。
「……ノノちゃん、これ、いつから?」
「昨日まではまではなかったの。さっき見たらあったの」
「そう……」
持ち主以外が触るのは良くないと思っているのか、セルジュはその何かには直接触れなかった。そして暫く口許に手を当て考えていたが、曇った表情のまま言った。
「多分、花冠(ティアラ)の蕾だと思うわ」
「ティアラ?」
あまり聞き慣れない装飾品の名が出てきたものだからノノはオウム返しをしながら再度首を傾げた。この男に花冠というのも結び付かないが、植物であるなら花を咲かせても何ら不思議な事ではない。
「これが咲くの? わあー、きっときれいに咲くね」
「そうね、咲いてしまうでしょうね。開花本能が強いと聞くから。
 ……ノノちゃん、これは私が聞いた話だから本当かどうかは知らないのだけど……、
 ティアラが咲いてしまったプランツは枯れてしまうらしいの」
「……えっ?」
花が咲くんだ、早く咲いたら良いのになあなどと呑気に考えていたノノは、セルジュの枯れるという一言に目を丸くした。確かに花は咲けば枯れるものではあるが、まさかプランツ本体までそうだとは思わなかったのだ。持ち主の愛情が枯渇してしまえば枯れるという話はグレゴを譲ってくれた店主から聞いていたものの、本当に枯れるのかという疑問もあったから尚の事驚いた。
「ど、どうしようセルジュ、グレゴ死んじゃうの?」
「私も動いているプランツを見るのはグレゴが初めてだし、
 ティアラの事も噂でしか聞いた事はないから枯れるというのが本当かは分からないの。
 どうして蕾をつけたのか、無闇に撤去しても良いのかどうかも」
「うう……」
そんな危険なものであるなら早々に取り除いた方が良いのではないかというノノの安直な考えは、セルジュの言葉によってすぐに却下になった。確かに昨日まで無かったものが今日になって突然現れたのも不思議だし、そこそこ長い事一緒に居たノノもグレゴを含めたプランツの生態は良く分かっていない。グレゴを譲ってくれたイーリスの店の店主ならば何か知っているかも知れないが、ヴァルム大陸から引き返す訳にもいかないしそんな時間は無い。
「……わっ、」
突然の浮遊感に驚いたノノの体は、しかしすとんとグレゴの膝の上に収まった。泣きそうになった主の不安を察知したのだろう、グレゴはノノの小さな頭をゆっくりと撫で、見上げてきた彼女に小さく笑った。その笑みに泣きそうになってしまい、ノノはぎゅっと彼の胸に抱き着いた。
「ロザンヌにもプランツを取り扱うお店があるの。そこに連れて行っても良いか、ルフレに聞いてみましょうね」
そんな二人を見て目を細めたセルジュは急いだ方が良いと思ったのか、ノノの返事を聞く前に天幕を後にした。だがノノは暫くその場から動けなかった。



前線にも危なげなく出る事が出来るグレゴが抜けるのは痛いが枯れてしまうのは忍びないから、というルフレの許可を貰い、ノノはグレゴを連れてロザンヌ領へと来ている。ヴィオールもセルジュも戦線に残ったので連れてきて貰った形になるが、プランツの取扱店の店主は快く迎え入れてくれた。何でも、戦闘型のプランツを見るのは初めてであったらしい。
「セルジュ様が仰った様に、ティアラに寄生されたプランツは花が散ったあと枯れてしまいます。
 ですが、十分に愛情を受けたプランツに寄生するティアラは珊瑚色である筈でして……
 この様な真紅色は聞いた事がありませんね」
ロザンヌに着くまでにそこそこ大きくなってしまった蕾を繁々と眺めながら言われた店主の回答はセルジュのそれとほぼ変わらなかったが、それでもグレゴに寄生した花は聞かれる案件の中にも無い色であるらしい。本当に咲いたら枯れちゃうの、というノノの質問にも、本来ならば、という曖昧な回答しか得られなかった。何でも、青いティアラが咲けばプランツは成長するものなのだそうだ。
ノノは他のプランツに近寄っても波長が合わないらしく、店の少女達が目覚める事は無いので店主の住居の一角を借りて滞在している。店主が連絡してロザンヌ近辺の職人達もまだ戦の影響は少ないとは言え危険である事には変わりないのに訪ねてきて様子を見てくれた。だが、矢張り彼らも首を横に振るだけだった。真紅のティアラは聞いた事が無いが恐らく咲いて散ってしまうだろう、無理に切り落とそうとすると寄生主のプランツも危険だというのが全員の見解だった。
除去する事も出来ず、日に日に大きくなっていくグレゴの頭の蕾は大柄な彼にとっても重たそうで、その姿のままミルクを飲むのはしんどそうだ。それでも、恐らく枯れてしまうだろうと聞いた日から出来る限りミルクには僅かに酒を垂らしているので嬉しそうに飲む。そうして、飲み終わったらノノににっこり笑うのだ。その笑みがもう暫くしたら見られなくなってしまうのだと思うと悲しくてノノが泣くと、グレゴは困った様な顔をして彼女を膝に乗せて頭を撫でた。
「そのお花、重たくない? 大丈夫?」
蕾はグレゴの頭からはみ出る程の大きさとなっており、彼はもう座ったままでしか眠れない。それでも不満気な顔ひとつせず、最近は泣き疲れて眠ってしまったノノを膝に抱いたまま眠っている。睡眠は十分ではなかろうに、それでも大丈夫と言うかの様に軽く頷いた。
「ソンシンには竹っていう植物があって、ながーく生きてお花咲かせて枯れちゃうんだって。サイリが言ってたの。
 ……グレゴも枯れちゃうのかなあ」
古風な国であるソンシンの王女サイリから聞いた植物とグレゴは似ているかも知れないとノノは思う。長く生きた竹林が一斉に枯れる様は不吉だが、その後種子をつけるのだからまた再生する、とサイリはノノを慰める様に言った。しかしグレゴは竹ではなく職人が作り上げたプランツだし、枯れてしまえば二度と元の彼になる事はないだろう。
鼻の奥のツンとした痛みが再度襲い、また涙が零れる。しかしその涙をノノが拭う前にころりと彼女の膝の上に何かが落ちた。驚いて見上げると、主が泣いてつらいのか、それとも自分が枯れてしまう事が分かって悲しいのか、グレゴの目からは天国の涙と呼ばれる宝石が零れていた。ああ、もう咲いちゃうんだ、とどこか冷静に考えたノノは、堪らずグレゴの首に抱き着き小さく柔らかな唇で彼のそれを塞いでいた。「さよなら」も「ありがとう」も言葉には出てきてくれなくて、ただそうする事しか出来なかった。その瞬間、甘いミルクの様な香りがしたかと思うとティアラが大きく開花し、そして音もなく真紅の花弁は散った。



太陽が木立を煌めかせる朝、ノノは今日も沸かした湯を分けて貰ってミルクを作る。毎日作っているから手慣れたもので、小鍋の中のミルクをスプーンで撹拌して大きなマグカップに注ぐ。鼻孔を擽る微かに甘い香りはノノの食欲も同時に刺激したが、それを押し遣って先程ミルクを注いだマグカップより一回り小さいマグカップにもミルクを注いだ。
マグカップを両手に一つずつ持って自分の天幕に向かうノノを、野営内の誰も気に留めない。それが毎朝の風景であるからだ。ただ、嬉しそうに鼻唄混じりで歩く彼女を見て顔を綻ばせる者は少なくなかった。今日もそんな者達の間を縫って、自分に宛がわれている天幕へ戻った。
「お待たせぇー。ミルク作ってきたよ」
天幕の前に木箱を椅子代わりにして座って朝日を気持ち良さそうに浴びているグレゴはノノの声に顔を向け、手を伸ばしてごく自然に小さなマグカップを先に受け取り、膝の上に居る三つ編みの少女に手渡した。少女は嬉しそうに受け取ると、両手で持って飲み口から息を吹き掛けた。ノノもグレゴも、その姿をにこやかに見ている。
グレゴに寄生していたティアラは、確かに散った。プランツの栄養を全て吸収して咲き、散ると言われているティアラの寄生主であったグレゴは、しかし驚く事に枯れはしなかった。花を咲かせた事により衰弱はしたものの、暫く休養させ十分に栄養を与え、ノノがずっと側についていてやると、僅か数日で元通りに立ち振舞える様になった。変わった事と言えば彼がいつの間にか種を持っていた事だ。
当初、それはプランツに寄生する花の種かと思われた。しかし店の主にこれは何かと尋ねると、主は怪訝な顔をしてこれはプランツの種ですがどこで手に入れられたのですかと逆に聞かれてしまった。ティアラが散ったらこれが残ったと正直に言うと、矢張り不可思議な顔をしただけでそれ以上は教えて貰えなかった。恐らく、主にも分からなかったのだろう。プランツの生態は分からない事だらけだ。
その種を一人の職人に預け、成育させて貰ったのがこのンンである。成育させるにもかなりの金額が必要であったのだがとても珍しい、というより初めての事例であったから様子を観察させて欲しいとの依頼もあり、殆ど支払いなどはしていない。それでは悪いから、とグレゴが零したあの若いレモン色の天国の涙をノノが差し出すと、これで暫くは生活に困りません、大切に種をお預かり致しますと職人は朗らかに笑った。戦の中でも心に潤いを齎す少女達を成育させる事に誇りを持っている様だった。
イーリス軍がヴァルム大陸からイーリス大陸へと戻る際に迎えに行ったンンは、ノノより幼い少女の姿ではあったが成長していた。あのティアラの花弁が紅色であったからなのかは分からないが紅色を好んだので鮮やかな、しかし他のプランツの少女達が着ているものよりは地味だが可愛らしい紅色のワンピースを着せている。
「ンン、おいしかった? じゃあグレゴもどうぞ」
そのンンがマグカップのミルクを全て飲み干したのを確認してから、グレゴはンンを膝から下ろし、ノノから自分のマグカップを貰った。自分が飲んでいる時に万一ンンに零してしまってはいけないと思っているのだろう、彼は膝の上にノノやンンを乗せたままでは絶対に飲まない。そして両手でマグカップを持ち、ゆっくりではあるが一気に飲み干した。飲み方がそっくりなのは偶然なのか、それともグレゴが寄生主であったからなのか、何にせよ親子の様で微笑ましい。ンンと並んでその姿を見ていたノノは、飲み干したグレゴがンンと顔を見合わせてから自分を向いて礼を言う様ににっこり笑った事に満足し、二人の頭を優しく撫でた。