時は過ぎ行く

「久しいな。元気にしていたか?」
 フェリアの短い夏が終わる頃、ふらりと気紛れの様に姿を見せた壮年の男に、ロンクーは僅かに目を細めてからそう尋ねた。突然に訪ねてきたこの男と会うのは何年ぶりになるのかを数えるのも億劫で、夕陽が差し込む西フェリア城の一角で手ずから淹れた茶を出すと、男は軽く手を挙げて礼を言ってからカップを受け取った。
「この通りだけどなー。まあ元気だな」
 茶を一口啜ってカップを置き、皺が目立つ様になってしまった顔を指差して男が笑う。間延びした口調は昔とちっとも変わらなくて、ロンクーは何となく安堵した。
「……剣は振れるのか」
「それなりにな。もう年も年だし、しゃーねえわ」
「……そうか」
 テーブルに立て掛けられた剣を見遣って再度尋ねると、男は――グレゴは肩を竦めながら苦笑して見せた。その言葉に、ロンクーも何も言えずに沈黙せざるを得なくなる。
 ロンクーがテーブルを挟んで向かい合っているグレゴとイーリス軍で同僚であった頃から、既にもう二十年近くが経つ。当時まだ二十歳そこそこの若者であったロンクーも彼の生まれ故郷で言うところの不惑を越えたし、彼より二十近く年が上のグレゴは傭兵を廃業していてもおかしくはない年だ。だが剣を常に傍らに置こうとする姿勢を見て、今でも現役で剣を振るっているのだとロンクーは思った。今では武芸に長けた者が多い東西フェリアの中でも右に出る者が居ない程の手練れになった彼がそう思うのだから間違いはない。
「年って言や、お前は未だに嫁さん貰ってねえのかあ?」
「……ない」
「まだ四十そこそこだろー? 貰えよ」
「……いらん。必要ない」
 ふと、思い出したかの様にグレゴが尋ねた質問に、ロンクーは簡素に、きっぱりと答える。彼の人生に伴侶という存在は然程重要なものではなかったし、不器用であるから二つのものに心を配る事が出来ず、その為にロンクーは剣の道を極める事にしか心を捧げる事が出来なかった。それを残念に思った事も、後悔した事も無い。そういう男だった。
「引く手あまただろうに、贅沢な奴だなー」
「それを言うなら、お前も貰わなかっただろうが」
「俺ぁ根無し草だからな。嫁さんも子供も可哀想だろ」
 ロンクーの返答を聞いて呆れたものやら相変わらずだと思ったものやらと再度苦笑したグレゴは、長い事放浪を続けた自分を良く分かっているものだから、定住の地を設けてもじっとしていられないと思っているのだろう。そんな自分に妻子を付き合わせる訳にはいかないと、今も独り身を貫いているらしい。大雑把に見えても、その実細かいところに気を配れる男だ。その辺りも弁えているに違いなかった。そういう側面が人から好かれているという事を、ロンクーも知っていた。
「……またどこか旅に出るのか」
「どーうすっかねえ」
「見たところ、左腕に少し痺れが出るんだろう? 足もほんの少しだが引き摺っている様に見えるが」
 フェリアを訪ねてきたとは言え特に長居するとも思えず、仕事を探しながら転々とするのだろうと察しがついたロンクーは、グレゴがここに来てから気になっていた事を漸く口にした。気取られぬ様にと振る舞っているのは分かるが、ロンクーの目も節穴ではない。グレゴは僅かではあるが右足を庇う様な歩き方をしていたし、イーリス軍に居た頃はカップを左手で持っていたのに先程は右手に持って口へと運んだ。利き手を火傷する訳にはいかないからと、右手が利き手であるのに左手を使っていた事を、ロンクーは今でも覚えている。震えた手でカップを持てば火傷をする確率はぐんと高くなるから、確率が低い利き手を使おうと考えたのだろう。そんな観察眼を持つ様になったロンクーに対し、グレゴは口元でにやっと笑っただけだった。
「年はとりたくねえもんだよなー。怪我の後遺症も残る様になっちまった」
「……無理はするなよ」
「ばーか、無理しねえと金稼げねえだろ。こーんな爺雇ってくれるとことかそうそうねえんだからよ」
テーブルに置いたカップを指先で弾いたグレゴの表情は、どこか憂いが見受けられた。誰にでも平等に老いは訪れるし、緩急の差はあれども体の衰えもまた平等に時間によって与えられる。それを楽しめる者は良いがグレゴは長年傭兵として生きてきたのだから、楽しむよりは焦りの方が大きかったに違いない。思うように動かなくなっていく体に歯痒さを覚えた事もあるだろう。ロンクーもその焦燥感というものは何となく分かる。若かった頃に比べると筋力が衰えた様に思ったり、一晩きちんと寝なければ疲れが取れない日が増えてきたからだ。
「……暫く俺が雇う」
「はあ?」
「剣の指導は俺より上手いだろう。軍の奴等に教えてやってくれ」
「そりゃーまあ……お前が良いなら良いけど」
「暫くは体を休めろ。もう無理はするな」
「今若くねえんだからって言おうとしたろー?」
「……まあな」
 同情する訳でもなかったし、職を与えようと思った訳でもなかったが、体が少しばかり動かなくなったとは言えグレゴはロンクーよりも饒舌で社交性もあるから、他人に教える事は長けている。ただ、面倒臭がってやらないだけだ。だが「仕事」として依頼すれば金の分はきっちりと働く男であるから、雇ってもロンクーにも西フェリアにも損は無い。
 グレゴも損は無いとは思ってくれた様であったらしいが、若くないと言った事に対してロンクーが悪びれもせずに肯定した事には口を尖らせた。
「やーれやれ、昔のお前だったらそこでどもってただろうになあ。肯定する様になりやがって」
「……もう何年経ったと思っている。今の俺はあの頃のお前より年上なんだぞ」
「そうだよなー。青臭くて変に熱い若造だったよな」
 ロンクーはもう四十を過ぎた。精悍な顔立ちは変わらないが、確実に年を経たという事を目元の皺が証明している。淹れる茶も昔とは違って濃くて渋いものを好む様になった。文句も言わずに飲んだから、グレゴもその味は気に入ってくれた様だ。軍でロンクーが指導にあたっている、彼より若い者達にはこの味は渋すぎるらしい。彼らと同じ年であった頃のロンクーが飲んでも同じ感想を抱いたであろうから、不愉快にも思わない。ロンクーは少し冷めた茶が入ったカップを口に運んで煽り、ポットに入れた茶を注ぎながら言った。
「お前は少しひねた大人だったな」
「ひねてるのは昔からだっての。それでもお前、よく俺に手合わせ頼んできてたじゃねえか」
「………った」
「あ?」

「……昔、お前が好きだった」

「……はあ?」
「だから相手をして貰えて嬉しかった。……お前にとっては金にもならん手合わせで迷惑だったろうが、な」
 空になったグレゴのカップにも茶を注ぎながら、まるで世間話をするかの様な流れでロンクーが言った言葉に、当事者であるグレゴが目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。そんな冗談を言う男ではないと良く知っているから余計に驚いたのかも知れない。
 ロンクーが今言った言葉に、嘘偽りは欠片も無い。一つしか無い心を剣の道に捧げた事は紛れも無い事実ではあるのだが、それでも心を動かされた者が居なかった訳でもない。年上だから色々教える立場だと言って何かと世話を焼いてくれたグレゴは、それでもロンクーの事を飽くまでも対等に見ようとしてくれた。ロンクーだけではない、他の者に対しても上から目線にならない様にと、口には出さなくても意識していた事もロンクーは気が付いていた。掴み所が無い、本当に不思議な男だったが、ロンクーは好意を抱いた。勿論、誰にも言った事は無い。今初めて、目の前の男に言った。
「……ちょちょちょ、ちょーっと待て、何だその好きだったって」
「そのままの意味だ」
「……お前、そういう趣味だったのかあ?」
「いや……何と言えば良いか……、別にお前とどうこうなりたかった訳ではなくて……ただ、好きだった。それだけだ」
「………」
「……だから、無理はするな。頼む」
 女が苦手だったと言っても同性愛の志向があった訳ではなく、本当に、ただ純粋に好きだった。行軍の中で好き合った者と番になった者達は少なからず居たが、ロンクーは別にそういう者達とは違っていて、側に居て欲しいとか抱き締めたいとかそういう事を思った試しが無かった。それでも、熱いものを持つ時は利き手を使わない事や他人と対等であろうとする姿勢、妻を娶ろうとしなかった真意を勘付ける程度には、グレゴを見ていた。それをおかしいと思った事は、一度も無い。今でも思わない。
 そんな憧憬にも似た感情の対象であるグレゴが無理をしてでも仕事をする事に対して、ロンクーは言い様も無く心が痛んだ。繰り返すが、同情した訳でも職を斡旋しようと思った訳でも無い。年をとった彼がこの地を去れば、恐らく二度と会う事が無いだろうと思ったからだ。土地に縛り付けるつもりは全く以て無かったけれども、せめて自分の目が行き届く範囲で怪我の後遺症が残る体を休めて欲しいと思った。
「……だった、って事は、今は別にそうじゃねえって事か?」
「……どうなんだろうな。……ただ……、」
「んー?」
「たとえ昔の様に動けなくても、お前が生きてここに居てくれる事は、嬉しい」
「……ふーん」
 ポットに入れていた茶は、保温されていたとは言え矢張り少し温くなっている。熱を手放した所為で鼻孔を擽る香りは少ないし、喉を通る時の温もりも半減した。しかし、だからと言って味は落ちてはいないし不味くもない。ロンクーの舌には美味く感じるものだ。彼の想いは、恋は、そういうものだった。昔の様に沸き立つものがある訳ではないが、話していれば穏やかな気持ちになれる。目の前で茶を飲んでくれている姿が見られる事は、素直に嬉しいと思えた。
「まあ、貰えるもん貰えたら、雇われても良いぜ」
「……そうか」
グレゴの簡素な返事を聞いて、ロンクーも簡素に頷く。彼がどう思ったのかは知らないし、聞く必要も無いとロンクーは思う。ただ、お前昔から変な奴だったよなーと頬肘をつきながら得も言われぬ苦笑を浮かべてくれた、その苦笑こそが返事である様な気がして、どうしようもないくらいに満たされていた。ポットの中の茶は、既に底をついていた。



 フェリアは寒い、と南に位置するイーリスやペレジアの者達からは良く言われるが、極寒になるのは北部であり、故に地理的にイーリス・ペレジア両国と国境に位置する場所はそこまで寒い訳ではない。しかし暫くの間ロンクーに雇われる事になったグレゴにしてみれば西フェリア城がある場所はそこそこ寒いらしく、相変わらずフェリアは寒ぃなーとマフラーで口元まで覆って苦笑した。若い頃にバジーリオに世話になった事があるらしい彼はフェリアで越冬した事もあるそうだが、年をとってからの寒さは堪えると上着を脱ぎながら言った。
「でも、良く鍛えられてますよね。体付きも同じ年頃の……人達に比べるとがっちりしてるし」
「おいこらウード、今同じ年頃の爺さん達って言おうとしたろー?」
「すみません……」
 その上着を受け取って衣類置き場に丁寧に置いたウードに、グレゴが若干刺のある声で言う。ギムレーと戦っていた当時、未来から来た子供達は、このウードの様に彼らが居た時代に戻る術が無くそのままこの世界に留まっている。同じ剣士としてロンクーに憧れたらしい彼は武者修行と称してロンクーを拝み倒し、今こうやってフェリアに居た。まだ十代であった頃の彼は芝居がかった言動を繰り返していたものだが、流石にもうそういう事はしなくなった様だ。それでもたまに顔を手で隠す癖は直っていないらしかったが。
「で、今日は何やるんですか?他の奴らも楽しみにしてるんですよね」
「ほー、ロンクーの指導は楽しみじゃねえってかあ?」
「あ、いや、そうじゃなくて! ほら、グレゴさんは結構ゲリラ戦みたいな演習も挟んでくるから予測出来ないってだけで……」
「だってよー。お前ももうちょーっと全体演習みたいなのやれよ」
「……そういう気配りが出来ないからお前を雇ったんだろう」
「おー、お前ほーんと口答えする様になったなー。変なとこ成長しやがって」
 わくわくと嬉しそうな顔で何をするのか尋ねたウードをからかったグレゴがその後ろで微妙な顔をしていたロンクーもついでにからかったのだが、彼は眉間に皺を寄せて言い返した。しかしそんな口答えごときで機嫌を損ねるグレゴではないとロンクーも分かっている。証拠に、グレゴは笑いながら両腕を伸ばしてストレッチを始めた。
 ロンクーがグレゴを雇ってから半年は経つ。ウードが言う通り、長い事傭兵業を続けていたグレゴは歳の割には体力があり、また太い腕が物語る様に体付きもしっかりしていた。筋力は確かに往年の頃と比べれば衰えているが、それでも大剣を振れる程の腕力は健在だ。西フェリアの軍の者達も彼の名は知っていたし、何より数十年ぶりのロンクーとの手合わせで勝ったのだから、一気に信頼された。フェリアでは強さが何よりの信頼の材料だ。
「どうすっかなー。まーだまだ雪も深ぇし……あー、じゃあ、雪合戦やろうぜ雪合戦」
「……え、雪合戦ですか……?」
「おうよ。俺とロンクーとお前、三チームに分かれてあっちの林で雪合戦だ。気ぃ抜くんじゃねえぞ、油断したら雪に埋もれて死ぬぜー」
 そしてグレゴの雪合戦という言葉にウードはきょとんとしたのだが、ロンクーはそう言えばそれは久しくやってないなと思った。たかが雪合戦と思われてしまいがちだが、林の中で大人数でやればそれこそ戦さながらの混戦にもなる。足場が雪に覆われているから足腰も鍛えられるし、静かな林の中であれば聴覚も鍛えられた。
「ふ……、流石はあの戦を生き抜いた戦士…体力と戦術と心理戦を遊び心に包んだ演習だ……」
「……お前のその言葉遣いはまだ完全に治らないのか」
「良いじゃねえか、面白ぇし」
 独特な言い回しをするウードの言葉にロンクーは呆れた顔をしたが、グレゴは気にする風でもなく、寧ろ楽しんでいる様だった。芝居がかっている言動をしていても実力のある剣士であるウードは、今ではロンクーの側近の様な立ち位置に居る。ロンクーは言葉に出して褒める事は少ないが、グレゴは舞い上がらない程度にきちんと褒めるものだから、ウードは以前に増して自信に満ちた顔付きをする様になっていた。そういう伸ばし方は、ロンクーには出来ない。
 その日集まった者達を三十名程の隊に分け、各々が隊長となり自分の元に配属させた三人は、城で鳴らす午前十時の鐘の音を合図に自分の隊を動かし、午後五時の鐘を合図に終了する事を決めた。ルールは至って簡単で雪玉が体のどの部位であっても当たればその場で脱落、残った人数が多い隊が勝ちだ。隊長が脱落すれば勿論その隊全体が脱落となる。フェリアは昔から軍事国家であり、平常時でも演習を絶やす事が無くて、それ故に城の近くの林を使って演習をする事は近隣住民にとっても何ら不思議な事でも不満が出る事でも無く、その林に一般民が居る事は滅多に無かったので、今日も気兼ねなく動く事が出来そうだ。林に入る時に自分達の初期位置を伝え合った三人は自分の隊を率いて一斉に分かれ、鐘の合図を待った。
 やがて城の方角から十時を告げる鐘が鳴り、静かな林が俄にざわめきだした。各々の隊が最初はどこに居るのかは把握しているが、どう動くかというのは当たり前だが分からない。今回は雪合戦という事もあり、武器を持っていないのだが、いつも腰につけている剣が無いと矢張り心許ない。林に入るのだから方角を知る為に方位磁針くらい持っていても、武器が無いのは心細く思えてしまう。
 さてどう来る、どこから来る、と耳を澄まし、周囲の空気の動きを探る。同時に自分の隊の数名に斥候を務めさせ、まずは奇襲に対しての構えをとった。ウードはまだしもグレゴは相手の隙を狙う事に長けているから、そこを突かれてしまわぬ様に細心の注意を払わねばなるまい。そう考えたロンクーは、自分の口許が緩んでいる事に気が付いていなかった。



 午後三時の鐘が鳴ったと同時にロンクーは残っている隊の兵士達に動く様に無言で指示を出した。雪合戦という名の演習が始まって五時間が経過したが、隊員は半分近くまで減っている。しかし午後一時を回った頃にウードの隊をまるごと脱落させる事は出来ているので上々といったところだろう。脱落した兵士達は林の外で待機となるので、何時間も待たされる事になり、それはそれで過酷とも言えた。
 五時間という経過時間を経ても尚、グレゴが率いている筈の隊の姿を一向に見掛ける事が出来ず、方位磁針を見ながらロンクーは頭の中で地図を広げた。あの男の事だから自分とウードの隊が潰し合って疲弊した所を狙おうとしているのだろうと予測はつくのだが、それにしても三十人前後の隊を全く見掛けないというのもおかしな話だ。初期配置場所へ偵察に出した者が戻らなかった事から、どこかで好機を伺っているというのは分かっているけれども。
 闇雲に動いたところで罠に嵌るという事は想像に難くなくても、動かねばあの男は捕まるまい。そう考えて足跡の無い木立の間を慎重に進んでいると、前方で何かが動く音がした。先を進む兵士がそれに反応し、後ろに居る自分に目配せをしてきたので、ロンクーは手袋を嵌めたまま指を二本だけ立てた。二人行け、の合図だ。それを見て、先頭に居た二人が足早に隊を離れ音がした方へと向かった、その時だった。
「うわっ?!」
 後方から聞こえた驚愕の声に振り返れば、マフラーで半分隠れた顔を雪まみれにした左後方の兵士がやられた、という風に頭を振って雪を落としていて、脱落したという事を物語っていた。どこから飛んできたのかは知らないが、雪玉を投げた者が近くに居る事は確実だ。
「二手に別れろ。俺は右から回り込むからお前達は左から回り込め」
「は、はいっ」
 その兵士がやられたという事はつまりそちらの方角に敵が居る可能性が高く、ロンクーは迷い無く隊を二分させた。隊長に雪玉さえ当てればそこで勝ちとなるので当然ロンクーは狙われる身だが、相手側の隊長となっているグレゴだって同じだ。雪の中ではフェリアに長い事住んでいる自分の方が優位に立ち回れる筈であるから、まずはグレゴを見付ける事を最優先にした。
しかし。
「わ、あっ!」
「うおっ!」
 前を行く隊員が立て続けにバランスを崩し、転倒しそうになって、咄嗟にロンクーは足を止めた。彼らの足元には雪で埋めてあるがどうやら小さな落とし穴があるらしかったからだ。埋まってしまう程の深さではなく本当に足を取られる程度の深さである様で、彼らの足に負傷は見受けられなかった。しかし驚いた彼らが体を起こそうとした瞬間上から雪玉が降ってきて、反射的にロンクーは近くの木の幹を見上げ、上に誰も居ない事を確認しつつ駆け寄って背を預けた。
「上だ! 散らばって身を隠せ!」
 どうやら馬鹿正直に真正面から向かってきたウードとは全く違い、グレゴは身を潜めながらこちらの動向をずっと探っていたらしい。なるほど、木の上に潜んでいたなら足跡が見付からなかった事にも納得がいくし、この雪と寒さが支配する林の中、五時間という長い時を歩いていたこちら側に疲労が目立つのを木の上で待っていたに違いない。グレゴは高い所が苦手であるとロンクーは知っていたから、まさか木の上で待機するとは考えなかったのだ。高所恐怖症という弱点をこちらが知っているという事を逆手に取った作戦に、あの男は本当にそういう隙を突くのが得意だなとロンクーは苦虫を噛み潰した様な顔になってしまったが、それでも矢張り口許が僅かに緩んでいる事に気が付いていなかった。今彼は、とても楽しんでいるのだ。
 上からの狙撃といえども雪玉を作るには材料である雪が必要であるし、木々に積もった雪を使おうにも音が鳴る筈だ。用意していたとしてもこちらの隊は動くので、予め作ってある玉は少ないに違いない。特に、先にも述べたがグレゴは高い所が苦手であるから、木の上でそこまで機敏な動きが出来るとも思えない。もっとも、自分だけは地上で指示を出している可能性も否めないのだが。
「どーこ見てんだあ?」
「?! うぶっ……!」
 いつまでも隠れてばかりでは埒が明かないと考えて一歩踏み出そうとしたロンクーの頭上から聞き慣れた声が振ってきて、見上げたと同時に顔目掛けて大きな雪玉が落とされた。その勢いにロンクーは思わず尻餅をついてしまい、歓喜と落胆の声が混ざって耳に届いた。よりによってグレゴが潜んでいたらしい木に身を隠してしまっていた様で、確認したにも関わらず見付けられなかったか、とロンクーは顔の雪を払い落としながら心底苦い顔をしてしまった。
「よーし、俺らの隊の勝ちだなー。いやー、高ぇとこで長時間我慢した甲斐があったなー」
「……全然気が付かなかったぞ」
「お前、俺がどんだけ傭兵やってきたと思ってんだあ? 下から見えねえ位置くらい大体分かるっての」
 随分と高い場所まで登っていたグレゴがゆっくりと降りながら笑う。周囲の木々からも次々と兵士達が降りてきてはお前俺に当てやがってと地上に居た兵士達に冗談交じりに言われている声も聞こえ、緊張の糸が切れた様な和やかな空気が漂い始めた。だが。
「う、おぉっとぉっ、……だあぁっ!!」
 冷えきった体が思うように動かなかったのだろう、まだ木の中腹辺りで体勢を崩したグレゴの体が途中の枝を勢い良く折りながら一直線に地面へと叩き付けられた。それを眼前で見たロンクーは心臓まで冷えてしまった様な錯覚に見舞われたし、一瞬気が遠のきかけた。
「大丈夫か?! 怪我は無いか?!」
「あいっ……てー……」
「ウードに担架を用意する様に言え! 外で待機している筈だ!」
「あー、いやー、そこまでしなくても大丈夫だ、立てるから」
 瞬時に体を反転させて受け身の体勢を取り、雪を背にして落ちたという事と、積もっていた雪が深かったお陰でそこまでダメージは無かった様なのだが、それでも起き上がるまでに時間が掛かった所を見ればそれなりに痛い筈だ。それなのにグレゴはロンクーの手も借りずに立ち上がった。大丈夫ですか、本当にお怪我無いんですか、無理せず担架使ってください、と心配そうに、中には血相を変えて駆け寄り言う者も居たけれども、ロンクーはそんな周囲の者達に構わず思い切りグレゴの頬を平手で打った。ばしぃっ、と乾いた音が響いて、ロンクー以外の全員が目を丸くした。
「なっ……にすんだお前、痛ぇだろお?!」
「高い所が苦手な癖に何故あんな真似をした! 寒い中動かずにじっとしていれば体も思うように動かなくなる事くらい分かるだろう!」
「お前が警戒しまくる奴だって分かってるならあれが一番効率良いじゃねえか!」
「年を考えろと言っている!」
「おま、そりゃー確かに俺はもう爺だけどよお!」
「そうだ、お前が年をとったと同じ様に俺も年をとった! もう昔の様には動けんのだ!」
「っ……、 ……まあ、そりゃー、……そうだろうけどよ」
「さっきだってそうだ、若い頃の瞬発力があればお前の下敷き程度にはなれただろう、だが今の俺にはもう出来ん芸当だ!」
「………」
「頼むから無理をするなと言った筈だ……! お前に何かあってもすぐに動ける程、もう俺も若くはない……!」
 普段は口数も少ないロンクーが激昂して怒鳴り上げ、グレゴと言い争っている姿に兵士達は驚きの顔を隠せなかった様で、それでもグレゴに掴みかかろうとする彼を何とか宥めようと後ろから羽交い締めにした。しかしロンクーはそれさえも振り切ってグレゴの胸座を掴み上げて叫び、最後には絞り出す様に吐かれたその言葉にグレゴも沈黙せざるを得なくなったらしく、開きかけた口を閉ざした。自分が木から落ちたくらいでここまでロンクーが取り乱すとも思っていなかったのだろう。
 自分の隊の兵士が雪玉をぶつけられ驚きの声を上げた時も、足を取られて体勢を崩したのを見て木の影に隠れた時も、そしてグレゴが落下した時も、ロンクーは自分が思うよりもほんの少しではあるが体の反応が遅れた事に気が付いていた。若かった頃の瞬発力や筋力がグレゴから失われている様に、ロンクーからも失われている。それがロンクーには歯痒く思えるし、何よりグレゴが体勢を崩した瞬間に体が動かなかった事が悔しかった。長時間寒空の下に居た為に体が冷えきってしまって動かなかったというのも一因なのだが、咄嗟に動く事が出来なかったのは矢張り緩やかに訪れている老いからくるものだろう。ロンクーの体は、それだけの時を過ごしてきていた。
「……分かった、分ーかったから、こいつらの前で情けねえツラすんな。士気が下がる」
「本当に分かったのか」
「少なくともお前が年くったって事と俺に突っかかれる様になったって事はなー」
「……二度とするな。肝が潰れた」
「はーいはい……」
 恐怖で冷えた胸から出る呼吸が熱を帯びて白くなり、それが二人の間で消えていく。声を荒げたせいなのか、空気が乾燥しているせいなのか、はたまた胸を支配した恐怖のせいなのか、それは分からないがロンクーの声は随分と掠れていた。グレゴの胸座を掴んでいる手も情けない事に微かに震えていたのだが、それは気取られなかったらしかった。
 胸座を解放されてばつが悪そうな顔をしたグレゴが不安そうに立ち尽くしている周りの兵士達に大丈夫だと目配せをしていて、ロンクーも眉間に皺を寄せたままグレゴから離れる。微妙な雰囲気になりかけていたその時、ウードが慌てながら担架を運んできてくれた事に、その場の全員がほっとしていたのだが、事情を知らぬウードは全員から向けられた安堵の視線に不思議そうに首を傾げるしか無かった。



 グレゴが訪れた時の様にフェリアの短い夏が終わろうとしていた朝、ロンクーは少し考え事をしながらグレゴの部屋へ向かう階段を上っていた。グレゴを雇った時に交わした契約期間は一年間で、今日で丁度その契約が切れるのだから、思案顔になってしまうのも当然と言えた。本音を言えば、このままフェリアに滞在して余生を過ごして欲しいとロンクーは思うが、自由を好むグレゴに対してそれを望む事は野暮であると流石の彼にも分かる。何と言って良いものか分からなくて、結局言えず終いのまま今朝を迎えてしまった。
 好きだった、と伝えたからと言って、間柄は何も変わらなかった。ロンクーは若い頃と変わらずグレゴとどうこうなりたかった訳ではなかったし、グレゴも特に意識していなかった様であったから、お互いが接する態度に変化は無かった。

『お前、俺の事未だに好きなんだなー。変な奴』
『……自分の想いを偽るくらいなら変人で結構だ』

 あの冬の演習の後、感情を爆発させて手を上げてしまった事に対して謝罪をすると、打たれて腫れた頬を冷やしながらグレゴが変な奴と言ったので至って真面目にそう返答した。ロンクーは嘘を吐く事が嫌いであるから変人と思われても良いと思ったのだ。それに対してグレゴはそうかい、と苦笑いしただけで、お互い何の進展も望まなかった。ロンクーにはそれだけで十分だった。そこに居てくれるだけで良い、他は何も望まない。そう思っていた。
 だから一応契約更新の打診はしようと思っていたのだが、話をしようと考えていた朝の鍛錬の時間を終えてもグレゴが姿を見せなかった為、彼の自室に向かっている。昨夜機嫌が良さそうに酒を飲みながらウード達と談笑していたから深酒してしまったのだろうと思えば、顔を覗かせなかった事は何の不思議も無い。なのでロンクーは普段通りグレゴの部屋の扉をノックした。しかし返事が聞こえて来ず、もう一度ノックして声を掛けても返事が無くて、一気に胸がざわつき始めた。いくら酒を飲み過ぎて熟睡していたとしても音に敏感なグレゴが目を覚まさない筈が無い、そう思った瞬間、ロンクーは勢い良く扉を開けていた。
 カーテンが閉めきられた薄暗い部屋の隅に、簡素な寝台がある。諸国を旅する事が多かった為か荷物など殆ど無い殺風景な部屋の現在の主は、まだその寝台に横たわっていた。それを見たロンクーの背筋に冷たいものが走り、部屋に入らなければならないのに足が入室を拒んでいて、全身が酷く重たくなっていく。血が引いてしまったのか感覚が一瞬にして無くなってしまった足を引き摺りながら、朝の太陽の光がカーテンを透かして照らす室内へ入り、そして寝台の側に立つ。それでもまだ、横たわった体は動かなかった。
「……… ……グレゴ……」
 ぽつりと、彼の名を呼ぶ。しかし、返事は無い。呼吸で上下する筈の胸は動かず、寝息も聞こえない。顔は青白く、僅かな紅も見受けられない。喉元で脈を確認するまでもなく、その様がこの肉体に魂は留まっていない事を物語っていて、ロンクーは足元から世界が崩れそうになる感覚に襲われたのだが、ベッドの縁に手をつき、辛うじて耐えた。
 震える手で、ついぞ触った事の無かった顔に殆ど無意識の内に触れる。酒を飲み終わって部屋に戻り、深夜に眠ったまま息を引き取ったのか、既に頬の温もりは失われ、冷たさだけがロンクーの指先に伝わった。生きていた頃であれば眠っていても近付けばすぐに目を覚ましていただろうに、触れてもその目は静かに閉じられたままだ。もう、ロンクーが好んだあの碧が混ざったアッシュグレーの瞳を見る事は叶わない。
「………」
 突然に訪れた永の別れに鼻の奥にツンとした痛みを感じ、ロンクーは顔を歪める。その瞬間に熱いものが溢れ、頬を伝ったのが分かったが、拭おうとは思わなかった。その代わり、もう呼吸を止めてしまったグレゴの頭や顔を、ゆっくりと丁寧に撫でた。額、瞼、鼻筋、頬、唇……指先で全てを辿った後、ぺたりと掌を頬に当て、その冷たさを掌に移す様に、その温度を忘れてしまわぬ様に、優しく愛撫する。生前、した事も無ければしようと思い至った事も無かったが、どうしてもやりたかった。

「……長い事、引き留めてすまなかった……もう楽になってくれ」

 涙が混ざった声で言っても、返事などある筈が無い。しかし、ロンクーには放浪を続けたグレゴを一所に留めてしまった負い目があるし、雇われた以上は金の分きっちり働くと笑ったグレゴが本当に契約の期限が切れる朝に息を引き取ったのだから、矢張り引き留めてしまっていたという思いが湧いてしまう。詳しくは知らないし、グレゴも多くは語らなかったが、山程苦労したであろうその生涯を漸く閉じた事を労いたかった。死に顔は苦悶の色など微塵も見受けられず、穏やかな寝顔そのままで、それがロンクーにとって救いとなった。
「お前は、嫌がるかも知れんが……、もう暫く、こうさせてくれ。……最後の頼みだ」
 女が好きであったグレゴであるから、男に触れられる事など嫌がるに違いなかったが、どうしても触れたくて指の腹で深く刻まれた皺を慈しむ様に辿る。やめろよなー、という声と共に眉を顰めた表情が目に浮かぶ様だが、既にその顔は表情を変える事はない。ただ安らいだ表情のままでロンクーの指先の愛撫を受け止める。だから、ロンクーはずっとグレゴの顔を撫で続けた。フェリアに滞在したこの一年が彼にとって心静かに過ごせたものであったなら良い、そう思いながら。



 グレゴの遺体は土葬ではなく火葬にすると聞いて、ウードは多少驚いた。フェリアは広大な土地を所有している国であるから土葬が一般的であるが、身分の高い者は墓を暴かれる事を嫌って火葬する事が多かった。例えばシャーマンなどが墓を暴かれ、その遺体を神聖なものとして悪用される事も過去にあった為、火葬という手法もとられていたのだ。
「こいつは本来一所に留まる性分ではなかったからな。それに、土の下は窮屈だろう」
 火葬にする理由を尋ねたウードを振り向く事もせず、棺の側に腰掛けて眠っている様な表情のグレゴを見ながらロンクーは簡素に答えた。ウードもグレゴがあの戦いを終えた後に様々な所を放浪しながら生活していた事を知っていたから納得はしたのだが、それ以上にロンクーが別の理由を隠している様な気がしてならなかった。
 ウードは、ロンクーがグレゴに対して好きだったと伝えた事を知らない。だがそこそこ長い時間ロンクーの側で過ごしていた事もあって、彼がどういう想いを抱いていたのかは何となく分かっていた。だから、火葬にする理由も思い当たる節があった。
 多分ロンクーは未練を残したくないのだろうとウードは思う。既に魂が宿っていないと分かっていてもその体に未練を感じ、また埋めた場所に対して「そこに居る」と錯覚してしまうのだ。自分が幼い頃に両親が埋まった場所に対してそんな錯覚をしていたウードは、跡形もなく焼いた後に骨まで砕いて灰と共に見晴らしの良い所に撒くと言ったロンクーに対し、そんな事を考えた。
 グレゴが亡くなった朝、早朝訓練には大体来ていたグレゴが顔を出さなかった事に昨夜飲ませ過ぎたかなと心配し、朝食も食べに来なかったものだから気分でも悪いのかと様子を見に部屋を訪れた。すると、カーテンが開かれ太陽に照らされた殺風景な部屋に設置された寝台の側にロンクーが座って緩やかにグレゴの頭を撫でていた。ロンクーがそんな事をする人間だったとは思わなかったし、またグレゴもそれを許す様な人間だとも思えなくて怪訝な顔になってしまい、どうしたんですか、と尋ねると、ロンクーは矢張り振り返る事もせず、たった一言、死んだ、とだけ答えた。驚いて駆け寄り、覗き込んでみれば、確かに血色が失われた穏やかな顔のグレゴがそこに横たわっていた。呆然とする自分に、すまないが棺の用意をしてくれないかとグレゴの眦を親指の腹で撫でながら言い、漸く顔を上げたロンクーの瞼が僅かに腫れていて、ウードはそこでも驚いた。否、親しい人が死んで泣くのはおかしくないのだが、ロンクーでも泣くのかと失礼な事を思ってしまったのだ。
 お互いの生活に干渉せず、必要な時に会話を交わしていたロンクーとグレゴは、それでも演習や手合わせの時に見せる息遣いが見事にぴったりであった様にウードには思える。先行するグレゴにロンクーが追い付こうとする時もあれば、ロンクーのペースにグレゴが合わせていた時もあって、十数年交流が無くてもここまで息を合わせる事が出来るのかと衝撃も受けた。だが、それでもロンクーがグレゴの死に涙を流すとは思っていなかったのだ。まして、こんな風にずっと顔や頭を撫で続けるなどと考えつきもしなかった。棺に遺体を移しても尚ロンクーはグレゴの側を離れようとしなかったし、飽きもせず顔を撫で続けていた。食事くらいとったらどうですか、と心配したウードが言ってもいらんと言うだけで、本当に棺から離れなかった。
 いくらフェリアが涼しいとは言え死ねば肉体は傷んでいくものであるので、ウードが手配してその日の夕方には荼毘に付した。そこまで急がなくても、とグレゴとの別れを惜しむ者も居たのだが、早めに葬らないとロンクーが衰弱するとウードは懸念したのだ。彼がグレゴの後を追うとも思えなかったが、念の為に自分が見張り役として側につき、他の者達に指示を出して準備をさせた。
 棺の蓋を閉める前、名残惜しそうにグレゴの頭を撫でて漸く離れたロンクーは、それでも棺が炎に包まれる様をじっと見ていたし言葉を発しはしなかった。火葬が終わってまだ熱いと言うのに構わず骨に手を伸ばそうとするロンクーをウードは慌てて止めたのだが、恨めしそうに睨まれてしまい、この人こういう一面があったのかと驚いてばかりだった。
 日も暮れたので灰は明日撒きに行きましょう、今日はお願いですから休んでくださいとウードは頼んだのだが、ロンクーは聞く耳を持たずにグレゴの部屋で遺品の整理をし始めた。何かしていないとつらいのだろうと判断したウードはそれ以上何も言わず、荷物が殆ど無い部屋で手伝いをしていて、ロンクーからこれはお前が持っていると良いと言われて香辛料を調合する道具を手渡された。生前、グレゴが様々な香辛料を入手してきては彼好みに調合していた道具で、ウードも何度か教わった事があったので有難く頂戴した。ロンクーは使い古された剣を貰う事にした様だった。
 そして、寝台の側にあった数少ない調度品であるチェストの中に、自分が貸していた本を見付けてウードは首を捻った。グレゴが亡くなる前夜に飲んでいた時、借りてた本に茶を零しちまった、弁償するから勘弁な、と申し訳無さそうに謝った後に本代を寄越してきたにも関わらず、その本は綺麗な状態であったからだ。茶など零した跡など見受けられず、不思議に思いながらページをぱらぱらと捲ると、終盤の一ページが部分的に破られてあった。何と書いてあったのかは流石に思い出せなかったし、何故破られたのかも分からなかったのだが、ロンクーが他の遺品を遠くに届けて欲しいと言ってきたので本の事は後回しにした。振り返った視線の先のロンクーの表情は、憔悴しきっていた。



「……そう、グレゴさん亡くなったんだ。いつ?」
「丁度一ヶ月前です。リヒトさんはグレゴさんと交流があったみたいだから、便りを出すより直接知らせに行った方が良いだろうって、ロンクーさんが」
 フェリアに居ると聞いていたウードがイーリスの自分の屋敷を突然訪れてきた事に対し、快く招き入れたリヒトはしかし、齎されたグレゴの訃報に暫し言葉を失った。まだそんな年でもないだろうにと思ったし、こんなに早く帰らぬ人となるとも思っていなかったからだ。だが黙られてもウードが困るだろうと思い、亡くなった日付を尋ねると、ウードは返答と共に自分が訪れた理由を述べてくれた。
「ロンクーさんは? 気落ちしてない?」
「皆の前では普段通りでしたけど……お一人になるとぼんやりしてますね。グレゴさんが亡くなられた時も棺から離れませんでしたし、ずーっと顔撫でてました」
「そっか。ロンクーさん、随分とグレゴさんの事見てたもんね。ずっとそうしたかったんだろうね」
「……そうなんですか?」
「うん。ほら、僕あの当時戦いの記録つけてたから、誰が誰を見てたのかも大体分かるんだ。リズも良くウードのお父さん見てたよ」
「そ、そうなんですか……」
 ロンクーが同じ剣使いとして常にグレゴを意識していた事を知っているリヒトは、あの寡黙な剣士が随分と堪えているのではないかと懸念したのだが、どうやらそれは当たっているらしいと分かって僅かに目を伏せる。大きな存在を喪った時の人間というものが如何に危ういものであるか、今のリヒトには十二分に分かっていた。
 クロムの側近になりたくて戦いの記録をつけようと思い立ってから、リヒトは軍全体を見渡す様に努力をしていた。誰がどういう動きをしていて、どういう事に気を付けているか、また誰を見ているのかまでも注意深く観察していたのだ。そして、自分が記録をとる為に手を貸して貰っていたグレゴの戦場の動きを追う内に、彼を見ている人間の存在に気が付いた。勿論露骨なものではなかったし、当人同士も言われなければ気が付かなかっただろうけれども、ロンクーは実に良くグレゴの動きを追っていた。敵わない相手の動きを良く観察し、自分に何が足りないのかを見出そうとしていたのだろうとは思ったが、それ以上にリヒトは何か特別な想いが篭った目線であった様な気がしていた。それこそ、リズがウードの父親となった男に向けていた目線の様に。
「そうだ、戦いの記録って言えば、これを」
「?」
 リヒトの言葉で思い出したのか、ウードは持参した荷物の中から白い布に包まれた何かをリヒトに差し出してきた。不思議に思って受け取り、包みを開けたリヒトは、中に入っていたものに息を呑んだ。
「……これ……」
「グレゴさんの遺品を整理してたら出てきたそうです。リヒトさんの、ですよね?」
 開けた包みの中に入っていたのは、古ぼけてはいるものの状態としては悪くない羽ペンだった。ギムレーとの戦いが終わった後、記録をつける手伝いをしてくれていたお礼として、リヒトがグレゴに渡したものだ。俺はお前みたいに何か書き留めたりしねえぞ、と言うグレゴに、傭兵なんだから契約する時にサインくらいするでしょ、と何気なく渡したものであったが、手放す事なく持ってくれていたらしい。
「私物なんて殆ど無かったらしいんですけど、ご自分が買われたものはかなりぞんざいに扱ってたみたいなのに、人から貰ったんだろうってものは物凄く状態が良かったらしくて。ロンクーさんがリヒトさんに渡してくれって」
「……そっか……」
 経過年数を考えればもうとっくに使えなくなってしまっていてもおかしくはないのに、丁寧に使ってくれていたのか、それとも仕舞っていたのか、それは分からないが、まだ十分に使えそうだった。使用感は勿論見受けられ、ところどころぼろぼろになってしまってはいるものの、何度か削られたのだろうペン先以外はグレゴが保存状態を気にしてくれていた事が分かり、リヒトは思わず歯を食い縛る。そのペン一つだけであの男の人となりを全て表してくれている様な気がして、ゆっくりとまた白い布で包み、大事に手の中に納めてからウードに礼を言った。
「ところでロンクーさんには何か残ってるの? 私物、殆ど無いんでしょ?」
「グレゴさんが生前使われてた剣を貰われたみたいです。俺は香辛料の調合道具を戴きました」
「ああ、それは良いね。二人とも、良いものを戴いたね」
「はい」
 数少ないであろうグレゴの形見を自分にも寄越してくれた事は嬉しいのだがロンクーの手元に何か残ったのだろうかと懸念したものの、一番相応しいものを貰ったらしく、その事にリヒトも安堵した。遺品は、故人を亡くした悲しみを和らげる。自分にとって手元に戻ってきたこの羽ペンがそうである様に、あの黒髪の剣士にとって手元に遺された剣がそうであれば良い。リヒトはそんな事を思いながら、そっと窓の外を見遣った。揺れる木立は太陽の光を柔らかなものにしてくれていて、優しい緑が目に心地良い。季節は、グレゴが好んでいた秋になっていた。



 ふう、ふう、と熱い茶に息を吹き掛け、冷まそうと試みる少女に、ロンクーは無言で水も差し出す。それに礼を言った少女は先に水を飲むと、出されていた菓子を一つつまんだ。
「ついこの間まで元気そうだったのにね。さみしいね」
「……お前のついこの間は年単位だろう」
「そうだけど。でも、こんなに早く死ぬって思ってなかったもん」
「……そうだな」
 イーリス軍に従軍していた当時より僅かに、本当に僅かにだが背が伸びた様に思う少女、ノノの言葉に、ロンクーはぽつりと同意した。数千年生きると言われるマムクートのノノにとってみればロンクー達人間の寿命などあっという間に感じられるであろうけれども、それにしてもまだそんなに年をとっていなかったグレゴがあっさりとこの世を去った事に対しては驚いた様であったし、泣いた様だった。ギムレー教団に囚われた彼女を救い出したのはグレゴであったから、まるで父を慕う娘の様にじゃれあっていた事をロンクーは今も思い出せる。
「だけど、グレゴがフェリアに居るって思わなかったなー。いろーんなとこ回ってるみたいだったから」
「……俺が引き留めてしまったからな」
「そうなの?」
「雇ったんだ。剣の教え方は、俺よりあいつの方が上手かったから」
「ふーん……?」
ノノが床に付かない足をぷらぷらとさせながら言った言葉に、ロンクーが簡素に説明をする。しかしその説明にノノが余り納得していない様な顔をしたものだから、彼は僅かに眉を顰めた。
「……何だ」
「ロンクー、グレゴに居て欲しかったの?」
「………」
 再度茶菓子をつまんだノノから図星を言われ、ロンクーは閉口せざるを得なくなる。まさか勘付かれるとは思わなかったし、今ここでそんな事を言われると思っていなかったから、何と言って良いのか分からなかった。
 元より己の不器量さを知っている為に、グレゴへの想いを誰かに気付かれてしまうのではないかとは思っていたが、肝心のグレゴが全く気付いていなかったので隠し通せたと思っていた。勿論グレゴがフェリアに滞在し、死ぬまでの期間の自分の態度や死んだ当時の事を思うと知れ渡っていてもおかしくはないかも知れないのだが、ノノは今日訪れたばかりだ。ならば、行軍していた頃に気付かれていたのだろうか。尋ねるのが怖いとは思わなかったが、何となく聞くのは憚られるので、素直に自分から言う事にした。
「……昔、あいつの事が好きだったんだ。引き留めなければもう会えなくなる気がしたから、留めてしまった」
「会えなくなるのがいやだったの?」
「……ああ」
 ノノはロンクーの告白に驚く風でもなく、ただ疑問を投げ掛けてくる。これはばれていたのかも知れないなとロンクーは思ったが、別に恥とも何とも思わなかった。
 グレゴにはグレゴの生活というものがあり、定住の地を設けず放浪を好む男であったから、フェリアに留めてしまった事は今でもロンクーに申し訳ないと思わせる。けれどもノノが聞いてきた様に、自分の預かり知らぬ所で死なれて二度と会えなくなるのは嫌だった。それはロンクーの我儘であったがグレゴはその要求を聞き届け、西フェリアに滞在してくれた。死期を悟っていたのかどうかは分からないから、死に場所をここに決めたのかは分からない。それでも戦場で死ぬ事が殆どである傭兵がベッドの上で死ぬなど、グレゴ本人も思いもしなかっただろう。
「ウードがね、ロンクーがずっとグレゴの顔撫でてたって言ってたの。触れて、嬉しかった?」
「……そう、だな。嬉しかった」
 不意にノノから問われた質問に、否定する要素は何一つ無かったのだが肯定するのは少し気恥ずかしくて一瞬答えに詰まったものの、ロンクーはしっかりと頷いた。生前のグレゴ相手であれば顔に触れる事など決して叶わなかっただろうし、また触ろうと思った事も無かったから、ノノの質問の中の「嬉しかった」という感情に結び付かなかったのだが、聞かれて初めてロンクーはグレゴの顔に触れられた事は嬉しかったのだと気が付いた。グレゴが死んだ晩夏から季節は晩冬へ移っていたけれども、まだグレゴの顔に触れた感触を指先が覚えているし頬の冷たさも掌が覚えている。
「そっか。ロンクー、今でもグレゴに恋してるんだね」
「………かも、知れん」
 グレゴが死んだと同時に、若い時からずっと持ち続けていた恋心というものが消えたとロンクーは思っていたのだが、ノノから指摘されてまだ存在しているのだと分かって、俺もまだまだだ、と知らず知らずに苦い笑みが浮かんでしまった。幼い外見とは言え流石千年以上生きているだけはあって、心の中を見抜く目を持ち合わせているらしい。
「ねえ、それ、グレゴの剣?」
「……ああ。……持ってみるか?」
「うん」
 見覚えがあると思ったのか、傍らに置いていた剣を指差しノノが首を傾げたので、そう言えばノノには形見分けをしてやれてなかったと気付く。せめて剣だけでも触らせてやろうとロンクーが気を付けろよと言いながら剣を渡すと、ノノはその重たさを噛み締める様に剣を抱いた。ノノがグレゴに初めて出会った時、自分を守る為に剣を片手に立ち回ってくれたからだろう。何となく、ロンクーはそう思った。
「……あれ……? ねえ、ここ、外れるみたいだよ? ほら…… んしょっ」
「ん……?」
「何か紙が入ってる……なんだろう?」
「……見せて貰えるか?」
「はい」
 剣を暫く抱いていたノノがふと何かに気付き、柄頭の部分を思い切り引っ張ると、確かに音を立てて外れた。その中は空洞になっていたらしく、彼女の細い指で中に入っているものが引っ張り出される。何だと思って見てみると、何かの本の切れ端なのか、紙切れに文字が書かれてある様だ。破られた断面がそこまで黒ずんでおらず、恐らくグレゴ本人が破って入れたものなのだろうと予想はついた。しかし真意が掴めず、ロンクーはその切れ端を受け取り視線を落としてみたのだが、僅か五、六行しか情報を残していない紙切れの一文に目を見開き、息を飲んだ。
「なあに? 何て書いてあるの……ろ、ロンクー、どうしたの、大丈夫?」
 不思議そうに首を傾げたノノの声音が驚いたものへ変わり、心配そうに尋ねてきても、ロンクーには答える事が出来なかった。瞼の奥から熱いものが押し寄せ口が戦慄き、やっとの思いではあっと息を吐く。その瞬間に溢れたものが頬を伝っていくのが分かって、ロンクーは嗚咽を漏らすまいと歯を食い縛ったが、無理だった。
「……っく、……う、うぅ、」
「ど、どうしたの、なにが書いてあったの?」
「……、……っく、ふ、ぅ……っ」
 ノノの問いに答える事がどうしても出来ず、ロンクーは目元を覆いながら震える手で持っていた紙切れを彼女に寄越す。戸惑った様に受け取ったノノはしかし、書かれていた文章を読んで同じ様に息を飲んだ様だった。
「……そっか、……そっか……、よかったねロンクー、よかったね……」
「う、うあぁ、あぁ、あ、グレゴ、グレゴ、……グレゴぉ……っ!!」
 女の前、人の前で泣く事は、今のロンクーにとっては微塵も恥ではない。彼は机に突っ伏し、そして今でも心を占めてやまない男の名を呼び、慟哭した。終わる筈もなかった、寧ろ今でも心を焦がす恋は、彼の人生観を鮮やかに狂おしく変えていく。これからもそうだろう。
 好きだった、とロンクーが告白した事に対し、グレゴは答えを返さなかった。返す必要は無いと思っていたのかも知れないし、何と答えて良いのか分からなかったのかも知れない。ロンクーもそれで良いと思っていた。だがグレゴは言葉を遺さなかった代わりに、ロンクーがきっとこの剣を形見として持つだろうと見越し、柄の中に読んでいた本なのか何なのか分からないが自分の想いを表す一文の部分を破って入れたのだろう。死ぬまで、否、死んでも憎らしい男だと、泣きながらロンクーは思った。
「グレゴに、言うのが遅いって文句言いに行かなきゃだね。雪がとけたら、行くといいよ」
 泣きながらではあるが明るく言うノノに、ロンクーは顔を上げ震えながらもしっかりと首を縦に振る。グレゴの灰を撒いたあの丘は、静かで辺鄙だが春の雪解けはロンクーが知る限りこの辺りでは一番早く訪れる。初めてロンクーがあの男に手合わせを挑んで敗れた季節であり、初めて勝てた季節でもある。じきにフェリアの長い冬が終わり春が訪れる。
 時は確かに過ぎ行くが、ロンクーの心はあの当時のまま、過ぎ行く事が無い。立ち止まったままなのではなくて、想いが深くなっていくだけなのだろう。彼は涙を拭い、グレゴの遺言ともなった紙切れと剣を差し出したノノからそれらを受け取ると、元通り剣の中に大事に仕舞った。生きてきた中で、今この時が一番幸福である様な気がしていた。









Time goes by; as it went by,
time put the two souls close.
(時は過ぎ行く、されど時はふたりを近づけた)










Love letter

 ウードを含めた若い衆に誘われて酒を飲んだ後、西フェリアに雇われてからあてがわれている部屋に戻ったグレゴは、僅かに息を上げながら部屋のドアを閉めた。暗い室内の壁にランタンの明かりが柔らかに反射し、殺風景な部屋をグレゴに見せてくれる。元々一所に留まらない彼は私物が少ないし、雇われてそこそこの期間を過ごしても何かを買う事も無い。いつ旅立っても良い様に、荷物は最低限しか持たない様にしている。だからこの部屋にも元から置かれている調度品以外、めぼしいものは無かった。
 サイドボードにランタンを置いてベッドに腰掛けると、一気に力が抜けてぐらっと世界が反転する。年をとって酒に弱くなった、のではない。若い頃からずっと戦場に立ち、かなり無理をしてきたグレゴの体はそれなりに限界を迎えていて、今日辺り危ねぇなと彼本人も思っていた。明日は目が覚めないだろうと既に覚悟は出来ており、そうなるとベッドの上で息を引き取る訳で、戦って戦場で死んでなんぼの傭兵がのうのうとベッドの上で死ぬってか、と思わず苦笑が漏れた。
 雇用の期間は一年という契約で西フェリアに、もといロンクーに雇われて、明日でちょうど一年が経つ。金の分だけきちんと働いたのだから文句は言われないだろうとは思うのだが、しかし前触れも無く勝手に逝くなとは言われそうだ。だが人の死など突然に訪れるものなのだからそんな事を言われてもグレゴは困る。そもそもこんなに長生きするとも思っていなかったし、ましてこんな場所で最期を迎えるとも思っていなかった。何人もの若い者達に慕われ、剣の教えを請われる日々はそれなりに楽しかったし、雇用主であるロンクーは必要以上の干渉をしてこなかったから心地良い環境を提供された事になるだろう。

『昔、お前が好きだった』

 あんな告白をしてきた割にはどうこうなりたかった訳ではなかったと言ったロンクーは、本当にそれ以上の事を望んでこなかった。まだ雪深い頃に行った演習で自分が木から落ちてしまった時に胸座を掴みながら見せた顔は未だに自分の事を好きなままであると物語っていて、それでも何も望んでくる事は無かった。ただ生きてそこに居るという現実だけで良かったらしい。
 だが、グレゴはそんなロンクーに対してどう返答して良いのかは分からなかった。それまでの彼の人生の中で好きだと言われたなら所謂「お付き合い」をするものであったし、最終的には別れるが懇ろな仲になった女もそれなりに居た。しかしロンクーは一切そういう事を望まず、このままの距離を保って接する事を望んでいた様に思えて、敢えてグレゴも態度を変えなかった。多分、それで良かったのだと思う。

『お前、俺の事未だに好きなんだなー。変な奴』
『……自分の想いを偽るくらいなら変人で結構だ』

 もし、あの会話の後に「お前はどうなんだ」と聞かれていたら果たしてどう答えたか、グレゴにも分からない。分からないが、好きだったと言われても驚いただけで別に気持ち悪くもなければ嫌悪も感じなかったし、ゲイなのかよと軽蔑する事も無かった。行軍を共にしていたあの当時から二十年近く経っているのに、そんなに長い間あの男は誰にも何も言わず自分の中に想いを仕舞ったまま過ごしていた訳なのだから、それはある意味凄い事だとグレゴも感心してしまった。変な奴だとは思っても、嫌いにはならなかった。

 ただ純粋に好きだった、今でも変わらない、好きだ、と真っ直ぐに言っている様な姿勢を見せたロンクーに何かを伝えてやった方が良いのか、それとも何も言わずに去った方が良いのか、それもいまいち分からないまま一年が過ぎてしまった。そして、少し前にウードが貸してくれた本を組んだ膝に乗せてルーペを通して読んでいたら自分の心情そのままの一文が載っており、それを遺言にしようと決めた。だがそのまま伝えるのも何となく癪であったし、死にゆく自分がこれから何十年も生きるだろうロンクーにそれを言うのは卑怯な気もして、気が付かないならそれでも良いとその部分を破って自分の剣の柄の中に仕舞ったのだ。紙が貴重なのだから本も貴重なもの、しかも借り物だと分かっていても同じ本がまだ売られているとも限らないし、自分で書くには何となく気恥ずかしかったから、ウードには悪いと思ったが破らせて貰った。色を付けて弁償の代金を支払ったので許して貰おう。

 僅かに感じる肌寒さは、これからフェリアが厳しい冬を迎える事をグレゴに教えてくれている。しかしこの体が冬を越す事はもう無いだろう。あんなに元気に酒を飲んだとしても寿命というものは訪れる。分かるもんなんだなとグレゴは思ったが、不思議と恐怖感など全く無かった。寧ろひどく穏やかな心持ちだ。
 晩年と言って良いこの一年は、グレゴにとってそれなりに楽しく過ごせた時間だった。一人の時に度々過ごした老いに葛藤し死に怯える夜など一度も無かった。不意にそのうすぼんやりとした不安が湧き上がる瞬間こそあれど、そんな時は必ずあの黒髪の男が手合わせをしないかと言ってきた。勿論ロンクーはグレゴのそんな不安など微塵も気が付いていなかっただろうが、何も考えずに全力で剣を振る時間をくれた事がグレゴには有難かった。だから、その礼でもあるのだ。剣の柄の中の、あの一文は。


―――気が付くかねえ。気が付けたなら夢枕にでも立ってやろうかねえ。


 鈍いロンクーの事であるから、気が付くまでに数年かかるかも知れない。そんなに待つつもりは無いし、そもそも待つ様な性格の男でもない。だが、ひょっとしたら他人に指摘されて見付けるのかも知れない。そちらの方がロンクーらしいとも思う。

 ランタンの中の蝋燭がそろそろ尽きる。せめて最期くらいは、と布団に入り込んで横たわり、その音を耳を澄ませて聞く。ぼんやりとする視界が段々と闇に包まれていっても、本当に不思議な事に怖くはなかった。闇は、黒は、ロンクーの髪の色だ。悪くない。感化されたか、それも良いか、と口の端で微かに笑ったグレゴは、蝋燭が尽きて部屋が闇に包まれた事に何となく満足してゆっくりと瞼を閉じた。

Love letter・END