ンンは母の形見を持っている。それは未来から来た子供達全員がそうなのだが、彼らもンンも、父の形見というものを持っていない。否、母の形見である指輪は父から母に贈られたものであるから指輪は両親の形見と言って良いのかも知れないのだが、他の子供達と違ってンンは両親を肖像画でしか知らない。姿も見た事が無ければ声を聞いた事も無くて、だから過去の世界に来た時に両親と出会えてもどんな顔をして良いのか分からなかった。
仮令自分の本当の両親でなくてもこの世界の未来では自分が生まれる筈なのだから大丈夫だ、と自分に言い聞かせた所で、過去に飛んだ時に両親に会える可能性というのは低かった。未来から来た仲間達とは離れ離れになり、ンンも彼らとほぼ同世代とは言えマムクートの血を引く彼女は成長が遅く、姿形は彼らよりずっと子供であったが故に、屍兵よりも悪い人間に付け狙われる事が多かった。そういう輩達によってイーリス大陸の東の孤島に連れ攫われ、船で運ばれた時、上陸の際に何とか逃げ出して彷徨っていたのだが、逃げ回っていたら屍兵だらけの館に迷い込んでしまった。
怖くなかったと言えば嘘になる。暗くて物々しくて、知った者も居ない。たった1人で逃げ惑って、心細くて何度も目尻に溜まった涙を拭った。大丈夫、私は強い子だから、と自分で自分に言い聞かせて、迫り来る屍兵達を振り切る様に走った。そして不思議な壁に囲まれた部屋に閉じ込められたが、結果的に屍兵を遮断して貰えた為に、館に入る所を目撃したらしいクロム達に保護して貰えた。その時、ンンは初めて自分の母であるノノに出会えたのだ。
肖像画で見た事はあっても生身の母の記憶が無かったンンには、ノノが名乗るまで彼女が母だとは気付けなかった。こちらに来る時に紛失してしまった肖像画の中の母はンンと同じく姿形が子供であったから気付けそうなものだったのだが、あの時は壁が壊れたという事で気が動転していて気が付けなかった。だが、ここは危ないから早く出よう、と手を繋がれた時、紛れもなくこの人は私のお母さんだと思えたのだ。ンンの中のマムクートの血がそう思わせたのかも知れなかった。
ただ、父親であるグレゴを初めて見た時は余り実感が持てなかった。勿論肖像画の中の父親の姿とそっくりではあったのだが、それでもンンは知らず知らずに首を傾げてしまった。その時はノノにも自分が未来から来た娘であるとは言っていなかったからグレゴにも言ってなかった、というか屍兵と戦闘中であったのでそんな事を言う余裕は無かった訳なのであるが、ノノがグレゴに女の子を無事に保護したよー、と朗らかに手を挙げた瞬間、彼は険しい顔をして馬上から手に持っていた弓を構え、2人共伏せろと叫んだ。
ンンは、その声に一瞬怯んで動けなかった。が、ノノは咄嗟にンンの肩を抱いて一緒に伏せてくれた。その直後に頭上を掠めた矢はンン達の背後に忍び寄っていた屍兵の動力となる部分を見事に貫き、ざらりと霧散したのだ。足音も立てずにつけられていたらしくノノもンンも気が付けなかったのだが、2人を振り返ったグレゴには薄暗くてもちゃんと見えていたらしい。
グレゴは何の疑問もなくノノが自分の指令に反応する、ンンを共に伏せさせると思ったのだろう。そうでなければ彼の指令にノノが咄嗟に反応した直後に矢が飛んでくる筈が無い。そこには彼らの間の絶対的な信頼が見て取れた。伏せろと叫んだ鋭い声とは想像もつかない、大丈夫かあ?と間延びした声で尋ねられた時はギャップに驚いたが、ンンがぺこりと頭を下げて礼を言うとにかっと笑い、そいつの側に居ときな、見た目は子供だけどちゃーんと守ってくれるから、と言ってくれた。ノノが不満気に子供じゃないもん、大人の女だもんと言うとグレゴははーいはい知ってる、と軽口を叩いた後に気ィ付けろよ、とだけ言い残して手綱を引き前線へと馬を走らせて行った。
多分、未来の自分の死んだ両親もこんな感じだったのだろうとンンは思う。否、ルキナがクロムを助けなければ変わっていなかったこの世界の延長上が自分達の居た未来なので、目の前で見た生身の両親は紛れもなく自分の両親の昔の姿―と言ってもノノは殆ど変わらぬ容姿であるしグレゴも大して変わらなかったけれども―なのだが、2人の遣り取りを見た事が無かったンンにしてみればそういう感想しか抱けなかった。それでもノノは、無事に館の中の屍兵を始末して外に出られた時にンンが自分の娘であると告げると、幼い容姿とは裏腹に、そしてまだ自分を産んでいないにも関わらず母親の顔を見せ、もう無理をしなくても良いとンンをぎゅっと抱き締めてくれた。その時ンンは漸くこの人は私のお母さんだから甘えても良いんだ、と思えて、声を上げて泣いてしまった。
だが、父親であるグレゴにはどうしても距離が測れなかった。ノノの旦那さんなんだからンンのお父さんだよー、とノノは言ってはくれても中々その実感は持てなかったし、どうやらグレゴも同様であった様で、何と話しかけて良いのか、どう接して良いのかは分からなかったらしい。先に親子として未来から来た子供と接していた他の男親にその悩みを相談していたと言う事もンンは知っている。ノノはゆっくり仲良くなっていったら良いよと楽観的ではあったが、ンンにはグレゴに対して気まずくなる大きな理由があった。その理由が、母の形見である指輪だ。
指輪の内側には、他の子供達が所持しているものとは違って愛の言葉や両親の名は刻まれていない。刻まれているのは「in your hand」という一文と、父の名ではなく全く知らない男の名前だった。未来で持っていた肖像画に描かれていた父親と同一人物である筈のグレゴの名ではないのだ。肖像画は飽くまで絵画であるので似ていない事も考えられるけれども、ンンの頭髪の色はグレゴのそれと同じであるし、未来で育てて貰った人達から教えて貰った父親もグレゴであるのに、指輪に刻まれた名前が違う。未来でも感じていた疑問ではあるのだけれどもこの指輪が本当に母の形見であるのか、母と自分を繋いでくれる唯一のものが本当は違うのではないかと思うと怖くて、誰にも聞けなかった。この指輪を母であるノノに贈ったであろうグレゴはンンの中で申し訳ないけれどもまだ父親として確立出来てなくて、だから彼に尋ねてみるのが良いだろうと判断したンンは従軍する様になってまだ数日の夕方、呼び慣れない「お父さん」という単語を用いて深夜番に備えて仮眠を取る為に雑魚寝用の天幕に入ろうとしていたグレゴを呼び止めた。


「えっと…ご、ごめんなさいです、お休みする所だったのに…」
「いやー、構わねえけど、どうしたー?」
呼び止めたンンの表情から話し辛い事なのだろうとすぐに察してくれたグレゴは、食事当番であったマリアベルに頼んで2人分の茶を淹れて貰うと、まだノノが戻って来ていない自分達の天幕に戻ってから片方のマグカップをンンに渡してくれた。ふわんと鼻孔をくすぐる香りは、しかし緊張しているンンには殆ど感じられない。未来では物資も乏しく、紅茶なんて贅沢品だったのに勿体無いです、とどこかずれた事を考えてしまった。
「その… …お、お父さんは、お母さんに指輪をあげましたですよね?」
「ぶっ!だああ、あっち!!」
「だ、大丈夫ですか?ごめんなさいです」
「あ、いやー、だーいじょぶだ。
 …お、おう、やったけど、それがどうかしたかあ?」
「…それって、これですか?」
唐突に尋ねられた事に口許まで持って行っていた茶をうっかり膝に零したグレゴが叫んだので慌ててンンは謝ったのだが、すぐに気を取り直ししどろもどろに尋ねた彼に、首からチェーンで下げていた指輪を掲示した。未来では高価な貴金属であったプラチナのチェーンとプラチナの指輪は、今までずっと腐食する事無くンンの胸元に輝いている。それを見たグレゴは目を軽く細めた。多分天幕内が薄暗くて余り良く見えなかったのだろう。
「…んー、まあ、指輪なんてどれも似た様なもんだけどよー…
 その小ささから言って、俺がやったモンで間違いねえと思うけど」
「…ですか…」
矢張りこれは父が母に贈ったもので間違いは無いらしい。では何故、別人の名前が彫られてあるのか、ンンはその理由を尋ねる権利もあれば責務もあった。ずっと心の中で蟠っていた事を漸く聞ける。そう思うと逆に心が落ち着いて、紅茶を飲む事すら忘れてじっと父の目を見て尋ねた。
「…お父さんは、私のお父さんですよね?
 あ、えっと、お父さんであってお父さんでないのですが…
 そ、それでも未来に生まれる筈の私のお父さんの筈です。
 …でも、この指輪には、お父さんの名前じゃない名前が彫られてるです…」
「……… …あー…」
困った様な顔をしていたのか、それとも泣きそうな顔になっていたのか、いずれにせよグレゴも困った様な気まずい様な表情をしてしまう顔をしたらしいという事はンンにも分かった。グレゴはどう言ったものやら思案していた様であったが、項を指先で揉んで暫く目を閉じた後、内緒なー、と人差し指を自分の口に当てて答えてくれた。
「それな、俺の本当の名前なんだ。
 グレゴは弟の…、お前の叔父さんにあたる奴の名前だ」
「叔父さん…?叔父さんが居るですか?」
「…居たんだよ。もう死んだ」
「………」
告げられた言葉に驚いたンンが首を傾げたのだが、グレゴは少し目を伏せがちにして目線を逸らした。思い出すのが辛い事なのか、その表情は暗くて憂いに満ちている。
「弟は…グレゴは、お前くらいの年の頃に賊に殺されちまってなー。
 …守れなかったんだ。親もその前に殺されてて、たった1人の肉親だったのに」
「…私くらい…ですか…?」
「…ああ」
俯いたまま手で額を押さえて自分を見ないまま答えてくれた父に、ンンは矢張り首を傾げる。これ以上父に思い出させて辛い表情をさせたくはなかったのだが、これはやっぱり聞かないといけないです、言わなきゃです、と己を奮い立たせ、手の中のマグカップを両手でぎゅっと握って背筋を伸ばした。
「あの、…叔父さんの名前が、グレゴなんですね?」
「…ああ」
「お父さんではないんですね?」
「だーから、そうだって」
「…あ、あのですねお父さん、落ち着いて私の話を聞いて欲しいです。
 お願いですから、最後まで聞いて欲しいのです」
念入りに名を確認したンンにグレゴは怪訝そうな顔で眉を顰め、それがンンにとっては中々に怖い表情であったので彼女はちょっと怯えてしまったのだが、ここで負けてはならないと机に身を乗り出して父に迫った。どうやらこれが功を奏したらしく、グレゴが少しだけ怯んだ、様に見えた。そしてノノとそっくりな紫水晶の瞳でじっと見詰められ、否とは言えないと判断したのか、彼が分かった、と頷いたのを見てから、ンンはあの日の事を話し始めた。



あの日、屍兵に追い掛けられ、変身して応戦する事も忘れて逃げ惑っていたンンは、薄暗い館の通路の前方に誰かの影を見付けた。挟まれた、とさあっと血の気が引いたが、その影が手招きをしてこっち!と叫び、ンンは一か八かで引き返す事をせずにその影が呼ぶ方へと走ったのだ。
そして通路を曲がると、その影の正体がンンの腕を掴んで更に走り、壁が崩れた部屋の中に飛び込んだ。瓦礫の様になっている壁は程無くして不思議と修復され、今度は出口が無くなったのだ。出られない代わりに、屍兵から逃れる事は出来た。
「大丈夫?怪我は無い?」
ずっと走っていた所為でへたりこんでしまったンンに、影は―少年はしゃがんで優しく尋ねた。見た目の年頃はンンと同じくらいか、体は細身で長い髪を大きな三つ編みにしている。ンンの三つ編みは2つだが、少年のそれは1つだった。敵かどうかはまだ分からないが助けてくれた事に相違無いので、ンンは座り込んだままぺこりと頭を下げた。
「だ、大丈夫です、助かりましたです…怪我は無いです、ありがとうございますです」
「そっか。良かった」
ンンが汗を拭きながら答えると、少年はにこっと笑ってンンの頭を撫でてくれた。年はほぼ変わらないだろうに、屍兵がかなり沸いている館に居ても平然としているこの少年が多少不気味ではあったのだが、彼は優しい目をしていた。碧が少し混ざったアッシュグレーの瞳は、何故かンンを安心させてくれた。
「暫くはこの壁も壊れないよ。
 大丈夫、もう少ししたら君のお母さん達が助けに来てくれるからね。
 それまでは僕が君を守ってあげる」
何故壁が壊れないと分かるのかという疑問は、その時のンンには残念ながら浮かばなかった。とにかく彼女は屍兵に追われていた恐怖とここは何処なのかという不安で胸が潰れそうだったからだ。しかし、少年の優しい瞳と声はンンの小さな胸の内を自然と和らげ、穏やかなものにしてくれた。何より、母が来てくれるというその言葉に反応したのだ。
「お母さん?お母さんがここに来ているですか?」
「うん、そう、お父さんも来てるよ。それと、君のお友達もね。
 だからもう少しの辛抱だよ」
「ですか…」
「それより、1人でよくがんばったね。えらい」
少年は、何故か全てを知っているのかンンの両親を含め未来から一緒にこの世界へ来た仲間が館に潜入している事を告げた。そして、ほっとしているンンの頭を再度撫でて、自分も床へ座り込んだ。しゃがんだままだと足が痺れるからだろう。殆ど同い年に見える少年から撫でられ、ンンは不服そうな顔をする。
「私は強い子です。ちょっと変身するのを忘れてしまいましたが、これでも戦えるのです」
「変身出来るんだ、凄いね。
 …僕は戦えないから、やっぱり君はえらいし凄いと思うよ」
ンンの言葉に、少年は少しだけ悲しそうに笑った。翳りのあるその笑顔にンンは何となく悪い事をした様な気がして、慌てて首を横に振った。
「で、でも、貴方は戦えないのに私を助けてくれましたです。
 あんな、怖い屍兵がたくさん居たのに…」
「怖いは怖いけど、彼らも元は生きてた人達だから。
 …ちゃんと空に返してあげなきゃいけないのに、僕にはそれが出来ないから…」
少年の言葉に、ンンははっとする。彼の言う通り、屍兵はその名に違わず屍が動いているのだ。死んでも尚戦わされている者達の魂は、天に召される事無くこの世に留まらされている。望まぬ戦いを強いられているのだ。屍兵に心は無いと分かっていても、そう言われると返してやらねばという思いが沸き上がる。ンンは今までの己の考えを恥じてしまった。
「だけど、間に合って良かった。
 君に何かあったら、君のお父さんとお母さんに申し訳ないもの」
「…え?…私のお父さんとお母さんを知ってるですか?」
「うーん、正確に言えばお母さんは知らないんだけど。
 でも、お父さんの事は良く知ってるよ。
 僕の大事な君のお父さんの、大事な娘だもの。
 だったら僕にとっても大事だから」
どうやら少年は両親の、否、父の知り合いらしいという事が判明し、だから自分を助けてくれたのだとそこでやっとンンは納得がいった。しかしこんな孤島のこんな館で、偶然見付けて助ける事など出来るのだろうか。俄には信じられなくて、ンンは怪訝な顔をしてしまったのだが、少年はそんなンンににこっと笑って誤魔化した。
「…ん、そろそろかな。騒がしくなってきたね」
その時、壁の向こうの通路の更に向こう側から人の足音、馬の蹄の音などが聞こえて、屍兵の断末魔や生身の人間の気合いの声などで確かに騒がしくなってきた。怒濤の様に過ぎ去ろうとしている先陣の騎馬隊が屍兵を蹴散らしているのが分かる。
「…きゃあああっ?!」
そしてその音が過ぎ去った後に突如として塞がっていた壁が崩れ、驚いたンンは咄嗟に頭を抱えて頭部を守ろうとしたのだが、少年がぎゅっと彼女を抱き締めて立ち込める瓦礫の煙から守ってくれた。どうやら崩れたのは2人が居た所よりも離れた所だったらしい。
「あれー?ねえねえ、ここ、いきなり壁が崩れたよー?」
その煙が収まりかけた時に聞こえた声は、ンンと同じく少女のものだった。少年が離してくれたので薄暗いが煙と瓦礫の向こうが見えそうになり、声の持ち主が部屋に入ろうとしているのが見えた瞬間、少年はもう1度だけンンを抱き締めるとぽんぽんと背を軽く叩いた。
「ほら、お母さんが来たよ、だから僕もう行かなくちゃ。
 お父さんによろしくね、ちょっと怖い顔してるけど優しい人だから、君も仲良くしてあげてね」
「…えっ、あの、貴方は?!一緒に行かないですか?!」
「僕は一緒には行けないんだ。
 じゃあね、もう会う事は無いけど、君とお母さんとお父さんが仲良く過ごせる事を願ってるからね。
 会えて、話せて、嬉しかったよ」
「あっ、待って!名前、せめて名前を!」
ンンから離れた少年は、少女の声がした反対の壁へと足を向けながらンンを振り返る。そして意味深な事を言うと、彼の体を柔らかな光が包んで姿をぼやけさせていった。その姿で漸くンンは、少年がこの世の者ではない事を悟ったのだ。道理で全速力で走った割には息も上げず汗もかかなかった訳だ。せめて正体が知りたい、名を知りたいと請うた彼女に、少年は満面の笑みを浮かべて口を開き、告げた。


「―――グレゴだよ!」



「………」
ンンの口からその話を聞いたグレゴは、呆然とした表情で目を見開いた。息をするのも忘れたかの様に動きを止めている父に不安を覚えた彼女は、呼び掛けようとしたその瞬間に父が口許を戦慄かせたのを見て思わず開いた口を閉ざしてしまった。
「……ぁ…… …あ…っ、あぁ、ああぁァァ…っ!!」
「………っ?!」
そして両手で頭を抱え、大きな体を震わせながら、グレゴは形容し難い声を上げて机に突っ伏した。泣いている、のだろう。その事に、ンンは酷く驚いた。
ンンは、大人の男性が泣く所を殆ど見た事が無い。未来では絶望の余りに泣く者も居たが、性別男はそれでも人前で涙を見せた事はなかったのだ。だからまさか父が目の前で泣くとは思っていなくて、今度はンンが呆然としてしまった。
「あ、ぅあ、…っく、…あぁ…!!」
「…あ、あの、お父さん、だ、大丈夫ですか…?」
予想外の展開に戸惑うンンは、どうして良いものやら分からなくて、おろおろとしながらグレゴの、父の側に立つ事しか出来なかった。彼は平常心を保てていない様ではあったのだが、辛うじて娘に泣き顔を見せる事は避けたいと自制心が働いたのか、片手で彼女が触れる事を制した。大きな掌には無数の肉刺が潰れた痕がある。それは父が今までどういう生活の中で生きてきたのかをンンに教えてくれている様な気がした。
叔父の存在を今日初めて知ったンンは、父にとって叔父という存在がどんなものであるのかも知らなかった。だが今の父の様子を見れば、彼にとって大切な者であったのだろうと予測が付く。死霊の館で助けてくれた、ンンと背格好が同じくらいであった叔父は、父が言った通り、自分の見た目の年齢と同じ頃に亡くなったのだろう。そして、「僕の大事な君のお父さん」とンンに言った。きっと叔父にとって、父はその言葉通りの大切な者であったに違いない。肉親からの愛を受けた覚えが無いンンにとって、それは酷く羨ましい事ではあったのだけれども、彼の言葉を信じて良いのならば未来で死んだ父にとって自分も大切な者であったのだ。死んだ者の魂は現世に留まる事があってはならないのにそれを捻じ曲げてまで自分を守ってくれた叔父に、ンンは心の底から感謝した。
「はるかなる恋の行方も知れず〜、故郷も失いし白鷺の姫は〜…
 …あれっ?グレゴどうしたの?泣いてるの?」
その時、呑気に歌を歌いながら天幕に入ってきたノノがきょとんとした顔で首を傾げ、不思議そうにグレゴとンンを見た。慌ててもおらず驚いてもいない辺り、変な所で冷静だ。
「あ、えっと、お母さん、あの… …わっ」
「わあっ!ど、どうしたのグレゴ、いやなことあったの?」
「…っく、…うぅ、……ふ…っ」
おろおろしたままンンが状況を説明しようとしたのだが、それよりも先にグレゴが突然立ってノノを抱き締めてそのまま座り込んでしまったので、ノノもンンも目を丸くする事しか出来なかった。嫌な事ではない、と言いたくても声が出せなかったのだろう、首を何度か横に振っただけで、彼は何も言わなかった。
どうしよう、とンンは両親の側に立って自分も泣きそうになってしまったのだが、彼女が泣くよりも先にノノが何だかご機嫌そうににこにこ笑いながらグレゴの広い背を撫で始めた。そしてちらとンンを上目遣いで見ると、同じくにっこりと笑った。それだけでンンは、母が大丈夫と言いたいのだと分かった。
「グレゴ、うれしいことがあったんだねえー。
 あとでノノにも教えてね?」
「……、……っ、」
「でも、グレゴのお話だけじゃノノわかんないかもしれないから、
 ンンも一緒に教えてね?」
「…あ、 …は、はい、です」
ノノが優しく宥める様にグレゴの背を擦りながら言った言葉に、彼は洟を啜りながら何度も頷いた。何故母には「嬉しい事」と分かったのか、ンンにはすぐに分からなかったのだが、ノノのお願いにこくりと頷いた後に、においだ、と漸く理解した。
ンンには、相手が何を思っているのか、感じているのか、においで判断する。笑っている者でも鼻を焼く様な熱さの怒りのにおいがすれば心の中では酷く怒っている事が分かるし、逆にむすっとした表情をしていても何となく甘酸っぱい様なにおいがすれば照れているのだと分かる。今の父からはすこし冷たいけれども甘やかで優しいにおいがした。悲しさの混ざった、しあわせのにおいだ。だからノノは「嬉しい事があった」と判断したのだろう。
何をしたら良いのか分からず、立ったままでいたンンに、ノノは手招きをして側に座らせる。そして片腕をグレゴから離すと、その腕でンンもぎゅっと抱き締めた。驚いたのはンンだ。
「かなしいことはね、みんなで分けっこすると早く元気になれるんだよ?
 おんなじように、うれしいことをみんなで分けっこすると、みーんなうれしくなるの!
 だから、ンンもグレゴのうれしいをもらおうね!」
「…は、はい、です」
まるきり子供の様に見えるノノは、それでも千年という長い時を生きてきたからなのか、姿形とは裏腹にその時は酷く大人びて見えた。その事にンンは驚いてしまったのだけれども、2人の間に入っても良いのだ、父に近付いても良いのだと初めて思えて、まだ父が嗚咽を噛み殺して母の肩に顔を埋めたままである事を良い事に、そっと彼に凭れ掛かった。父からも母からも、ンンの大好きなしあわせのにおいがしていた。



「っあー…悪ぃな、何かいきなり泣いて…」
「い、いえ…お気になさらず、です」
一頻り泣いて落ち着いたのか、すっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干して一息吐いたグレゴは物凄く罰の悪そうな顔を片手で覆って項垂れた。よりにもよって未来から来たとは言えその世界の自分の娘の前で号泣した事が今になって恥ずかしくなったのだろう。別の意味で気まずくなったンンは、同じ様に冷えきった紅茶を一口啜った。ぬるくなったアイスティーだと思えば飲めない事は無い。
「でもすごいねー、グレゴの弟が助けてくれたなんて、ンン良かったねー!」
「は、はい、…良かったです」
「…そーかぁ」
一通りの説明をグレゴを宥めながらノノはンンから聞いていて、純粋にすごいすごーい!と喜んだ。死んだ叔父に助けて貰っても、死んだ両親に助けて貰った事は無かったが、そこまで命の危険に晒された事は無かったから不満に思う事は無い。
「良いなー、ノノも会ってみたかったなあ」
「…お母さんが来た途端に、行っちゃったです…」
「えー!何でだろう?」
「それは私にも分からないのです…」
ノノが羨ましそうに両手で頬肘をつきながらンンとやり取りしているのを見ながらグレゴは口許に手をやって暫く黙り込んでいたのだが、何か思う所があったのか、やがてぼそっと呟いた。
「…見られたら、俺の弟って分かっちまうかも知れねえって思ったのかもなあ」
「え?似てるの?」
「いやー…似てねえけど」
グレゴの答えにンンが首を捻ってしまう前に、本人が否定する。言っては何だが、確かに父と叔父はお世辞にも似ているとンンには思えなかった。その娘の微妙な顔付きに、グレゴも微妙な顔付きになる。傷付いたのかも知れなかった。それが申し訳なくて、でも謝るのもおかしい気がして、ンンはそのまま黙っていた。
ただ、あの優しい目は似ていると思う。碧の混ざったアッシュグレーの穏やかなあの瞳は、確かに父のものと同一であった様にンンには見受けられた。
「何つーか、似てねえけど、あーこいつ身内なのかなって思う事ってねえか?
 確かに俺と弟は似てなかったけどよ、兄弟かは良く聞かれたんだよな」
「じゃ、何で弟ってバレたくなかったんだろう?」
「んー…俺の弟だってお前が知ったら、俺んとこに連れて行くかも知れねえからかな。
 何時までも未練引き摺らせたくなかったんだろ」
あの目を見れば、確かに身内なのかと思う可能性はある。考えたら髪の色も同じであるし、笑い方が少し似ている様な気がして、ンンは1人で納得していた。
叔父は、ンン以外の人間に見付かる前に姿を消した。それは確かに、父に見付かる事が無い様にと考慮した結果なのかも知れない。少年の姿の叔父は僕は戦えないと言っていたから、父が言った守れなかったという言葉と合わせると、幼い頃から戦う事を余儀無くされていたンンや未来から共に来た仲間達と違って戦闘経験も無く、自衛出来ずに殺されてしまったのだろう。それを父は、今でも悔やんでいる様だった。
「じゃあ、今度どこか高い山にでも登って、お空に向かってお礼を言おう?
 もうお空に帰っちゃったかもしれないから、ちゃんと届けたいもん」
「………そうだなー」
「あー、グレゴ、高いところイヤなんでしょ」
「高ぇとこはなあ…ま、でも、今回ばっかりはなあ」
ノノの提案に妙な間を開けて答えたグレゴは、図星をつかれたからか渋い顔をした。竜に変身して空を飛ぶ事が出来る母と結婚したのだからてっきり高い所も平気なのかとンンは思っていたのだが、どうやら違うらしい。伝え聞いた事のある父の姿とはまた違った、とても身近に感じられる存在が、彼女に嬉しく思わせた。
「…あのよぉ、ンン、未来の俺もノノもお前の事守る前に死んじまったみてえだし、
 今回もお前の叔父さんに手ぇ焼かせちまったけどよ…
 けーど、これからはちゃーんと俺達が…、
 父さんと母さんが、お前の事守るからな」
そして罰が悪そうな顔をして短く刈り上げられた項を擦っていたグレゴがやおら真面目な顔付きになり、そんな事を言ったものだから、ンンはびっくりして目を丸くしてしまった。ノノはンンに対して自分はお母さんだと言った事はあるけれど、グレゴは今の今まで自分を指して父さんだと言った事が無い。それは、漸く彼が父親の責務を自覚した瞬間だったのだ。
グレゴは、ンンが未来の自分の娘だと知った時から、ある種の恐怖を彼女に対して抱いていた。距離を測りかねている最大の原因は、多分そこなのだ。ただ、その恐怖の原因が何であるのかはンンには分からなかったし、恐らくグレゴも今はまだ話してはくれないだろう。
だが、娘として受け入れてくれた今なら。何の躊躇いも無く、戸惑いも無く、父と呼んでも大丈夫なのだ。近い将来、両親の間にはこの世界で生まれてくるべき娘が設けられるのだろうけれども、それまではお父さんお母さんと呼べるのだ。そう思うと嬉しくて、だけど泣いては2人が困ってしまうから、ンンはぐっと涙を堪えた。…堪える子供に育ってしまっていたからだ。
「わ、私は強い子です…守ってもらわなくても、足手まといには、ならないです」
「知ってるさ、何たって俺とノノの娘だもんなあ。
 けーど、俺達だって親のメンツってもんがあんだよ。なあノノ」
「そうだよー!ノノ、ンンのこと守りたいもん!
 せっかく会いに来てくれたんだから、いーっぱい甘えてね!」
泣き腫らした目でニッと笑った父と、明るい表情で笑った母は、ンンの記憶の中に居ない両親は確かに存在したのだと教えてくれた。2人はまだ生まれてきてもいない娘の未来の姿である自分を、無条件に受け入れてくれている。良い子である必要は無い、甘える事を知っても良い、そして頼る事を覚えても良い、そう言ってくれている気がして、ンンはぎゅっと目を瞑ってこっくり頷いた。
「よーし、じゃあ、今日は親子3人で寝てみるかー。
 俺は深夜番だから途中で出るけど」
「明け方には戻るでしょ?だったらノノ達が起きる時には居るよね?」
「だなー。お前起きるの遅ぇしなー」
「むうー、ちゃんと起こしてくれたら起きるもん!」
「本当かあ?いっつも起きねえじゃねえか」
「起きるもーん!」
「……… …ふふっ」
親子の天幕が与えられているとは言え、ンンが遠慮してまだ同じ天幕で休んだ事が無い事を受けてグレゴが思い付いた様に言った言葉で、両親が軽い言い合いになったのを見たンンは、思わず苦笑してしまった。子供の様に見えてちゃんと大人であった母は、矢張りこういう時は子供臭い。しかし父は、そんな母と楽しそうに受け答えをしている。未来では見る事が出来なかった、幸せの光景だ。


―――君とお母さんとお父さんが仲良く過ごせる事を願ってるからね。

―――はい、私もそれを心から願っているです。


優しい瞳と声は、顔は似ていなくても確かに父のそれと似ていた。自分を守ってくれて、そして父との距離を近付けてくれた叔父に心の中で感謝しながら、ンンは苦笑した自分を不思議そうに見た両親に向かって肩を竦め、何でもないです、と笑った。



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