薄曇りの陽光の下、山の緩やかな傾斜で野草を摘む人影が一つ。麻布で作られた袋の中に、手際良く見分けて必要な野草を必要なだけ摘んでいく。以前使っていた袋よりも一回り大きな袋になってしまったのは、特に意味は無い。…無い筈だ。彼女はそんな事を思う。しかし袋の中に入っている野草の量を見て、彼女の眉間には自然と皺が寄ってしまった。
 自分一人で煎じて飲むには、この量は多すぎる。否、乾燥させれば日持ちもするし、本来はそうやって保存するものであるのだが、彼女は新鮮な生葉を煎じて飲む事を好む。従軍していれば野草を採取する事もままならないので乾燥させる事も多くなったのだが、それにしてもこれは多すぎる。彼女は顰めっ面をしたまま、今日はこれくらいで止めにしておこうと立ち上がった。そして、摘み過ぎたのなら別に誰かに分けても不自然な事ではないと考えてしまった自分に気付き、彼女は更に苦い顔になる。

――どうかしているわね。馬鹿馬鹿しいわ。

 そんな事を独りごちた彼女は、踵を返して傾斜から見える天幕の群れの方へと戻って行った。野草が生えていたその場は、しかしそれなりに彼女が摘んだ量があるにも関わらず、摘まれた痕が分からない程の茂り方をしていた。



 タグエルであるベルベットは、基本的に人間という種族を嫌っている。それは自分の里を完膚なきまでに滅ぼされてしまったからという事が最大の原因だ。遠い昔、彼女の先祖は人間に迫害され追い遣られ、行き場を失くしたところに時のイーリス聖王が手を差し伸べて彼らの居住区を提供した。人間は自分を含め愚かで浅ましい、故に同じ事を繰り返すかも知れないので、不便かも知れないが自国の人目につかない様な土地をあなた方に提供したいと申し出てくれたのだ。それからと言うもの、タグエルの者達は聖王からの恩を返す機会をずっと伺っていた。時の聖王は、人間であろうとなかろうと種族は違えど同じ世界で生きる者なのだから争ってはならないと説いていた様であったが、長い年月がその教えを人間から薄れさせていった。
 確かに自分達タグエルは人間から迫害されたけれども、人間の中にも良い者は居ると、タグエルの里の長老でありベルベットの母親であった人は言った。しかしベルベットは、今でも母のその言葉を心からは信じられない。彼女は故郷を滅ぼされ、弟と母を亡くし、そして仲間を全て喪った。一人ぼっちになってしまったのだ。挙句、人間の手から手へと愛玩動物として売り渡され、彼女の人間への不信感というものは強固なものと変貌した。
 しかしそれでも先祖が聖王から受けた恩というものは返さねばならないと彼女は思っていたから、売り飛ばされた先のペレジアの商家から逃げ出し、たまたま知り合った呪術師からエメリナが殺されるという話を聞いてイーリスへと向かったのだ。かなりの距離があって苦労したし、ここまでせねばならない事なのかとも思ったが、それでもエメリナ暗殺を阻止する事は出来たので、恩を返せて良かったとベルベットも胸を撫で下ろした。しかしこれでもう人間と接触しなくても良いかと思っていたものの、エメリナの弟であるクロムから直々に頭を下げられ力を貸して欲しいと頼まれたので、彼女は渋々従軍する事になった。
 だが、そのエメリナは結局喪われてしまった。人間同士の下らない争いの中で、死んでしまったのだ。どうして人間というのは本当に下らない事で殺し合うのかしらとベルベットは呆れたが、それ以上にタグエルである自分に対して深々と頭を下げ、涙ながらに謝罪してくれたエメリナが死んでしまった事が殊の外ショックだった。人間は信じられなくても彼女なら信じても良いと思えた者であったのに。
 それからと言うもの、ベルベットは暫く見ていなかった悪夢を見る様になってしまった。里を滅ぼされた時の夢を、母と弟を目の前で殺された時の夢を、また見る様になった。夢見が悪くては疲労も抜けないし、何より後追いをしてしまいたくなるので、ベルベットは行軍途中で見知った野草を摘んでは煎じて飲む様になった。里で暮らしていた時は良く野草を友人や家族と一緒に採取しては乾燥させて茶を淹れていたものだ。
 自分が淹れている茶を興味深く見ていた者が居たという事も、ベルベットは気付いていた。しかし、極力人間との接触を避けようとしていた彼女はその視線を敢えて無視していた。自分から孤独を選び、人間に対しての敵意を誤魔化さないベルベットを快く思わない者も居たが、別に彼女はそんな事はどうでも良かった。だから、いつも一人で野草を摘んでは煎じて飲んでいた。
 だが、最近ベルベットが茶を淹れてやる様になった人間が居る。その人間もどうやら悪夢を見るらしく、道理で時折目の下に隈がある筈だと彼女に思わせた。最初はベルベットが落とした野草の袋を渡そうとしたらしいのだが、体を強ばらせて話し掛ける事もしようとせず、それでも付かず離れずでついて来るものだからうんざりして尋ねてみると、体が竦んで上手く話せなかったなどと言ってきたので流石の彼女も少し傷付いた。人間に差別される事など日常茶飯事であったのに、仮にも同じ共同体で行動している人間からそんな事を言われるとベルベットだって気分は良くない。だからその袋はあげると言ったのに、義理堅くもその人間は日を改めて再度返そうとしてきた。その時に、タグエルが怖いのではなくて女が怖い、昔の悲惨な記憶を夢に見るとベルベットにぽつりと言った。
 ベルベットは、まさか殆ど話した事が無い様な人間からそんな弱音を聞く事になるとは思っていなかった。だから表情には殆ど出さなかったけれども驚いていたし、何より自分と同じ様に悪夢に魘されるのだと聞き他人事とは思えなくて、だから投げて寄越された袋の中の野草を煎じて飲ませてやった。ベルベットが良く採取する野草は安眠効果があり、精神を安定させてくれるのだが、果たして人間に対しても同様であるのかは分からなかったから一か八かであったけれども、幸いにも効果はあったらしい。飲ませた翌朝に見かけた時には目の下の隈も消え、穏やかな表情をしていた。…戦の最中に、穏やかな表情をしているのも考えものではあるのだが。
 その人間の名はロンクーと言った。ベルベットは興味が無かったので最初は何と言う名なのかさえ尋ねなかったが、他の者達が呼んでいるのを聞いて覚えた。珍しい名前であるのですぐには覚えたが、呼ぶ気にはなれなかった。ペレジアの暗愚王を討つ為、再度進軍している最中に彼は時折茶を飲みに来ていたので、自分も飲むものだからと煎じて飲ませていたものの、ベルベットはロンクーの名を一度も呼んだ事が無い。その事に対して彼は特に何も言わなかったし、何より彼は女が苦手であるものだから、茶を飲んでいる時も二人は離れて座っていた。
 耳が良いベルベットは、離れて座っていても微かにではあるがロンクーの鼓動が聞こえる。最初の頃に比べると随分落ち着いたものになっているが、それでも平常のものとは思えない。彼は常に冷静であろうとするし、動揺せぬ様にと気を配っているから、女が近寄らなければそこまで鼓動が速くない。なのに、性別女が近寄っただけで途端に速くなるのだ。そこまで興味がある訳ではなかったから詳しくは聞いていないが、恐らく彼が言った「昔の悲惨な記憶」と関係あるのだろう。
 そんな事をぼんやり思いながら、ベルベットは張られた天幕の群れの方へとゆっくり向かう。夕食の支度をしているのか、良い匂いが辺りに漂っていて、その匂いが彼女の鼻孔をくすぐって空腹を刺激する。生きている証拠だわね、と何となく口許で笑ってしまい、なるべく人が居ない方へと足を向けていたのだが、夕食時の見回り当番になっているのか件のロンクーが剣を携えて野営から少し離れた所を歩いていた。が、特に声を掛ける事も無いだろうとベルベットがそのまま行こうとしていると、彼がこちらに気が付いたのだろう、顔をこちらに向けて立ち止まった。それでも声を掛けあぐねているのか、困った様な顔をしただけだったので、ベルベットはちらと目線を寄越しただけで特に何も言わなかった。
「…おい、一人で野営を離れるな。危ないぞ」
 ふい、と顔を背けて行こうとすると、やっと踏ん切りがついたのか遠くからではあったのだがロンクーがそう言ってきたので、ベルベットも立ち止まって手に持っている袋を掲げて見せる。
「野草を採りに行っていたのよ。最近誰かのお陰で減るのが早いから」
 事実ではあるのだが刺のある言い方だと、ベルベットも自覚している。しかしロンクーはその言葉を聞いて気まずそうな顔になり、何か言おうと口を開いたのだが結局また真一文字に閉ざした。距離がそれなりに離れているので彼の心音はベルベットには聞こえなかったけれども、その表情からして緊張しているというのは分かる。
「心配しなくても誰にも迷惑は掛けないわ。それに、どうせ私一人居なくなった所で誰も困らないでしょうから」
「………」
 肩を竦めてそう言うとロンクーは眉を顰めたのだが、何も言わなかった。その通りだと思ったのかそれは違うと言いたかったのか、それはベルベットには分からない。しかしどちらであろうと彼女にとってはどうでも良かった。
 ベルベットは自分が十分な戦力になっているという事は自覚していた。獣化すれば敵方は驚き怯む者も少なくないので、ある程度の威嚇にはなる。また、体が大きくなるので標的にされやすく、それ故に囮になるには最適なのだ。しかし竜に変身出来るマムクートとは違い、タグエルは蔑視されやすい。自分達人間より強い力を持つ者を畏れ敬うのと迫害するのとでは大きな違いがある。この軍に居る者からは一言も言われた事は無いけれども、敵から侮辱的な言葉を吐かれた事もあって、何故そんな仕打ちを受けてまで自分がこの軍に居なければならないのかと思う事だってあった。そもそも、もうタグエルの仲間は居ないのだ。
 たった一人生き残って何になると言うの、と、常々彼女は考えている。生き延びてしまった、そして人間に屈辱を与えられながら生き恥を晒し、それが一族の者達を落胆させてはいまいか。そんな事をベルベットは思い、少しだけ目を伏せた。ロンクーは相変わらず黙ったままであったから、これ以上話す事もあるまいと彼とは反対の方へと一歩踏み出すと、彼女の背に低い声が投げられた。
「―――ベルベット」
 僅かではあるが、その低音はベルベットの死んだ弟のそれに似ていて、彼女は思わず足を止めてしまう。しかし動揺していると勘付かれても癪なので何気無いふりをして緩やかに振り返ると、ロンクーはやはり困った様な表情をして言葉を探っていたのだが、ベルベットが何、と言いた気に少し眉を顰めたのでやっと口を開いた。
「…野草を摘みに行くのに野営を離れるなら、俺を呼べ。見張りくらいはする」
「…別に、いらないわよ。自分の身くらい自分で守れるわ」
「お前が俺達を信用しようがしまいが、それはお前の勝手だ。好きにすると良い。
 …だが、お前を信用している者が居るという事は忘れてくれるな」
「………」
「野営を離れる時は俺を呼べ。…呼び止めてすまなかった」
 ロンクーの申し出が余り有難くなかったのでベルベットは断りを口にしたのだが、彼が至極真面目な顔でお前を信用しているのだから危ない真似はするなと暗に言ってきたので、面食らって黙ってしまった。そんなベルベットに念押しをする様にロンクーはもう一度、今度は拒絶を許さぬ様な口調で野草摘みには同伴するという旨を伝え、彼女に背を向けて行ってしまった。残されたのはベルベットだ。
 確かに彼女は、今でも人間を信用していない。従軍する様になってからも主要な戦士達は気さくに話し掛けてきてくれたし、それなりの受け答えはしてきたけれども、軍の人間全員がそうであるとは限らない。中には明らかにベルベットを見下す者も居た。良い人間も居れば悪い人間も居る、という事を、ベルベットは改めて知ったのだ。
 自分を信用してくれている人間ならば、信用しても良い。そうは思うが、ロンクーは本当に信用しても良い相手なのか、ベルベットにはまだ分からない。それでも、初めから疑って見ていては前進など出来るまい。そう判断したベルベットは片手に持っている麻の袋を見ながら、袋の中身が無くなるまでにはそれなりに時間が掛かりそうではあるが次に野草を摘みに行く事になった時はロンクーを呼び止めようと思っていた。



「…ところで、お前はこれからどうするんだ」
 ペレジアとフェリアの国境付近の荒野で暗愚王と名高いギャンレルを討ってから、イーリス軍の中でもクロム達イーリス出身の者達は凱旋する為、一旦フェリアで体を休めてから帰国する事となり、数日間は東フェリアで過ごしていた。西フェリアの人間であるロンクーはバジーリオの代わりにクロム達を見送る為、東フェリアへと派遣されている。強さに重きを置かれるフェリアでは、どちらかと言えば内政は王が不在であってもある程度は臣下達が判断して執政の指揮を執るのでバジーリオが東フェリアに滞在していても良かったのだが、ペレジアとイーリスの戦争が終わった事やフェリアの軍隊もそれなりにダメージを受けた事を鑑みて、今は王様業に専念する事にしたらしい。
 その東フェリアには、イーリス国やフェリア国を故郷とする者だけでなく、国籍を持たぬ者も滞在していた。ベルベットもその内の一人で、身の振り方を考えねばならなかった。マムクートのノノは、ギャンレルが死んだとあってもギムレー教が無くなった訳ではなく、故にまた狙われる可能性もあるかも知れないからという理由で暫くはイーリスに滞在する事になったらしい。呪術師のサーリャは故郷に弓引いた形となる為にイーリスへ亡命する事になったらしく、イーリスへ戻れば正式に軍師として就任する事となったバーブチカにべったりとくっついて離れないそうだ。裏稼業である盗賊のガイアや傭兵のグレゴも、バーブチカが打診して短期ではあるが雇用される事となったとベルベットは聞いている。だからベルベットだけが、これからどうするかを考えなければならなかった。どうもバーブチカはベルベットもイーリスへと来ないかどうかを尋ねたかった様なのだが、彼女もそれを聞いて良いものなのかどうか分からなくて、取り敢えずはこの東フェリアまでついてきた。
「さあ…どうしようかしらね。タグエルの仲間が生き残ってないかどうか、探す旅にでも出ようかしら」
 手持ちの野草が無くなってしまった為に、呼ぶ必要は無いとは思ったものの、ベルベットは東フェリア城の鍛錬場で一人で素振りをしていたロンクーに野草がありそうな場所を教えて欲しいと声を掛けた。彼女はフェリアの事など殆ど知らないので、どんな野草が生えるのかも知らないのだ。ロンクーも東フェリア地帯の事は余り詳しくないのか、ライミに尋ねて教えて貰ったらしい。…彼の女嫌いを考えれば、それはかなり勇気が要る行動であったに違いないが。
 そんな彼に連れられて東フェリア城の近辺の低い山まで採取に来ていたベルベットは、野草を摘んでいる自分からそれなりに離れた所で座っているロンクーから尋ねられた質問に顔も向けずに答えた。タグエルの里は自分達が住んでいたあの里しか無い筈であるので仲間が居るとは思えなかったのだが、それでも僅かな可能性があるのならばそれに賭けたいとは思っていたから、本心からそう言った。今更一人で生きる事になったとしても彼女にとっては特に不便は無いし、また引き止める者も居ない筈であったから、クロム達を見送った後はあてもなく放浪の旅へと出るつもりだった。否、クロムはともかくとしてもバーブチカは国籍が無い者を欲しがっていた様子であったから引き止められるかも知れないのだが。
「…お前の身の振りを決めるのはお前の自由だと、俺は思うが…、フラヴィアが、お前を暫く側に置きたいらしくてな」
「…フラヴィアが?何故?」
「ライミを見たら分かるだろう、あいつは強い女が好きでな。お前を気に入ったらしい」
 この東フェリアの王であり、新しい統一王となったフラヴィアは、バジーリオと同じ様に男女問わず強い者を好む。しかし自身が女性であるからか、女性戦士を積極的に使役した。戦士であっても矢張り女性は女性で、男よりも細やかな所に気が付く。執政もそういう細やかさが必要な時だってあるので、フラヴィアは地方に派遣する者の中に必ず一人は女性を混ぜた。ベルベットもさばさばとした性格のフラヴィアの事は好ましく思っていたから、正式に請われれば考えなくもないと思った。
「タグエルが王の側に居て、不都合は無いのかしら」
「…フェリアは力が第一だ。お前の実力を見れば皆黙るだろう」
 イーリス軍に居た時もそうだが、トップが気にしていなくても配下達が気にしないとは限らない。だからベルベットがフェリアの統一王の側に居てはフラヴィアの立場が悪くなってしまわないかという思いはベルベットにはある。しかし、ロンクーは静かにそれを否定した。確かにこのフェリアは強さを重んじるから、人間かタグエルかという区別をしない様な気もする。誰かに似ている、とベルベットは思った。
「強いか弱いか、しか無い訳ね。貴方に似ているわ」
「…俺に?」
「貴方には男か女か、しか無いでしょう? 人間かタグエルか、ではなくて」
「……… …悪かったな」
「責めてないじゃない、被害妄想が激しい男ね」
 その気風は、正しくロンクーと似ていた。本当に、彼の中の区別は「男か女か」しか無い。未だにベルベットが近寄れば体を強張らせるし、その所為で彼女はロンクーに茶を淹れてやる時はわざわざカップを置いて離れてやらねばならない。手渡す事も無理なのだ。しかし彼女はロンクーの、男か女かの区別しか無いという部分は嫌いではなかった。タグエルだからと言って特別扱いもせず、プライドもそれなりに高いだろうに素直にベルベットに対して悪夢に魘されるという弱さを話した。彼女と同じで一人の静かな時間を好むロンクーは、それでも時折野草を摘みに行くベルベットが声を掛けると黙ってついて来てくれるのだ。自分にも淹れてくれるものだからと思っているのかも知れないが、渋々付き合ってくれている訳でもなさそうであるので、ベルベットも遠慮した事が無い。
 拗ねた様な顔をしたロンクーにベルベットは思わず笑ってしまったのだが、袋の中の野草がいっぱいになった事を確認すると立ち上がり、漸く体も彼の方へと向けた。
「いつもとは違う野草だけど、似た様な効能はある筈よ。後で煎じて淹れてあげるわ」
「…そうか、礼を言う。…苦いのか?」
「苦いわよ」
「そ、そうか…」
 所が変われば育つ植物も変わるので、以前煎じていた野草とは違う野草であったのだが、ベルベットが知っているものだったから彼女もほっとした。それでも苦い事には変わりなく、ロンクーの質問に簡素に即答すると、彼はまだ飲んでもいないのに渋いものを食べたかの様な顔をした。飲む度に苦いと言うロンクーは、それでも心が落ち着くと言って、飲んだ後は暫くベルベットと二人で沈黙を楽しんだ。最初はその沈黙も気まずいものだったのだが、最近は既にその気まずさは無い。お互いがお互いに干渉せず、安眠に就く為の平穏を味わっていた。
「…それで、どうするんだ?」
「どうって? …ああ、フラヴィアへの返事?
 そうね、前向きに考えるわ。フラヴィアから言われたら、の話だけど」
「…そうか」
 ベルベットが先を歩き、彼女から少し離れてロンクーが歩く。来た道を戻るだけなのでベルベットも覚えてはいるけれども、ロンクーは彼女と肩を並べて歩くという事が出来ないから自然とこういう歩き方になってしまう。面倒臭い男ねと思ったが、今更だ。
 そして再度尋ねられた質問に答えると、彼が小さく息を吐いた音が聞こえた。安堵したらしい、というのは分かるが、何故ロンクーがそこで安堵したのかベルベットには分からなかった。だが、すぐに得心する。フラヴィアがベルベットに滞在を申し出ようとしている事を知っているというのであれば、彼女がロンクーに対してそう漏らしたという可能性が高い。ならば、フラヴィアがロンクーに対してベルベットがどう考えているのかを探れと言っても不自然な事ではない。ロンクーは西フェリアの人間だが東西どちらだろうとフェリアに仕える剣士であるから、その命には従わざるを得ないだろう。そういうやり方は余り好きではないが、自分の実力を認めてくれているのは素直に嬉しいと思ったので、ベルベットはそれ以上の事を言うのを止めた。無闇に刺を逆立てる事もあるまいと思ったからだ。
「貴方は西フェリアでバジーリオの側近として働くのでしょう?
 もし私がこちらに残ったなら、時々野草を送ってあげるわ。煎じて飲みなさい」
「…あ、あぁ」
「煎じ方は分かるわよね? 煮立てて蒸らして濾すのよ」
「………」
「…後で淹れるから、それ見てなさい」
「す…すまない…」
 まだ東フェリアに留まると決まった訳ではないが、仮の話をベルベットが口にして野草の煎じ方を簡素に言うと、ロンクーからは沈黙が返ってきた。今までどうやってベルベットが煎じて淹れていたのかを知らなかったらしい。否、恐らく何となくは分かっているのだろうが、どれだけの水の量に対して野草をどれくらい入れるのかとか、どれくらいの時間煮出せば良いのかとか、そういう事が分からないのだろう。ベルベットは小さく溜息を吐くと、淹れ方を教える旨を伝えた。離れた状態でどれだけ教えられるのかは分からないが、困るのはロンクーであって自分ではないからベルベットは気にしない。
 顔を前に戻せば、西の空が夕日で茜色に染まろうとしていた。世界はこんなに美しいのに、何故人間はそれに気付かず醜い争いばかりをするのだろうか。彼女はそんな事を思ったが、例えば同じ軍の中の者同士でも反りが合わない事だってあるのだから、国が違ったり種族が違ったりすれば摩擦が強くなって戦争が勃発するのも無理は無い。生き残ってしまった自分がこの世界で何が出来るのか、それをこの国で考えるのも悪くないと彼女は思っていた。そんなベルベットの後ろを、ロンクーは黙って歩いていた。



 東フェリアから西フェリアへと道中で、ベルベットは見た事も無い野草を見付けた。フェリアの北部はほぼ一年中雪に覆われてしまうらしいのだが、主要な街道は寒くなる季節でないと降雪が観測されないらしく、その為道中の森の街道で珍しい野草を見付ける事が出来た。煎じて飲めるかしら、と摘んでから、彼女は腰に下げている麻袋の中に野草を詰め、また先へと歩き出した。
 クロム達がイーリスへ凱旋する為に出発する前夜、正式にフラヴィアから東フェリアに暫く雇われて欲しいとの申し出があり、ベルベットはそれを引き受けた。バーブチカは私もさっさと言えば良かったと苦笑したが、先に他の戦士達の雇用をしてしまった手前、それ以上の事は言えなかったらしい。私はイーリスに居るから時々会いに来るわね、とベルベットとしっかり握手したバーブチカには、立て直しが必要なイーリスという国の軍師になるのだという気負いは一切見受けられなかった。彼女は彼女なりの運命を背負っている筈だが、それを思わせない。そういう人間は好ましいと、ベルベットは思う。
 フラヴィアは、ベルベットを良く伴って東フェリアの大地を見せた。広大すぎて自分一人では到底見る事も出来ないから、あんたが手伝ってくれると有難いと言って地方の偵察も任せた。そして今回は西フェリアの現状の偵察と、バジーリオへ東フェリアの現状報告をする様に任され、西フェリア城へ向かっている。女一人での道中はいくら何でも危険だからとライミも同行してくれた。そこまでしなくても良いとベルベットは断ったのだが、フラヴィアもライミもいい加減後釜が育たなければ困ると笑い、ライミはベルベットの護衛の様な形で道案内をした。彼女やフラヴィアもまた、ベルベットをタグエルという枠組みではなくて一人の戦士として見てくれたから、幾分か気持ちが楽だった。やはり内心こちらを快く思っていない者というのは、表面には出なくてもタグエルであるベルベットは勘が良いのですぐに分かってしまう。本当に、悪い人間も居れば良い人間も居るのね、と彼女は純粋に感心してしまった。
 東フェリアのベルベットの元には時折、本当に時折であるが、西フェリアから手紙が来る。ベルベットが送る野草の礼なのか、ロンクーからの「受け取った」という内容のかなり素っ気ない書状だ。どこで習ったのか、かなり達筆な文字で書かれた手紙は小さな便箋にほんの二、三行のもので、特に取り置いておく程のものでもない。しかしベルベットは、何となくその手紙を捨てる気にはなれなかった。あの生真面目そうな男がどんな顔をして書いたのか想像するだけでも苦笑が漏れてしまう。否、生真面目だからこそ礼の書状がくるのだろうけれども、そういう事を余りしそうにないと思わせる男であったから、余計にベルベットの口許を緩ませた。
 クロム達を見送った後にロンクーがバジーリオと共に西フェリアに戻ってから一年は経とうとしていて、故にベルベットは彼と会うのは一年ぶりになる。だからと言って特に気分が浮つく訳でもないし、そもそもお互い悪夢を見るから野草茶を飲んで気を鎮めていただけだ。息災だと分かればそれで良い。
 ベルベットとライミが西フェリア城に到着したのは、東フェリア城を出発してから一週間後だった。流石に広大な国は同じ国内であっても移動に時間が掛かってしまう。横に広いフェリアは飛竜のハイヤーも多く、それを使う手もあったのだが、ベルベットが道を覚えたいという事とライミが余り飛竜が得意ではないという事もあって馬での移動となったので、到着するのが遅くなったのだ。
「よおベルベット、お疲れさん。ライミもご苦労だったな」
「お久しぶりです、バジーリオ様。お元気そうで何よりです」
「…貴方、良くその格好で平気ね。寒くないの?」
「ん? そりゃー、俺はいつでもここが熱いからな!」
 城で直々に出迎えてくれたバジーリオの労いにライミが後ろで手を組んで会釈をする。ベルベットは相手が王だろうが何だろうが態度は変わらないのでそういう事はしなかったのだが、以前から疑問に思っていた事を口にするとバジーリオは拳で胸を叩いて豪快に笑った。確かに熱苦しいわね、と彼女は思ったが、敢えて黙っていた。まだ雪が降る季節ではないとは言え、九の月が終わろうとしているフェリアの夕方に差し掛かる時間は寒い。それでもバジーリオは上着というものを着ないのだ。見ているこっちが寒いわ、とベルベットは眉を顰めてしまった。
「最初はイーリスだけだったみたいなんだが、西フェリアも屍兵が出る様になっちまってな。東はどうだ?」
「報告が上がってるわね。東部の山間部にも出てるというのが解せないのよ」
「イーリスとの国境近くの長城でも出現しております。大きな被害は今のところ無いのですが…」
「そうか…、何処にでも湧いて出る様になっちまったって事だな。
 ヴァルム大陸の動向も気になるってのに、頭が痛ぇなあ」
 エメリナを救出する為のイーリス天馬騎士団を全滅させ、彼女が身を投げる一因ともなった、生きた兵士ではなく屍兵と呼ばれる異形の者は、何が原因であるのかは分からないがフェリアでも出没する様になってしまった。東フェリアでも人が疎らな山間部での目撃情報、被害情報が出ており、その討伐の為にベルベットが派遣された事もある。これからは何処の国も頭を悩ませる事項になっていくのだろう。せめて原因が分かりゃ良いんだが、とバジーリオは綺麗に剃られた頭を撫でながら言った。
「ま、その辺はまた明日聞くか。二人共疲れてんだろ、今日はもう休んで良いぞ。
 客間を用意させてるから、そこで休め。飯は運ばせる様にしてる」
「は、勿体無いお言葉です。有難う御座います」
「特に疲れてないけど…お言葉に甘えさせて貰おうかしらね」
 ライミからフラヴィアの書状や東フェリアの現状報告書を受け取ったバジーリオは、再度二人に労いの言葉を掛けて休む様に言った。本当にフェリア内の移動というのは長距離になる為、疲労が溜まりやすい。ベルベットは元々山で暮らしていたので体力もあり、そんなに疲れてはいないのだが、バジーリオにも都合というものがあるだろうから大人しく従う事にした。
 客間に案内され、必要最小限のものしか持って来ていなかったベルベットは、荷物と言っても大した大きさでもない鞄を備え付けられた机に置く。道中、王の使者という事もあって宿屋に泊まる事もあったが野宿もしたので大きな荷物もあったけれども、それは全て城に入る時に預かって貰った。ライミは隣の部屋で休む事になり、ベルベットはやっぱり静かな所が一番落ち着くわね、と伸びをした。そして何気なく腰に手をやると、下げていた袋の存在に気が付いた。
 ベッドに座ってその袋を開け、中から野草を取り出してみる。横に広い緑のその葉を少し千切って口に入れてみると、多少苦いがベルベットの好みの味だった。煎じて飲むというよりは生葉を食べた方が良さそうだとは思ったのだが、他の野草とブレンドして茶を煮出してみようと思い立ち、袋の中の野草と均一に混ぜる。厨房を借りるにはもう少し時間が過ぎてからの方が良いだろうと判断したのは、今は夕食の準備に追われているに違いないと思ったからだ。
 そして袋を再度紐で閉じたベルベットは、ある男の事をはたと思い出した。そう言えばこの城に来てからロンクーの姿を見掛けていない。否、別に居なくても何ら不思議な事ではないし、会う必要だって無いのだが、目の下に隈を作っていないかどうかは知りたい気がする。ちゃんと煎じる事が出来ているだろうか。悪夢に魘されると休んだのに眠る前より疲れてしまうし、再度眠ろうにもまた同じ夢を見るのではないかと怖くなって結局眠れないし、良い事は何一つ無い。ロンクーがそうなっていてもベルベットには不都合など何も無いけれども、折角採取して送った野草が役に立っていなければ何となく彼女も気分は良くない。バジーリオからロンクーは今地方に派遣しているという言葉は出て来なかったし、ここに居るには居るのだろう、そう思ったベルベットはゆっくりと立ち上がって窓の外を見遣る。夕食が運ばれて来るにはまだ時間がある筈だ、姿を認める事が出来たらそれで良いだけだし、と、彼女は何故か自分に言い訳をする様に心の中で発言すると、充てがわれた部屋を静かに後にした。
 隣室のライミに一言声を掛けて、暫く空室にする旨を伝えて、ベルベットは西フェリア城の回廊を興味深げに見ながら歩く。東フェリア城の作りとはまた違った作りで、だが吹雪いても困らない様にと考えられているのだろうと分かる様な構造は似ていた。
 擦れ違う者達はベルベットを物珍しそうに見ていたが、彼女はそういった者達の視線を全て無視した。世界にはまだまだタグエルを見た事が無い人間の方が圧倒的に多いし、そもそも存在を知らぬ者だって居る。そんな者達の好奇の目に晒される事は、ベルベットにとっては何ら心を痛める事ではなかった。里を滅ぼされ、人間の手から手へ売り飛ばされている時は酷くつらいものではあったけれども、もうその痛みは麻痺してしまって彼女には痛みと感じられない。誰から何と言われようと、何と思われようと、誇り高く凛としていれば良い。
 探し人が居ると言っても、城というものは広大であるから見付ける事は難しい。見付からなければそれで良いと思ったし、見付かればそれはそれで幸運だったと思えば良い。途中から探すのも億劫になってしまって、人が余り居ない様な所に行こうと外に出る事にした。充てがわれた客間より、緑がある所の方がベルベットは好きだ。東フェリア城もそれなりに緑は多いが、負けず劣らずこの西フェリア城も多く、それが彼女に安らぎを与える。故郷の山の様で、ほっとした。
 そして中庭の回廊を通り掛かったその時、庭園は憩いの場となっているのか、数名の者達が思い思いの時間を過ごしている様を見る事が出来た。特にこれと言った仕事が無いのだろう女中達が可愛らしく何か話していて、ひそひそと微笑ましそうに何かを見ている。彼女達から死角になっているベルベットは、何の気も無しに彼女達の目線の先に視線を投げた。
「………」
 そこには、ベルベットの探し人の姿があった。こんな女の多い空間に良く居られたものだと普段の彼女なら感心しただろうが、その時のベルベットは何故か、本当に何故なのかベルベット本人にも分からなかったが、眉を顰めてしまった。探し人の傍らに、淡いピンク色の髪を頭頂部で結い上げた女性が居たからだ。否、それはまだ良かったのだが、二人の前に設えられた中庭のテーブルの上には茶器と茶葉の缶が置かれていて、淹れられたのだろう茶を探し人が―ロンクーが飲んでいた。若干緊張はしているものの、女性が隣に居ても然程動揺していない様に見受けられる。茶葉の缶はベルベットが知らぬものであったし、茶は煮出したものでもなさそうで、つまり今彼が飲んでいるものはベルベットが送った野草茶ではないという事だ。
 必要としなくなったのなら、それで良い。悪夢を見なくなるに越した事は無いし、女が苦手でなくなるのは結構な事だ。特にロンクーは将来的にはバジーリオの後継者となると考えられているらしいので、そんな男が女に近寄れないままであれば困るだろう。ひそひそと話をしている女中達からも、美男美女でお似合いよね、との囁き声が聞こえていて、確かにベルベットもそう思った。傍らに立つ女性は線も細く、格好からして踊り子だろう。引っ込み思案に見えるが、笑顔は花が綻ぶ様だ。何を話しているのかはわからないが、二人共楽しげに見えた。
 そんな睦まじい所にわざわざ声を掛けて水を差す事もないだろうと、ベルベットはその場からそっと踵を返す。野草は必要無い様であるし、気を遣わせない為にももう送らない方が良いだろうし、何よりそうする事によってベルベットがロンクーに会う理由が無くなるので、仮令フラヴィアから再度使者として派遣されたとしても今回の様に探さなくても良くなるという訳だ。全く以て結構な事ね、と、彼女は冷たい回廊を後にした。



 結局静かな場所を探している内に日が暮れかけ、そろそろ客間に戻ろうと部屋に向かう廊下を歩いていたその時、ベルベットの耳に不快な単語が滑り込んできた。
「半獣」
 …それは、ベルベットの様に動物に姿を変える者の事を人間が偏見を篭めて呼ぶ時に使うものだった。彼女は自分の種族の事をタグエルと呼ぶし、イーリス軍の者達もタグエルという呼称を使った。半獣という言葉が彼女を侮辱する事になると分かっていたからだ。しかしそのタグエルという単語を知らぬ者も多いし侮蔑の意味で使った訳ではないかも知れないので彼女が無視して歩いていると、今度は明らかに蔑みの色が混ざった声で同じ単語を背に投げられた。
「誰か知らないけれど、人間様は私に何か用なのかしら?」
 不愉快を覚えて振り返り、皮肉を篭めて尋ねてみても、廊下に居る数人の男達は返事をしない。中にははらはらとした表情の者も居たのでその男が言ったのではないとは分かるのだが、さばさばした性格のバジーリオが王である西フェリアでもこういう粘着質な事をやる者は居るらしい。関わるだけ時間の無駄ね、とベルベットがまたその男達に背を向けて歩き出すと、再度侮辱が飛んできた。
「何の用事も無えよ、半獣はとっとと山に帰んな」
 帰れるものならベルベットだって帰りたい。しかし帰りたくても、その帰る場所を奪ったのは人間だ。母を、弟を、仲間の命を奪い、略奪し、唯一生き残ったベルベットに死よりも酷い屈辱を与え、そして愛玩動物として転売したのは、人間なのだ。そういう差別的な言葉を投げられたり、態度に表されたりするのは慣れていた筈なのに、クロム達イーリス軍の者達の中にはそんな人間が余り居なかった所為ですっかり耐性が落ちてしまっていたベルベットは、低く笑う男の方へ思い切り振り返って怒鳴ろうとした。…のだが。
「我が王の大事な客将を侮辱したのは、お前か?」
 ベルベットと同じ様に所用で外に出ていて、客間に戻ろうとしていたのか、ライミが男達の後ろからこちらに歩いて来ているのが見えた。ベルベットだけならいざ知らず、ライミまでこの場に現れるとは思っていなかったのだろう男は、顔を青くして硬直していた。
「質問に答えろ。お前か?」
「…は、はい…」
「…イーリスのエメリナ王の言葉は西フェリアには伝わっていないか?
 たった一欠片の思い遣りが世界を平和へと導くと…
 東フェリアにも伝わったこの言葉、よりペレジアに近い西フェリアに伝わっていないとは思えないが」
「………」
「その思い遣りを我等人間が持たなかった所為で、ベルベット殿の故郷は失われた。
 たった一人生き残ったその辛さや苦しみを、お前は踏み躙った訳だ。
 武人として、人間としてあるまじき恥ずべき言動だと私は思うのだが、どうだ?」
 フラヴィアの側近を長年やってきたらしいライミは、確かに血気盛んなところもあるが、フラヴィアを宥め、諌めたりする役も務めている上に、イーリスで言う所のフレデリクの様な立場であり、東フェリアの軍の団長も務めている。管轄する国は違えど、自分の前で縮こまっている男の上官の様なものだ。男はベルベットが他言したところで目撃者が居なければばれないだろうと考えたのかも知れないのだが、ライミが居合わせた事が最大の誤算だろう。
「お前の処罰を決めるのは私ではない、報告も上げるかどうかを判断するのも私ではない。
 …お前が今真っ先にしなければならない事は何だ?」
「…しゃ、謝罪する事です…」
「分かっているなら直ぐにしろ。止めなかったお前達もだ。行け」
 ライミが顎でベルベットの方へ行く事を命じると、男達は重い足取りで彼女の前まで来て立ち、そして深々と頭を下げて謝罪した。ベルベットにしてみれば中には上辺だけの謝罪だと思う者も居たのだが、それ以上の追求をするのも拗れるだけであったから止めた。
「貴方達、ライミに感謝するのね。彼女が来てくれなかったら、変身して蹴散らしていたでしょうから」
「ベルベット殿の蹴りは重いぞ、私でさえ飛ばされるからな。…報告は如何する?」
「必要無いわ、こんな馬鹿馬鹿しい事でバジーリオを煩わせる事も無いし。それより私、早く部屋へ戻りたい」
「分かった。…今回は見逃してやるが、次は無いと思え。良いな」
「は…はいっ!」
 せめてもの意趣返しでベルベットが脅す様な事を言うと、ライミもそれを受けて口許でにやっと笑い、同意する。それを聞いた男達はまたさあっと顔を青くした。フェリアでは強さが重んじられる為、東フェリア王の側近であるライミが断言する程の実力を持っているとなれば、彼らはベルベットに対して平伏せねばならない。
 ベルベットが彼らに一瞥もくれずに背を向け歩き出し、ライミもそれに続く。男達はその二人の姿が見えなくなるまで頭を下げ続けていた。



 運ばれた夕食を少しは口にしたものの、全てを食べる気にはなれなくて、心の底から申し訳なく思いながらもベルベットは食べ残した食事を乗せた盆を厨房に返しに行くついでに、道中で摘んだ野草を煮出して茶にし、そしてまた客間に戻った。夢見が悪くなりそうな気がしたので淹れたのだが、初めて飲む野草茶であるから効能はどうであるかは分からない。しかし香りはほんのり甘く、悪いものではなさそうだった。
 心無い男達から言われた事は、まだベルベットの胸の中で蟠っている。本当に、帰れるものなら帰りたいし家族にも会いたい。母と自分を守ろうと盾となった弟と、最期まで自分を抱き締めてくれていた母に、もう一度会いたい。人間は引き揚げる際に火を放ち、ベルベットは命からがら逃げ出したものの、鎮火した後に戻れば里は跡形も無くなっていた。あの時の絶望感や喪失感は、今でも彼女に背筋を震わせるし悔し涙を浮かばせる。
 もう何処にも行けはしない。ただ一人生き残ってしまったという罪悪感と、何の為に生きているのかという虚無感が彼女を雁字搦めにして、身動きが取れなくさせている。人間に助けて欲しいとは思わないが、楽にして欲しいと思う事はある。

 家族と共に逝けなかった。
 仲間と運命を共にする事が出来なかった。
 生き恥を晒している私は、許されるのだろうか。

 手の中のカップの水面に映る自分の顔が歪んでいるのは、揺らぐ水面の所為だけではないだろう。心が乱れている証拠だ、と、ベルベットは一口茶を飲んだ。

『優しいんだな…お前は』

 その瞬間思い出した声に、彼女は酷く苦い顔をしてしまう。茶が苦かった訳ではない。思い出した声が、言葉が辛くて、そんな顔になってしまった。
 初めて話した時の様に、付かず離れず、ベルベットの心の中にその声はある。悪夢を見ない為の茶を淹れてやっていただけだし、相手もそれ以上の事は考えてなかった筈で、自分もそのつもりだった筈だ。なのに何故中庭で見た光景に心を乱されるのか、彼女には分からなかった。分かりたくもなかった。ベルベットはカップの中の茶を飲み干すと、サイドボードにカップをぞんざいに置いてベッドに体を横たわらせ、眠る為にそっと目を閉じた。



 フェリアの長い冬が訪れ、大地が雪に覆われる様になり、ベルベットは故郷に居た頃にも雪に触れた事はあったとは言えここまでの降雪を見た事が無く、最初こそ感嘆の目で見ていたものの、すぐに慣れた上にうんざりする様になった。降雪量は凄いと聞いてはいたが、建物が埋もれてしまう程の量とは思っていなかったのだ。道理で二階部分からの入り口がある住宅があると思った、と、ベルベットは東フェリア城の城下町を歩きながら、町民達が雪掻きをしているのを見ていた。
 一人で雪山に行くのは危険だ、とライミだけではなくてフラヴィアからも聞いていたので、冬の間に煎じて飲む為の野草は全て雪が降る前に摘んで乾燥させている。生葉を煮出した時の独特の青臭さというものがベルベットは好きなのだが、乾燥させたものも香りが良く、西フェリアへ行く道中で見かけた野草も甘みがあって美味しいので冬になる前に採取して乾燥させていた。だから彼女は、茶葉というものを買った事が無い。
 愛用している茶器を割ってしまったので好みの物を探していたが、中々これというものに出会えず、ベルベットは派遣される先々で茶器を見て回った。寒い時期に必要以上に歩き回っている所為なのか、はたまた慣れない寒さで体が参っているのか、この冬の間中、彼女はずっと体調が優れない。ベルベットがフェリアの者ではないと分かっているからフラヴィアもライミも気に掛けて、余り無理はするなと言ってくれているのだが、タダ飯食いにはなりたくないと自ら志願して地方視察も行なっていた。冬の間は屍兵も活動が鈍くなるのか、被害情報は少ないので楽ではあったのだが。
 一月半程地方視察に出ていたベルベットが東フェリア城へ戻る城下町で雪掻きをしている住民達を見ながら懇意にしている茶器の店に寄ると、店主は彼女に良い物が入ったよと言って見せてくれた。ベルベットが好みの形を言い、こういうものが欲しいと視察に出る時に伝えていたのだが、探してくれたらしい。提案された茶器は二つで、どちらも彼女好みであり、値段も手頃だったので礼を言って二つとも買った。
「お疲れさん、ベルベット。体調はどうだい?」
「良くはないけど悪くもないわ、有難う。こちらも随分と積もったのね」
「ああ、でも北に比べたらこれくらい可愛いもんさ。で、どうだった?」
 直々に出迎えてくれたフラヴィアのハグを受け、労いに礼を言うと、彼女は顔を引き締めて現状報告を促した。普段はそうも思わないが、こういう時は矢張り王なのだとベルベットは思う。バジーリオとはまた違った王の気質を持った彼女は、ベルベットに好ましく思わせた。
「寒さが関係してるのかどうかは知らないけど、屍兵よりもマミーが厄介みたいでね。田畑を荒らしてるみたい」
「ああ…そういやマミーも居たねえ…
 こっちへの年貢の上納率が低くなるのは仕方ないにしても、住民達の食い扶持が無くなるってのは痛いね」
 領地が広大なフェリアでは各地区を治める領主が居り、その領主が東フェリア城――領主達はそこを中央と呼ぶが――に税を上納する。その税は金であったり物品であったり様々だが、希望すれば一定期間中央で軍隊に所属し、その間の税はその本人のみであるが免除される。軍事は莫大な費用がかかるものだが、財政がパンクした事が無いという事を聞くと、納税が無理なものではないという事なのだろう。雪に閉じられる北の地方はどうするのかしらとベルベットも疑問に思った事があって、一度見に言った事があったけれども、その地方では楓の樹木の蜜が摂れるらしく、蜜の状態のものや乾燥させ結晶化させて砂糖の様な状態にしたものが世界的にも高級品として取り引きされているそうだ。作物が育たぬ不毛の地でも、人が住むには理由があるものなのだと彼女も感心した。
 もし、そういう地方で屍兵やマミーによる被害が広がれば、そこに住む者達の暮らしは一気に厳しくなる。フラヴィアも元は地方出身であるらしく、彼らの暮らしぶりというものは心得ているものだから、確かに戦いも好むがそれ以上に民が生活に困窮する事を嫌った。戦は無いに越した事は無いと考えているし、その上でどうやってこの広大な領土を守る為の軍事力を築いて維持していくか、と常に思案している。ベルベットはそんなフラヴィアが好きだった。人間にもエメリナやフラヴィア達の様に素晴らしい者も居ると、彼女に人間を信じさせる事が出来る様になっていた。
「西フェリアでも冬に入って作物が荒らされる様になったらしくてね。
 あっちもマミーの仕業らしいから、屍兵も凍えちまう事もあるのかねえ」
「そもそも屍兵の生態自体が謎だものね。どういうカラクリで動いているのかしら」
「そういう難しい事は私には分からないね、イーリスのバーブチカがミリエルと一緒に調べてるみたいだけど」
「あちらは元気なの?」
「みたいだよ。この間も書状が来たけど、イーリスも方々に屍兵討伐に軍を派遣してるそうだ」
「そう…」
 王の執務室に備え付けられている暖炉で冷えた体を温めながら、フラヴィアから西フェリアやイーリスの現状を聞く。屍兵などの被害に手を焼いているのは何処も変わらないらしい。冷えきってしまった手を揉み、揺らめく炎を見ながら、自分の里があった所もそうなってしまったのだろうかとベルベットは少しだけ顔を曇らせてしまった。静かであった里が人間に蹂躙されてしまった事を不意に思い出し、気分が落ち込んでしまう。最近、ベルベットにはそういう事が多かった。
「ま、暫くそこで温まって行きな。私はちょっと午後の訓練に出てくるから」
「…相変わらずね。程々にしておきなさいね」
「これから屍兵討伐にじゃんじゃん軍隊送り込まなきゃいけないんだ、扱いて鍛えないとね!」
 フラヴィアはそんなベルベットを一人にしておいてやろうと思ったのか、腰に挿していた剣の柄に手を置くと豪快に笑った。彼女の言う事は一理あるので、ベルベットも苦笑してそうね、と言ってフラヴィアの背を見送る。普通、王の執務室に王以外の者が一人で居るという事など滅多に無いのだが、フラヴィアはベルベットを疑う事など知らないかの様に何の躊躇いも無く執務室を後にした。
 この国に客将として招かれて、まだ一年も経っていないというのにベルベットは随分とフラヴィアの周りの者達の信頼を得た。それはクロム達イーリス軍でペレジア軍相手に戦士として戦っていたというのもあるのだろうが、タグエルである彼女の強さを純粋に好ましく思い、素直に敬愛の念で接してくれていて、西フェリアで罵声を浴びせた男の様な者もたまには居ても、概ね彼女は受け入れて貰えた。必要とされる様になったのだ。
しかし、それでも尚ベルベットは一族の、タグエルという種族の唯一の生き残りとして生きていても良いのか、生き恥を晒して許されるのかと悩んでいる。こんな風に自分を迎え入れてくれる場所があり、出迎えてくれる者が居てくれるのに、今のベルベットには自分の存在の価値が見出す事が出来ない。目の前の暖炉の火の中に飛び込んで死んでしまいたくなるのだ。
 このままでは駄目ね、と、ベルベットは頭を緩く降って、心を落ち着ける為に野草茶を淹れようと執務室を後にした。煌々と燃える炎は、しかし彼女の心までは温めてはくれなかった。



 自分に充てがわれている部屋から乾燥させた野草を入れている麻袋と、買ったばかりのカップが入っている紙袋を持ち出し、ベルベットは人も居ない厨房で小鍋を借りて野草を煮立てる。昼食も終わり、まだ夕食の準備も始まらない時間であったから丁度良かったと胸を撫で下ろした。彼女は沸騰してから火力を弱めてじっくりと煮出す方が好きなので、少し時間が掛かるのだ。行軍の最中はそんな悠長な事はしていられなかったのですぐに煮出して濾していたけれども、矢張り茶というものはゆったりと飲みたい。紅茶などは煮出しては風味が損なわれると言うが、野草茶は煮出して葉の成分を抽出する方が良い。煮出して、頃合いを見計らって火を止め、蓋をして蒸らす。野草の良い匂いが厨房に広がり、ベルベットの鼻腔もくすぐっていく。
 以前はこうやって茶を淹れている時も心が安らいだものだが、今は何故かその安らぎが無い。茶葉のブレンドが変わっただけでこんなに変わるものなのかしらと彼女は疑問に思ったが、思い起こせば行軍中は自分以外の者にも茶を淹れていた。誰かの為に淹れる事も少しは自分を安定させてくれていたのだと、今更ながらに彼女は知った。
 だが、その相手は既に自分が摘む野草を必要としない。西フェリア城で見た彼は、もう過去の記憶に苛む事は無いのか、女性が側に居ても大丈夫な様だったから必要無いだろう。ベルベットには、あんな風に距離を詰める事は出来なかった。…別に、詰めたかった訳ではないけれども。
「いよーぉ、ベルベット、ひっさしぶりだなー」
 蒸らし終えたので煮出した茶を濾していると、聞いた事がある間延びした声が後ろから投げ掛けられ、ベルベットは手を止めて後ろを振り返る。そこにはイーリスへと向かう時に比べて日焼けした肌になったグレゴが居た。何故ここに居るのかと真っ先にベルベットは疑問に思ったのだが、考えたら先程フラヴィアが西フェリアの現状を教えてくれたし、その報告をグレゴがしていてもおかしくはない。
「久しぶりね。イーリスに居たんじゃないの?」
「いやー、イーリスは、っつーかバーブチカは人使いが荒くてなー。
 イーリスからペレジアに行って、そっから西フェリアに入ってここ来たんだよ。
 イーリス騎士団の奴らをおいそれと国外視察に行かせる訳にもいかねえだろー?」
「…それもそうね」
 どうやらイーリスに雇われている形になる彼は、軍師のバーブチカに仰せつかって国外の現状を偵察しているらしい。確かに自国の状況を知るのも大事であるが、他国の内部が現在どうなっているのかを把握しておく事も大事だ。特にペレジアは国王を喪った訳であるから、内部の混乱がどうなったのかを知っておく必要がある。それを偵察するには、グレゴの様に国籍を持たぬ者の方が都合が良い。ベルベットがそんな事を考えながら濾した茶葉を引き上げ、カップに注いでいると、グレゴが横に立って顔を覗き込んできた。
「元気ねえなー、こーんな良い男が居るってーのになーに辛気臭ぇツラしてんだぁ?」
「…地顔よ、放っておいて頂戴」
「おっとと、つれないねぇ。お、野草茶か、俺も貰って良いか…
 って、おい、あんた、この葉っぱどうしたんだぁ?」
 あまり人間とは馴れ合いたくはないのだが、グレゴはイーリス軍に居た時からベルベットに馴れ馴れしい。ただ、伊達に年を取っていない所為か、ちゃんと人との距離の取り方というものを弁えていて、ベルベットが不愉快にならない様にと気を遣ってもくれる。そんな彼が濾した後の笊に入った野草の葉を摘み上げ、不可解そうな顔をした。
「どうしたも何も…摘んだから煎じて飲んでるのよ」
「摘んだ? この近辺でか?」
「…そうよ」
「んー…? おっかしいな、こりゃーペレジアとかの暑いとこに生える野草の筈なんだが…」
 その質問に対しベルベットが少しだけ眉を顰めて答えたのだが、グレゴは更に眉を顰め、顎に手をあてながら繁々とその葉を眺める。彼の言が正しければ、確かに熱帯地域に生える筈の野草が寒いフェリアで見付かるのはおかしい。雪が降る前に採取したとは言え気候も全く違うフェリアで採取出来たとなれば、生態系が狂い始めてしまうのではないか。何となく、ベルベットはそんな事を思った。
「おいベルベット、ちょーっとこっち向いてみろ」
「何だと言うの、鬱陶しいわね」
「良いからこっち向け」
「………」
 難しい顔をして黙ったベルベットにグレゴが自分の方を向く様に言ったのだが、彼女にはそれが煩わしく、だから嫌がったものの彼が真剣な声を出して再度要求してきたので、渋々と自分よりも背が高いグレゴを見上げると、碧が混ざったアッシュグレーの双眼でまじまじと顔を見られた。まるで、どこか不調な所を探すかの様に。
「やっぱりなー。あんた、かーなり体温低くなって内臓冷えきってるぜ」
「…え?」
「これな、体温下げる効能があるんだよ。
 ペレジアみてぇな暑い国で煎じて飲んだりサラダで食ったりするのは良いけど、
 フェリアみてぇな寒ぃ国で飲んだり食ったりすると却って悪ぃぞー?」
「…そうなの?」
「おぉ、体冷えると元気出ねぇし考えもなーんとなく後ろ向きになるしなー。止めとけ」
「………」
 そして言われた言葉に、ベルベットは目を丸くした。まさかそんな知識がある人間とは知らなかったし、気に入ったこの葉にそんな効能があるとも知らなかったが、確かに言われた通り、ベルベットは最近ずっと前向きな考えが持てなくなっていた。体調も優れず、休んでも体のだるさが取れなかったのはどうやら体が冷えていたからであるらしい。悪夢は殆ど見なかったとは言え、恐らくそれは夢を見る程の気力が無かったからだろう。普段はのらりくらりとしているこの男からの忠告を素直に受けるのは良い気分はしないが、従った方が良さそうだ。そう判断したベルベットは、濾してポットに入れた薬草茶を全て流した。
「…貴方に言われて止めるのは癪だけど、思い当たる事があるから止めるわ」
「素直じゃないねぇ。ま、素直じゃねえのはもう一人居るけどなー」
「…もう一人?」
「んー。おい、いい加減入って来い、なーに尻込みしてんだぁ?」
 ベルベットの言に苦笑したグレゴは肩を竦めながら、厨房の入り口の方を振り向く。つられて彼女も振り向くと、手には何か入っているのだろう紙袋を持って気まずそうな顔をして入り口に立ってこちらを見ている黒髪の男が居た。…タグエルであるベルベットに気配を悟られなかったのは流石と言うべきか。
「俺がこっち通ってイーリスに戻るっつったら、あんたによろしく言っといてくれって言われてなー。
 んなもん自分で言えっつって、連れて来た」
「…無茶苦茶じゃない、たかがそれだけの事で連れて来たの?」
「俺やあんたにはそれだけの事だろうけど、あいつにとっちゃそうじゃねえみてだからなー」
「…?」
 高々社交辞令の挨拶を言わせる為に連れて来たと言われては、ベルベットも呆れた顔にならざるを得ない。未だ入るべきかどうしようか悩んでいるらしいその男は―ロンクーは、そこまで暇な人間ではない筈だ。西フェリアも屍兵による被害が出ていると言うし、その討伐にも出ねばならないだろう。
 しかしグレゴは意味深な事を言うとにやっと笑い、ロンクーの方を見て喉の奥で心底面白そうに笑うと、踵を返してロンクーの方へと歩いて行き、とっとと入れと彼の肩を押して強引に厨房に入れた。広い厨房にロンクーの慌てた様な声が情けなく響く。
「ま、俺が居ちゃ話せない事もあるだろうし、ゆっくり話せよ。んじゃなー」
 からかう様な声音でひらひらと手を振ったグレゴはベルベットが何か言う前にさっさと姿を消し、残されたロンクーは暫くじっとりとその入り口を睨んでいたのだが、気を取り直したのか漸く彼女の方を向いた。
「…久しいな、元気…でもなかったのか?」
「そこまで酷かった訳じゃないわ。…貴方も余り体調が良くなさそうだけど」
「…、…酷くはない」
「…そう」
 ベルベットの体調を気遣う様な事を言ったロンクーの目の下には、うっすらとではあるが隈があった。もう不要であろうと思ったから野草を送っていなかったのに、まだ眠れない日があるのだろうか。あんな可愛い彼女が居るのに贅沢な男ね、とベルベットは少しだけ呆れてしまった。
「それで? 何か用なのかしら」
「その…、前にお前が来た時、礼も出来なかったから…」
「礼? …ああ、野草の事? 手紙は貰っていたから別に構わないわよ」
「…そうか」
 どうやらロンクーは直接礼が言いたかったらしいのだが、ベルベットにしてみれば既に彼からの書状で済んでしまった事だ。何とも義理堅い男だと思ったけれども、黙っていた。
「…折角来たのだからお茶の一つでも出してあげたいのだけど、どうもこの野草はあまり飲まない方が良いそうなのよ。
 悪いわね」
「…いや…、良ければこれを飲んでみないか? …フェリアの茶葉なんだが、味は保証する。美味いぞ」
「…そこまで言うなら、飲んであげない事もないけど」
「そうか。俺が淹れるから、少し待っていてくれ」
 耳が良いベルベットには程々の距離があっても声は聞こえるのだが、ロンクーにしてみれば聞き取り難いのか、距離を詰めて手に持っていた紙袋を掲げて彼女に見せた。何だと思っていたのだが、わざわざ茶葉を持って来たらしい。以前に比べて近寄れるぎりぎりの距離が詰まった気がして彼女は不思議に思ったが、あの可愛らしい踊り子のお陰なのだろうと勝手に解釈する。しかしそれでも自分はあの女性ではないのだからと、ロンクーが怯んでしまわない様に水場から退き備え付けられている簡易椅子を持ち出して離れた所で座って待つ事にした。
 紙袋から取り出された缶は、ベルベットの記憶に間違いが無ければあの日西フェリア城の中庭でロンクーが淹れていた茶葉が入っていた缶と同じものだ。しかしいやに固く締められていたのだろう缶を力を籠めて開けた所を見ると、封を開けていない、買ったばかりのものなのだろうと察しがついた。水甕から水を汲んで鍋で湯を沸かし、先程茶を流して空にしたポットを見たロンクーから使って良いかと尋ねられたので、ベルベットも静かに頷いた。カップは何の気も無しに、茶器の店で買って袋に入れたままを持って来ていたから、丁度二つある。
 カップとポットに沸いた湯を入れて温めてから、もう一度鍋に湯を戻して茶葉を入れ蒸らしているロンクーを見ながら、手慣れたものだとベルベットは感心した。野草茶の淹れ方さえ知らなかった男が、何時の間にか別の茶の淹れ方まで覚えている。恐らくあの淡いピンク色の髪の女性の為に覚えたのだろう。それならあの子だけに淹れてやれば良いのに、わざわざ他の女に淹れなくても、とベルベットは思う。まあ、そんな事は余計なお世話であるので言わないけれども。
「…入ったぞ」
「ああ、有難う、取りに行くからそこに置いて… …」
「…何だ」
「…何でもないわ」
 蒸らした茶をポットに濾し入れ、カップに注いでからロンクーがベルベットを振り向いて言ったので、彼が自分に近寄らないでも良い様に適当な場所に置いて貰おうと思って腰を浮かしかけたのだが、驚いた事にロンクーはベルベットにカップを直接手渡してきたのでまた座ってしまった。
 聞こえる鼓動は、確かに緊張している。しかし、極度に速い訳ではない。他の女に歩み寄れる様になったのなら万が一の戦闘の時も不便を感じなくなるかしらね、などと動揺の余り的外れな事を思ってしまったベルベットはゆっくりと息を吹きかけて冷ましながら一口飲んだ。
「ふぅん、中々良いお茶ね」
「…そうだろう」
 香りも芳醇で、味もどちらかと言えばイーリスの風味豊かな茶より野草に近い香ばしさがあり、口の中に広がる微かな酸味が舌に心地良い。生葉で淹れた茶の独特な青臭さは無いが、発酵させた風味はベルベットの冷えた体をじわりと温めてくれた。彼女が満足そうに褒めると、ロンクーはほっとしたかの様に小さく口許で笑った。珍しい事もあるものだと彼女は思ったけれども、茶が美味かったので何も言わなかった。
「…矢張り、か」
「?」
 そしてぽつりとロンクーが得心した様な声を上げたので、ベルベットは不思議に思ってカップを両手で持ったまま小首を傾げた。以前茶を共に飲んでいた時よりもお互いの距離が近いという事にも疑問があったが、何より今の彼の鼓動の速さが全くと言って良い程違う。ロンクーは、ベルベットから彼が持つ剣の長さと同じ程の距離しか離れていない所で立ったまま茶を飲んでいた。
「お前の野草で淹れた茶の効能かと思っていたが、別の茶でも同じだ。
 お前とこうしていると、心が落ち着く。…恐怖も感じない」
「………」
 二人の視線は交差しない。ベルベットは目を丸くしてロンクーを見ていたが、彼は手の中のカップをじっと見ている。言葉を探しながら発言しているのだろうが、それでも確かに言った通り、ベルベットに対しての恐れというものは見受けられなかった。
「…私も落ち着くわ。てっきりこのお茶の効き目かと思ったけど」
「その茶に特別な力は無い。…ただ美味いだけだ」
「…そうね。癖になる味だわ」
 その茶の香りや味は、ベルベットの心を酷く安定させて温めてくれた。寒くて体が冷えていたという事もあるのだろうが、それ以上に誰かが自分の為に淹れてくれた茶だという事が彼女を幸せな気分にさせていた。…否、誰かが、ではない。目の前の男が、だからだ。それに気付いて、今更気が付くなんてね、と苦い笑みが零れ、ベルベットはその表情を気取られない為に俯いた。彼にはもう、傍に立つ事を許している女が居る。
「…俺の傍に居てくれるなら、いくらでも淹れるぞ…ずっとな」
「……… …え?」
 しかし思いがけない言葉が耳に滑り込んできて、ベルベットは思わず再度顔を上げて聞き返してしまった。目線の先のロンクーは同じ事を二度も言わせるなと言いたげに首まで赤くしてばつが悪そうな顔をしている。
「だから…、お前の為なら、いくらでも淹れると言っている」
「……… …貴方、恋人が居るんじゃないの?」
「は…? …ま、待て、何の事だ」
 どうやら今のは求婚の言葉、であったらしい。だからベルベットが目を何度か瞬かせてから沈黙を破って尋ねてみたのだが、その質問に今度はロンクーが目を丸くし、そして慌てて聞き返してきた。明らかに動揺しているその表情と心音に、ベルベットは眉を顰める。
「だって、西フェリア城の中庭でお茶を淹れて貰っていたじゃない」
「中庭…? …あっ、ち、違う、オリヴィエとはそんな仲じゃないぞ!」
「じゃあどんな仲なの? 女嫌いの貴方があんなに近くに居られたから、てっきり恋人かと思っていたのだけど」
「あ、あれは…その…、」
 ベルベットの言葉に考え込む素振りを見せたロンクーは、しかし思い付いたのか全力で否定してきた。どうやらあのピンク色の踊り子の名はオリヴィエと言うらしい。どうも自分が誤解をしていた様なのだが、それでもロンクーがオリヴィエとの間に作っていた距離に納得が出来なくて尚も尋ねると、彼はしどろもどろになりながら、ぼそぼそと話し始めた。
「…お前がずっと俺に野草茶を淹れてくれていたから、俺もお前にフェリアの茶を飲ませてやりたくてな…。
 だが、俺が淹れてもどうしても上手く淹れられなくて…それで、オリヴィエに教えて貰っていたんだ」
「…ああ、あれ、淹れて貰ったのではなくて貴方が淹れてたの?」
「そうだ。…必死だったものだから、オリヴィエが近くに居ても気が付けなくてな…」
「…そう」
 普通の茶葉を野草茶の様に煮立てて淹れては確かに美味くはならないだろう。それを知らぬ彼は、それこそかなりの勇気であのオリヴィエという踊り子に尋ねたに違いない。ライミに野草のありそうな場所を尋ねてくれた時も、そして今回の様に茶の淹れ方をオリヴィエに教わった時も、全てそれは他の誰でもないベルベットの為に尋ねたのだ。
 女は苦手だと公言して憚らず、その言の通りに女性が近寄れば及び腰になり、いつでも逃げられる様にと退路を確認していた男が、自分の為に無理をしてまで野草の場所を聞き、茶の淹れ方を請うた。…それは彼が自分を想ってくれているからなのだと、ベルベットは漸く信じる事が出来た。
「…本当は、あの時…お前が来た時に淹れたかったんだが…、
 話も出来ずに帰られてしまったし…お前から野草も届かなくなったから…心配でな」
「…女が大丈夫になったなら不要かと思ったのよ。それに…恋人が居るのなら、他の女から荷が届くと迷惑かと思って」
「っ、……、お、俺は、お前からのものを迷惑だと思った事は、ただの一度も無いぞ」
「…そう」
 自分の勝手な思い込みで野草を送らなくなってしまっただけに、今度はベルベットが罰が悪そうな顔になる。折角淹れて貰ったのに冷やしては悪いので少し温くなった茶を一口飲むと、つられてロンクーも飲んだのだが、ベルベットの言葉に危うく吹きそうになった様で僅かに噎せた後、慌てて否定した。彼にとってベルベットから時折届く短い便りと野草は、忙しない日々を彩り心を豊かにするものであったのだろう。恐らく、ベルベットの元に届く彼からの短い便りと同じ様に。
 ぐい、とカップに残った茶を一気に呷り、そのカップを傍の作業台に置いたロンクーは、何と言ったものかと思案する様に頭を掻いた。
「…ペレジアとの戦が終わった後、お前は居なくなるだろうと思っていたから…
 フラヴィアがお前を雇いたいと言っているのを聞いて、ほっとしたんだ。
 …居なくなられたら、もう二度と会えない気がしたから」
「…そうね、人間と関わるのはあまり好きではないから、旅に出たら戻る事は無かったでしょうね」
「雇われたところでいつまで居るか分からんし、野草が届く間は大丈夫かと思っていたから…気が気じゃなくてな」
「だったら、早く言えば良かったじゃない。変な人ね」
「お、俺がお前を好きでも、お前が俺を好きかは分からんだろう」
 どうやらこの朴念仁はペレジアとイーリスの戦が終わった頃には既に自分の事を意識していたらしい、と今知ったベルベットが怪訝な顔になって不満を口にすると、ロンクーも口答えをする様に、しかしはっきりと「好き」と言った。やっと聞けたその言葉に、何となくベルベットは満足した気分になる。
 ベルベットもこの男の事は嫌いではないし、寧ろ好ましく思っている。何せロンクーは最初の頃からベルベットの事を「タグエル」という枠組みで見ず、単に「女」という枠組みでしか見なかった。そんな単純な事で、と人は言うかも知れないのだが、彼女にしてみればそれはとても重要な事だ。
 ベルベットの里を滅ぼし、彼女を愛玩動物として売り飛ばした者達は皆、彼女の尊厳や権利を踏みにじり、蔑ろにし、人間ではないというだけで見下した。だから彼女も、人間というだけで自分以外は全て敵だと思い込んだ。しかし、エメリナやフラヴィア、ライミ達の様にベルベットの力を認め、己がしでかした事ではないのに自分も人間であるからと謝罪し、彼女の尊厳を尊重してくれる者が居てくれて、目の前の男の様に好意を持ってくれる者が居てくれる。それは幸せな事だと、ベルベットは胸に痛みを感じる程に思った。
「良いの? 私はタグエルよ?」
「俺は…最初からお前を一人の女として見ている」
「そうだったわね、私を見て体を竦ませていた。
 …でも貴方は西フェリア王の後継者でしょう?
 王の後継者がタグエルを伴侶にして、何も言われないとは思えないのだけど」
 ベルベットの一番の懸念は、そこにある。恐らくタグエル唯一の生き残りであろう彼女を娶れば、ベルベットだけではなくてロンクー本人まで好奇の目に晒されてしまうだろう。勿論バジーリオやフラヴィア達は心から受け入れてくれるだろうけれども、フェリア国内だけではなくて国外の者も同様であるとは限らない。しかし、ロンクーはそんなベルベットの言葉にきっぱりと言い切った。至極真面目な顔をして。
「言いたい奴は言わせておけば良い。
 人間だタグエルだと下らん事で区別してとやかく言う奴がお前を侮辱するなら、俺はこれを抜く自信があるぞ」
 腰に挿した愛剣の柄に手を置き、ベルベットを見据えて言った彼の強い瞳は、その言葉に偽りなど一褸も混ざっていない事を証明していた。これから先も伸びていくのだろうロンクーの剣の実力は、ベルベットだって十二分に知っている。しかし普段は物静かなこの男がそんな事を言うとは全く思っていなかったので、彼女は面食らってしまった。
「貴方、そんな性格だったのね。知らなかったわ」
「…幻滅したか?」
「いいえ。…そこまで覚悟してくれているなら、拒絶する理由が無いと思って」
「…そうか」
 だから素直な感想を述べるとロンクーが多少気まずそうな顔をしたのだが、彼女はゆっくりと首を横に振って小さく笑った。その笑みに、ロンクーは安堵した様に息を吐く。ベルベットの耳に聞こえてくる彼の心音は心地好い速さになっていた。
「…それで、応えて貰えたと思って良いのか?」
「拒絶する理由が無いと言っているじゃない」
「…だったら、これを貰ってくれないか」
 カップに残った、結局冷めきってしまった茶を飲み干して空になったそれを置くと、ロンクーが今更な事を尋ねてきたのでベルベットは先程の言葉を繰り返す。変な所で確認してくる男だと思ったが、彼がポケットから出して差し出してきたものを見てまた小首を傾げてしまった。
「…こういう時、人間は指輪を渡すものじゃないの?」
 男のものに相応しく、彼の大きな掌の上に乗っていたのは石――ベルベットはそれをロードクロサイトという名だと記憶しているが――の腕輪だった。美しい薔薇色、綺麗に輪として整えられたその腕輪は、ベルベットにも一目で高価なものだと分かる。が、彼女は人間が結婚する時は指輪を渡すと覚えているから、ついそう聞いてしまったのだ。
「それはそうなんだが…、お前達タグエルは金属製のものが苦手だと書物で読んだ。
 …苦手なものをずっと着けろというのもどうかと思ってな」
「………」
「それに、俺にはお前の指のサイズなど分からんし…、何よりお前は変身するから、指輪は却って危ない気がし、て…
…な、何だ、どうした、嫌だったか?」
 指輪ではなくその腕輪を選んだ理由を答えていたロンクーは、しかし途中で慌てながら中断した。ベルベットが言葉も無く突然涙を零したからだ。まさか泣かれるとは思っていなかったのだろう彼は本気で動揺していて、しかしそれ以上近付いて良いものなのかどうか分からないのか、彼女から僅かに離れた所で立ち止まる。そのまま顔を覆ってきつく目を閉じたベルベットは、それでも辛うじてロンクーからの質問に否定する為首を横に振った。
「違う、違うのよ、…嬉しいの」
「………」
「い、行くのも、買うのも、貴方にとって、は、勇気が要る事だったでしょうに…、
 それに、…わ、私の事を、ちゃんと考えてくれた、のが、…嬉しくて…」
 人間の書物の中でタグエルについて書かれているものなど余り無いだろうに、タグエルの事を知る為であったのか、彼女にとって害があるものと無いものを調べる為であったのか、どちらにせよわざわざ探して読んだのだろう。暇さえあれば鍛錬をしているか剣の手入れをしているかという様な男がその時間を割いてまで本を読み、そしてベルベットの体に負担にならぬ様にと考えた末に選んだのがその腕輪なのだ。鉱石で作られた腕輪など見付けるのも大変だっただろうに、嫌だなどと思う筈が無い。
「私、ずっと、悔やんでいた、のよ…、お、弟も、母も、私を庇って死んで、皆、死んでしまった…のに、
 …わ、私一人、生き残って…人間に売られて、生き長らえて、…だ、誰も私を、私として、見なくて…」
「…俺達人間が、お前に惨い仕打ちを与えたな。すまなかった」
「つ、つらかった、こわかった、…だ、だからもう、何も信じられなく、て…」
「…今も、信じられないか?」
「いいえ、…いいえ…、私、貴方の…あ、貴方の、好きって言葉を、信じたい、わ…」
「…そうか。だったら、俺もお前の嬉しいという言葉を信じよう。
 …受け取ってくれ、ベルベット。俺と共に生きてくれ」
「……… …はい…」
 殆ど話した事など無かった頃に、ロンクーがぽつりと話してくれた彼の弱さは、今のベルベットに彼女の弱さを吐き出させてくれた。誰にも言えなかった胸の内の膿を涙と共に流し出す様に泣くベルベットに、ロンクーは下げていた手をもう一度差し出して薔薇色の腕輪を掲示する。それに対しゆっくりと、しかししっかりと頷いたベルベットは左腕を彼に伸ばし、涙で腫れた目尻を下げて小さく笑った。その手で着けて欲しいと無言で示したのだ。
 そんな彼女に対し、ロンクーは少し困った様な顔をしたものの、緊張で冷たくなった手でベルベットの手を取り、そしてするりと手に輪を通した。まるで誂えたかの様にぴったりと嵌められたその腕輪は石であるが故に冷たさがあるが、ベルベットの手首には柔らかな体毛があるから然程問題ではない。重さも、彼女には全く気にならなかった。
「…ところで…、いつまでそこで盗み聞きしているの? 趣味が悪いわよ」
「……… …なっ?!」
 腕輪を通して貰い、手を握って貰って一頻り泣いた後、ベルベットは涙を拭ってから厨房の入り口を見遣った。彼女の言葉に一瞬きょとんとしたロンクーは、すぐに理解するとぎょっとした様な顔になって同じく入り口を見遣る。まさか人が居るとは思っていなかったらしい。
「人聞き悪ぃなー、邪魔が入らねえ様に見張ってたんじゃねぇか」
「そうさ、感謝して欲しいくらいだよ」
「何が感謝なのよ、もう…」
 …そして間延びした声と共に姿を見せたグレゴとフラヴィアに、ベルベットは呆れた様な声しか出せなかった。耳が良い彼女は彼ら二人が途中からそこに居た事にちゃんと気が付いていたのだが邪魔をする訳でもなさそうであったし、何よりロンクーの興が削がれるのが嫌だったので今まで黙っていたのだ。が、流石にもう良いだろうと思って声を掛けたという訳だ。
「な、お、お前達、いつから…」
「お前の為ならいくらでも淹れる、くらいからかなー」
「………」
 かなりの勇気を要したであろう言葉をいとも容易く反復したグレゴに、ロンクーは片手で顔を覆って小さく呻きながら撃沈する。勿論ベルベットも苦虫を噛み潰した様な顔になってしまったが、気が付いていたのに黙っていたのは自分であったので何も言わなかった。厨房に誰も入らない様にと気を配ってくれていたのは確かであるので。
「大体よぉ、こーいう時は抱き締めてキスの一つくらいしろよなー」
「そうさ、手を繋いだだけかい? 初心だねぇ」
「な、な、……」
「あまりあれこれ言わないで頂戴。もういっぱいいっぱいなんだから」
「お、流石だなー、良い嫁さんになれるぜベルベット」
「煩いわね、蹴るわよ」
「おーっと、悪ぃ悪ぃ」
「ちょっとグレゴ、何でかい図体で私の後ろに隠れてるんだい!」
 グレゴとフラヴィアがロンクーに呆れたのに対し、ベルベットがロンクーを擁護する様な事を言うと今度は自分がからかわれたので、ベルベットがじろっとグレゴを睨む。すると笑いながら肩を竦めてグレゴがフラヴィアの後ろに回り込み、そんな彼をフラヴィアが叱る。まるで旧知の友人達の戯れである様な会話に、ベルベットは酷く満たされていた。幸せだと、左手の腕輪を触りながら思っていた。



 眼前に広がる、山間部の荒野を見ながら、ロンクーは暫し言葉も無く立ち尽くしていた。僅かに見受けられる住居跡は、しかしほぼ全てが焼け落ち、朽ちていて、膝丈まで伸びた雑草に埋もれている。賊に襲撃され滅ぼされた村を彼は幾度か見たが、今まで生きてきた中で最悪の気分だと顔を歪めた。
 ロンクーが今立ち尽くしているのはイーリス城の東に位置する山脈の奥地であり、ベルベットの生まれ故郷の里があった所だ。東フェリア城でベルベットに求婚した彼は、彼女の里に行きたがった。仮令今はもう無いとしても、ベルベットが生まれ育った場所に行って彼女を妻に貰うと報告したかったらしい。
 どうせ行く途中にあるから、とイーリス城にも立ち寄ってバーブチカに二人で結婚した旨を報告すると、驚かれはしたものの散々冷やかされた。そして暫く滞在したら良いのにと言われたのだが、ロンクーが簡素にベルベットの里に行くからと断るとどこか神妙な顔付きで頷き、引き止める事をあっさりと諦めてくれた。バーブチカもまた、ベルベットの故郷が人間に滅ぼされたという事に心を痛めていたからだ。
「ここに、沢山居たのよ。私の仲間達が」
「…そうか」
「…私一人、生き延びてしまったわ」
「………」
 彼から少し離れた所で同じ様に立ち尽くし、荒野を見ながらベルベットがぽつりと悔やむ。ロンクーから腕輪を貰った今、彼女は死を望む事は無くなったが、それでも悔やむ事が時折ある。悪夢に魘される事は無くなったとは言え、彼女の中にそれは罪として認識され、苛んでいた。勿論生き延びたからこそクロム達と接触出来たしロンクーと出逢う事が出来たのだが。
 風の形を象る草を掻き分け、ロンクーは歩を進める。風と草花が揺れる音しかしない静かな荒野はタグエルが大勢居たとは思えない程の静寂さを保ち、僅かに彼を拒絶している様にも思えた。しかし、ロンクーは踵を返す訳にはいかなかったのだ。
「俺が、何故女が苦手なのか…言った事が無かったな。
 …俺は孤児でな、ガキの頃はフェリアの貧民街に居たんだ。その時に仲良くなった同い年の女が居て…
 そいつには両親が居たんだが、それでも良く俺と遊んでくれてな」
「………」
「ある日、あいつが…ケリーが街外れに遊びに行きたいと言うから、連れ立って行ったんだ。
 その時に…賊に襲われて、ケリーが殺された」
「…子供二人を、賊が襲ったの?」
「…ああ」
 ロンクーが静かに語ってくれた過去の事に、ベルベットは思わず顔を歪めてしまう。人間ではない、種族が違うから、という理由で襲って危害を加えるならまだ想像がつくが、同じ人間、しかも子供を襲って殺すなど、ベルベットには全く理解が出来なかった。
「…ケリーは俺を庇って死んだ。それを知ったあいつの両親は、俺を酷く責めてな」
「…責める相手が違うじゃない。悪いのは貴方達を襲った賊でしょうに」
「それは確かにそうなんだが…俺もケリーが死んだのは俺の所為だと今でも思っているからな…。
 居た堪れなくてその街から逃げて、…それからだ。
 また俺の所為で死なせてしまうんじゃないかと思って…女に近寄れなくなってしまった」
 恐らく幼かったロンクーにとって唯一とも言える友人であっただろうケリーという少女が目の前で殺されて、彼も酷くショックを受けただろうし、嘆き悲しんだのだろう。それに加えての少女の両親からの叱責だ。何を言われたのかはベルベットには分からないが、今でもロンクーが女を極度に恐れる程に責められたのではないか。
 勿論、今の彼はそんな事はないと頭では理解しているだろう。しかし、どうしても近寄れなくて竦んでしまうのだ。ベルベットが落とした野草の袋を拾った時も渡したくても上手く話しかけられずに居たものだから、彼女はそれを自分がタグエルだから怖がられたと勘違いして一人で不愉快な気分になっていた。
「お前が、里が滅ぼされた時の夢を見ると聞いた時に…お前の母は人間を憎むなと言ったそうだな。
 確かにお前はそこまで俺達に敵意を向けはしなかったが…それ以上に、俺と同じで自分を責めている様に見えてな」
「…私が?」
「ああ。…さっきもお前は言った、自分一人生き延びてしまったと」
「………」
「お前の言う通りだ、ベルベット。責める相手が違う。
 …お前が自分を責める事を、果たしてこの場に眠るお前の同胞は望んでいるだろうか」
「…それは…」
 自分にも言い聞かせる様に、言葉を選びながらベルベットを諭すロンクーの表情も辛そうなものに歪んでいく。彼の言を裏返せば、ケリーが命懸けで守った自分を責める事を、果たしてケリーが望んでいるのかというのと同じ事だ。ベルベットに問うのと同時に、彼は自問している。
「…俺は、自分が許されるとは思っていない。
 だが守られたこの身を粗末にする事はしたくないし、…今はもう俺一人の身ではないしな」
「…私もそうだったわね」
「お互い、責めるのだけは止めにしないか。それでは先に進めない。…立ち止まったままだ」
「…じゃあこうしましょう。私が貴方を許すわ。貴方は私を許して頂戴」
「………ああ」
 山間を吹き抜ける風は少し冷たいが、ここで生まれ育ったベルベットにとっては心地良いものであるし、フェリアに暮らすロンクーにとっても気になるものではない。二人の間にそよぐ風は、お互いを近付ける事を邪魔しなかった。ただ、どうしもてロンクーは困った様な顔をして途中で立ち止まってしまう。そんな彼を見て、ベルベットは思わず苦笑してしまった。
「まだ、怖いのかしら?」
「いや、怖くはないんだが…、今まで女と接する機会がそうそう無かったから、その…な、慣れてなくて、
 …だから、別にお前が怖くて近寄れない訳ではないんだ。単にその…て、照れ臭いだけで」
「…そう。じゃあ、ゆっくり待っているわね」
「待つ?」
「ええ、貴方が私に普通に触れる様になるまで。だけど、あんまり待たされたら私から触るわ」
「…ぜ、善処する」
「そうして頂戴」
 ロンクーは、未だにベルベットに触れた事は腕輪を通したあの時以外に一度も無い。イーリスに向かう時も、この里に来る道中も、ベルベットに指先一つ触れなかった。それは単に女が怖いという訳ではなくて、恥ずかしいだけであるらしい。彼が耳まで赤い所を見れば、それが嘘でない事くらいは分かる。せめて求婚してくれた時の様に手を繋ぎたいとベルベットは思ったが、急ぐ事もあるまい。
 二人はそのまま暫く言葉も無くその場に立ち尽くしていたが、やがてロンクーがベルベットの隣に立ち、そして深々と頭を下げた。まるで目の前に彼女の親兄弟が居るかの様に、そして礼を言うかの様に。命懸けでベルベットを守った彼女の弟と母親に感謝するかの様な深いお辞儀に、風が僅かに凪いで彼の髪をそよがせるのを止める。驚いたロンクーが顔を上げ、ベルベットも目を丸くして空を仰ぐと、また緩やかに風が吹き始めて二人の間をすり抜けていった。祝福してくれているのか、ロンクーを受け入れてくれたのか、それは分からないが、ベルベットは確かに家族の息吹を感じられていた。



「ああ、二人共、良いタイミングで戻ってきたわね。これからフェリアに向かうのよ」
「フェリアに…? 何かあったのか」
 ベルベットの里を後にし、フェリアに戻る際に再びイーリスのバーブチカの元へ寄ると、彼女はペレジアとの戦の際にずっと着ていたローブを羽織って二人を出迎えた。そして彼女に充てがわれた部屋にはライミも控えていて、ベルベットよりも先にロンクーが眉を顰めて質問する。
「ヴァルム大陸から、帝国が攻め込んでくるという情報がフェリアに齎された。
 詳しい事はフラヴィア王とバジーリオ王が説明する」
 ライミは普段通りに後ろ手に組んで立ち、彼らに簡素に説明すると、また黙った。必要以上に口を開こうとしないのは、他国からの使者であるという思いが強いからだろう。ここはイーリス国の軍師の部屋だ。ライミはそれを弁えている。
「もしその情報が確かなら、ヴァルム帝国との交戦は避けられない…こちらも迎え撃たねばならないわ。
 そうなったなら…、ベルベット、貴女も力を貸してくれるかしら」
 バーブチカはベルベットの様子を窺う様に小首を傾げて尋ねる。ロンクーはフェリアの剣士であるから、フェリアが攻められれば武器を取り戦うのは当たり前なのだが、彼の妻になったとは言えベルベットは人間の争いに手を貸す義理は無い。そう判断した上での問いだったのだろう。ベルベットは僅かに沈黙したが、左手首に通した腕輪に軽く触れると、微かに微笑んだ。
「私みたいに家族を目の前で奪われてしまう様な人を出さない為にも、手伝わせて貰うわ。それに」
「?」
「私、この人にお茶を淹れて貰わないといけないから」
「な…」
「ふふ、お熱い事ね。新婚なのにゆっくりさせられなくて悪いけど、そういう事だからロンクー、お願いね」
「…わ、分かった」
 ベルベットが肩を竦めて言った言葉に、冷やかし半分、祝福半分にバーブチカが笑い、ライミも微笑ましそうに口許を緩める。ロンクーは顔を赤くしながらも苦い顔をし、了承を口にした。ヴァルム帝国との長い戦いの前の僅かな憩いの一時は、若い二人を祝福するには十分過ぎる程の時間となっていた。