眠れ良い子よ

 エメリナと言う名のイーリス国聖王が平和を祈る言葉を遺し、その美しい身を崖から投げた。彼女の弟であるクロムはその光景を目の前で見、膝から崩れ落ち、慟哭した。クロムが率いていた戦士達も呆然とした様子の者や、同じく崩れ落ちた妹のリズを抱き止め支える者、エメリナが倒れている先をじっとりと睨み付けている者、様々であったが、グレゴは苦虫を噛み潰した様な顔で眉間に皺をぎゅっと寄せ、いつでも剣を抜ける状態に構えていた。退路を確保する為でもあったけれども、それ以上に昔の事を思い出してしまい、周りに居る敵という敵を全て斬り殺してやりたい気持ちに駆られていた。



 雨の中走る十数台の馬車の各々の中は、まるで誰もが言葉を発する事を禁じられているかの様に沈黙が守られている。舗装されていない道を走る馬車は大きな揺れは無くとも乗り心地が良いとは決して言えなかったが、誰もがその事に対して一言も不満を漏らさなかった。
 エメリナを守る為、そして彼女の理想を守る為に今まで戦ってきたクロムにとって、エメリナが自ら身を投げたあの光景は恐らく一生忘れる事は出来ないだろうし、また一生苛まれる事だろう。助けられなかった、守れなかった、その悔恨は恐らくギャンレルを倒したところで消えるものではあるまい。グレゴはそれをよく知っていた。思い出したくねぇ事を思い出しちまったな、と剣を抱いたまま腕を組み、馬車の壁に背を預けてぼんやり思う。
 昔、まだ十代であった頃、グレゴは弟を殺された事がある。子供の頃に両親を目の前で殺され、弟の手を引いて命からがら何とか逃げたが、子供だけで生きていける程世間は甘くなく、弟と二人で貧民街で生活していた。身を守る為、そして弟を守る為に独学で剣を覚えたグレゴは長じてそれなりに腕の立つ用心棒として雇われる様になったものの、ある日賊に弟を人質に取られてそのまま殺されてしまった。助けられなかった、守れなかった、その悔恨は、賊を皆殺しにしても決して拭い去る事は出来なかった。今でも彼の心の奥底にべったりと張り付いたままだ。今でもその時の夢を見てしまうくらいには、長い間グレゴを苛んでいる。
 だからと言って、グレゴはクロムの絶望感が分かるなどとは思っていない。似た様なものであっても同じでは決して有り得ないのだし、今のクロムには支える者が多く居る。クロムを信じ、寄り添い、支える者が居るから、自分達は今こうやってフェリアへと向かう馬車に乗っている。彼はそう思っている。
 馬車に乗り込んだあの砂漠からどれだけ走ったのか、先頭を行く馬車が止まった様で、後続の馬車も次々に止まり始めた。長時間走らせた事により馬も疲れてしまっただろうし、クロムの従者であるフレデリクや騎馬兵達の愛馬も疲労する頃合だ。陽も暮れかけている様だし、夜間に走るのも危険だと判断して、今夜はここで野営を張るのだろう。雨は上がっていても地面のコンディションは良くは無いが、馬車の荷台もあるし交代で横になれば問題あるまい。各馬車に乗っている者達にフレデリクが野営の旨を伝え、雨は降っていないとは言え重苦しい雰囲気の中、各自が支給された食事を摂る為に馬車から降りてきた。中央砂漠でムスタファー将軍を撃破した際に、オリヴィエという踊り子が用意してくれた馬車に乗ったのだが、彼女はある程度の食物も用意してくれていた様で、腹を満たす事が出来そうだ。普段の野営であるならば炊き出しをしているけれども今回は急な事であったし事情が違う。
 狭くは無いが広くもない馬車に長時間乗っていたせいか、体の節々に鈍い痛みを感じ、グレゴは馬車から降りて存分に伸びをした。首を曲げると関節の派手な音がして、自分で鳴らした癖に思わず痛みの声が出る。
「うおっ」
 そして後ろから何か小さいものがぶつかってきた衝撃をまともに喰らってしまい、グレゴは前につんのめってしまたものの、辛うじて体勢を立て直す事は出来た。そのぶつかってきた物の正体に心当たりはあったのだが、一応上体を捻って後ろを見る。
「何だぁ? どうしたノノ」
 腰より少し上の辺りに見える金色の頭はどこからどう見ても少女のそれであるが、彼女は見た目が少女なだけであって実際はそうではない。中身も完全に子供だとグレゴは思っているのだが。
「あのね、ごはん一緒に食べよう?」
「んー? 他に食べる奴が居ねーのか? ソワレとかマリアベルとか」
「マリアベルはリズにつきっきりだし、みんな怖い顔してるんだもん」
「あー……なーるほどな……」
 クロムが前々から率いていたという自警団の面子は、恐らく全員がクロムやリズに付きっ切りになっているだろう。クロムはユーリが、リズはマリアベルが側から離れない様であるから滅多な事は起こらないだろうが、軍全体の表情が険しいのは確かだ。
「グレゴは元から怖い顔だから大丈夫かなあって思ったの」
「おいあんた今無茶苦茶失礼な事言ったな?」
「ねえねえ、そんな事よりごはん食べるの? 食べないの?」
「わーかったよ、食べるよ」
 ノノがさらっと言った言葉に多少傷付きつつも、今まで結構な頻度で賊と間違われた事がある――実際クロム達と出会った時は悪人と間違われた――グレゴはそれ以上反論をする気は無く、大人しく馬車の荷台に腰掛けて配給されたものを食べる事にした。明日にはフェリアに着く為、そんなに量は多くないけれども。
 一緒に食べると言っても大した会話がある訳でも無く、また普段から天真爛漫と言っても良いノノでも聖王が死んだ事は流石に思う所があった様で、静かにパンを食べていた。グレゴもそうだがノノもどの国にも属さないのでエメリナはよその国の王という認識しか無いけれど、彼女が最期に残した言葉はノノの心にもちゃんと収まっている。ノノだって争い事は嫌いだ。マムクートであるが故に正体を知った人間から捕まえられそうになったり、騙されて売り飛ばされたり、その度逃げる事に必死になった。
「……林檎食うか?」
 両親はどこに居るのかとノノがぼんやり考えている姿が元気が無いと思ったのか、グレゴが手の上で配給の林檎を軽く投げて見せると、ノノはぱっと顔を明るくして頷いた。ノノは配給された野菜は残しても、果物は良く食べていたから、林檎を余分に与えておけば元気になるかと思っての事だった。グレゴは荷台の奥の方を振り向くと、隅でじっと座っている男に声を掛ける。
「ロンクー、悪ぃけど林檎剥いてくれ」
 今、この馬車の荷台にはロンクーと呼ばれた黒髪の青年しか乗っていない。他の者は全員、周りを歩いてくるとどんよりした表情で出て行ってしまった。
「……お前が剥けば良いだろう」
「お前の方が上手いだろー? 野菜の皮剥き上手いんだってな、女共が言ってたぜ」
「………」
 食事番をした者に聞いたのだろう、皮剥きの事を言ってきたグレゴにかなり不本意そうな顔をしたロンクーは、渋々ではあるが腰を上げて差し出された林檎を受け取ると、所持している道具袋から小型ナイフを取り出して林檎を剥き始めた。彼の手の中で林檎が回転する度、細くて薄い皮が重力に逆らえずに下へ垂れ下がっていく。
「ロンクー、すごいね! ノノそんなのできないから、いつもそのまま食べちゃう」
「ほー、ほんとに上手いな」
「……親子か」
 ノノが心底凄いものを見る様に目を輝かせてロンクーを褒め、グレゴが感心した様に言う。ロンクーにはそれが奇異なものに見えて、思わず短く突っ込んでしまった。彼にとってグレゴは先日手合いを申し込んだにも関わらず飄々とした態度でかわされてしまった相手であるので、どうやって自分と勝負させるかを考えている最中だったと言うのに、当のグレゴは全くそんな事は覚えていないかの様に林檎の皮剥きなどを依頼してくるのだから堪ったものではない。かてて加えて、ノノは自分に対してままごとをしようなどと言ってきた事もある。
「お前も食べるのか」
「俺は良い、ありがとな。全部こっちにやってくれ」
「いいの? ありがとうグレゴ」
「どーういたしまして」
 剥き終わった林檎を割るのかどうかロンクーが尋ねると、グレゴは親指でノノを指してから返答した。弟の事を思い出してからと言うもの、あまり食欲が湧かないので、自分の配給分の林檎はノノの胃袋に納めさせようと思ったのだ。
「何ならお前も食うか?」
「いや……良い」
 ロンクーもグレゴと同様、食欲が湧かなかったので短く辞退の返答をする。大の男二人が食欲が無いのにノノは嬉しそうに林檎を食べているというのもおかしな話だが、嬉しそうに林檎にかじりつくノノを見てグレゴも自然と苦笑が漏れた。小娘にしか見えないノノが、先日魘されていた自分を助ける様に起こしてくれたからだ。
「なーに? ノノ、何かおかしい?」
「んー?美 味そうに食うなと思っただけさ。なあロンクー」
「何故俺に話をふる」
 そしてロンクーは、バジーリオから聞いていたグレゴのとのギャップに多少驚いていた。目標とするバジーリオが生涯唯一引き分け、かつてはフェリアの次期国王候補として名を連ねたと聞かされていたが、飄々としてはいるけれども触ると怪我をする、抜き身の剣の様な男だともバジーリオは言っていた。誰とも馴れ合わない、誰も信用しない、そして心を許す者を作ろうとはしない、そう聞かされていた。
 だが実際はどうだ。これではまるで、娘を見る父親の様ではないか。そう思い、ロンクーが勝手に思い込んでいただけでグレゴは別に悪くはないのだが、ギャップをまざまざと見せ付けられてしまったので睨む。だがグレゴはおっかねえの、と肩を竦めただけで、それ以上は何も言ってこなかった。
「おいしかったー。ありがとう、グレゴにロンクー」
「どーういたしまして」
「……ああ」
 林檎を二つとも平らげたノノは、にこにこしながら二人に礼を言った。こんな状況でも明るく笑ってくれる者が一人でも居てくれれば、まだ少しは救いになる。何時もならそれはリズの役目であるのだが、生憎と彼女は今それどころではない。大好きな姉が死んでしまったのだから。
「お腹いっぱいになったら眠くなってきちゃった……グレゴ、おひざ貸して?」
「は?! いや、もっと別の枕探した方が良いぜ?」
「むぅー、じゃあロンクー貸して」
「断る。そこのおじさんに借りろ」
「おじさん言うな」
 まるで本当に子供の様に、ノノが空腹を満たした後に睡眠を欲して瞼を擦りながら言った言葉に、グレゴはぎょっとして別を探す様促したのだが、矛先が向かったロンクーからもおじさん呼ばわりされて本日二度目の傷心タイムが入ってしまった。一度目は顔が怖いと言われた事であるが、彼にとってエメリナが死んだ事は傷心と言うには違う気がするのだ。
「うぅ……ぐすっ、」
「あーあー、わーかったよ、ほれ、貸すから泣くな」
 眠いのか自分のお願いが通らなかった事が悲しかったのか、あるいは両方なのかは分からないが、ノノがぐずって泣き出しそうになったので、今度はグレゴが渋々と足を伸ばして頭を乗せる事が出来る様にしてやった。ノノは形容し難い声を上げて目を擦りつつ横になりグレゴの膝に頭を乗せると、すぐに寝息を立て始めた。余程疲れていたのだろう。若いロンクーも疲れを感じる程の戦闘続きであったし、ノノは竜に変身出来るから前線に居る事も多い。戦闘が終われば元気に遊んでいるから気が付かなかっただけで、ノノは随分と疲れていたのだ。
「……お前がそういう男とは知らなかった」
「お前が俺の事をどう思ってるのかは知らんが、俺は元からこんな男だぜー?」
「幼女趣味なのか?」
「なーんでそうなるんだよ……」
 バジーリオさんから何を吹き込まれたんだか、とグレゴは思ったのだが、バジーリオと一騎討ちをした当時の自分は確かに刺々しく、弟を喪った事から立ち直れていなくて随分荒れていた。そんな自分に真っ向からぶつかって豪快に笑い、色々と世話を焼いてくれたのがバジーリオだったので、少なからずグレゴはバジーリオに対して恩がある。だからと言って、フェリアの王にならないかと言われても引き受ける気には全くなれなかったのだが。
ロンクーはそのバジーリオが目標であるらしくて、それで自分に手合わせを申し込んできたのだろうとすぐに予想はついたが、まだまだ足りない所があるとは言えこれ程の手練れと刃引きしていない剣を用いて真っ向勝負するなど、血を見るに決まっている。頭を冷やさせようと思い、グレゴはロンクーに手合いを申し込まれた時に断ったのだ。それに、その時はこの膝で寝ているノノから後で遊んでほしいと言われていて、その約束をすっぽかしたら何をされるか分かったものではなかった、という事情もあったのだ。一度、約束をすっかり忘れていて、後で泣きながら竜に変身してブレスを吐かれた事をグレゴは忘れていない。あれは痛かった。他の面子もそんな事をされたのかとさりげなく探ってみたら、手当てをしてくれたリズからグレゴさんだけみたいだよと笑われてしまい、何故自分だけなのかと未だに腑に落ちていない。あのブレスに耐えられる程度には強いと思ってくれたのならば良いのだが。
「追われてるこいつを助けたっつーか、保護したから懐かれてるだけだよ」
「ああ……賊と間違われたとか何とか、だったな」
「ひでー話だろ? こーんな良い男を悪党と間違えるなんてよ」
「………」
「おい何か突っ込め一番傷付くぞ」
 ロンクーが何も言わず微妙な顔をしたので、グレゴは眉を顰めて抗議した。何だって皆こう自分を悪党扱いしたがるのか、彼には分からない。一番の元凶はノノも言った様に顔が怖いからなのであるが、顔は生まれつきなので変えようが無い。結局いつも怖い人呼ばわりされる羽目になる。しかしノノや、彼女と同じ年頃に見えるだけで実際は本当に子供であるリヒトに懐かれてきたので、それだけでも御の字と言った所だ。
「まあ良い。寝ているのを邪魔するのは悪いし、俺は暫く出ておく」
「お、悪ぃな。俺も暫くしたらこいつ向こうに連れて行くから、そん時に休憩交代な」
「ああ」
 別に交代しなくても構わないとロンクーは思ったが、言っても聞く男ではあるまい。そう考えて、ロンクーは馬車から降りて行った。残されたグレゴは膝の上で寝ているノノを見遣り、こんな時でも無防備に寝られる彼女に若干の羨ましさを覚えつつ、自分も少し寝ようと目を閉じた。エメリナとクロムの事があったので弟の時の悪夢を見てしまいそうだったから眠るつもりは無かったのだが、幸せそうなノノの寝顔を見た今なら悪夢は見ない様な気がしていた。