おまじない

 仄かに漂った錆臭く鼻につんとくる臭いに気が付いて、リルムは外の風景でもスケッチしようと思って甲板へと向かわせていた足を止めた。今では世界唯一の艇の現在のオーナーの古くの友人のものだったというファルコン号は、速さを追求していたというその女性の意向が如実に現れている為に多くの部屋は存在しない。だからその臭いがしてくる方向はすぐに分かり、何だろうと思ってそちらの方へと足を向ける。何だろう、というより、誰が怪我をしているのだろう、と思った、と言う方が正解かも知れない。リルムはこう見えても世界中でモンスターと戦っている身でもある。だからその錆臭い臭いが血の臭いである事は分かった。しかし怪我をした者はハイポーションを使ったりケアルをかけたりしてから艇に戻る事が多いので、艇の中に血の臭いがするというのは珍しい事でもあった。
 ちょうど柱の影になって見えにくい所に人影が見えて、リルムがひょっこりと顔を覗かせると、リルムが自分の方へと歩いてきている事は分かっていたのだろう、座り込んでいた黒髪の男がリルムの方に振り返った。
「リルム殿で御座ったか。如何なされた」
 随分古めかしい言葉、とリルムは思っているのだが、そういう口調でリルムに問い掛けた男は包帯を巻いていた手を止める。半分包帯で隠れたガーゼの様な布には少し血が滲んでいて、リルムは思わず眉を顰めた。
「いかがも何も無いよ、おじさん怪我してるじゃん。そんなのしなくてもケアルかけてあげるよ」
 リルムが男の――カイエンのその傷に手を翳そうとすると、カイエンは緩やかにその手を遮ってリルムを制した。
「気持ちだけ戴いておくで御座る。大した怪我では御座らんから心配なさるな」
 呪文を詠唱しようとしたリルムは予想外のその言葉にきょとんとしたが、カイエンは少しだけ笑ってから目線を手元に落とし、また包帯を巻き始めた。
「大した怪我じゃないって、結構血が出たんじゃないの?」
 カイエンの向こう側に置かれている、止血していたタオルらしいものは変色した血で斑に汚れている。そこまで出血したのなら早く塞いだ方が良いに決まっているのだが、それでもカイエンはリルムに首を振った。
「出血の割には深くは御座らんよ。本当に心配なさるな」
 苦笑したカイエンは巻き終えた包帯を結びながらそう言ったのだが、まだリルムが納得のいかない顔をしていたので、少しだけ考えてから肩を竦めて見せた。
「リルム殿、拙者にとって怪我とはこうやって治すものなので御座るよ。
 確かに致命傷なら回復道具も使い申すが、基本的には消毒をして薬を塗って包帯を巻いて、自然に治るのを待つので御座る。
 魔法を使う事に慣れてしもうたら、それに頼りきってしまうで御座るからな。
 だから大した怪我でなければ、拙者にはこれで十分で御座る」
 カイエンにとって魔法は異世界のものであって、生来魔導の力を備え持っているリルムとは考えが違うらしい。確かにマッシュやロックも大した怪我でなければタオルで傷口を縛って消毒するだけで、ポーションもケアルも使わない。ガウに至っては舐めるだけだ。だから彼らは怪我に対しては頑丈で、治りも早い。リルムは分かった様な分からない様な、何とも複雑な気分になったのだが、仲間が怪我をしているのに何もしてあげられない事が胸の奥に靄をかけたので、もう一度カイエンのその怪我に手を翳した。
「じゃあ、痛いの痛いの、飛んで行け! ―――なんてね」
 飛んで行け、と言ったと同時に手を自分の後ろに払い、笑ったのだが、カイエンが目を丸くしたので、流石に子供臭かったかなとリルムはちょっとだけ後悔してしまった。五秒程の沈黙が随分長く感じてしまい、リルムが笑って誤魔化そうとしたその時、瞬き一つせず見開いていたカイエンの目から、不意に大粒の涙が零れた。カイエン自身もそれに驚いたのか、直ぐに口元を覆って顔を下へと向ける。
「え? え、ちょ…り、リルム何か悪い事言った?」
 まさか泣かれるとは思っていなかったリルムは慌てて座り込んだのだが、カイエンは右手を上げて首を横に振った。リルムのせいでは無いと言いたいらしいが、言葉が出てこないらしい。
「…、 ……っ、 ……っく、  ………っ」
 きつく目を瞑って頭を抱え込んだカイエンは、それでも泣き顔をリルムに見せまいとしているのか膝を立てて顔を埋める。震える体がどこか子供の様で、リルムは大人でも泣く事があるのだと呆然としてしまった。
 リルムにとって、涙は子供だけが流すものだった。痛かったり悲しかったり辛かったりした時に子供は泣くけれども、大人はそういう時でも涙を流さないのだと思っていた。大人は涙を持っていないと思っていたのだ。だから目の前の嗚咽を噛み殺して泣いているカイエンを見て、それは間違った認識だと彼女は今知った。
 どうしたら良いんだろうと困っていると、大きく息を吐き出した音と鼻を啜る音が聞こえ、乱暴に目を擦ってからカイエンが漸く顔を上げた。目尻が赤いが、泣いた後なら当然だ。
「か、かたじけない、無様な所を見せてしもうた」
 もう一度鼻を啜って息を吐き、無理に笑ったカイエンにリルムは何も言えなかった。何と言って良いか分からなかった。開きかけた口を噤んで俯いたリルムは何か言った方が良いのだろうかと考えたのだが、リルムが言葉を発するより先にカイエンがぽつんと呟いた。
「……昔、全く同じ事を、息子がしてくれたで御座るよ」
「あ…」


『ちちうえ、お怪我痛い? だいじょうぶ?』
『シュンが心配する程痛くはないよ、有難う』
『じゃあ、僕がこの間お怪我した時にははうえがかけてくれたおまじない、してあげます』
『おまじない?』
『あのね、』

『いたいのいたいの、とんでいけ!』


 彼にとって、とても幸せだった頃の記憶。それを、図らずもリルムは呼び起こしてしまったらしい。何気ない日常の、些細な喜びの一コマは今となっては遠い。
 しかし、リルムにとってもこの「おまじない」は幸せの記憶の欠片だった。覚束無い足取りの自分が転んで、地面との衝突の痛みで泣き出した時に、母親らしき人の声が上から優しく降って来て、そして自分は温かい大きな手に抱き上げられるのだ。

 ―――よしよしリルム、痛かったね。でもお母さんがおまじないしてくれるよ。
 ―――痛かったわねリルム、ほら、痛いの痛いの飛んで行け!

 顔など覚えていないけれどリルムには分かっている。抱き上げてくれたのは父、おまじないをかけてくれたのは母。とても優しい思い出は、リルムの宝物だった。
 恐らく、カイエンが泣いてしまったのは悲しかったからではないだろう。では何故だと問われても、リルムにもカイエンにも答える事は出来ない。ただ、悲しみや辛さでは決してない。痛みが少しでも和らぎます様に、その怪我が少しでも早く良くなります様に、そう願って唱えられた「おまじない」は確かに相手に対する唱えた者の愛が込められている。
 幸せだった、と。そう思って泣いたのだろう。リルムはそう解釈する。
「……じゃあ、きっとその怪我、すぐに良くなるね」
 口からはそんな言葉しか出てこなかったのだが、リルムのその言葉にカイエンは少しだけ目を伏せ、言葉も無く頷いた。