私の心を癒すもの

 恋人が、事故で死んだ。 その事を知らされた時は、この世の終わりであるかの様に、目の前が真っ暗になった。
 結婚しよう、と言ってくれたのは、つい一週間程前。柄に無く緊張した面持ちで、孤児院で働くミナの元に訪れて来たマジェスは、ミナがその言葉に頷くと噛み締めるかのようにガッツポーズをとった。その時の顔も、声も、全部覚えているのに。
 小雨が降りしきる中行われた葬儀は沢山の人が訪れていたにも関わらず、ミナの目には殆ど映っていなかった。マジェスが所属していたのはこの国の軍で、だから弔問には彼の同僚なども多く訪れていたし、二人共孤児院の出であったので、昔からの顔なじみも多く居た。しかしそんな人達もミナには映らなかった。
 肉親の居ないマジェスの葬儀は、彼が所属していた部隊の隊長とかいう男が執り行ってくれたそうだ。一応は礼もしたし、二言三言言葉も交わした気がするのだが、それもあまり覚えていない。
 マジェスはここ数日続いた長雨で城の堀の水嵩が増え、決壊しない様にと堀の補強をしていた時に、過って足を滑らせ転落したらしい。遺体は見ない方が良いと布で巻かれていたので、死に顔も見られなかった。身寄りの無いマジェスは軍で殉死した者の墓地に葬られるのだそうだ。
 葬儀が終わっても、ミナにはマジェスが死んだという実感は湧いてこなかった。しかし、いつも待ち合わせに使っていた場所に誰も来なくて、漸くあの人はもうこの世に居ないのだと理解した。理解した時、涙が止まらなくて、一日中動けなかった。心配した友人達が食べ物を差し入れに来てくれたが、ミナには口に入れたものの味すら感じる事が出来なかった。泣きすぎて頭が痛くて、眠ろうにも眠れない。泣き疲れて眠れる事もあるけれど、熟睡は殆ど出来なかった。
 そんな日が葬儀から数日経った日まで続き、その日の朝、ミナは友人の差し入れてくれた果物駕籠の中に入っていた果物ナイフを手に、覚束ない足取りで外へ出た。マジェスの墓の前で死のうと思っていた。
 死んだと聞かされた時から、世界が色を失った。生きている意味など無いとその時のミナは真剣に思っていた。
 しかし玄関のドアを開けてみると、淡いピンク色の花が一束、ドアの所にそっと置かれてあった。ミナは思わず手に持っていたナイフを落とし、呆然とした。まるで彼女の行動を制止するかの様に、花は静かに咲いている。震える手でその花束を拾うと、つい癖でその匂いを嗅いだ。ほんのり甘い香りがした。 色を失った世界に、ほんの少しだけ色が灯った。
 花を持ったままマジェスの墓まで行くと、墓にも同じ花が添えられてあった。供物の水は真新しいものに変えられている。ミナでさえマジェスの墓に訪れるのは、葬儀の時以来だ。ミナはごめんね、と小さく呟いた。

 ごめんね。自分が悲しいばっかりに、貴方のお墓を訪ねもしなかった。

 その呟きに応えるかの様に、風が優しくそよぎ、花弁が揺らいだ。そうして、ミナは漸く恋人の死を受け入れる事が出来た。頭では死んだと理解していても、気持ちが付いてこなかったのだ。
 同時に、誰かがきちんと参ってくれていたのに、他の誰でもない自分が墓参りをしていない事を恥じた。送り出さなければならないのは自分なのに、それをしなかった。 皆が心配してくれたのに、ろくに返事もしなかった。
 しっかりしなくちゃ、とミナは両手で自分の頬をぱちんと叩く。

 ごめんね、マジェス。私、頑張るから。

 ミナの決意を喜ぶかの様に、花は空を向いて咲き誇っていた。



 それからというもの、ミナは少しずつ恋人を失った痛みから回復していった。以前の様に孤児院で子供の面倒を見、ぎこちなくても笑い、食事もきちんと摂った。 やつれた顔は以前と同じ様に血色を取り戻しつつある。毎朝、マジェスの墓に行く事も欠かさなかった。
 しかし、毎朝墓へ向かおうと家を出ると、決まってそのドアの所に花が添えられてある。そして墓に行くと、同じ花が供えられてあった。時折供えられていない日もあったけれども、花の差し入れはほぼ毎日そっと置かれてあった。赤い花、黄緑の花、見た事もない花もあれば、道端に咲いているような花もあった。
 その花達はマジェスを失い、ぽっかりと開いてしまったミナの心の穴を癒してくれた。心の穴を通り抜ける風を優しいものへと変えてくれた。傷をそっと優しく、撫でるかの様に。ミナはこの花を差し入れてくれている人にお礼が言いたいと思った。
 友人達に聞いても、花を差し入れてくれる人は知らないと言った。マジェスの友人に聞いても知らないと言う。一体誰が飽きもせず花を供え続けてくれているのだろう。親しい人でなければこんなに毎日続く筈が無い。
 夜、寝る前に玄関を調べても何の変化は無い。しかし、朝起きて玄関のドアを開けると、花がそっと置かれてある。そんなに朝早くから誰が墓参りをしているのだろう。ミナはどうしてもその人に礼が言いたかった。ここまで立ち直る事が出来たのはあの花があったお陰だ。
 その日の朝はいつもより早起きをして、身支度を整えてから外に出ると、花はもう既に玄関先に置かれてあった。この花は生前マジェスが好きだと言っていた花だ。茎の切り口を見ると、まだ新しい。今から追い掛ければきっと間に合う。ミナは花を抱える様に持ち、まだ明けきらない道を走った。太陽はまだ顔を出した程度だ。マジェスを喪って、今日で丁度一ヶ月。今日を逃したら、礼を言うチャンスは二度と巡ってこない様に思われた。
 息を切らしながら墓地に辿り着くと、整然と並んだ墓標の一つの前に、人影が見えた。遠目で良く見えないが、その人影は墓に一礼すると、そのまま立ち去ろうとしていた。あの人が、花をくれた人だろうか。考えるより先に体が走り出していた。足音で気が付いたのか、その人影は立ち止まってミナの方を振り向いた。見た事のある顔だった。
「―――待って!」
 漸く追い付き、その腕を掴むと、まだ朝食を摂っていない体で走ったせいか、軽い眩暈を覚えた。加えてここまで全力疾走したので息が上がりきってしまって、少し噎せた。
「だ、大事無いか?」
 その人はマジェスの葬儀を執り行ってくれた、部隊長だった。確か国王の警護も勤めていて、名は―――
「…… ……た、が、……あなた、が、お花を下さっていた、方、ですか?」
 見上げて、息も切れ切れに尋ねると、その人は少し気まずそうに、それでもしっかりと頷いた。マジェスの所属していた部隊の隊長で確かカイエンとかいう名ではなかったか。 随分とマジェスが褒めていた記憶がある。強くて、真っ直ぐで、素晴らしい人だよ。 そう言っていた。
「……すまぬ。出過ぎた事とは、思っていたが……」
「いいえ、そんな事ありません」
 申し訳無さそうにカイエンの顔が曇ったのを見て、ミナは大きく頭を振る。そして、一気にまくし立てる様に礼を述べた。
「私、あのお花に随分助けられたのです。
 死のうと思って外に出たら、貴方が置いて下さったお花があって、ここに来たら同じ花が供えてあった。
 本当なら私がするべき事でしたのに、私は逃げていたのです。
 私は私の事しか考えていなかった。その事に気付かせて頂きました。
 ……どうしても、お礼が言いたかったの。
 ご心配掛けてしまって、本当にごめんなさい。私、元気になりました。
 有難う御座います」
 上がった息を整えながら深々と頭を下げてお辞儀をすると、カイエンは何故か慌てた。
「あの一件は拙者にも責がある。
 ……これくらいの事しか、出来ぬから……」
 あの日あの時の一瞬の判断ミスで、若い命を失わせてしまった。勿論それは誰が悪いという事ではないのだけれど、あれは自分の責任だと今でもカイエンは思っている。
 葬儀の時に見た、魂が抜けてしまったかの様なミナに不安を覚えた。あのままではきっと自分から死んでしまうか、廃人寸前になってしまうと思った。カイエンもまた、その経験があるからだ。先代陛下が崩御した時、世界の終わりの様に思えた。立ち直れたのは現国王が叱咤してくれたからだ。 しかしミナの場合は、いくら心配したからと言ってもそこまで首を突っ込むのは躊躇われた。他の部下がミナの具合を心配して、何とかしてやりたいですよね、と言っていたのを聞いて、 せめてもの慰めになれば、と花を置いた。
 花は誰も傷付けない。 ただ、黙ってそこに咲く。
「立ち直ってくれた様で良かった。……では、拙者はこれで」
 立ち去ろうとカイエンが踵を返そうとすると、ミナはもう一度その腕を掴んだ。掴まれたその腕が、思わず強張る。
「あっ……ご、ごめんなさい」
「いや…… ……な、何か?」
「あの……良ければ今度、うちに遊びに来て下さい。お礼にお茶でもと思って……
 あ……良ければ……ですけど……」
 どこかよそよそしい態度をとるカイエンを見ると、その語尾も段々小さくなる。あまり無理を言うと迷惑かも知れないと、ミナは今更発言を少し後悔した。
「…… …明後日なら」
「え?」
「明後日なら……非番で……時間はあるが」
 口元を押さえて目線を逸らしているのを見て、ミナは初めてそこでカイエンが照れているのだと知った。隊長は女が苦手なんだよ、と生前のマジェスが言っていた気がする。
「……では、明後日のお昼過ぎにでもいらして下さい。お待ちしております」
 にこ、と笑うと、カイエンはぎこちなく頷いて、そのままミナに背を向け、歩き出した。ミナはその背にもう一度深く礼をしてその姿が見えなくなるまで見送り、その後、マジェスの墓へと足を進めた。

 墓に供えられてあった花は、ミナの心の様に、凛と咲き誇っていた。