みつめる

 ごつごつした大きな岩石の上で、リルムは先程から木炭とスケッチブックを持って唸っている。スケッチをする対象が無いのではない。視線の先には姿勢良く胡坐を組んで目を閉じている体格の良い男が居る。リルムは暇さえあればスケッチやデッサンをしていて、人物画は良く仲間を参考に描く。そして今日のスケッチは彼に決めたのだが、当の本人は修行大好きな人間の癖に今日は瞑想しかしていない。これでは動きのある絵が描けないではないか。別にその瞑想している姿を色んな角度で描けば良いだけの話なのだが、どうもこういう姿を描くのは苦手だった。
 邪魔になる訳ではないとは知っている。しかし天地と一体化しようとしている(寧ろもうしているのかも知れないが)所を描くのは何だか不謹慎な気がした。だからリルムの手に握られている木炭はさっきからスケッチブックの紙面に付いたり離れたりしているのだ。
 他の誰かを描けば問題はあっさり解決するのだが、生憎と今日は絶対に彼と決めてしまった。それ故、この広い荒野に取り残されている訳なのである。 夕方までには迎えに来よう、と言われているが、それまでには随分と時間がある。かと言っていい加減他の事したら、と口を挟む気にもなれない。むう、と口を尖らせて、リルムは視線の先の男を見つめた。
 最初に見た時は随分とでかくて体格の良いお兄さんだなあと思ったのだが、世界各地を回った今では彼は格闘家にしては細い方なのだと知った。腕も足も、他の仲間とは違う筋肉の付き方をしている。全く違う、という訳でも無い。例えば、あまり使っている所を見た事は無いが、槍を使う彼の兄は上腕筋や背筋が鍛えられているし、身のこなしが軽い自称トレジャーハンターなんかは足の筋肉がしっかりしている。彼にとってみれば体全体が武器であり防具なのだから他のメンバーに比べて筋肉が付くのは当たり前なのだが、扱う武器が違えばこうも体付きが違うのかと感心してしまう。年がリルムよりちょっと上の野生児もそう言えば体格的には目の前の男に似ているのかも知れない。
 サマサの村にはここまで体格の良い人間は居なかったので、最初は随分と参考にさせて貰ったものだ。曲げた腕にぶら下がった時、その腕がびくともしなかった事を覚えている。そんな姿しか見た事が無いのだから、小さかった頃はリルムより細かったよ、なんて言われても信じられない。
 真っ直ぐ伸ばされた背筋。伏せられた目。酷くゆっくりと繰り返される呼吸。どこをとってみても、今の彼が完全なる『絵』になっている。絵の空は本物の空に敵う訳が無い様に、今の彼を画面に納めても到底敵う訳が無い。それはどんな被写体でも同じ事なのだけれど、ここまでぐさりと心にその事実が刺さったのは初めてだ。
 ちぇっ、とリルムは口を尖らせて、スケッチブックと木炭を自分が座っている所に置いた。そろそろ唸りながらああでもないこうでもないと思考を巡らせるのにも飽きたからだ。今の彼にとってリルムは周りに溶け込んでいる一つの有機体でしかない。動く事によって空気の流れが変わる、それは感じているに違いない。しかし彼もまた周りと溶け込んでいるのだから、考えようによっては自分と彼は同一のものと感じられるのかも知れない。
 そろそろと近寄っていくと、腹筋の辺りがスローモーに動いているのが見えた。リルムは以前その呼吸を教えて貰って真似してみた事があるのだが、とてもじゃないが出来たものではない。大体、日常生活で腹式呼吸など必要無い。胸ではなくて腹で息をする、なんて言われても良く分からない。
 距離を詰めて全く変わらない表情をじっと見る。意外に睫が長いというのを知ったのは再会してからだ。一見すると野性味溢れているが、よく観察すると王族だという事も頷ける。いくら城を飛び出してからずっと修行三昧だったとは言え、躾けられた立ち居振る舞いはそうそう消えるものではなく、言葉遣いも雑かと言えばそうでもない、結構不思議な男だ。誰に対してもすぐに打ち解けられる。意味も無くおかしくなって、くすっと笑った。
 彼に限らず、彼の兄もまた王族らしくないのに、時々見せる『王』の顔は流石だと思わせる。すごいよね、と言えば、そうだろ、と彼は誇らしげに笑う。 逆に彼の兄に彼の事、例えば修行頑張るよね、と言えば、そうだね、と嬉しそうに笑う。彼ら兄弟は今まで知っているどの兄弟よりも、お互いに絶大なる信頼を置いている。そしてお互いを誰よりも尊敬し、敬愛している。リルムはそれが羨ましいのだ。兄弟の居ない身としては実に羨ましい。 ただ、それ以外の羨ましさを彼の兄に抱いているという事にリルムは気付いていない。
 正面から向き合う様に、そっと彼との距離を縮める。無意識の内に手が伸びて、頬に触れそうになった。しかしそれは駄目だろうと思い、寸前で手を止める。普段ならそんな事を意識もしないのに、伸ばした指を擦り抜ける柔らかな風が邪魔をしてはいけないよと優しく自分を戒めている気がした。リルムだって邪魔をしたい訳では無い。決して邪魔をしないから、と言って同行させて貰ったのだ。
 邪魔をしたい訳では無いのだけれど、今こんなにも自分が彼を見ているのに、彼の視界に自分が映っていないのが面白くないだけで。別にそれは彼のせいでは無いのだが、面白くない。その罰だと言わんばかりに、リルムは目の高さよりちょっと下にある彼の額に、屈んで小さくキスをした。……相変わらず彼は動じもしなければ何の反応も返さなかったけれど。
 それでもどこか満足してしまったリルムは、また元の位置に戻ってスケッチブックを広げたのだった。



 どれくらい時間が経った頃だったか、それでもまだ太陽はそんなに傾いていない頃、ゴウ、と風を切りながら飛空艇が近くに降り立った。夕方までに迎えに来ると言っていたが、それにしては早い気がする。リルムは首を傾げて飛空艇の方を見ると、タラップから誰かが降りてくるのが見えた。どうも未だにじっと座ったまま瞑想している彼の兄の様だ。リルムの姿を確認すると、エドガーは手に持っていた紙袋を掲げてにこりと笑った。
「やあレディ、良い絵は描けたかな? はいこれ、ちょっと遅いけど、お昼ご飯」
 手渡された紙袋を開けると、サンドイッチが入っていた。そう言えば昼食の事をすっかり失念していた。 道理で空腹を覚える筈だ。
「おや、まだあいつは瞑想中?」
「ここ来てからずっとだよ」
「それは退屈だったろうね」
「……そうでもないかも」
 実際リルムは何も描けていないのだが、あれからゆっくりと流れる時間がひどく心地好くて、じっと見ていてもちっとも飽きなかった。
 折角貰ったし、食べようかな、と紙袋を開けた時、何か動く気配がした。見ると、今までずっと石の様に動かなかったマッシュが目を開けて顔を上げていた。 そして緩慢な呼吸を一、二度したかと思うと、ゆっくりと立ち上がった。
「何だ。目、覚めたの?」
「……寝てた訳じゃねぇっての」
 リルムが冗談っぽく言うと、マッシュも苦笑しながら言い返す。座りっぱなしで動かさなかった首をぐるりと回すとエドガーが近寄り、その頭を撫でた。
「随分長い間瞑想してたんだな。頭、埃っぽいぞ」
「ああ……そんなひどい?」
「念入りに払わないとセッツァーが煩いだろうな」
 エドガーがわしゃわしゃとその柔らかな髪を掻き回すが、マッシュは大人しくされるがままになっている。基本的にマッシュはエドガーには逆らわない。 いつまで経っても子ども扱いだ。
「お前、ずっと居たんだな。てっきり飽きてどっか行くと思ってた」
 エドガーに頭の砂埃を払って貰い、体を自分で叩きながらマッシュがリルムに視線を向ける。
「どこに行くって言うのよ。なーんにも無いじゃない」
「そうだけど……」
 リルムはサンドイッチを一つ取り出して頬張り、要る? とマッシュに紙袋を差し出したが、 マッシュは手でいいよと断った。
「しかしまあ……今更だが日焼けしたな。
 お前はまだ良いが、レディ、今日はきちんと肌の手入れをしないといけないよ」
「えー? 焼けてる?」
「結構ね」
「リルム、お前、艇に戻ってろ。俺まだもうちょっと居るから」
「ええ?」
「ティナ達がお茶を淹れているよ。そのサンドイッチと一緒に召し上がれ」
「兄ちゃんは?」
「うーん、どうせだし、手合わせしてみるか? ……って言っても私は槍だが」
「良いよ。そっちのリーチが長い方が実戦的だから」
 どうもリルムそっちのけで話が進んでいるので、むう、と口を尖らせると、ちらりと視線が合ったエドガーが、少し勝ち誇った様な顔をした。……様に、見えた。 明らかに意図的だ。しかし今、この場では分が悪い。勝てる相手では無い。大人しく退散するしかないな、と内心溜息を吐き、
「ほんっと、修行馬鹿だねー。じゃ、先に帰ってるからね!」
 と、ちょっとだけ悪態を吐いて、持ってきた荷物を持って飛空艇に走り出そうとした、その時。
「ああそうだ、おいリルム、」
 マッシュに呼び止められて、振り向くと。

「ああいう事、あんな時にすんなよ。思いっ切り集中力切れたじゃねえか」

 別に真剣に怒っている訳でもない様な顔でマッシュがそんな事を言うものだから、リルムは何だか一気に嬉しくなって、
「じゃあ今度は皆の前でやってあげるよ!」
 と悪戯っ子の様な顔をして笑い、元気良く飛空艇へと駆け出していったのだった。

 勿論その後、マッシュは兄から何の事だと詰め寄られたのは、言うまでもない。