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惚気は無自覚

 プシュ、という小気味良い音を立てて開けられた缶ビールの注ぎ口からは独特のにおいが薫ってくる。飲酒など久々なのでは、と最後に酒を飲んだ記憶を手繰り寄せた道満は、それが半年程前であった事に訳もなく感慨を覚え、小ぶりなグラスに注ぎ入れた。缶のまま飲んでも良かったが折角久方ぶりの飲酒であるし、何より労働の対価としてのビールなので、その黄金色をグラス越しに見たいというのもあった。第三のビールでも発泡酒でもない、きっちり「生ビール」と缶に書かれているビールである。綺麗な泡まで作れた事に満足し、頬を緩めつつも飲むと、心地よい苦味と炭酸の刺激が口いっぱいに広がり、思わず飲み干してしまった。
「おお、良い飲みっぷり。蘆屋先生、ビール飲む時美味そうに飲みますね」
「人の奢りで飲む酒ほど美味いものはないですからな」
「人の金で食う焼肉は最高に美味いというやつですか」
「それです」
 小さなテーブルの向かいに座る晴明は炭酸水を片手に豚バラの串を貪りつつ、どこか満足そうに目を細めて道満を見ている。成人しても酒の味は特に好みではなかったらしく、夕飯の買い出しでカゴに入れてきたのは無味の炭酸水のペットボトルで、道満は変な男だと思ったが、変なのは昔からであるので何も言わなかった。
 ここは晴明の自宅、ではなく、道満の自宅、でもなく、二人の居住区から県境をいくつか越えた所の、ごく一般的なビジネスホテルだ。小さなテーブルを埋めているのは、ホテルのフロントの受付嬢に尋ねて教えてもらった近場のスーパーで買った惣菜である。居酒屋に行く事も考えたのだが、ほぼ一日中車を運転していた道満に外食する気力が無く、一日くらいこんな食事でも楽しかろうと晴明が提案したので、道満も賛同した。晴明は顔が無駄に良いのでホテルの受付嬢もスーパーのレジの店員も、買い物客さえも見惚れていて、側から見ていた道満は人は見た目が百パーセントですなあなどと思ったものだ。
 何故道満が晴明とビジネスホテルで夕食を食べているのかと言うと、晴明が取材旅行に行くと言ったので同行している。いくら担当だからと言って同行する義理も無ければ必要も無いのだが、人気小説家のハル先生が取材旅行を所望し、直々に同行者として指名してきた上に、移動は道満が運転する車が良いと駄々をこねたので本当に渋々希望を叶えた。どれもこれも、数ヶ月前に新作短編小説で自分を唸らせる事が出来たら取材旅行の同行も考えてやらなくもないと道満が言ってしまったせいである。それまで晴明が書いた話は全て唸らされていたのに、どうしてあんな約束などしてしまったのかと今更後悔しても詮無い。
 道満は編集部に提出する前に晴明が自宅でプリントアウトした原稿を目の前で読ませられ、そして案の定唸ってしまった。相変わらず着眼点が鋭く、物語の広げ方や伏線の回収が上手くて、この限られたページ数でこうもコンパクトに纏めてみせるかと舌を巻いた道満は、重苦しい溜息を吐いて取材旅行の同行を承諾した。その返事を聞いた後の晴明の行動は早く、原稿を提出した後に編集長に長編小説の取材旅行並びに道満の同行の許可を願い出て、交渉の末許可をもぎ取ったのだった。出発は数ヶ月後にはなったのだが。
「しかし、人の運転で移動する旅は快適ですね」
「あなたまた爆睡してましたね?! 車窓から見る景色も立派な資料ですぞ!」
「いやあ、昨日は楽しみ過ぎてあまり眠れなかったもので……」
「遠足前日の小学生ですかあなた……」
 晴明も一応運転免許は持っているのだが、妙なところで律儀な道満は今回も一日中ハンドルを握った。家庭教師時代に連れて行ってやった旅行がどうも晴明にとっては楽しかった思い出であるらしく、蘆屋先生の運転で、と念を押されていたというのもある。最近は専ら電車を使用していた道満は仕方なく数日前から車を運転して勘を取り戻し、今日に至った訳なのであるが、そんな道満の涙ぐましい努力など知らない晴明は助手席で爆睡していた。道満の運転に危なげがなかったというのもあるし、車の性能の良さもあるだろう。
 本格的な取材は明日からで、今日は本当に移動だけであったから、晴明も気持ち良く爆睡したに違いない。だが運転している道満にしてみれば、話し相手も居ない上に隣で寝られてしまうとこちらまで眠たくなってしまうので、予め持参していたスルメと高速のサービスエリアで買い足した缶コーヒーで何とか凌いだ。道満は咀嚼とカフェインは眠気覚ましに効果的と昔から考えている。そのサービスエリアでもまだ寝ていた晴明の呑気で間抜けな寝顔を撮影し、腹いせに諾子に送ってやると、爆笑の絵文字が並んだ返事がきたので溜飲を下げてやった。
 ちなみに、巨躯の道満が座っても運転しやすい車はどうしても輸入車になってしまう為、レンタカーでは高額となってしまうからどうするか悩んでいるとこぼすと、道長という名の道満の上司が乗っていない輸入車を貸してくれた。擦っても大破しても目を瞑ってやるが作家は怪我させるなよと脅された道満は、別の意味で心労を溜めつつ安全運転でこのホテルに到着している。車から降りて呑気に伸びをした晴明の後頭部を叩きたかったがぐっと堪えた事に対し、自分で自分を褒めてやりたいところである。
「旅行自体が久しぶりですからね。相変わらず蘆屋先生は運転が安定している」
「おだてにもなりませんぞ、事実ですからな」
「えっ、純粋に褒めたんですけど」
「ンンン、あなたから褒められると少々気持ち悪いですねぇ……」
「ひどいなあ」
 甘辛く味付けされた牛すじとこんにゃくの煮物を食べながらのビールは美味く、晴明と話していても機嫌は悪くならない。道満が一方的に嫌っているだけなので晴明に悪気は無いのかもしれないが、それにしても蘆屋先生が書いてて面白そうだったからという理由で書いた小説がどれをとっても自分の書くものより面白いのは腹立たしい。が、そんな事情は目の前の惣菜には関係無く、デミグラスソースがかかったビフカツを一切れ食べながらこれは接待なのだと思う事にした道満は、メッセージ音に気付いて自分のスマホを見た。
「……諾子氏のお宅に預けられたあなたの飼い猫、中々面白い顔をしてますな」
「え、リンボの写真送られたんです? 私の方には何も……いや届いてました、これはうっかり」
 送られた画像には猫と共に自撮りしたのであろう諾子が写っており、テンションが高そうな諾子とは対照的に白と黒のツートンカラーの大きな猫が虚無顔をしている。小柄な諾子が抱き上げると大きさが際立つその猫は、数ヶ月前から晴明の飼い猫だ。それこそ、晴明が道満に取材旅行の同行を依頼する為に新しく短編を書くと言った日の数日後に用水路に引っかかっていた所を助けたらしい。カラーリングは生まれつきである様で、珍しいし面白いから飼う事にした、名前はリンボ、と原稿スケジュールの打ち合わせに訪ねた道満に説明した晴明は、リンボと格闘した痕が所々に見受けられた。
 そのリンボを置いたまま旅行に行く事は出来ず、どこのペットホテルが良いか知りたいと相談した晴明に、猫を飼っていた経験がある諾子が預かるよと香子経由で言ってくれたのだ。道満もリンボに生傷を作られた事があるので大丈夫かと心配したが、お試しの宿泊では威嚇されただけで済んだらしい。
「流石のリンボも、諾子氏相手では虚無顔ですね」
「おやつと引き換え条件なのかもしれませんな。あの猫は中々賢い様なので理解している可能性がある」
「じゃあ私も蘆屋先生に私の分の回転焼きあげますので同じ構図で写真撮りましょう」
「寝言は寝て言え」
 諾子から送られた写真を目尻を下げて見ていたので、この男でも猫を愛でる趣味があったのかと思いながら二本目のビールを飲んでいた道満は、テーブルの隅に置かれた紙皿に乗っている回転焼きを指差して言った晴明に悪態を吐いた。何が悲しくて特に好きでもないと言うか寧ろ嫌いな晴明と、顔を寄せて写真を撮らねばならないのだ。心の中でそう呟いた道満に、晴明はスマホの画面の愛猫を見せて言った。
「リンボと蘆屋先生、どちらが可愛いか諾子氏に判断していただかなくて良いんです?」
「ンンン……猫は猫の、儂は儂の可愛さというものが……」
「蘆屋先生は多才だからリンボより可愛く写る事が出来ますよね?」
「ええ、ええ、良いでしょう、元より可愛い儂が最高に可愛く見える角度を見せ付けてやりましょうぞ」
 あまりにも荒唐無稽な挑発に、道満も自棄になって席を立つ。まだ大して飲んでいないが、空きっ腹に入れたアルコールがやや回っていたのかもしれない。完全に素面の晴明はそうこなくちゃ、などと上機嫌でスマホを片手に道満に顔を寄せ、インカメラに切り替えて自分達の画面内の構図を確認した。
「もう少し左、そう、そのまま」
「蘆屋先生、もうちょっと下じゃないです?」
「これ以上は腰にきます、あなたの身長が低いんです」
「蘆屋先生に比べたら殆どの人は低いですよ」
 晴明の写真写りなどどうでも良いので自分の写り具合を確かめている道満は、晴明の身長に合わせて屈んでいるのでやや腰を痛めそうになっている。ただでさえ長時間の運転で腰がだるいし、明日以降も運転する予定であるから、これ以上痛めるのは避けたい。そう思っていると、不意に腰に手を回されて道満の体が強張った。
「支えてますので、もうちょっと下がれます? 私、背伸ばしはこれが限界で」
「……これくらいですか」
「ああ、良いですね、はい笑って」
「ンンンンン……!」
 この体勢で笑えと言うのも無理があるが、それでも挑発に乗ってしまったのは自分であるし、仕方なく道満は取ってつけた様な笑顔を浮かべた。画面に映る自分の顔は上げた口角が引き攣っており、満面の笑みで諾子と同じ様にウインクをしている晴明に比べて不自然だ。タイマーでシャッターが切れた音がして、ほっとして気が抜けた瞬間、またシャッターの音がした。間違えて押してしまったのだろう。
「やあ、良い写真が撮れました。諾子氏と香子に送っておきますね」
「ちょっとお待ちを、諾子氏は分かりますが何ゆえ香子氏にまで送るのです?!」
「グループLINEがあるので。さっきのリンボの写真もそっちで送ってもらいましたし……はい、送っておきました」
「ンンン、何たる屈辱!!」
 どうやら晴明は個別LINEではなくグループLINEで遣り取りをしているらしく、そこに自分が加わっていないのは良いにしても、諾子だけではなく香子にまであの不自然な作り笑いが漏洩したのは気まずい。道満と香子は特に接点らしい接点は無いけれども晴明や諾子からよく話を聞くし、脚本家である彼女がライターを担当したドラマは時折視聴している。一度、諾子に呼び出されたらしい彼女と話した事があり、諾子とはまた違った聡明さを持つ女性だったと道満は記憶している。ただ、その際に一応LINE交換はしたけれども、殆ど直の連絡は取った事が無かった。諾子だけならともかく、香子にまであのぶりっ子の様な写真を見られるのは道満であっても恥ずかしいものがある。
 しかし、どうやって仕返しをしてくれようと歯噛みしている道満を尻目に、晴明は頬を緩ませたまま画面を見ながら言った。
「蘆屋先生が言った通り、リンボはリンボの可愛さがあるし蘆屋先生は蘆屋先生の可愛さがありますね。うんうん、良い写真が撮れた」
「……ようございました」
 晴明の言う「可愛い」は愛玩動物に対するものの意味しか無いであろうから、やや引っかかるものがある。だが画面を眺めている晴明の顔は実に嬉しそうで、満足げだ。意識してそんな顔をしている風には到底思えず、本心であろう。どんな文句を言い、どんな意趣返しをしてやろうか考えを巡らせていた道満は、そのだらしない表情にすっかり毒気を抜かれてしまい、盛大な溜息を吐いてからどっかりと椅子に座った。
「もう良いですな、あなたのお遊びに付き合っていたらビールの気が抜けきってしまいます」
「どうも。あ、これお礼の回転焼きです」
「いらんわ!」
 ホテルのフロントに設置されてあった電子レンジで温めた惣菜はすっかり冷めており、それでも美味い事に変わりはないので味が染みたこんにゃくを食べると、晴明が爽やかに笑ってメッセージ着信音が鳴り続けているスマホ片手に回転焼きが乗った紙皿を差し出してきた。よく考えなくてもビールに回転焼きはあまり合うものではないと思った道満が拒絶の怒声を上げても、晴明は終始締まらない笑みを浮かべるばかりだった。



「はぁ〜、かおるっち見たー? あっきーのこの幸せそうな顔」
「は、はい……すごいですねこれは……」
 虚無顔の大きな猫を片手であやしながら、諾子は向かいに座る香子にやや呆れ顔で言う。いつもであれば香子は返答に困っているところであるが、今回ばかりは同意せざるを得なかった。諾子のスマホにも自分のスマホに送られてきた写真と同じものが表示されている筈で、先に送った諾子と同じポーズをとってウインクしている晴明と、彼に頬を寄せられ貼り付けた様な引き攣った笑みを浮かべている道満の画像に、何となく同情してしまう。
 猫を預かったので遊びにおいでよと諾子から誘いがあり、晴明の飼い猫は写真でしか見た事が無かった香子は、了承して諾子の家を訪問していた。リンボと名付けられた猫は数ヶ月前に拾われたとは思えない程の貫禄で諾子の隣に丸まっており、うっすらと生傷が見受けられる小さな掌で撫でられている。そのリンボとツーショットを撮った諾子が晴明に写真を送信したところ、暫くしてから道満とのツーショット画像が送られてきたという訳だ。
「蘆屋先生、よく晴明先輩とこんな写真撮りましたね……多分晴明先輩が言いくるめたんでしょうけど……」
「みっちー、口ではあっきーの事嫌ってるけど、何だかんだ言って面倒見良いし付き合いも悪くないしね〜。見せたっけ、昼間送られてきた写真」
「え? ……こ、これは……」
「しかもさあ、この後あっきーから送られてきたLINEがこれ」
「……はわわ……」
 奇妙なものを見るかの様な顔をした香子に、諾子は道満との個別LINE画面を提示してやる。そこには、どこかのサービスエリアで停車中の車内で眠る晴明の画像と、「間抜け面」の一言だけのメッセージが送られている。続いて諾子が示した晴明との個別LINE画面では、「蘆屋先生、私が寝てると思って写真撮った」とご丁寧にピースサインの絵文字付きのメッセージがあり、香子は赤面してしまった。諾子はこの二人と個別に遣り取りしながらリンボと戯れていたのだとすると、確かに誰かを呼んで話したくもなるだろうと香子は思った。
 そもそも、晴明がこのリンボを拾った理由も道満に似ているから、という事であるらしい。言われてみれば目元が似ているし、白黒のツートンカラーが道満の頭髪そっくりであるし、ふてぶてしく堂々とした様が道満を彷彿とさせる。しかし、何故リンボ――辺獄などという物騒な名をつけたのか尋ねると、辺獄というタイトルの、海に捨てられた赤子が漁師の網にかかるといった内容の詩を拾った時に思い出したから、と言われた。道満に似たカラーリングだから飼う事にしたと、実に安直な理由で猫を家に迎え入れた晴明に不安しか抱けなかった香子であるが、命名の経緯はともかくとして、食事も不自由無くブラッシングもこまめにしてやっている様で、リンボは実に毛並みが良い。
「晴明先輩、昔も寝たふりして蘆屋先生を見ていたそうなんですよね……」
「健気なんだか図太いんだか分かんないよねー、あっきー。みっちーも災難って言うか……ん?」
 呆れながらLINEの返事を片手で打っていた諾子は、新たに受信した画像に目を丸くして指の動きを止めた。彼女の反応にはて、と首を傾げた香子は数秒後に自分のスマホにも受信された画像に、諾子と同じ様に目を丸くした。
 グループLINEに送信された晴明からの画像には、諾子とリンボの写真と同じ構図で撮られた写真の一呼吸後に撮ったのであろう二人の姿が写っている。どこか誇らしげな晴明はともかくとして、道満は滅多に人前では見せない様な気の抜けた顔をしており、彼と付き合いの長い諾子も見た事が無い表情だった。極め付けは、その後に送られたメッセージだ。

『諾子氏がリンボを可愛く撮っていたのが羨ましかったので、私も蘆屋先生を可愛く撮りました』
『個人的には二枚目の方が可愛いと思います、ご査収ください』

「……かおるっち、どう思う?」
「た、大変ですね……蘆屋先生が……」
「これはみっちー、逃げられないね〜。可哀想に」
 香子から晴明の過去の諸々を聞いていた諾子は心底道満に同情するが、自分と会う時も晴明の話題を多く出す彼を見ていると破れ鍋に綴じ蓋という言葉がいつも思い浮かぶ。何だかんだで似合っているのでは、いっそ秘書でもやれば良いのに、と思うけれども、きっと道満は全身全霊で嫌がるだろう。それも面白そうではあるが。
「は〜、もう、二人して惚気てくれてさー。良いおみやを持って来なかったら有り得なしの介って呼んでやろう」
「お花畑の君でも良いと思います」
「わはは! かおるっち、あたしちゃんよりどいひーだね! でもめっちゃエモいな〜お花畑の君か〜!」
 晴明のメッセージには返事をせず、脇に座っていたリンボが伸びをして毛繕いを始めたのを写真に撮りながら溜息混じりに漏らした諾子に、香子が痛快な返答を寄越す。それに屈託なく笑った諾子は、ンンン、と道満の様に唸ったリンボの写真を晴明ではなく道満に送信し、「おつかれちゃん」とだけメッセージを送ったのだった。