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ひとでなし

 星々が輝く夜空が、東の方角から白み始める。雨が降っていなくて良かったと思ったのは、恐らく道満だけではあるまい。寒すぎず暑すぎず、ちょうど良い気候であったのも良かった。その時分を選んだのが、目の前の男――晴明である事は、気に食わないが。
「……いつまで見ておるつもりだ」
「さて。おまえの目が閉じるまでかな」
「この首を切れば、すぐにでも閉じさせる事が出来ように」
「うん――」
 何とも煮え切らない態度の晴明の、血や泥で汚れた狩衣と同じ様に、端正な目鼻立ちの顔も汚れている。それがどうにも滑稽に思えて道満は力無く笑ってしまい、喉の奥から血がせり上がって口から漏れた。
 どれくらいの時間、術比べをしてお互いをすり減らしたのだったか、道満の覚束ない頭では思い出せない。京の都から追放され、戻ってきた故郷の播磨で暫くは民草が望むように力になりながら過ごしてきたが、自分の存命を快く思わない者によって遣わされた晴明が姿を現した時、道満はそれまでの人生に経験した事が無い程の、烈しくも静かな炎を胸の裡に感じた。漸くこの男と、京の守護者でも京の都一の陰陽師でもない、肩書を全て取り払った「安倍晴明」そのひとと対峙し、術比べが出来るのだと思った。
「よもや、この期に及んで、儂を討ち取る事を躊躇っている、のか」
「躊躇っている訳ではないよ。ただ……いや、よそう、言うとおまえは怒る」
「今更何ぬかす、このダボ」
 京で長らく呪いを中心とした術を扱っていたせいか、道満の体は随分蝕まれていた。だがそんな事を抜きにしても晴明の力というのは老いて尚も強力で、悔しいが完全敗北と言わざるを得ない道満は、言い淀んだ晴明を霞む目で睨みつける。お互い、術で若作りはしていたが、精魂尽きて血や泥で汚れた姿で座り込んだ状態ではその化けの皮も剥がれようというものだ。少しずつ明るくなってきたとは言え夜空の暗さの下でもある上、道満の視界は徐々に失われつつあったので、残念ながら晴明の皺の寄った顔は見えなくなってきている。しかし、爺であっても顔は整っているのだろうと思うとやはり腹立たしい。
「はは、腕に抱けば喉笛を食い千切ってきそうな程には元気じゃないか」
「……もう目も見えてない。早く言え」
「……おまえのその炎が消える瞬間を眺めていたい」
「ンン……、最後までろくでなしですなあ……」
「違いない」
 道満はもう声音で判断するしかないが、晴明のその目は凪いだ海の様に静かで、穏やかで、どこかうそ寒いものであるのだろう。およそヒトとは思えない雰囲気を幼少の頃から纏い、それでもヒトの生活の中に身を置き続け、それらを守ろうとした晴明は、道満にとっては得体の知れない存在にしか思えなかった。あやかしじみた晴明に幾度となく挑み、敗れ、挫折も経験しながら走り続けた道満は、最期までこの男の事は何一つ分からないと、血の味しかしない奥歯を噛み締めた。
「ろくでなしだから、何もせずにここでおまえの最期を見届けよう。――なあ、みちたる、おまえとの戦いは実に楽しかったよ」
「……さよか」
 腹立たしく、悔しく、最期まで屈辱を味わわせる男だと、道満はその言葉に思う。ぼろぼろの姿で胡座をかき、本当に何もせずにただ自分を眺めているだけの晴明は、ひょっとするととどめを刺すだけの力を残していないのかもしれない。そんな考えが浮かんだ道満は、すぐにかき消した。この男に限っては有り得ない事だと、道満本人が誰よりも分かっているので。
 もう輪郭しか分からない晴明の向こうに、ぼやけているが輝く星が一つ見える。明けの明星だろう。一番明るいその星はすぐに分かるので、晴明に例えられなくもない。迷う事もなければ間違う事もない、眩いひかりを放つ、輝く星。
 その、星が。死にゆくだけの者を思い通りに出来ないと知れば、どんな反応を見せるだろうか。今度こそ自害を果たして見せたら、やはり莫迦者と言うのだろうか?
「……それ以上は考えずとも良いし、思い出そうとしなくて良い」
 道満の思考は晴明のその一言で途切れる。しかし、痛みや苦しみで綯い交ぜになった頭は、「今度こそ」などと思ってしまった事への疑問を浮かばせた。自害を果たせなかった記憶など無いというのに、何故そんな事を思ったのか、道満には分からなかった。
「……晴明、儂に、何をした」
「さて……、知りたくば、また私の前に現れておいで。百年でも二百年でも、千年でも待っている」
「この、ひとでなし」
「違いない!」
 自分の最後の罵倒を爽やかに笑って肯定した晴明に、道満はもう嫌味を言う気力も返事をする力も無かった。ただ、千年経ってもこの男は自分の一番星であるのだろうと思うと、心の底から憎らしかった。