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1823年10月、ウィーンにて

 平均寿命が五十に満たぬこの時代に、七十を超えても生きている事は珍しい。その珍しい部類の男が一人、静かな病室のベッドに横たわっている。彼はそのベッドの傍らに居り、男を見下ろしている。親類縁者でもない彼は、しかし長らく男の側に居た。それこそ、男が壮年期の頃からずっと存在していた。
「目も殆ど見えていないと言うのに、お前の姿は分かるものなのだな」
 老いた声は年齢にふさわしく嗄れているが、しかし意志ははっきりとしている様に張りがある。声を掛けられた彼は、どこか小馬鹿にした様に鼻で笑った。
「それだけ貴様の醜聞が象られてきたという事だ。我は大衆の中から生まれし者、その「物語」が形成されねば姿かたちがここまで固まらぬ」
「その割にはいまいちぼやけているな」
「やかましい、まだ足りぬだけだ」
 男が言う様に、彼の姿はどこか不安定で、ヒトの様にも見えるし、どこか鳥の様な印象もある。異形の者の様にもなれば、壮年期の頃の男の外見にもなれた。彼は、自身の言葉通り人間ではなかったので。
 大衆は流れ行く日々の中で、娯楽を求める。音楽も演劇も勿論だが、この時代、公開処刑も娯楽の一つであったし、個人を攻撃する様なゴシップもまた然りだった。男がかつての友人を、その才を羨み妬んで毒殺したというゴシップは、友人が若くして死んだ直後から静かに流れていた。その水面下に沈んでいた黒い噂がぼんやりとした形となり、男の側に侍る様になったのだ。
「お前とももう三十年以上の付き合いになるのか、我ながらよく生きた」
「全くだ、貴様随分と長寿だな。お陰で我の姿がここまで固まったのだが」
「サリエリがモーツァルトを毒殺したという流言飛語が蔓延る様になれば、一欠片の意識だけでもかの神才に見える機会が与えられると言ったのはお前だろう」
「……戯言にも近いその言葉を頼りに自分を貶める存在が現れるのを待った貴様は、正直狂人だと我は思うぞ」
 彼がこの世に現れ、まだ姿が覚束ない頃に男の側で囁いた一言は、男をここまで永らえさせるには十分な力を持っていた。その当時認められていなかった友人の音楽は、しかし男にとっては至高のものであったし、認めなかった世間が憎らしかった。あの天から降り注ぐ光の様な、暗闇を切り裂いて流れる星の様な音をまた聴きたいと願った男は、悪意の塊の様な存在である彼の言に何の躊躇いも無く分かった、と言った。その返答の速さに彼が驚いてしまった程度には、躊躇わなかった。
「おや、褒められてしまった」
「何故狂人が褒め言葉だと思うのだ?」
「褒めてくれた礼に、お前の姿が完成する手助けをしてやろう」
「おい、人の話を――何だと?」
 呆れた様に言った彼の声音が面白かったのだろう、男はくつくつと笑って漸く彼に顔を向けた。それまで視線しか寄越していなかった男が、体を動かす事もままならないというのにわざわざ身動いで彼を見たのだ。視力も弱まり、ほぼ見えていない目は、それでもしっかりと彼の姿を捉えていた。
「モシェレスが見舞いに来るらしい。私は無罪だ、信じてくれとしおらしく言えば逆に疑わせられると思わないか?」
「弟子すら利用するのか。業が深いな、貴様は」
「そうでもしなければ凡才は神才に会いに行けないのでね」
「………」
 若い頃から、この男は強かだった。弟子達から慕われ、多くの者から愛され、また男も惜しみなく社会貢献や慈善事業を執り行ってきた。そんな善良な人間が、根も葉もない噂から生まれた異形の者が抱える業火を受け入れ、たった一人に会いに行こうとしているのだ。これ程の狂人を生み出した、鮮やかな虹色の様な音をこの男の魂に抉りつけた者に。


――何とも胡乱な事だ。この男も、我も。


 死期が近い男の表情は、しかし子供が悪戯を思い付いたかの様に無邪気で。彼はその笑みに、地獄の深淵よりも深い闇を見た様な気がしていた。