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日照雨

 日照雨が降っている。
 陽の光を反射し、木々や草花に優しく降り注ぐ弱い雨が地面を緩やかに湿らせているという風流な光景を、しかし晴明は見る事が出来ない。床に伏せっているからだ。と言っても深刻な病などではなく、少々目眩を覚えたので大事をとっている。ここのところの多忙が祟ったのか、若く見えても年が年であるから蓄積した疲労が回復せず、体調不良を申し出て数日の休みを貰い、養生している。最優最良の陰陽師であっても、過労には勝てないものである。
 こんな体調でなければ濡れ縁でぼうっと雨を眺めていたかった、と晴明は思う。母が父に嫁入りした時も日照雨が降っていたそうで、勿論その時は自分はこの世に陰も形も無かった訳だが、母を連想するので好きなのだ。光が眩く反射し、草花を優しく打つ雨音の中を歩いてきた母はさぞこの世のものではないくらいの美しさであっただろう。時折父が聞かせてくれた母の話で、晴明はそう解釈している。
 屋敷の中は静まり返っていて、それが外の音を一層聞こえやすくしている。強い雨でなくて良かった、これが土砂降りであれば眠るに眠れなかっただろうなどと微睡む時間は贅沢だ。朝廷に仕えて以来、それなりに忙しい身である晴明は本当に久しぶりに日中から横になる事が出来ており、うつらうつらしている。
 どれだけそんな時を過ごしたのか、不意に晴明の耳にぱたりと不思議な音が響いて意識が覚醒する。水滴が板を打つ様な音が、すぐ側で聞こえたのだ。雨漏りする程この屋敷は傷んでない筈だが、と目線を音の方へやると、雨に濡れた童が一人、そこに座っていた。
「………」
 顔には見慣れた形代の紙が貼られ、物言わぬまま座っている。傍らには何かを包んだ布を置き、胡座をかいた膝の上にきっちりと手を置いている。髪から溢れる水滴が床を打つ音で目が覚めたらしいと得心した晴明は、その式神が害を成すものではないと判断してゆっくり上体を起こした。
 式神は使い魔とは違い、仕組んだ術式に従う。調伏した鬼神を式神として使役する事もあるが、小間使いなどには大抵こういった力を割かないものを使役する為、童の姿の場合もある。だからなのか、晴明程の陰陽師が接近に全く気が付かなかった。
 これは見るからにこの式神を遣わせた男の――道満の子供の頃の姿であろう。見た事がない姿に、晴明は言葉も発せずじっと眺めた。何しろ道満と出会ったのは晴明がまだ童子丸と名乗っていた子供時代で、その時には道満は元服をとっくに終えていた大人であったから、晴明は道満の童姿を見た事が無かったのだ。その童は現在の道満の巨体とは打って変わって華奢であったから、形代を捲って顔を見たい衝動に駆られたが、そうするとたちまちのうちに消えてしまうだろうと思ってやめた。
 晴明が何も言わずに見ていると、童姿の式神は傍らに置いてある包みを無言で差し出した。はてと思いつつ受け取り、中身を改めると、綺麗に処理された種々の薬草が入っている。見た限り毒草は一切入っておらず、滋味のものばかりだ。煎じて飲めという事だろう。
「……せっかちな奴め」
 式神相手であっても、それらを通じてこちらの言葉は伝わる筈なので礼を言おうと顔を上げると、もうそこに式神の姿は無かった。座っていた場所には濡れた跡と、もう妖力が消え失せた形代の紙があるだけで、水滴が床板を打つ音も無い。
「日照雨の中を来たのだから、嫁入りに来たのかと言ってやろうと思っていたのに。全く以て、つれない男め」
 晴明は僅かに苦笑しながら大事そうに薬草を包み直し、濡れた床を眺めながらそう独り言ちた。雨音は、もう聞こえてはこなかった。