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かなわぬもの

 盤を打つ石の音が静かな室内に響いては溶ける。会話を楽しむ余裕が無い訳ではないが、一切の術を禁止し己の頭脳と運だけを頼りに進行させる遊戯に熱中している二人は、会話よりもお互いの腹の探り合いを楽しんでいる様にも見える。普段は口元に薄い笑みを湛えている晴明も、この時ばかりは盤上の石を真剣な表情で盤を見詰めていた。
 さる公家から盤双六を貰ったから興じないか、と晴明が道満に持ちかけたのは昨日の事だった。古来、賭博にも使われ禁止令も出された程の盤上遊戯に道満も興味を示して頷いてくれたので、お互い何の依頼も入っていない今日の夕刻から興じる運びとなった。規定は難しいものではなく、ひと勝負するにもそこまで時間は掛からない遊戯ではないが、賽の出目によって勝敗が左右される為に熱中する者が多い。晴明と道満も例外ではなく、既に戌の刻になろうとしていた。
 二人程の実力の持ち主であれば、賽を意のままに操って優位に立てる目を出せる。しかしその様な不正を働いても面白くはないし、術比べならまだしも遊戯で余計な力を使う事もあるまいと、開始時に使用禁止をお互い取り決めた。気付かれぬ様に使用するなど姑息な手は使う様な人間ではないよね、おまえも私も、と言った晴明に、道満も眉を顰めながらも笑みを浮かべて肯定した。
 盤上の白い石を、道満の指が摘み上げて移動させる。この盤の持ち主はあなたなのだから、上手の黒石はあなたが使うがよろしいと言った道満が白石を使っているのだが、指先の黒に石の色が対比されて普段以上に美しく見えた。よくその長い爪で器用に摘めるものだと、晴明はいつも感心してしまう。様々な呪を取得し、己のものとしてきた道満の指先は見事に黒く変色してきており、それを隠す為の爪なのかもしれない。まだ童子丸と名乗っていた頃の晴明が初めて道満と出会った時も彼の指先は黒ずんでいたが、それは播磨に居た頃に周囲の者から頼まれて薬草の処方などもしていたからだ。薬草の灰汁で変色し、かさついた道満の指先を、晴明は今でも鮮明に覚えている。
 いつしかその指先が灰汁ではなく呪で染まり始め、術の強化に繋がるならと爪にもけわいが施される様になった今、道満の手を不気味がる者も少なくない。晴明はちっとも恐ろしくないし、こちらをどうにかして負かさんとするいじらしささえ感じるので嫌いではない。だが、出会った頃の道満の指先の方が好きであった。野心もあり、向上心もあり、何より貪欲に学ぼうとする側面と、民衆を慈しみ、助けようとする側面がその大きな体に同居しており、それは今でも変わらないけれども、卑屈さよりも自信が満ち溢れていた頃の道満の指先が好きだった。それを変えてしまったのは自分であると重々承知している晴明は、しかし自分のせいではないとも思っている。
「……殿、……明殿」
「え? あ、うん、なに?」
「なに、はこちらの台詞です、あなたの番ですぞ」
「やあ、これは失敬。次の手を考えていた」
「……そうですか」
 苦しい言い訳ではあったがそれ以上の詮索を面倒に感じたのか、道満はそれ以上の事は聞いてこなかった。気付けば道満の石は半数以上彼の陣地に鎮座しており、晴明もぼうっとしていた割には石が進んでいる。何せ最優だからな、と訳もなく自分に言い聞かせた晴明は盤の中央で賽を振った。出目は、良くもないが悪くもなかった。
 晴明が盤双六に道満を誘ったのは、頭脳もそうだが何より運に勝負を左右されるので、純粋に遊戯が楽しめると思ったからだった。生まれつき強大な力と才を持っていた晴明は童時分にその力を制御するのに精一杯で、道満との術比べで何度も彼を危険な目に遭わせてしまい、そのせいか単なる戯れも警戒されて付き合ってくれなかったのだ。そんな時を過ごしていく内に道満の指先は呪に染まってしまい、今に至る。ただのヒトが半妖の自分に追いつこうと足掻き、もがき、葛藤する様は、何とも言えない感情を晴明に齎そうとする。
「賀茂川の水、双六の賽、道満、これぞ我が心にかなわぬもの、ってね」
「ンン……? 斯様なもの、あなたでなくてもかなわぬでしょうに」
「そうだな、だからこの世は面白い」
 如何なる権力者であろうともままならないものを連ねた、今の世よりも後の法皇が放った言の葉を捩って言った晴明に、道満は当然と言うかの様に眉を顰める。ただ、やろうと思えば術を使わずとも賽の目はどうとでも出来ると道満は知っているし、晴明だってそうだ。今回はそういった行いは一切禁止という規定に則っているから未だに勝敗がついていないだけで、晴明がまだ道満とこの遊戯に興じていたいと強く思っているという訳ではない。……多分。
「何でもあなたの意のままになると思わぬ事ですなあ。最優の陰陽師であるとは、認めてさしあげてもよろしいですが」
「事実だからね」
「ン……、そういうところが気に入りませぬ……」
「ははは、こうでなければ私ではないだろう?」
「ええ、ええ、せめて盤双六でだけでもその鼻っ柱を負ってやりましょうぞ。拙僧、じきに上がりなれば」
 にやりと笑い、八重歯を見せた道満が、一瞬だけ童の様に見えた。表情には出さずに驚きつつ彼の手元を見た晴明は、賽を乗せた掌から伸びた指先が呪に染まったままであった事に寂寥感を覚えた様な、ほっとした様な、そんな複雑な感情を蟠らせていた。