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されど浚われきれぬもの

 川は陰陽師にとって、人形を流し呪を流す仕事場とも言える場所である。晴明にとっても例外ではなく、彼もよく川へと足を運んだ。道満もまた同じ様に呪を流す儀式を執り行えるので、晴明に付き合ってほしいと言われた時は自分が手伝わねばならぬ程の呪を取り扱ったのかと身構え、後学の為にと同行した。だが辿り着いたのは普段人形を流している場所ではなく、上流とも言える山腹で、はてと訝しんだ道満は晴明が言い放った言葉に目を丸くした。
「やあ、ここならきっと釣れますね、鮎」
 そう、晴明は呪を流しに来たのではなく、鮎釣りに来たのだった。


「中々釣れませんねえ。道満、そちらは?」
「……僧に釣りをさせるのはいかがなものかと思いますぞ」
「釣れてないのだね。難しいものだなあ」
 むっつりとした顔のまま釣り糸を巧みに操っている道満の手元にある魚篭の中に、魚は一匹も入っていない。晴明の魚篭も同様だ。最優の陰陽師であっても、魚釣りはそこまで得意ではないらしい。
 いきなり魚釣りをすると言った晴明に対し、道満は驚くやら呆れるやら怒るやら、様々な感情を籠めて抗議したのだが、私は人形流しをするとは一言も言っていないよと言われて沈黙せざるを得なかった。正に正論、その通りで、晴明は「川に行くから付き合ってほしい」と言っただけで、「人形流しをするから手伝ってくれ」とは言っていない。見た事も無い程の強大な呪を見られるのかと思いこんでしまった自分が恨めしいと、道満は引き揚げた釣り針を睨んで思う。
 そもそも、何故いきなり釣りに行こうと思ったのか、そこからして不可解だ。京の都随一の守護者である晴明は、民間陰陽師の道満と違って仕事量がまちまちという訳でもなく、からかって遊ぶ様な暇など無い。忙しい日々に空き時間を無理やり作ったとしか思えないこの釣りも、今の所釣果は二人してゼロだ。
 何を考えているのやら、と長い髪を頭頂で結わえ、袖をたすき掛けにした姿で釣り針をまた流れの中に投げ入れた道満は、しかし静かで風も涼しく緑がざわめくだけで、人々の喧騒や様々な感情が渦巻いている都とは全く違う清涼さに肩の力が抜けていた。陽の光が川面に反射し、川のせせらぎが心地よい。呪が籠もった人形を川に流すというのはなるほど理にかなっているやもしれぬと、日々舞い込んでくる呪詛や呪詛返しの依頼で濁りきってしまった様に思える腑が僅かに清まっていく錯覚をした道満はぼんやり思う。
「私は京の守護者だが、息苦しさを感じないと言えば嘘になるよ。いつも浄めているのだから、たまには私達だって浄められても良いだろう?」
「……単に仕事をしたくなかっただけでは?」
「ははは、そうとも言います」
「そうとしか言わぬだろうに……」
 釣り糸を垂らす場所を変えたのか、気が付けば自分より上流に移動していた晴明が胸の内を見透かした様な事を言ったので、道満はやや面白くなかった。だから嫌味を言ったというのに笑って受け流した晴明に、眉間の皺を深くした。
 だがその時、手の中の竿が反応し、道満の意識は瞬時に晴明から釣り針の先の存在へと向けられた。川へ釣り針を垂らし始めてもう一時はゆうに経とうとしているのに二人して釣果ゼロなのだ、期待しても仕方ないだろう。逸る気持ちを抑えつつ、竿を引いて水面近くで暴れる魚影を確認してから引き揚げると、楕円模様のある魚が姿を現した。
「おお、山女だ。やりましたね道満」
「……鮎ではないですな」
「まあそうですが……おっと、どうやら私にもかかった様だ」
 釣りに来たのは鮎であって、山女ではない。晴明が言う様に山女も美味だが、晴明の目的は鮎であった様なので、鮎を先に釣らなければ意味が無い。そんな事を思った道満が晴明の釣り針にかかった魚が何であるかを内心焦りながら見ると、晴明が手繰り寄せた糸の先に食い付いていたのは同じく黒い楕円模様が胴体にある魚だった。
「……ン、ふふ、どうやらお互い外道を釣った様で」
「山の瑞々しいお嬢さんに外道呼ばわりは無いでしょう。一匹では腹も膨れないし、まだ釣らないか。私達ももう少し浄められないとね」
「……そうですな」
 晴明が釣ったものも鮎ではなかった事に胸を撫で下ろした道満は、そんな事にまで勝ち負けの采配をしなければ気が済まない自分に辟易してしまう。だが、晴明が言う様に清らかなこの山の中では自分の裡の濁りが薄まってしまう様な、足元の清流がその濁りを浚っていってしまう様な、そんな気がして、弱々しく跳ねる山女を魚篭に入れながら頷いた。



外道……釣りにおいて、目的以外の魚の呼称。