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恋人は強メンタル

 突然ではある上に自分でも全く以て不可解なのだが、私とアマデウスは所謂恋人とかいう関係だ。詳細は省く――いや、向こうから「好きだから付き合って」という大層簡素な告白をされ、特に断る理由も無かったので了承しただけで、詳細も何も無いと言った方が正しい。とにかく、幼い頃から国内外のピアノコンクールで数々の賞を総なめにしてきた天才ピアニストの肩書を持つアマデウスが、何故か私の恋人である。
 様々な者から反対は受けた。それは同性であるからとか、凡人である私では不釣り合いだとか、そういった声も無くは無かったが、一番多かったのは「アマデウスはクズだからやめておけ」という私を心配する周囲の人間の声だった。だがたまたま知り合い、友人としての付き合いを続ける中でそれは重々承知しており、例えば未だに返却されていない金の総額もそれなりのものであるし部屋は汚いし服は脱ぎっぱなしであるし、たまにガスも電気も止められているし、酔っ払って真夜中に電話をかけてきた回数など数え切れない。いかん、色々挙げていたら何故私はあいつの告白を了承してしまったのか分からなくなってきたな……。
 だが、これだけははっきり言える。アマデウスの奏でるピアノは至高のものなのだ。これだけはあいつの持つ最高にして唯一の美点と言って良い。あ、いや、唯一は言い過ぎた、奴は顔も良い。あと声も良い。スタイルも良いので音楽雑誌のみならず女性誌の表紙も飾ってしまう様な容姿端麗さなので、取り柄は音楽だけではなかった。訂正しておこう。ただそれらも二の次で、既成の楽曲は勿論の事、作曲家としても活躍しているアマデウスの曲を彼自身が演奏すると、私はその全てを愛さずにはいられなくなってしまう。同じピアノを、同じ曲を奏でている筈なのに、私が弾いてもあの美しさにはなり得ない。時に情熱的に、時に悲観的に、時に楽天的に、様々な感情を見事に調和させて乗せた旋律は、聴衆に何の忌避感も抱かせずに染み込んでいく。そういう演奏は私には出来ないし、そういう曲を作れない。それが腹立たしく、悔しく、けれども嬉しくもある。年下の圧倒される様な輝かんばかりの才能に、追いつく事は出来なくとも追い掛ける事は出来るのだから。……ふむ、どうにも惚気けてしまった様な気がしなくもない。
 そんな才能溢れる、神才とも評されるアマデウスであるが、先程も述べた様にいかんせん生活能力が無い。幼い頃から一日の大半をピアノの練習に費やし、音楽に関する教育を徹底的に親から仕込まれたせいで、その他の能力が欠けている。演奏する指に万一の事があってはいけないからと料理や食器洗いなどの家事は全くさせてもらえなかった様で、よく一人暮らしが出来ていたものだと思う。知り合った頃に曲の解釈の議論がしたいというので家に行くと、惨状としか言い様の無い部屋だった。文句を言っても片付く訳が無いのでテーブルの上だけは何とかしたが、あまりの混沌さに次からは私の家でやろうと言った程だ。未だに片付けが下手なアマデウスの家では、よく洗濯物が雪崩を起こしている。
 今の言葉で察しがついたと思うが、恋人と言っても私達は同居していない。アマデウスはアマデウスの家があり、私には私の家がある。家と言ってもお互いアパートやマンションだ。アマデウスの音楽は心の底から愛しているし、もう知らなかった頃には戻れない程ではあるが、それとこれとは話が別で、生活を共に出来るかと問われると自信が無い。無造作に洗濯機に入れられる衣類――尤も、洗濯機に入れるなどという事自体が稀だが――、ゴミ箱に入れられずそのままにされてあるゴミ、揃えられてない靴、何より散乱している楽譜が目に入る日常は、私には耐えられそうもない。そういった日常生活の上での譲れなさを守る為に同居していない。決して、アマデウスが女性を連れ込む事が嫌だからではない。
 そう、これは才能豊かな美麗な男には致し方ない事なのだが、アマデウスはその外見故に非常にモテる。私と付き合う前は侍る女性が引っ切り無しに変わっており、今でもたまに週刊誌に撮られたりしている。脇の甘い奴め、と、今日発売されたばかりの週刊誌に載ったゴシップ記事の、最近頭角を現してきたまだ年若いが実力派女優と言われている美女と並んで談笑しているアマデウスの写真を横目で見ながらコーヒーメーカーにフィルターをセットしていると、どこか急いでいる様な解錠の音が玄関から聞こえてきた。この部屋の住民は私一人だが、合鍵を持っている人物なら居る。奴だろう。
「サリエリ〜〜〜っ!」
 ドアが開いたと同時に響いた声はダイニングキッチンに居る私の耳にも十分に届く程で、寧ろやかましい。ゴン、という音は恐らく靴を脱ごうとして焦りすぎて膝を強打した音で、証拠に呻き声が聞こえる。だが直後の足音と、ダイニングと玄関を繋ぐ短い廊下の扉が勢い良く開き、予想した通りの洋梨顔が現れた。
「やかましいぞ。鍵は掛けたのか」
「えっ、あっ、後でちゃんと掛けるから! そんな事よりもその記事! 誤解だって!」
「そんな事とは何だ、鍵を掛けてこい。話はそれから聞く」
「うぅ……」
 長い金糸の髪をハーフアップにしたアマデウスは、駅からここまで走ってきたのか汗ばんだ頬が上気していた。くそ、焦っていても顔が良い奴めなどと内心で思っていた私が反論を許さぬ様な口調で施錠を命じると、また慌てて玄関へ駆けていった。戻ってくるまでの僅か数秒の間にコーヒー豆は二人分セット出来た。
「随分と早く着いたな、もう少し時間が掛かるかと思っていたが」
「そりゃ君に「一から十まで説明してもらおうか」なんてライン来たら飛んでくるよ! 既読もつかないし電話も出てくれないし!」
「私は誤解と誤認が多すぎるからなるべく対面で話したいと言っていたのはどこのどいつだ?」
「僕だけど!」
 汗が冷えて風邪をひいては困るので、真新しい手拭きで汗を拭いてやりながら早い到着を評価すると、アマデウスは焦りからか走ったからか血圧高めに大声を出した。その様子がおかしくて、私は思わず喉の奥で笑ってしまう。それと同時に、誤解を解こうとする気はあるのだなと妙な感心をしてしまった。浮気の現場の写真に対する弁明をするのは当然の事と思われがちだが、アマデウスに限って言えばあまりそういう事をしないと聞いている。堂々と浮気をするし、浮気ではなく平等に好きだと平然と言ったりするという事を伝え聞いていたのだが、私本人は付き合い始めた後にアマデウスが週刊誌を女性と共に賑わせても特に反応しなかったので弁明する機会が無かっただけかもしれない。
 仕事の都合で地方に出掛けていたアマデウスに、週刊誌の記事をスマホで撮り説明する様にラインを送ったのは今日の午前中だ。そして今は午後七時半。私は仕事――コンサートの打ち合わせを終わらせてから帰ってくるだろうと予想していたので、午後十時くらいに来るかと思っていた。来ないだろうという考えは、全く無かった。
「さて、コーヒーはまだだが弁明を聞いてやろう、“お似合いの美女を侍らせた天才ピアニスト”のアマデウス?」
「確かに彼女は美人だけど、その子、君のファンなんだよ。だから話が盛り上がったんだって!」
「は……?」
 週刊誌をテーブルに置き、向かい合って座ったアマデウスにわざと記事に書かれた文面を引用して尋ねると、彼はむくれながら意外な回答を発した。アマデウスのファン、というなら分かるが、私のファンというのは些か信じ難い。というのも、私も職業音楽家として活動はしているもののあまり表舞台に立つ事は無く、ソロCDも片手で数える程しか出した事が無いからだ。嘘ならもっとマシな嘘を吐けば良いものを、必死すぎて頭が回っていないのかもしれない。
「ほら、以前僕のピアノソロコン、君にゲストで来てもらったろう? 歌ってもらったじゃないか」
「……あぁ、あったな。あの時のお前の、私の声域とブレスの癖に絶妙に合わせてくれた演奏は本当に素晴らしかった」
「うんうん、痴話喧嘩の最中でも僕のピアノを褒めてくれる君も大好きだよ。それで、あの時のソロコン、まだデビュー前の彼女が来てたんだってさ」
 確かに私は数年前に一度だけアマデウスのコンサートにゲスト登壇した事がある。ピアノの連弾を一曲、そしてアマデウスのピアノ伴奏で一曲歌い、アンコールでバイオリンを演奏した記憶があるが、その程度だ。あの三曲でファンになる要素があるのか?
「デビュー前と言えばまだ未成年だろう彼女は。それでもお前のピアノの良さが分かってコンサートに……素晴らしいな」
「だから今僕の事は良いんだよサリエリ。それでね、君の声量と声質、技巧に感銘を受けてファンになったは良いものの、君って殆ど表の活動は無いだろう? この間のテレビ収録の時たまたまスタジオが同じで、彼女のマネージャーから申し出があって話す機会があったんだ。この写真はその時のやつ! 話題はずーっと君の事!」
「……………… ……奇特過ぎないか?」
「そう? 僕は嬉しかったよ、君があんなに評価されてて」
 載っている数枚の写真の二人は全て笑顔で、アマデウスの手元のスマホを覗き込んで満面の微笑みを見せる女性の横に書かれた文面は「終始笑顔で何を話しているのやら」。まさかこの記事を書いた記者も二人して別の男の話をしているなどと思いもしなかっただろう。どうにも嘘を吐いている様にも見えないし、先程までの必死な形相はどこへ行ったのか、私を褒めてくれたらしい話題を持ち出したアマデウスの表情は子供が褒められた時に見せる様な笑みそのものだった。何だかんだ言って私はこの顔に弱い。
「はぁ、まあ、今回は予想以上に早く帰って来た事に免じて許してやろう。相手の女性や事務所にも迷惑が掛かるのだ、軽率な行動は慎め」
「そういう君こそ、今まで僕がこういう写真撮られても何も言わなかったのに、今回はどうしたんだい?」
「写真の服から察するに、これは〆切前夜だな? 〆切前日に仕事を入れるのもどうかと思うが、曲を仕上げず週刊誌に浮名を載せられる様な写真を撮られるな馬鹿者」
「えぇ……ヤキモチやいたとかじゃないんだ……」
 とうに沸いてしまったコーヒーを淹れ、アマデウスにはブラックを、私のカップには角砂糖を四つ程入れてテーブルに置くと、返答が気に入らなかったのかアマデウスがテーブルに突っ伏してしまった。何度も世間を賑わせているのに、その度悋気を抱いていては身がもたないというものだ。仄かな酸味に溶けた甘さが舌に心地よいコーヒーで喉を潤した私は、丸めた週刊誌で一度だけ形の良いその後頭部を軽く叩いた。
「お前の音楽を一番理解出来るのはお前だが、二番目は私だと自負……いや、自惚れているのだぞ。全世界にあんな情愛を晒されたらいかに鈍い私でも分かる」
 ここ最近のアマデウスの楽曲の評価は、一段と高くなった。元から素晴らしかったのだが奥行きや深み、与える感動は更に増している。その楽曲全てから、何と言うか、特定の人物に向けられた好意であったり親愛であったあり、そういったものが感じ取れる様な気がするのだ。それこそ自惚れ以外何物でも無いとは思うが、叩かれてぽかんとしたアマデウスの眦が俄に赤く色付いた辺り、まあ自惚れても良いのだろう。多分。
「……んふふ、しつこく君への想いを曲に籠めた甲斐があったってものだよ。何なら今から最近の僕の曲の解釈談義でもするかい?」
「やめろ、愛の言葉を延々と述べられるより恥ずかし……いや待て、作曲者自ら解説してくれると言うのか……悩ましいな……」
「君のそういうとこ、僕大好きだよ」
 羞恥を取るか理解欲を取るか、かなり悩ましい局面に立たされて唸る私を、アマデウスは漸くほっとした様な苦笑を浮かべて見遣る。私が本心で怒っている訳ではないと分かったからだろう。ああ全く、本当に私はこいつに甘い。それが腹立たしい様な、何となく誇らしい様な、そんな複雑な胸中の思いを、私はカップの底に残った砂糖濃度の濃いコーヒーで飲み下したのだった。