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恋人は鋼のメンタル

 帰宅途中のスーパーで買った食材が入ったマイバッグを片手に一度辺りを見回し、不審な人物は特に居ない事を確認してからマンションのオートロックを開錠する。以前一度だけ、開錠してエントランスに入った直後に見知らぬ男が入って来た事があり、何事も無かったとは言え気味の悪さは拭いきれなかったので、それ以来この癖がついてしまった。ちなみにその男は目の前で管理会社に電話をしたら逃亡した。
 自宅玄関の鍵を開ける前に再度誰も居ない事を確認してから開錠し、扉を開けると私の物ではない靴が無造作に脱ぎ捨てられていて、やれやれと溜息を吐きながら揃えて靴を脱ぐ。以前の私であれば顰め面になっていたところだが、いちいち怒るのも面倒臭くなって何も言わない事にしている。それよりも晩飯の予定が狂った事の方が問題で、さて何を作るかと冷蔵庫の中を思い起こしながらダイニングの扉を開けると、テーブルの上に五線譜を広げてイヤーマフを装着し、一心不乱に書き込んでいるアマデウスが居た。
 恋人とかいう間柄ではあっても別居しているので、基本的に私は一人で食事をする。アマデウスは何の予告も無く突然訪れては泊まったりするので、せめて事前に連絡が欲しいと言ったら、三回に一回は連絡が入る様になった。全く無いより進歩したと思いたい。だが今日の様に連絡も寄こさず来訪し、私のベッドで熟睡していたり、風呂に入っていたり、冷蔵庫の食材を食べ漁っていたり、作曲に没頭していたりする。
 帰宅した私に目もくれず譜面を作っているアマデウスを尻目にキッチンに食材を置き、部屋にジャケットを脱ぎに行くと、仕事に行く前に整えたベッドの布団が随分と乱れていた。寝たらしい。続いてハンカチを脱衣籠に入れようと脱衣所兼洗面所に行くと、使った記憶が無いバスタオルが籠の中に入っていた。風呂にも入ったらしい。さてでは夕飯を作るかと空の弁当箱を手にキッチンに戻り、シンクに弁当箱を置いてから冷蔵庫を開けると、二袋セットだったウインナーが一袋になっていたし半分くらい残っていた牛乳のパックも無くなっていて、袋もパックもゴミ箱に入っていた。ついでに、ストック棚に入れてあったバターロールの袋もゴミ箱の中だった。食べ漁ったらしい。
 作曲もしているからフルコンボの日だなと意味も無く頷いてしまった私は、予定外の食料の減りが微細なものであった事に胸を撫で下ろし、残されているウインナーと野菜室に入っているジャガイモと人参を出した。本当は買ってきたキャベツとこのウインナーだけでコンソメ煮をしようかと思っていたのだが、アマデウスが居るので他の野菜で嵩増ししなければ足らない。食べるかどうかは分からないけれども、食べないのであれば私の明日の朝飯になるだけだ。相変わらず私が帰宅した事に気が付いていないアマデウスをカウンター越しに見ながら炊飯器を開け、私一人であれば十分足りるが彼も食べるのであれば足りないであろう量の白米にさっさと見切りをつけ、冷凍庫に入っている筈の食パンを確認してから調理を開始した。
 テーブルの上の譜面が気にならない訳ではない。寧ろ心底気になる。だが私が帰宅した事にさえ気が付いていない程に集中しているアマデウスの邪魔をしたくはないのでぐっと堪え、私も黙々とコンソメ煮を作っていると、伸びをする声が聞こえて顔を上げた。アマデウスが両腕を挙げ、天井を見上げて大きく息を吐いていた。
「……えっ、あっ、サリエリ? 帰ってたの?」
「随分前から帰っていた。気が付かないくらい集中している様だったから声を掛けなかった」
「ごめんごめん、おかえり」
「ただいま」
 驚きながらイヤーマフを外し、謝ったアマデウスの手元の譜面はよく見えなかったが、一段落はついたらしい。足元の破られた五線譜を拾ってダイニングにあるゴミ箱に捨てた彼は、喉が渇いたのかキッチンの方に来た。あの捨てた五線譜は後で見ても良いだろうか。
「ポトフ? 僕の分もある?」
「あるぞ。食べるか?」
「食べる!」
 湯気が出る鍋の中を見ながら勝手に冷蔵庫を開け、私の質問に嬉しそうに答えるアマデウスに、諦めにも似た苦笑が溢れる。さも当然と言わんばかりにピッチャーから麦茶を注ぎ、一気飲みした彼は、手伝うという概念が無いのでまたテーブルに戻っていった。私としても下手に手を出されて台無しにされたくないので、ある意味有難い。
「それは何の楽譜だ? お前がイヤーマフまでするのは珍しいな」
「ミュージカルの作曲! 僕ん家のアパートの前、今日から道路工事やっててさー。イヤーマフしてても煩くて、集中出来るまで時間かかりそうだったからこっち来たんだ」
「ミュージカル? いつから公演だ?」
「今年の秋。チケット要る?」
「自分で買う」
「ぶれないなぁ」
 集中すると私が帰宅した時の様にちょっとやそっとでは他人の接近に気が付かないアマデウスでも、常人に比べて耳が良い為に工事の音がすぐ側から聞こえてくれば確かに集中出来ないだろう。彼は私と付き合い始める前からイヤーマフを持っていて、それを装着している時は即ち集中しているから誰も邪魔をするなという意味でもある。テーブルに置いたヘッドホンの様な形をしたイヤーマフは私が以前贈ったもので、気に入ったのかそれをずっと使ってくれている上に、紛失したくないからと自分のサインまで入れている。今まで大勢の人から様々な物を貰っただろうに面妖な、と思っていたのだが、どうやら「恋人から貰ったもの」が大層嬉しかったらしい。これは私が声楽の個人レッスンを担当しているマリーお嬢様から聞いた。
 いや、それは良い。ミュージカル。ミュージカルだと? 脚本が誰かは知らないが、この男が作曲したミュージカルの舞台など、観たいに決まっている。公演名だけ聞いたら後はチケット発売日を調べてS席を取ろう。秋か、日程が早めに分かれば有給を取って何度か通いたいところだが…… ……秋?
「おい待て、秋に公演開始の曲を今作っているのか?」
「そうだよ」
「締め切りは」
「明日」
「馬鹿者!!」
 年内に公演予定のミュージカルの作曲を今やっているのはまだ良いとしても、締め切りが明日などと聞いてしまって全身から血の気が引いた。アマデウスの締め切り前の集中力は凄まじいものがあるが、間に合わなければ意味が無い。顔面蒼白になって思わず怒鳴った私に、楽譜を揃えたアマデウスは晴れ晴れしく笑った。
「大丈夫、今終わったから。いやー、締め切り前日に終わらせるなんて、偉いと思わない?」
「それが普通なんだ、肝を冷やさせるな。……まあ、お前にしてみれば良くやった方ではあるな」
「だろ? ご褒美に一品増やしてくれても良いんだぜ?」
「お前がウインナーを一袋消費していなかったら考えてやっていたんだがな」
「おっとやぶ蛇」
 返答に胸を撫で下ろした私は、各自で器に盛る事にしてコンソメ煮の鍋をテーブルに置くと、トースターで焼いていた食パンとバターも添えた。本当はバゲットが良かったが無いのだから仕方ない。ついでに言うなら私に飲酒の習慣は無いのでアルコール類も常備しておらず、慰労するにはあまりにも簡素な食卓となってしまった。私一人であればここにサラダがついているのだが、アマデウスは基本的にサラダを食べようとしない。
「来ているなら連絡を入れろ、もう少し良い食事を作れたものを」
「じゃあ明日ハンバーグ作って」
「結局肉では……明日?」
 人参を避けながら食べようとするアマデウスに牽制を入れつつ多少の恨み節を吐くと明日などと言われたものだから、思わずおうむ返しに聞いてしまった。というのも、誰に対してもパーソナルスペースが広いアマデウスは泊まる事はあっても連泊する事が無いからだ。例えそれが近しい人間であっても四六時中一緒に居る事は耐えられない様で、今までの記憶では一度も無い。なので食パンにマーガリンを塗っていた手が止まった私に、アマデウスがうん、と頷いた。
「暫く仕事入れてないんだ、半月くらい。ミュージカルの監修も来月からだし」
「私に世話係をさせる気だな?」
「それもあるけど、僕だって恋人とゆっくり過ごしたい時くらいあるよ……君の中の僕の評価どうなってんの」
「音楽は天才だがクズ」
「うーん反論出来ない」
 殊勝な事を言われても率直な感想を即答した私は、微妙な顔をして渋々人参を口に運んだアマデウスに何となく溜飲を下げる。いつも振り回されているのだから、これくらいは許されるだろう。何となく勝ち誇った様に頬が緩んだ私は、しかし珍しく拗ねた素振りで麦茶を飲んだアマデウスの次の言葉に目を丸くしてしまった。
「そろそろ君と寝てみたいなあと思って」
「は……? おわっ!」
「大丈夫? はいティッシュ」
 言われた内容を理解するのに数秒要し、箸で掴んだウインナーをスープボウルに落としたせいでスープが手や服に飛んでしまった。アマデウスが寄越してくれたボックスティッシュを受け取り、手を拭く私に、彼は続ける。
「僕さぁ、クズだから今まで女の子と一晩だけの付き合いはそれなりにしてきたけど、君と寝ようとはあんまり思わなかったんだよね。その理由、どうも僕は君と寝て君から嫌われたら嫌だなと思ってたらしい」
「らしいとは何だ、はっきりしない奴だな」
「だって気が付いたのが今朝なんだ。いやー、三徹してみるもんだね、天啓を授かるってこんな感じかな」
「三徹?! お前それでよく仮眠で済んだな?!」
「あー絶対仕事終わらせて君との話し合いの時間作ろーって思って」
「そ、そうか……」
 作曲の為に徹夜をする事は珍しくないアマデウスだが、流石に三夜連続で徹夜は命に関わる。それでなくとも徹夜明けの彼はその後丸一日眠ってしまう事もあると言うのに、恐らく短時間であろう仮眠でよく起きられたものだ。それも一応私との時間を作る為であったと知り、何となく面映ゆく思う。
 いや、それは取り敢えず良いとして、話の流れからして「寝たい」というのはつまり、私とセックスしたいという意味でどうも間違いはないだろう。実の所、アマデウスと所謂お付き合いというものを始めてから一度も性的な接触をした事が無いし、もっと言えばキスすらした事が無い。ハグ……はアマデウスのコンサートで花束を渡した時の労いのものならした気がする。とにかく、恋人らしい触れ合いといったものをした事が無かったりする。したくなかった、とか、そういう気分になれなかった、などではなく、ただ単に私が必要に思わなかったので切り出した事が無かった。アマデウスからもそういうアプローチが無かったから女性の方が良いのだろうと勝手に決め付けてしまっていたが、なるほど私から拒絶される事を恐れていたらしい。存外可愛らしい……もとい臆病な一面もある様だ。それが無自覚であっても。
 大事な事とは言え食事中にする会話ではないので早々と食事を終えた私達は、淹れた食後のコーヒーを傍らに再度向かい合って座った。相変わらずアマデウスのカップはブラックで、私のカップは角砂糖が四つ程入っている。
「……で、だ。お前が私と寝たいというのは分かった」
「あっ、それは良いんだ?」
「どうなのだろうな、不快さは感じなかったから嫌という訳ではない気がする。問題は、単刀直入に聞くが、お前はトップとボトムどっちがやりたいんだ?」
「トップ」
「……なるほど」
 私がセックスする事に対しての拒絶を一言も口にしなかったばかりか、男同士で性交に及ぶ場合の呼称を私が知っていた事に意外そうな表情をしたアマデウスは、それでも希望を即答した。私だってトップとボトムくらい知っているぞ、失礼な。それはまあ良いとして、そうなるとこの男は私に勃起出来るという事になるのだが……いや正気か?
「つまりお前は、そこそこ背が高くて多少痩せ型で肉付きもそんなに良くない私相手でも勃つと言うんだな?」
「言い方〜。今朝、君のベッドで寝る前に君で抜いたわ」
「なっ、そういう事は早く言え! シーツを洗おうにももう時間が無いだろう!」
「汚してないから大丈夫だよ」
「本当だろうな?!」
 かなり乱れていたベッドの上は眠っただけの状態ではない事を知り、私は思わず絶句する。驚きすぎてテーブルの上のコーヒーが波打ったくらいだ。シーツの乱れはまだ目を瞑れても、衛生面は流石に無視出来ない。動揺した私を見たアマデウスは、また意外そうな顔をした。
「気持ち悪いとは言わないんだなぁ、君」
「……気持ち悪いというより、やはり驚いている」
「何で?」
「いや……さっきも言ったが私は背が高くて多少痩せ型で肉付きもそんなに良くないから、お前の欲情の対象になるとは思ってなくてな」
「背が高くて多少痩せ型で肉付きも良くない君が僕の腕の中でどんな風になるのか考えただけでも勃つけど」
「待て、そうストレートに言うな。微妙な気持ちになる」
 特に魅力にもならない私の特徴を、敢えて性的なものに言い換えたアマデウスにストップをかけようと手を伸ばすと、不意にその手を取られて私の体が硬直した。こうやって手を繋ぐ事さえしてこなかった私達であるが、ついさっきまで話していた内容のせいで一気に意識がその方へ動いてかっと熱くなってしまった私の耳とは正反対に、アマデウスの手は冷たかった。緊張しているらしい。
「僕がトップで良いんだよね?」
「……やってみない事には分からんが、少なくとも今日はお断りだな。お前をきちんと寝かせないとそれどころじゃない」
「明日は?」
「ハンバーグ無しで良いなら」
「えぇ……分かったよ、我慢する」
「どっちを?」
「ハンバーグに決まってるだろ? はあ、サリエリってこういう時は鋼のメンタル持ってるよね……」
 掴んだ私の手に指を絡め、恨みがましく私を上目遣いで睨んだアマデウスの眦が赤い。照れた時はそこが赤くなるので分かりやすく、癪なので言わないが私はこの照れながら睨んでくる表情が好きだったりする。だがそれ以上に触れた手が愛おしく、完成した曲を後で弾いてもらおうなどと思いながら絡めた指先でアマデウスの手を撫ぜると、彼はどことなく満足そうな表情で笑った。