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恋人は堅牢

「なぎっちに僕らの事バレてるんだけどさあ」
 アマデウスと付き合い始めて随分経ったが体を繋げたのはつい最近の事で、二度目のセックスを終わらせた後に食事の用意をするのが億劫だった私がシャワーを浴びる前に注文した宅配ピザを先に食べながらアマデウスが言った言葉に、どこから突っ込んで良いのか分からなかった私は思わず飲みかけのコーラを吹きそうになった。
「ど、なぎ、だ、」
「何て?」
「げほっ、ごほっ、……んんっ。何てはこっちの台詞だ、どういう事だ、そもそもなぎっちとは誰だ」
 吹き出すのはすんでで堪えたが炭酸飲料なので強かに噎せ、喉や口内、鼻のつんとした痛みに眉を顰めて私は問いただす。親しい間柄の者には私達の関係は知られていても一般には公表していないので、妙なところから漏れると色々面倒臭いのだ。アマデウスが「なぎっち」などとあだ名で呼ぶからには彼と親しい者なのであろうけれども。
「清原諾子ってエッセイスト、知らない?」
「清原諾子……ああ、先日何かの企画で脚本家の藤原香子と対談していた様な」
「そうそう、そのなぎっち。ミュージカルの仕事関係で飲みに行った時に知り合って、ライン交換したんだ」
 読書は一応嗜む方であるので清原諾子氏の名前は知っているし、エッセイも何冊か読んだ。随分と瑞々しい感性で日々の出来事が書かれ、平安文学の研究者でもあるので古文に絡めた例えや引用をさり気なくし、聡明さが滲み出る文体に頁を捲る手が止まらなかった事を覚えている。一方の藤原香子氏も様々なドラマの脚本を手掛け、複雑な人間関係が絡み合いながらも散りばめられた伏線が回収されていく物語の放送を毎週楽しみにしていた事もあった。その二人が対談していた雑誌も読んだが、才女同士の会話はテンポも良く何かの台本を読んでいる様でもあった。
 当然ながら私は諾子氏と面識は無い。香子氏とも無い。仕事の都合上交流関係が幅広いアマデウスは、恐らく今監修しているミュージカルの脚本家との繋がりで知り合ったのだろうが、業界の人間とは言えみだりに言いふらすんじゃないと文句を言ったところでもう知られてしまっているのだから怒るだけ無駄だ。その苦い想いが顔に出てしまっていたのだろう、ピザのトマトとチーズ、サラミの絶妙なバランスにも関わらず眉を顰めてしまった私にアマデウスが苦笑しながら手を伸ばして指で私の口の端を拭った。
「むくれて食べるなよ、ソース付いてるぞ。心配しなくてもなぎっちはそういう事は言いふらさないって、何か感動する事が無い限りは」
「そうだな、お前関係で感動出来るのは音楽だけだからな」
「えっ、十分過ぎるだろ?」
 汚れた口元を拭いてやるのはいつもなら私の役目なのだが、今回はその役が逆転してしまった。やはり怒りは良くない。アマデウスからは「君は怒ってる時の方が演奏が映える気がする」と評されたせいで彼のピアノソロコンのゲストはコンサート一ヶ月前に頼まれたという経緯があり、せめて三ヶ月前に言えと渾身の怒りでステージ演奏したら人生で一番の喝采を受けてしまった。怒りは良くな……いや、適度な怒りなら良いのか……?
「あ、そうそう、それでね、僕がこうやってたまに君ん家に来て泊まって帰って、同棲してないって言ったら、通い婚じゃんって言われたんだ」
「平安貴族かお前は。いや、今はそれを選ぶカップルもそれなりに居るのだったか」
 日本古来の結婚形式の通い婚は確か高校生の時分に知ったのだったか、古文の授業の際に三日夜の餅の話を教師がしてくれて全く想像がつかなかった記憶がある。男が通ってこなくなったら離婚という緩さも見当がつかなくて、平安期の随筆や小説の授業はそれなりに苦労した。しかし今の私の状況を考えると、アマデウスがこの家に長い間来なくなったとすれば別れた事になるのだろうし、年を経て理解出来る様になってしまったという事か。告白しておいてあっさり捨てる男とも思えな……いや有り得るなこいつなら……複数の女性と関係を持っていた時も皆平等に好きとか言っていた男だからな……それを承知で告白を受諾した私も私なのだが……。
「同性でも異性でも僕らみたいにお互い仕事があって時間帯も合わないってカップルも増えたしね。通い婚か、良いなって思ってさ。指輪でも買っちゃう?」
「いらん、どうせ私が金を出す事になる」
「僕の稼ぎの信用無くない? まあその通りなんだけど」
 指輪などしたらそれこそ変な勘繰りをされてしまうし、どうせ出資するのは私だ。それにそんなものでアマデウスが繋ぎとめられるとは欠片も思えないので私が即座に拒否すると、彼は少しだけ眉根を下げてもう一ピースピザを取った。僅かに残念そうに見えたのは私の気のせいだと思う。そんな顔しても買わないぞ、お前どうせ質に入れるだろう、という余計な言葉はコーラと一緒に飲み干した。セックス後のまったりとした食事時間にわざわざ喧嘩をしたくない。
「僕が君に贈れて信じてもらえるものなんて、音楽くらいしか無いしね。これからもしつこく君への想いを込めてやろうじゃないか」
「……実際は他の者への想いを込めたものを私が勘違いするかもしれんな?」
「君に限ってそれは無いだろ? この世で僕の曲を一番理解出来るのは僕だけど、二番目に理解出来るのは自分だって君が言ったんじゃないか。僕もそう思うよ」
「………」
 ぐうの音も出ない程の事を言われ、食べ終わったピザの箱を折りたたむ手が止まる。アマデウスの曲の解釈を大きく違えた経験は一度も無く、よく分かったねと感心される事例もしょっちゅうであるからそれには自信があるが、本人に面と向かって断言されると流石の私も多少照れる。信頼されている、という事なのだろうか。
 私は元から愛情を欲するよりは愛情を与えたい側の人間で、その性質も相俟ってアマデウスと付き合えているのだと思っている。どちらかと言えば愛情を求めるタイプのアマデウスは、しかし己の愛情を特定の一人に捧げる様な者ではなかった。少なくとも、私がアマデウスと付き合う前に抱いていたイメージはそうだ。奔放に生き、来る者は拒まず去る者は追わない、そういうイメージだったけれども、付き合ってみれば奔放ではあるが来る者はそれなりに選ぶし去ってほしくない者にはそれなりに気を遣っている事を知った。どうやら私にも気を遣ってくれているらしい。私より才能があって、気遣いが出来て、体の相性もそう悪くない者など、それこそこの男の周りには数多く居るであろうに、全く面妖な奴だ。
「あー、満腹になったら眠たくなってきちゃった。セックスして食事して寝るって最高だね」
「寝るなら歯を磨け、そのままベッドに行くのは許さんぞ」
「サリエリ、恋人って言うより親みたいだなあ」
「誰がパーパだ」
 テーブルを片付け台拭きで拭いていると、アマデウスが欠伸をしながら寝室に行こうとしていたので歯磨きをする様に咎めると、彼は不満の色を滲ませて不服そうに言った。性欲と食欲が満たされたのなら後は睡眠欲を満たしたいだけであろうから反対するつもりは無いが、この家で寝る以上は歯磨きだけは譲れない。そんな私の強い口調に折れたのか、アマデウスは瞼を擦りながら渋々と洗面所へ向かったのだった。



 仕事を終え、いつもの様に家路を辿り、玄関の鍵を開ける。開いた扉の向こうに今朝はあった靴はもう無く、アマデウスが居ない事を物語っている。それに対して私は特に何の疑問も持たなければ感傷も抱かず、鍵を掛けてから靴を脱いでダイニングへと進んだ。
 ダイニングの明かりをつけると当然の様に誰も居らず、しんとした静寂が広がっている。今朝私が仕事に行く前、まだベッドで寝ていたアマデウスが食べて帰れる様にと置いていたロールパンや目玉焼き、私の弁当のお裾分けのアスパラベーコンを盛った皿はテーブルに無く、代わりに紙が置かれていた。珍しく食器を片付けたのかと感心するより先にその紙が楽譜だと気が付き、鞄を置くのも忘れて足早にテーブルへ歩み寄れば、アマデウスのショルダーバッグにいつも突っ込まれているB5版の五線譜ノートを破いたものだと分かった。
「……これは……」
 アマデウスが今監修しているミュージカルの曲含め、彼が今まで作曲したどの曲のものでもない楽譜で、ボールペンのインクの状態からしても新しい。十中八九、私が仕事に行った後に起きたアマデウスが即興で作ったものだろう。紙のどこにも油染みなどの汚れは無く、食べながら作曲したものではなさそうだ。
 ノート紙片三枚使って綴られたメロディは、切なく苦しい調子が終始続くが根底にあるものは喜びで、ピアノで弾けばその苦しみも楽しむ様に指が跳ねるであろう箇所が随所にあった。ストレートに愛を伝えるというよりは、与えるだけで満足する相手にどうやって与えられる喜びを知ってもらえるのかという苦悩と共に、それを試行錯誤する事が堪らなく楽しいといった複雑な想いが五線譜の間から漏れ出している様だった。そして間違いなくこれは、私に向けた曲だ。
 解釈が間違えているとは思わない。先述した様に、私はアマデウスの曲の解釈で大幅な勘違いをした試しが無いからだ。私宛と考えるのも自惚れとは思わない。彼本人が、それこそ昨晩私への想いを込めてやろうと言ったからだ。つまりアマデウスは、私に愛を与えるだけではなくてちゃんと受け取れと言っている、のだろう。言葉では伝えきれないから、音楽に託したのかもしれない。
 しかし今までこんな風に曲を残して帰るなどした事が無かったのに、何故今になって突然こんな真似をしたのか、それが分からなくて不可思議だ。新曲を見て高まった鼓動を落ち着けながら鞄から空の弁当箱を取り出した私は、洗われずに置かれたままの皿が鎮座しているシンクで首をひねる。心当たりは特に無く、ミュージカルの監修をやりながら別の作曲もやり始めたアマデウスに即興曲を頼むなどと言った記憶も無い。精々昨日の会話で言っていたのも信じてもらえるものは音楽しかないとか通い婚とかで……通い婚?
「……… ……やられた」
 まさか、と思い付くや否や弁当箱を洗っていた手の泡を流し、急いで拭いて鞄の中からスマホを取り出して通い婚を検索した私は、思い付いた風習の単語を見付けて片手を額に当ててしまった。平安の時代、通い婚をしていた男が家に帰り着くと従者に文を持たせ、女の元へ届けたという後朝の文。帰宅し離れなければならない辛さや未練、次の逢瀬への想いなどを詠んだ歌を贈るという、実に雅で奥ゆかしい風習だ。恐らくアマデウスはこの楽譜を後朝の文にしたのだろう。
 だがそんな風流な事をアマデウスが知っているとはあまり思えない。否、知っていてもおかしくはないのだが、それならば今まで一度もやった事が無いという事実と辻褄が合わない。先程の私の様に通い婚で検索をかけてみたのか、それとも誰かの入れ知恵か、と考えたところではたとアマデウスが言っていた人物を思い出した。

――なぎっちに僕らの事バレてるんだけどさあ

 清原諾子氏は、エッセイストであり平安文学の研究者だ。そして、アマデウスに通い婚をしていると言った張本人だ。彼女から後朝の文を聞いていてもおかしくはない。手紙や和歌は無理でも曲なら作れると諾子氏が言ったのかもしれないし、アマデウスがそう思ったのかもしれない。全て私の憶測に過ぎないが、それでも可能性は充分ある。
 アマデウスが私の元へ通い婚をしているとして、ある日を境にふつりと来なくなり、関係が自然消滅しても構わないと思っている。また、アマデウスが私の事を好ましく思っていると知ってはいるが、好いてくれていようがそうでなかろうがどの道私は彼の音楽を引っくるめて愛している。その事を分かっているから、どうやったら自分がどれだけ想っているのかを知らしめさせられるのかを模索する苦しみと楽しさ、そして喜びを伝えようとしたのだろう。
「……喋っても賑やかしいが、音楽になると更に饒舌な奴め」
 そう独り言ち、スマホとノートの紙片を手に部屋の隅にある電子ピアノの前に座る。譜面台に紙片を置き、ボイスメモアプリを起動させた私は、初見演奏はそこまで得意ではないが鍵盤に置いた指を踊らせた。技術、技巧、そんなものは一切考えず、まるで返歌を贈る様にその曲を弾いた。
 分かった、思い知ったとも。お前からこんな熱烈な愛の曲を捧げられる人間など、マリーお嬢様は別格なので除外させてもらうとして、この世に私以外居ないだろうよ。全く、強突く張りなお前は本当に私の心の柔らかな部分を優しく残酷に酷く抉ってくる――。
「………」
 弾き終わった指先が、じんと温かい。血流が良くなったからと言えばそれまでだが、アマデウスを愛する音楽の神がいつも以上の演奏が出来る様にと私の指先に憐れみの温情を掛けてくれたのかもしれない。――否、いいや、今のこのひとときだけは、私の想いが私の演奏を一層素晴らしいものにしたのだ。そういう事にしておこう。そんな風に自己完結した私はアプリを停止させ、保存したデータをラインで送った。既読の文字が現れ、浮つき幸せそうな声の電話が掛かってきたのは、それから数分後の事だった。



 なお、この経緯を聞いていたく感動し、SNSで諾子氏が(一応私達の事は匿名にはしてくれたが)紹介してしまい、二十一世紀の後朝の文ならぬ後朝の曲として世間を賑わせたのは、また別の話である。