Your Sitename

1/366の呪い

「不思議の国のアリスが読みたい?」
 机の上にうず高く積み上げられた本、無数の文字が踊る紙が散らばる床、鎮座しているのは盛大な隈で彩る目で睨みつける眼鏡をかけた、低く渋い声に似合わぬ外見の少年。目的の本を読んでみたいと召喚主である青年に持ち掛けると、作家部屋にあるんじゃない、との返答であったので訪れたのだが、どうやら〆切が迫っているというタイミングでノックをしてしまったらしい。少し離れた場所に陣取られたもう一つの机には、一足先に脱稿したのかそれとも小休止なのか、若草色のジャケットを羽織った作家が突っ伏して寝息を立てている。英霊となってからも〆切に追われてしまう宿命にある二基に若干の憐れみを感じてしまったサリエリは、しかしその憐憫をすぐに打ち消した。それは、そういう性質のものである彼らへの侮辱に他ならないからだ。
「ナーサリーライムに本の姿になってもらえば良いだろうに」
「いくらサーヴァントと言えど、乙女に妄りに触れる訳にはいかぬだろう」
「持っている本を借りろと言えば良かったか?」
「本人に面と向かって堂々と君の事を知りたいと言わせるつもりか? 言っても良いがマスターから妙な顔で見られそうでな」
「さすがイタリア男、言う事が違うな」
 暗に忙しいから邪魔をするなと言った少年――アンデルセンは言い合った方が時間がとられると判断した様で、忙しなく動かしていた羽ペンを置くと、長時間座っているせいか覚束ない足取りで壁一面に安置されている本棚へ向かった。散らばっている原稿を踏みつけなかったのは大したものだ。初めて見た時はこの施設にここまでの蔵書が必要なのかとサリエリは思ったのだが、娯楽が少ない隔離されたこの場所では、随分と心の栄養になっているらしい。
 有象無象の夥しい本の中から、それでもアンデルセンが迷わず取り出したものは、件のナーサリーライムがいつも持っている絵本と装丁が似ていた。
「しかし、何でまた不思議の国のアリスなんだ? 音楽家の先生」
「我はサリエリでは……いや今はそれは良い、世話になっている相手のモチーフは知っておいた方が良いかと思ったのだ」
 執筆の息抜きかそれとも純粋な疑問なのか、本を渡したアンデルセンが腕組みをしながら寝不足の据わった目で尋ねてきた質問に、サリエリは表紙の赤いキノコの前に立つ少女の絵を眺めつつ返答する。この本の作者はサリエリの死後の人間であるから彼が知らぬも道理で、表紙を見ても内容の見当がいまいちつかなかった。そしてナーサリーライムが持つあの本の表紙の少女も、そしてこの本の表紙の少女も、ナーサリーライムには外見があまり似ていないと思った。物語の少女と現界したサーヴァントであれば、当然の事かもしれないが。
「あいつは新入りの教育係とは言え、お前は随分と気に入られたとみえる。俺なんか早々に教育放棄されたぞ」
「……我の霊基が安定しない事をマスターが気に揉んでいるからだろう。それ以上でも以下でもなかろうよ」
「お前は大衆の噂話、あいつは作家の作り話。どこかシンパシーを感じるんだろうな」
「………」
 彼らのマスターである藤丸が初めての召喚で呼び出したのはナーサリーライムとロビンフッドの二基であり、それ以降召喚されたサーヴァント達は大抵この二基が世話係となってここでの生活に慣れていく。サリエリは召喚されて暫く経っているサーヴァントであるが、本人が今言った様に上手く霊基が安定せず、最初期から居るキャスターであるナーサリーライムはよく彼を連れ回しては安定を図ってくれている。どれもこれも灰色の男とサリエリの精神面での攻防が激しい事に加え、よりによってそんな時に混ぜ返しにくるアマデウスのせいだ。あまりにもちょっかいをかけにくるので、最近ではナーサリーライムに頼まれたマリーに叱ってもらった程である。
 だが、恐らくナーサリーライムがサリエリを気にかけるのは、アンデルセンが今言った事が大半を占めるのだろう。彼女の元々のサーヴァントとしての成り立ちをサリエリは詳しく知らないし尋ねる気も無いが、少なくとも今この施設に存在し、キャスターとして藤丸の役に立っている彼女は、「物語」を具現化したものだ。対して、アントニオ=サリエリの姿かたちをした灰色の男は、元は悪意ある誰かの讒言が広がり大衆の中に根付いた噂話から生まれている。何かしら、似通った所を感じ取って世話を焼いてくれているのかもしれない。
 ただ、アンデルセンはその事と同じくらい、興味深く思っている事があった。
「……仕事を中断させて失礼した。他人が居ては気が散るだろう、これは自室で読ませてもらう」
「そうしてくれ、返却はいつでも良い。――ああ、それと、音楽家の先生よ」
「?」

「不思議の国のアリスの作者のルイス=キャロルの誕生日、1月27日だぞ」

 その一言を放った瞬間、サリエリの表情が凍りついた事に、アンデルセンは少々悪いかとは思ったのだが喉の奥で笑ってしまった。1年は365日、閏年であれば更に1日増えるというのに、よりによって何故その日なのだと言いたげなサリエリのこの上ない苦い表情が、アンデルセンの創作欲を掻き立てる。
「〆切は待ってくれん、俺は仕事に戻る。お前も部屋に戻るなりピアノを弾きに行くなり、好きにすると良い」
「………」
 次回作はこの表情をモチーフに何か書いてやろう、そう考えたアンデルセンがひらひらと手を振り、サリエリに退室を促すと、彼は先程の苦い表情のまま頷き、失礼すると短く言い残して扉の向こうへ消えていった。室内に残されたのは、しんとした静寂の中に響く天才劇作家の寝息だけで。

――奇跡と言うべきか、呪いと言うべきか。

 ひとり、胸の中でそんな事を独り言ちたアンデルセンは、首の関節を鳴らして伸びをすると主の不在を責めるかの様に錯覚してしまう自分の机と戻っていった。自分の告げた事実により、結果的に不安定になったサリエリよりも迫り来る〆切に間に合わせる事の方が、今の彼には重要であったので。