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遠き未来の片鱗

 京の都は、夏は暑いし冬は寒い。否、それは播磨もそうであったのだが、道満にとって京の夏は殊更に暑く思える。盆地であり湿度が高く、そのせいで不快指数も高くなるというのは後世に判明する事であり、今の道満にとって京の都は春の寒暖差が大きく夏は暑く、逆に冬は身も凍りそうな程寒い場所という印象しか無い。
 そんな暑さがまだ残る夜、道満は誘いという名の呼び出しを受け、京の都が見下ろせる場所にわざわざ来ていた。断れば良かったかもしれないけれども、相手がかの安倍晴明であれば道満であっても断りづらく、声を掛けられた時に内心は盛大な罵声を浴びせていたが至って穏やかな表情で承諾してしまった。長い京での生活で染み付いてしまった渡世術は、道満を幾度と無く助けてきてはくれたが、同時に呪わしいものでもある。
 屋敷では駄目だったのか、ここまで来る必要はあったのかなど、言いたい事聞きたい事は山程ある。しかし星を見上げるには高くて周囲を遮るものが無い場所の方が良い訳で、この場所を指定したのは納得せざるを得ない。そう、道満は星を見る為にわざわざこの場所に来ていた。
「いやあ、やはりまだ暑いなあ」
「まだ八月ですからな。九月ならもう少しましになっておりましょうが」
「関白殿に急かされては、私も断れないよ。まして、まだお若い帝が不安を抱いておいでだ。務めは果たさねばね」
 戌の刻であるから夏であってももう日は暮れ、暗くなってしまっている中、式神に焚き火熾しを任せ額の汗を手の甲で拭った晴明は、暑いという言葉とは裏腹に涼やかに笑って見せる。心の底からこの男の事が嫌いな道満であるが、性格は最悪でも顔だけは良いと思っているので、首筋に流れた汗を乱雑に袖で拭いながら無駄に顔が整っている奴め、と口の中で悪態を吐いた。
 七月に京の都のみならず、よその地方でも太陽が欠けた――否、姿を隠した事は、世間を大いに賑わせたし、また恐怖に陥れた。夜明けが早い夏の時期であるから、卯辰の刻であっても既に太陽は昇っており、その時刻に姿を消して朝だと言うのに辺り一帯は夜の様に暗くなった事に、民衆は慌てふためいた。ただ、内裏の帝には事前に晴明が日蝕の旨を奏上していたものだから、民達程の動揺は無かったのだ。それでも不安になるのも無理は無く、大赦まで発布した。普段なら決して罪が減ぜられる事が無い死刑囚まで減刑対象になったのだから、どれ程の慌てようだったのかは推して知るべしだ。
 晴明が現関白の兼通を通じて、円融帝から次の日蝕や月蝕はいつになるのかと問われたのだろうという事は察しが付く。一年の始まりに奏上している筈だが、今一度計算し直せとの命が出たに違いない。しかし回答の為の観測に自分を駆り出す理由が、道満には分からない。身近な天体の蝕は帝を始めとする貴族達の行動にも関わってくる事であり、今回の天文密奏も天文博士となった晴明が担うものであって、道満は正直なところ関わりが無い。そも、民間の法師陰陽師である道満に官人陰陽師である晴明が声を掛ける方がおかしい。
「日蝕を見事的中させた晴明殿が、わざわざ胡散臭い拙僧をお使いになるとは。大きななゐでもきますかな」
「自信はあっても他者の目を通して精査した方が良いと、幼い私に教えたのはお前だったろうに」
「ンン、左様な言を覚えているとは思いませなんだ」
 陰陽寮の者達と審議すれば良いものを、自分に声を掛け、あまつさえ観測の手伝いをさせる晴明に嫌味の一つや二つ、言ったところで罰は当たるまい。そう思った道満であったが、晴明がまだ童子丸と名乗っていた頃に言った言葉を蒸し返され、不覚にも眉間に皺が寄ってしまった。
 道満が晴明と初めて顔を合わせたのは晴明が元服する前、幼名である童子丸を名乗っていた頃の事だ。まだ烏帽子すら被ってもいない少年に術比べで負けた道満は、その日以来この男が心底嫌いなのだが、童子丸は事あるごとに道満に寄ってきたし新しい術式なども披露してきた。その中で、世の中はそう甘くない、どれだけ自信を有していても他人と精査した方が良いと、これもある意味嫌味で言ったのだ。長い時を経て己の発言を後悔する羽目になった道満は、晴明の式神が熾した焚き火の明かりに持参した巻紙を広げて見る。ただでさえ暑いのに火の側に寄れば余計に暑く、目に汗が滲んでしまった。
「……ふむ。次の月蝕は、年末ですか」
「観測と計算上ではそうなる。道満の意見が聞きたい」
「そうですなあ、……明け方、寅の刻辺りに……乾、で皆虧けましょうな」
「ああ、やはり? 良かった、お前と同意見なら精査されたも同然だろうよ」
 汗を拭いつつ、晴明の癖のある文字で埋め尽くされている巻紙を読み、書かれている文面がつい先日自宅で計算していた月の運行と月蝕の予想とほぼ同じであった事に何故か安堵してしまい、道満はまた眉を顰める。ただ、それも晴明が背を向けたままであったから、悟られずに済んだ。
 播磨に居た頃も、道満はよくこうやって天体の観測をしていた。京とは全く違う田舎の地だが、それでも民衆は京と同じく月の運行と共に生活を営む。その中で、月蝕などの天体異変を予知する事は重要であったから、頭脳明晰で知識もある法師の道満は重用されていたのだ。
 晴明は、道満の術は勿論評価しているが、何より称賛したのはこの天文道に通じているところだった。悪鬼悪霊を調伏する術を使える、それも大事な事だが、力は底なしにあり聡明な頭脳を持っているとしても経験は無かった晴明が道満に意見を聞くのは、天文道の事が多かった。だが、道満にしてみれば天文道の知識と経験で晴明を上回っても嬉しくない。飽くまで超えたいのは陰陽師としての術の精度と力であって、それ以外は興味が無い。
「そう言えば、道満、星の一生が終わるところを見たいと思わないか?」
「は?」
 この計算と予測を見せる為だけに儂をここまで連れてきたかと道満が唇を噛んだその時、晴明が世間話をするかの様な気軽さでとんでもない事を言ったので、道満は間抜けな声を上げた。生あるものは全て死に至るのはこの世の摂理だが、夜空に瞬く星でさえその摂理からは逃れられない、その瞬きが失われてしまうなどと考えた事が無かったから、突拍子もない晴明の言葉に反応が遅れてしまったのだ。
「私は見たいんだが、残念ながら私が死んでしまった後に観測される様なのだよ。ん……、三十年余り後の事の様だね、私の息子が観測するかな」
「……晴明殿が見られぬなら、拙僧も無理でございましょうなあ」
 晴明は時折、本当に極稀に、道満に対してのみまるで未来視をしたかの様な発言をしてきた。他愛もない事柄が殆どであったから道満も取り立てて問い詰めたりはしてこなかったが、今回ばかりは聞き逃す事が出来ない。道満は腹立たしく思いつつも広げていた巻紙を元通りにすると、懐に入れても汗で汚してしまうし晴明の書を体に着けておくのも嫌だったので、荷物持ちとして控えさせていた童姿の式神に持たせて晴明の隣に並んだ。
「見たくないか?」
「……よもや何かなさるおつもりか」
「流石の私も星を消滅させたりは出来ないよ。だがどんな光景なのかは見せてやろう、私が見たいからね」
 いくら人外とも思える程の力を持っているとしても、星を消滅させるという大それた事までは出来ないとあっさり言い放った晴明に、悔しいが道満は安堵した。だがその安堵もほんの一呼吸の間だけで、見たいからね、と晴明が言い終わるや否や、全身を刺してくるのではないかと思う程の見えない力が辺りを支配し、焚き火の音も鳴いていた虫の音も消えた。大柄の部類に入る道満の体は軋み、頭の中を手で掻き回されているかの様なおぞましさが満ち、奥歯を噛み締めてそれらに耐える。都随一の陰陽師と謳われるのも無理はないと道満が忌々しく思う程のその力――魔力は、しかし他者を攻撃する為には使われず、晴明は相も変わらず涼やかな笑みで南の方角を見た。
「―――」
 低い位置ではあるが、確かにそこには輝くばかりの星がある。太陽や月ほど明るくないが、それでも他の星々、明星などよりはうんと明るい。だが、あの位置にあの様な星があっただろうかと、呆然としながらも道満は痛みの中で記憶を探った。あった様な気もするし、無かった様な気もする。見せてやろうと晴明が言ったからにはこれは幻術で、ならば季節も時刻も今この時とは全く違うものの筈であるから、そうなるととんと見当がつかない。恐らく、客星の類だろう。
「やはり美しいなあ。これだけ明るいなら、書物も読めそうだ」
「……中々どうして、たまには良い趣味の幻術を使いなさる」
「たまに? いつもだよ」
 己だけではなく他人にまでこれ程の幻を見せる術を使っているにも関わらず、晴明は無邪気な笑みを浮かべ嘆息を漏らし、低い位置で瞬く輝きを見ている。まるで童の頃の様に笑うその横顔が心底憎らしく、不覚にも、本当に不覚にも一瞬だけ見惚れてしまった程度には整っているその顔立ちを平手で打ってやりたい衝動に駆られた道満は、ぐっとそれを飲み下してから足に力を込めると視線を空へと戻した。
 生きて見る事は叶わないであろうあの輝きは、未来の民の目にはどの様に映るのだろう。怪しげで胡散臭い法師陰陽師と京では言われる道満も、元は故郷の播磨で重用されていた術者であったし、尊敬の念を集めた程の者であったから、民衆が恐れずこの輝きを美しいものとして捉えて見れば良いと思う。
「この空は未来のものだが、あの星の光は過去のものでもある。謂わば未来視であり過去視だな」
「……既にあの星は一生を終えていると?」
「私達が生まれる遥か昔に終えているよ。それだけ遠いところにある。光だけが私達の目に届くまで旅をしているからね。あの星に限った話ではなくて、ほぼ全てそうだが」
 道満は勿論の事、どんな優れた者であっても全てを知る事が出来ないであろう空の向こうの事を、晴明は淡々と語っては目を細める。その瞳に映るものは果たして一生を終えた星の断末魔にも似た輝きだけであるのか、道満には分からない。それが、最高に腹立たしい。
「晴明殿――あなたは、何を見ておいでか?」
「お前と同じものを、道満」
「……まあ、良いでしょう。ええ、ええ、本来ならば見る事さえ叶わなかったあの白銀の光に免じて、そういう事にしておいてさしあげましょうぞ」
「それはどうも」
 如何に強大な力を持っている晴明であってもこの幻術を長時間保持させておくのは厳しいらしく、本心が探れない声音で彼が短い礼を言うと、二人の周りを包む異様な空気が一瞬にして和らいで霧散した。空は元通りの景色となり、先程まで道満の黒曜石の瞳を覆っていた光は消え、焚き火の音も耳に届く様になった。全身を苛む痛みは、嘘の様に消えた。晴明が幻術を解除したと、すぐに分かった。
「――うん、お前を選んで正解だった。礼を言うよ道満」
「はて……? どういう事ですか」
 蒸し暑さは変わらず、道満が袖で顔を押さえ化粧が崩れぬ様に注意を払いながら汗を拭っていると、晴明が懐紙を差し出しながら礼を述べた。道満が袖で汗を拭っていたのは懐紙を忘れてしまったからなのだが、晴明にそれを言うのも癪で黙っていたというのに、こうも衣で拭っていればバレてしまうというものだ。不承不承受け取りつつも、何故礼を言われたのか分からなかった道満に、晴明は控えていた式神に沢から水を汲んでくる様に命じながら言った。
「危害を加えない術とは言え、あの規模の幻術に耐え得る者などそうそう居る訳ではないからね。私一人で見てもつまらないし、かと言って生半な術者や僧では発狂しかねないし。耐えられるのはお前くらいであろうと思ったから」
「あの様な責め苦にしか思えない状態になると、先に言っておいてほしかったですな」
「ははは、言ったら絶対頷いてくれなかったろう?」
 どうやら晴明が呼び出した本当の目的は、月蝕の推測ではなく先程の空を共に視るものであったらしい。確かに先にそう言えば道満はここまで来ていなかったであろうし、あの苦しみを負わねば視る事が出来ないと知れば、如何に稀有な天文異変であろうと道満は見たいとは言わなかった。どこまでも小賢しい男だ。耳に響いた、じゅうという炎が消された音と、焦げ臭い臭いが原因であるかの様に、道満はまた眉間に皺を寄せた。汗を拭った懐紙から漂う薫香でさえ癇に障ったというのもある。
「最近は大きな調伏も無かったから、力を持て余してしまってね。お前との術比べは被害が出てしまうし、周りに迷惑にもなる。たまにはこういう術のお披露目も良いだろう――否、良いでしょう? みちたる殿」
「……癪ですが肯わざるを得ませんな、はるあきら殿」
 もう遠い日となってしまった、晴明が元服した当時、元服の祝いは何が良いかと渋々尋ねた道満に、晴明は「二人きりで術比べをする時は互いをはるあきら、みちたると呼ぶ事」を所望した。物品ではない、しかし高価なものを要求されるよりもずっと厄介な祝いを要求されたものだが、子供の戯言であるしそのうち飽きるだろうと承諾してしまい、今に至る。そう、晴明は全く飽きなかったし、童子丸であった頃の口調、年上に対する敬語で話し掛けてくるのだ。
 何から何まで、気に食わない男。道満は晴明の評価を昔からこう定めている。童の頃より並外れた力を持ち、田舎と称される播磨出身とは言え超越した力を持つ道満を難なく破り、元服の時には名を所望し、幾度道満が勝負を仕掛けようとも悉く退ける。官人である事も手伝って強大な力を頼みにする貴族も多く、帝からの信頼も篤い。それでも晴明本人は、陰陽頭ではなく天文博士の座に留まった。欲が無い訳ではなく、己の力が如何に凄まじいかを分かっているからだった。
 その、男が。

 あの幻術に耐え得るのはこの世で道満ただ一人と、そう言ったのか?

 有り得ぬ。断じて有り得ぬ。この傲慢で尊大で、自身が如何に優秀で強大な力を持っているのかを重々知っている男が、足元にも及ばぬ自分を認める筈がない。あの幻術が引き起こした、体を苛む程の痛みや足を踏ん張らねばならない程の目眩も、最小限に力を抑えたからに違いないのだ。
「今宵は付き合ってもらってすまないね。後日、何か礼でも――道満?」
「ンン――ンンンン――、ええ、はい、何でもございませぬ。お気になさるな」
「お前がそう唸る時に何でもなかった試しが無いんだよな……」
 道満の中で渦巻く、深い闇色の塊は、遥か彼方で一生を終えた星の輝きとは似ても似つかない。だが、剥き出しのそれを晴明に突き付けた時、同じ様に嘆息を漏らすのかもしれない。解脱には程遠く、されどそれを是としてしまう自分に苛立ったのか、それとも要らぬ手加減をしてどこまでも見縊ってくる晴明に苛立ったのか。それは道満には判別がつかなかったが、辛うじて全て飲み下して闇色の塊へと沈めると、初対面当時童だった晴明の目を一瞬で奪ったぞっとする程の美しい微笑を浮かべて見せた。この時ばかりは晴明も言葉を失い、ただ朧げな月明かりに浮かぶ白い顔を黙って見つめるしか出来なかった。